知覧特攻平和会館

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座標: 北緯31度21分48.3秒 東経130度26分3.8秒

Japanese Map symbol (Museum) w.svg 知覧特攻平和会館
Chiran-TokkouHeiwaKaikan.jpg
施設情報
前身 知覧特攻遺品
専門分野 旧陸軍特別攻撃隊隊員の遺品や関係資料を展示し、当時の記録を後世に伝える
事業主体 南九州市
管理運営 南九州市総務部
開館 1985年
所在地 897-0302
鹿児島県南九州市知覧町郡17881番地
プロジェクト:GLAM
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知覧特攻平和会館(ちらんとっこうへいわかいかん)は鹿児島県南九州市知覧町郡(旧川辺郡知覧町)にある、第二次世界大戦末期に編成された大日本帝国陸軍航空隊特攻に関する資料を展示する施設。

展示内容[編集]

写真、遺書などの遺品約4,500点、特攻隊員の遺影1,036柱などが展示されている。その展示されている遺影、遺品のほとんどは、知覧特攻平和会館初代館長板津忠正(元特攻隊員)が集めたものである。なお館内の展示品は全て撮影禁止となっている。

戦闘機[編集]

特攻基地の歴史[編集]

大東亜戦争(GHQ呼称太平洋戦争)直前の1941年(昭和16年)12月、知覧町に陸軍の飛行場が完成。飛行場は直ちに太刀洗陸軍飛行学校の分教所となり、戦争に突入した翌1942年(昭和17年)1月、最初の入校者78人が知覧に到着した[1]

当初こそ九州島内や朝鮮(現・韓国)の各地に設けられた分校と同じく少飛特幹の教育・訓練を行うことが目的とされていたが、1944年(昭和19年)夏以降、陸軍航空隊の戦術が艦船への体当たりを柱とする特攻を主軸とするものに転換。この過程で近い将来の本土決戦決号作戦)に備えた航空関連軍学校の軍隊組織化が進められた。

陸軍飛行学校が教導飛行師団と改められるのに合わせ、 1945年(昭和20年)2月、太刀洗飛行学校は第51航空師団と改称。知覧分校は上部組織の第6航空軍に隷属する「第7飛行団」となる。こうして知覧特攻基地(ちらんとっこうきち)が誕生。振武隊(しんぶたい)と名付けられた特攻隊が出撃することになった。

1945年3月20日付で、陸軍第6航空軍は連合艦隊の指揮下に入り、振武隊は神風特攻隊と共同歩調を取ることになる。そして沖縄戦が始まった4月1日、第二十振武隊を皮切りに知覧からの特攻出撃が始まった。以後は海軍鹿屋航空基地とともに特攻出撃の最前線となり、戦艦大和の最期となった坊ノ岬沖海戦で一度の戦いでは最大級となる陸海軍合わせて300機もの出撃の一翼を担うことになる。

沖縄戦線への特攻は6月22日の菊水十号作戦まで続き、6月25日、沖縄での組織的戦闘が終了(沖縄敗戦)するという大本営発表で知覧もその役目を終えるかに見えた。しかし、その後は間近に迫った米軍の日本本土上陸に備え、帝国陸海軍の本土防衛の最前線として出撃は続いていった。

陸軍関連の総出撃者1,036人のうち、全体の4割ほどにあたる402人が知覧から出撃したと会館では記録している[2]。が、資料によっては変動も見られる。

なお知覧から出撃したのはあくまでも陸軍の部隊のみであることに注目する必要がある。実際に、出撃した航空機や戦死兵の数は海軍の鹿屋の方が圧倒的に多く、知覧の2倍前後もの数字を叩き出す。ちなみに、陸軍の兵士であっても鹿屋から出撃するケースすらあったという。

また振武隊自体が神風特攻隊と混同されることも多いが、戦史の上では厳密に区別される。

特攻平和観音[編集]

特攻隊員の精神の顕彰と世界平和の祈念を目的に、1955年(昭和30年)9月28日に建立、観音像が安置されている。毎年5月3日に知覧特攻基地戦没者慰霊祭が行われている。

アクセス[編集]

  • JR九州新幹線鹿児島中央駅東口バスターミナル東16番乗り場、または指宿枕崎線平川駅から鹿児島交通バス知覧線、特攻観音入口行きで終点の知覧特攻観音入口バス停下車、徒歩3分。毎日8往復運転、他に知覧止まりのバスが4便ある。
  • JR指宿枕崎線指宿駅、または喜入駅から鹿児島交通バスの知覧武家屋敷入口行きで特攻観音入口バス停下車。指宿から毎日5往復、喜入駅からは毎日10往復運転。
  • JR指宿枕崎線枕崎駅から鹿児島交通バス知覧行きで特攻観音入口バス停下車。平日1日4往復、土曜・日曜・祝日は2往復運転。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 知覧特攻基地
  2. ^ 航空特攻作戦の概要 - 特攻平和会館公式ホームページ。

外部リンク[編集]