リスカム・ベイ (護衛空母)

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USS Liscome Bay CVE56.jpg
艦歴
発注
起工 1942年12月9日
進水 1943年4月19日
就役 1943年8月7日
退役
その後 1943年11月24日に戦没
除籍 1943年11月24日
性能諸元
排水量 7,800 トン
全長 512.3 ft (156 m)
全幅 108.1 ft (33 m)
吃水 22.6 ft
機関 3段膨張式蒸気機関2基2軸、9,000馬力
最大速 19ノット
航続距離 10,240カイリ(15ノット/時)
乗員 士官、兵員860名
兵装 38口径5インチ砲 1門
ボフォース 40mm機関砲連装 8基
エリコン 20 mm機関砲単装 20門
搭載機 28機

リスカム・ベイ (USS Liscome Bay, CVE-56) は、アメリカ海軍護衛空母カサブランカ級航空母艦の2番艦。艦名はアラスカ南東海岸沖にあるダール島英語版のリスカム湾に因んで命名された。

艦歴[編集]

1942年12月9日に合衆国海事委員会の契約下ワシントン州バンクーバーカイザー造船所で起工し、当初はアミール (Ameer) の艦名でイギリス海軍に貸与される予定であったが、建造途中にアメリカ海軍によって取得されることとなった。

1943年4月19日にベン・モレル夫人によって進水し、1943年6月28日にリスカム・ベイと命名、1943年7月15日に CVE-56 (護衛空母)へと艦種変更された。1943年8月7日にI・D・ウィルトジー艦長の指揮下就役した。

ガルヴァニック作戦[編集]

西海岸沿いの訓練活動の後、リスカム・ベイは1943年10月21日にカリフォルニア州サンディエゴを出航し、一週間後に真珠湾に到着した。追加の演習、運用訓練を完了すると最初の戦闘任務に就く。第24空母部隊の一部として11月10日に真珠湾を出航し、リッチモンド・K・ターナー少将指揮下の第52任務部隊と合流、ギルバート諸島に向かう。

アメリカ軍の太平洋中部における最初の大規模反撃は、11月20日の5時に開始した。76時間後、タラワマキンが陥落した。リスカム・ベイの艦載機部隊は2,278回の出撃を数え、敵飛行場に対する空爆により上陸部隊を支援した。敵の反撃が無くなるとアメリカ軍部隊は後退を始めた。

喪失[編集]

その頃、日本海軍伊175ウェーク島近海で哨戒を行っていたが、獲物が全く無かったため哨戒を打ち切ってトラック諸島へ帰投する途中だった[1][2]。しかし、11月19日にマキンタラワに米軍が来襲したため、マキン島へ向かうよう命令が出された[1]。11月23日、伊175は奇しくもマキンタラワが陥落したその日にマキン沖に到着した。

ヘンリー・M・ムリニクス少将率いる第52.3任務群は三隻の護衛空母、リスカム・ベイ、コーラル・シー (USS Coral Sea, CVE-57) 、コレヒドール (USS Corregidor, CVE-58) を中心に形成され、ロバート・M・グリフィン少将座乗の戦艦ニューメキシコ (USS New Mexico, BB-40) はブタリタリの南西20マイルの水域を15ノットで航行していた。11月24日4時30分、リスカム・ベイの起床ラッパが鳴った。5時5分に通常の総員配置が行われ、飛行要員は夜明けの発艦に向けて航空機の準備を行った。この時、ニューメキシコのレーダーが伊175と思しき目標を探知した[3]逆探を装備していた伊175はレーダー波を探知して、ただちに潜航して艦隊に接近していった[3]

同水域にこれ以上の潜水艦の警告はなかった。伊175は、田畑直艦長が艦内放送で輸送船団と空母群を襲撃する旨放送し[3]、魚雷を4本発射した[3]。5時10分、偵察要員が「魚雷が来た!」と叫んだ。魚雷は機関室後部の船尾部分に命中し、航空機用爆弾庫を破壊、大爆発が起こった。駆逐艦ホーエル (USS Hoel, DD-533) の通信士官だったジョン・C・W・ディクス中尉は「それは全く船の様には見えなかった」と記した。「我々は弾薬集積庫かと思った...リスカム・ベイはちょうどオレンジの火の玉となった」。爆発によって、リスカム・ベイの後部はあらゆる破片と化して消え去り、いくつかは1,300メートル離れていたニューメキシコに降りかかってきた[4]。他の魚雷はコーラル・シーとコレヒドールの至近を通過していった[5]。伊175は爆雷攻撃を受けて少なからぬ損傷を蒙ったもののこれを切り抜け、12月1日にトラックに帰投した[5]

5時33分、前半部のみが残っていた[4]リスカム・ベイは右舷に傾き、53名の士官と591名の兵員と共に沈没した。その中にはムリニクス少将、ウィルトジー艦長、三等コックのドリス・ミラー真珠湾攻撃時の功績で海軍十字章を受章した黒人兵)が含まれた。916名の乗組員の内、272名が駆逐艦モリス (USS Morris, DD-417) 、ヒューズ (USS Hughes, DD-410) 、ハル (USS Hull, DD-350) によって救助された。リスカム・ベイの戦死者はマキン島攻撃による死傷者を上回った。ムリニクス少将の名前は、間もなくタラワに完成した航空基地に冠された[6]。後の法学者、ロバート・キートン英語版はこの戦闘で生き残った。

リスカム・ベイが爆弾庫への被弾で呆気なく沈没した事により、カサブランカ級護衛空母の爆弾庫の防御対策が強化された。その内容は、爆弾庫の周囲に燃料タンクを設置して、重油を満たしてショックを和らげようとするものであった[5]第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス中将は、リスカム・ベイの喪失の原因は、陸軍がマキンとタラワを早急に占領しなかったからだとし、素早く占領していればリスカム・ベイをもっと早く戦場から引き揚げさせる事ができて撃沈させられる事はなかっただろうと非難した[7]

リスカム・ベイは第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章した。

脚注[編集]

  1. ^ a b 永井、木俣、227ページ
  2. ^ 『日本潜水艦戦史』146頁
  3. ^ a b c d 永井、木俣、230ページ
  4. ^ a b 永井、木俣、231ページ
  5. ^ a b c 永井、木俣、232ページ
  6. ^ 永井、木俣、233ページ
  7. ^ ブュエル, 316ページ

参考文献[編集]

  • 坂本金美 『日本潜水艦戦史』 図書出版社、1979年
  • 永井喜之、木俣滋郎『撃沈戦記』朝日ソノラマ、1988年、ISBN 4-257-17208-8
  • トーマス・B・ブュエル/小城正(訳)『提督スプルーアンス』学習研究社、2000年、ISBN 4-05-401144-6
  • 瀬戸利春『歴史群像No.82 激突!タラワ攻防戦』学習研究社、2007

関連項目[編集]

外部リンク[編集]