八甲田山 (映画)

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八甲田山死の彷徨 > 八甲田山 (映画)
八甲田山
監督 森谷司郎
脚本 橋本忍
原作 新田次郎八甲田山死の彷徨
製作 橋本忍
野村芳太郎
田中友幸
出演者 高倉健
北大路欣也
加山雄三
三國連太郎
音楽 芥川也寸志
撮影 木村大作
編集 池田美千子
竹村重吾
製作会社 橋本プロダクション
東宝映画
シナノ企画
配給 東宝
公開 日本の旗 1977年6月4日
上映時間 169分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
配給収入 日本の旗 25億900万円[1]
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八甲田山』(はっこうださん)は、新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』を原作とする日本映画。橋本プロダクション・東宝映画シナノ企画の製作で1977年に公開された。テレビドラマ版についても併せて記述する。

概要[編集]

1902年明治35年)に青森連隊が雪中行軍演習中に遭難し、210名中199名が死亡した事件(八甲田雪中行軍遭難事件)を題材に、一部創作を加え[誰によって?]、極限状態での組織と人間のあり方を問いかけた作品である。配給収入は25億900万円で、1977年の日本映画第1位を記録した[1]高倉健北大路欣也主演。北大路の台詞「天は我々を見放した」は当時の流行語になった。監督は森谷司郎、音楽は芥川也寸志で翌1978年3月の第1回日本アカデミー賞音楽賞を受賞している。

あらすじ[編集]

1901年(明治34年)10月、弘前第八師団の第四旅団本部で、旅団長の友田少将と参謀長の中林大佐が青森歩兵第五連隊と弘前歩兵第三十一連隊の連隊長以下を集めて会議を開いた。議題は八甲田の雪中行軍演習であった。日清戦争終了から6年を経て、ロシア満州への進出で日露関係が緊迫して、もはや大陸での日露開戦は不可避と見られていた。第八師団では対露戦の準備に入っていた。そこで課題として参謀長が挙げたのは寒地装備と寒地訓練の不足であった。相手は零下40度の雪原でも闘えるロシア軍であり、日本軍にはそのような経験が無いので、極寒対策や雪中行軍の注意点及び装備品の研究を行うために厳冬期の八甲田山を行軍して調査を実施するものであった。

弘前第八師団の友田少将/旅団長(島田正吾)は、雪中行軍の実績がある青森歩兵第五連隊神田大尉/中隊長(北大路欣也)と弘前歩兵第三十一連隊徳島大尉/中隊長(高倉健)に「二人とも雪の八甲田を歩いてみたいとは思わないか」と提案した。これは実質命令であると双方の連隊長は受け取っていた。会議のあとに弘前歩兵第三十一連隊長児島大佐(丹波哲郎)と青森歩兵第五連隊長津村中佐(小林桂樹)はどうせなら八甲田ですれ違う行軍計画にしようと気軽に口約束する。そして出発前、弘前の徳島大尉の私邸で勉強会を終えた徳島と神田は、雪の八甲田での再会を誓い合った。

徳島大尉は第三十一連隊雪中行軍隊の行軍計画要項を連隊長に提出した。連隊長同士の約束を考慮し、10泊で総距離240kmの強行日程を組み、少数精鋭の27名の隊員(その中には兵卒よりも下士官を多くした)で雪中行軍する計画書であった。これは徳島大尉の「このような計画になった責任は連隊長にあります」との言葉通り、連隊長が雪の八甲田で両隊が合流する約束をしたため、弘前からは南を迂回して十和田湖を東に進んで、東南の方向から八甲田山に入るコースしか選択肢がなかったためである。小隊規模にもならぬと連隊長から指摘されると、兵卒を少なく下士官を多く参加させて万が一の場合でも申し訳が立つと言い、「自分は安請け合いしたことを後悔しています。冬の八甲田は恐ろしい所です。」と連隊長に語るのであった。

一方神田大尉の第五連隊雪中行軍計画は、弘前とは対照的に青森からいきなり八甲田をめざす3日間の短期日程で、当初は小隊規模を予定していた。ところが、弘前第三十一連隊の小隊にも満たない規模での長い行程を聞いて大隊長の山田少佐(三國連太郎)は、弘前第三十一連隊と比較して、青森第五連隊の内容が貧弱に思えて、規模も行程も特色を出すために中隊規模に拡大した上に大隊本部付きでの大行軍にすることを唱え、実施することになった。

1902年(明治35年)1月20日午前5時、弘前第三十一連隊雪中行軍隊は連隊本部を出発した。青森第五連隊では雪中行軍計画要項が提出されて、連隊長が大隊本部の随行は雪中行軍とは別だなと念を押して決裁していた。連隊長は大隊長の同行に不安を感じていた。雪中行軍の本隊である中隊編成は196名、別途随行する大隊本部は14名、合計210名の規模となった。問題は物資を運ぶ輜重隊で、行軍の遅れが心配された。神田大尉は想定していた3日間の行程ではなく、5〜6日かかることを覚悟していた。

1月23日午前6時55分、青森第五連隊雪中行軍隊は連隊本部を出発した。この日の行程は田茂木野 - 小峠 - 大峠 - 賽の河原 - 馬立場 - 鳴沢 - 田代(泊)で20kmを予定していた。しかし、行程半ばで天候が悪化、また雪山に慣れない人間の集団で行軍に影響が出始め、さらには単なる雪中行軍調査のための随行で指揮権の無いはずの大隊長の干渉によって指揮系統が混乱。神田大尉が想定していた田茂木野での案内人の雇用もなくなり、道案内がないまま行軍することになる。やがて吹雪が吹き荒れて、予断を許さない天候状況に行軍するかどうか判断することになった時、別の中隊長が大隊長に意見具申して大隊長が強行する判断を下した。もはやこの時点で神田大尉に指揮権は無かった。輜重隊が遅れたためソリの放棄を大隊長に求めたが大隊長が反対して行軍隊の指揮は決定的に乱れてしまった。そして最初の宿営地である田代への道がどうしても発見できず、日が暮れて暗い雪原の中で寒さに震えながら立ち往生を余儀なくされた。田代までわずか2キロの距離であった。ここでまた混乱が起こる。突然大隊長が行軍を中止して帰営を決断する。そして帰営するため行軍を始めると進藤特務曹長が田代への道筋が分かったとして、方向転換して再び田代へ向かうが峡谷に迷い込んでしまった。特務曹長は錯乱して隊から離れていった。峡谷からは登って行かざるを得ず、氷に足を滑らして多数の犠牲者を出した。神田大尉は馬立場に戻ればと考えたが、もはや過酷な環境と疲労のために雪中行軍隊は四散し、バタバタと倒れていった。2日目の夜も野営を余儀なくされた。神田大尉は徳島大尉に思いを致していた。そして朝になって天候が回復さえすればと念じていた。しかし3日目の1月25日朝を迎えたが天候は回復しなかった。それを見て神田大尉は「天は我々を見放した」と叫んだ。村山伍長(緒形拳)はこの時に隊から離れて一人で行動を始めた。

一方、弘前第三十一連隊雪中行軍隊は一人負傷したが、案内人を雇い入れて計画通りに行軍を進めていた。1月25日に三本木に到着したが、この日に第五連隊雪中行軍隊も三本木に到着の予定であったことを知って、徳島大尉は不安を覚えるのであった。その三本木に電話を入れて来たのは青森第五連隊本部であった。雪中行軍隊の到着の報に一瞬安堵したが、それが弘前第三十一連隊だったと知って、第五連隊長は全連隊に集合をかけた。第五連隊から行方不明になったとの報を受けた弘前第三十一連隊本部は雪中行軍の中止を決断したが徳島大尉に連絡する術がなかった。

