歩兵第5連隊

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歩兵第5連隊
創設 1874年
廃止 1945年
所属政体 日本の旗 日本
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
部隊編制単位 連隊
兵科 歩兵
所在地 青森
編成地 青森
通称号/略称 杉4715
補充担任 青森連隊区
上級単位 仙台鎮台 - 第2師団 - 第8師団
最終位置 フィリピン レイテ島
主な戦歴 西南 - 日清 - 日露 - シベリア出兵 - 満州事変 - 日中 - 第二次世界大戦
特記事項 八甲田雪中行軍遭難事件
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歩兵第5連隊(ほへいだい5れんたい、歩兵第五聯隊)は、大日本帝国陸軍連隊のひとつ。

歴史[編集]

1871年(明治4年)、仙台に設置された東北鎮台の第1分営として、旧津軽藩士で組織された2個小隊が弘前へ配置され、当時は20番大隊と称されていたが、これが後の第5連隊の母体となった[1]。この時期の鎮台の兵士は士族の中の志願者から採用した壮兵である。

1872年(明治5年)4月、仙台より旧仙台藩士で組織された2個小隊が新たに配備され[2]、4個小隊からなる大隊となる。同年6月、中村政定大尉が大隊副官として発令を受け、大隊を指揮した。

1873年(明治6年)、徴兵制にもとづき従来の4鎮台を6鎮台に再編成したとき、東北鎮台は羽前国も管区とする仙台鎮台に改組した[3]。同年6月、北海道江差・福山の漁民が、漁獲物課税に反対し暴動を引き起こした[4]。20番大隊は東北鎮台の命により、大隊副官中村大尉引率のもと、約100人からなる2個小隊が暴徒鎮圧のため渡海出動。現地官憲と協同してこれを鎮圧した[5]。10月には歩兵第20大隊と改称され、1小隊と2小隊を第1中隊に、3小隊と4小隊を第2中隊に編成替え。初代大隊長に永井勝正大尉[6]が着任した。

1874年(明治7年)、徴兵制度による農民・町人の新兵が入営し、第3中隊と第4中隊を新たに編成。弘前第1分営は4個中隊からなる大隊となる。

1875年(明治8年)6月、弘前の歩兵第20大隊は、仙台に本部のある歩兵第4連隊の第2大隊へと改称。同年12月16日、弘前分営が廃止となり、北方警備の地理的条件から[7]青森市郊外へ移転となり、青森分営として新兵営に入る。

1876年(明治9年)4月、歩兵第4連隊の第2大隊は歩兵第5連隊第1大隊へと改称され[8]、井戸順行陸軍少佐[9][10]が大隊長の任についた。7月15日、午前6時30分、明治天皇東北御巡幸の折、仙台鎮台青森分営歩兵第5連隊第1大隊に臨幸された。

1877年(明治10年)、西南戦争が勃発。歩兵第5連隊も出征する。

3月25日、陸軍省より仙台鎮台を通じて「歩兵第5連隊第1大隊の第3、第4中隊は東京警備のため出発せよ」と下令を受け、3月30日、第3中隊長大槻栄行大尉以下、小隊長長田辰造少尉、小隊長安藤増吉少尉、第4中隊長心得佐藤正俊中尉、小隊長阿部達少尉、小隊長葛巻昌道少尉の引率のもと、下士官30人、兵卒299人が青森港より汽船にて渡海。4月4日、東京品川へ到着。間もなく神戸行きを命ぜられ、4月8日、横浜より汽船で神戸を経由し九州へ向かった。関門海峡を抜け熊本県沖州に上陸。高瀬で別動第5旅団司令長官大山厳陸軍少将)に編入された。さらに最前線の旅団を追い南下。4月18日、別動第5旅団隷下の2個中隊は、名古屋鎮台歩兵第6連隊(連隊長佐久間左馬太陸軍中佐)第3大隊の2個中隊と合流し4個中隊をもって第4大隊を組織。大隊長心得吉村守大尉の指揮下に属し作戦に参加することとなった。合流第4大隊は別動第5旅団隷下にて、熊本の東北にある立田山に部署した。熊本平野での攻防戦においては郷土兵30人の死傷者が出た。9月24日、幾多の激戦を経て西南戦争が終結。10月14日、鹿児島より海路帰国の途につき、11月29日帰郷。青森から出征の第1大隊第3、第4中隊のうち戦死者37人、戦病死者18人が殉職した。[11]

