連合艦隊 (映画)

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連合艦隊
監督 松林宗恵(本編)
中野昭慶(特技監督)
脚本 須崎勝彌
製作 田中友幸
出演者 小林桂樹
丹波哲郎
高橋幸治
古手川祐子
佐藤慶
奈良岡朋子
永島敏行
金子信雄
神山繁
財津一郎
佐藤允
長門裕之
藤岡琢也
中谷一郎
中井貴一
小沢栄太郎
鶴田浩二
森繁久彌
音楽 服部克久
谷村新司
主題歌 谷村新司『群青』
撮影 加藤雄大
編集 黒岩義民
配給 東宝
公開 日本の旗 1981年8月8日
上映時間 146分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
製作費 10億円
配給収入 19億円[1]
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連合艦隊』(れんごうかんたい)は、1981年(昭和56年)8月8日に劇場封切り公開された東宝映画製作・東宝配給の特撮戦争映画である。カラー、ビスタビジョン、ドルビーステレオ[2]、145分。

あらすじ[編集]

1940年(昭和15年)、連合艦隊司令長官山本五十六らの反対にもかかわらず、時の海軍大臣・及川古志郎の「やむを得ない」の一言により日独伊三国軍事同盟が締結された。

その頃、船大工の小田切武市は、息子の正人海軍兵学校に合格したので有頂天になっていた。18年間の海軍勤務でも准士官止まりであった武市は、正人の将来の出世は約束されたと信じて疑わなかった。

1941年(昭和16年)の春、海軍中尉に昇進した本郷英一は、学問の道を志す弟の眞二三高に合格したことを、奈良博物館の館長である父親の直樹や婚約者である早瀬陽子とともに喜んでいた。

やがて、ドイツ対ソ宣戦布告や日本軍の南部仏印(現在のベトナム)への進出、そして、それに対するアメリカの対日制裁置としての日本への資源の禁輸などが始まると、世界情勢は日毎に緊迫の度を強め、対アメリカ戦争の予感は現実味を帯びてきた。日米協調派である山本は、もしも、日米開戦となった場合でも、早期和平を実現させるために、アメリカ太平洋艦隊の本拠地であるハワイオアフ島真珠湾空母機動部隊により奇襲するという作戦計画を立てた。

やがて、日米交渉が決裂し、1941年12月8日、真珠湾攻撃が行われた。英一は、空母瑞鶴飛行隊の九九式艦上爆撃機部隊の搭乗員の一員として真珠湾攻撃に参加し、真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊が壊滅的打撃を受けるのを興奮の面持ちで見つめていたが、そこに空母の影は1隻もなかった。

同じ頃、5年の歳月と造船技術の粋を集めて、極秘のうちに建造されていた戦艦・大和が竣工した。翌1942年2月、大和は連合艦隊の旗艦となり、山本長官以下、連合艦隊司令部が乗り組んだ。大和の乗組員の中には、予備役から応召、大和の工作科分隊士として海軍に復職した海軍兵曹長、武市の姿もあった。

日本軍の破竹の快進撃が続く中、同年4月18日のアメリカ空母ホーネットから発進したB-25爆撃機の編隊による日本本土初空襲の衝撃を受けた軍令部は、空母を含むアメリカ太平洋艦隊の残存部隊を全滅させるという山本のミッドウェー攻略作戦案を了承し、5月下旬、連合艦隊の主力部隊は、ミッドウェー島沖に向けて出撃した。しかし、6月5日・6日のミッドウェー海戦では、事前に日本軍側の作戦情報を入手していたアメリカ軍の待ち伏せにより日本海軍は主力空母4隻を失い、ミッドウェー攻略作戦は大失敗に終わり、戦局はジリ貧の消耗戦へと突入していった。

解説[編集]

本作は、日米開戦前年の日独伊三国軍事同盟の締結から始まり、真珠湾攻撃ミッドウェー海戦南太平洋海戦ソロモン諸島攻防戦山本五十六の戦死レイテ沖海戦などを経て、沖縄水上特攻作戦に向かった戦艦大和が坊ノ岬沖海空戦で壮絶な最期を遂げるまでの、太平洋戦争における連合艦隊の興亡の光と影を、ダイジェストながらも編年史として描いた初めての作品であり、東宝の、そして、松林宗恵監督自身の戦争映画の集大成として製作された映画[3]。世界第3位の規模を誇った旧日本海軍連合艦隊が、1940年日独伊三国同盟調印により第二次世界大戦太平洋戦争大東亜戦争)開戦に至り、約5年後の戦艦大和撃沈によって、その終焉を迎えるに至るまでの軌跡を、市井の2つの家族を中心にして描いた作品であり、『エンガノ岬沖海戦』を映画で取り上げた初めての作品である。

