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振武寮

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振武寮があった地に現在建つ福岡市九電記念体育館

振武寮(しんぶりょう)とは、現在の福岡県福岡市中央区にあった旧日本陸軍第6航空軍司令部内におかれた施設。軍司令部のあった福岡高等女学校(現・福岡県立福岡中央高等学校)から道路を挟んだ、福岡女学校(現・福岡女学院中学校・高等学校)の寄宿舎を接収して設置された。所在地には現在福岡市九電記念体育館が建つ。実質的な管理者は第6航空軍司令菅原道大中将部下の航空参謀倉澤清忠少佐。戦後、長らく知られてこなかったが、映画『月光の夏[注 1][1]が上映された1993年以降にその存在が明らかにされた[注 2]

概要[編集]

現在の福岡女学校(福岡女学院中学校・高等学校)

振武隊(西日本にあった陸軍航空部隊第6航空軍指揮下の特別攻撃隊の名称)の特攻隊員として出撃したが、何らかの要因により攻撃に至らずに基地に帰還した特攻隊員や、同じように何らかの要因で出撃できなかった特攻隊員が収容された施設である。要因とは様々あり、悪天候・エンジントラブル・機器トラブル・敵機の攻撃のような外的要因から、心理的な死に対する恐怖心や、確実な戦果を期待し「犬死」を惜しむあまり引き返してしまうなど内的要因まであった[2]。 中でも、沖縄戦天号作戦中に、特攻出撃した搭乗員が出撃しても突入せず帰還した場合には、その搭乗員の一部が「死を恐れる卑怯者」や「故意に乗機を破損して帰還した」と非難され、差別的待遇を受けたとされている[3]

しかし陸軍航空隊としては、陸軍の航空特攻隊初出撃となった1944年11月7日に出撃の「富嶽隊」の四式重爆撃機「飛龍」の特攻改造機(と号機)5機の内4機が接敵できず帰還、翌日も残り4機が出撃し全機帰還するなど、特攻最初期から接敵できなかったり、天候の問題によりかなりの比率で特攻機が帰還することは認識し[4] 、陸軍航空隊が沖縄戦前に特攻隊員の教育用に作成した教本「と號空中勤務必携」にも、出撃した特攻隊員が帰還する際の具体的手順や心得が記載されているなど、特攻機の帰還は想定していた[5]

同様な施設は海軍航空隊には存在を確認されていない[6]

倉澤が保管していた第6航空軍が作成した『振武隊編成表』によると[7]、特攻隊員1276人中605人が生還しており、そのうち一部の隊員の備考欄に「在福岡」の記載が見受けられ、振武寮に送致されたことを意味すると考えられているが、振武寮が存在した期間は1945年の5月から6月頃までの1ヶ月半ほどで、収容された特攻隊員は約50人[8]~80名と帰還搭乗員の中では1割前後の比率となっている[9]

軍の公式記録には一切の記録なく[10]、施設の責任者である第6航空軍司令菅原が書き残している日記にも記述はなく[注 3][11]、施設の運営管理者とされる倉澤も「振武寮という名前の施設は存在しない『裁縫室』と呼ばれる部屋に特攻隊員を匿っていた。」[12]や「待機していた特攻隊員を軍用旅館として利用していた博多駅前の旅館大誠館[注 4][13][14]に収容していたが満杯となったため、第6航空軍が接収していた福岡女学院寄宿舎を利用しただけで、強制的に収容していたわけではない。」[15]、第6航空軍の参謀から戦後に鹿児島県谷山市の最後の市長となった川元浩(戦時の階級は少佐)も、心身で障害が生じた特攻隊員を『休養』させる場所が福岡にあったと証言しているだけで[16]、第6航空軍幕僚らは『振武寮』の存在を認識していなかったか、否定をしているため、収容された特攻隊員らの証言によりその概要が一部明らかになっている[17][18]

但し『振武寮』という名称については、山口県防府市防府飛行場の搭乗員宿舎(三田尻駅そばに所在)も『振武寮』と呼称されていたことが、第179振武隊浜田斎少尉が両親に出した遺書で判明し[19]、『振武寮』というのは単純に『振武隊』の隊員が宿泊した寮の総称であったという可能性も指摘されており[20]、倉澤も「沖縄特攻隊は全て振武隊だから彼ら(特攻隊員)は勝手に振武寮と呼んだのだと思う。」と証言している[21]

設立[編集]

1941年以前の博多駅、この駅前に特攻隊員が宿泊した軍用旅館『大誠館』があった。

設立時期[編集]

1945年3月に天号作戦に備えて第6航空軍は司令部を東京から福岡に前進させ、3月4日に福岡高等女学校と隣接する福岡女学校を司令部施設として接収した。福岡女学校は授業に使用する3つの教室を除き接収されたが、その中の女学生用の寄宿舎が後に振武寮と呼ばれることとなった[22]。なお、福岡女学校の寄宿舎にいた女学生は近くの民家に移っている[23]

振武寮が開設された時期は、菅原の「徒歩にて高女の方に初登庁。特攻隊員の帰還者の集合しあり、室広く従来に比して各段の差ありて可」という日記の記述を元にして5月6日とする説があるが[24]、単純に、福岡女学校寄宿舎の部屋の広さが従来の兵舎より広いとの比較を記述しているだけであり、詳細は不明である。

特攻機の損傷や故障により帰還や不時着した特攻隊員や、出撃前に特攻機が故障などして出撃できなかった特攻隊員が、代替機を福岡平尾の福岡高等女学校にあった第6航空軍司令部に受け取りに行くと、待ち受けていた倉澤より「貴様らなんで帰ってきた!卑怯者のお前たちに与える飛行機なんてない」「博多駅前の大誠館で待機しておれ」と罵倒され、何日も陸軍の軍用旅館に足止めさせられていたが[25]、1945年5月12日、その内の1名となる第65振武隊の山下尚武少尉の妻女が、山下の特攻出撃を止めようと大誠館に押し掛け、押し問答の末に山下の拳銃を奪い自殺を試みたのに対し、山下が軍刀でそれを制止しようとし、拳銃の暴発で妻女が負傷するなど、後に『ピストル事件』と呼ばれる大騒動となった。倉澤はこの事件に激怒し、山下ら特攻隊員を民間の旅館から軍の施設となっている福岡女学校の寄宿舎に移すようにしている[26]

