金剛丸 (特設巡洋艦)

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金剛丸
Kongo Maru PostCard.JPG
徴用前の金剛丸。
基本情報
船種 貨物船
クラス 清澄丸級貨物船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 国際汽船
運用者 Flag of Japan.svg 国際汽船
 大日本帝国海軍
建造所 播磨造船所
母港 東京港/東京都
姉妹船 清澄丸
航行区域 遠洋
信号符字 JWIJ
IMO番号 40114(※船舶番号)
建造期間 375日
就航期間 2564日
経歴
起工 1934年2月22日[1]
進水 1934年12月7日[1]
竣工 1935年3月4日[1]
除籍 1942年4月1日
最後 1942年3月10日被弾沈没(ラエ・サラモアへの空襲
要目
総トン数 7,043トン(1935年)
8,624トン(1938年)[2]
純トン数 3,747トン(1935年)
5,110トン(1938年)
載貨重量 9,583トン(1935年)
9,586トン(1938年)[2]
排水量 不明
登録長 138.2m(1935年)
139.0m(1938年)
垂線間長 137.16m[2]
型幅 18.59m[2]
深さ 12.19m
型深さ 9.4m(1935年)
12.5m(1938年)
12.21m(1939年)[2]
高さ 25.90m(水面から1番・4番マスト最上端まで)
14.02m(水面から2番・3番マスト最上端まで)
13.71m(水面から煙突最上端まで)
喫水 4.656m[2]
満載喫水 8.48m[2]
機関方式 川崎MAN型神鋼複動2サイクルディーゼル機関 1基[2]
推進器 1軸[2]
最大出力 9,048BHP[2]
定格出力 7,600BHP[2]
最大速力 19.63ノット[2]
航海速力 17.0ノット[2]
航続距離 16.5ノットで34,000海里
乗組員 50名[2]
積載能力 2,850トン
衣笠丸級貨物船は準姉妹船
1941年8月6日徴用。
高さは米海軍識別表[3]より(フィート表記)。
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金剛丸
Kongo Maru sinks at Lae.jpg
金剛丸の最後(1942年3月10日)
基本情報
艦種 特設巡洋艦
艦歴
就役 1941年9月5日(海軍籍に編入時)
連合艦隊第四艦隊付属/呉鎮守府所管
要目
兵装 安式15cm砲4門
九三式13mm機銃連装2基4門
六年式53cm連装水上発射管1基2門
装甲 なし
搭載機 水上偵察機1機
徴用に際し変更された要目のみ表記。
出典は『日本軽巡戦史』[4]より。
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この項目における金剛丸(こんごうまる Kongo Maru)は、かつて国際汽船が運航していた貨物船で、太平洋戦争では特設巡洋艦として運用されたが、比較的早い時期に戦没した。

概要[編集]

1919年(大正8年)7月、川崎造船所で建造中のストックボートや、委託された造船所所有船などを船隊の主力とし、遠洋航路経営のために川崎造船所や鈴木商店などが出資した国際汽船が創立された[5]。2年後の1921年(大正10年)には、同じような目的で設立された川崎汽船や川崎造船所船舶部と航路の共同運営を開始。「Kライン」の始まりとなる[5][6]。しかし、不況により収入が上がらず、減資を行ったものの改善しなかったため、1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌をきっかけに銀行の管理下に入ることとなって「Kライン」から離脱した[7][8]。その後、さらなる減資や利息の支払猶予などの救済策、低性能船の整理などを行った結果、経営状況は改善[9]。また、政府による船舶改善助成施設などを活用した大幅な船質改善を行い、国際汽船の船隊は優秀船を主体とする船隊に変貌した[9]

「金剛丸」は第一次船舶改善助成施設適用船として播磨造船所で建造され、1935年(昭和10年)3月4日に竣工する[10][11][注釈 1]。貨物船ではあるが、定員12名の一等客室を6室備えていた[2]。竣工後は日本郵船の委託船となってニューヨーク航路に就航する[12]。9日と10時間の太平洋横断最速記録を所持していたこともある[13]。約6年間の商業航海ののち、1941年(昭和16年)8月6日付で日本海軍に徴傭され、呉鎮守府籍となる[14]。続いて9月5日付で特設巡洋艦として入籍し、入籍2日前の9月3日から10月15日までの間、生まれ故郷の播磨造船所で特設巡洋艦としての艤装工事が行われた[14]