西南戦争中の同年5月には青森で新たに第2大隊が創設され、第1大隊長の井戸少佐指揮下となった[12]士族出身の者で編成されていた第1大隊の第1、第2中隊所属の兵士は全員解任となり、歩兵第5連隊は徴募兵のみとなった。

1878年(明治11年)5月1日、歩兵第5連隊本部を兵営内に設置。同日が第5連隊創立記念日となる。7月7日、八木僴作陸軍少佐が連隊長心得を命ぜられて着任し、12月2日には中佐に昇級して初代連隊長となった[13]

1879年(明治12年)1月16日、第5連隊に軍旗が授与されることとなり、仙台で行なわれる授与式に、八木連隊長は旗手の下元少尉、堀江福蔵軍曹等下士官4人を同行させ、徒歩にて仙台へ赴き軍旗を受け取った。軍旗授与式では「歩兵第五連隊編成ナルヲ告グ、ヨッテ今軍旗一旒を授ク、汝軍人等協力同心シテ益々威武ヲ宣揚シ、我ガ帝国ヲ保護セヨ」との勅語が奉読された。八木連隊長は軍旗を下元少尉に持たせて「敬(つつし)ンテ明勅ヲ奉ス、臣等死力ヲ竭(つく)シ誓テ国家を保護セン」と奉答した[14]

1882年(明治15年)2月6日、八木連隊長が大佐に昇任し、3月14日、熊本衛戍司令官に転任。3月3日、後任の第2代連隊長に大島義昌中佐が着任した。[15]

1883年(明治16年)6月、第3大隊第1、第2中隊を新設。11月23日、同第1、第2中隊が北海道亀田郡亀田村に移動して駐屯した。

1884年(明治17年)6月、第3大隊第3、第4中隊が新たに編成され、歩兵第5連隊第3大隊が完備された。8月31日、同第3、第4中隊も北海道亀田郡亀田村に駐屯し、北辺の守りを固めた。

1885年(明治18年)5月26日を以て、大島連隊長が仙台鎮台参謀長心得として転任し、後任の第3代連隊長には、歩兵第20連隊(大阪)から寺内清祐中佐が着任した。

1887年(明治20年)寺内連隊長の後任として、9月26日、第4代連隊長に波多野毅中佐が着任した。

1888年(明治21年)5月14日、仙台鎮台を第2師団へ改編。連隊は第2師団歩兵第5連隊となる。12月28日、波多野連隊長が陸軍教導団次長として転任し、後任の第5代連隊長に中岡祐保中佐が着任した。

1890年(明治23年)8月8日、日清戦争前の軍拡により北海道独自の連隊が誕生したため、第3大隊は青森へ戻り第5連隊全隊が一所に集結する。

1894年(明治27年)7月31日、中岡連隊長の後任として、第6代連隊長に渡部進中佐が着任。8月1日、日清戦争が勃発、青森歩兵第5連隊は第2師団翼下の第4旅団(旅団長伏見陸軍少将宮貞愛親王、歩兵第5連隊、歩兵第17連隊(仙台)、後備歩兵第4連隊(仙台)の3個連隊で編成)として従軍した。

9月25日、第2師団(師団長佐久間左馬太陸軍中将)に対して、第一次動員が下命。召集令状による予備役兵の召集の他、軍夫の募集[16]、馬匹の徴発(民間からの買上げ)が行なわれ、動員は9月30日には完了した。10月24日、出師の下命があり、11月5日までに広島に集結することとされた。同24日、青森市造道の練兵場にて出戦式が行なわれた。これより歩兵第5連隊として外地への初の出征となる。10月28日、第5連隊は青森を出発し、鉄道輸送により11月1日、広島に到着。第2師団の他の部隊と共に、戦略予備として猛烈な演習を重ねた。[17]