この時に山下と一緒に寄宿舎行きとなった同じ第65振武隊の片山啓二少尉は、寄宿舎には特攻出撃して戦死したと思っていた顔が何人もあり、ここが不時着などで生き残った特攻隊員を閉じ込めておく施設であると認識したとのことで[27][注 5][28]、この証言に基づけば振武寮は5月12日以前に設立されていたことになるが、運営責任者の倉澤の証言によれば、この『ピストル事件』があった時点では、大誠館が満杯になった関係で溢れた搭乗員20数名を寄宿舎に宿泊させていたに過ぎず、『ピストル事件』を見て、精神が不安定な特攻隊員を野放しにすると危険と考え、倉澤の目の届きやすい寄宿舎に移したとしており、振武寮が帰還特攻隊員の専用宿泊所として使用開始されたのは『ピストル事件』の後という認識で[29]、倉澤と収容隊員の間で認識の相違がある。

しかし、沖縄戦初期の1945年4月6日に出撃した第29振武隊山田忠男伍長の回想によると、4月3日に福岡の第6航空軍司令部に出頭した際に5日まで福岡に滞在しているが、宿舎は「福岡県立高等女学校の寄宿舎の仮兵舎」(寄宿舎は福岡女学校の施設であるが、隣接していた福岡高女の施設と混同していた可能性が高い)と回想しており、振武寮が開設されたとされる5月中より1か月も前に特攻隊員の兵舎として利用されていたとする証言もある[30]

設立理由・経緯[編集]

振武寮の設立された理由や経緯も、公的な資料が存在せずはっきりしない。責任者である第6航空軍司令の菅原も、振武寮について直接証言したことはない。菅原は帰還した特攻隊員相手に「貴官らは、どうして、生きて帰ってきたか」「死ぬことができないのは、特攻隊の名誉をけがすことだ」という趣旨の激しい訓話を行ったこともあったが[31]、帰還した特攻隊員への処置に関しては「某軍曹がまた帰ってきた。エンジンの不調は直ったのにまた帰ってきたという話が耳に入ったが、不問に附した。之は不適格だと言うことは判る。しかし特攻隊員免除と言えば名誉を失墜させ当人を殺すことになる」や「士気振策上、軍旗粛清上甚だ生暖かい統率の仕方という批判もあるだろうが、特攻だからといって機材の不調なのに遮二無二に征けと言うわけにはいかない(中略)たとえ臆病が理由としても水かけ論に終わる。(中略)この種のこと(特攻機の帰還のこと)で軍司令官として特に処理した覚えはない」などと軍司令官として何らかの命令をしたことはなかったと戦後に証言している[32]

倉澤の証言による振武寮の設立理由・経緯は、「引き返した理由は様々だが、自分が現場を見ていないので、彼らの言い分は信用しなかった。(中略)中には損傷の全くない機体もあり、故障だ、天候が悪い、敵機の攻撃で不時着したというが、彼らは死にたくないから引き返したとは絶対に言わないものだ。(中略)そういうことが何回も続くと、編成参謀としては、疑いざるを得なくなる。第6航空軍としては、対策を立てなければならない。それが1人や2人じゃない。その世話をするのが、操縦士出身の参謀の私しかいない。収容施設とは明らかに言えないから、寄宿舎と内部では呼んだ。(中略)収容された特攻隊員は、倉澤が強制収容したと決めてかかっているが、事実はそうではなくて第6航空軍上部の方針なんだ。」と証言しており、『何度も理由不詳で帰還する特攻隊員』を『第6航空軍の命令で』収容するために設立したとしている[33]。また、「私の立場はね、特攻隊がみんな行って、みんな突っ込んでくれるという前提で仕事をしてたんですよ。だから私の方では、そんなにたくさん帰ってくるとはね、夢、考えなかったです。」[34]とも倉澤は証言しており、第6航空軍が想定していなかった帰還特攻隊員の扱いに困り、振武寮に収容したとも証言している[35]

しかし倉澤は、上記の証言と矛盾する「強制収容はしていない」[36]や、「特攻隊員は神様(軍神)になっていましたからね。彼らの名誉を守るためにも匿っておくしかなかったのですよ。」と特攻出撃し戦死公報した特攻隊員の偶像と名誉を守るために仕方なく振武寮に匿ったと証言もしていたり[37]、振武寮のことを『寄宿舎』ではなく『裁縫室』と呼んでいたとか[38]、異なった証言もしている。

倉澤は帰還特攻隊員の処置に関して、第6航空軍の方針に従ったとしているが、1945年5月28日に喜界島より陸軍の爆撃機で帰還した特攻隊員28名の処遇を決める第6航空軍参謀会議の内容について、倉澤が自ら「すぐ出撃させるか、精神教育を行って再び出撃させるか、参謀の中で意見が割れて結論が出なかった。」と沖縄戦が終盤に差し掛かった時期にも、第6航空軍の中で帰還特攻隊員に対する対応方針が決まっていなかったことを証言し[39]、「彼ら(帰還特攻隊員)を収容した頃は、すでに沖縄戦末期で、事実上の特攻作戦は終わっていた。」と証言しているが[40]、振武寮は遅くとも5月初めには設立されており、その時期は菊水作戦第5号、第6号の時期で、特攻により正規空母バンカーヒルエンタープライズ が大破し、大量の死傷者を被り撤退するなど[41]、沖縄戦での航空特攻戦最盛期の頃であり、完全な記憶違いをしている。また、倉澤は特攻機の帰還を「夢、考えなかった」と証言しているが、倉澤の上官で実際に特攻を指揮した、第6航空軍第12飛行団団長川原八郎大佐は出撃する特攻隊員らに「無理に死ななくともよい。帰れるなら帰ってこい」と訓示しており、特攻機の帰還を第6航空軍が想定していなかったというのは倉澤の独断に過ぎず[42]、倉澤の証言には矛盾が多く[43]、信頼性に乏しい。

