ウェストバージニア (戦艦)

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USS West Virginia BB-48.jpg
艦歴
発注 1916年12月5日
起工 1920年4月12日
進水 1921年11月17日
就役 1923年12月1日
退役 1947年1月9日
その後 スクラップとして売却
除籍 1959年3月1日
性能諸元
排水量 基準:32,500トン
満載:33,590トン
全長 190.20m
全幅 32.92m
吃水 9.07m
機関: 蒸気タービン 4軸:
28,900 shp (22 MW)
最大速 21ノット (39 km/h)
乗員 士官・兵員:1,407名
兵装 45口径40.6cm砲:8門
51口径12.7cm砲:8門
38口径12.7cm砲:8門
56口径40mm対空砲:36門
70口径20mm対空砲:43門

ウェストバージニア (USS West Virginia, BB-48) は、アメリカ海軍戦艦コロラド級戦艦の4番艦。艦名はアメリカ合衆国35番目の州にちなむ。その名を持つ艦としては2隻目にあたる。

艦歴[編集]

ウェストバージニアは1920年4月12日にバージニア州ニューポート・ニューズニューポート・ニューズ造船所で起工し、1921年11月17日にアリス・ライト・マン(アイザック・T・マンの娘)によって命名、進水し、1923年12月1日に初代艦長トーマス・J・セン大佐の指揮下就役した。

超弩級戦艦」であったウェストバージニアは当時最新の造船技術が具現化された戦艦であった。その船体装甲はユトランド沖海戦前に設計された戦艦の装甲に比べて進歩が見られた。

就役後、ウェストバージニアは数ヶ月をかけて公試および整調を行い改修が実施された。ニューヨーク海軍工廠での作業後、ハンプトン・ローズに向かう途中に操舵装置の故障が発生した。ウェストバージニアはハンプトン・ローズでオーバーホールを行い、1924年6月16日に外洋に向けて出航した。同日10:10、リンヘヴン海峡を通行中、操舵手は舵角指示器が反応しないと報告した。操舵室への非常ベルに対して反応が無く、ウェストバージニアのセン艦長は直ちに全機関の停止を命じた。しかしながら機関室からの応答はなく、操舵室および機関室への電信が通じなかったことが判明した。

その後、セン艦長はブリッジから伝声管を通じて機関室へ命令を行った。セン艦長は左舷機関室に対して全速を命じ、右舷に対しては停止を命じた。機関と操舵を維持する努力は海峡内で継続されたが、全ての努力は無駄となった。ウェストバージニアは機関故障により方向を失い、軟泥の海底に座礁した。副長のスターク中佐は「...船体への損傷はほとんど無かった」と報告した。

調査委員会の事故調査により、不正確で誤解を招きやすい海図がウェストバージニアに与えられていたことが判明した。海図には実際よりも海峡の幅が大きく示されていた。この事実により、セン艦長および操舵手の事故に関する責任は問われなかった。

太平洋戦争[編集]

日本軍の奇襲により炎上するウェストバージニア。

ウェストバージニアは1941年12月8日日本海軍による真珠湾攻撃を受けた。甲標的と航空機によって左舷に6本の魚雷が命中した。6本の魚雷のうち1本は不発であったが、3本は舷側装甲帯の下に命中し左舷側の広範囲に浸水を来した。1本は舵付近に命中した。1本は舷側装甲板に命中し、その修復のためには7枚の装甲板の交換を必要とした。魚雷による浸水は深刻であり、右舷側には傾斜復旧のために注水可能な全区画に対して注水が行われた。

40㎝徹甲弾を改造した2発の爆弾も命中した。1発目は探照灯甲板を貫通して第二甲板に到達したが不発であった。2発目は第3主砲の天井(装甲厚100mm)を貫通し第3主砲の片側の砲を破壊して使用不能にしたが、同じく爆発しなかった。しかし砲塔上のカタパルトの水上機から航空燃料が漏出し、これによる火災が発生した。ウェストバージニアはこの火災と戦艦アリゾナから流出した重油による火災によって30時間も燃え続けた。比較て被害の少なかった戦艦テネシーが消火活動に協力した。浸水によってウェストバージニアは着底し、乗員は艦を放棄して退避した。

ウェストバージニアは、魚雷の命中孔を塞ぐ処置がなされたのちに、1942年5月17日に浮揚された。6月9日には乾ドックに収容され本格的な修復作業が始まった。ウェストバージニアは、近代化の改修工事を受けて1944年に太平洋艦隊に復帰した。

同年10月25日の深夜、レイテ沖海戦でのスリガオ海峡でウェストバージニアはオルデンドルフ中将の指揮の下の艦隊に参加し、扶桑山城をはじめとする日本海軍の西村祥治中将の艦隊を撃破している。尚、ウェストバージニアと同じく真珠湾攻撃で沈没し修復、復帰したカリフォルニアも同海戦に参加した。

戦後[編集]

太平洋戦争は1945年8月15日に終結し、ウェストバージニアは占領任務を担当するため上陸部隊に対して訓練を行った。8月24日に第35.90.任務群の一艦として東京湾に向けて出航、8月31日に東京湾に到着し、9月2日の降伏文書調印式に臨席した。当日はウェストバージニアの軍楽隊から5名がミズーリ (USS Missouri, BB-63) に移乗し、式典で演奏を担当した。

ウェストバージニアは東京湾に留まり、9月まで占領任務に従事した。9月14日に西海岸に帰還する270名を乗艦させた。第30.4.任務群の一艦として9月20日の深夜、沖縄に向けて出航した。9月23日に中城湾へ進路を変え、その後間もなく真珠湾に向かい真珠湾には10月4日に到着した。

真珠湾で乗組員は艦に塗装を行い、ウェストバージニアにはサンディエゴに向かう乗客が乗り込んだ。ウェストバージニアは10月9日に出航し、10月22日の13:28にサンディエゴの海軍埠頭に接岸した。その2日後、第4戦艦部隊の指揮官I・C・ソーウェル少将が座乗した。

海軍記念日にウェストバージニアには25,554人の訪問客が訪れた。3日後の10月30日、マジック・カーペット作戦に参加するためハワイ海域に向けて出航した。真珠湾とサンディエゴ間を2度往復し、2度目にはウィリアム・W・スミス少将が座乗しサンフランシスコに向かった。

西海岸とハワイ間の往復を行った後、ウェストバージニアは12月17日にカリフォルニア州サンペドロに到着した。1946年1月4日にワシントン州ブレマートンに向けて出航し、12日に到着、16日に不活性化のためシアトルに向かい、姉妹艦のコロラド (USS Colorado, BB-45) の横に停泊した。

1946年2月に不活性化の最終段階に入り、1947年1月9日に退役、太平洋予備役艦隊で保管された。ウェストバージニアはその後現役任務に復帰することはなく、1959年3月1日に除籍された。1959年8月24日にニューヨークのユニオン・ミネラルズ・アンド・アロイ社にスクラップとして売却された。1963年5月11日、艦のメインマストがウェストバージニア大学に贈呈され、現在も記念物として展示されている。艦内時鐘はウェストバージニア州立博物館へ贈呈された。

ウェストバージニアは第二次世界大戦の戦功により5個の従軍星章を受章した。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]