赤城丸 (特設巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
赤城丸
徴用前の赤城丸。
基本情報
船種 貨物船
クラス A型貨物船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 日本郵船
運用者 日本郵船
 大日本帝国海軍
建造所 三菱重工業長崎造船所
母港 東京港/東京都
姉妹船 A型貨物船4隻
信号符字 JIQK
IMO番号 42327(※船舶番号)
建造期間 284日
就航期間 2,717日
経歴
起工 1935年12月2日[1]
進水 1936年6月6日[1]
竣工 1936年9月10日[1]
除籍 1944年3月31日
最後 1944年2月17日被弾沈没(トラック島空襲
要目
総トン数 7,389トン(1942年)[2]
純トン数 4,327トン
載貨重量 9,612トン[2]
排水量 不明
全長 147.75m[3]
垂線間長 141.02m[2]
型幅 19.0m[2]
型深さ 10,50m[2]
高さ 27.43m(水面からマスト最上端まで)
9.14m(水面から船橋最上端まで)
12.80m(水面から煙突最上端まで)
喫水 3.71m[2]
満載喫水 8.39m[2]
主機関 三菱製MS型2DAディーゼル機関 1基[2]
推進器 1軸[2]
最大出力 8,771BHP[2]
定格出力 8,000BHP[2]
最大速力 18.9ノット[2]
航海速力 14.0ノット[2]
航続距離 15ノットで36,000海里
乗組員 59名[2]
1941年11月23日徴用。
高さは米海軍識別表[4]より(フィート表記)。
テンプレートを表示
赤城丸
基本情報
艦種 特設巡洋艦
艦歴
就役 1941年12月10日(海軍籍に編入時)
第五艦隊第22戦隊/呉鎮守府所管
要目
兵装 (1943年)[3]
三年式14cm砲4門
九六式25mm連装対空機銃2基4門
九六式13mm4連装機銃1基4門
九三式13mm機銃連装2基4門
同単装4門
九二式7.7mm機銃2挺
六年式53cm連装水上発射管1基2門
(53cm)六年式魚雷6本
九五式改二爆雷12個
装甲 なし
搭載機 (1943年)[1]
零式水上偵察機3機
呉式2号5型射出機1基
レーダー 21号電探1基[1]
ソナー 仮称吊下式一型水中聴音機1基[1]
徴用に際し変更された要目のみ表記
テンプレートを表示

赤城丸(あかぎまる)は、かつて日本郵船が所有し運航していた貨物船太平洋戦争中は特設巡洋艦として運用された。特設巡洋艦として入籍後は沈没の時まで類別変更されず、日本海軍における最後の「純粋な」特設巡洋艦でもあった[注釈 1]

船歴[編集]

日本郵船のニューヨーク航路の改善はディーゼル機関搭載のN型貨物船の投入で一応達成され、引き続いて欧州航路における貨物船の改善に取り掛かった[5]。「赤城丸」は、1917年(大正6年)開設のリヴァプール線でブルー・ファンネル・ライン英語版との激しい競争に対応するために建造されたA型貨物船の一隻として三菱長崎造船所1935年(昭和10年)12月2日に起工し、翌1936年(昭和11年)6月6日に進水。9月10日に竣工した。「赤城丸」建造の際、日本郵船は第二次船舶改善助成施設を活用し、その見合い解体船として自社持ち船の中から、日本最初の1万トン超貨客船の一隻である「春洋丸」(13,377トン)を充当した[6]

しかし、「赤城丸」はリヴァプール線には就航しなかった。圧倒的な力を誇るブルー・ファンネル・ラインとの競争が利にあらずと見た日本郵船は、リヴァプールに代えてハンブルクに至る新路線を開設し、そこに「赤城丸」を投入した[7]1938年(昭和13年)には、往航はパナマ運河経由でハンブルクに至り、帰途はスエズ運河を通過して日本に戻る東航世界一周線に就航する[7]。運営は順調だったが、1939年(昭和14年)の第二次世界大戦勃発で「赤城丸」以下優秀船は保護のため撤退し、1940年(昭和15年)には航路も休止となった[8]。アメリカ方面に配置換えとなったが、間もなく日米関係の悪化とともにアメリカ方面の航路も休止となり、遠洋航路は閉じられることとなった[9]。9月には石炭輸送を行った[10]