1895年(明治28年)1月12日、宇品港を出港し、同17日に大連湾に到着。第2軍司令官大山厳陸軍大将の指揮下に入った。第5連隊は威海衛攻撃部隊として、第6師団(熊本)の一部と共に山東省へ上陸作戦を展開することとなった。出戦時の連隊幹部は、連隊長渡部進中佐[18]、第1大隊長石原応恒少佐[19]、第2大隊長渡辺祺十郎少佐[20]、第3大隊長石黒茂幸少佐であった。1月19日、第5連隊の乗船した船団は大連湾を出航、翌20日午前8時には栄城湾に入り、敵前上陸作戦を実施。作戦は順調に進行し、午後1時に師団主力部隊の上陸作戦が完了した。午後3時、第3旅団を先発部隊として前進を始め、栄城県城に入った。第5連隊は戦闘主力として師団の本隊中にあったため、午後5時頃から行進を始めた。悪路の上に夜間の行軍とあって、僅か12キロの道に5時間を要し、午後10時、ようやく高家庄という部落に到着した。部落には戸数僅か10余りと、聯隊のを収容しきれなかったため、やむなく付近に露営することとなった。24日には第6師団(師団長黒木為楨陸軍中将)の一部も栄城県に到着、大山軍司令官も続いて上陸した。

同年1月末から2月初頭にかけ、歩兵第5連隊は威海衛の戦いに参加。

この戦いで歩兵第5連隊を含む第2師団は左縦隊として栄城—橋頭集—文登県街道を進むことになり、前面のを撃退しつつ、1月29日には両縦隊共に威海衛東南方向15〜20キロの線に進出。翌30日を期して威海衛軍港の南岸砲台及び堡塁線攻略することになった。このため第2師団は更に部隊を二つに分けて右を第3旅団、左を第4旅団の2縦隊として、鳳林集東南高地の虎山を攻撃することとし、第5連隊は左縦隊にあって第4旅団の先頭を進むことになった。30日午前5時を期して行なわれた総攻撃に際しては、連隊長渡部中佐が自ら先頭部隊を指揮して山間の小道を一列に進攻、午前6時、虎山北方の高地から猛烈な砲撃を受けるも、第5連隊の将兵は敵砲兵陣地に突入・奪取した。敵は第2陣地に拠って抵抗しようとするも断念、砲4門を捨てて敗走した。虎山北方の第2陣地は威海衛軍港を望める要害であったが、港内の軍艦と戦う能力を持たない部隊はそのまま威海衛へと進出を企図。これに対し湾上では砲艦3隻が岸辺近くへ接近して第2陣地へ砲撃を加えてきたため連隊は山陰に隠れて時期を待ったが、そのうち馮家窩(ひょうかか)に転進するよう下命があり、同日夜、連隊本部は馮家窩に宿営した。31日、第2師団は再度威海衛に進撃しようとしたが、海浜の近道は港内にある敵艦の射撃を受けて進むことができず、敵艦に隠れて進撃するためには遠く羊亭集を回り、威海衛—芝罘街道上に出なければならなかった。また、その他の道は山間の細道で行軍には不便であった。2月1日午前10時頃、前方警戒のため派遣した騎兵斥候が、敵歩兵の射撃を受け退却。第5連隊第2大隊長渡辺少佐は直ちに敵を撃退しようとしたが、第1中隊長矢野大尉は、「わが中隊が先着しており、敵情を詳しく知っている。私を先行させてください。」と申し出ると共に、同地に来ていた佐久間師団長にも敵情を報告して「敵の撃退を是非我が部隊に下命してほしい。」と願い出た。そこで第1、第4両中隊に羊亭集の敵を撃滅することと、芝罘街道の電線を切断するよう下命がなされた。これを受け、第1中隊が先頭に立って羊亭集の西端に進出。この時、同地西方高地から敵の射撃を受け、第1小隊長小友勝次郎中尉は部隊を散開させ応戦した。さらに原田清治少尉の指揮する第2小隊も加わって猛烈な射撃を行ったことで敵も退却を開始した。その間、矢野第1中隊は小友中尉に命じて、威海衛—芝罘間の電信線を切断、後方連絡を遮断させている。いっぽう第4中隊も大熊淳一大尉の指揮のもと、第1中隊のあとを続いて羊亭集の西端に到達した際、左高地から敵の銃砲火を受け、付近の地形や遮蔽を利用して散開、応戦して一村落を確保した。羊亭集西端での激しい銃声を進撃の途中で聞いた佐久間師団長は、前線から「前面の敵、非常に多く、他隊の援助を必要とする」旨の報告があったので、直ちに第5連隊長渡部中佐に部下全隊をあげて救援するよう下令。同連隊の第2大隊は直ちに出発して銃声の方向へ進み、第1線に到着すると早くも銃弾が飛んできたため戦闘隊形をとって展開したまま、羊亭集西南高地に向け進撃した。この戦闘には第17連隊第3大隊(仙台)も山砲中隊と共に来援したため日本軍は勢いを得、激戦ののちにこれを占領した。この羊亭集の戦いは午前11時半から始まり午後3時頃終わったが、零下14度という寒さを鑑みて、渡部連隊長は部隊を1キロ程後退させ付近の村落に分宿した。第5連隊の戦死者は兵卒の信太弁吉、佐藤石蔵、浜田助松、下田末吉の4名、この他負傷者が15人であった。威海衛付近の敵の陸兵はこの戦闘を最後に芝罘街道を西に退却したが、敵艦隊は港内にあってなお戦闘力を保っていた。翌2月2日には第5連隊は前線を他の部隊に任せ、威海衛西方の守備に当たった。[21]

