杉 (松型駆逐艦)

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艦歴
計画 1944年(昭和19年)度計画
建造所 藤永田造船所
起工 1944年2月1日
進水 1944年7月3日
就役 1944年8月25日竣工
除籍 1945年10月5日
その後 中華民国海軍「恵陽」となる
1951年ころ廃艦
要目(計画値)
排水量 基準:1,262トン
公試:1,530トン
全長 100.00m
全幅 9.35m
吃水 3.30m
主缶 ロ号艦本式缶2基
主機 艦本式タービン2基2軸 19,000馬力
速力 27.8ノット
航続距離 18ノットで3,500海里
燃料 重油370t
乗員 211名/250名[1]
兵装
(1944年9月)
40口径12.7cm単装高角砲 1基
40口径12.7cm連装高角砲 1基
25mm連装機銃 4基
25mm単装機銃 12基
61cm4連装九二式魚雷発射管 1基4門(予備魚雷なし)
九四式爆雷投射機 2基、爆雷投下軌条×2、(二式爆雷 36発)

(すぎ)は日本海軍駆逐艦松型駆逐艦の7番艦として藤永田造船所で建造された。艦名としては樺型駆逐艦の9番艦「」に続いて2代目。

太平洋戦争ではレイテ沖海戦多号作戦礼号作戦に参加、戦後は復員輸送に従事した。その後、国府海軍(のちの台湾海軍)に引き渡され、「恵陽(フェイヤン)」と命名された。

艦歴[編集]

就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊高間完少将海軍兵学校41期)に編入。瀬戸内海に回航され訓練に従事する。10月15日、「秋月」「若月」とともに鹿児島への緊急弾薬輸送を行う[2]。鹿児島へ到着した10月17日、アメリカ軍がフィリピン、レイテ湾スルアン島英語版に上陸し、日本軍捷一号作戦を発動した。この作戦は小沢治三郎中将(海兵37期)が率いる機動部隊が囮となって第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)をひきつけ、その隙に栗田健男中将(海兵38期)率いる第二艦隊主力がレイテ湾に突入しアメリカ軍の上陸部隊を撃破するというものであった。輸送任務終了後、軽巡洋艦多摩」とともに機動部隊の兵力に追加される[3]。10月20日夕刻、機動部隊は豊後水道を出撃。10月22日に空母千歳」から重油の洋上補給を行う[4]。翌10月24日、上空警戒にあたっていた空母「瑞鶴」の零戦1機が着艦に失敗して海上に墜落し、「」とともに捜索を行う。捜索後、「桐」とともに機動部隊に向かおうとしたが、アメリカ艦隊と思しき艦影(実際には伊勢型戦艦2隻及び秋月型駆逐艦4隻からなる機動部隊前衛部隊であったと推定される[5])と航空機を見て反転し[6]、「燃料の余裕がない」との機関長の進言もあって「桐」とともに高雄に向かった[7]。機動部隊からは、後追いで「奄美大島ニ回航補給ノ上速ニ合同スベシ」と命令されたが[8]、ついに機動部隊との合流はならなかった。このため、10月25日のエンガノ岬沖海戦に参加する事ができなかった[7]。高雄経由で奄美大島に向かい、補給部隊のタンカー「たかね丸」(日本海運、10,021トン)から200トンの重油を補給してもらった[9]。10月22日に奄美大島近海でアメリカ潜水艦シードッグ (USS Sea Dog, SS-401) に撃沈された特務艦「室戸」の生存者158名を乗せ、「桐」とともに10月29日に奄美大島を出港し、翌10月30日にに帰投した[10]

11月2日付で「桑」とともに第三十一戦隊江戸兵太郎少将・海兵40期)の指揮下に入り[11]、次いで南方に進出する戦艦伊勢」「日向」を護衛して11月9日に門司を出撃する[12]。11月15日に「桑」「」「」「」とともに第五十二駆逐隊を編成[13]。「伊勢」「日向」とは南沙諸島長島で別れ[14]、第三十一戦隊旗艦の軽巡洋艦「五十鈴」を護衛してマニラに向かい、11月18日に到着した[15]。11月23日付で第五十二駆逐隊は第三十一戦隊に編入され、「」が加わって6隻体制となった[16]。この頃、レイテ島オルモック湾への輸送作戦である多号作戦が依然続行中であり、第八次多号作戦に参加することになった。