振武寮の取材のために倉澤と4回面談した林えいだいも、第30戦闘飛行集団青木武三少将についての話題で、前回の飛行第62戦隊の取材時では、倉澤が青木について詳しく話していたのに、次の取材で倉澤に青木について質問すると「青木武三なんて知らないなあ。そんな人陸軍にいないよ」と、陸軍航空碑奉賛会の事務局長を務め、陸軍航空同人会の活動にも積極的に関与していた[44]倉澤にあるまじき回答を聞いて、自分に不都合なことを否定するために噓をついたと推測している[45]

もっとも、林の取材を受けた時点で倉澤は86歳と高齢で、胃を3回も手術するなど体調も芳しくなく、林も体調を慮って取材時間を制限したほどであった[46]。実際に倉澤は林の最後の取材を受けた数か月後に永眠している。

運用[編集]

収容者[編集]

喜界島の旧日本海軍航空基地(現在喜界空港

一般的に振武寮は、エンジントラブル等で引き返した特攻隊員を軟禁していた施設と説明されることが多いが[47]、これは正しい説明ではない。

振武寮に送られた最大80名の特攻隊員の内で、一番多かったのは喜界島からの帰還者で、1945年6月11日~13日に他部隊に異動したことが判明している者だけで45名にもなった[48]。海軍の航空基地があった喜界島には、様々な理由で特攻機ないし通常作戦機を失った陸海軍の搭乗員が取り残されており、日本陸海軍は搭乗員を救出するため、喜界島に数回に渡って重爆を出しているが、4月28日と5月15日の2回は重爆がアメリカ軍の夜間戦闘機に撃墜されて失敗している[注 6][49][50]。5月28日には陸軍航空輸送部第9飛行隊の九七式重爆撃機2機が喜界島に無事着陸し、1機当たり約20名の搭乗員(合計約40名、海軍航空隊搭乗員と特攻隊員以外の陸軍航空隊搭乗員も含む)を救出している[51]。救出された隊員の中には、特攻出撃後に敵機に攻撃されて機体を損傷し不時着した搭乗員や[17]、機体の不調で徳之島に不時着後、アメリカ軍の空襲で機体を破壊されて喜界島に移動した搭乗員の他にも[52]、喜界島に出撃のために前進していたが、内地へ帰還する参謀に機体を貸与し出撃できなかった第30振武隊の横田正顯少尉のような、特攻出撃から帰還したわけではない搭乗員も含まれていたが[53]、同日に救出された特攻隊員28名は、福岡に到着すると全員振武寮に送られている。

他にも、第65振武隊の片山啓二少尉ら5名のように、出撃前に特攻機が故障したため、代替機を受取るために福岡を訪れ『大誠館』に宿泊していたが、そこでの生活態度が自堕落であったのを倉澤に咎められ、特攻に出撃することもなく、そのまま振武寮に送られた隊員もいる[54]。片山は戦後にこの経験を振り返って「緊張のあとで放心自失して、死のうという決心がつかずだらけていただけである。」とし、このような処罰をされる筋合いはなかったと倉澤らを非難している[注 7][55]

第54振武隊の小川光悦少尉は金浦飛行場三式戦闘機での訓練中に重傷を負い入院した。退院した後、第54振武隊に合流するため芦屋飛行場に向かったが、第54振武隊は出撃した後で、1人取り残されることとなってしまった。そこで芦屋飛行場の部隊長から第6航空軍の司令部に行って倉澤の指示を仰ぐよう言われ、倉澤を訊ねたところ、倉澤からは軍医に検査を受けた後に、福岡女学校の寄宿舎(振武寮)に宿泊するよう命じられた[56]

このように振武寮に送られたのは、出撃して引き返した特攻隊員のみでなく、送られる基準というのは明確ではなかった。

収容者の生活[編集]

振武寮に送られた金本海龍伍長が所属していた第72振武隊(但し金本はこの写真にはいない)、子犬を抱いているのが金本と親しかった荒木幸雄伍長

寄宿舎には『振武寮』という看板が掲げられ、周りは塀と鉄条網で囲われ[57]、小銃を携えた歩哨が2名立っていた[58]。2階建てで、1階は下士官、2階が将校用であり、ずらっと並んだ2名が居住する8畳の部屋に収容隊員が寝泊まりした。施設からの外出は禁止、手紙や電話も含めて外部との接触も厳禁[59]、食事と用便の時以外は部屋を出ることも禁止、他の入寮者との会話も禁じられていたとされる[60]

しかし、これらは必ずしも徹底されておらず、第65振武隊の片山少尉は、先に入寮していた隊員らに事情を聞き、振武寮が帰還特攻隊員の隔離収容施設と認識し[61]、第54振武隊の小川少尉は、自分の部屋に訪ねてきた特別操縦見習士官1期生の少尉から、特攻出撃したが引き返してきたこと、引き返してきた後に両親と面会し驚かれたことなど身の上話を聞かされている[62]。また、第6航空軍に接収された寄宿舎から、近隣の民家に移らされた福岡女学校の女学生は、振武寮の隊員と会話し「戻ってきたらぼくの名札がなかった。死んだことになっとんたんよ」と寂しそうに告げられたと証言している。その女学生は振武寮の様子を外部より継続的に観察できており、「隊員の皆さん、とても投げやりだったのが不思議でした。」と証言している[63]

特攻隊員らは朝食が一番の苦痛だったということで[注 8][64]、昨夜の深酒か朝酒で泥酔している倉澤が、隊員らが朝食を食べている食堂を訪れ「命が惜しくて帰ってきたろ、そんなに死ぬのが嫌か、卑怯者。死んだ連中に申し訳ないとは思わんのか」[65]「お前ら軍人のクズがよく飯を食えるな」[66]「おまえら人間のクズだ。軍人のクズ以上に人間のクズだ」と酔った勢いで罵倒したという[67]。そこで食事を躊躇っていると、倉澤は「なんで飯を食わない?食事も天皇陛下から賜ったものだぞ」と食べるまで部屋を出ていかなかった[68]