1月27日、賽の河原で神田大尉から先に田茂木野に向かい救援を依頼するように命じられていた江藤伍長を、第五連隊本部から来た遭難救助隊が大峠付近で発見し、第五連隊本部並びに師団本部に第五連隊雪中行軍隊遭難の報が入る。しかし第三十一連隊雪中行軍隊はすでに八甲田山に突入していた。第三十一連隊行軍隊は過酷ながらも順調に八甲田を進むが、道中、斉藤伍長の弟である長谷部一等卒(神田大尉の従卒)の遺体を発見する。これで第五連隊行軍隊の遭難を知るが、徳島大尉は不安を押し殺して行軍を続け一気に八甲田の踏破を目指した。猛烈な風雪にたじろぐが前進して行った。困難な行軍の途中、賽の河原にて徳島大尉は、多数の第五連隊行軍隊員の死体を発見する。その中に神田大尉を発見する。遭難の責任を取り、神田は舌を噛み切って雪中で自決していたのだった。冷たくなった神田大尉の顔に、生前の彼の笑顔が重なり、八甲田までの苦労をねぎらう言葉を徳島にかけてくるように見えた。既に逝った男の前で、徳島は幻の再会を果たした。

悲しみと衝撃を受ける徳島大尉だったが、無事に八甲田山を突破、雪中行軍を成功させる。1月29日午前2時に田茂木野に到着する直前、道案内人たちにその労をねぎらい、手当を渡してから「八甲田で見たことは今後一切喋ってはならない」と忠告するのであった。その後に青森第五連隊の遺体収容所に行き、徳島は、収容された神田の遺体と対面。だが第三十一連隊行軍隊が賽の河原に到達する以前、既に第五連隊本部が神田を含む第五連隊行軍隊員の遺体を収容していたことを知り愕然とする。神田の霊が雪中で徳島を待っていたのか、それともあの再会は過酷な寒さによる徳島の幻想であったのか。徳島は神田の妻はつ子(栗原小巻)から、神田大尉が徳島との再会を楽しみにしていたと聞かされ、「会いました。間違いなく自分は賽の河原で会いました」と言って泣き崩れるのであった。

弘前第三十一連隊雪中行軍隊は負傷者1名を三本木から汽車で弘前に帰した以外は全員八甲田を無事踏破し生還を果たした。一方青森第五連隊雪中行軍隊は大隊本部の倉田大尉(加山雄三)の引率の下、12名しか生還(内1名は生還後に死去)することができなかった。その中には人事不省のまま生還した山田大隊長もいたが、彼は遭難の責任をとり、拳銃で心臓を撃ち抜き自決する。徳島大尉以下の面々と第五連隊で生還した倉田大尉は、2年後の日露戦争黒溝台会戦において零下20度の厳冬の中を戦い抜き、全員戦死。後の奉天会戦での日本軍の勝利に結びつけることができたのであった。

やがて時が流れて平和な時代が訪れた。青森ねぶた祭の歓声に沸く頃、ロープウェーに乗って、八甲田の自然を窓から静かに眺める一人の老人がいた。足が不自由で杖をついて歩くこの老人は草木に覆われた穏やかな景色の中、八甲田山系の山々をただ見つめていた。青森歩兵第五連隊雪中行軍隊で生き抜いた村山伍長であった。

登場人物[編集]

弘前歩兵第三十一連隊[編集]