威海衛の攻略戦を終えた第5連隊の精鋭は、2月23日同地から乗船し、24日には旅順口に上陸した。26日には旅順と金州を結ぶ街道の中間にある前格鎮、後格鎮という海辺の部落に分宿し、同地域の守備に当たった。4月21日、平和克復の詔勅が発せられたことで、北京城攻撃のため大連湾に集合していた近衛師団および第4師団(大阪)の将兵が予定を変えて上陸することとなり、第2師団がいた宿舎を近衛師団に譲ることになった。このため連隊は金州よりさらに奥地の貔子窩(ひしか)以西の村落へ移動、遼東半島を守備した。5月18日、第2師団長佐久間左馬太陸軍中将は占領地総督に転任し、第2師団長には乃木希典陸軍中将が親補された。占領地総督の下に第2師団と第4師団が直轄部隊として引き続き遼東半島の守備に当たる体制となった。[22]

同年の日清講和条約により台湾島は日本領となったが、島民が頑強に抵抗したため、近衛師団についで伏見宮貞愛親王の率いる混成旅団が台湾に進出することとなった。第5連隊もこれに編入され、7月、台湾へ向かって出発する。

乃木第2師団長はこの時、渡台する第5連隊の将兵を前に、「わが第2師団は酷寒をしのぎ永雪を踏んでついに威海衛を抜いた。以来遼東半島の守備に任じて今日に至った。今また台湾に赴き賊徒の鎮圧に従事すべき命を受けた。台湾は炎熱甚だしく道路険しく賊徒もまた強いと聞いている。諸君の武勇と戦術と試みる絶好の場となろう。」と訓辞している。[23]

8月2日、連隊本部、第1大隊、第2大隊は大連湾から乗船、同6日基隆港に着いた。第3大隊も4日に乗船して続いて到着した。各隊は台北に集合し、第1大隊は台北付近の守備に、第2大隊は大姑陥、三角勇及び竜潭坂の守備に、第3大隊は中歴大湖口、新車及び新埔の守備に当たった。連隊本部は中歴、その後新竹に置かれたが、亜熱帯の台湾はただでさえ暑いところへちょうど真夏とあって、寒い東北の兵士には大いにこたえた。基隆に上陸してから各守備地へ移動する時は明け方を利用して行進するという状況で、日中土民の家や木陰で休み、身体の消耗をしないよう注意に注意を重ねたが、それでも罹病者は非常に多く、戦闘力を大きく消耗した。こうした状況の中、連隊長渡部進陸軍中佐が赤痢を発病、新竹兵站病院に入院して療養していたが、9月15日に戦病死し、同日歩兵大佐に昇任した。このため第5連隊第7代連隊長には出征以来、第4旅団(第5連隊所属)司令部付きとして旅団長伏見宮貞愛親王を補佐していた佐々木直陸軍大佐が就任した。[24]

このころ近衛師団は、進んで彰化を占領していたが、同地以南はまだ鎮定できず、依然として台南にある劉永福の勢いは決して軽視できなかった。そこで高島鞆之助陸軍中将を司令官として南進軍を編成、海路南下して台南方面布袋嘴に上陸させ、近衛師団は嘉義を目指して陸路南下して南北から台南を衝くと共に、遼東半島に残った第2師団を繰り出して海軍と協力して鳳山打狗を抜き敵の背面を衝く三方からの台南包囲計画を立て、第2師団は全員投入となった。第5連隊は後備隊に守備を任せ9月13日頃から台北に集結した。[25]