倉澤は司令部内で一番若年の参謀だったこともあり、血気盛んでよく怒鳴っていたことから、司令部内で勤務していた女子職員の中で最も印象に残っている参謀であったという。振武寮から隊員を司令部に呼び出し竹刀で殴打したり、倉澤が陸軍航空士官学校の教官時代の教え子で、隊長なのに1人だけ帰還した第43振武隊の陸士今井光少尉に拳銃を渡し「部下だけ突入させて、隊長一人が残ったのは、職業軍人として恥ずかしくないのか?」と罵倒し自決まで迫った。今井は口惜しさのあまり卒倒して2~3日寝込んだという[69]。この屈辱で今井は、振武寮から二式戦闘機で特攻出撃を命じられた牧甫少尉に、今井が司令の菅原や倉澤ら参謀を一室に集めるから、そこに牧甫が特攻してほしいと要請するなど(この時は出撃が中止となったので未遂)収容された隊員らは不満や恨みを募らせており[70]、中には実際に拳銃で自決をはかった者もいたと、特攻出撃前に振武寮行きとなった片山少尉は耳にしている[71][注 9][72]

振武寮の日々は反省文の提出、軍人勅諭の書き写し、写経など精神再教育的なものが延々と続けられた[73]。喜界島より救出された第22振武隊大貫健一郎少尉は、毎晩就寝前に軍人勅諭全文を毛筆で書き写して、翌朝の朝食時に提出するよう命じられた[74]。酔ってがなり立てる倉澤に「そんなバカなことを書く(軍人勅諭を書き写すこと)よりも特攻機を下さい。亡くなった戦友たちが待っているんです。毎日軍人勅諭を書いて何になりますか」と反論したところ、泥酔していた倉澤と口論になり、倉澤から竹刀で気を失うまで殴打されたこともあった。大貫の様に振武寮にいた特攻隊員の多くは再出撃を希望し、倉澤に特攻機の受領を求めたが、倉澤から「お前らのように途中で帰ってくる卑怯者にやる特攻機はない。また同じように飛行機の故障だといって逃げて帰ってくるに違いない!」と罵倒され、特攻機を受領することは無く、再出撃はできなかった[75]

振武寮の向かいに居住していた住民は、「毎日校庭に出て、一人で軍人勅諭を暗唱する隊員がいた。日の丸の鉢巻を締めて、悲しそうな表情をしていた。」と目撃証言をしている[76]

第54振武隊小川光悦少尉によれば、振武寮に到着した夜に、K参謀(倉澤のことと思われる)から軍人勅諭を持っているか?と聞かれたが、遺品として実家に送ってしまっており、倉澤は自分の軍人勅諭を貸与し書き写しておくように命じている。小川はK参謀の厚意に恐縮し、その夜に短時間で軍人勅諭を筆写すると、晴れ晴れとした気分で熟睡したという。風呂は生徒用でなく舎監用の風呂に入浴したが、2~3人は入れる浴槽に鼻歌を歌いながらゆっくり入浴できた。翌朝からは懲罰的な作業は命じられず、本部前の振武寮とは別棟にて沖縄への航法の一般的な講義を受けている[77]

片山少尉によれば、終日正坐をして軍人勅諭を筆写させられていたのは重謹慎の処罰を受けていた者だけで、片山らは倉澤に小さな過失を見つけられては罵倒されただけであった[78]。片山らはその後に明野教導飛行団に転属を命ぜられ、皮肉にも一度も特攻出撃することなく終戦まで生きながらえることとなった[79]。以上のように収容された特攻隊員の中でも処遇に違いがあり、この処遇の違いを大貫は『我々(5月28日に喜界島より救出されて振武寮送りとなった28名)のように実際に出撃して途中で帰還した者』と『特攻基地まで行ったものの飛行機の故障などにより出撃そのものができなかった者』の違いと考えていた[80]

しかし、大貫と同日に入寮し、同じような処遇を受けた特攻隊員の中にも、第30振武隊の横田少尉のように『出撃そのものができなかった者』も含まれている一方で、第72振武隊として出撃しながら本隊と逸れ不時着し、後日振武寮行きとなった朝鮮人特攻隊員金本海龍伍長は、軍人勅諭筆写や罵倒などの差別的待遇は特にされなかった上に、1945年6月末に侍従武官の尾形健一大佐が第6航空軍を視察することが決まった際に、菅原から昭和天皇奏上する特攻美談の原稿を書くように指示を受けた倉澤はその対象者として、振武寮に収容されている隊員の中から、金本を「朝鮮人でありながら、日本人以上に立派な隊員です。」と参謀長の藤塚止戈夫 中将に推薦している。後に倉澤の書いた金本称賛の原稿は新聞記事となって掲載された[81]。以上の様に実際の処遇の違いの基準ははっきりしない。

特攻隊員らは九州帝国大学の助教授による元寇に関する講話も受けている[82]。菅原も最初は一緒に受講していたが、途中で中座したため、残った特攻隊員らは居眠りをしている[83]

寮内の雰囲気は、「みんなが特攻隊員かと見まがうほど生気のない憔悴しきった顔をしていた」という証言や[84]、「みな一日中部屋に引きこもりひっそりしていた。たまに部屋の中から小声で歌っている声が聞こえてきた。生気のない顔でこれがあの特攻隊員かと思うと悲しくなった」という証言がある一方で[85]、「下士官連中は意外と明るく、元気が溢れるばかりであった。」とする証言もある[86]

倉澤の他にも第6航空軍から5名くらいの参謀が振武寮を訪れたが、隊員らに厳しかったのは倉澤だけで、他の参謀らの印象は薄かったという。大貫は、参謀らが特攻隊員らと悶着起こすのが面倒だから、厳しいことは言わなかったと振り返っている。倉澤も、大貫らの反抗的な態度に手を焼き、しばらくすると厳しくあたることはなくなっていった[87]

娯楽[編集]

振武寮の特攻隊員がボート遊びや日向ぼっこや福岡高女の女学生とデートを楽しんだ大濠公園

将棋盤などの娯楽用品は置いてあり自由に使用できた。後に福岡大空襲で振武寮が半焼した際に娯楽用品も焼失してしまったが、特攻隊員らは軍司令部に娯楽用品の再交付を申請し却下されている[88]。振武寮の特攻隊員らは休暇も与えられており、近くの大濠公園ひなたぼっこボート遊びに興じている[89]

