八甲田山 (映画)

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八甲田山死の彷徨 > 八甲田山 (映画)
八甲田山
監督 森谷司郎
脚本 橋本忍
製作 橋本忍
野村芳太郎
田中友幸
出演者 高倉健
北大路欣也
加山雄三
三國連太郎
音楽 芥川也寸志
撮影 木村大作
編集 池田美千子
竹村重吾
製作会社 橋本プロダクション
東宝映画
シナノ企画
配給 東宝
公開 日本の旗 1977年6月4日
上映時間 169分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
配給収入 日本の旗 25億900万円
(1977年邦画配給収入1位)[1]
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八甲田山』(はっこうださん)は、新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』を原作とする日本映画。橋本プロダクション・東宝映画シナノ企画の製作で1977年に公開された。テレビドラマ版についても併せて記述する。

概要[編集]

1902年明治35年)に青森連隊が雪中行軍演習中に遭難し、210名中199名が死亡した事件(八甲田雪中行軍遭難事件)を題材に、一部創作を加えた作品である。

極限状態での組織と人間のあり方を問いかけ、短い上映期間にもかかわらず日本映画として配給収入の新記録(当時)をマークした。高倉健北大路欣也主演。北大路の台詞「天は我々を見放した」は当時の流行語になった。監督は森谷司郎、音楽は芥川也寸志で翌1978年3月の第1回日本アカデミー賞音楽賞を受賞している。

出演者[編集]

弘前歩兵第三十一連隊[編集]

雪中行軍隊
  • 徳島大尉(第1大隊第2中隊長・モデルは福島泰蔵大尉):高倉健
    劇中では「南津軽郡石川町(現・弘前市)乳井出身、自宅は弘前市富田。養母が黒石市北田中にいる」という設定。岩木山での雪中行軍を実施した経験があり、冬山・寒冷地・積雪地における行軍を成功させるための様々な工夫をしてきた(特に「雪壕を掘っての露営」は既に岩木山雪中行軍本番で実践していたため、八甲田雪中行軍本番にもそれを組み込んだ)。これが「装備を軽くした少数精鋭編成」へと結びつき、三十一連隊八甲田雪中行軍を一人の落伍者なく成功させる原動力となる(五連隊の神田大尉も行軍本番前に岩木山雪中行軍について徳島大尉より情報収集をしていた。だが実際の五連隊雪中行軍本番ではこの知識が何一つ役に立たず、最終的に「荷物が多い210名の大編成」となる神田隊は「凍死による199名もの落伍者」を出す。神田大尉の上官である大隊本部の山田少佐は本番前に三十一連隊行軍計画書を閲覧した時「徳島隊の行軍計画は強引で無謀すぎるから、とても成功するとは思えない」と威張って徳島隊への対抗意識を強めていたが、本番ではそのような自信とは裏腹に「中隊の指揮は神田大尉へ一任する」と書いた五連隊行軍計画書とは180度異なる「神田大尉より指揮権を奪う」邪道へ走り、大量遭難による五連隊自滅の原因を作ることになる)。
    第四旅団司令部における「雪中行軍作戦会議」終了後は(岩木山雪中行軍を実施した自らの経験をもとに)「天候に恵まれた一度や二度の経験は何の役にも立たない」と神田大尉へ言い、「悪天候など万一の事態に遭遇しても命を守る備えを確実にする」よう暗に諭す(のちに神田大尉が実施した「小峠までの五連隊行軍予備演習」は好天に恵まれたため、五連隊雪中行軍参加者は「八甲田における本当の雪の怖さ」を知らないまま行軍本番に臨み、予備演習では想定外だった「悪天候」・「ソリ隊の大幅遅れ」・「ソリを放棄し人の背による荷物運搬」・「山田少佐の度重なる我田引水と朝令暮改による指揮系統の乱れ」により「大量遭難」という最悪の結末に至る)。
    行軍本番前には自身が実施した「岩木山雪中行軍」内容学習のため弘前の自宅を訪れた神田大尉を出迎える。「(徳島大尉宅での)雪中行軍事前勉強会」席上では「五連隊はあなた(神田大尉)のような熱心な方がいるから『大まかな行軍経路決定』段階まで準備が進んでいるようですが、我が三十一連隊はまだ行軍経路すら決まっていません」と前置きしたうえで、「我が三十一連隊が八甲田(雪中行軍)をやるとなれば、編成は小隊編成になるでしょう。大人数で(冬の八甲田を越すの)は無理だから少数精鋭主義にします。行軍本番の装備は極力軽くし、全旅程は民泊とする=現地の民家に泊めてもらうつもりです。上から命令されれば装備や予算など色々ねじ込まれる(トップダウンで強制される)から、師団の旅団長・参謀長は『雪中行軍はあくまで連隊の責任で行う』という姿勢です」と述べ、自身の岩木山雪中行軍実施経験をもとに「装備を軽くした小隊編成でないと冬の八甲田は越せない。大人数での雪中行軍は遭難の危険性が高い」旨を神田大尉に教示して冬山の危険を警告する(この段階で五連隊は行軍経路こそ決まっていたものの、「小隊」・「中隊」どちらの編成にするかまでは決まっていなかった。神田大尉は徳島大尉からの忠告に基づき「五連隊行軍も小隊編成にしたい」と考えたが、徳島隊への対抗意識を強めた上官・山田少佐にその上申が却下され「五連隊行軍は中隊編成&大隊本部随行で実施する」よう命ぜられ、本番では「随行した山田少佐の度重なる我田引水&朝令暮改」が神田大尉を悩ませ、これらが悲劇の引き金となる)。
    行軍計画書を門間少佐と児島大佐に提出した時は「冬の八甲田は調査をすればするほど恐ろしい。日本海太平洋の風が直接ぶつかり、冬の山岳としてはこれ以上ない最悪の地帯です。おそらく今後30年・50年・100年経っても冬の八甲田は頑として人を阻み、通ることを許さないと思います。自分は第四旅団司令部で冬の八甲田を安請け合いしたことを後悔し、『この雪中行軍はやめるべき』との意見具申を前々から考えていました。自分は八甲田をやめ雪中行軍は岩木山に変更するつもりです。しかし、五連隊は神田大尉を指揮官として冬の八甲田へ挑む。自分も八甲田に行かねばなりません」と言い、「あくまで指揮官である自身の責任で八甲田雪中行軍を遂行する」意思を強調する。
    行軍本番前には「行軍経路の下調べ」・「現地での案内人手配と宿営地・食糧・消耗品調達の交渉」を年末年始休暇返上で行うよう部下の隊員に命じる(劇中では銀山で働いた経験がある佐藤一等卒と増沢出身の小山二等卒がこれら下調べと宿営地などの交渉を担当)。一方で五連隊は「田代と増沢への宿営は自分たちだけで行う」計画としたため本番前の下調べ・宿営地交渉を全く行わず、かつ消耗品・食糧・炊事用具などを行李輸送隊ソリに積んだため荷物が多くなり、これが「ソリ隊大幅遅れ」と「五連隊の大量遭難」に繋がった。
    徳島隊雪中行軍隊結団式では、「水筒の水は満水にせず七分目まで入れ絶えず動かしていれば凍らない、人間の体もそれと同じだ。たとえ小休止といえども足の指は靴の中で動かし、手袋をはめた指も必ず動かす」と行軍時における注意事項を訓示し、「凍傷にかかる」・「生命線となる飲料水や食糧を凍結させる」・「身体や装備を濡らして雪風にさらし凍傷や凍死の原因を作る」・「冬山で汗をかく」というこれら行為がいかに危険であるかを参加隊員へ繰り返し言い聞かせると共に、「冬山で汗をかいた時に備えて替え=予備の下着や靴下を必ず持参して凍傷を防ぐ」よう呼びかける(三十一連隊の雪中行軍隊結団式には参加27名全員が出席し、その席上では行軍本番で参加隊員が装着・携行する各種装備の見本を展示。五連隊の神田大尉も徳島大尉同様「行軍の注意事項事前説明」を参加者に行うものの、参加人数が210名と大規模であるため結団式には山田少佐・神田大尉・各中隊長及び小隊長・見習士官・随行大隊本部員のみ出席し186名の下士卒は欠席したこと、大半の下士卒が行軍用品注文の電話応対に追われていたこと、徳島大尉の勧めで実施された予備演習が好天に恵まれ「雪の中の遠足」感覚で行われたため「これなら本番も大丈夫だろう」と雪中行軍を甘く考える者が多かったことから注意事項は隊員隅々まで行き渡らず、本番では水筒の水・携帯食糧・汗だくになった軍服や下着を凍結させてしまう者が続出する=携帯食糧を油紙に包み身体に巻きつけて体温で温めていた者は凍結させず無事食せたが、逆に背嚢に食糧を入れていた者は凍結させて全く食せなかった。また五連隊は「行軍中は一切睡眠禁止」とも規定されていて元から本格的休憩を取ることは想定しておらず、十分な装備と準備を欠いていた)。
    行軍本番前には神田大尉へ宛てた手紙を速達で出し、その文面に「我が三十一連隊は1月20日に弘前を出発します。貴隊(五連隊)の予定がまだ決まっていないので詳細はわかりませんが、我が三十一連隊が八甲田を通過する頃に貴隊(五連隊)も八甲田へ進出かと思われます。我が三十一連隊行軍経路で最も困難な区間は『増沢から田代・馬立場・賽の河原にかけての八甲田東南山麓』と推測されます。もし貴隊=五連隊と八甲田ですれ違った時、我が三十一連隊が危険かつ困難な状態に陥っている場合、どうか武士の情けでお助けを宜しくお願いします」と書いた。しかし「徳島隊経路で困難な区間」とされた場所は「五連隊の行軍経路」そのものでもあり、「最も遭難の危険性が高い区間」を神田大尉へ暗示している(だが手紙を受け取って読んだ神田大尉は上官・山田少佐の「我田引水=暴走」を止められなかったため、徳島大尉の暗示を行軍本番に生かせず結局は大量遭難者を出してしまい、徳島大尉は神田大尉はじめ五連隊雪中行軍参加隊員の遺体を多数発見することになる)。
    徳島隊は1月20日の朝5時に弘前の屯営を出発。行軍中は軍歌「雪の進軍」を斉唱して隊員の士気を高める(この軍歌斉唱は五連隊も同様に実施したが、田茂木野以降では軍歌斉唱場面が殆ど見られず、やがて猛吹雪・寒さ・疲労のため軍歌を斉唱する気力は潰えていく)。加えて「行軍中の勝手な行動は一切厳禁」とし、防寒着の装着なども全て「自身(徳島大尉)の指示・命令が出てから行う」よう参加隊員に徹底させる(「指揮官の命令に逆らうなど勝手な行動をする者・及び体調不良などによる落伍者が一人でも出たら行軍隊は全滅する」旨が岩木山雪中行軍実施を通じてわかっていたため、徳島大尉は上官も驚くほどの綿密な計画を立てた上で冬の八甲田へ挑む)。
    三十一連隊の雪中行軍は研究目的という位置づけから参加隊員を「冬山に習熟した地元青森出身者(従軍記者含む)28名」と少数精鋭にして荷物は必要最小限とし、ほぼ全行程で案内人を雇って宿営と消耗品・食糧の補給は現地の民間へ委託。これが奏功し指揮系統も最後まで乱れなかった(徳島大尉からの指示が参加隊員一人ひとりに隅々まで行き届いた)ことから、故障のため三本木より中途帰営させた松尾伍長を除く参加者全員が一人も落伍せずに雪中行軍を無事完遂した(神田隊とは異なり徳島大尉は「地図は宿営地でのみ広げ行軍本番中は地図を殆ど見ず、かつ方位磁石も使わない」方法を採り、ほぼ全行程を現地で雇った案内人に従って行軍。「方位磁石や地図は雪中行軍で極力使わず、現地で案内人を雇ってその指示に従って行軍したほうが良い」旨は岩木山雪中行軍の実施を通じて学習し、神田大尉にも本番前にそれらを進言したものの、五連隊雪中行軍には活かされなかった)。増沢から田代への行軍中は猛吹雪で田代温泉への道を見つけられなかったが、この時は途中で雪壕を掘って露営し、案内人が避難小屋を見つけるまで一行は露営地にとどまった(神田隊・山田少佐のような「深夜に雪壕を出る」という命令は決して出さず、出発は夜明けまで待った。このため三十一連隊の行軍全日程は予定より二日延びて「12泊13日」となる)。
    行軍実施前に(岩木山雪中行軍内容学習のため)弘前の自宅(徳島大尉宅)を訪れていた神田大尉とは「いつか雪の八甲田のどこかで会う」旨を約束したが、その本番で見つけた神田大尉は既に死亡(大量遭難を引き起こした責任を取って舌を噛み切り自決)し再会は幻に終わる。
  • 児島大佐(連隊長・モデルは児玉大佐):丹波哲郎
    明治34年10月に(三十一連隊より児島大佐・門間少佐・徳島大尉らが、五連隊より津村中佐・木宮少佐・神田大尉・山田少佐らがそれぞれ出席して)弘前の第四旅団司令部で行われた「日露戦争に備えての雪中行軍作戦会議」終了後、「第四旅団雪中行軍は五連隊が青森より・三十一連隊が弘前よりそれぞれ出発し、八甲田で両隊がすれ違う形にしてはどうか」と津村五連隊長へ提案、翌明治35年1月下旬に実行される運びとなる。
    五連隊が消息を絶った旨が判明すると「徳島隊の雪中行軍は直ちに中止せよ」と命じたが、指揮官である徳島大尉への「雪中行軍中止命令」伝達手段が無かったことから、徳島隊(三十一連隊)は神田隊(五連隊)の遭難を知らないまま増沢より八甲田へ突入する(だが徳島隊は本部にいる連隊幹部の心配をよそに、途中雪崩や猛吹雪に遭いながらも諦めず前進。荷物を減らし従軍記者含む28名の小隊編成としたおかげで落伍者を誰一人出さず厳寒の八甲田を踏破した。なお元山峠から銀山への下り坂で転倒し足を捻挫した松尾伍長は手前の宿営地三本木で行軍隊より外され、八甲田を通らず汽車で弘前へ帰営)。
  • 門間少佐(第1大隊長):藤岡琢也
    徳島大尉より行軍計画書の提出を受けた時は「説明は連隊長(児島大佐)と一緒に聞く」と言い、児島大佐同席のもと徳島大尉本人より「三十一連隊雪中行軍経路とその参加人数の説明」を受ける(この時徳島大尉は「三十一連隊と五連隊が八甲田ですれ違うためには『弘前-小国-切明-白地山-元山峠-十和田湖-宇樽部-中里-三本木-増沢-八甲田-青森-弘前』という迂回以外に選択枝がありません。我が三十一連隊がこのような長距離行軍となったのは、五連隊と八甲田で会う約束を提案した連隊長殿の責任です。もしこの計画を無謀だと思われるのなら五連隊との約束を考え直して頂きたい。でも今さらその約束を反故には出来ないでしょう。どうか行軍隊の編成をよろしくお願いします」と、10泊11日・全長240kmの長距離行程に至った理由を説明)。参加人数が(従軍記者西海勇次郎を除く)27名と少数である旨を聞かされると「中隊どころか小隊にもならない」と行軍参加者人選に疑問を抱く(児島大佐も「兵卒はたった6名で残りは下士官と見習士官の寄せ集め。これではとても軍隊の編成とは言い難い」と疑問を抱くが、徳島大尉は「下士官・見習士官に重点を置いたのは、この雪中行軍が『研究に主眼を置いたもの』であり、自ら望んで軍人になった者ならばいざという時、国民にもその残された家族にも申し訳が立つと思ったからです」と反論し、上官からの指示ではなく「指揮官である自身の責任で小隊を編成する」旨を強調。こうした少数精鋭の小隊編成は結果として「落伍者を誰一人出さずに八甲田雪中行軍を成功させる」原動力となる)。
    1月25日になると(徳島隊宿営地となる)三本木の宿へ「予定では神田隊が三本木に着いているはず」という電話を入れ、それを受けた宿の主人が(門間少佐が電話口で話した)内容をメモして徳島大尉へ伝言する(しかしこの時点では「神田隊が八甲田で消息を絶った」旨が伝わっておらず、徳島隊は三本木で宿営した翌朝に増沢へ出発。神田隊が安否不明の中、徳島隊は冬の八甲田へ突入する)。
    五連隊(神田隊)が八甲田で消息を絶った旨が判明すると「徳島隊の雪中行軍は直ちに中止を。神田隊が安否不明という状況下では徳島隊の八甲田突入をやめさせるべき」と児島大佐に上申する(児島大佐も「徳島隊の雪中行軍は直ちに中止する」命令を出すが、徳島大尉本人への行軍中止命令伝達手段が見つからず手をこまねいてしまう)。
  • 田辺中尉:浜田晃
    行軍本番中は徳島大尉からの指示を復唱し、隊員隅々まで指揮官の指示が行き届くようにする。
    中里の集落に入ると「中隊長殿、案内人を最後尾に」と上申する(しかし徳島大尉は「いや、このままでいい」と言い、加賀二等卒が喇叭を吹奏するまでの間は今の隊列を維持する)。
  • 高畑少尉:加藤健一
    本番前の「三十一連隊雪中行軍隊結団式」では、経路の事前調査と宿営地・案内人などの交渉を担当した佐藤一等卒と小山二等卒からの報告をメモする。
    本番では小国から琵琶の平を経て切明への行軍中「後尾に付け」と徳島大尉に命ぜられ、隊列の最後尾に付く。
  • 船山見習士官(気象担当):江幡連
    銀山から宇樽部までの行軍中に実施した気象観測では「気温が6度も急降下し風も急に強まってきているので、これは本格的な大暴風雪の前兆ではないか」と徳島大尉に報告する。なお行軍中は「風向・風速を測るための吹き流し付き竹棒」と「積雪の深さを測る竹棒」をそれぞれ背嚢に固定すると共に、現在地の気温を測る温度計を携帯している(気温は「手元の温度計で測った温度」と「体感温度」の2種類を測定・報告)。
    銀山から宇樽部への行軍中は「(足を捻挫した松尾伍長を背負う)川瀬伍長の銃を持ってやる」よう徳島大尉に命ぜられる。
  • 長尾見習士官(疲労度調査):高山浩平
    元山峠から銀山への行軍中、下り坂で転倒した松尾伍長に「どうした!?、大丈夫か?」と声をかける。
  • 倉持見習士官(装備点検):安永憲司
    小休止中及び宿営場所において各隊員の装備・服装に損傷がないか、さらに体調不良者がいないかを点検し、装備・服装に損傷がある場合は宿営地にある売店にて新品を購入させる(特に宇樽部での宿営時は翌日に控えた犬吠峠越え行軍に備え、参加者全員が「濡れた軍服・下着・靴下・軍靴を干して囲炉裏の火で乾かす行動」と「かんじき・藁の雪沓・服装などに損傷が無いかの点検」を自主的に励行。八甲田手前の三本木では殆どの隊員が新品の藁沓・かんじきや指先の凍傷防止に用いる唐辛子などを購入。一方で神田隊は行軍本番中の装備品点検を一切させておらず、かつ「『猛吹雪と深い積雪でソリ隊が大幅に遅れ、最初の宿営地田代へ着く前に日没を迎える』という予想外の事態が重なった」ことから損傷した装備・服装は新品と交換出来ず、厳寒が痛んだ装備を貫いて直接身体に染み渡ったこと。加えて予備の下着や靴下も持参していなかったため神田隊の行軍参加者は冬山で汗をかいても下着の替えが無く、冬山でかいた汗は猛吹雪の八甲田山中で瞬く間に凍結し、それらをきっかけとした凍傷による死傷者が数多く出る)。
  • 斉藤伍長(歩測担当):前田吟
    青森五連隊長谷部善次郎一等卒の兄。徳島大尉の部下として岩木山雪中行軍に参加した経験がある。「弟の善次郎は幼い頃宮城県築館町(現・栗原市)へ養子に出されたため雪の怖さを知らない」及び「五連隊の雪中行軍参加者は積雪量の少ない岩手・宮城両県出身者で構成され本当の雪の怖さを知らない者が多く、この状態では八甲田で遭難する危険性が高い」旨を知っていたため、行軍本番前に「自分は岩木山雪中行軍にも参加したことがあるので今回の八甲田雪中行軍に志願しないわけにはいかないが、弟・善次郎は出来れば今回の八甲田雪中行軍には参加しないほうが良い」旨を青森の叔母へ伝言させる(長谷部一等卒は叔母の家へ行くも兄には会えず、神田大尉宅で風呂を沸かしながら斉藤伍長からの伝言内容を神田大尉に報告。神田大尉は「お前の兄の言う通りだ。もし怖いと思うなら長谷部は今回の八甲田雪中行軍に参加しなくて良い」と返答するが、「従卒の自分が出なければ指揮官として行かれる神田大尉に失礼」と思い、さらに「『八甲田で五連隊と三十一連隊がすれ違う』との噂を聞き、今回の行軍に参加すれば八甲田で久々に兄・斉藤伍長と会える」という期待を膨らませて八甲田雪中行軍へ参加)。
    本番前には「自分は1月20日に弘前を出発するが、八甲田雪中行軍は一歩間違えると『生きて帰れない雪地獄』にはまり込むから、出発前に青森の叔母の家で別れがしたい」と書いた手紙を弟(長谷部一等卒)に宛てて出す(それを受け取って読んだ長谷部一等卒は、兄の斉藤伍長と青森の叔母に会うため「外出届け」を神田大尉に出す)。
    行軍本番では歩測調査を担当し、次の小休止場所及び宿営地までの歩数を正確に数えて記録する。
    中里から三本木への行軍中にはふだん切れないはずの雑嚢の紐が切れ、このことで弟(長谷部一等卒)の死を確信(しかし徳島大尉は「弟の死は貴様の思い過ごしで、疲労が重なったことによる幻覚作用を起こしているのだ。三本木に着いたら十分な休憩を取らせてやる」と斎藤伍長の言い分を突っぱねる)。やがて八甲田で実際に弟の凍死体を発見する(劇中では長谷部一等卒の変わり果てた姿を見て「自分が先に弘前へ行かなければならなかった。善次郎に会って兄である自分から雪の怖さを直接伝えられず悪かった」と号泣し、「最愛の弟を背負って帰りたい」と徳島大尉に懇願する。しかし徳島大尉は「弟の亡骸を背負って帰りたい気持ちはよくわかる。だが弟を背負った斉藤伍長が倒れればそれを助ける者もまた倒れ、我が三十一連隊は全滅する。八甲田から田茂木野まではまだ数多くの難関があるから、弟はここで静かに眠らせておいてやれ。後日救助隊が遺体を収容しに来る」と強く慰留。徳島隊一行はその後整列し、長谷部一等卒の遺体に黙祷を捧げる)。
  • 松尾伍長:早田文次
    元山峠から銀山への行軍中に下り坂で転倒し足を捻挫。このため中里への宿営時は自分たちで掘った雪壕ではなく現地の民家へ泊まり、八甲田手前の三本木にて行軍隊より外され汽車で弘前へ帰営する(徳島大尉は「重荷になる者はたとえ一人といえども冬の八甲田へ行かせない」方針を最後まで貫き、これが「落伍者を一人も出さず八甲田雪中行軍を成功させる」原動力となる)。
  • 川瀬伍長:吉村道夫
    銀山から宇樽部への行軍中「(元山峠から銀山への下り坂で転倒し足を捻挫したため自力で歩けなくなりつつあった)松尾伍長の背嚢などを持ってやる」よう徳島大尉に命ぜられる。
  • 佐藤一等卒:樋浦勉
    小山二等卒と共に行軍実施前の宿営地交渉と経路事前調査を担当(これら調査は年末年始休暇返上で実施し、佐藤一等卒は「銀山の民宿経営者が三十一連隊の宿営を二つ返事で引き受けてくれた」旨と「『銀山から宇樽部までは18km。現地の積雪は約2mあり、風はその日次第で今は何とも言えない』との情報を地元住民より得た」旨を徳島大尉へ報告)。三十一連隊への入営前に銀山で働いていた経験を活かし、行軍本番では銀山から宇樽部までの案内人を務める(銀山で小休止中は「夏場に訪れた十和田湖の秀麗な湖面」を思い出す)。
  • 加賀二等卒(喇叭手):久保田欣也
    宇樽部にて宿営中は喇叭を磨きながら「五連隊がもし今日1月23日に出発していたら猛吹雪に遭い、えらいことになっているのでは?」という会話を斉藤伍長及び西海記者と交わす(その予感は的中。青森五連隊は弘前三十一連隊出発から3日後の23日朝6時55分に青森市内の屯営を出発し、小峠以降で猛吹雪に遭う)。
    犬吠峠を越えて中里の集落に入ると先頭に立ち、喇叭を吹奏する。
  • 小山二等卒:広瀬昌助
    佐藤一等卒と共に行軍実施前の宿営地交渉と経路事前調査を担当。増沢出身という地の利を活かし、行軍本番では三本木から増沢までの案内人を務める(増沢への宿営時は参加隊員で唯一「実家での宿泊」を許可される)。
  • 徳島の従卒:渡会洋幸
    佐藤一等卒・小山二等卒と共に「行軍本番前の経路事前調査と宿営地・案内人・消耗品・食糧調達交渉」を担当した。