10月3日、基隆から乗船した第5連隊を基幹とする混成旅団は澎湖島馬公に入港し、遼東半島から転戦してきた第2師団の残りと合流。10月10日、混成旅団は乗船して軍艦浪速済遠及び海門の3艦が護衛して布袋嘴に向かった。午前10時、布袋沖に(いかり)を下し上陸しようとした際に敵兵による妨害を受けたため、護衛の軍艦がこれに応戦。布袋嘴を占領した海軍陸戦隊につづいて第5連隊も上陸を開始し、波浪を受け停滞したものの日暮れ頃、第3大隊第11中隊(中隊長須藤倭夫大尉)の第1小隊(小隊長中村中郎少尉)が上陸に成功。しかし他の隊には夜10時頃ようやく上陸するものもあり、第5連隊の半分は上陸できず、船中に夜を明かすという困難な上陸となった。[26]

翌11日早朝、第3大隊長大熊淳一少佐は部下を率いて校仔頭へ向かい出発、敵と遭遇することなく同地を占領した。一方、石原大隊(第1大隊長石原応恒少佐)は塩水港の占領に向かい、午前10時30分、同市を占領、陸路南下した近衛師団と連絡がとれた。近衛師団は混成旅団の上陸を援護するため、右側支隊を派遣していた。10月12日、佐々木連隊長は校仔頭を占領した大熊大隊長と連絡するため、第10中隊の許斐良太郎中尉に1小隊を率いさせて校仔頭に派遣した。この時、布袋嘴に上陸した大熊大隊の弾薬食糧輸送隊が校仔頭に向かう途中で敵襲を受けて手痛い被害を出しており、許斐中尉は出発間もない午前8時30分頃にこの戦闘による銃声を聞いてそちらへ進み、たちまち敵と遭遇した。敵の兵力が多く交戦三時間に及んだが撃退できず、許斐中尉が負傷し、危急に追い込まれてしまった。その時、第2大隊長渡辺祺十郎少佐が第5中隊と第6中隊の兵力を指揮して応援のため駆け付けた。敵は塩水渓を渡河してこようとする寸前であり、佐々木連隊長も現場に馳せ付けて指揮をとり敵をようやく敗走させた。

校仔頭を占領した大熊大隊長は午前8時、古木中尉に急水渓の渡河点偵察を命じた。中尉は1小隊を率いて急水渓に行き、橋掛け材料を集めたり、付近の地形偵察に当たるうち、敵兵の猛烈な射撃を受けた。応戦しながら腹背に迫る敵の中、血路を開いて校仔頭の本隊に帰ったが、敵は兵力を増加し、600メートルの距離まで迫り同地を包囲した。兵力が少ない日本軍は手分けして四方の敵に対したものの、だが堡塁もなく弾丸も乏しい有様だった。午後3時頃、敵は一段と太鼓を打ち鳴らし、喚声をあげて突撃の兆候を示した。日本軍は射撃を止め、100メートルまで敵兵を引きつけてから突貫戦法をもって討って出た。敵は大混乱となり敗走した。この戦いでは兵卒1人が戦死、5人が負傷した。さらに13日の午前3時、校仔頭東南方で騒々しい人声がするので斥候を出して調べると、2500ほどの敵が集結し日本軍を包囲しようとするところであった。午前5時30分頃、敵の主力に向かって攻撃中、歩兵第17連隊の一部が塩水渓右岸に現われ、挟み撃ちの形となり敵を撃退した。歩兵第5連隊はその後も敵の討伐に当たり、10月21日、ついに台南が陥落。以降連隊は台湾南部の警備に当たった。この年の11月、第九会議において師団増設が可決された。[27]

1896年(明治29年)4月上旬、台湾南部での警備の任についていた第5連隊は凱旋の命に接し、台南、広島宇品を経由して、5月18日、青森に帰還した。前年11月の第九会議での師団増設の決定を受け、仙台の第2師団が管轄していた東北6県は二分され、宮城、福島、新潟の3県を管轄する第2師団と、青森、秋田、山形、岩手と宮城県の一部を徴募区とする第8師団が誕生した。これにより連隊は第8師団青森歩兵第5連隊となる。第8師団全体としては、歩兵第4旅団の歩兵第5連隊(青森)、歩兵第31連隊(弘前)、歩兵第16旅団の歩兵第17連隊(秋田)、歩兵第32連隊(山形)のほか、新設の騎兵第8連隊(弘前)、野砲兵第8連隊(弘前)[28]、輜重兵第8大隊(弘前)[29][30]を含む一大戦力となった。[31]9月25日、佐々木連隊長の第6師団参謀長への転任人事を受け、後任の第8代連隊長に丸井政亜中佐[32]が着任した。