雪中行軍隊
  • 徳島大尉(第1大隊第2中隊長):高倉健
モデルは福島泰蔵大尉。
南津軽郡石川町(現在の弘前市の一部)乳井出身。自宅が弘前市富田、養母が黒石市北田中に居住している。岩木山で雪中行軍の経験があり、冬山、寒冷地、積雪地における行軍を成功させるための様々な工夫を行う(例えば、「雪壕を掘っての露営」を岩木山の雪中行軍本番で実践していたため、八甲田山雪中行軍本番でも組み入れていた)。これが「装備を軽くした少数精鋭編成」へ結びつき、三十一連隊の八甲田山雪中行軍を一人の落後者を出さずに成功させることにつながった。
青森歩兵第五連隊の神田大尉とは、第四旅団司令部における「雪中行軍作戦会議」で「天候に恵まれた一度や二度の経験は何の役にも立たない」「悪天候など万一の事態に遭遇しても命を守る備えを確実にする」などの助言をしたり、自宅へ招いて岩木山雪中行軍の内容学習を行い、「少数精鋭主義」「装備の軽量化」といった雪中行軍の心構えを説いている。
一時は八甲田山での雪中行軍の中止を具申することも考えていたが、旅団長の実質的な命令、三十一連隊長と五連隊長の約束事から八甲田山雪中行軍の徳島隊の指揮官として雪中行軍を計画・実施する。行軍本番前に部下(佐藤一等卒と小山二等卒など)に行軍経路の下調べや、現地での案内人の手配、宿営地や糧食・消耗品の調達を命じ、徳島隊の結団式では隊を構成する27名全員が出席したうえで「水筒の水は満水にせず七分目まで入れ、絶えず動かしていれば凍らない。人間の体もそれと同じだ。たとえ小休止といえども足の指は靴の中で動かし、手袋をはめた指も必ず動かす」と行軍時における注意事項を訓示するなど、凍傷の危険性や、飲料水や糧食の凍結防止を十二分に説明を行った。行軍直前には神田大尉宛てに速達で手紙を出し、徳島隊の経路で困難な区間(増沢から田代・馬立場・賽の河原にかけての八甲田東南山麓と推測するとした)を明らかにしたうえで、五連隊の神田隊に「最も遭難の危険性が高い区間」を暗示した。
雪中行軍本番の1月20日、徳島隊は午前5時に弘前の屯営を出発し、軍歌の雪の進軍を斉唱するなどして隊の士気を高めた。隊員には「行軍中の勝手な行動の一切厳禁」「防寒着の装着などは自身(徳島大尉)の指示・命令が出てから行う」ことを徹底させた。凍傷防止には足踏みと手指の摩擦や、足先保温に藁の雪沓と靴下に唐辛子をまぶすなどを行わせた。小国・切明(現在の平川市)で宿営、小休止をしたのち、白地山元山峠経由で十和田湖畔の銀山(現在の秋田県鹿角郡小坂町)へ向かう前には暴風雪の兆しをいち早く察知して、耳当て、手袋の二重着用、襟巻き(マフラー)を巻くことを隊員へ指示している。宇樽部(現在の十和田市)で宿営後、中里(現在の三戸郡新郷村)へ向けて犬吠峠を超える際には、隊員全員を荒縄で一列に結んで、滑落防止と視界不良による落伍防止を行っている。中里では案内人と別れたのちに、地元住民からの「家に泊まらないか」の勧めを断って集落近くの空き地に雪壕を掘って一夜を明かす夜間大雪訓練を実施している。三本木到着時に予定通りであれば神田隊が三本木に到着しているはずだが、五連隊に連絡が入っていないとの連絡を三十一連隊の門間少佐より受け取るが、悪天候などで遅れることはあると考えて、自身は神田隊が消息を絶っているとは思っていなかった。次の宿営地である増沢でも神田隊の姿はなく、八甲田山への出発前に神田大尉を心配する。
八甲田山の増沢から田代へ至る経路では、現地で雇った案内人に従って行軍し、田代温泉への道は猛吹雪で見つけられなかったものの、道中は雪壕による露営などで隊の損耗を抑えた。また、鳴沢から賽の河原で神田大尉を含む五連隊の隊員の複数の遺体を発見(後に道中の案内人には見聞きしたことを口外してはならないと諭している)し、田茂木野に到着後に五連隊の木宮少佐へその旨を報告。しかし、既に遺体は収容されており、遺体安置所で八甲田山で会うはずであった神田大尉の遺体と対面することになった。
劇中では幼少期の回想があり、少年の徳島役を石井明人が演じた。
行軍本番中は徳島大尉の指示を復唱し、隊員に隅々まで支持を行き届くようにした。
中里の集落では案内人を最後尾に置くことを上申するが、徳島大尉に却下されている。
行軍本番前の「三十一連隊雪中行軍隊結団式」では、経路の事前調査と宿営地・案内人などの交渉を担当した佐藤一等卒と小山二等卒からの報告内容をメモする。
行軍本番では小国から琵琶の平を経て切明への行軍中「後尾に付け」と徳島大尉に命ぜられ、隊列の最後尾に付く。
気象観測を担当する見習士官。銀山から宇樽部までの行軍中に実施した気象観測では「気温が6度も急降下し風も急に強まってきているので、これは本格的な大暴風雪の前兆ではないか」と徳島大尉に報告する。なお行軍中は「風向・風速を測るための吹き流し付き竹棒」と「積雪の深さを測る竹棒」をそれぞれ背嚢に固定すると共に、現在地の気温を測る温度計を携帯している(気温は「手元の温度計で測った温度」と「体感温度」の2種類を測定・報告)。また、足をねん挫した松尾伍長を背負う川瀬伍長の銃を持つように徳島大尉に命じられた。
隊員の疲労度調査を担当する見習士官。
装備点検を担当する見習士官。宇樽部での宿営時は翌日に控えた犬吠峠越え行軍に備え、参加者全員が「濡れた軍服・下着・靴下・軍靴を干して囲炉裏の火で乾かす行動」と「かんじき・藁の雪沓・服装などに損傷が無いかの点検」を自主的に励行したり、装備や服装に損傷があるときは新品を購入する(八甲田手前の三本木では殆どの隊員が新品の藁沓・かんじきや指先の凍傷防止に用いる唐辛子などを購入)などした。
歩測担当。青森第五連隊の長谷部善次郎一等卒の兄。
過去に徳島大尉の部下として、岩木山雪中行軍に参加した経験がある。弟・善次郎が幼いころに宮城県築館町(現在の栗原市)へ養子に出されたことから、雪の怖さを知らないこと、五連隊の雪中行軍参加者が地元の青森ではなく、積雪量の少ない岩手・宮城の出身者で構成されていることから、八甲田山で遭難する危険性が高いと考えて、行軍本番前に青森にいる叔母へ、弟に八甲田雪中行軍に参加しないように伝言している。(叔母の家で会う約束をしていたが、斎藤伍長は直接出向くことができなかった)
行軍本番では歩測調査により、小休止場所・宿営地までの歩数を記録した。
中里から三本木への行軍中に、普段は切れることのない雑嚢の紐が切れ、このことで弟の死を確信(このことを徳島大尉に伝えるが「弟の死は思い過ごしで、疲労による幻覚だ」と言われている)した。後に、八甲田山で弟の凍死体を発見し、直接会って雪の怖さを伝えられなかったことを後悔し、徳島大尉に弟を背負って帰りたいと懇願するも、隊の安全を優先する徳島大尉に後日救助隊が収容に来ると諭され、その場に遺体を残して行軍を続けた。
元山峠から銀山への行軍中に下り坂で転倒し足を捻挫。このため中里への宿営時は自分たちで掘った雪壕ではなく現地の民家へ泊まり、八甲田手前の三本木にて行軍隊より外され汽車で弘前へ帰営する。
銀山から宇樽部への行軍中にねん挫した松尾伍長の背嚢などを持ってやるように徳島大尉に命じられる。
  • 佐藤一等卒:樋浦勉
    小山二等卒と共に行軍実施前の宿営地交渉と経路事前調査を年末年始の休暇返上で担当。佐藤一等卒は「銀山の民宿経営者が三十一連隊の宿営を二つ返事で引き受けてくれた」旨と「『銀山から宇樽部までは18km。現地の積雪は約2mあり、風はその日次第で今は何とも言えない』との情報を地元住民より得た」旨を徳島大尉へ報告する。三十一連隊への入営前に銀山で働いていた経験を活かし、行軍本番では銀山から宇樽部までの案内人を務める。銀山で小休止中は「夏場に訪れた十和田湖の秀麗な湖面」を思い出していた。
喇叭手。行軍では「気温が低く猛吹雪となっている八甲田山中でも喇叭の音色を遠くまで響かせられるか否かを試す」旨の宿題を徳島大尉より与えられた。

宇樽部にて宿営中は喇叭を磨きながら「五連隊(神田隊)がもし今日1月23日に出発していたら猛吹雪に遭い、えらいことになっているのでは?」という会話を斉藤伍長、西海記者と交わした。この予感は的中しており、神田隊は猛吹雪に見舞われていた。

一行が犬吠峠を越えて中里の集落に入ると(徳島大尉の指示により)先頭に立ち、喇叭を吹奏する。
佐藤一等卒と共に行軍実施前の宿営地交渉と経路事前調査を担当。増沢出身という地の利を活かし、行軍本番では三本木から増沢までの案内人を務める(増沢への宿営時は参加隊員で唯一「実家での宿泊」を許可される)。
佐藤一等卒・小山二等卒と共に「行軍本番前の経路事前調査と宿営地・案内人・消耗品・食糧調達交渉」を担当した。
連隊の隊員
モデルは弘前第三十一連隊長であった児玉大佐。
弘前にある第四旅団司令部で行われた「日露戦争に備えての雪中行軍作戦会議」の終了後に、五連隊長の津村中佐へ「八甲田山の雪中行軍で(三十一連隊と五連隊の)両隊をすれ違う形にしよう」と提案し、これが実施されることになった。
神田隊(五連隊)が消息を絶ったことが判明すると、徳島隊(三十一連隊)に雪中行軍の中止を命じようとしたが、徳島大尉への伝達手段がなかったことで徳島隊は神田隊が遭難していることを知らないままに八甲田山へ突入している。
徳島大尉の上官にあたり、児島大佐と共に三十一連隊雪中行軍経路とその参加人数の説明を受けている。行軍の参加人数が27名(従軍記者、案内人を除く)と少数であることに疑問を持つ(児島大佐も兵卒6名で残りが下士官・見習士官であることに疑問を持つ)が、徳島大尉に「雪中行軍が研究に主眼を置いたもので、いざというとき、国民や遺される家族に申し訳が立つ」という反論を受けている。
1月25日に徳島隊の宿営地である三本木に電話で「予定では神田隊が三本木に着いているはず」と宿の主人に伝言をしている。
神田隊が八甲田山で消息を絶ったことが判明すると、児島大佐に徳島隊の八甲田突入の中止を上申。連隊長の中止命令を受けるが、徳島大尉への命令伝達手段がなく、手をこまねいてしまった。

弘前第八師団[編集]