弘前第八師団[編集]

  • 友田少将(第四旅団長・モデルは友安少将):島田正吾
    弘前第四旅団司令部における「雪中行軍作戦会議」の席上にて徳島大尉と神田大尉を指名。「二人とも雪中行軍についてはなかなかの権威者だそうだが、冬の八甲田を歩いてみようとは思わないか?。八甲田は五連隊・三十一連隊いずれにとっても、雪中行軍を実施可能な山岳としては手頃な場所である」と行軍成功を期待する(徳島大尉は「行軍の権威者だとはとんでもないことであります」、神田大尉は「平地における雪中行軍をしたことはございますが、山岳については経験がございません」とそれぞれ返答。雪中行軍については二人とも「周到な準備をしたうえでやりたいと思います」と前向きな姿勢を示し、行軍を必ず成功させる強い決意を見せる)。
    本番1ヶ月前に雪中行軍実施許可が出た(計画書が提出された)ため十分な事前準備期間を確保出来た三十一連隊に対し、(行軍を「小隊」・「中隊」どちらの編成で実施するかの決定に時間がかかったため)本番わずか4日前に雪中行軍実施許可が出た五連隊は事前準備期間を十分確保出来なかった(同時に「10泊11日・行程240kmという徳島隊の長距離行軍計画は強引で無謀だから成功の可能性は低い」と徳島大尉を皮肉って「三十一連隊への対抗意識」を強めた山田大隊長が部下からの上申を一切無視し、「50kmという短距離の我が五連隊は『荷物の多い210名の中隊編成と大隊本部随行』」とする旨を神田大尉へ独断で命じる)。こうした「事前準備期間と行軍参加人数の差」が両隊の明暗・生死を分ける形となる(三十一連隊の行軍参加者人選は「岩木山雪中行軍への参加経験がある『冬山に習熟した地元青森出身者・及び体格が一定の基準を満たした者のみを選んだ少数精鋭の行軍参加者編成』」とし、その結団式には参加27名全員が出席。行軍本番で隊員が装着・携行する防寒着などは全て三十一連隊自身が参加者全員に支給。行軍本番は全て徳島大尉が最後まで仕切った。一方で五連隊は「徳島隊に勝つための行軍」へと目的をすり替えた山田大隊長のトップダウンにより参加者人選が急ごしらえとなり、「青森の厳しい冬山に不慣れな岩手・宮城両県出身者による大人数の行軍参加者編成」とした。このため五連隊結団式には全員出られず小隊長以上の隊員のみ出席し、「寒さ対策」を中心とした行軍本番での注意事項が隊員隅々まで行き届かなかったこと。加えて行軍本番で装着・携行する装備=防寒着や防寒靴などは参加者各自の自己負担及び自己判断で準備するよう命じたことから「冬山の知識に乏しいため寒さ対策が不十分で、汗をかくなど万一の事態に備えて予備の下着類・防寒靴・防寒着を持たなかった隊員」が多くなり、さらに「行軍に随行した山田大隊長が本番中に我田引水と朝令暮改を重ね、神田大尉より指揮権を奪うなど隊の指揮系統を乱した」ことが大量遭難に直結した)。
    五連隊が消息を絶った旨の発覚後「徳島隊の雪中行軍は直ちに中止したのか?」と中林大佐より聞かれると、「その旨の連絡方法がつかず、徳島隊は八甲田に突入している」と答え、中林大佐と共に徳島隊の安否を心配する。
  • 中林大佐(参謀長):大滝秀治
    日露戦争に備えての寒地教育訓練確立」を目的に青森五連隊と弘前三十一連隊へ「八甲田雪中行軍の実施」を友田少将と共に提案する(明治27年から28年にかけての日清戦争では、寒さのため4,000名もの日本軍兵士が戦地となった遼東半島にて凍傷にかかり作戦遂行に大きな支障をきたしたため、当時の日本軍は「氷点下10度以下という極寒でも戦い抜く力を有するロシア軍対策として『寒地訓練体制の充実』」が喫緊の課題となっていた。加えて陸奥湾沿いの鉄道・道路がロシア軍による艦砲射撃で破壊されれば日本海側と太平洋側の交通が寸断され、青森-八戸・弘前間の物資輸送経路が八甲田に限られる事態も予想されていたため、「積雪量の多い八甲田山系が冬期間の物資輸送経路として設定可能か否か」を試すことを目的に今回の「八甲田雪中行軍」が小隊又は中隊編成にて実施される運びとなり、中隊編成とした五連隊は冬期における物資輸送実験部隊として「ソリ隊」を編成する)。但しこの雪中行軍は決して参謀長・師団長からの命令により実施するのではなく「計画策定・行軍実施方法・雪中行軍隊の編成はあくまで五連隊・三十一連隊それぞれの連隊長・中隊長に委ねる」方針を示し、「『雪や寒さとは一体何か?、八甲田を冬期間における物資輸送経路として確立させるにはどのような施策を講じるべきか』などについてあらゆる可能性と方法を研究し、青森五連隊は五連隊らしく・弘前三十一連隊は三十一連隊らしく、この雪中行軍は必ず成功させなければならない」と語気を強める。
    このように「八甲田雪中行軍はあくまで五連隊・三十一連隊それぞれの責任・判断で実施する」旨を強調。三十一連隊は行軍計画書提出時に「行軍隊の参加者人選と編成・行軍経路策定などの事前準備と本番の指揮は全て徳島大尉自身の責任で行うので、上官は余計な口出しをしない」旨を約束させ、本番で徳島大尉自身が行軍指揮に専念出来る(内紛による指揮系統混乱を防ぐ)環境を整えるよう門間少佐と児島大佐に上申した。このため事前準備と本番の指揮は全て「綿密な計画を立てた徳島大尉自身の責任」で進められ、これが「落伍者を誰一人出さずに八甲田雪中行軍を成功」させる原動力となった。一方で五連隊は山田大隊長が「(中林大佐が提唱した)日露戦争に備えた寒地訓練&物資輸送経路開拓」という当初の行軍実施目的を「徳島隊に勝つための行軍」へと180度すり替えた。このため「行李輸送隊の負担を減らすべく(徳島隊同様)小隊編成で行軍したい」という神田大尉ら部下の上申が一切無視され、本番では(指揮権を山田大隊長に奪われた)神田大尉が指揮官という本来の役目を果たせず(隊員に適切な指示を出せず)、これが「大量遭難」という悲劇を生む。
    青森五連隊が編成した行李(物資)輸送隊「ソリ隊」は(荷物を含む)重量80kgのソリを8台用い、1台あたり4名(うち1名は兵卒)・(特別第5小隊の中村小隊を除く)合計32名の隊員がソリの牽引にあたる(ソリ1台を輸送する隊員4名のうち3名が牽引を、1名が後押しをそれぞれ担当。各ソリには「牽引隊長」を務める兵卒が1台につき1名ずつ・合計8名着任)。しかしソリは食糧・燃料などの重い荷物を積んだため横滑りが起きやすく、加えて小峠以降では深い積雪に阻まれてソリが前進しにくくなっていたため、実際のソリ牽引はさらに多くの人員が必要となった(神田大尉はソリ隊の遅れを察知すると中橋小隊はじめ他の隊員に「後方ソリ隊の援護に付く」よう命じる)。他の五連隊下士卒は重い荷物輸送を行李輸送隊ソリに任せていることから身軽な体で歩き、結果「本当の冬の八甲田を知らない」甘い考えのまま「行楽気分」という軽い気持ちで行軍参加する隊員が増え、重いソリを牽引した行李輸送隊員は汗だくになった下着を寒さで凍結させ、これらがやがて悲劇を呼ぶ。
    五連隊の遭難発覚後は「第八師団長も(五連隊の雪中行軍隊遭難という)事態を憂慮されていることから、(五連隊・三十一連隊のみならず)工兵八連隊・工兵八大隊・通信隊にも出動命令を出し、第四旅団のみならず第八師団を挙げての救助体制を採る」方針を決定する(猛吹雪の八甲田から生還した五連隊の倉田大尉・伊東中尉らも帰営後に捜索活動へ駆り出される)。