1897年(明治30年)、弘前市清水に第8師団司令部が置かれる。[33]9月22日、丸井連隊長の後任として、それまで仙台連隊区司令官であった可児春琳中佐が第9代連隊長に着任した。

1898年(明治31年)10月、立見尚文陸軍中将が初代師団長として就任した。[34]

1899年(明治32年)12月25日、可児連隊長が転任。

1900年(明治33年)12月1日、第10代連隊長に津川謙光中佐が着任。

1902年(明治35年)1月、冬季軍事訓練中に遭難し、参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)。

1904年(明治37年)2月10日、日露戦争が勃発。歩兵第5連隊も出征する。

9月3日、第8師団への出動命令が下る。歩兵第5連隊は歩兵第31連隊とともに依田旅団(歩兵第4旅団長依田広太郎陸軍少将)を編成した。歩兵第5連隊の当時の主な幹部は、連隊長津川謙光大佐、副官平野秋夫大尉、旗手成田額三少尉、第1大隊長井坂芸少佐、第2大隊長塚本芳郎少佐、第3大隊長樋口喜吉少佐であった。大阪に到着した連隊は、戦略予備隊として激しい訓練の毎日を送り、大陸上陸の日を待っていたが、11月1日から同6日にわたって大阪港を出港、11月8日に上陸する。津川連隊長は第3大隊を率い、師団輸送の第一列車で金州から遼陽に到着し、戦闘準備が完了した。遼陽は既に陥落していたが、ロシアの大部隊が煙台方向に逆襲に転ずるため南下しつつあるとの情報に接し、立見師団長は第5連隊に対し、速やかに敵情を把握するように命じた。その頃、連隊の各大隊と師団の主力部隊は、敵大部隊の逆襲に対する諸準備を行ないつつ、煙台付近の警戒を厳重にし、敵と一戦を交える日を待ちのぞんだが、沙河の会戦にも参加できず、もっぱら満州総軍の予備隊としての行動に終始した。その後、満州の大平原には冬将軍が襲来し、連日零下三十数度の気温が続いて、日露両軍が相対峙したまま、いわゆる「煙台の滞陣」となった。[35]

1905年(明治38年)早々、ロシア軍はパーヴェル・ミシチェンコ中将の率いるコサック騎兵三千余騎を牛荘方面に南下させ、小河江方面の日本軍守備隊を撃破して牛荘、露口に向かって進軍を開始したため、日本総軍司令部は兵站基地の露口防衛と日本人居住民400人の保護を目的として第5連隊を主力とする津川支隊を編成、この有力な敵騎兵部隊を速やかに撃破するよう命じた。津川連隊長は1月11日、第5連隊第3大隊を主力に、歩兵第31連隊の第3大隊、砲兵1個大隊のほか、騎兵1個連隊を加えて支隊を編成した。支隊は1月14日早朝、先ず坂井少佐指揮の第1中隊、第4中隊が前衛となり、第31連隊と騎兵隊を六台子、土台子方面に、第5連隊第7中隊を牛荘付近まで前進させ、敵の退路を遮断して先制攻撃を加えた。特に三又河、遼河付近の両軍入り乱れての激戦は壮絶を極めた。ロシア軍は後退し、1月15日には牛荘の秩序が回復した。1月24日に津川支隊の編成を解き、久しぶりに第8師団の指揮下に復帰した。そして歩兵第5連隊は、日露最大の激戦である黒溝台会戦へと向かった。[36]