振武寮が設営されて1ヶ月も経たない1945年6月初めに日本発送電福岡支店(戦後に解体されて九州電力)内本支店長が、第6航空軍に同社女子社員と振武寮収容隊員とのお茶会を申し出たところ、菅原は快諾、倉澤も最初は「お茶会で若い女性を見ると変心して、出撃の意思を失ってしまうのではないか、私はそれを恐れているのです。」と難色を示したが、菅原の執り成しにより許可している[90]。内本支店長は裏千家の師匠でもあり、日本発送電所有の振武寮にほど近い薬院山荘に、20代の若い女子社員30名を集め和装させて隊員らを迎えた。隊員らは参謀より「拒否することは許さぬ、病人以外全員行くこと」と命じられ、全員出席した[91]

お茶会が終わった後、車座になっての座談会となったが、隊員らが緊張して話が切り出せない中で、大貫が話を切り出すと、女子社員も話しだして場が和みしばし談笑した。その中で女子社員からは「こんな若い人たちが特攻で死ぬなんて信じられない、初めから死ぬことがわかって出撃するなんて」などと軍を批判するような発言もあり、大貫も同意したが特に咎められることもないなど自由な雰囲気で座談会は進んだという。座談会の終わりには女子社員の方からマスコット人形などのプレゼントが渡されるなど、女子社員と隊員らは親しくなっている。大貫もサイパンの戦いの前にサイパン島から疎開し、九死に一生を得た女子社員と意気投合している[92]。お茶会の翌朝に隊員の多くが振武寮を抜け出し、日本発送電の事務所に訪れて、女子社員らに会いに行っている。大貫も意気投合した女子社員を訪ねたが、その日は休暇をとっていたため、ほかの社員より大濠公園近くの自宅を聞き出して訪問している。そこで女子社員が近日中に上京することを聞くと、東京に住む大貫の弟にアルバムを渡すように言付けているなど、振武寮からの出入りや物の持ち出しはそれほど厳格な管理はなされていなかった[93]

このお茶会の終わった後、参加者の中の1人の第42振武隊の中野友次郎少尉が振武寮に帰って来ると、倉澤が中野に向かって「卑怯者が帰ってきたか」と嫌味を言った。中野はそれを聞くや立腹し倉澤を殴り倒している。本来、軍隊で部下が上官に暴力を振るうのは重罪であるが、倉澤は菅原と第30戦闘飛行集団青木武三少将に呼び出されると、青木から「私の編制した部下に何か文句があるのか、立派に戦って戻った者を」と、階級が下の収容隊員に殴り倒されたにも関わらず逆に叱りつけられ、中野はそのまま原隊に復帰し咎められることもなかった[94]。倉澤は、この事件後、中野ら特別操縦見習士官にはあまり干渉しなくなったという。そのため、このお茶会により、内本支店長とも懇意になった隊員らは、歯医者の手配なども内本に頼み、歯医者通院名目で好きな時に自由に外出できるようになった[95]

また、振武寮は外部との接触禁止との建前であったが、福岡高等女学校や福岡女学校の女学生の慰問は継続的に受けていた[96]。女学生らは学校の講堂で学芸会を開き、日本舞踊を踊り、海ゆかばを歌って隊員を慰めた[97]。その内、第67振武隊山岸聰少尉は女学生の1人と懇意になり、振武寮を抜け出して大濠公園でデートを繰り返し、戦後にその女学生と結婚しており、戦時中の軍の施設の運営状況としては、比較的自由な環境であった事実も判明している[98]

結末[編集]

福岡大空襲の戦災記念碑

大貫少尉が戦後6年経ってから偶然再会した司令部付の下士官に[注 10]、帰還特攻隊員に対する第6航空軍の方針を決定した会議の内容を聞いたところ

  • 代替機は与えない。故意の不時着などによる大切な飛行機の破損、自暴自棄による自爆、離陸後に無人島などに不時着し逃亡の恐れがあるからである。本土決戦の際に水際特攻の第一陣として送り出すのが上策である
  • 帰還したことを軍機密とし、絶対に口外してはならぬ。当人たちも絶対に原隊に帰りたくないだろうし、その事実を極秘にしておきたいだろう
  • 1945年7月には本土決戦の際の配置を決め、新しく編成された隊に各自バラバラに転属させる

などが決められたと聞いているが[99]、実際には喜界島から帰還した第30振武隊の横田少尉と宮崎彦次少尉が倉澤に特攻機の受領を直談判したところ、倉澤より「特攻機を受領する早道は原隊に戻るしかない。」と言われ、即日両名とも原隊に復帰したり[100]、倉澤を殴り倒した中野少尉がそれから間もなく原隊に復帰しているなど[101]この方針が本当に軍の方針として確定したものであったかは不明である[注 11][102]

振武寮は1945年6月20日の福岡大空襲の際に、焼夷弾が至近距離に落ちて延焼したが、特攻隊員らの消火活動により半焼で済んでいる[103]。しかし復旧の目途も立たず、6月21日には代替機受領予定の特攻隊員は原隊に戻された[104]

第6航空軍司令部やその施設は福岡大空襲後、平尾の山中に移転することとなり、倉澤も7月10日付で鉾田教導飛行師団に転属がきまったため、残った特攻隊員も原隊に戻ることとなった。中には第22振武隊島津等少尉のように原隊に復帰後に、他飛行隊に転属が決まると、転属先の部隊長から「特攻生き残りの連中をここに置くわけにはいかん」と配属拒否されたり、片山少尉のように航空隊司令から「貴官らを迎えるのは誠に遺憾である」と嫌味を言われ冷遇された隊員もいた一方で[105]、大貫や島津と同じ救援便で喜界島から救出された第21振武隊の上田克彦少尉は、館林の第194振武隊に配属されたが、飛行隊長の堀山久生中尉が上田の特攻出撃経験を敬い厚遇し、部下隊員の教育・指導を任された上に、上田の新婚間もない新妻を舘林に呼び寄せるように勧められ、軍の準備した旅館に同居することを許可されている[106]。また、倉澤に自決を迫られ卒倒し、倉澤らとの心中まで考えた第43振武隊隊長今井少尉は、1945年6月10日に他の同期生に遅れることなく中尉に定期昇級すると、13日には原所属であった明野教導飛行師団に復帰している[107]