青森歩兵第五連隊[編集]

  • 津村中佐(連隊長・モデルは津川中佐):小林桂樹
    山田大隊長より雪中行軍計画書提出を受けると「神田大尉に大隊本部という上部組織が随行しての行軍による指揮系統の乱れ」に不安を覚えた。だが「三十一連隊は既に弘前を出発した」旨を山田大隊長より告げられると不安を押し殺し、「随行する大隊本部は行軍と無関係の編成外組織で、行軍隊の指揮は神田大尉が執る」旨を再確認したうえで(木宮少佐同席のもと)計画書に署名し決裁印を押す(だが五連隊は行軍本番になると「中隊の指揮は神田大尉へ一任する」当初の方針を山田少佐が自ら破って指揮権を奪ったことに端を発した大量遭難により、参加210名中わずか11名しか生還出来なかった=駒込川マクレ沢で山田少佐・倉田大尉・伊東中尉3名が、大峠付近で江藤伍長が、鳴沢・大崩沢の炭焼き小屋で下士卒9名が、田代元湯で村山伍長がそれぞれ生き延び合計14名が救助されたが、そのうち鳴沢の炭焼き小屋で発見された下士卒3名は救出後に死亡した。こうした「青森五連隊の雪中行軍隊員199名が遭難し凍死」という最悪の結末を生む張本人となった山田少佐は「計画書に書いた当初の約束を自ら破り、上司の津村五連隊長・中林参謀長・友田第四旅団長に嘘をついたことで下士卒・仲間の兵を数多く殺した」旨を認め謝罪。最後は収容先の病院で拳銃自決する)。
    五連隊雪中行軍隊結団式では「行軍隊・随行員計210名の中から、たとえ一人といえども落伍者その他を出さぬよう、万全の準備とその実施を希望する」と参加隊員に訓示する(但し結団式に出席したのは神田大尉・山田大隊長・各中隊長及び小隊長・随行大隊本部・見習士官のみで、下士卒は欠席)。だが津村連隊長の願いは届かず(冬山に不慣れな者が大半を占め、かつ「大隊本部という上部組織が神田大尉にくっついての行軍による指揮系統の乱れ」という不安が的中し)、実際は「199名もの落伍者(死者)を出す悲劇」となる(「雪中で倒れた兵を助ける者がさらに倒れる」の繰り返しとなるため隊列が延び、やがて数多くの凍死者を出してしまう)。
    捜索隊員より「遭難した五連隊雪中行軍隊の中から江藤伍長を含む12名の生存を確認し救出した」旨の報告を受けると(救出された隊員が運ばれてきた)田茂木野へ(他の五連隊幹部を引き連れて)迎えに行き、「三十一連隊は予定より二日遅れたものの、(故障で中途帰営した松尾伍長を除く)全員が無事に八甲田踏破を終え(青森市内及び浪岡への宿営を経て)弘前へ帰営中である」旨を山田大隊長らに告げる。
  • 木宮(きのみや)少佐(連隊本部):神山繁
    神田大尉と山田大隊長より提出された「五連隊雪中行軍計画書」の内容審議に同席し、津村連隊長が計画書の決裁をする(雪中行軍の実施許可を出す)ための署名捺印準備を行う。
    三十一連隊の児島連隊長へ提出・受理された「徳島隊雪中行軍計画書」が五連隊幹部の元へ届くと(山田少佐が「『10泊11日・十和田湖経由の全行程240km』という計画は夏場でも容易じゃない。三十一連隊の徳島はどうかしてる」と言ったのを受け)、「大胆というか無謀というか、意図がよくわからん」と徳島隊の行軍実施方法に疑問を抱く(すると津村連隊長が「三十一連隊のほうは行軍計画立案を終わったのだが、我が五連隊の計画進み具合はどうかね?」と尋ね、山田少佐が神田大尉に五連隊雪中行軍経路の説明を求める)。
    1月25日になると「神田隊が三本木に着いたか否かの確認電話」を三本木警察(現・青森県警十和田署)へ入れ、当初は「五連隊は昨日(1月24日)の午後4時に無事三本木へ着いた」と安堵していた。しかし「行軍隊は目的地に着いたら通常その旨を連隊本部へ報告するはずだが、神田中隊長・山田大隊長が三本木へ着いた旨を自ら報告しないのはおかしい。神田隊は予定通り進めば三本木で徳島隊とすれ違っているはず」と感じた津村連隊長より「三本木警察へ再度電話して五連隊が三本木へ着いたか否かを確認する」よう言われる。すると「三本木へ着いたのは自隊(五連隊)ではなく三十一連隊(徳島隊)で、徳島隊はその(三本木へ着いた)翌朝に増沢へ出発した」とわかり、当初の神田隊到着報告は勘違いだったと気づいて動揺。神田隊は八甲田で遭難した(消息を絶った)のではと心配する(これを受け津村連隊長は「第四旅団全ての連隊長・大隊長・中隊長を緊急召集」させる)。
    五連隊雪中行軍隊の遭難発覚後は田茂木野の民家と倉庫を借りる形で遺体安置所と捜索隊詰所を設け、そこで捜索活動の指揮を執る。救助隊伝令の花田伍長より江藤伍長発見の報告を受けると「大峠付近で見つけたのは、中隊指揮班の江藤伍長だな!?」と確認する。捜索隊詰所に八甲田踏破を終えた三十一連隊指揮官の徳島大尉が入ってきて「三十一連隊の雪中行軍隊だ。八甲田を越えてきたが、宿舎の必要があるので設営指揮官にお会いしたい。我が三十一連隊は負傷者=松尾伍長を三本木より汽車で帰営させた以外は全員無事に冬の八甲田越えを果たし、行軍途中では鳴沢から賽の河原にかけての広範囲で神田大尉以下・五連隊雪中行軍隊員の遺体を多数見つけた」旨の報告を徳島大尉より受けると、「賽の河原付近はくまなく捜索し、そこで発見した遺体23体は昨日(1月28日)のうちに収容済みだ。指揮官の神田大尉は今回の雪中行軍で大量遭難者を出した責任を感じたのか、凍えきった身体に最後の力を振り絞り、見事に舌を噛み切っていた」と返答し、徳島大尉を(神田大尉の遺体が安置されている)遺体安置所へ案内する。
  • 三上少尉(遭難救助隊・モデルは三神定之助少尉):森田健作
    大峠まで地元住民を案内人として雇って救助隊を率い、猛吹雪にさらされ瀕死の状態で直立していた江藤伍長を発見。(同行していた五連隊軍医が周囲に積もった雪をスコップで除去し江藤伍長を救助者搬送用ソリに乗せたのち)「中隊長殿・・・、神田大尉殿・・・」と微かに話した江藤伍長へ「神田大尉殿がどうした!?。山田少佐殿以下、雪中行軍隊はどこにいるのだ!?」と話しかけ、江藤伍長本人からの報告を元に「遭難した五連隊雪中行軍隊の中に生存者がいる可能性はあり得ない」と津村連隊長らに報告する。
  • 花田伍長(遭難救助隊):伊藤敏孝
    救助隊の伝令を務め、木宮少佐らに「仮死状態にあった江藤伍長を大峠付近で発見し、手当ての結果蘇生したのでありますが、江藤伍長本人の言によりますと、雪中行軍隊は山田大隊長・神田中隊長以下全滅の模様。引き続き付近を捜索中であります」と報告する。
雪中行軍隊
  • 神田大尉(第2大隊第5中隊長・モデルは神成文吉大尉):北大路欣也
    劇中では「秋田出身、自宅は青森市筒井にある」という設定。山岳部での雪中行軍は今回の八甲田が初めてだった(徳島大尉は岩木山雪中行軍を実施した実績あり)。このため本番前に「近くの山で予備演習を実施する」よう徳島大尉に勧められ、その実施場所を「八甲田の小峠」に選定。予備演習の成果は「行軍参加者の人選」及び「行軍隊の編成資料」として活用する(予備演習は好天に恵まれたことから「来るべき行軍本番も好天に恵まれることを願う」と言ったが、実際の行軍本番は予備演習時と正反対の「猛吹雪」という悪天候に見舞われる)。
    行軍は当初「田代に宿営する1泊2日」の予定だったが、八甲田山中における悪天候などで行軍日程が当初計画より延びた場合を想定し「田代と増沢を宿営地とする2泊3日」に変更。行軍終了後は三本木より汽車で青森へ帰営する計画となっていた。だが冬山に不慣れな者が大半を占め、かつ「雪壕を掘っての露営」や「背負子を用いた人の背による荷物運搬」は予備演習で実施しなかった。このため本番ではこの「2泊3日」が五連隊にとって強行日程となり、当日は猛吹雪という悪天候だったにも拘わらず「出発当日の明るいうちに最初の宿営地となる田代へ着こう」と焦った(「ソリ隊の大幅遅れ」と「田代へ着く前に迎えた日没」は想定外だった)。
    さらに行軍当日における案内人雇用の是非についても「予備演習の結果をみて決める」形を採り、神田大尉は当初「八甲田山中における行軍は案内人付きで実施」することを想定していたが、本番では田茂木野での小休止時に「随行大隊本部の山田少佐が行軍実施目的を『徳島隊に勝つため』へとすり替え、独断で案内人雇用を却下」してしまった。こうした「冬山に不慣れな者で構成された無理な日程」と「行軍隊・随行大隊本部相互間で生じた指揮権を巡る対立」が「大量遭難により199名もの隊員が犠牲」という最悪の結末へと繋がっていく。
    行軍本番前には部下の藤村曹長・江藤伍長・伊東中尉を率いて経路事前調査を行い、江藤伍長より紹介された田茂木野村の村長・作右衞門より「冬の八甲田の様子と行軍を成功させるために必要な装備など」についての説明を受ける(作右衞門は「兵隊の軍靴では深い雪中に潜り込むから、行軍本番は藁の雪沓を履いて歩いたほうが良い。案内人については、する側・される側いずれも人によりけりだ」と併せて説明。しかしこれら説明は五連隊雪中行軍本番へは活かされず、上官である山田少佐へもその報告は上がらなかった)。
    行軍本番前には汽車で弘前へ向かい、(自身の出身地秋田の地酒を手土産として携えたうえで)弘前市内にある徳島大尉の自宅を訪れて「(徳島大尉率いる三十一連隊が実施した)岩木山雪中行軍」についての情報収集を行い、その内容を五連隊八甲田雪中行軍実施時の参考資料として活用する。
    予備演習終了後には上官の山田大隊長へ「我々五連隊が小隊編成で行軍したい理由は『三十一連隊の方法を真似したいから』では決して無い。行軍参加人員が増えれば行李輸送隊の負担があまりに大きくなる。三十一連隊が小隊編成としたのは『連隊相互間の約束』もあり、徳島大尉としてもやむにやむを得ぬ理由からだ」と「万一の事態への不安」を訴える(この旨は三十一連隊の徳島大尉が実施した「岩木山雪中行軍記録」より学習。徳島大尉はこの時「装備を軽くした小隊編成でないと冬の八甲田は越せない、大荷物かつ大人数での八甲田雪中行軍は無理だ」と断言する形で冬山の危険を警告していた)。しかし「徳島隊への対抗意識を強めた」山田大隊長は神田大尉の上申を一切無視し、「予備演習の結果、大隊を繰り出しても雪中行軍可能とわかったので行軍本番は中隊編成とする。『小隊編成による10泊11日・十和田湖経由の全長240km』という強引で無謀な計画を立てた三十一連隊の行軍が成功した場合、『青森市内から田茂木野・馬立場・田代・増沢を経由し三本木まで50km』という短距離の我々五連隊が貧弱に見え、踏破距離に優劣があまりにはっきりつきすぎる。よって神田大尉率いる五中隊を行軍の核として「五連隊下士卒が全員参加する」形で中隊を編成し、大隊本部も随行する行軍計画書を作る」旨を独断で命じ、八甲田雪中行軍の実施目的を(中林大佐が提唱した当初の「日露戦争に備えた寒地訓練及び物資輸送経路開拓」から)「徳島隊に勝つための行軍」へとすり替えた。神田大尉は山田大隊長に一切逆らえず(自分が抱いた不安を一切受け止めてもらえず)、結局は「行軍隊196名・随行員14名の計210名」という大規模編成とする旨が決定(本番ではこれが指揮官を務める神田大尉本人にとって大きな悩みとなる)。「中隊長殿に大隊本部という上部組織がくっついての行軍は編成外の参加とはいえ不安だ」という部下からの声も「大隊長殿には大隊長殿のお考えもあるようだ」と言って無視し(山田大隊長からのトップダウンにより)中隊編成を強行。結果「行李輸送隊の負担増」という悪い予感が的中してしまい、「本来は小隊編成としたかった自分の願いが山田大隊長に却下されて『大隊本部という上部組織を伴った210名もの大所帯行軍を率いる』羽目になり、かつ田茂木野以降で予定されていた案内人雇用も無くなって指揮権を山田大隊長に奪われた」神田大尉は指揮官という本来の役目を果たせなくなり、これが「行軍日程の大幅遅れ」と「大量遭難」に直結する。
    五連隊は1月23日の朝6時55分に青森の屯営を出発したが、田茂木野以降でソリ隊が深い積雪に阻まれて大幅に遅れたことから本隊は馬立場の雪原で(猛吹雪の中)長時間待たされ、(最初の宿営地となる)田代へ着く前に日没を迎えてしまう(しかし神田隊は「悪天候だから行軍を中止し引き返すべき」という下士官らの進言を山田大隊長らが無視して「出発当日の明るいうちに田代へ着く」方針を頑なに貫き、これが五連隊全滅のきっかけとなる)。本隊が馬立場に着いた時に「ソリ隊の大幅遅れ」を察知すると「銃と背嚢はこの場に置き、ソリ隊の応援に行け」と言い、伊東中尉・高橋伍長ら約30名の小隊を後方ソリ隊援護に向かわせる(だが田代方面の偵察に向かった藤村曹長率いる先遣隊15名からの連絡はソリ隊合流後もまだなく、山田少佐と中隊指揮班は日没が迫った中「ソリ隊の遅れと藤村先発隊の動向」に気をもむ)。神田大尉は「藤村先発隊からの連絡をいつまでも馬立場で待っていたら日が暮れてしまい当日中に田代へ着けない」と考え、自ら先頭に立って田代方面の偵察をしようと考えたが、それを自ら心に決める前に「将校偵察として直ちに田代へ斥候せよ」と山田少佐に命ぜられる。これにより神田大尉は指揮官から「一将校」へと成り下がり、行軍隊本隊の指揮を山田少佐に明け渡す形となる(だが山田少佐による行軍隊本隊指揮はうまくいかず、一行は先頭の神田大尉に追いつけず猛吹雪で立ち往生。このため将校偵察として斥候中の神田大尉が途中の露営地を探し、伝令を送って本隊を「猛吹雪をしのげる平沢第一露営地の雪壕」へ誘導する)。
    行軍本番中は常に地図と方位磁石を用いて針路を確認する(しかし猛吹雪の八甲田では「地図を広げて今後の自隊行軍経路を書き込む」作業が難航した)。さらに暗い夜道や雪壕ではカンテラ蝋燭を明かりとして用いていたが、猛吹雪の八甲田では強風によりそれら灯が度々消え、明かりを灯そうにも大半の隊員が凍傷にかかって手先が利かず、マッチを擦れる者がごくわずかしかいなかった。このため夜になると五連隊雪中行軍経路は真っ暗になり、「帰営のため深夜のうちに雪壕を出発」という山田大隊長の命令に従った隊員は暗い中を歩いて道に迷い(不眠不休絶食と疲労が重なって)遭難した。
    平沢第一露営地の雪壕では地図を見ながら「2km・・・、田代まではたった2km。その2kmの道のりが・・・。雪とは一体何なのだろう?・・・」とつぶやき、「猛吹雪に阻まれて馬立場よりわずか2km先にある田代への道を見つけられない」もどかしさを噛みしめる。その後翌1月26日の午前0時17分になって「雪中行軍を中止し、直ちに帰営する。田代への道が見つけられない以上仕方がない。直ちに帰営だ」と山田少佐に命ぜられ、神田大尉は「帰営は晩やむを得ない場合の話。夜明けを待って出発すべき」と一度は反論するも、その後「このままじっとしてたら、おそらく翌朝までに全員が凍傷で動けなくなる」と理由をはっきり言われると反論の余地が無くなり、結局は山田少佐の命令を受け入れるしかなくなってしまう(隊員は不眠により足取りが重くなり、ソリを放棄して重い荷物を背負った行李輸送隊員は雪上へ倒れ込む。その後一行は馬立場を経て帰営出来ると期待していた矢先に「進藤特務曹長の妄言を信じた山田少佐の朝令暮改」に振り回されて結局は田代への道を最後まで見つけられず、やがて「大量遭難」という最悪の結末を迎える)。
    田茂木野で小休止後に指揮権を山田大隊長に奪われ、かつ「事前準備不足」と「予定されていた田茂木野からの案内人雇用が山田大隊長に却下された」ことが重なって大量遭難につながった責任を取り、最後は江藤伍長を田茂木野へ行かせたのち賽の河原で舌を噛み切って自決する。
  • 伊東中尉(第5中隊第1小隊長):東野英心
    行軍本番中は神田大尉の指示を復唱し、参加隊員隅々まで指揮官の指示が行き届くようにする。さらに気象観測担当も兼務し、行軍本番中は「積雪の深さを測る竹棒」と「風向・風速を測る吹き流し付き竹棒」を背嚢に固定し温度計を携帯している(予備演習に参加した時は気象観測をしたが、劇中では行軍本番で伊東中尉が実際に気象観測する場面は無く、伊東中尉自身も遅れていたソリ隊の援護に回ったため気象観測をする時間が取れなかった)。
    雪中行軍隊結団式後は先輩の藤村曹長・江藤伍長と共に「神田大尉に上部組織の大隊本部が随行することで隊の指揮系統が乱れる不安」を抱き、それが本番で的中。本来は「行軍に随行するのみ」で指揮権を持たないはずの山田大隊長が(田茂木野出発時に神田大尉より指揮権を奪って)「出発用意」と言ったことに違和感を覚えたため、「中隊長殿、随行の大隊本部が命令とはどういうことですか?」と神田大尉に確認する(神田大尉は「案内人の件は決定していた事項ではない。色々と困難はあるが、それを一つ一つ乗り越えることに今回の雪中行軍の意味がある」と返答)。大峠にて小休止中は「山田大隊長殿が指揮官となってやりにくいことになった。大隊本部のやり方には疑問を感じる」と今後の行く末を心配する。
    往路・馬立場へ到着後「銃と背嚢はこの場に置き、ソリ隊の応援に行け」と神田大尉に命ぜられ、何とかソリ隊を馬立場へ導いて本隊へ合流させる。だが藤村先発隊からの連絡はソリ隊合流後もまだなく、伊東中尉らは田代へ向けて再度ソリ隊の援護をするが、積雪がさらに深くなったためソリの前進は一層難しくなる。伊東中尉が後方のソリ隊に合流すると「(ソリ隊兵卒が『小隊長殿、これ以上の遅れは・・・』と言ったのを受け)大隊本部へソリの放棄を進言する。後尾を見てくる」と言い、他の小隊と協力して行李輸送隊最後尾で(深い雪に阻まれてなかなか進まない)ソリを押す。その(ソリを押す)手が滑った反動で後ろを向くと人影が見え、(高橋伍長が『小隊長殿、このソリがどん尻=最後尾のはずなのに・・・』と言って後方の人影を指差したのを受け)やがて近づくと「藤村、藤村曹長ではないか!」と驚く。
    往路・平沢第一露営地の雪壕では同僚の小野中尉に「神田大尉殿の指揮権を一刻も早く元通り回復させるべき。随行員である大隊長殿がこのまま行軍指揮を続けたらこの先心配だ」と不満を漏らし、山田少佐の我田引水ぶり(自分勝手な行軍指揮)に異議を唱える。
    復路・馬立場からの帰営時には「生き残った隊員の中で一番元気そう」という理由から倉田大尉より「隊列の最後尾に付く」よう言われる(今回の大量遭難は山田少佐が神田大尉より指揮権を奪ったことで起きた旨を把握していたため、「大隊長殿が万一の場合、それは青森五連隊雪中行軍隊の全滅を意味する。いかなる場合でも山田大隊長殿には生きて連隊へ帰ってもらい、今回大量遭難に至った顛末を自ら説明してもらう」という倉田大尉の方針による。馬立場から田茂木野への出発時に行われた点呼では、当初行軍隊196名・随行員14名の計210名だった参加者が「行軍隊64名・随行員3名の計67名」にまで減っていた)。