12月5日10時半[17]、第八次多号作戦で「」「」、駆潜艇2隻とともに輸送船4隻、第11号輸送艦を護衛してマニラを出撃する。しかし、12月7日にアメリカ軍第77師団がオルモック南方に上陸したため、オルモックへの接近を断念して揚陸地をサン・イシドロに変更。兵員の揚陸は成功したが重火器の揚陸は出来ず、タクロバンからの陸軍機と海兵隊機の爆撃を受け、輸送船は沈没したり海岸に擱座して壊滅した。帰途にも空襲を受けて小破する[18]。12月9日にマニラに帰投。12月14日、マニラで第38任務部隊ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦載機の空襲を受け、「樫」および「榧」とともにマニラを脱出することとなる[19]。「梅」は香港へ、「桃」は高雄へ向かうが[20]、「桃」は出港後間もなくアメリカ潜水艦ホークビル (USS Hawkbill, SS-366) の雷撃で沈没することとなる。マニラ脱出後は、ひとまず南沙諸島で様子を伺う事となった[19]

12月15日、アメリカ軍はミンドロ島に上陸を開始してミンドロ島の戦いが始まる。これを受け、南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将(海兵37期)は、南沙諸島に待機中の駆逐艦によるミンドロ島サンホセへの殴り込み作戦を立案する[21]。計画では「マニラへ向かう航路を取りつつカラミアン諸島を背景にサンホセに突入し、突入後はマニラに帰投する」という作戦だった[22]。しかし、多号作戦での損傷が癒えておらず、「樫」と「榧」も不具合を抱えていた[23]。さらに、突入作戦を指揮する予定の第四十三駆逐隊司令肺結核で倒れて入院する事態となった[24]。このため、突入作戦は一時棚上げとなった[25]。その後、サンジャックに回航されて第二遊撃部隊(志摩清英中将・海兵39期)に合流する。

大川内中将は12月20日、第二水雷戦隊木村昌福少将・海兵41期)を中心としてサンホセへの突入作戦を行うよう志摩中将に命令した[26]。12月21日夕方、軽巡洋艦「大淀」、重巡洋艦足柄」、駆逐艦「朝霜」「清霜」とともにサンジャックを出撃してカムラン湾に向かう[27]。他所で行動していた参加艦艇の到着を待ち、12月24日にカムラン湾を出撃して殴りこみ作戦「礼号作戦」が開始された。作戦を通じ、空襲による至近弾でレーダーが使用不能となったほか、砲戦および魚雷戦に必要な装置も破損したが、人的の面では戦死した乗員はおらず軽傷者1名を出しただけだった[28]。作戦からの帰途、12月28日にアメリカ潜水艦デイス (USS Dace, SS-247) の雷撃により沈没した給糧艦「野埼」の乗員を救助した[29]。12月29日11時35分、カムラン湾に帰投した[30]

1945年(昭和20年)1月1日、サンジャックを出港して香港経由で1月7日に高雄に到着[31]。高雄で修理を開始するも、レーダーや方位磁針の修理が出来ない事から、佐世保への回航が決まる[32]。1月21日、高雄で第38任務部隊艦載機の空襲を受け至近弾数発を受けてレーダーなどが損傷する[33]。ただちに基隆への回航が命じられ、1月23日に到着した[34]。応急修理の後2月1日に「樫」とともに出港し[35]舟山群島南号作戦のヒ88A船団(「せりあ丸」(三菱汽船、10,238トン)、海防艦2隻)に合流して門司まで護衛を行った[36]。護衛終了後の2月8日に佐世保に帰投し、佐世保海軍工廠で修理が行われた[37]。3月12日に第五十二駆逐隊の司令駆逐艦となり[38]、修理後は呉に回航されて戦艦大和」の護衛にあたるが、間もなく呉海軍工廠で再度の修理が行われた[39]。その後は瀬戸内海で訓練と待機の日々を過ごし、終戦時は呉に在泊していた。10月5日除籍。

12月1日に特別輸送艦に指定され、復員輸送に従事。終了後は賠償艦に指定され、1947年(昭和22年)7月31日に中華民国に引渡し、接一〇号と仮命名された後、恵陽(フェイヤン)と正式に命名された。しかし、同型の賠償艦で状態の良かった信陽(旧「初梅」)[40]とは違い、状態の良くなかった華陽(旧「」)や衡陽(旧「」)とともに再武装されず任務も与えられなかった[41]国共内戦中の1949年5月に上海を脱出して台湾に向かった際、淡水で座礁事故を起こし、そのまま修理されないまま1951年に除籍され解体された[42]