1月26日未明、津川連隊は日本軍右翼に陣を張った。午後二時、第5連隊は敵陣との距離600メートルから900メートルの間で戦闘を開始した。ロシア軍は兵力を増強し、大砲16門をもって猛烈な攻撃を展開、午後2時47分頃にはロシア軍の兵力はさらに増え、大砲18門に歩兵約1個旅団と膨れ上がった。午後3時50分頃、ロシア軍は行動を起こし三方面から前進を開始した。日本軍の苦戦を見たロシア軍騎兵旅団は突撃準備態勢に入り、砲兵陣地からの砲撃も激しさを増した。第5連隊側は劣勢に加えて一門の火砲も持っておらず、現状維持は極めて困難となったが、午後6時を過ぎて日が落ちると、ロシア軍も砲撃を中止した。翌朝、日本軍側は徹夜の死傷者収容作業で疲れ切っていたが、直ちに散兵線を構築して戦闘に備え、黒溝台での二日目の戦いが始まった。前日、敵軍の砲撃にさらされた日本軍は起状する小高いを据えて応戦した。連隊長津川大佐は部下を激励して戦闘を続けたが、ロシア軍は日本軍に数倍する圧倒的な大軍であり、装備の点でも遥かに日本軍を上回っていた。時間が経つにつれて日本軍の負傷者は増え、戦力はかなりのマイナスとなった。これに引き換え、敵の兵力はますます増加、敵の野砲陣は右側面12門、左側面に12門と増え、ひときわ激しく砲撃して日本軍を苦しめた。さらに頭泡の南方からは騎兵の大部隊が姿を現し、また騎兵隊の一隊が日本軍の背後にまわって攻撃したため、陣頭指揮を取る津川大佐も被弾負傷する状況であった。この日の日本軍の死傷者は多数にのぼり兵員は激減しが、丘にいた第5連隊はを徹して陣地防御工事を続け、翌日の戦闘に備えた。翌々日の28日になって依田旅団は午前7時から戦闘を再開。この戦いで津川連隊長が左足と腹部に敵弾の貫通を受けたため、第2大隊長塚本芳郎少佐が代わって指揮をとった。津川連隊長は28日夜、夜襲を決行して一挙に勝敗を決すべく断を下したが、29日未明になると第5連隊前面のロシア軍が突然退却を始め、苦戦から一転して日本軍は追撃に移行。第17第32連隊とともに黒溝台の占領に成功した。この戦いで、歩兵第5連隊では塚田少佐以下322人が戦死、津川連隊長以下750人の戦傷者が出た。[37]

沿革[編集]

歴代連隊長[編集]

歴代の連隊長
(特記ない限り陸軍大佐
氏名 在任期間 備考
1 八木僴作 1878.7.7 - 1882.3 78.7.7少佐・連隊長心得、12.2中佐・連隊長、82.2.6大佐、3.14転任[38]
2 大島義昌 1882.3.3 - 1885.5.26 中佐
3 寺内清祐 1885.5.26 - 中佐
4 波多野毅 1887.9.26 - 中佐
5 中岡祐保 1888.12.28 - 中佐、1892.11.大佐
6 渡部進 1894.7.31 - 1895.9.15 中佐、9.15台湾新竹兵站病院にて戦病死[39]同日大佐。01.4正五位追賜[40]
7 佐々木直 1895.9.9 - 1896.9.25
8 丸井政亜 1896.9.25 - 1897.9.22 中佐
9 可児春琳 1897.9.22 - 1899.12.25 中佐
10 津川謙光 1900.12.1 - 1906.7.6 中佐、1903.1.大佐、1905.1.27戦傷[41]
11 塚田清市 1906.7.11 - 1907.7.30 中佐、大佐昇進
12 野島忠孝 1907.7.30 - 1910.8.26
13 羽生俊助 1910.8.26 - 1912.9.28
14 竹迫弥彦 1912.9.28 -
15 池内英太郎 1914.1.20 - 1916.4.1
16 海宝精 1916.4.1 -
17 古荘末男 1918.4.8 -
18 竹内正虎 1922.2.8 - 1923.8.6[42]
19 笹倉昇 1923.8.6 -
20 森下千一 1924.12.15 -
21 下元熊弥 1926.7.28 - 1928.8.10
22 石井孝慈 1928.8.10 -
23 平田重三 1930.8.1 -
24 谷儀一 1932.3.11 -
25 竹村直臣 1934.3.5 -
26 小野賢三郎 1935.12.2 -
27 井上貞衛 1936.8.1 -
28 渡辺勝 1939.3.9 -
29 岡島重敏 1940.8.15 -
高階於莵雄 1943.8.2 -

歩兵第5連隊歌[編集]