    五連隊は馬立場より田茂木野へ向かう途中、賽の河原で猛吹雪に遭い「神田大尉を先頭に大峠方向へ進む集団」と「倉田大尉を先頭に駒込川方向へ進む集団」とに二分された。倉田大尉・伊東中尉・山田少佐3名は駒込川マクレ沢へ避難して猛吹雪をしのぎ、伊東中尉は「人間というのは、自分の運命とは関係ない、妙なことを考えるものであります(倉田大尉は『そうだな、俺も馬鹿なことばかり考える』と返答)。ところで、弘前三十一連隊の雪中行軍隊はどうなったでしょう?」という会話を倉田大尉と交わす(のちに倉田大尉らは救助隊に発見・救出。人事不省となった山田少佐はソリに乗せられ、一行は救助隊に伴われて田茂木野へ向かう)。
  • 中橋中尉(第6中隊第2小隊長):金尾哲夫
    田茂木野から小峠への往路において神田大尉より「先頭かんじき隊は交代。中橋小隊は後方ソリ隊の援護に付け」と命ぜられ、遅れがちだったソリ隊の援護にあたる(だがソリは小峠より先で深い雪に阻まれてなかなか進まず、結局は鳴沢を過ぎた地点でソリを放棄し「荷物は各小隊に割り当て人の背による運搬」へ変更。もともと人の背による荷物運搬は想定外だったため隊員は支持具である「背負子」を持参しておらず、荷物は急場しのぎとして縄で背中にくくりつけるのみとなったため重心が上にくる形となって安定性が悪くなる。こうした不安定さに疲労と寒さが追い討ちをかけ、行李輸送隊員は重い荷物を背負ったまま雪中で次々と倒れ、生き残った者も荷物を放棄する。重いソリを牽引した行李輸送隊員は下着が汗だくになり、着替えや予備の雪沓・かんじきを持参せず、かつ宿営地における「濡れた服を焚き火で干して乾かす」という行動も出来なかったため厳寒が濡れた軍服や下着・さらに痛んだ雪沓や靴下を貫いて身体に染み渡り、汗の凍結による凍死者をも出してしまう)。
  • 小野中尉(第7中隊第3小隊長・モデルは水野中尉):古川義範
    平沢第一露営地に掘られた雪壕の中で「指揮権を山田少佐殿に奪われても神田大尉殿は必ず雪中行軍を成功させる」と言うが、実際は失敗に終わり凍死による199名もの落伍者を出す悲劇となる(小野中尉自身も崖を登って駒込川の峡谷から脱出した後に卒倒凍死。これにより隊員の士気は急降下する)。
  • 鈴森少尉(第8中隊第4小隊長):荒木貞一
    鈴森少尉はじめ下士卒たちは「田代に着いたら温かい酒と温泉にありつける」期待を原動力にし、苦しい吹雪・急勾配・厳しい寒さに耐えて行軍するが、ソリ隊が深い雪に阻まれて大幅に遅れたことから田代へ着く前に(馬立場に着いた時点で)日没を迎えてしまう。このため田代到着を翌日に延ばし、途中の平沢第一露営地に雪壕を掘って露営。隊員は遅れて着いたソリ隊より配給された餅を焚き火で焼いて食す形となる。田代での酒と温泉を楽しみにしていた下士卒たちは、こうした雲泥の差を目の当たりにして気分が急降下し「温泉に入って一杯のはずがこんなことか・・・」と意気消沈する(馬立場からあと2kmの田代で休めると期待していた小隊長らも「遅れているソリ隊の応援に行く」よう神田大尉より命ぜられたため、「田代で疲れを癒すための酒と温泉にありつける」期待は一気に遠のき疲労が増してしまう)。
  • 中村中尉(第1大隊&第3大隊選抜特別第5小隊長):芹沢洋三
    中村小隊は五連隊で唯一「ソリ牽引(行李輸送)の担当外」とされていたが、行軍本番では神田大尉の命令により「深い雪に阻まれて遅れがちだったソリの援護」へと駆り出される。
  • 野口見習士官(中隊本部):山西道広
    行軍本番では出発前点呼を担当。小休止場所や宿営地からの出発前に体調不良者・負傷者・行方不明者などがいないかの確認を各小隊長にさせ、「異常なし」との報告を各小隊長より受けると「行軍隊・随行員全員の出発用意が整った」旨を神田大尉へ報告する。
    往路・馬立場にて小休止中に藤村曹長以下15名が先遣隊として田代へ出発し、遅れているソリ隊到着を本隊が待っていた時(「設営隊からの連絡はまだないのか?」と山田大隊長が気をもんだのを受け)「藤村先発隊からの連絡はまだのようだ」と山田大隊長に報告。その後「進路偵察・将校斥候の強力な先導部隊を出したらどうか。そうすれば田代から藤村曹長を出して伝令に途中で会うかもしれない」と神田大尉に提案する(しかし既に日没を迎えていたことから神田大尉は「雪明かりとはいえ夜の道であり、そのうえこの鳴沢は地形が複雑で、一度峡谷にはまり込んだらその脱出が難しい」と田代到着を翌日に延ばす方針を一度は考えたが、その後「自ら行軍の先導に立って田代への道を切り拓く」方針へ転換し、山田大隊長もそれに基づく斥候命令を出す。五連隊は「途中で雪壕を掘っての露営」を予備演習で実施せず「出発当日中の田代到着を前提とする行軍日程」としたため、既に岩木山雪中行軍で「雪壕を掘っての露営」を実施した経験からそれを八甲田雪中行軍本番に組み込んだ徳島隊とは異なり、「ソリ隊大幅遅れと雪壕を掘っての露営」は神田隊にとって「想定外の事態」となる)。
    復路は馬立場にて出発前点呼を終えた後に神田大尉の集団に付いていくが、最後は猛吹雪となった賽の河原にて藤村曹長らと共に凍死する。
  • 藤村曹長(モデルは藤本曹長):蔵一彦
    伊東中尉・江藤伍長・神田大尉と共に行軍本番前調査に同行し、江藤伍長より紹介された田茂木野村の村長・作右衞門より冬の八甲田の様子についての説明を受ける。
    予備演習参加時は神田大尉からの指示を復唱し、指揮官からの指示が隅々まで行き届くようにする(本番では伊東中尉が担当)。
    雪中行軍隊結成後は江藤伍長・伊東中尉と共に「神田大尉のところへ行く」よう(外出許可を受けた)長谷部一等卒より伝言を受け、「雪中行軍は五連隊全体が参加し、大隊本部が随行する中隊編成」とした旨を神田大尉より伝えられる。しかし部下(藤村曹長・江藤伍長・伊東中尉)は「五連隊を挙げての中隊編成行軍はよしとするが、編成外とはいえ『大隊本部という上部組織が指揮官の中隊長殿にくっつく』とはどういうことか」と不安を訴える。だが神田大尉は「三十一連隊の行軍本番が迫っているから、たとえ我が五連隊が2個又は1個単位の小隊になったとしても『これだ』と適任になる行軍参加者の人選を直ちに行え」と言い、結局は部下3名(藤村曹長・江藤伍長・伊東中尉)の上申が全く無視される形で「雪中行軍は下士卒が全員参加する『五連隊を挙げての中隊編成』で大隊本部も随行」となる旨が確定してしまう。
    往路・大峠にて小休止中「山田大隊長殿が指揮官となってやりにくいことになった。大隊長殿が我田引水するとこの先の行軍はどうなるのか」と心配する伊東中尉に対し、「中隊長殿は人の出来たお方で、進軍の腹です。大隊長殿の我田引水ぶり(自分勝手な行軍指揮)はちょっと気になりますが、神田大尉殿は『大隊長殿を立てながらもこの雪中行軍を必ず成功させる』という強いご決心のようです」と、「神田大尉は(たとえ山田少佐に指揮権を奪われても)八甲田雪中行軍を必ず成功させる」ことを示唆する肯定的意見を述べる(この時点では「五連隊は山田少佐の我田引水により、この先『大量遭難』という悲劇が待っている」ことに誰一人気づいていない)。
    馬立場到着後は「部隊設営のため藤村曹長以下15名、田代へ先発致します。(『到着と同時に喇叭の吹奏だ』と神田大尉より言われたのを受け)もし天候が悪化し喇叭では連絡不可能の場合、直ちに伝令を本隊へ帰らせます」と神田大尉に告げ(先遣隊を率いて)田代へ向けて出発する。しかし藤村先発隊一行は日没と猛吹雪で道に迷い、最後は偶然にも(将校偵察として斥候し先頭に立つ神田大尉の後に続く)ソリ隊の最後尾へ合流する(途中で天候悪化の兆しを察知すると「頭巾をかぶれ!。急げ!、嵐が来る!」と部下へ注意を促す。ソリ隊の最後尾にいた伊東中尉を見つけた時は「小隊長殿、申し訳ありません。暗くなって道に迷い、風の乱れで方向がまるっきりつかめず、どうしても田代への道がわかりません」と謝罪。藤村曹長は夏場に自ら田代を訪れた経験があり、今回の行軍本番前にも田代への経路を神田大尉より教わっていたが、猛吹雪かつ暗い夜道ではそれら知識・経験が全く役に立たず、「藤村先発隊が田代への道を見つけられない」という事態は神田大尉にとって想定外だった)。
    行軍復路では賽の河原手前で一瞬晴れ間が覗き、前方に青森湾が見えると「中隊長殿!」と叫ぶ。のちに神田大尉の集団に付いていき田茂木野へ向かおうとしたが、最後は猛吹雪となった賽の河原で凍死する(復路の賽の河原では神田大尉も大量遭難の責任を感じて舌を噛み切り自決。神田大尉を先頭に大峠方向へ向かう集団は最終的に江藤伍長のみが生き残る)。
  • 谷川曹長(第5小隊):森川利一
    行李輸送隊員としてソリを牽引。大峠で小休止後「各小隊ごとに出発用意」という山田大隊長の命令を聞いた時、「大隊長殿が指揮官に!。田茂木野でもう何か命令を出したらしいぞ」と驚く。だが指揮官交代はこの時点(馬立場に至るまでの段階)で下士卒にはどうでもいいことで、下士卒は「田代に着いたら温泉に入って一杯やる」ことを最大の楽しみにしていた。
  • 村山伍長(第5中隊第2小隊・モデルは村松文哉伍長):緒形拳
    五連隊雪中行軍隊結団式後は連隊営舎の渡り廊下で江藤伍長に会い、「行軍本番で携帯食糧などの保温材として用いる古新聞と風呂敷を酒保(売店)で買った」旨を話す(江藤伍長も村山伍長同様に風呂敷などを買おうとしたが、当日は連隊の被服倉庫へ行く用事があったためそれらの購入が出来なかった)。
    馬立場にて小休止中は「夏場に自分が八甲田を訪れた時は赤いツツジがきれいに咲いていた」ことを思い出す。しかし現実は白い雪ばかりで、天候悪化の兆しを察知すると真っ先に頭巾をかぶる(その後も平山一等卒ら他の隊員は「田代に着いたら酒と温泉がある」という会話を交わすが、その楽しみは猛吹雪にかき消され暗転する)。
    平沢第一露営地の雪壕では焚き火で焼いた餅を食しながら(「田代で温泉に入って一杯のはずがこんなことか・・・」と平山一等卒が意気消沈したのを受け)「贅沢言うな。大隊本部は立ち往生。それを神田大尉殿がわざわざ露営地を探し、伝令で導いてもらったからだぞ」と言い、藤村曹長や神田大尉が田代への道を見つけられなくても雪壕を掘って露営(ビバーク)することで「かろうじて猛吹雪をしのげているありがたさ」を実感する(山田大隊長は先頭を進む神田大尉に追いつけず、結局は田代への道を見つけられなかった。その後「雪中行軍を中止し、直ちに帰営だ」という命令を深夜のうちに独断で出したため、隊員が雪壕にとどまれる時間は短かった)。
    雪の急斜面を登って駒込川の峡谷から脱出し馬立場へ向けて行軍中「用を足したい」と訴える者が出たが、凍傷で手の指先が利かず軍袴(ズボン)のボタンを外せない隊員が多かったため、凍傷にかかっていなかった村山伍長は「用を足したい」と訴えた平山一等卒の軍袴ボタンを外して小便をさせる(しかし凍傷で手先の利かない隊員があまりに多かったためズボンのボタンを自分で外せず大小便を垂れ流し、それが原因で下腹部を凍結させたため凍死する者も多かった。さらに藁の雪沓も損傷がひどくなっていたため厳寒が足を貫いて身体に染み渡り、足を引きずってまともに歩けない隊員も増えていた)。
    行軍復路で隊員が次々落伍し隊列が乱れ始めると「俺は自分の思い通りに歩く」と言い、青森第五連隊でただ一人、田代温泉へ至る。「最後の生存者」として救助され生還したものの左腕を凍傷で失った(劇中エンディングに「老齢に達した村山伍長が左腕を失い杖をついて歩く場面」が登場)。
  • 高橋伍長(第1小隊):海原俊介
    行軍往路では神田大尉の命令により、伊東中尉らと共に「本隊より大幅に遅れていたソリ隊の援護」を担当。馬立場から鳴沢への行軍中、(行李輸送隊の)最後尾でソリを後押ししている時に(ソリを押す手が滑った反動で)後ろを向くと、ここにいるはずのない人影が多数見えたことに驚き「小隊長殿、このソリがどん尻(最後尾)のはずなのに・・・」と伊東中尉に言って後方の人影を指差す(伊東中尉が人影に近づいてみると「猛吹雪で道に迷い田代への進路を見つけられなかった藤村先発隊一行」と判明)。
    復路では田茂木野方面の斥候を申し出た時「北西方向高地の偵察」を神田大尉に命ぜられ、「先遣隊が馬立場へ至り、仲間の隊員が引き続き田茂木野方面へ進出中」である旨を神田大尉と倉田大尉に報告する(しかし田茂木野方面を偵察していた隊員4名はその後、賽の河原付近で重なり合うように凍死。最後は高橋伍長自身も賽の河原で猛吹雪に遭い、藤村曹長らと共に凍死する)。
  • 渡辺伍長(第2小隊):堀礼文
    往路の大峠で小休止中は「田代に着いたら酒と温泉にありつける」期待を込めた会話を平山一等卒らと交わす(だが下士卒らのそのような期待は「ソリ隊の遅れ」と「山田大隊長の朝令暮改」で一気に遠のいてしまう)。
    行軍復路で田茂木野方面の斥候を申し出た際「駒込川方面の偵察」を神田大尉より命ぜられるが、凍死により帰らぬ人となる。
  • 江藤伍長(中隊指揮班・モデルは後藤房之助伍長):新克利
    神田大尉に引率されて実施した行軍の事前調査において「若い者はみな山へ働きに出ていてこの村におりません。でもこの人は村長(むらおさ)で意外にしっかりとしております」と言い、田茂木野村の村長作右衛門を神田大尉に紹介する。
    五連隊雪中行軍隊結団式後は神田大尉が行軍本番での注意事項を説明している最中、藤村曹長及び下士卒と共に行軍用品注文の電話応対に追われる。
    神田大尉より「五連隊の雪中行軍は下士卒が全員参加する中隊編成で、大隊本部も随行する」旨を聞かされると、同席した藤村曹長・伊東中尉と共に「編成外の参加とはいえ、神田大尉殿に『大隊本部』という上部組織がもう一つくっついて行軍するのはいかがなものか」と不安を訴える(だがこれら部下3名の不安は上司の神田大尉や山田少佐に聞き入れられず、「小隊編成でないと冬の八甲田は越せない」という徳島大尉の断言は五連隊の行軍本番で的中する)。
    小峠で小休止中は「携帯食糧を雑嚢に入れたら凍ってしまう」と言い、食糧を凍らせてしまい食せなかった隊員に自分の食糧を分け与える(自身は食糧を油紙に包んで身体に巻きつけ、体温で温めて凍結を防ぐ工夫をしていた。食糧を凍らせてしまった隊員は、石のように固くなり銃剣で突いてもびくともしなかった食糧を「こんな物が食えるか!」と言って雪中に投げたが、これはのちに「絶食と疲労による遭難」を引き起こす)。
    往路で大峠から賽の河原へ行軍中は神田大尉より「前方偵察」を命ぜられ先頭に立つ。復路では猛吹雪となっていた賽の河原にて「先に田茂木野へ行き、地元住民を雇って雪中行軍隊の救助にあたる」よう神田大尉より命ぜられる(その後神田大尉は大量遭難を引き起こした責任を取って舌を噛み切り自決)。帰営途中の大峠にて猛吹雪にさらされ瀕死の状態で直立していたところを救助隊の三上少尉に発見され、五連隊雪中行軍隊遭難の第一報を伝える。
  • 平山一等卒:下条アトム
    往路・大峠と馬立場にて小休止中は「渡辺伍長殿、田代はどちらの方向でありますか?。向こうは白い雪ばかりで何も見えないのでありますが・・・」と聞き、さらに(馬立場で小休止中に「メシを一回抜いたほうが酒が美味い。一人一合は間違いない」と渡辺伍長が言ったのを受け)「渡辺伍長殿、田代に着いたら今日の酒は特別に一人三合でしょう」と「神田大尉は我々五連隊を無事に田代へ導いてくれる」期待を込めた会話を交わす。しかし現実は田代への進路を見つけられず、「温泉に入って一杯」という下士卒らの楽しみは八甲田の猛吹雪で一気にかき消され、休む場所は平沢第一露営地に掘られた雪壕へと変わってしまい、平山一等卒は焚き火で焼いた餅を食しながら「温泉に入って一杯のはずがこんなことか・・・・」と意気消沈する(雪壕内は保温性に乏しかったため座ると冷気が濡れた軍服や下着を貫いて染み渡り、食事はおろか睡眠すらまともに取れなかった。さらに付近の積雪は5m以上もあったため雪壕を掘ってもなかなか地面に行き当たらず、火を熾したり炊事をすると下の雪が解けて釜が傾いたり火が消えたりするなどしたため、これら作業は極めて難航した)。
    駒込川の峡谷から脱出し馬立場へ行軍中に尿意を催したが、凍傷で手先が利かなかったため自分でズボンのボタンを外せず、村山伍長にズボンのボタンを外してもらったうえで小便をする。その後は隊列を離脱し一人で田代へ向かって歩き始める村山伍長に付いていったが、途中で凍死し帰らぬ人となる。
  • 長谷部一等卒:佐久間宏則
    神田大尉の従卒。弘前第三十一連隊雪中行軍隊斉藤伍長の弟。幼年時代に宮城県築館町(現・栗原市)へ養子に出され「水呑み百姓の子だくさん」という環境で育つ(このため兄の斉藤伍長は「弘前生まれ・宮城育ちの弟は本当の雪の怖さを知らないので、このまま八甲田雪中行軍に参加させるのは心配だ」と言う)。
    小峠までの予備演習に参加した時は「(雪中行軍は好天に恵まれ)まるで雪の中の遠足だった」と神田大尉に言う(こうした噂は五連隊全体へ広まり、やがて行軍本番時における大量遭難のきっかけとなる。「雪の中の遠足」は、三十一連隊の八甲田雪中行軍に参加する兄=斉藤伍長が最も危惧していた言葉だった)。
    予備演習後は「兄の斉藤伍長と青森の叔母へ会いに行きたい」という理由で(直属の上司である)神田大尉へ外出届けを出し受理される(許可が下りて外出する際は「田茂木野での行軍本番前調査に同行した藤村曹長・江藤伍長・伊東中尉を呼ぶ」よう神田大尉に言われる)。しかし斉藤伍長が行軍日程の都合上先に弘前へ帰っていたためやむを得ず神田大尉の自宅へ行き、行軍準備をしながら風呂を沸かす。
    行軍本番では(雪壕を掘れなかった)平沢第二露営地にて「神田大尉を救出した手柄が評価された兄(斉藤伍長)が曹長へ昇任する夢」を見て寝言を言い、神田大尉に「お前は何を寝ぼけているんだ!、他人を頼ろうとするからそんな夢を見る。生きるか死ぬか、自分がしっかり立つことだ!」と叩き起こされる。その後鳴沢で「天は我々を見放した」と神田大尉が絶望の叫びを上げると力尽き凍死する(江藤伍長が「長谷部!」と呼びかけるが反応が無く、江藤伍長は長谷部一等卒が持っていた銃を雪上に立てる。のちに徳島隊の一員として八甲田山中を通過する兄の斉藤伍長は、雪上に立てられた銃を見て「ここにいるのは弟・善次郎だ」と確信する)。
  • 裸で凍死する兵卒:原田君事
    行李輸送隊員としてソリを牽引し、ソリ放棄後は炊事兼暖房用木炭を背負っていた(他の兵も銃剣で樹木を突いたり猛吹雪の中で矛盾脱衣するなど幻覚による発狂者が続出)。
  • 橇隊の兵卒:大竹まこと