歴代艦長[編集]

1944年9月の「杉」艦型略図。25mm3連装機銃4基、同単装12基を装備

※『艦長たちの軍艦史』364頁による。

艤装員長[編集]

  1. 菊地敏隆 少佐:1944年7月15日-

駆逐艦長[編集]

  1. 菊地敏隆 少佐:1944年8月25日-

脚注[編集]

  1. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.7
  2. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.23,24,25
  3. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.26,28
  4. ^ 『機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報』C08030036600, pp.19,20 。「千歳」の記録では、補給の相手は「」となっている(『捷一号作戦戦闘詳報』C08030582500, pp.4)
  5. ^ 『松型駆逐艦「桐」』, pp.51
  6. ^ 『艦長たちの太平洋戦争 続篇』135ページ
  7. ^ a b 雨倉, 96ページ
  8. ^ 『機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報』C08030036600, pp.39
  9. ^ 『機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報』C08030036700, pp.12
  10. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.34
  11. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.47
  12. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.53
  13. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.56
  14. ^ 野村, pp.10
  15. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.58 、野村, pp.10
  16. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.59
  17. ^ 木俣, 569ページ
  18. ^ 『第五艦隊戦時日誌』C08030019900, pp.26
  19. ^ a b 『第五艦隊戦時日誌』C08030019900, pp.37
  20. ^ 木俣『日本水雷戦史』571ページ
  21. ^ 『第五艦隊戦時日誌』C08030019900, pp.39
  22. ^ 『第五艦隊戦時日誌』C08030019900, pp.39,40
  23. ^ 『第五艦隊戦時日誌』C08030019900, pp.42,43,44
  24. ^ 木俣, 591ページ
  25. ^ 『第五艦隊戦時日誌』C08030019900, pp.44
  26. ^ 『第五艦隊戦時日誌』C08030019900, pp.45
  27. ^ 『礼号作戦戦闘詳報』pp.8
  28. ^ 『礼号作戦戦闘詳報』pp.68,69
  29. ^ 木俣, 606ページ
  30. ^ 『礼号作戦戦闘詳報』pp.64
  31. ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.8,9,28,29,31
  32. ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.46
  33. ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.48
  34. ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.48,49
  35. ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.6
  36. ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.57,58,59
  37. ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.18
  38. ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.43
  39. ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.44,45
  40. ^ 田村, 138ページ
  41. ^ 田村, 140ページ
  42. ^ 田村, 140ページ。『聯合艦隊軍艦銘銘伝』445ページでは、1962年ころに除籍廃艦

参考文献[編集]

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  • 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年十月一日至昭和十九年十月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』『自昭和十九年十一月一日至昭和十九年十一月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127700
  • 第一機動艦隊司令部『昭和十九年十一月十日 機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報 自昭和十九年十月二十日至同年十月二十九日 比島沖海戦』(昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030036600、C08030036700
  • 軍艦千歳『自昭和十九年十月二十日至昭和十九年十月二十五日 捷一号作戦戦闘詳報』(昭和19年10月20日~昭和19年10月25日 軍艦千歳捷1号作戦戦闘詳報) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030582500
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  • 第三十一戦隊司令部『自昭和十九年十二月二十二日至昭和二十年一月三十一日 第三十一戦隊戦時日誌』(昭和19年12月22日~昭和20年4月30日 第31戦隊戦時日誌(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030074800
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  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦<2> フィリピン沖海戦』(朝雲新聞社、1967年)
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
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  • 「歴史群像」編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.43 松型駆逐艦』(学習研究社、2003年) ISBN 4-05-603251-3
  • 田村俊夫「中国に引き渡された日本の賠償艦艇全34隻の足取り」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ51 帝国海軍 真実の艦艇史2』学習研究社、2005年、ISBN 4-05-604083-4
  • 冨井篤弥 『松型駆逐艦「桐」 ~戦中戦後の大洋を駆けた桐の物語~MyISBN デザインエッグ社アマゾン、2018年2月。ISBN 978-4-8150-0400-2