他の隊員の多くも本土決戦用の特攻隊員として各地に配属され[108]、結果的に、振武寮に収容された隊員の多くは、再出撃することなく生存し終戦を迎えた[109]

終戦が決まると、陸軍航空隊関係者だけで58名もの将官や指揮官らが責任をとって自決した[110]。第6航空軍司令として陸軍の特攻を指揮した菅原も初めは自決を考え、日記にもそのタイミングを「九州を去る時」「軍司令官罷免の時」「敵の捕手、身辺に来る直前」などと計画していたが[111]、その後に「正に然り、特攻精神の継承、顕彰は余を以って最適任者たること、予之を知る」(海軍側については宇垣纏中将、大西瀧治郎中将既に無く、福留繁中将あるも極めて限定的なり)[112]と自決することを断念し、もっとも特攻を知る者として、今後は特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことを決心している[113]。菅原はその後、旧陸軍時代の人脈を活用し、元部下の航空自衛隊田中耕二空将自衛隊幹部や元軍令部総長及川古志郎ら元軍幹部の協力や、地方公共団体(主に鹿児島県内)の協賛等を得て、知覧特攻平和観音堂の造立[114]や特攻隊員の慰霊団体公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会の設立など、特攻隊員の慰霊・顕彰に尽力し成果を挙げたが、潔く自決した他の指揮官らと比較して卑怯との評価も根強く[115]、菅原の次男の深堀道義も著書で父は終戦後に自決すべきであったと記述している[116]

終戦後、倉澤は一橋大学を卒業し印刷会社の社長にまで栄達したが、1945年の終戦から1996年までの51年間もの間、生き残りの特攻隊員や遺族の報復を恐れて、軍刀拳銃を隠し持っていた。「多くの隊員を出撃させたので、恨みに思われるのは仕方ないし、遺族からも反感を買っているので、いつ報復されるかわからないと、夜も安心して寝ることができなかった。80歳までは自己防衛のために、ピストルに実弾を込めて持ち歩き、家では軍刀を手離さなかったんです」と告白している[117]

その拳銃や軍刀は、倉澤が林えいだいから振武寮に関する取材を受ける7年前に「平和な時代にそぐわない」と手離すことを決心し、自ら保谷警察署に届け出たが[注 12]、その際に「敗戦時に父に預けたものが遺品の中から偶然出てきた」と嘘の説明をし、長い期間銃砲刀剣類所持等取締法の容疑者として取り調べを受けたが、最終的に訴追されることはなかったという[118]

振武寮で差別的待遇を受けた特攻隊員らに恨まれる一方で、倉澤は陸軍航空碑奉賛会の事務局長を永年勉め、陸軍航空同人会の活動にも深く携わるなど、陸軍航空隊の歴史研究や同窓活動に大きく貢献しており、その面での評価は高かったという。但し晩年の振武寮に関する矛盾した証言と態度で評価を大きく落としてしまった[119]

振武寮として使用された福岡女学校の寄宿舎の焼け残り部分は、1960年に福岡女学校が福岡市南区曰佐地区に移転するまで残されていたが、その後取り壊され、振武寮の特攻隊員とのお茶会を開催した日本発送電の後継会社九州電力が、跡地に九電記念体育館を建設し、建築遺構は確認できない[120]

脚注[編集]