それまでの太平洋戦争をテーマにした戦争映画では、山本五十六などのような歴史に名を残す軍人を描いたものが多かったが、本作は「本郷家」と「小田切家」という、連合艦隊に関わった2つの架空の家族を中心にして、この時代と世相を描いている。実質的な主役は、本郷英一、本郷眞二、小田切武市、小田切正人の4人である。

本作で、この「市井の目から見た戦争映画」という様式が取られた背景には、監督の松林宗恵と脚本家の須崎勝彌に共通する、ある思い入れが介在している。両者はともに旧海軍の出身だが、彼らが過去に東宝で製作に関わった戦争映画は、いずれも英雄譚としての性格が強いものばかりだった。そのため、かねてより、「現在の日本の繁栄は無名の英霊達の犠牲の上に成り立っているのではないか、息子達を戦場に送り出した父母の思いは如何だったのか?」という疑問を抱いていたのだという[4]

製作費は、当時としては破格の10億円。劇場公開時の配給収入は19億円で、1981年に公開された日本映画の中では、興行収入・動員数ともに第1位を記録し、大ヒット映画となった[5][6]

特撮[編集]

この映画で使われた戦艦大和の模型は、石川島播磨重工業(現:IHI)の子会社によって9000万円の製作費を費やして縮尺1/20(13mサイズ)のものが作られた[3]。船体(木材や金属で作られていた過去の撮影用模型と異なり、FRPを使用[3])はIHIクラフトが、艦橋や煙突、砲塔やマストなどの上部構造物は東宝美術と東宝特殊美術(現・東宝映像美術)が製作し、1981年1月20日に完成し進水式が行なわれた。2005年に開館した呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)で1/10の模型が公開されるまでは、最大の大和の模型であった。この1/20の大和の模型は、小型漁船用の水冷ディーゼルエンジンを動力とし、船体内部に3人が入って時速6ノットで自力航行できただけでなく、火薬とラジコン装置を用いて46cm三連装主砲の発射シーンを再現することもできた[7]。船体の前方にも舵がついており、プール内で楽に回頭できるようになっている[3]。なお、坊ノ岬沖海戦の戦闘シーンのうち、遠景や、(ラストの)爆沈のシーンなどの撮影では、東宝特殊美術が中心になって製作した縮尺1/40の模型が使用された。

13mサイズの超大型のミニチュアが造られた最大の理由は、東宝撮影所敷地内の特撮用大プールではなく、外洋で撮影するためであった。しかし、この当時、船舶法などの関連法令の改正により、13mを超える(小型)船舶の海上での航行には、船舶への航海標識灯の設置、ならびに、船長や無線士の資格を持つ者が操船することなどが必要となっていて、結局、三浦半島沖での外洋ロケは見送られ、特撮用大プールでの撮影のみとなり、中野昭慶特技監督が思い描いたヘリコプターからの空撮は実現できなかった[8]

空母瑞鶴についても、小型漁船用のディーゼルエンジンを動力とし、船体内部に1人が入って自力航行できる模型(船体は、大和の模型と同じく、FRP製で、飛行甲板や艦橋などは合板製)が東宝特殊美術で製作された。[9][10]

神奈川県茅ヶ崎市柳島海岸に、瑞鶴の艦橋や飛行甲板、対空機銃などが実物大セットで再現された。また、東宝撮影所の敷地内には、大和の艦橋下部周りや、高角砲、シールド付の25mm三連装機銃が並ぶ船体中央部の最上甲板、1番副砲、さらに、艦橋最上部(防空指揮所、15m測距儀、21号電探)などが、実物大セットで再現された。東宝撮影所のスタジオ内には、瑞鶴の艦上機格納庫甲板や艦橋内部、ならびに、大和の第一艦橋内部や司令長官室などがセットで再現された。

船の科学館に展示した1/20戦艦大和模型(2000年)

本作のために製作された縮尺1/20の大和の模型は、撮影終了後に東武動物公園に寄贈され、直後にテレビドラマ[11] の撮影にも使用された。その後、船の科学館に譲渡されて長らく玄関脇に展示されていたが、2004年の年末に暴風雨によって横転し、上部構造物が損壊、修理不能と判断され解体・廃棄された。

