岡嶋清熊

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岡嶋 清熊
生誕 1914年
日本の旗 日本 熊本県
死没 1995年2月24日
所属組織 Naval Ensign of Japan.svg 大日本帝国海軍
Flag of Coastal Safety Force of Japan 2012-03-04.jpg 警備隊
Naval Ensign of Japan.svg 海上自衛隊
軍歴 1936 - 1945(日本海軍)
1953 - 1954(警備隊)
1954 - 1966(海自)
最終階級 OF-3 - Kaigun Shosa (collar).gif 海軍少佐(日本海軍)
JMSDF Rear Admiral insignia (a).svg 海将補(海自)
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岡嶋 清熊(おかじま きよくま)は日本の海軍軍人海上自衛官海軍兵学校第63期)卒。最終階級は、海軍で海軍少佐、海自で海将補

経歴[編集]

1914年熊本県に生まれる。熊本中学を経て1932年昭和7年)4月、海軍兵学校に第63期生として入校。1936年(昭和11年)3月19日に卒業し海軍少尉候補生としてアメリカニューヨークまでの遠洋航海に出る。終了後、重巡洋艦足柄」乗組。1937年(昭和12年)4月、海軍少尉任官。同年9月、海軍練習航空隊飛行学生を拝命。同課程終了後、延長教育を受け、以後戦闘機搭乗員としての道を歩む。

1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争が開戦となり、航空母艦飛龍」の零戦隊制空隊長として真珠湾攻撃に参加。1942年(昭和17年)1月、空母「瑞鶴」戦闘機隊分隊長となり、珊瑚海海戦などに従軍。その後、岩国航空隊教官に転出。1943年(昭和18年)7月から空母「龍鳳」飛行隊長としてソロモン諸島の戦いに従事したが、戦闘による消耗により龍鳳航空隊は解散し、現地の第204海軍航空隊に吸収された。同年12月、厚木海軍航空隊飛行隊長に任命。1944年(昭和19年)2月、同隊が第203海軍航空隊に改称。同年4月、戦闘303飛行隊長に任命。

10月末、フィリピン神風特攻隊が開始。201空の角田和男によれば、岡嶋少佐は特攻に反対で、全員引き連れて内地に帰ると言っており、「特攻は邪道である。内地に帰り再編成の上、正々堂々と決戦をすべきである。203空からは一機の特攻も出させぬ」と頑張り、士官室で全員特攻を唱える201空飛行長の中島正少佐と激論を交わしたという[1]。もっとも、岡嶋の戦闘303からも特攻隊員を出しており、特攻隊員以外の岡嶋らは内地に帰還した[2]。戦闘303飛行隊の搭乗員であった安部正治によれば、10月29日、搭乗員三十数名を二列に整列させ、岡嶋が志願者を募ると全員が手をあげたので、岡嶋が選抜し、翌日甲飛10期生3名に決定を言い渡したという。また、岡嶋の考えは特攻には反対だったらしく、戦闘機乗りは敵機撃墜が本来の任務であり、その体質をまもり、やりとげたく、勝利の道はそこから入るとかたく信じていたようであるともいう[3]

1945年3月21日の九州沖航空戦における第七二一海軍航空隊(神雷部隊)の特攻兵器桜花一式陸上攻撃機に搭載)の初出撃に、制空隊として23機の零戦を率いて桜花の護衛にあたっている。203空の零戦は故障で12機が引き返すこととなりわずか11機となったが、721空の306飛行隊、307飛行隊の直掩の零戦21機(こちらも32機中12機が故障で引き返していた)と合流した。しかし、岡嶋ら203空と、721空の306飛行隊、307飛行隊との間には全く連携はなく、306飛行隊でこの日出撃した野口剛によれば、最後まで203空が合流していたことに気が付かなかったという[4]