1941年(昭和16年)11月23日、「赤城丸」は日本海軍に徴傭され、次いで12月10日付で特設巡洋艦として入籍、呉鎮守府籍となる[11]。11月25日から12月30日まで大阪鉄工所桜島工場で特設巡洋艦としての艤装工事を受け、12月31日付で第二十二戦隊(堀内茂礼少将)に編入される[11][12]。次いで1942年(昭和17年)1月30日に第二十二戦隊旗艦となり[13]、特設監視艇隊の母艦的存在として釧路および横須賀を根拠地として行動する。ドーリットル空襲のあった昭和17年4月18日には釧路で停泊中だったが、第16任務部隊ウィリアム・ハルゼー中将)に片っ端から攻撃されている特設監視艇の救助に赴き、機銃掃射で航行不能に陥っていた「栄吉丸」(昭和漁業、150トン)を救助し、釧路に曳航した[14][15][16]。「赤城丸」は1943年(昭和18年)12月まで北方海域の警戒にあたって他の海域で行動することはなかったが、12月下旬より特設巡洋艦のまま輸送任務につく。

12月23日、「赤城丸」はウェーク島に送られる独立混成第5連隊と戦車第16連隊主力を乗せ、駆逐艦初月」と「涼月」の護衛を得てを出撃し、1944年(昭和19年)1月1日にウェーク島に到着[17][18][19]。第一回輸送を終えて呉に帰投し、今度は砲兵大隊と工兵隊、衛生隊を乗せて1月15日に呉を出撃するが、豊後水道通過中の1月16日に「涼月」がアメリカの潜水艦スタージョン (USS Sturgeon, SS-187) の雷撃で大破し、輸送作戦は一旦中止[17]。「赤城丸」は「初月」の護衛で横須賀に回航され[20]、特設運送船「愛国丸」(大阪商船、10,438トン)と特設潜水母艦靖国丸」(日本郵船、11,933トン)とともに輸送船団を構成の上1月24日に横須賀を出撃し、1月31日にアメリカの潜水艦トリガー (USS Trigger, SS-237) の攻撃で「靖国丸」が沈没したものの、2月1日にトラック諸島に到着する[17][21]。しかし、クェゼリンの戦いの末にクェゼリン環礁が陥落してこれ以上の前進が困難となり、ウェーク島に向かう予定だった陸上部隊の第二陣はポンペイ島防衛に転用されることとなった[17]。陸上部隊を降ろした「赤城丸」は日本への帰途、トラック残留の引き揚げ日本人を乗せることとなった[22]。しかし、陸上部隊関連の荷役に時間がかかり、2月16日にやっと終わったが、少し前に偵察のB-24がトラック上空に飛来し、アメリカ海軍は偵察の結果をもってエニウェトクの戦いの支援でトラックを空襲することを決意する[23]

引揚者25名[24]ないし617名[25]を乗せた「赤城丸」は練習巡洋艦香取」、駆逐艦「舞風」および「野分」とともに第4215船団を編成し、4時30分にトラックを出港する[24][26]。しかし、第4215船団は出港後30分で最初の空襲を受け、環礁内だったためスピードは出せなかったものの回避運動を行い、被害はなかった[24][26]。この空襲こそ、第58任務部隊マーク・ミッチャー中将)が放った攻撃隊の第一波であった。6時30分過ぎにトラック北水道を通過した第4215船団は、7時16分過ぎに再び攻撃隊の空襲を受ける[24][26]。この攻撃で「赤城丸」は二番船倉に命中弾を受けるが、怯むことなく北上を急いだ[24][26]。9時10分、攻撃隊第三波が飛来し、五番船倉の両舷に命中弾を受けて火災と浸水が発生、間もなく火薬庫が爆発を起こして「赤城丸」は危機に瀕し、「阿鼻叫喚、地獄図絵さながらの混乱」に陥る[24][26][27]。10時30分、艦長は総員退艦を令して生存者を「香取」に移そうとする[24]。しかし、海上に漂う遭難者は機銃掃射を受け、また救命ボートに兵員と乗り合わせていた民間人のうち、女性と子供は「戦争をしない」人間として扱われ、「兵隊さんに迷惑はかけられない」とばかりに海中に飛び込んで消えていった[24][27]。「赤城丸」は10時47分ごろに沈没した[25][28]