  1. ^ 「月光の夏」の真実 鍋岡弘昭少尉証言『飛行第244戦隊HP』より”. 2017年3月29日閲覧。
  2. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.256
  3. ^ デニス・ウォーナー 『ドキュメント神風』下 P.125
  4. ^ 押尾一彦 『特別攻撃隊の記録 陸軍編』P.10
  5. ^ 押尾一彦 『特別攻撃隊の記録 陸軍編』P.96
  6. ^ デニス・ウォーナー 『ドキュメント神風』下 P.125
  7. ^ 振武隊編成表 軍事機密(用済後焼却)靖部隊『飛行第244戦隊HP』より”. 2017年3月11日閲覧。
  8. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.152
  9. ^ NHKETV特集」『許されなかった帰還 ~福岡・振武寮 特攻隊生還者たちの戦争~』(2006年10月21日 22:00-22:45放送、NHK教育
  10. ^ NHKETV特集」『許されなかった帰還 ~福岡・振武寮 特攻隊生還者たちの戦争~』(2006年10月21日 22:00-22:45放送、NHK教育
  11. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.252
  12. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.253
  13. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.200
  14. ^ 伊藤慎二『福岡市中央区薬院の戦争遺跡:陸軍振武寮とその周辺』P.52
  15. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.85
  16. ^ 高木俊朗『特攻基地知覧』電子版P.1680
  17. ^ a b 大貫健一郎、渡辺考『特攻隊振武寮 証言:帰還兵は地獄を見た
  18. ^ 西日本新聞記事『振武寮』1993年8月11日~15日
  19. ^ 靖国神社編『英霊の言乃葉(1)』P.122
  20. ^ 「史苑」第68巻1号 加藤拓 『沖縄陸軍特攻における「生」への一考察』P.64
  21. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.228
  22. ^ 伊藤慎二『福岡市中央区薬院の戦争遺跡:陸軍振武寮とその周辺』P.48
  23. ^ 西日本新聞記事『歴史の闇に埋もれさせないで』1993年8月15日 福岡女学校当時中学三年生の女学生証言
  24. ^ 『偕行』平成7年12月号 P.34
  25. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.198
  26. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.210
  27. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.169
  28. ^ 高木俊朗『知覧』P.107
  29. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.174
  30. ^ 振武寮の虚構『飛行第244戦隊HP』より”. 2017年3月11日閲覧。
  31. ^ 高木俊朗『特攻基地知覧』電子版P.1717
  32. ^ 菅原道大『特攻作戦の指揮に任じたる軍司令官としての回想』「8、特攻総ざらえ 4、帰還の頻度」1969年 P.79~82
  33. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.228
  34. ^ NHKスペシャル「学徒兵 許されざる帰還 陸軍特攻隊の悲劇」2007年10月21放送
  35. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.84
  36. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.85
  37. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.175
  38. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.253
  39. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.226
  40. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.228
  41. ^ デニス・ウォーナー 『ドキュメント神風』下 P.165
  42. ^ 第44振武隊武田遊亀軍曹(4月2日知覧出撃、生還)の証言 『飛行第244戦隊HP』より”. 2017年3月22日閲覧。
  43. ^ 「史苑」第68巻1号 加藤拓 『沖縄陸軍特攻における「生」への一考察』P.72
  44. ^ 「史苑」第68巻1号 加藤拓 『沖縄陸軍特攻における「生」への一考察』P.73
  45. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.242
  46. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.84~86
  47. ^ 栗原 俊雄 『特攻―戦争と日本人』P.143~144
  48. ^ [1]振武隊異動通報(第2号)軍事機密 と号業務班 6月18日現在
  49. ^ シュミット村木眞寿美『もう、神風は吹かない 「特攻」の半世紀を追って』P.242~243
  50. ^ 陸士第57期航空誌編集委員会『陸士57期航空誌』P.488
  51. ^ 三堀美男『雲無心-大空を翔けた我が人生-』日本航空株式会社 個人史 P.23~P.24
  52. ^ 高木俊朗『特攻基地知覧』電子版P.1698
  53. ^ 航空碑奉賛会編『続 陸軍航空の鎮魂』航空碑奉賛会1982年 P.474
  54. ^ 高木俊朗『特攻基地知覧』電子版P.1107~P.1124
  55. ^ 高木俊朗『特攻基地知覧』電子版P.1140
  56. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.248 第54振武隊小川光悦少尉記述『第11錬成飛行隊以降之顛末記』より引用
  57. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.213
  58. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.230
  59. ^ 「史苑」第68巻1号 加藤拓 『沖縄陸軍特攻における「生」への一考察』P.69
  60. ^ 大貫健一郎、渡辺考『特攻隊振武寮 証言:帰還兵は地獄を見た』P.209
  61. ^ 高木俊朗『知覧』P.107
  62. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.251 第54振武隊小川光悦少尉記述『第11錬成飛行隊以降之顛末記』より引用
  63. ^ 西日本新聞記事『歴史の闇に埋もれさせないで』1993年8月15日 福岡女学校当時中学三年生の女学生証言
  64. ^ 大貫健一郎、渡辺考『特攻隊振武寮 証言:帰還兵は地獄を見た』P.208
  65. ^ 「史苑」第68巻1号 加藤拓 『沖縄陸軍特攻における「生」への一考察』P.69 第22振武隊大貫健一郎証言引用
  66. ^ NHKETV特集」『許されなかった帰還 ~福岡・振武寮 特攻隊生還者たちの戦争~』(2006年10月21日 22:00-22:45放送、NHK教育
  67. ^ 大貫健一郎、渡辺考『特攻隊振武寮 証言:帰還兵は地獄を見た』P.210
  68. ^ 大貫健一郎、渡辺考『特攻隊振武寮 証言:帰還兵は地獄を見た』P.210
  69. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.239~249
  70. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.155
  71. ^ 高木俊朗『特攻基地知覧』P.1139
  72. ^ 大貫健一郎、渡辺考『特攻隊振武寮 証言:帰還兵は地獄を見た』P.214
  73. ^ NHKETV特集」『許されなかった帰還 ~福岡・振武寮 特攻隊生還者たちの戦争~』(2006年10月21日 22:00-22:45放送、NHK教育
  74. ^ 大貫健一郎、渡辺考『特攻隊振武寮 証言:帰還兵は地獄を見た』P.208
  75. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.242~243
  76. ^ 西日本新聞記事『歴史の闇に埋もれさせないで』1993年8月15日 福岡市薬院住民証言
  77. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.249~251 第54振武隊小川光悦少尉記述『第11錬成飛行隊以降之顛末記』より引用
  78. ^ 高木俊朗『特攻基地知覧』電子版P.1131
  79. ^ 高木俊朗『特攻基地知覧』電子版P.1149
  80. ^ 大貫健一郎、渡辺考『特攻隊振武寮 証言:帰還兵は地獄を見た』P.214
  81. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.262
  82. ^ 菅原道大『菅原道大日誌』6月18日
  83. ^ 大貫健一郎、渡辺考『特攻隊振武寮 証言:帰還兵は地獄を見た』P.218
  84. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.150
  85. ^ 「史苑」第68巻1号 加藤拓 『沖縄陸軍特攻における「生」への一考察』P.76 第216振武隊石川二郎少尉『振武寮日誌』から引用
  86. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.249 第54振武隊小川光悦少尉記述『第11錬成飛行隊以降之顛末記』より引用
  87. ^ 大貫健一郎、渡辺考『特攻隊振武寮 証言:帰還兵は地獄を見た』P.217~218
  88. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.259 朝鮮人特攻隊員金本海龍伍長『陣中日誌』より引用
  89. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.252 第54振武隊小川光悦少尉記述『第11錬成飛行隊以降之顛末記』より引用
  90. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.233
  91. ^ 大貫健一郎、渡辺考『特攻隊振武寮 証言:帰還兵は地獄を見た』P.219
  92. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.236
  93. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.238
  94. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.241
  95. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.238
  96. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.153
  97. ^ 西日本新聞記事『振武寮』1993年8月11日 福岡女学校教師証言
  98. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.238
  99. ^ シュミット村木眞寿美『もう、神風は吹かない 「特攻」の半世紀を追って』P.244
  100. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.230
  101. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.242 『航跡』(幹部候補生第9期の手記)より引用
  102. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.226
  103. ^ 伊藤慎二『福岡市中央区薬院の戦争遺跡:陸軍振武寮とその周辺』P.49
  104. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.259
  105. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.271~273
  106. ^ 特攻隊戦没者慰霊顕彰会編 『会報 特攻』 平成23年11月第89号 特攻インタビュー第6回 陸軍航空特攻 堀山久生氏
  107. ^ 振武隊異動通報から見えた真実『飛行第244戦隊HP』より”. 2017年3月20日閲覧。
  108. ^ 振武隊異動通報(第2號) 軍事機密 と号業務班 6月18日現在『飛行第244戦隊HP』より”. 2017年3月14日閲覧。
  109. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.271~273
  110. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.239
  111. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.244
  112. ^ 菅原道大『菅原道大日誌』9月23日
  113. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.251
  114. ^ 高木俊朗『知覧』P.347~349
  115. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.239~P.255
  116. ^ 「史苑」第68巻1号 加藤拓 『沖縄陸軍特攻における「生」への一考察』P.63 深堀道義『特攻の真実―命令と献身と遺族の心 』から引用
  117. ^ 『特攻隊振武寮』p.282
  118. ^ 『特攻隊振武寮』p.283
  119. ^ 「史苑」第68巻1号 加藤拓 『沖縄陸軍特攻における「生」への一考察』P.73
  120. ^ 伊藤慎二『福岡市中央区薬院の戦争遺跡:陸軍振武寮とその周辺』P.53