    最初の死者。行李輸送隊員としてソリを牽引し、大峠で小休止中はソリ積載荷物を覆うシートに積もった雪を払い落としながら「指揮官が神田大尉殿から山田大隊長殿に変わっても俺たちには関係ない。こっちは早く田代に着いて温泉に入り一杯やりたい」と言うが、その楽しみは八甲田の猛吹雪とソリ隊の遅れで無残にもかき消される(ソリ隊は五連隊基地を出発してから田茂木野へ至る途中・幸畑を過ぎた時点で既に「重い荷物を積んだことによるソリ横滑り頻発」のため本隊より遅れ始め、本隊は田茂木野で小休止となるはずが「遅れていたソリ隊を待った関係で休憩時間が当初より延び大休止する」羽目になる。田茂木野以降ではソリの横滑りに加え「上り坂での深い積雪と猛吹雪」がソリ隊の遅れをさらに大きくし、行李輸送隊は大峠へ至る段階で本隊より2km以上も後方へ引き離される)。
    平沢第一露営地を出発時、汗だくになった下着と軍服が雪壕を出た途端に一瞬で凍結。それにより凍死した(他の行李輸送隊員もソリを放棄して重い荷物を背負い、極寒と猛吹雪の中を不眠不休絶食の状態で歩いたため次々落伍。スコップを持っていた隊員も道具もろとも落伍したため平沢第二露営地では雪壕を掘れず、吹き曝しの露天で一夜を過ごす形となった)。
  • 小野中尉の従卒:浜田宏昭
    平沢第一露営地の雪壕では「神田大尉殿を元通りに!。大隊本部のやり方には疑問を感じる」と不満を漏らし、山田大隊長の行軍指揮に異議を唱えて神田大尉の指揮権回復を願う(小野中尉は「神田大尉殿は雪中行軍を必ず成功させる」と返答するが、実際の五連隊行軍は暗転し、予想と全く正反対の「大量遭難」という悲劇になる)。
雪中行軍随行大隊本部
  • 山田少佐(第2大隊長・モデルは山口鋠少佐):三國連太郎
    行軍本番中に「我田引水」と「朝令暮改」を重ねて隊の指揮系統を乱し、結果的に「大量遭難」という悲劇の原因を作ることになる。
    神田大尉より予備演習実施結果報告を受けると「大隊を繰り出しても行軍可能」と判断(神田大尉は「大隊を繰り出しての行軍はあくまで好天に恵まれた場合の話であり、本番は小隊編成でないと悪天候時に行李輸送隊の負担が増す」と不安を訴える)。「行軍本番で起こりうる(天候の急変・吹雪・凍傷・遭難など)万一の事態」は一切考慮せず(神田大尉ら部下からの上申・進言は一切無視し)、「五連隊は神田大尉率いる五中隊を核として下士卒を全員参加させる中隊編成とし、大隊本部も随行する形式での行軍計画書を作る」よう神田大尉へ独断(トップダウン)で命令。五連隊は「小隊編成による長距離行軍とした徳島隊に勝つための行軍」へと目的をすり替えた山田大隊長の邪道により、「大量遭難により199名の隊員が犠牲」という最悪の結末に至る(故に、徳島大尉の勧めにより小峠まで実施した予備演習の成果は「山田大隊長の事後干渉」が原因で五連隊の行軍本番へ何一つ生かされず、「雪の中の遠足」は本番で「死の猛吹雪地獄」へと180度暗転する)。
    津村連隊長への行軍計画書提出時は「大隊本部の随行はあくまで『雪中行軍の研究をつぶさに行い、今後の寒地教育指導体制確立を目指すため』にするもので、行軍隊とは無関係の編成外組織である。よって中隊の指揮は一切神田大尉に任せる」と言う。だが本番では当初の方針を自ら破って目的をすり替え、小休止していた田茂木野で「案内人は神田大尉が頼んだのか。五連隊は案内人など頼むわけない。お前たちは案内料を稼ぐ目的で『田代までの案内人をしたい』と言っているのだろ。戦をする者がいちいち案内人など頼んでいられるか。我々は地図と方位磁石を持っているから案内は要らない」と作右衞門らに言って案内人雇用を独断で却下。そのやりとりを聞いて慌ててやってきた神田大尉へは「案内料が欲しいために『案内人なしでは田代まで無理だ』と言っている者がいる。馬鹿なやつだ」と威張る(山田大隊長は行軍本番前調査に同行しておらず、作右衞門らに田茂木野から田代までの案内を頼んだ旨を知らなかった)。そしてついに指揮権を神田大尉より奪い、大隊長自ら勝手に出発命令を出す。なお村長の作右衞門に自慢した山田少佐の方位磁石は、駒込川の峡谷に迷い込んだところで針が凍結し使用不能となる。
    往路で大峠から賽の河原を越えて馬立場へ行軍中、「遅れているソリを放棄し、荷物は各小隊の隊員に背負わせて運ぶ方法に変えたい。遅れが大きくなっているソリでこのまま荷物を運ばせたら中隊の動きに影響が出かねない」と神田大尉に懇願される。だが山田大隊長は「今は難中だが、積雪の状況その他で楽になる可能性もある。ソリの放棄はいよいよ駄目な場合だ」と神田大尉の上申をすぐ受け入れようとしない(このためソリ隊は本隊より2時間以上も遅れ、行李輸送隊員は猛吹雪の中で汗だくになりながら深い積雪に阻まれて進まない重いソリを牽引。中隊長や小隊長からは「頑張れ!」・「しっかりソリを引け!」という命令が飛ぶ)。結局ソリは馬立場を過ぎた鳴沢の「平沢第一露営地」手前まで進み、行李輸送隊の平沢第一露営地到着は夜遅くにずれ込む。平沢第一露営地より先はソリを放棄し、各小隊が荷物を分散して背負う。
    往路・馬立場到着後は神田大尉が藤村曹長以下15名を先遣隊として田代へ向かわせたものの、行軍隊の本隊は(遅れていたソリ隊到着を待った関係から)猛吹雪の雪原で長時間待たされる羽目になり、山田少佐は「設営隊からの連絡はまだないのか!?」と気をもむ。部下から「藤村先発隊からの連絡はまだない」旨の返事が来ると、ついに神田大尉を将校偵察として田代へ斥候させ、山田大隊長自身が行軍隊本隊の指揮を代行。「当日中に早く田代へ着こう」と五連隊一行は焦る(しかし本隊は先頭を進む神田大尉の歩行速度に追いつかない)。
    「『遅れているソリ隊応援』というまさかの行動で下士卒は疲れている。一刻も早く(最初の宿営地)田代に着くことが重要だ」という部下からの懇願を受け、山田大隊長は悪天候のため引き返す(帰営する)より「部下が『早く田代へ着いて温泉で一杯やりたい』と言った旨を把握したので、最初の宿営地となる田代へ行く」ことを優先。こうした大隊本部の判断(「悪天候を押しての田代行き行軍」)がやがて「大量遭難」という悲劇を生む。
    (第一日目本来の目的地である田代へ着く前に日没を迎えたため)雪壕を掘った平沢第一露営地では「このままじっとしてたら翌朝までに全員が凍傷で動けなくなるから、直ちに帰営だ。田代への道が見つけられない以上仕方がないじゃないか。さっきのような嵐がまた来たらどうする」と(「帰営は晩やむを得ない場合の話。夜明けを待って出発すべき」という神田大尉の上申を全く無視し)「深夜のうちに雪壕を出発する」不適切な命令を発し、これが疲労・寒さ・不眠による大量遭難のきっかけとなる。(スコップを持っていた隊員が駒込川脱出時の崖登りで道具もろとも落伍したため雪壕を掘れなかった)平沢第二露営地では「このまま時間が経てばますます多くの隊員を失うので、今すぐ出発させて下さい」と神田大尉に懇願されると、当初出していた命令を180度翻し「出発は明るくなるまで待て。昨夜は夜中に雪壕を出たのが間違いだった」と前日の非を認める。
    復路・鳴沢から馬立場へ向かう途中で山田少佐は人事不省となり、この先の田茂木野まで他の隊員に支えられ何とか行軍する(このため指揮権は神田大尉へ戻す)。賽の河原手前で一瞬晴れ間が覗くと前方に海が見え、指を差して「青森湾だ!」と言う。これを聞いた伊東中尉は「我々五連隊は雪の中を彷徨っていたのではない。間違いなく田茂木野へ向かっているのであります」と言い、神田大尉と共に「前進!」と田茂木野への出発命令を出す。
    帰営時は救助隊のソリに乗せられて田茂木野へたどり着き、迎えに来た五連隊長の津村中佐に「連隊長殿、申し訳ありません。今回の遭難は冬山や雪に対し自分があまりにも知識が無かったことに起因し、その全責任は自分にあります」と土下座して謝罪。(山田大隊長からの「ところで、三十一連隊のほうはどうなりましたでしょうか?」との質問に対し)返答した津村連隊長より「三十一連隊は(故障のため三本木より中途帰営した松尾伍長を除く)全員が八甲田の踏破を終え弘前へ帰営中である」旨を告げられると、「行軍計画段階から神田大尉へ絶対服従を強いて『行軍の中隊編成と大隊本部随行』を命じ、部下からの声を聞く耳を一切持たなかった自分の愚かさと傲慢さ」・「『神田大尉の上申通り、あの時夜が明けてから平沢第一露営地の雪壕を出発し、かつ進藤特務曹長の妄言を信じなければ隊員の命を助けられた可能性があった』という無念」・「行軍本番前に『三十一連隊の行軍計画は強引かつ無謀だから成功するとは思えない』と自ら言ったのに、実際強引かつ無謀な行軍計画を立てて失敗したのは自隊=五連隊のほうだったという『自業自得』をまざまざと見せつけられた惨めさ」・「『小隊編成でないと冬の八甲田は越せず行李輸送隊の負担が増す』という神田大尉ら部下からの不安及び徳島大尉からの進言を聞き入れず『中隊編成及び大隊本部随行』とする旨を独断で命じた自分の未熟さと計画の無謀さ」・「往路の田茂木野で案内人雇用を断り、猛吹雪という悪天候だったにも拘わらず自分たちだけで行軍を強行した結果の不甲斐なさ」・「行軍計画書には『随行大隊本部は行軍とは無関係の編成外で、中隊の指揮は一切神田大尉に任せる』と書いたのに嘘をついて往路の田茂木野以降で神田大尉より指揮権を奪い、かつ行軍中に自分が我田引水と朝令暮改を重ねたことで数多くの兵を凍死させた罪の重さ」・「日露戦争に備えた寒地訓練&物資輸送経路開拓が本来の目的だったのに、『徳島隊に勝つための行軍』へと目的をすり替えた自身の杜撰さ」を改めて深く反省。最後は搬送された青森市内の病院で拳銃自決する。
  • 倉田大尉(モデルは倉石一大尉):加山雄三
    神田大尉を支える。当初八甲田雪中行軍に参加する予定はなく、行軍本番が近づいた時に急きょ大隊本部の随行員に加わったためこれまで倉田大尉自身は(行軍往路における)発言を控えていたが、進藤特務曹長の妄言を信じて駒込川の峡谷へ迷い込み、神田大尉が地図と方位磁石で現在地を確認した段階で「馬立場へ進むことは帰営を意味する。田代への道は発見出来るかどうかわからず、その強行には多数の犠牲者が出る可能性があり、そんな行軍は成功しても意味が無い。即刻帰営すべきである。神田大尉の言う通り、駒込川の支流に沿って西へ進み、馬立場を目指すのがいいだろう。今後の行軍先頭には自分も立ち、そして大隊長殿にも行軍の先頭に立って頂く」と初めて自身の口から発言する。
    行軍復路の平沢第二露営地で隊員が次々と力尽き、「眠るな、立つんだ!。しっかりしろ!」と仲間の兵から必死に叩き起こされているさまを目のあたりにした神田大尉が「このまま時間が経てば、ますます多くの隊員を失う。歩いているほうがむしろ被害が少ない。夕べは夜明けまで出発を待つべきだったが今の状況は違う。すぐに出発させて下さい!」と慌てると、「そう興奮するな神田大尉、闇夜での帰路発見は極めて可能性が少ない。明るくなってから出発しよう。明日になれば風も雪も少しは収まるだろう」と落ち着かせる。
    神田大尉の「天は我々を見放した・・・。こうなったら露営地に引き返し、先に死んで逝った者と一緒に、全員が死のうではないか・・・」という絶望の叫びを聞いた長谷部一等卒ら隊員が次々と力尽き雪中に倒れていくさまを目の当たりにすると、「帰路が発見出来たぞ。ここに高地があることにより、露営地の位置がわかったのだ。全員露営地に戻り馬立場へ急げば、今日中に帰営出来る。見ろ、天候もあの通り回復してきたではないか」と隊員を励ます。
    復路・鳴沢では凍死した隊員の背嚢を集めて(寒さをしのぐための)焚き火をし、その後「田茂木野方面へ偵察の斥候を出す。希望者は集まれ」と部下の隊員に告げて先発隊の帰路発見報告を待つ(高橋伍長より「自分以下6名は無事馬立場に至り、田島一等卒以下4名は引き続き田茂木野方面へ進出中」との報告を受けると「既に偵察隊は馬立場を越え田茂木野方面へ進出中である」旨を隊員に告げ、神田大尉と共に出発命令を出す)。焚き火をしている間に神田大尉が「昨夜から今朝にかけては焦りからつい思慮の足らぬ言動をし申し訳ない」と謝罪すると、「無理はない、誰にしてもあることだ」と励ます。
    復路・馬立場では部下の隊員が出発前点呼をしている間「露営地で犠牲者の背嚢を集めて燃やした件と、重荷となるため半数の銃は叉銃にして八甲田へ残してきた件、これらは大隊本部が責任を持つ。今後は他のことを一切考えず、遠慮なく我が五連隊を先頭で引っ張ってくれ。そのそばには離れず、俺がいる」と神田大尉を励ます。
  • 沖津大尉(モデルは興津大尉):玉川伊佐男
    雪上に倒れた兵の治療を永野三等軍医と共に行っていたが、最後は鳴沢にて自身も倒れてしまい、永野三等軍医と共に(凍死により)帰らぬ人となる。
  • 永野三等軍医(モデルは永井源吾三等軍医):竜崎勝
    小峠までの予備演習参加時は「凍傷どころか寒さを訴える者もいない。これじゃ軍医も用なしですな」と安堵する(だが本番では予備演習時とは正反対の「大量遭難」という悲劇に発展し、最後は永野三等軍医自身も倒れ帰らぬ人となる)。
    行軍出発前日に地元の青森測候所(現・青森地方気象台)を訪れて行軍期間中における八甲田付近の天候を確認。「優勢なる低気圧が太平洋岸を北上しており、それが昼頃青森県に近づき北西の風が強まってきたら天候の異変と考えて良い」との情報を得ていた。その旨を小休止中の大峠にて隊員(神田大尉ら)に伝え「天候は明らかに急変に向かっているので、行軍を中止し帰営する」よう進言したが、部下の将校らに「これ以上の行軍が不可能だとは思えない。ここで中止し帰営したら今回の雪中行軍は何のために計画し準備したのか、その意味が無くなる」と却下されてしまう(これを受け永野三等軍医は「自分は大隊本部付であり直接の指揮官=神田大尉にこれ以上どうこう言えないので、今後の行軍方針については大隊長殿=山田少佐に直接意見具申する」と返答するが、上官の山田大隊長は悪天候にも拘わらず行軍続行を独断で決定)。馬立場で小休止中は「負傷者・凍傷者はいないか。手足の指先を動かして確かめてみろ」と隊員に告げ、この先の五連隊行軍に支障が無いか確認する。
    平沢第一露営地出発時にソリ隊兵卒が突如叫び声を上げて雪上に倒れ込むと、「下着が汗に濡れ、小倉生地の服に滲んでいた。雪壕を出た途端、寒さのためそれらが一瞬で氷になり、それによる凍死である」旨の診断を下す。
  • 田村見習士官(モデルは田中見習士官):日和田春生
    大峠で小休止中に永野三等軍医が「天候悪化のおそれがあるので行軍を中止し帰営すべき」と言うと、「永野軍医殿は風速と気温の低下を低気圧のように言われるが、ここは平地ではなく山の上だからこのくらいの風は当たり前だ。兵卒の服は木綿の軍服だが我々と同じ羅紗の外套を1枚着用し、その上に予備をもう1枚持っている。ここで中止し帰営したら雪中行軍を計画・準備した意味が無くなる」と反論し行軍続行を主張する(実際、五連隊雪中行軍参加隊員は冬山対応の服装とは言い難い軽装だった者が大半を占めていた)。
  • 井上見習士官(モデルは今泉見習士官):仲野裕
    往路・大峠にて小休止中「天候悪化のおそれがあるので行軍を中止し帰営すべき」との進言が永野三等軍医より出されると、「これ以上の行軍が不可能だとは思えない。たとえ作戦が不可能な状況に遭遇してもそれを可能にするのが我々の任務だ」と行軍続行を主張する(その後大隊本部の山田少佐が「前進!」と出発命令を出し、「雪中行軍隊は予定通り田代へ向けて出発する」と行軍続行を独断で決定)。
  • 進藤特務曹長(モデルは佐藤特務曹長):江角英明
    往路・田茂木野にて小休止中「この前来た大尉様はいないか?」と村長の作右衞門に声をかけられ、「この前来た大尉殿?。神田大尉殿なら向こうだが、何の用だ?」と返答する(しかし作右衞門にその後応対したのは神田大尉ではなく山田大隊長で、神田大尉はそのあと慌ててやってきたため作右衞門と一切話が出来ず、指揮権を山田少佐に奪われてしまう)。馬立場で小休止中は「自分は夏場に一・二度行ったことがあるのでよく覚えていますが、馬立場からはもう2kmで田代です」と山田少佐に言う(山田少佐は「田代まであと2kmか、もう一息だな」と返答)。
    その馬立場で言った「過去の経験」をもとに、未明の暗い道を帰営途中に突如「自分は田代への道を知っている。ブナの枝が2本切り落としてあり人の手が加えられているので、これが田代への目印になる。枝が2本切り落とされたブナを右に見ながら歩いていけば田代へたどり着ける」と言い、それに則った山田大隊長の命令により行軍の先導に立つ(しかし猛吹雪となっている冬の八甲田にこうした過去の夏山経験は一切通用しない)。山田大隊長らは(神田大尉の「地図上での判断ではないか」という疑問を無視し)そんな進藤の妄言を信じ込み、当の進藤特務曹長は未明の暗い道と猛吹雪で道を誤り、一行は本来の田代行き進路を大きく外れて駒込川の峡谷へ迷い込んでしまう(もと来た道は吹雪により跡形も無く消されたため、五連隊は完全な遭難状態に陥る)。
    進藤の方針に従った(妄言を信じ込んだ)山田大隊長は、部下を励ます目的で「連隊までは20kmだが、田代まではわずか2kmだ。田代への道が発見されたことを告げれば、必ず兵も元気を出して歩く」と言い進藤本人へ「行軍隊の先頭に立つ」よう命じるが、こうした「部下思いの発言」が逆に悲劇を呼び、それをきっかけに「五連隊雪中行軍隊の大量遭難」はやがて本格化する(誤った道案内に気づくと進藤は錯乱して隊から離れ、極寒の駒込川へ飛び込み凍死。神田大尉は地図と方位磁石を用いて現在地を割り出し「やはり我が五連隊がいるのはこの駒込川あたりと思われます。ここから脱出するには駒込川の支流に沿って西へ進み、鳴沢付近で方向を変えて馬立場へ進む以外に方法が無いと思われます」と山田大隊長及び各小隊長に告げる。五連隊は神田大尉及び倉田大尉の方針に従って駒込川の支流を西へ進んだところ、崖に突き当たる行き止まりとなって進退窮まり「馬立場へ進むにはこの先の崖を登るしかない」と判断。山田大隊長の「やむを得ん、登ろう」という発言と神田大尉の「中隊はこれより、この斜面を登る。進め!」という命令により、一行は馬立場を目指して雪の積もった急斜面を登る。だが多くの兵は冷たい雪氷に手足の感覚と体力を奪われて滑落し、骨折したり樹木をつかんだ手袋が裂けて出血する者が続出。崖下に滑落した兵は力尽きて凍死し、崖を登り切って高地に出た一行は猛吹雪にさらされる)。
  • 今西特務曹長(モデルは長谷川特務曹長):井上博一
    往路・馬立場で小休止時は「やるなあ神田も、小峠から猛吹雪の中を迷うことなく馬立場まで7kmか」と言い、神田大尉は案内人なしでも八甲田雪中行軍を成功させるだろうと期待する(だが「田茂木野での案内人雇用失敗」は五連隊にとって致命傷=命取りとなる)。