空襲で大破した「香取」は「赤城丸」の生存者を何とか救助したが、上空ではミッチャー提督が航空部隊に空襲中止を命令していた[29]。するとレイモンド・スプルーアンス提督(第5艦隊長官)直率の戦艦2隻(ニュージャージーアイオワ)と重巡洋艦2隻(ミネアポリスニューオーリンズ)および駆逐艦4隻が出現し、ほとんど動けなくなっていた「香取」と「舞風」を艦砲射撃により撃沈した[30]。スプルーアンス提督は、アイオワ級戦艦40センチ砲で敵艦を直接撃沈したかったのである[30]

結局、第4215船団4隻のうち「野分」だけが脱出に成功し、「香取」と「舞風」の生存者はいなかった。「赤城丸」に乗船していた引揚者は565名が犠牲となったほか[25]、乗員にも多数の死者が出た。艦長の黒崎林蔵大佐は救助されたが、3月2日に収容先の病院で沈没時の負傷がもとで死亡した[要出典]

3月31日に除籍および解傭[11]

艦長[編集]

  • 作間應雄 大佐:1941年12月10日[31] - 1943年3月2日
  • 黒崎林蔵 予備海軍大佐:1943年3月2日[32] - 1944年3月2日戦死 ※同日、海軍少将に特進。

同型船[編集]

A型貨物船

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 敷設艦としての設備の有無で類別するなら、特設巡洋艦籍のままで最後に沈没したのは敷設艦機能を有していた「西貢丸」(大阪商船、5,350トン)であり、太平洋戦争期の特設巡洋艦として行動した船で最後に沈没したのは「浮島丸」(大阪商船、4,730トン)である。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 遠藤昭『高角砲と防空艦』原書房、1975年。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 財団法人海上労働協会(編)『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6 
  • 木津重俊(編)『世界の艦船別冊 日本郵船船舶100年史』海人社、1984年。ISBN 4-905551-19-6 
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年。 
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年。 
  • イアン・トール『太平洋の試練 ガダルカナルからサイパン陥落まで 〈下〉』村上和久、株式会社文藝春秋、2016年3月。ISBN 978-4-16-390424-5 
  • 財団法人日本経営史研究所(編)『日本郵船株式会社百年史』日本郵船、1988年。 
  • 日本郵船戦時船史編纂委員会『日本郵船戦時船史』 上、日本郵船、1971年。 
  • 野間恒、山田廸生『世界の艦船別冊 日本の客船1 1868~1945』海人社、1991年。ISBN 4-905551-38-2 
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年。 
  • 柴田武彦、原勝洋『日米全調査 ドーリットル空襲秘録』アリアドネ企画、2003年。ISBN 4-384-03180-7 
  • トーマス.B.ブュエル『提督スプルーアンス』小城正(訳)、学習研究社、2000年。ISBN 4-05-401144-6 
  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書13 中部太平洋陸軍作戦(2) ペリリュー・アンガウル・硫黄島朝雲新聞社、1968年。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第29巻 北東方面海軍作戦』朝雲新聞社
  • 三菱造船(編)『創業百年の長崎造船所』三菱造船、1957年。 
  • 山高五郎『図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)』至誠堂、1981年。 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08050083200『昭和十八年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一』、31頁。 
    • Ref.C08030069100『自昭和十六年十二月一日至昭和十六年十二月三十一日 第二十二戦隊戦時日誌 作戦及一般ノ部』。 
    • Ref.C08030069200『自昭和十七年一月一日至昭和十七年一月三十一日 第二十二戦隊戦時日誌 作戦及一般ノ部』。 
    • Ref.C08030072100『自昭和十八年七月一日至昭和十八年七月三十一日 第二十二戦隊戦時日誌』。 
    • Ref.C08030072800『自昭和十八年十二月一日至昭和十八年十二月三十一日 第二十二戦隊戦時日誌』。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]