本作で大和が初登場するシーンでは、これまで、ほとんどの映像作品で描かれることがなかった、2番・3番副砲を備えた最初期の艤装を復元している(なお、『連合艦隊』以前の東宝の特撮戦争映画で、最初期の艤装を再現した大和のミニチュア模型が実際に特撮シーンに登場した作品は、1968年の『連合艦隊司令長官 山本五十六』のみ。1960年の『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』の劇中の瀬戸内海柱島泊地のシーンにおいて、1カットだけ登場する大和の模型(木製模型)は、ミッドウェー海戦の直前であるにも関わらず、レイテ沖海戦時の艤装であった。また、1953年の『太平洋の鷲』に登場する大和は、マット画処理により作製されたものである)。

本作での大和や瑞鶴などのミニチュア撮影は、あえて波の縮尺を度外視して大きくした「磯波」で演出されている。これは、中野昭慶特技監督の、「迫力にこだわりたい」との意図によるものである。また、背景の空(ホリゾントに描かれたもの)が曇天なのも、悲劇性を強調してのものであった。ラストシーンでの大和の大爆発(爆沈)シーンでは、大和の艦橋を凌駕する派手な爆発の炎が話題となったが、この爆発の撮影は、一度目のものは中野監督が「爆発は良いが波が気に入らない」ということとなったため、改めて撮り直され「磯波」で録り直した2テイク目が採用された。当時、「この爆発の火柱が大き過ぎるのではないか」と指摘があったが、中野監督は「それは間違い。実際はあんなものじゃなく、船の2倍くらいの大きな火柱が上がっている」とコメントしている。この大爆発(爆沈)シーンには乗組員の描写が無いが、これも中野監督によると、「大和が主役だから」との趣旨による[8]

レイテ沖海戦の描写について[編集]

上記の通り、本作ではエンガノ岬沖海戦を描写した初の映像作品であり、またそれに前後して第一遊撃部隊の所謂「栗田ターン」を描写している。但し後述の沖縄特攻時の有賀艦長の服装の件と同じく、演出上の理由で変更していたり、事実と異なる描写であったりしている点も多い。特にレイテ沖海戦に時間を割いている映像作品で簡単に手に入るほぼ唯一の作品でもあり、この内容を「事実」と受け止めている人も多い。

事実と異なる描写としては

  1. エンガノ岬海戦での天候は実際はほぼ晴天であったが、映画では暗天になっている。囮部隊とされた小沢艦隊の悲劇性を強調するための演出である。
  2. 小沢長官が瑞鶴を退艦したのは実際は第二次空襲が済んだ直後でこの時点で瑞鶴は通信機能を喪失しただけでほぼ健在だったが、映画では大破し総員退艦が発令される直前となっている。
  3. 瑞鶴から発艦した攻撃隊の一部が特攻を意図していたように描写されているがその事実はない。この海戦で初出撃した神風特別攻撃隊は基地航空隊の第一航空艦隊が編成した部隊である。
  4. 瑞鶴攻撃隊の発進がハルゼー機動部隊の吊り上げに成功した後になっているが、実際は吊り上げに成功する前の24日昼であり、ハルゼー艦隊が小沢艦隊に気づいて北上を開始するのはその日の夕方である。これは映画の尺の関係でそうなった(同じ理由で西村艦隊、志摩艦隊の突入なども省略されている)のだが同様の理由で攻撃隊の出撃と瑞鶴の沈没が同日であるかのような描写になっている(実際は攻撃隊の出撃は24日で瑞鶴の沈没は25日14時)
  5. 小沢艦隊の囮作戦によりハルゼー艦隊の北上がなされ、それにより栗田艦隊の突入がほぼ成功していたかのように描かれているが、実際はハルゼー艦隊の誘引がほぼ1日遅れた(予定では24日には誘引していなければならなかったが、実際は24日もくれようとしていた17時ごろだった)。これにより栗田艦隊は空襲を受け武蔵が沈み妙高が撤退、他に所属艦艇の多くに損傷を受け、栗田艦隊は一時後退、これによって西村艦隊との同時突入が不可能になり同艦隊は単独突入をせざるを得なくなり殲滅された。小沢艦隊の誘引成功は実際は機を逸していたと見るのが正しい。
  6. 海戦に先立ち栗田艦隊の旗艦を大和に進言したのを、映画では第一戦隊司令官宇垣纏栗田健男艦隊司令長官に対して行い、栗田が却下したとしているが、実際は第二艦隊司令部が連合艦隊司令部に進言し、連合艦隊が却下している。
  7. 「栗田ターン」が指示されたとき、艦隊は平穏に航行しているように描写されているが、実際は対空戦闘中に行われている。つまり実際は栗田艦隊は反転した25日になっても敵機の攻撃を受けており、敵機の脅威から逃れられていない状況だった。
  8. 所謂「ヤキ1カ」電を傍受し第二艦隊司令部が反転するかについて協議した際、そこに栗田が同席している描写があるが、生存者の証言では栗田は同席せず、小柳参謀長、大谷参謀ら司令部参謀のみで集まり、栗田は艦橋に居残っている。またこの協議には第一戦隊司令部の参謀も参加し全員の意見の一致で反転北上の意見を栗田に進言し決を得ているがその描写もない。
  9. 反転を栗田が指示した際、宇垣第一戦隊司令官が異議を唱え詰め寄る描写があるが、これも生存者によって異なり、怒鳴っていないという証言(第一戦隊参謀伊藤敦夫)もある。不満そうな様子であったというのは多くの証言があるが、大声をあげていたという証言は少ない。当時現場にいた人の証言の多くは反転を聞いた宇垣が「敵はあっちだぜ」と栗田に聞き、それに栗田が北上を言明するという内容である。前述の伊藤参謀の証言では反転時には宇垣は席を外しており、戻ってきて初めて反転したことに気づいて伊藤参謀に確認し、その後は不満そうではあったが大声をあげるようなことはなかったと証言している。なお宇垣は自身の日誌「戦藻録」で輸送船団への攻撃よりも艦隊決戦を志向していた[注釈 1]ようである。