一、山霊(さんれい)北(きた)に凝(こ)るところ 三洋(さんよう)潮(うしお)逢う港

  大青森の一偉観 営庭営舎厳として

  北の鎮(しずめ)の任重く 武威維(これ)揚る五連隊

二、歴史はここに六十年 允文允武(いんぶんいんぶ)の大帝(おおみかど)

  宣(もう)らす聖旨(せいし)も厳(おごそ)かに 授け賜ひし我軍旗

  時これ明治十二年 睦月(むつき)十余(とあまり)六日(むいか)とよ

三、此の旗影の下にして 武を練る健児千余名

  一度立てば膺懲(ようちょう)の 威力も著(しる)き威海衛(いかいえい)

  次いで徇(とな)ふる台湾島 是(これ)ぞ隊史の始めなる

四、八甲田颪(おろし)何のその 鶏林八道(けいりんはちどう)サイベリヤ

  治にいて乱を忘れざる 士気も壮烈又凛々

  我が連隊旗行くところ 仰ぎ靡(なび)かぬ民もなし

五、黒溝台(こっこうだい)の冬更(ふ)けて 孤軍奮闘数昼夜

  砲煙凄き黄昏を 血潮綾(あや)なす我軍旗

  ああこの勇武此の功勲(いさお) 実(げ)にも千載(せんざい)実(げ)に不朽(ふきゅう)

六、由来剛健質実は 我が北奥(ほくおう)の誇りなり

  斯(かか)る名誉の後継ぎて いざ励まばや国のため

  光栄(はえ)の歴史の幾行(いくぎょう)を 我らが名もて飾らばや[43]

脚注[編集]

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  1. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.2
  2. ^ 『宮城県史』7巻457頁。『仙台市史』通史編6(近代1)49頁。ただし、『仙台市史』第2巻(本編2)647-648頁は久保田藩兵が弘前に駐屯したと記す。
  3. ^ 『仙台市史』通史編6(近代1)p.49
  4. ^ 遊ぶべ!道南探検隊、函館・道南地方の歴史-明治以降の道南地方-
  5. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.2
  6. ^ 1875年(明治8年)12月8日、歩兵第11連隊長(広島鎮台)に着任。1877年(明治10年)3月22日、西南戦争に従軍中戦死。少佐心得 Wikipedia - 西南戦争
  7. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.5
  8. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.3
  9. ^ 1883年(明治16年)6月27日、歩兵第9連隊長(大阪鎮台)に着任。中佐『職員録』甲 明治19年 p.148
  10. ^ 大津陸軍墓地に墓標がある。大津陸軍墓地 - 大日本者神國也
  11. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.8-10
  12. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.3
  13. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.10
  14. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.10-11
  15. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.12
  16. ^ 読書:兵士と軍夫の日清戦争 - 福岡県弁護士会
  17. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.17-19
  18. ^ 軍人顕彰会 石川県出身陸軍々人 弐
  19. ^ 軍人顕彰会 群馬県出身陸軍軍人
  20. ^ 軍人顕彰会 福島県出身陸軍軍人 壱
  21. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.19-25
  22. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.28-30
  23. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.30-31
  24. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.31-32
  25. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.32-33
  26. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.33-34
  27. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.34-37
  28. ^ ぶらり重兵衛の歴史探訪 - 野砲兵第8連隊
  29. ^ 一弘前人の思いつき☆ - 輜重兵第8聯隊(再掲)
  30. ^ 陸奥新報 - 弘前に第8師団設置=27
  31. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.36-37
  32. ^ 軍人顕彰会 和歌山県出身軍人
  33. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.37
  34. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.37
  35. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.92-93
  36. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.93-95
  37. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.95-100
  38. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.10,12
  39. ^ 赤痢に罹り病没。栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.32
  40. ^ 軍人顕彰会 石川県出身陸軍々人 弐
  41. ^ 左足と腹部に敵弾の貫通創傷を受けた。栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 p.100
  42. ^ 『官報』第3306号、大正12年8月7日。
  43. ^ 栗田弘(著)肴倉弥八(編)1973年 巻頭附録

参考文献[編集]

  • 官報
  • 栗田弘(著)肴倉弥八(編集)『歩兵第五聯隊史』歩兵第五聯隊史跡保存会発行、1973年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
  • 『日本陸軍連隊総覧 歩兵編(別冊歴史読本)』(新人物往来社、1990年)
  • 原 剛『明治期国土防衛史』(錦正社、2002年)
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

関連項目[編集]