雪中行軍隊の家族・親族[編集]

  • 神田はつ子(神田大尉の妻):栗原小巻
    行軍出発前日は神田大尉より「携帯懐炉は5・6日分用意してくれ」と言われる(神田隊の雪中行軍は2泊3日で計画されたが、初めての山岳雪中行軍で冬山に不慣れな者が多く行軍日程が当初計画より延びる場合を想定し、神田大尉は携帯懐炉を余分に持たせるようはつ子へ要請)。
    田茂木野に設けられた夫(神田大尉)の遺体安置所では八甲田踏破を終えたあと「神田大尉と最期の別れがしたい」と申し出た三十一連隊の徳島大尉を出迎え、「夫は『八甲田で三十一連隊の徳島様に会うのが今回の雪中行軍の楽しみ』と申しておりました」と語る(その後徳島大尉は神田大尉の遺体が納められた棺の蓋を開け、「間違いなく自分は、雪の八甲田で会いました」と号泣する)。
  • 徳島妙子(徳島大尉の妻):加賀まりこ
    岩木山雪中行軍の内容を学習するため自宅を訪れていた神田大尉より「(神田大尉の地元)秋田の地酒」を手土産としてもらい、最後は夫・徳島大尉の挨拶に同席して神田大尉を玄関で見送る(神田大尉は「これからは行軍準備に忙殺され、次回徳島大尉にお会い出来るのは雪の八甲田山中になるでしょう」と返答するが、神田大尉本人が実際に徳島大尉らと会うのはこれが最期となる)。
  • 斉藤伍長の伯母:菅井きん
    「出来れば弟(長谷部一等卒)は八甲田雪中行軍に参加しないほうが良い」旨の伝言を兄の斎藤伍長より託される。
  • 少年時代の徳島:石井明人
    劇中には地元の「弘前ねぷた祭り」が映し出されている。