モデルは第八師団第四旅団の旅団長であった友安治延少将。
雪中行軍作戦会議において、弘前の徳島大尉と青森の神田大尉をそれぞれの指揮官に指名した。八甲田を雪中行軍可能な山岳として手頃な場所であるとして、行軍の成功を期待していた。
神田隊が消息を絶ったことが判明した後、八甲田突入前であった徳島隊に突入中止になったかを参謀長の中林大佐に尋ねるが、連絡方法がなく徳島隊が八甲田へ突入していると聞いて、徳島隊の安否を気遣った。
日露戦争に備えての寒地教育訓練確立」を目的として、青森第五連隊と弘前第三十一連隊への「八甲田雪中行軍」を友田少将と共に提案した。ただし、雪中行軍自体は各連隊に計画策定から編制までを委ねる方針とした。雪中行軍自体は日清戦争により遼東半島で多数の兵士が凍傷にかかり、作戦行動に支障をきたしたことから、より極寒地で戦闘することになるであろうロシア軍対策として寒冷地訓練体制の充実が必要であったことから立案されている。そのため、雪中行軍ではありとあらゆる可能性と方法を研究せよと説明している。
三十一連隊から行軍計画書の提出を受けた際は「一切は徳島大尉の責任として、上官は余計な口出しをしない」ことを連隊に約束させ、門間少佐と児島大佐に環境を整えるよう上申を行った。
神田隊が消息を絶ったことが判明した後、第八師団長も五連隊の雪中行軍隊遭難を憂慮していたことから、所属連隊に限らず第四旅団麾下の工兵、通信隊にいたるまで出動命令を出したほか、第八師団麾下で救助体制を採る方針を決定している。
後に、「その(12名いる生存者の)中には、今回の五連隊雪中行軍最初の目的地・田代にまで達している村山伍長がいる」として大元の行軍目的は達成され、五連隊行軍参加者210名が全滅の憂き目を免れたことに安堵した。

青森歩兵第五連隊[編集]