零戦隊は2層になって桜花隊の右後方上空に位置を取った。日本軍編隊がアメリカ軍機動部隊の60マイルまで達したとき、レーダーで誘導されたアメリカ軍の軽空母ベローウッド所属の戦闘機隊F6Fヘルキャット合計8機が、最上層の岡嶋ら制空隊の600m上空に到達し、急降下で零戦隊を攻撃してきた。不意をつかれた零戦隊は次々と被弾し、特に岡嶋らの600m下層を飛行していた306飛行隊の損害が大きく次々と撃墜された[5]。ベローウッド隊はそのまま一式陸上攻撃機の攻撃に向かったが、初弾を免れた岡嶋ら203空が急降下し、攻撃直前のF6F2機に襲いかかり、一時は、ベローウッド隊2機対203空零戦11機の空戦となっていたが[6]、それでも岡嶋ら203空はたった2機のF6Fに翻弄されて苦戦を強いられ、ほかのF6Fが一式陸上攻撃機を攻撃するのを防げなかった[7]。まもなくホーネットの戦闘機隊F6F8機が到着し空戦に加わった。711空の306飛行隊、307飛行隊の零戦の生き残りは、ベローウッド隊との空戦に参加せず引き続き桜花隊を護衛していたが、ホーネット隊の増援が到着したのを見ると要撃のため散開してしまい、一式陸上攻撃機は無防備にベローウッド隊とホーネット隊の攻撃に晒されてしまうことになった。ベローウッド隊からは零戦隊が数的に優位にも関わらず、あたかも一式陸上攻撃機を見捨てて置き去りにしたように見えたという[8]

桜花隊を率いていた指揮官の野中五郎少佐は、援護機が離脱していくのを見ると、作戦続行は不可能と判断し、母機の一式陸上攻撃機全機に作戦中止を命じた。このとき野中は、かねてから懸念していた通り、零戦隊が援護としての用を成さず、野中らを置き去りにしたことに憤慨していたという推測もある[9]。野中の指示により、一式陸上攻撃機全機は急速に降下しながら180度左旋回し全速で戦場からの脱出をはかったが、ここで、一時は一式陸上攻撃機から離れた306飛行隊、307飛行隊であったが、常々「腕で神雷(桜花)を守れなかったら、身をもって護れ」と叩きこまれ、出撃時にも再度徹底されていたので、数機の零戦が一式陸上攻撃機に続いている[10]

しかし、桜花を搭載したままで速度と運動性が著しく低下していた一式陸上攻撃機は、回避もままならず次々と撃墜されていった[11]。最後は桜花を投棄して脱出を図ったが、わずか10分で全機が撃墜され、岡嶋ら零戦隊は桜花隊の護衛に失敗した[12]

岡嶋ら制空と直掩の零戦隊は数的に優位であったのにも関わらず、アメリカ軍のレーダー管制による奇襲攻撃と、零戦隊の航空隊間の連携不足もあって一方的な戦闘となり、18機の桜花を搭載した一式陸上攻撃機は全滅、721空の306飛行隊、307飛行隊の零戦は[13]、技量も性能も勝るアメリカ軍戦闘機と激しく戦ったが、10機もの未帰還機を出した[14]。一方で、岡嶋は乗機が故障して喜界島に不時着したが、203空は岡嶋を含む3機が不時着しただけで未帰還機はなかった。アメリカ軍の未帰還機はわずかF6F1機であった[15]

その後は沖縄戦に参加。この頃、戦闘303飛行隊に着任した土方敏夫によれば、岡嶋は「戦闘機乗りというものは最後の最後まで敵と戦い、これを撃ち落として帰ってくるのが本来の使命、敵と戦うのが戦闘機乗りの本望なのであって、爆弾抱いて突っ込むなどという戦法は邪道だ」という信念の持ち主であり、あの時分、上層部からは国賊とさえ呼ばれていたという[16]

1945年(昭和20年)8月、終戦。戦後は農業を営んだが、1953年(昭和28年)10月2日、警備隊に入隊。1954年(昭和29年)7月1日、警備隊が海上自衛隊に改組。海自では主に航空隊等で勤務したのち、防衛大学校海上防衛学教室教授、第4航空群司令を務め、1966年(昭和41年)7月に海将補で退官。退官後は、細谷火工株式会社に入社している。

年譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 碇義朗『紫電改の六機』光人社NF文庫197頁
  2. ^ 碇義朗『紫電改の六機』光人社NF文庫197-199頁
  3. ^ 安部正治ほか『私はラバウルの撃墜王だった』光人社NF文庫182-183頁
  4. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成24年5月 第91号 P.37
  5. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成24年5月 第91号 P.36
  6. ^ 菅原完『知られざる太平洋戦争秘話』潮書房光人新社 P.242
  7. ^ 内藤初穂『桜花―極限の特攻機』中公文庫 p.161
  8. ^ 菅原完『知られざる太平洋戦争秘話』潮書房光人新社 P.242
  9. ^ 菅原完『知られざる太平洋戦争秘話』潮書房光人新社 P.243
  10. ^ 菅原完『知られざる太平洋戦争秘話』潮書房光人新社 P.244
  11. ^ Yokosuka MXY7 Ohka Type 11 rocket-assisted suicide glide bomb IJN Ohka Type 11 Operations at Okinawa1944-1945” (英語). 2019年3月14日閲覧。
  12. ^ デニス・ウォーナー『ドキュメント神風下巻』時事通信社 P.8
  13. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成24年5月 第91号 P.32
  14. ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』学習研究社P.212
  15. ^ 菅原完『知られざる太平洋戦争秘話』潮書房光人新社 P.246
  16. ^ 「特攻最後の証言」制作委員会『特攻最後の証言』アスペクト266頁
  17. ^ 昭和12年7月28日 海軍辞令公報 号外第11号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072072100 
  18. ^ 昭和12年9月20日 海軍辞令公報 号外第57号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072072300 
  19. ^ 昭和13年5月3日 海軍辞令公報(部内限) 号外第177号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072073800 
  20. ^ 昭和13年10月20日 海軍辞令公報(部内限)号外第252号(防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072074400 
  21. ^ 昭和13年11月1日 海軍辞令公報(部内限)号外第256号(防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072074500 
  22. ^ 昭和13年11月15日 海軍辞令公報 号外 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072074500 
  23. ^ 昭和14年11月1日 海軍辞令公報(部内限) 第397号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072076600 
  24. ^ 昭和15年7月1日 海軍辞令公報(部内限)第499号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072078400 
  25. ^ 昭和15年10月15日 海軍辞令公報(部内限)第543号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072079100 
  26. ^ 昭和15年11月15日 海軍辞令公報(部内限)第554号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072079400 
  27. ^ 昭和16年4月1日 海軍辞令公報(部内限)第608号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072080600 
  28. ^ 昭和16年9月5日 海軍辞令公報(部内限)第706号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072082000 
  29. ^ 昭和16年11月10日 海軍辞令公報(部内限)第743号(防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072083000 
  30. ^ 昭和17年1月5日 海軍辞令公報(部内限)第787号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072083800 
  31. ^ 昭和17年6月25日 海軍辞令公報(部内限)第889号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072085900 
  32. ^ 昭和17年7月25日 海軍辞令公報(部内限)第906号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072086400 
  33. ^ 昭和17年9月21日 海軍辞令公報(部内限)第946号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072086900 
  34. ^ 昭和17年12月2日 海軍辞令公報(部内限)第1003号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072088500 
  35. ^ 昭和18年1月16日 海軍辞令公報(部内限)第1035号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072089400 
  36. ^ 昭和18年7月15日 海軍辞令公報(部内限)第1171号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072092100 
  37. ^ 昭和18年9月3日 海軍辞令公報(部内限)第1206号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072092800 
  38. ^ 昭和18年9月22日 海軍辞令公報(部内限)第1221号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072093100 
  39. ^ 昭和18年12月6日 海軍辞令公報(部内限)第1275号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094700 
  40. ^ 昭和19年4月1日 海軍辞令公報(部内限)第1401号(防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072097000 
  41. ^ 昭和19年5月1日 海軍辞令公報(部内限)第1447号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072097800 
  42. ^ 昭和19年12月6日 海軍辞令公報 甲 第1661号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072102100 
  43. ^ 昭和20年1月13日 海軍辞令公報 甲 第1692号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072102900 
  44. ^ 昭和20年6月24日 海軍辞令公報 甲 第1836号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072105500 
  45. ^ 昭和20年7月25日 海軍辞令公報 甲 第1867号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072106400 
  46. ^ 昭和20年11月2日 海軍辞令公報 甲 第1971号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072143300 
  47. ^ 『官報』 本紙第8078号(昭和28年12月7日)
  48. ^ 『官報』号外第59号(昭和61年4月30日)
  49. ^ 『官報』本紙第1619号(平成7年4月6日)