案内人たち[編集]

  • 滝口さわ(宇樽部村):秋吉久美子
    宇樽部と実家がある戸来(現・三戸郡新郷村)鹿田地区の往復時に冬の犬吠峠越えをした経験が二度ある。この経験を活かし、行軍本番時は猛吹雪をものともせず宇樽部から中里までの三十一連隊案内人を務める(徳島隊は急勾配と猛吹雪による落伍者を出さぬよう隊員同士を麻縄で一列に結んだが、さわの歩行速度に一行の足取りが追いつかず、徳島大尉は猛吹雪でさわを見失わないよう「案内人!」と叫ぶ。徳島隊一行が犬吠峠を越えて中里の中心部へ入ると加賀二等卒が先頭に立って喇叭を吹奏し、その音色を聴いた地元住民が日の丸の小旗を振って徳島隊一行を出迎え。中里の集落に到着して三十一連隊が整列し「案内人の生家が戸来の鹿田なので、案内はここまでとする」と徳島大尉が言うと、さわは「兵隊さん、お元気で」と挨拶して徳島隊と別れ、行軍隊一行の敬礼を受けながら鹿田にある実家へと帰省。その後徳島隊は夜間耐寒訓練のため中里集落の郊外に雪壕を掘る)。
  • 沢中吉平(熊ノ沢部落):山谷初男
  • 福沢鉄太郎(熊ノ沢部落):丹古母鬼馬二
    沢中・沢田・大原と共に増沢から田茂木野までの三十一連隊案内人を務める。三十一連隊の一行が八甲田山中で見つけた五連隊長谷部一等卒の遺体へ黙祷を捧げている間に馬立場へ向かう道を見つけ、その旨を(長谷部一等卒の遺体への黙祷を終えた)徳島大尉に報告。案内任務終了後は「八甲田で見たことは(親・兄妹含む身内へも)一切口外してはならない」と徳島大尉より諭される。
  • 沢田留吉(熊ノ沢部落):青木卓
  • 大原寅助(熊ノ沢部落):永妻旭

その他[編集]

  • 作右衛門(田茂木野村・村長):加藤嘉
    部下の藤村曹長・江藤伍長・伊東中尉を率いて行軍本番前調査をしていた神田大尉より「1月末か2月初めに、田茂木野在住の者でここから田代へ出て増沢を通り、三本木へ行った者はいないか?」と聞かれた時、「そんな馬鹿者はいない。雪が深くて風も強く、とても歩けたものじゃない。十数年前に幸畑の者と田茂木野の者十数名が『田代温泉へ行く』と言って出かけたが吹雪にのみ込まれ、賽の河原でみんな命を落とした。1月と2月の八甲田は一度踏み込んだら生きて帰れない、『白い地獄』だ」と答えて冬山の危険を警告する(しかし上官の山田大隊長は神田大尉らが実行した行軍本番前調査に同行しておらず、「冬の八甲田は白い地獄だ」という説明を作右衞門より受けた旨の報告も山田大隊長へは上がらなかった)。
    行軍本番では田茂木野での第五連隊小休止中に村人を引き連れて「田代までの案内を聞いていたので何とかしようと思う」と申し出、「田代へ行くには案内人なしでは無理だ。山は毎日吹雪だし、田代までは広い雪の原っぱで目標物は何も無い」と言うが、大隊本部の山田少佐に断られる(山田少佐が「出発用意」と言うと、「よりによって『山の神様の日』に、命知らずの馬鹿な真似にもほどがある」と無謀な行軍を嘆く)。
  • 滝口伝蔵(宇樽部村):花沢徳衛
    「宇樽部から中里までの三十一連隊案内人を務める嫁のさわをよろしくお願いします。さわは銀山で働いている息子の大切な嫁で、生まれたばかりの子供もおります。どうか『猛吹雪でこれ以上峠を越えられない』とさわが言った場合は、無理強いせず引き返してやって下さい」と徳島大尉に挨拶する。
  • 鈴木貞雄(三本木の宿の主人):田崎潤
    弘前三十一連隊の門間少佐より「1月25日は五連隊が三本木に到着しているはず」という電話を受け、その内容をメモして徳島大尉に伝える(この電話により「五連隊は遭難したのでは」との兆候を察知)。しかし徳島大尉は「確かに今日は1月25日だが、悪天候などによる1・2日の遅れはある。軍隊とはいえ何から何まで予定通りにはいかない」と返答し、この時点では五連隊が遭難した旨を知らなかった(次の三十一連隊宿営地となる増沢では「青森五連隊・弘前三十一連隊御休憩所」看板が地元住民の揮毫により掲げられたが、そこに神田隊の姿は無かった)。
  • 中里村の老人:浜村純
    中里の郊外で三十一連隊が夜間耐寒訓練のため雪壕を掘っていたところに「例年にない厳しい冷え込みなので我々の家に泊まらないか」と勧めたが、「ご厚意はありがたいが、軍には軍の方針がある」と徳島大尉に断られる。
  • 西海勇次郎(東奥日報記者・モデルは東海勇三郎記者):船橋三郎
    白地山手前の切明で小休止中は、他の隊員と共に唐辛子を靴の中にまぶし足の指先が凍傷にかかるのを防ぐ(徳島大尉は切明を出発する際「これより白地山を経て元山峠へ向かうが、風が強いから全員耳当てを着けろ。手袋を2枚にし襟巻きを巻け」と参加隊員全員に寒さ対策を指示。行軍中の寒さ対策などは指揮官より指示が出てから行うのが原則なので、勝手な行動は厳禁)。
    宇樽部で宿営中は取材原稿を書きながら「五連隊の出発はやはり今日(1月23日)で?」という会話を斉藤伍長及び加賀二等卒と交わす(斉藤伍長は「正確な出発日はわからないが、やはり五連隊は今日1月23日に出発しないと我々三十一連隊と八甲田ですれ違えない」と返答。徳島隊一行は宇樽部の民家へ分宿し、濡れた軍服・下着・藁沓・靴下・手袋などを囲炉裏の火で干して乾かし、翌朝の犬吠峠越え行軍に備える。一方で『宿営は自分たちだけで行おう』と大量の荷物を積んだソリ隊を伴っての行軍となった神田隊はそれら行動が一切出来ず、濡らした物や身体を凍結させたことによる凍死者・凍傷者を数多く出す)。
    八甲田を越え青森市内へ入ったところで西海記者は同行取材を終えて徳島隊と別れ、勤務先の東奥日報本社へ戻って三十一連隊雪中行軍取材の内容を新聞記事にまとめる(八甲田から青森市内への行軍同行取材時は凍死した長谷部一等卒の銃を持ち帰り、青森市内で三十一連隊と別れる時に徳島大尉へ手渡す)。
    青森五連隊が八甲田雪中行軍で大量遭難した旨は当時の新聞で大きく報じられ、生還した11名の兵に対しては「山田大隊長が指揮権を神田大尉より奪い、下士卒ら199名を遭難に追い込み殺した」ことへの手厳しい批判が相次いだ。

あらすじ[編集]

1901年(明治34年)10月、弘前第八師団の第四旅団本部で、旅団長の友田少将と参謀長の中林大佐が青森歩兵第五連隊と弘前歩兵第三十一連隊の連隊長以下を集めて会議を開いた。議題は八甲田の雪中行軍演習であった。日清戦争終了から6年を経て、ロシア満州への進出で日露関係が緊迫して、もはや大陸での日露開戦は不可避と見られていた。第八師団では対露戦の準備に入っていた。そこで課題として参謀長が挙げたのは寒地装備と寒地訓練の不足であった。相手は零下40度の雪原でも闘えるロシア軍であり、日本軍にはそのような経験が無いので、極寒対策や雪中行軍の注意点及び装備品の研究を行うために厳冬期の八甲田山を行軍して調査を実施するものであった。

弘前第八師団の友田少将/旅団長(島田正吾)は、雪中行軍の実績がある青森歩兵第五連隊神田大尉/中隊長(北大路欣也)と弘前歩兵第三十一連隊徳島大尉/中隊長(高倉健)に「二人とも雪の八甲田を歩いてみたいとは思わないか」と提案した。これは実質命令であると双方の連隊長は受け取っていた。会議のあとに弘前歩兵第三十一連隊長児島大佐(丹波哲郎)と青森歩兵第五連隊長津村中佐(小林桂樹)はどうせなら八甲田ですれ違う行軍計画にしようと気軽に口約束する。そして出発前、弘前の徳島大尉の私邸で勉強会を終えた徳島と神田は、雪の八甲田での再会を誓い合った。

徳島大尉は第三十一連隊雪中行軍隊の行軍計画要項を連隊長に提出した。連隊長同士の約束を考慮し、10泊で総距離240kmの強行日程を組み、少数精鋭の27名の隊員(その中には兵卒よりも下士官を多くした)で雪中行軍する計画書であった。「このような計画になった責任は連隊長にあります」と説明して雪の八甲田で両隊が合流する約束をしたため、弘前からは南を迂回して十和田湖を東に進んで、東南の方向から八甲田山に入るコースしか選択肢はなかったのである。小隊規模にもならぬと連隊長から指摘されると、兵卒を少なく下士官を多く参加させて万が一の場合でも申し訳が立つと言い、「自分は安請け合いしたことを後悔しています。冬の八甲田は恐ろしい所です。」と連隊長に語るのであった。