雪中行軍隊
モデルは神成文吉大尉。秋田県出身で、自宅が青森市筒井にある。
雪中行軍に際して、平地における雪中行軍は経験があったが、山岳地帯では今回が初めてであった。そのため、雪中行軍前に予備演習を徳島大尉から勧められて、八甲田の小峠で予備演習を行った。予備演習は好天であり、成果は行軍参加者の人選、隊の編制資料として活用した。
行軍は田代に宿営する1泊2日を予定したが、悪天候などによる日程順延を想定し、田代と増沢を宿営地として2泊3日に変更。行軍終了後は三本木から汽車による帰営するとしていた。しかし、隊員が冬山に不慣れな者が大半であったこと、猛吹雪などの悪天候を想定した雪壕を掘っての露営や背負子を用いた荷物運搬などを予備演習では実施しておらず、行軍本番は神田隊にとっては2泊3日でも強行日程であった。
上長の第二大隊長の山田少佐と意見が合わず、計画では八甲田山中を案内人付きで実施することとしていたが山田少佐が独断で雇用を却下したり、三十一連隊に勝つという目的で動く山田少佐におされて想定していた行軍参加人数が小隊規模から膨れ上がり(大隊が随伴)、さらには行軍途中で指揮権をめぐって対立した。
行軍本番前に部下の藤村曹長、江藤伍長、伊東中尉を率いて経路の事前調査を行い、江藤伍長から紹介された田茂木野村の村長・作右衞門に「冬の八甲田の様子と行軍を成功させるために必要な装備など」についての説明を受ける。しかし、作右衞門の説明は雪中行軍本番には生かされず、上官の山田少佐には報告も上げなかった。また、弘前の徳島大尉の自宅を訪ねて、岩木山雪中行軍の情報収集を行って、八甲田雪中行軍の参考資料とした。
予備演習終了後に、山田少佐に行軍規模を小隊としていることの理由を三十一連隊を真似しているのではなく、人数が増えれば行李輸送隊負担が大きくなるばかりで、また連隊相互の約束から神田隊も少数でかつ長期日程にせざる得なかったからと説明したが、演習の結果が良好であったことなどを理由に山田少佐には受け入れられなかった。
1月23日の朝6時55分に青森の屯営を出発した行軍本番でも、山田少佐とは対立し、悪天候による中止具申を無視されたり、ソリ隊(輸送隊)が遅れていることからソリを放棄して各隊員に荷物を背負わせるとする上申も却下された。小峠では、永野三等軍医に八甲田付近での天候悪化が予想されているから行軍を中止し帰営すべきと進言されるも大隊本部の下士官に反対された。途中で全体の指揮権を山田少佐に奪われ、意見具申もほとんど却下される事態となった。
山田少佐の朝令暮改的な不適切命令が重なり馬立場から田代の道のりで遭難。隊員が次々と落伍する、大量遭難を招いてしまった。自身はこの責任を取る(指揮権を奪われたとはいえ、行軍の指揮官であったことから)形で、江藤伍長を田茂木野へ行かせ後に、賽の河原で舌を噛み切り自決した。
  • 伊東中尉(第五中隊第一小隊長。モデルは伊藤中尉):東野英心
モデルは第五中隊第一小隊長の伊藤中尉。
行軍本番中は神田大尉の副官の立ち位置で、指示の復唱により隊員へ指示を行き届かせた。気象観測担当も兼務したが、実際には気象観測する場面はなく、代わりにソリ隊の援護に回った。
雪中行軍隊の結団式では先輩の藤村曹長・江藤伍長と共に(上部組織である)大隊本部が随行することで指揮系統が乱れることの不安を抱いた。本番で不安は的中し、行軍に随行するだけのはずであった大隊の山田少佐が行軍隊に「出発用意」を命令したことに違和感をもち、神田大尉に確認したりした。
神田大尉麾下で大峠方面へ向かう集団と、倉田大尉麾下で駒込川方面を向かう集団を賽の河原で二分した際には倉田大尉の側に付き、山田少佐を含めた3名で駒込川方面を目指した。後、倉田大尉、山田少佐と共に救助隊に発見され救出された。
  • 中橋中尉(第六中隊第二小隊長):金尾哲夫
田茂木野から小峠への往路において神田大尉より「先頭かんじき隊は交代。中橋小隊は後方ソリ隊の援護に付け」と命ぜられ、遅れがちだったソリ隊の援護にあたる。
  • 小野中尉(第七中隊第三小隊長):古川義範
モデルは第七中隊第三小隊長であった水野忠宣中尉。
平沢第一露営地に掘られた雪壕の中で「指揮権を山田少佐殿に奪われても、神田大尉殿はこの雪中行軍を必ず成功させる」と士気を鼓舞。しかし、駒込川の峡谷から崖を登って脱出した後、卒倒し凍死した。
  • 鈴森少尉(第八中隊第四小隊長):荒木貞一
鈴森少尉をはじめとした下士官たちは、田代に到着後に温かい酒と温泉にありつけるとする期待を原動力に行軍するが、悪天候により予定通り田代に到着ができず、士気の低下と疲労が増大した。
  • 中村中尉(第一大隊および第三大隊選抜特別第五小隊長):芹沢洋三
中村小隊は五連隊で唯一「ソリ牽引(行李輸送)の担当外」とされていたが、行軍本番では神田大尉の命令により「深い雪に阻まれて遅れがちだったソリの援護」へと駆り出される。
行軍本番では出発前点呼を担当。小休止場所や宿営地からの出発前に体調不良者・負傷者・行方不明者などがいないかの確認を各小隊長にさせ、「異常なし」との報告を各小隊長より受けると「行軍隊・随行員全員の出発用意が整った」旨を神田大尉へ報告する。
馬立場での出発前点呼後は、神田大尉に付いて行動するが、賽の河原で猛吹雪に見舞われて藤村曹長らと共に凍死した。
モデルは実際に行軍に参加した藤本曹長。
伊東中尉・江藤伍長・神田大尉と共に行軍本番前調査に同行し、江藤伍長より紹介された田茂木野村の村長・作右衞門より冬の八甲田の様子についての説明を受ける。
予備演習では神田大尉の副官の立ち位置で、指示の復唱などを行った(行軍本番での伊藤中尉)。
雪中行軍隊の結団式では伊藤中尉・江藤伍長と共に(上部組織である)大隊本部が随行することで指揮系統が乱れることの不安を抱いた。
雪中行軍本番では、神田大尉は山田少佐を立てつつも必ず行軍を成功させることを信じていた。田代へ向かう道中は先遣隊として先に出発するが、猛吹雪と日没で道に迷い、偶然にも将校偵察に出ていた神田大尉の後に続いていたソリ隊の最後尾へ合流した。馬立場から出発後は神田大尉(大峠方面)に付き、賽の河原の手前で一瞬の晴れ間から青森湾を視認した。田茂木野へ向かう途中の賽の河原で猛吹雪に会い凍死する。
行李輸送隊(ソリ隊)としてソリをけん引。大峠での小休止後に山田少佐が「各小隊ごとに出発用意」を下命したことに驚いていた。
  • 村山伍長(第五中隊第二小隊):緒形拳
モデルは第五中隊第二小隊の村松文哉伍長。
雪中行軍の結団式後に江藤伍長に会い、行軍本番での携帯食料の保温材として古新聞や風呂敷を酒保(売店)で購入したことを伝えた。
馬立場では夏に八甲田を訪れたときに赤いツツジが咲いていたことを思い出していた。平沢第一露営地では、雪壕で猛吹雪をかろうじてしのげる有難さを実感する。次々と隊員が落伍していく中、「俺は自分の思い通りに歩く」と言い単独行動し(実際には平山一等卒が付き従ったが途中で落伍する)、青森第五連隊でただ一人目的地であった田代温泉に至った。「最後の生存者」として救助され、生還を果たしたが左腕を凍傷で失った。
エンディングで老齢に達した村山伍長が、左腕を失って杖をついて歩く場面がある。
行軍往路では神田大尉の命令により、伊東中尉らと共に「本隊より大幅に遅れていたソリ隊の援護」を担当。ソリ隊最後尾でそりを後押ししているときに、道に迷っていた藤村曹長の先遣隊を発見している。
行軍復路で田茂木野方面の斥候として申し出て、「北西方面高地の偵察」を神田大尉に命ぜられ、「先遣隊が馬立場へ至り、仲間の隊員が引き続き田茂木野方面へ進出中」である旨を神田大尉と倉田大尉に報告する。このとき、自分以外の田茂木野方面を偵察していた隊員4名は賽の河原付近で凍死し、最期は高橋伍長も藤村曹長らと共に賽の河原で力尽き、凍死した。
行軍復路では田茂木野方面の斥候を申し出て、「駒込川方面の偵察」を神田大尉より命ぜられるが、偵察中に凍死した。
  • 江藤伍長(中隊指揮班):新克利
モデルは後藤房之助伍長。
雪中行軍の事前調査で、神田大尉を田茂木野村の村長である作右衛門と引き合わせた。
雪中行軍隊の結団式では伊藤中尉・藤村曹長と共に(上部組織である)大隊本部が随行することで指揮系統が乱れることの不安を抱いた。
小峠で小休止中は、食糧を凍らせてしまった隊員に自身の食糧を分け与えた(携帯食糧を雑嚢に入れたら凍ってしまうため、自身の食糧は油紙に包んで体に巻き付け、体温で凍結を防止した)。
往路では大峠から賽の河原への行軍中は前方偵察として先頭に立った。復路では、鳴沢で息を引き取った長谷部一等卒を看取った。帰営中、賽の河原で神田大尉から「先に田茂木野へ行き、地元住民を雇って雪中行軍隊の救助にあたる」ように命ぜられ、一人で田茂木野を目指した。後に大峠にて猛吹雪により瀕死の状態で直立していたところを救助隊の三上少尉に発見され、救助された。このとき、五連隊雪中行軍隊遭難の第一報を伝えた。
行軍本番中は渡辺伍長と共に神田大尉が無事に田代へ導いてくれると期待したが、実際は雪壕での露営などで意気消沈していた。
駒込川の峡谷から脱出した後、尿意を催したときには、既に手先が凍傷にかかっていたため、村山伍長に手伝って持っていた。村山伍長が隊列から離れ、一人で田代へ向かって歩き始めたときに付き従ったが、途中で凍死し帰らぬ人となった。
神田大尉の従卒で、徳島隊の斉藤伍長の弟。本名を長谷部善次郎。幼少時代に宮城県築館町へ養子に出され、「水呑み百姓の子だくさん」という環境で育つ。雪の少ない宮城で育ったことから、雪の怖さを知らないと雪中行軍隊に入ることを思いとどまる様に斉藤伍長から心配されたが、神田隊として雪中行軍に参加した。
小峠までの予備演習では好天に恵まれたことから「まるで雪の中の遠足であった」と神田大尉に述べた。
行軍本番では(雪壕を掘ることができなかった)平沢第二露営地で、神田大尉を救出した兄(斉藤伍長)が曹長へ昇任する夢を見て寝言を言い、神田大尉に叩き起こされている。その後、鳴沢で神田大尉が「点は我々を見放した」と叫んだのと同時に力尽き、凍死した。所持していた銃は江藤伍長の手で叉銃として雪上に立てられた。後に、この場を徳島隊が通過した際に、斉藤伍長はここに弟が眠っていることを確信した。
行李輸送隊(ソリ隊)としてソリをけん引し、ソリ放棄後は炊事兼暖房用木炭を背負っていた。途中猛吹雪の中、幻覚により発狂し、矛盾脱衣してそのまま凍死した。他の隊員にも幻覚で木に銃剣を突き立てるなどが描写されている。
行李輸送隊(ソリ隊)としてソリをけん引。大峠での小休止では、指揮官が神田大尉から山田少佐に変わっても関係ないとして、早く田代で温泉に入って一杯やりたいとこぼしていた。
平沢第一露営地を出発する際、汗だくになっていたため、雪壕を出たとたんに下着と軍服が凍結し、そのまま凍死。神田隊の最初の犠牲者となった。この兵卒が死亡した後、ソリ隊はソリを放棄して、重い荷物を背負い、極寒と猛吹雪の中、不眠不休絶食の状態で歩いたため、ソリ隊員が次々と落伍していき、平沢第二露営地に到着した際にはスコップを持っていた隊員が既に落伍していて雪壕を掘ることができなかった。
小野中尉の従卒で、平沢第一露営地では指揮権を神田大尉に戻してほしいと不満を漏らしていた。
雪中行軍随行大隊本部
モデルは青森第五連隊第二大隊長の山口鋠少佐。
雪中行軍を「弘前の第三十一連隊に勝つ」という目標にすり替え、行軍本番中に我田引水朝令暮改を重ねて隊の指揮系統を乱して、最終的に五連隊全体の大量遭難を招いた元凶として描かれている。