などがある。

後年の当事者の体験談のなかには、この映画の影響を受けたかのようなものもあり、記憶と映画の内容が混同しているものもある[注釈 2]

製作スタッフ[編集]

キャスト[編集]

主なロケ地[編集]

旧パッケージの映像差し替え[編集]

DVD・Blu-rayいずれも東宝から発売された。ただし、ソフトには、真珠湾攻撃のシーンが異なる2種類のバージョンが存在する。

本来の劇場公開版、および、テレビ放映版では、真珠湾攻撃のシーンなどは、1970年に公開された20世紀フォックスの日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』の真珠湾攻撃のシーンと、1960年公開の東宝映画『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』の特撮シーンのフィルムとを併用して流用していたが、ソフト化する際の契約を20世紀フォックスと交わしていなかったため、その後のビデオグラム化(ビデオ、LD)の際には、真珠湾攻撃のシーンなどは、全面的に『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』の真珠湾攻撃の特撮シーンのフィルムと差し替えられている。その後、2003年に発売されたDVDでも同様で真珠湾攻撃のシーンなどは差し替えられている。

また、上記の理由で、同じく『トラ・トラ・トラ!』の映像を使用した本作品の特報と劇場予告編は未収録である。

スカイパーフェクTV!の「日本映画専門チャンネル」では、過去の放送において、劇場公開版と、(映像を差し替えされた)最初のDVD版の両方が、いずれもノーカットで放送されている。)

その後、20世紀フォックスとの間での版権問題が解決したことにより、2009年11月22日に、本来の『トラ・トラ・トラ!』の真珠湾攻撃シーンなどの映像も使用されている劇場公開版が、ブルーレイ・ディスクソフトとして発売された。『トラ・トラ・トラ!』からの流用シーンの映像も使用された劇場公開版の映像ソフト商品化は、これが初めてであった。

また、2010年1月22日には、同じく劇場公開版のDVDソフトも発売された(ちなみに、今まで未収録であった特報と劇場予告編も収録されている)。

これにより、映像が差し替えられていた従来のDVDは生産を終了し、現在は廃盤である。

登場人物の名の由来[編集]

レイテ沖海戦のシーンに登場する予科練出身の少年飛行兵・「中鉢」二等飛行兵曹の名は、松林監督の海軍時代に実際の部下だった中鉢一等水兵という実在の戦傷死した少年兵の名に由来している。

衣装[編集]

坊ノ岬沖海戦のシーンで、大和の最後の艦長・有賀幸作大佐(演:中谷一郎)が着ているのは、彼が実際に着用していた当時の略装「第三種軍装」(青褐色の背広服)ではなく、通常軍服の「第一種軍装」(紺色の詰襟ジャケット)である。これは、「せめて映画の中では、“死に装束” を着せてやりたかった」という松林監督の願いを反映したもの。松林は1963年に監督した『太平洋の翼』の中でも、有賀艦長に同じ “贈り物” をしている。

フィルムのリユース[編集]

本作で撮影された大和の航行シーンや戦闘シーンなどの特撮映像の一部は、終戦45周年を記念して東宝が製作した2本の3時間単発テレビドラマに転用された。放送は、いずれも1990年8月で、本作のテレビ放映に続く形で、2週間以内に相次いで放送された。

