ウィリアム・ウェブ

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ウィリアム・ウェブ
William Webb
クイーンズランド首席裁判官に任命された当初(1940年)
生年月日 (1887-01-21) 1887年1月21日
出生地 Australian Federation Flag.svg オーストラリア植民地クイーンズランド植民地ブリスベン
没年月日 (1972-08-11) 1972年8月11日(満85歳没)
死没地 オーストラリアの旗 オーストラリアクイーンズランド州ブリスベン
配偶者 ビアトリス・アニュー
国籍 オーストラリアの旗 オーストラリア
出身校 クイーンズランド大学

任期 1946年5月16日 - 1958年5月16日
任命者 ベン・チフリー
後任者 ダグラス・メンジーズ
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ウィリアム・フラッド・ウェブ英語: William Flood Webb1887年1月21日 - 1972年8月11日)は、オーストラリア裁判官オーストラリア高等裁判所判事極東国際軍事裁判裁判長を務めた。

略歴[編集]

キャンベラベルコネン英語版地区にある「ウィリアム・ウェブ通り」 (William Webb Drive) は、彼の名にちなんで名付けられた。

極東国際軍事裁判におけるウェブ[編集]

極東国際軍事裁判の裁判長を務めるウェブ

当時白豪主義を採っていたオーストラリアは、有色人種への迫害政策を行っていた。反日主義者として知られていたウェブは、終戦後の1945年9月にオーストラリア政府の依頼を受け、1942年に日本軍がニューブリテン島ラバウルへの攻撃に際して、オーストラリアではテレビ放送で映像を流したとのことであるが、沈められた日本の船から脱出した日本人(捕虜)ら数百人を航空機から執拗な機銃掃射によって虐殺した上で、150名以上のオーストラリア人及び先住民を殺害したとされる報告書を現地調査を行った上で発表した。

天皇の訴追を主張していたオーストラリア政府は彼を代表判事に選ぶことにより、天皇を法廷で裁くという意思を表明したものと考えられる(法律上の観点から見ると、本来事件の告発に関与した者はその事件の裁判官になることはできない)。

そのようなウェブの意向は法廷における訴訟指揮でも表れた。裁判の開会の辞においては「被告達は嘗て、如何に重要な地位にあったにしても、それが為に受ける待遇は、最も貧しい日本兵、或いは一朝鮮人番兵よりも良い待遇を受ける理由は見当たらない」と日本の戦争指導者に対する敵意を露にした。

裁判も検察側に有利になるように進められたケースが多々あり、検察側に不利な発言や意見が弁護側から出されると、裁判長の訴訟指揮権を行使して遮ったり却下したりするといった場面がしばしば見られた。最も有名なのがアメリカ人弁護人のベン・ブルース・ブレイクニー及びジョージ・A・ファーネスの「事後法で人を処罰することは出来ない」といった旨の弁論に対しても、「全ての動議を却下する。その理由は将来闡明にする」として裁判を続行させたケースである。また清瀬一郎の「この裁判(極東国際軍事裁判)はいかなる根拠において実施できるのか」という質問に対しても「後から答える」とだけ述べて休廷し、その後回答することはなかった。また、中国で冀東保安隊が日本人居留民に対して略奪、暴行、凌辱、殺戮など残虐の限りを尽した通州事件についても却下している。

法の不遡及は法の一般原則とされており(成立過程が独特な国際法上においても、必ず要請されるべきか否かは議論のあるところだが)、これを検討することなく却下したことは訴訟指揮上大きな問題とされる。ただ、これは先に開始したニュルンベルク裁判の訴訟経緯を踏まえた決断とも考えられる。

また、前述の通り、天皇を法廷に立たせるべきとの見解を持っていたことから、天皇を戦犯にせず、占領政策に利用する意向を決定していたダグラス・マッカーサーの命令を受け、裁判を天皇に責任が無いという展開に進めることを意図していたジョセフ・キーナン首席検事とは激しく対立していた[1]

オランダベルト・レーリンク判事の証言によると、ウェブは酒気を帯びた状態で法廷に来ていたこともあったという。

1922年に死刑を廃止したクイーンズランド州(オーストラリアの他の州の死刑廃止は1968年から1985年)の判事であったウェブは、23年間にわたる判事生活で死刑を言い渡すのは極東国際軍事裁判が初めてだったため、「極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する」の部分の口調はある意味の興奮があったという[2]。ちなみに、ウェブ自身は被告人全員の死刑に反対票を投じている[要出典]

脚注[編集]

  1. ^ 天皇の件以外でも、1946年9月5日に満州華北における日本のアヘン政策の検察側証人として出廷した森岡皐陸軍中将を巡る件でも、火花を散らす場面があった。
  2. ^ 保阪正康 『東京裁判の教訓』 朝日新聞出版朝日新書〉(原著2008年7月30日)、初版、p. 233。ISBN 97840227322002008年11月17日閲覧。

参考文献[編集]