予備演習後に神田大尉からの報告から「大隊を繰り出しても行軍可能」と判断し、結果として中隊規模、大隊本部を随伴させた。長谷部一等卒の「雪の中の遠足」にみられるように雪の山岳地帯の危険性を軽視し、本番で「死の猛吹雪地獄」で199名の隊員が犠牲になった。
連隊長の津村中佐へ行軍計画書を提出した際は「大隊本部の随行はあくまで『雪中行軍の研究をつぶさに行い、今後の寒地教育指導体制確立を目指すため』にするもので、行軍隊とは無関係の編成外組織である。よって中隊の指揮は一切神田大尉に任せる」としていたが、本番ではこれを自ら破り、小休止していた田茂木野で「案内人は神田大尉が頼んだのか。五連隊は案内人など頼むわけない。お前たちは案内料を稼ぐ目的で『田代までの案内人をしたい』と言っているのだろ。戦をする者がいちいち案内人など頼んでいられるか。我々は地図と方位磁石を持っているから案内は要らない」と作右衞門らに言って案内人雇用を独断で却下。その後、神田大尉に「案内料が欲しいために『案内人なしでは田代まで無理だ』と言っている者がいる。馬鹿なやつだ」(神田大尉が山田少佐には案内人を事前に頼んでいたことを報告していなかったことも一因)と言い放ち、さらには勝手に出発命令を出すなど指揮権を奪った。このとき、田茂木野村長の作右衞門に自慢した山田少佐の方位磁石は、駒込川の峡谷に迷い込んだところで針が凍結して使用不能になっている。
往路では大峠から賽の河原を超えて馬立場へ行軍中に「遅れているソリを放棄して、各隊員に荷物を持たせるようにしたい」という神田大尉の具申を却下し、ソリ隊は汗だくになりつつも本隊から二時間以上遅れた。結果として平沢第一露営地手前までしかソリを動かせず、以降は神田大尉の具申した通り、荷物を各隊員に分散させて持たせることになった。
馬立場到着後、藤村曹長ら15名を先遣隊として田代に向かわせたが、本隊はソリ隊到着を待っていた関係で猛吹雪の中で長時間待つことを余儀なくされた。神田大尉を将校偵察として田代へ斥候させ、ついに本隊の指揮を代行。帰営よりも頑なに田代行きを優先した。日没を迎えて平沢第一露営地で雪壕を掘って露営していた中、このまま凍傷で隊員が動けなくなることを危惧して帰営を決断し、深夜に出発を断行した(神田大尉は夜明け前に出発するのは危険と具申したが無視された)。平沢第二露営地では雪壕を掘るスコップを持つ隊員が落伍して、雪壕を用意することができず、すぐ出発することを神田大尉に具申されたが、今度は「出発は明るくなるまで待て。昨夜は夜中に雪壕を出たのが間違いだった」として、自分の非を認めつつも意見を退けている。
復路の鳴沢から馬立場へ向かうときに人事不省となり、指揮権を神田大尉へ戻し、自身はほかの隊員に支えられながら行軍。賽の河原手前で一瞬の晴れ間から青森湾が見え、伊藤中尉から「我々五連隊は雪の中を彷徨っていたのではない。間違いなく田茂木野へ向かっているのであります」と言われ、神田大尉と共に「前進!」と発した。この後、大峠方面へ向かう神田大尉らと分離し、倉田大尉、伊藤中尉らと共に駒込川方面を進み、救助隊によって救助された。
帰営時は救助隊のソリに乗せられて田茂木野へたどり着き、迎えにきた第五連隊長の津村中佐に全責任は自分にあると土下座で謝罪した。また、徳島隊が無事に雪中行軍を終えて帰営中であることを知った。これにより、自身の傲慢によって多くの遭難者を出し、神田大尉の意見をことごとく退けたことで危険にさらされ、我田引水で朝令暮改を重ねた愚かさを深く反省した。最期は搬送された青森市内の病院内で拳銃自決を遂げた。
モデルは倉石一大尉。
当初は八甲田雪中行軍に参加予定がなかったが、山田少佐の命令による随行隊に付くこととなった。
行軍本番中、往路では発言を控えていたが、進藤特務曹長の根拠なく田代は向こうにあるとする妄言を信じ、我田引水で朝令暮改を重ねる山田少佐に従い駒込川の峡谷に迷い込み、神田大尉が現在地を確認した段階で、即時帰営と神田大尉の指示通り駒込川支流に沿って西に進んで馬立場を目指し、自身と山田少佐が行軍の先頭に立つことを具申した。
平沢第二露営地で次々と隊員が力尽きていく様を見た神田大尉がすぐに出発する旨を山田少佐に具申した際には、慌てずに明日になれば天候もよくなるだろうとなだめた。
以降の行軍中は隊員を鼓舞し、神田大尉には「露営地で犠牲者の背嚢を集めて燃やした件と、重荷となるため半数の銃は叉銃にして八甲田へ残してきた件、これらは大隊本部が責任を持つ。今後は他のことを一切考えず、遠慮なく我が五連隊を先頭で引っ張ってくれ。そのそばには離れず、俺がいる」(復路の馬立場での出発前点呼をしている間)など、励ました。
馬立場から田茂木野への帰営時は伊東中尉を隊列の最後尾に付かせて、神田大尉が山田少佐の干渉を気にせず行軍の指揮ができる環境を整え、伊藤中尉には「大隊長に万が一(死亡)があればそれは連隊の全滅を意味するから、大隊長には部下の助けによって必ず生きて帰ってもらい、今回の大量遭難に至った顛末を大隊長自身に説明してもらう」と説明した。後に賽の河原付近で大峠方面を進む神田大尉らと分離し、駒込川方面を進む隊を伊藤中尉、山田少佐ら11名を率いて田茂木野を目指した。
モデルは興津大尉。
行軍本番中は永野三等軍医と共に倒れた兵の治療を行っていたが、鳴沢で自らのも力尽きて永野三等軍医と共に凍死した。
モデルは永井源吾三等軍医。
予備演習参加時は好天に恵まれ「凍傷どころか寒さを訴える者もいない。これじゃ軍医も用なしですな」と安堵する。
行軍本番前日に青森観測所(現在の仙台管区気象台管轄の青森地方気象台)を訪れて、行軍期間中の八甲田山付近の天候を確認。「優勢なる低気圧が太平洋岸を北上しており、それが昼頃青森県に近づき北西の風が強まってきたら天候の異変と考えて良い」との情報を得ていた。
行軍本番では、大峠で神田大尉、伊藤中尉らにこの情報を伝え行軍を中止して帰営することを進言したが、田村見習士官らの反対にも合い受け入れられず、直接の上官である山田少佐は悪天候にも関わらず独断で行軍を続行した。馬立場で小休止中は「負傷者・凍傷者はいないか。手足の指先を動かして確かめてみろ」と隊員に告げ、この先の五連隊行軍に支障が無いか確認した。平沢第一露営地出発時にソリ隊の兵卒が突如叫び声を上げて雪上に倒れ込むと、「下着が汗に濡れ、小倉生地の服に滲んでいた。雪壕を出た途端、寒さのためそれらが一瞬で氷になり、それによる凍死である」旨の診断を下す。最期は鳴沢で沖津大尉と共に凍死した。
モデルは田中見習士官。
大峠での小休止中に永野三等軍医の帰営の進言を「永野軍医殿は風速と気温の低下を低気圧のように言われるが、ここは平地ではなく山の上だからこの程度の風は当たり前だ。ここで行軍を中止し帰営したら雪中行軍を計画・準備した意味が無くなる」と反論し行軍続行を主張した。
モデルは今泉見習士官。
大峠での小休止中に永野三等軍医の帰営の進言を「これ以上の行軍が不可能だとは思えない。たとえ作戦が不可能な状況に遭遇してもそれを可能にするのが我々の任務だ」と反論、行軍続行を主張した。
モデルは佐藤特務曹長
往路の田茂木野にて小休止中に神田大尉を探す村長の作右衞門に声をかけられたが、神田大尉に取り次がず、山田少佐が村長と応対した。このことで、八甲田への突入に案内人が付かなくなった。
小峠の小休止中には永野三等軍医の帰営の進言を「兵卒の服は木綿の軍服だが我々と同じ羅紗の外套を1枚着用し、その上に予備をもう1枚持っている」と反論し、行軍続行を主張した。
馬立場の小休止中には山田少佐に八甲田には夏場に来たことがあり、馬立場から田代まで2キロであることを伝えた。この過去の経験をもとに、未明の暗い道を帰営途中に田代への道を知っていると言い出し、これを信じた山田少佐の命令で先頭に立った。この妄言を信じたことで、神田隊は本来の進路を大きく外れて駒込川の峡谷へ迷い込んでしまい、遭難状態に陥った。
最期は誤った道案内に気づいて錯乱し、駒込川へ飛び込んで凍死した。この後、神田隊は駒込川支流を西に進んだところで崖に行き当たり、これを登攀した神田隊は体力を奪われ、落伍者が増加した。
モデルは長谷川特務曹長。
往路・馬立場で小休止時は「やるなあ神田も、小峠から猛吹雪の中を迷うことなく馬立場まで7kmか」と言い、神田大尉は案内人なしでも八甲田雪中行軍を成功させるだろうと期待する。
連隊の隊員
モデルは青森第五連隊長であった津川中佐。
山田少佐から雪中行軍計画書の提出を受けた際に、神田隊のほかに上部組織になる大体本部が随伴することによる指揮系統の乱れを不安に思ったが、山田少佐の「三十一連隊は既に弘前を出発した」という報告により、「随行する大隊本部は行軍と無関係の編成外組織で、行軍隊の指揮は神田大尉が執る」ことを再確認したうえで木宮少佐同席の下、計画書に署名して決済印を押した。
五連隊雪中行軍隊結団式(ただし、下士卒は欠席)では「行軍隊・随行員計210名の中から、たとえ一人といえども落伍者その他を出さぬよう、万全の準備とその実施を希望する」と参加隊員に訓示した。
神田隊遭難後、救助隊員によって「遭難した五連隊雪中行軍隊の中から江藤伍長を含む12名の生存を確認し救出した」との報告を受け、五連隊幹部を引き連れて田茂木野へ迎えに出向いた。このとき、山田少佐から謝罪を受け、自身は山田少佐らに三十一連隊(徳島隊)が八甲田を踏破したことを伝えた。
  • 木宮(きのみや)少佐(連隊本部):神山繁
神田大尉と山田大隊長より提出された「五連隊雪中行軍計画書」の内容審議に同席し、津村連隊長が計画書の決裁をするための署名捺印準備を行った。
1月25日に神田隊が三本木に到着しているかの確認を三本木警察(現在の青森県警察十和田警察署)に電話確認し、「五連隊は昨日(1月24日)の午後4時に無事三本木へ着いた」という返答をもらい安堵したが、当の神田大尉や山田少佐からの報告がないことを不審に思い、三本木で神田・徳島の両隊がすれ違うはずと考えた津村中佐の命で再度、三本木警察に安否確認を行った。すると、三本木に到着したのは神田隊ではなく徳島隊であって、翌朝に増沢へ向かったと判明した。このことで、神田隊は八甲田で遭難したのではないかと心配し、これを受けた津村中佐は第四旅団すべての連隊長、大隊長、中隊長を緊急招集した。
神田隊の遭難判明後は、田茂木野の民家と倉庫を借りる形で遺体安置所と捜索隊詰所を設け、そこで捜索活動の指揮を執る。救助隊伝令の花田伍長より江藤伍長発見の報告を受け取っている。
捜索隊詰所に八甲田を踏破した徳島隊の徳島大尉が訪れ、徳島隊の全員生還を伝えられ、鳴沢から賽の河原にかけての広範囲に神田大尉以下の五連隊隊員の遺体を多数発見の報告を受けた。既に23体の遺体を1月28日(徳島隊打擲前日)に収容していたため、徳島大尉を神田大尉の遺体が安置されている遺体安置所へ案内した。
数日後に友田少将と中林大佐へ創作活動報告書を提出。「遭難した五連隊雪中行軍隊の中から江藤伍長を含む14名の生存を確認し救出したが、うち2名は懸命の手当ても空しく救出後に死亡。よって生存者は12名となった」と報告した。
モデルは三神定之助少尉。
大峠まで地元住民を案内人として雇って救助隊を率いた。猛吹雪にさらされて瀕死であった江藤伍長を発見した。救助後の江藤伍長の報告をもとに「遭難した五連隊雪中行軍隊の中に生存者がいる可能性はあり得ない」と津村中佐らに報告している。
救助隊の伝令を務めており、江藤伍長発見の報を木宮少佐らに届けた。その際に、江藤伍長の言から「雪中行軍隊は山田大隊長・神田中隊長以下全滅の模様。引き続き付近を捜索中であります」と報告した。