[編集]

  1. ^ 1981年配給収入10億円以上番組 - 日本映画製作者連盟
  2. ^ 日本映画では初めて、ドルビー・ステレオ方式の音響が上映時に使用された。
  3. ^ a b c d 石井博士ほか 『日本特撮・幻想映画全集』 勁文社、1997年、278頁。ISBN 4766927060
  4. ^ DVD、ならびに、ブルーレイ・ディスクのオーディオコメンタリーより。
  5. ^ ただし、同年の年末に翌1982年の正月映画として公開された『セーラー服と機関銃』(角川映画)を除く。
  6. ^ 1981年配給収入10億円以上番組 - 日本映画製作者連盟
  7. ^ 菊水1号作戦坊ノ岬沖海空戦)のシーンでは、第二・第三主砲の砲塔上の各2基ずつの特設25mm三連装機銃群は再現・設置されておらず、また、艦尾端部の2基の特設25mm三連装機銃群も、この当時は存在が確認されていなかったために再現・設置されなかった。
  8. ^ a b 『特技監督中野昭慶』(ワイズ出版)、『別冊映画秘宝 戦艦大和映画大全』(洋泉社)
  9. ^ この瑞鶴の模型は、南太平洋海戦からトラック諸島の泊地に帰投した瑞鶴の飛行甲板上において、南太平洋海戦の際にアメリカ軍機の空襲により大破しながらも、瑞鶴とともにトラック諸島の泊地に帰投した翔鶴の損傷具合の様子を見ながら、本郷英一大尉(永島敏行)と瑞鶴飛行隊の下田飛行長(平田昭彦)が会話するシーンの中のワンカットにおいて、損傷した翔鶴の模型としても転用された。
  10. ^ なお、実際の瑞鶴は、レイテ沖海戦時の最終状態の艤装の姿では、飛行甲板や喫水線上の船体、格納庫や艦橋などの外観に迷彩塗装が施されていたが、本作では、レイテ沖海戦のパートに登場する最終状態の艤装の姿の瑞鶴は、特撮用模型、実物大セットともに迷彩塗装は再現されていなかった。
  11. ^ 新春12時間超ワイドドラマ」『海にかける虹〜山本五十六と日本海軍』第6部「長官機撃墜の謎・戦艦大和の出撃」(1983年1月2日放送、テレビ東京系列)
  12. ^ 本作がデビュー作。第5回日本アカデミー賞で新人俳優賞を受賞している。
  13. ^ 原作は吉田満の『戦艦大和ノ最期』(過去には、1953年新東宝映画化されている)。主演の中井貴一が演じる「吉岡少尉」は、原作者の吉田満がモデルとなっている。なお、この作品は、当初は、劇場用超大作映画として企画されたが、諸般の事情により映画版の製作は中止され、3時間テレビドラマとして製作・放送された。

注釈[編集]

  1. ^ 戦藻録には来艦した小柳参謀長、山本先任参謀に対し、輸送船団を攻撃するよりも敵艦隊との決戦をするべきと自身の見解を述べたという記述がある。また反転直前のサマール沖海戦で、敵艦隊追撃を辞めてレイテ湾突入を再開する指示を栗田長官が出した時、その指令を「なにを考えたか~」と意外であったかのように書いている。反転前の出来事として北方水平線にマスト数本を見張り員が見つけ、第一戦隊参謀もそれを確認、宇垣はこれに向かうよう進言したが栗田が却下したという出来事がある。仮に宇垣が詰め寄ったのだとしても、彼の怒り(不満そうだったという証言はある)の内容は映画で描かれているようなものとは異なり、少し前の自分の進言を却下しながらヤキ1カ電を受けて一転して北上を決断した栗田が優柔不断に見えて不満だったという可能性の方が高い。栗田自身も彼の怒りの意味をそう捉えていたようで、反転を指示した際に宇垣が「敵はむこうだぜ」と聞いてきた際に、栗田は「いや、貴官の進言通り、北東の機動部隊に向かう」と発言したという証言もあり、北東に進撃することが宇垣の前の進言の内容にも沿うものである事を示している。
  2. ^ 当時の大和副砲長、深井俊之助の著書「私はその場に居た 戦艦「大和」副砲長が語る真実 海軍士官一〇二歳の生涯」には映画の内容と記憶が混同していると思われる点が幾つかある。戦闘詳報や戦史叢書、他の生存者の証言などから資料検証をすればすぐに判る映画と同じ内容の間違いを「事実である」として書いている

関連項目[編集]

本文中に既出のものは除く。

外部リンク[編集]