一方神田大尉の第五連隊雪中行軍計画は、弘前とは対照的に青森からいきなり八甲田をめざす3日間の短期日程で、当初は小隊規模を予定していた。ところが、弘前第三十一連隊の小隊にも満たない規模での長い行程を聞いて大隊長の山田少佐(三國連太郎)は、弘前第三十一連隊と比較して、青森第五連隊の内容が貧弱に思えて、規模も行程も特色を出すために中隊規模に拡大した上に大隊本部付きでの大行軍にすることを唱え、実施することになった。

1902年(明治35年)1月20日午前5時、弘前第三十一連隊雪中行軍隊は連隊本部を出発した。青森第五連隊では雪中行軍計画要項が提出されて、連隊長が大隊本部の随行は雪中行軍とは別だなと念を押して決裁していた。連隊長は大隊長の同行に不安を感じていた。雪中行軍の本隊である中隊編成は196名、別途随行する大隊本部は14名、合計210名の規模となった。問題は物資を運ぶ輜重隊が遅れることが心配された。神田大尉は3日間の行程にはならず5〜6日かかることを覚悟していた。

1月23日午前6時55分、青森第五連隊雪中行軍隊は連隊本部を出発した。この日の行程は田茂木野 - 小峠 - 大峠 - 賽の河原 - 馬立場 - 鳴沢 - 田代(泊)で20kmを予定していた。しかし、行程半ばで天候が悪化、また雪山に慣れない人間の集団で行軍に影響が出始め、さらには単なる雪中行軍調査のための随行で指揮権の無いはずの大隊長の干渉によって指揮系統が混乱。神田大尉が想定していた田茂木野での案内人の雇用もなくなり、道案内がないまま行軍することになる。やがて吹雪が吹き荒れて、予断を許さない天候状況に行軍するかどうか判断することになった時、別の中隊長が大隊長に意見具申して大隊長が強行する判断を下した。この時点でもはや神田大尉の指揮権は無かった。輜重隊が遅れたためソリの放棄を大隊長に求めたが大隊長が反対して行軍隊の指揮は決定的に乱れてしまった。そして最初の宿営地である田代への道がどうしても発見できず、日が暮れて暗い雪原の中で寒さに震えながら立ち往生を余儀なくされた。田代までわずか2キロの距離であった。ここでまた混乱が起こる。突然大隊長が行軍を中止して帰営を決断する。そして帰営するため行軍を始めると進藤特務曹長が田代への道筋が分かったとして、方向転換して再び田代へ向かうが峡谷に迷い込んでしまった。特務曹長は錯乱して隊から離れていった。峡谷からは登って行かざるを得ず、氷に足を滑らして多数の犠牲者を出した。神田大尉は馬立場に戻ればと考えたが、もはや過酷な環境と疲労のために雪中行軍隊は四散し、バタバタと倒れていった。2日目の夜も野営を余儀なくされた。神田大尉は徳島大尉に思いを致していた。そして朝になって天候が回復さえすればと念じていた。しかし3日目の1月25日朝を迎えたが天候は回復しなかった。それを見て神田大尉は「天は我々を見放した」と叫んだ。村山伍長(緒形拳)はこの時に隊から離れて一人で行動を始めた。

一方、弘前第三十一連隊雪中行軍隊は一人負傷したが、案内人を雇い入れて計画通りに行軍を進めていた。1月25日に三本木に到着したが、この日に第五連隊雪中行軍隊も三本木に到着の予定であったことを知って、徳島大尉は不安を覚えるのであった。その三本木に電話を入れて来たのは青森第五連隊本部であった。雪中行軍隊の到着の報に一瞬安堵したが、それが弘前第三十一連隊だったと知って、第五連隊長は全連隊に集合をかけた。第五連隊から行方不明になったとの報を受けた弘前第三十一連隊本部は雪中行軍の中止を決断したが徳島大尉に連絡する術がなかった。

1月27日、賽の河原で神田大尉から先に田茂木野に向かい救援を依頼するように命じられていた江藤伍長を、第五連隊本部から来た遭難救助隊が大峠付近で発見し、第五連隊本部並びに師団本部に第五連隊雪中行軍隊遭難の報が入る。しかし第三十一連隊雪中行軍隊はすでに八甲田山に突入していた。第三十一連隊行軍隊は過酷ながらも順調に八甲田を進むが、道中、斉藤伍長の弟である長谷部一等卒(神田大尉の従卒)の遺体を発見する。これで第五連隊行軍隊の遭難を知るが、徳島大尉は不安を押し殺して行軍を続け一気に八甲田の踏破を目指した。猛烈な風雪にたじろぐが前進して行った。困難な行軍の途中、賽の河原にて徳島大尉は、多数の第五連隊行軍隊員の死体を発見する。その中に神田大尉を発見する。遭難の責任を取り、神田は舌を噛み切って雪中で自決していたのだった。冷たくなった神田大尉の顔に、生前の彼の笑顔が重なり、八甲田までの苦労をねぎらう言葉を徳島にかけてくるように見えた。既に逝った男の前で、徳島は幻の再会を果たした。

悲しみと衝撃を受ける徳島大尉だったが、無事に八甲田山を突破、雪中行軍を成功させる。1月29日午前2時に田茂木野に到着する直前、道案内人たちにその労をねぎらい、手当を渡してから「八甲田で見たことは今後一切喋ってはならない」と忠告するのであった。その後に青森第五連隊の遺体収容所に行き、徳島は、収容された神田の遺体と対面。だが第三十一連隊行軍隊が賽の河原に到達する以前、既に第五連隊本部が神田を含む第五連隊行軍隊員の遺体を収容していたことを知り愕然とする。神田の霊が雪中で徳島を待っていたのか、それともあの再会は過酷な寒さによる徳島の幻想であったのか。徳島は神田の妻はつ子(栗原小巻)から、神田大尉が徳島との再会を楽しみにしていたと聞かされ、「会いました。間違いなく自分は賽の河原で会いました」と言って泣き崩れるのであった。

弘前第三十一連隊雪中行軍隊は負傷者1名を三本木から汽車で弘前に帰した以外は全員八甲田を無事踏破し生還を果たした。一方青森第五連隊雪中行軍隊は大隊本部の倉田大尉(加山雄三)の引率の下、12名しか生還(内1名は生還後に死去)することができなかった。その中には人事不省のまま生還した山田大隊長もいたが、彼は遭難の責任をとり、病室で拳銃で心臓を撃ち抜き自決する。徳島大尉以下の面々と第五連隊で生還した倉田大尉は、2年後の日露戦争黒溝台会戦において全員戦死を遂げた。

やがて時が流れて平和な時代が訪れた。青森ねぶた祭の歓声に沸く頃、ロープウェーに乗って、八甲田の自然を窓から静かに眺める一人の老人がいた。足が不自由で杖をついて歩くこの老人は草木に覆われた穏やかな景色の中、八甲田山系の山々をただ見つめていた。青森歩兵第五連隊雪中行軍隊で生き抜いた村山伍長であった。

エピソード[編集]

  • 当初、神田大尉役は渡哲也がオファーを受けていた。また、山村聡も出演するはずだった。(一部のポスターでは、山村の名前が入る物もある)
  • 映画化の企画は最初に東映岡田茂社長に持ち込まれたが「そんな蛇腹(明治時代軍服)の話(明治物)が受けるかい」と岡田が断った後、東宝で製作され大ヒットを記録した[2]
  • 脚本を書いた橋本忍は、当初群馬県の温泉地で撮れないものかと考えていた。しかし野村芳太郎森谷司郎と八甲田の山々を歩いて見て、ここで撮るしかないと考えを変えた。野村芳太郎から「映画には空気が映る」と言われていたからという[3]
  • 撮影の木村大作は思うような撮影の技術が発揮できず、不満が残った。映像は端正といえず、青森隊が露営する場面では白い雪を背景に兵士たちの顔が黒く潰れている。雪の山道では大きな照明道具を持参することが出来ず、小さな手持ちライトだけで顔に当たったり外れたりしていたという。また内容も兵隊が雪の中で死んでいくだけでは、ヒットするとは思えなかったという[4]
  • 実際に真冬の八甲田山ロケを敢行し、日本映画史上類を見ない過酷なロケとして有名になった。遭難現場は八甲田山北東斜面だが、ロケは八甲田山北西の寒水沢酸ヶ湯温泉付近や岩城山長平奥入瀬などでも行われた。実際に数名の俳優がその過酷さに耐えられず脱走した[要出典]、また裸で凍死する兵卒を演じた俳優の肌が紫色に映っているのはメイクではなく本当に凍傷になりかけたためという話も残っており[5]、主役級も含めて俳優たちの出演料も決して高額ではなかった[要出典]。主役の一人高倉健は3年に渡る撮影に集中するためマンションとベンツSLを売り飛ばして生活した。この過酷な撮影は当時カメラマンだった木村大作にも大きな影響を与えたと言われている[6]。また、高倉健もこの撮影で足が軽度の凍傷になってしまったという[要出典]
  • ラストシーンで登場する青森歩兵第5連隊の村山伍長(モデルは村松伍長)は雪中行軍隊から離れて、単独で田代温泉まで辿り着き、救援隊に田代元湯で発見された。

史実との違い[編集]

  • 原作もそうだが、青森と弘前の両連隊の雪中行軍で八甲田で会う約束をしたことはない。またお互いに連絡しあったこともなく、たまたま偶然に3日違いで出発している。
  • 弘前の連隊と青森の連隊との競争意識の中で、編成などが後手に回った青森側が無理をしたことが原因の一つと設定されたが、史実では二つの連隊間で競争を行ったわけではない。
  • 三國連太郎演じる山田少佐(史実では山口少佐)が無謀な上司として描かれている点は創作で、そのことからも登場人物はすべて仮名となっている。
  • 青森の連隊の硬直した組織が遭難原因のひとつとされている点も創作である。
  • 神田大尉と徳島大尉とが酒を酌み交わしながら八甲田での再会を約すシーンはフィクションである。弘前隊が青森隊の遺体を見る場面は実際には無かったとされていたが、のちに福島(徳島)大尉が遺体発見を捜索隊に報告した記録が発見され、当時発行直後に訂正された(訂正させられた)「五連隊の惨死者を発見」という、弘前隊に同行した東奥日報の記事も本当であったことが分かった[7]
  • 神田大尉と徳島大尉とも雪中行軍の経験があることになっているが、神成(神田)大尉は実際は経験がなく、また雪中行軍の指揮をとることになったのは行軍の直前であった。
  • 青森隊最高責任者であった山田大隊長は生還後ピストルで自殺したが、公的な記録では心臓マヒで死去している。両手とも凍傷で指が使える状態では無かった。また発見されて病院に入って、次の日に亡くなっていることから、クロロフォルムを使った薬殺説もある[8]
  • 原作では、徳島大尉と衝突した案内人達の悲壮な末路が描写されているが、映画では案内人との揉め事はあまり重点を置いて描かれず、逆にさわ女(秋吉久美子)に対して敬礼する場面が描かれるなどされていた。しかし実際は福島(徳島)大尉は案内人に対してかなり厳しい態度で接したと見られ、八甲田で見たことは喋ってはならないと脅された上に、田茂木野で休息なしで引っ返して、凍傷に苦しめられ、生還後の補償も無いままであった。軍はあくまで軍内部で処理して、外部には一切洩らさなかった。
  • 雪中行軍隊が到着したかを青森連隊から三本木警察に電話で問い合わせるシーンがあるが、この当時に電話はなく、実際には電報を用いた。

サウンドトラック[編集]

LPではA面に「第一部 白い地獄」、B面に「第二部 大いなる旅」がそれぞれ収録されていた。2009年にディスクユニオンのレーベル富士キネマよりCDで再発された(規格品番FJCM-006)。

シングル[編集]

  • 作詞:山川啓介
  • 作曲:芥川也寸志
  • 編曲:若草恵
  • 歌:五堂新太郎
  • 収録曲:
    1. 『春には花の下で』
    2. 『大いなる旅』

両曲共にサウンドトラックのテーマ曲に歌詞をつけたものである。上述のCDにボーナス・トラックとして収録された。

テレビドラマ版[編集]

八甲田山
ジャンル テレビドラマ
放送時間 火曜21:00 - 21:55(55分)
放送期間 1978年4月4日 - 1978年5月9日(6回)
放送国 日本の旗 日本
制作局 TBS
演出 森川時久
原作 新田次郎「八甲田山死の彷徨」
脚本 長尾広生
出演者 中山仁
村野武範
ナレーター 山本學
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1978年4月4日から5月9日まで毎週火曜日21:00 - 21:54 (JST) にTBS系列火曜21時枠で放送された。全6回。

映画の大ヒットを受けてテレビドラマ化したもので、大竹まことなど映画版に出演した俳優が数人出演している。

放映リスト[編集]

  • 第一話:「眼前の危機」
  • 第二話:「飛雪・裏八甲田」
  • 第三話:「混乱雪譜」
  • 第四話:「死の彷徨」
  • 第五話:「白炎燃ゆ」
  • 第六話(最終話):「終わりなき雪」

スタッフ[編集]

キャスト[編集]

司令本部
青森第5連隊
弘前第31連隊
その他の軍人
案内人
家族・周辺の人びと

その他、加々美よう子西川洋子矢吹寿子谷中洋子川島栄吉飯田和平菅原司白取雲道臼井裕二長谷川明男

※は映画版にも出演。

関連項目[編集]

備考[編集]

  • 青森市幸畑字阿部野にある「八甲田山雪中行軍遭難資料館」では「ミニシアター」コーナーにて当映画を解説付きで上映している。
  • 進藤特務曹長らが迷い込んだ駒込川本流の峡谷には「駒込ダム」の建設が現在進められており、当映画に登場した駒込川峡谷・田代元湯・鳴沢はじめ支流にある沢の一部は将来ダムの底へ沈む。

脚注[編集]

  1. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン全史: 1946-2002』 キネマ旬報社、2003年、223頁。ISBN 4-87376-595-1
  2. ^ 高岩淡『銀幕おもいで話』双葉社、2013年、145頁
  3. ^ 零下40度の体感を撮れ 「八甲田山」朝日新聞2014年11月18日(外部リンク)
  4. ^ 零下40度の体感を撮れ 「八甲田山」朝日新聞2014年11月18日(外部リンク)
  5. ^ 兵卒役を演じた原田君事のホームページには、体験記として「東宝映画「八甲田山」の撮影のとき、体感温度零下30度、雪の中でフンドシ一丁になって、狂い死にのシーンを演じたとき、肌は一瞬にしてこげ茶色になり、歯はかみ合わずぶるぶると震えていたが、監督の「よ-い!」の一言で震えはピタっと止まった事を覚えている。」との記述がある。
  6. ^ 零下40度の体感を撮れ 「八甲田山」朝日新聞2014年11月18日(外部リンク)
  7. ^ 零下40度の体感を撮れ 「八甲田山」朝日新聞2014年11月18日(外部リンク)
  8. ^ 零下40度の体感を撮れ 「八甲田山」朝日新聞2014年11月18日(外部リンク)

外部リンク[編集]