雪中行軍隊の家族・親族[編集]

青森第五連隊の神田大尉の妻。行軍出発前日、夫に「携帯懐炉は5・6日分用意してくれ」と言われ、多めに携帯懐炉を用意した。
劇中終盤では、田茂木野に設けられた夫の遺体安置所で「最期の別れがしたい」と訪れた第三十一連隊の徳島大尉を出迎え、「夫は『八甲田で三十一連隊の徳島様に会うのが今回の雪中行軍の楽しみ』と申しておりました」と伝えた。これに徳島大尉は「間違いなく自分は、雪の八甲田で会いました」と告げている。
弘前第三十一連隊の徳島大尉の妻。
青森に自宅があり、第三十一連隊の斉藤伍長と第五連隊の長谷川一等卒の伯母。雪中行軍前に伯母宅で斉藤伍長と長谷川一等卒が会うはずだったが、斉藤伍長の都合で会うことができなかった。そのため、「出来れば弟(長谷部一等卒)は八甲田雪中行軍に参加しないほうが良い」という伝言を受け、長谷川一等卒に伝えた。長谷川一等卒の行軍参加については自身も心配していた。

案内人たち[編集]

宇樽部(現在の十和田市奥瀬十和田湖畔宇樽部)と実家がある戸来(現在の三戸郡新郷村)鹿田地区の往復時に冬の犬吠峠越えをした経験が二度ある。徳島隊の案内人となり、宇樽部から中里まで徳島隊を案内した。中里で徳島隊と別れ、実家へ帰省。
熊ノ沢部落の4名は、徳島隊の案内人となり、増沢から田茂木野まで案内した。途中、八甲田山中で第五連隊隊員の遺体を発見した場に居合わせており、案内終了後に徳島大尉より「八甲田で見たことは(親・兄妹含む身内へも)一切口外してはならない」と諭された。

その他[編集]

田茂木野村(現在の青森市田茂木野)の村長。
神田大尉らが行軍本番前調査に訪れた際に冬の八甲田山を越えることの危険性を説いた。
行軍本番では、山田少佐と会って案内を申し出るがこれを断られ(神田大尉が気づいた時には却下された後であった)、八甲田に突入する神田隊らを見送り、無謀な行軍であると嘆いた。
滝口さわの義父(嫁ぎ先の父)。徳島大尉に決して無理をせず、さわがこれ以上峠を越えられないと言えば引き返すようにお願いした。挨拶の際には、さわには銀山(現在の秋田県鹿角郡小坂町)で働く夫(伝蔵の息子)がおり、生まれたばかりの子がいると語っている。
  • 鈴木貞雄(三本木の宿の主人):田崎潤
第三十一連隊の門間少佐から「1月25日は五連隊(神田隊)が三本木に到着しているはず」との伝言を電話で受け、これを徳島大尉に伝えた。
中里に到着した徳島隊が雪壕を掘っていたところに、村の家に泊まるよう勧めた。徳島大尉はこれを断っている。
モデルは史実の弘前第三十一連隊の雪中行軍隊に従軍した東奥日報記者の東海勇三郎。
徳島隊と共に10泊11日の雪中行軍を行った。八甲田を越えて青森市内へ入ったところで取材を終了し徳島隊と別れ、東奥日報本社へ戻って第三十一連隊雪中行軍取材の内容を新聞記事にまとめた。

史実との違い[編集]