注釈[編集]

  1. ^ 『月光の夏』は実話などを元に創作したドキュメンタリー・ノベルの映画化であり、ノンフィクションではない。舞台となっている鳥栖町立鳥栖国民学校にピアノを弾きに来たのは、特攻隊員2名ではなく、特別操縦見習士官2期生で特攻隊員ではない鍋岡弘昭少尉1名である。
  2. ^ ただし、原作の小説『月光の夏』の出版前(1993年)の、1965年出版高木俊朗『知覧』に『振武寮』に関する記述あり(その後の高木著の書籍にも登場)、他の著者では1982年出版デニス・ウォーナー 『ドキュメント神風』に『振武寮』の記述があり
  3. ^ 4月6日に四式戦闘機配備の制空戦闘隊第102戦隊の1/3と特攻隊1/5が不出撃もしくは引き返ししたことを嘆く記述、5月28日全軍に軍人勅諭奉読式をさせたこと、6月8日に引き返した特攻隊員数十名を前に訓話したことは記述。
  4. ^ 以前は高級料亭であり、料亭時代は玄洋社頭山満が常連客であった。2017年現在は鹿島本館という旅館名で営業中で、頭山が書いた自筆の額が現存。2007年に国の登録有形文化財に登録(福岡市では初登録)
  5. ^ ただし、1965年出版の高木俊朗『知覧』で片山は旧知の顔があったからでなく、隊員らに事情を聞いて特攻隊員の隔離所と認識したと高木に証言している。
  6. ^ 喜界島から救出された1人となる第22振武隊の大貫少尉は、戦後に振武寮収容時に顔なじみとなった第6航空軍司令部付の下士官(官姓名不詳)に聞いた話として、第6航空軍は、取り残された振武隊員が、喜界島にアメリカ軍が上陸し捕虜となった際に機密を漏洩する危険性が高いと考え、撃墜され特攻隊員らが死ぬことを前提に重爆を出したが、予想外に大貫らが生還してしまいその処置に困った。としているが、大貫らが生還する以前の5月15日に夜間戦闘機に撃墜された救援機は、陸軍機ではなく海軍の九六式陸上攻撃機で、陸海軍搭乗員両方が戦死しており、この当時連合艦隊の指揮下にあった第6航空軍が、海軍機を使用し海軍航空隊搭乗員を巻き添えにして、このような試みをおこなうのは不自然である。また日本軍は陸海軍問わず、孤立したマリアナ諸島やフィリピンなどでも、搭乗員を航空機や潜水艦を使って救出している。
  7. ^ 第65振武隊は、乗機の九七式戦闘機が故障しなかった隊長の桂正少尉以下3名が1945年5月11日に出撃して戦死しており、その知らせを聞いた片山らは、隊長が戦死したことと代替機が来ないことから、心の支えを失い緊張感が緩み、毎日ぼんやりととりとめのない生活を送り、頭髪も伸びるにまかせて気にもとめていなかったという。
  8. ^ 昼食と夕食の際にはあまり嫌がらせはされていなかった。食事は兵食であったが、夕食には魚の煮つけなどが一品ついていた。
  9. ^ しかし、大貫少尉が聞いたところでは「窓ガラスを割りその破片で頸動脈を切り自殺した」と異なった状況となっており、実際に自殺者が出たのかは不明。
  10. ^ 大貫が振武寮で顔見知りとなった下士官とのことだが、官姓名は不詳。
  11. ^ この会議に出席した倉澤によれば「参謀の中で意見が分かれて結論が出なかった」とのことであった。
  12. ^ しかし、倉澤が居住していた西武鉄道池袋線保谷駅近隣にこのような警察署は過去も現在も存在せず、実際には田無警察署である

参考文献[編集]

  • 高木俊朗『知覧』(朝日新聞社、1965年)ASIN: B000JACPKY
  • 高木俊朗『特攻基地知覧』(角川文庫、1979年) ISBN 4-04-134501-4(1965年版の再版・修正版)
  • 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』(光人社NF文庫、2007年) ISBN 978-4-7698-2529-6
  • シュミット村木眞寿美『もう、神風は吹かない 「特攻」の半世紀を追って』(河出書房新社、2005年) ISBN 4-309-01717-7
  • 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』(東方出版、2007年) ISBN 978-4-86249-058-2
  • 大貫健一郎、渡辺考『特攻隊振武寮 証言:帰還兵は地獄を見た』(講談社、2009年) ISBN 978-4-062155168 大貫健一郎は歌手大貫妙子の父親。
  • 伊藤慎二『福岡市中央区薬院の戦争遺跡:陸軍振武寮とその周辺』西南学院大学学術研究所 ISSN: 09130756 西南学院大学国際文化論集
  • 押尾一彦 『特別攻撃隊の記録 陸軍編』 光人社、2005年。ISBN 978-4769812272
  • デニス・ウォーナー 『ドキュメント神風』下、時事通信社、1982b。ASIN B000J7NKMO。
  • 「史苑」第68巻1号 加藤拓 『沖縄陸軍特攻における「生」への一考察』立教大学史学会
  • 栗原 俊雄 『特攻―戦争と日本人』(中央公論新社 2015年)ISBN 978-4121023377
  • 特攻隊戦没者慰霊顕彰会編 『会報 特攻』
  • 靖国神社編『英霊の言乃葉(1)』靖国神社 1995年