  • 原作もそうだが、青森と弘前の両連隊の雪中行軍で八甲田で会う約束をしたことはない。またお互いに連絡しあったこともなく、たまたま偶然に3日違いで出発している。
  • 弘前の連隊と青森の連隊との競争意識の中で、編成などが後手に回った青森側が無理をしたことが原因の一つと設定されたが、史実では二つの連隊間で競争を行ったわけではない。
  • 三國連太郎演じる山田少佐(史実では山口少佐)が無謀な上司として描かれている点は創作で、そのことからも登場人物はすべて仮名となっている。
  • 青森の連隊の硬直した組織が遭難原因のひとつとされている点も創作である。
  • 神田大尉と徳島大尉とが酒を酌み交わしながら八甲田での再会を約すシーンはフィクションである。弘前隊が青森隊の遺体を見る場面は実際には無かったとされていたが、のちに福島(徳島)大尉が遺体発見を捜索隊に報告した記録が発見され、当時発行直後に訂正された(訂正させられた)「五連隊の惨死者を発見」という、弘前隊に同行した東奥日報の記事も本当であったことが分かった[2]
  • 神田大尉と徳島大尉とも雪中行軍の経験があることになっているが、神成(神田)大尉は実際は経験がなく、また雪中行軍の指揮をとることになったのは行軍の直前であった。
  • 青森隊最高責任者であった山田大隊長は生還後ピストルで自殺したが、公的な記録では心臓マヒで死去している。両手とも凍傷で指が使える状態では無かった。また発見されて病院に入って、次の日に亡くなっていることから、クロロフォルムを使った薬殺説もある[3]
  • 原作では、徳島大尉と衝突した案内人達の悲壮な末路が描写されているが、映画では案内人との揉め事はあまり重点を置いて描かれず、逆にさわ女(秋吉久美子)に対して敬礼する場面が描かれるなどされていた。しかし実際は福島(徳島)大尉は案内人に対してかなり厳しい態度で接したと見られ、八甲田で見たことは喋ってはならないと脅された上に、田茂木野で休息なしで引っ返して、凍傷に苦しめられ、生還後の補償も無いままであった。軍はあくまで軍内部で処理して、外部には一切洩らさなかった。
  • 雪中行軍隊が到着したかを青森連隊から三本木警察に電話で問い合わせるシーンがあるが、この当時に電話はなく、実際には電報を用いた。

サウンドトラック[編集]

LPではA面に「第一部 白い地獄」、B面に「第二部 大いなる旅」がそれぞれ収録されていた。2009年にディスクユニオンのレーベル富士キネマよりCDで再発された(規格品番FJCM-006)。

シングル[編集]

  • 作詞:山川啓介
  • 作曲:芥川也寸志
  • 編曲:若草恵
  • 歌:五堂新太郎
  • 収録曲:
    1. 『春には花の下で』
    2. 『大いなる旅』

両曲共にサウンドトラックのテーマ曲に歌詞をつけたものである。上述のCDにボーナス・トラックとして収録された。

エピソード[編集]

  • 青森市幸畑字阿部野にある「八甲田山雪中行軍遭難資料館」では「ミニシアター」コーナーにて当映画を解説付きで上映している。
  • 進藤特務曹長らが迷い込んだ駒込川本流の峡谷には「駒込ダム」の建設が現在進められており、当映画に登場した駒込川峡谷・田代元湯・鳴沢はじめ支流にある沢の一部は将来ダムの底へ沈む。
  • 当初、神田大尉役は渡哲也がオファーを受けていた。[要出典]また、山村聡も出演するはずだった。(一部のポスターでは、山村の名前が入る物もある)
  • 脚本を書いた橋本忍は、当初群馬県の温泉地で撮れないものかと考えていた。しかし野村芳太郎森谷司郎と八甲田の山々を歩いて見て、ここで撮るしかないと考えを変えた。野村芳太郎から「映画には空気が映る」と言われていたからという[4]
  • 撮影の木村大作は思うような撮影の技術が発揮できず、不満が残った。映像は端正といえず、青森隊が露営する場面では白い雪を背景に兵士たちの顔が黒く潰れている。雪の山道では大きな照明道具を持参することが出来ず、小さな手持ちライトだけで顔に当たったり外れたりしていたという。また内容も兵隊が雪の中で死んでいくだけでは、ヒットするとは思えなかったという[5]
  • 実際に真冬の八甲田山ロケを敢行し、日本映画史上類を見ない過酷なロケとして有名になった。遭難現場は八甲田山北東斜面だが、ロケは八甲田山北西の寒水沢酸ヶ湯温泉付近や岩城山長平奥入瀬などでも行われた。実際に数名の俳優がその過酷さに耐えられず脱走した。[要出典]また裸で凍死する兵卒を演じた俳優の肌が紫色に映っているのはメイクではなく本当に凍傷になりかけたためという話も残っており[6]主役級も含めて俳優たちの出演料も決して高額ではなかった。[要出典]主役の高倉健は3年に渡る撮影に集中するためマンションとベンツSLを売り飛ばして生活した。この過酷な撮影は当時カメラマンだった木村大作にも大きな影響を与えたと言われている[7]また、高倉健もこの撮影で足が軽度の凍傷になってしまったという。[要出典]
  • ラストシーンで登場する青森歩兵第5連隊の村山伍長(モデルは村松伍長)は実際には八甲田山ロープウェーが開業する前に死去している。
  • 本作は初め東映に持ち込まれたが、明治物は当たらないという映画界の傾向を無視できなかった岡田茂が「そんな蛇腹(明治時代の軍服)の話が受けるかい」と承認しなかったため、東宝で製作されることとなった[8]

テレビドラマ版[編集]

八甲田山
ジャンル テレビドラマ
放送時間 火曜21:00 - 21:55(55分)
放送期間 1978年4月4日 - 1978年5月9日(6回)
放送国 日本の旗 日本
制作局 TBS
演出 森川時久
原作 新田次郎「八甲田山死の彷徨」
脚本 長尾広生
出演者 中山仁
村野武範
ナレーター 山本學
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1978年4月4日から5月9日まで毎週火曜日21:00 - 21:54 (JST) にTBS系列火曜21時枠で放送された。全6回。

映画の大ヒットを受けてテレビドラマ化したもので、大竹まことなど映画版に出演した俳優が数人出演している。

放映リスト[編集]

  • 第一話:「眼前の危機」
  • 第二話:「飛雪・裏八甲田」
  • 第三話:「混乱雪譜」
  • 第四話:「死の彷徨」
  • 第五話:「白炎燃ゆ」
  • 第六話(最終話):「終わりなき雪」

スタッフ[編集]

キャスト[編集]

司令本部
青森第5連隊
弘前第31連隊
その他の軍人
案内人
家族・周辺の人びと

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※は映画版にも出演。

脚注[編集]

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  1. ^ a b 『キネマ旬報ベスト・テン全史: 1946-2002』 キネマ旬報社、2003年、223頁。ISBN 4-87376-595-1
  2. ^ 零下40度の体感を撮れ 「八甲田山」朝日新聞2014年11月18日(外部リンク)
  3. ^ 零下40度の体感を撮れ 「八甲田山」朝日新聞2014年11月18日(外部リンク)
  4. ^ 零下40度の体感を撮れ 「八甲田山」朝日新聞2014年11月18日(外部リンク)
  5. ^ 零下40度の体感を撮れ 「八甲田山」朝日新聞2014年11月18日(外部リンク)
  6. ^ 兵卒役を演じた原田君事のホームページには、体験記として「東宝映画「八甲田山」の撮影のとき、体感温度零下30度、雪の中でフンドシ一丁になって、狂い死にのシーンを演じたとき、肌は一瞬にしてこげ茶色になり、歯はかみ合わずぶるぶると震えていたが、監督の「よ-い!」の一言で震えはピタっと止まった事を覚えている。」との記述がある。
  7. ^ 零下40度の体感を撮れ 「八甲田山」朝日新聞2014年11月18日(外部リンク)
  8. ^ 高岩淡. “第6章 松坂慶子 - 情熱のひと”. 銀幕おもいで話 (第1刷 ed.). 双葉社. p. 145. ISBN 978-4-575-71401-2. 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]