特設巡洋艦となった「金剛丸」は第四艦隊井上成美中将)付属となり、同じ特設巡洋艦の「金龍丸」(国際汽船、9,309トン)とともに舞鶴第一特別陸戦隊を乗せてトラック諸島に進出[4]。次いで12月4日から5日にかけてはウォッジェ環礁への輸送任務を行い、クェゼリン環礁で12月8日の開戦を迎える[15]。第四艦隊はウェーク島攻略を命じられており、第六水雷戦隊(梶岡定道少将)と第十八戦隊(丸茂邦則少将)を中心に攻略部隊を編成[16]千歳海軍航空隊の陸上攻撃機による爆撃に呼応して8日午後にルオットを出撃し、ウェーク島に向かう[17]。12月10日夜、攻略部隊はウェーク島沖に到着し、「金剛丸」と「金龍丸」は大発動艇(大発)を降ろして陸戦隊の上陸に取りかかるが、折りからの荒波によって「金剛丸」からの大発のうち1隻が転覆し、「金龍丸」でも1隻が舷側に叩きつけられて使用不能となった[18]。上陸は一旦延期され、3時25分から軽巡洋艦夕張」以下諸艦艇によって艦砲射撃が開始され、「金剛丸」も約20分間参加する[19][20]。しかし、ウェーク島の砲台から猛烈な反撃を受けた上に、健在のF4F ワイルドキャットが攻略部隊に対して繰り返し銃爆撃を行ってきた[21]。4時すぎに「疾風」の爆沈を目の当たりにした攻略部隊は、ただちに南西方向への避退を開始する[22]。「金剛丸」と「金龍丸」も揚陸作業を打ち切って避退を開始したが、明け方5時44分ごろにF4Fの銃爆撃を受け、機銃掃射により搭載していたガソリン入りのドラム缶が炎上する[23]。船倉を密閉して酸素を絶ち消火したものの、戦死者3名、重傷者5名、軽傷者17名を出した[24]。船体への被害も少なくなく、至近弾による浸水量が800トンから1,000トンもあった[25]。攻略作戦自体もついに中止に決し、攻略部隊各艦はクェゼリンに退却することとなって、12月13日にルオットに帰投した[26]。態勢を立て直した攻略部隊は、第二航空戦隊山口多聞少将)などの支援を取り付け、第二次攻略戦を行うこととなった[27]。この際、「金剛丸」と「金龍丸」からの大発揚陸は波浪との関係上不適であると判定されたため[28]、「金剛丸」は第二次攻略戦では上陸作戦には使われず、設営隊を乗せて部隊に加わった[29]。第二次攻略戦も猛烈な反撃に見舞われたが、ついに攻略に成功した[30]。「金剛丸」は設営隊を輸送したのち12月25日にルオットに帰投し、翌12月26日に出港して12月29日にトラックに到着した[31]

1942年(昭和17年)に入り、「金剛丸」はラバウル攻略に起用される。R攻略部隊(志摩清英少将)本隊に編入され、第五根拠地隊高角砲隊を乗せて1月14日にグアム(大宮島)アプラ港を出撃[32][33]。攻略作戦は1月23日に行われ、大きな抵抗もなく占領に成功し、以後日本軍の一大根拠地として君臨することとなる[33]。攻略作戦後、「金剛丸」はトラック、大宮島およびサイパン島と寄港して、2月21日にラバウルに再び入港する[34]。このころ、ラバウルの安全確保とオーストラリアへの圧力のため、ニューギニア島ラエおよびサラモアを占領する計画が立てられた[35][36]。「金剛丸」は第八根拠地隊陸戦隊からの1個大隊と、第四設営班の一部を乗せ、3月5日にラバウルを出撃する[36][37]。3日後の3月8日未明、SR攻略部隊は二手に分かれて堀井富太郎陸軍少将率いる南海支隊はサラモアに、陸戦隊はラエにそれぞれ上陸してともに占領に成功した[36][38]。しかし、ラエには港湾施設がなく、「金剛丸」は特設敷設艦「天洋丸」(東洋汽船、6,843トン)や特設運送船「黄海丸」(嶋谷汽船、3,871トン)とともに沖合で荷役作業を行ったが、運搬に使用する大発の多くが悪天候で使えなかったので、作業のスピードは早くなかった[39]

真珠湾攻撃以後、アメリカ海軍は防戦一方だったが、真珠湾での災難から逃れた航空母艦を使って神出鬼没に日本軍拠点への奇襲を繰り返していた。このうち、ニューギニア方面への日本軍の進撃を妨害するため、2つの任務部隊をニューギニア方面に派遣した。空母「レキシントン」 (USS Lexington, CV-2) 基幹のアメリカ第11任務部隊ウィルソン・ブラウン中将)と、「ヨークタウン」 (USS Yorktown, CV-5) を基幹とする第17任務部隊英語版フランク・J・フレッチャー少将)がそれで、当初はラバウルを南方から攻撃する計画になっていた[39][40][41]。しかし、日本軍のラエとサラモアへの上陸を聞いて攻撃計画はラエとサラモアへの奇襲に変更された[39][40]

3月10日、「レキシントン」攻撃隊はサラモアを、「ヨークタウン」攻撃隊はラエをそれぞれ目指し、オーエンスタンレー山脈を越えて進撃する[39]。2つの攻撃隊は朝方にラエとサラモアに到達し、SR攻略部隊の諸艦船は完全な奇襲を受けた。サラモアで陸軍輸送船「横浜丸」(日本郵船、6,143トン)が4発の命中弾により沈没し、敷設艦津軽」と輸送船「ちゃいな丸」(川崎汽船、5,869トン)も損傷する[39][42]。ラエでは特設水上機母艦「聖川丸」(川崎汽船、6,862トン)が至近弾で損傷し、「天洋丸」も被弾して海岸に座礁した[43]。「金剛丸」は2発の爆弾を機械室と後部船倉に受けて炎上[44]。浸水甚だしく、16時30分にラエ東方約3キロの地点にて沈没した[45]。ラエとサラモアの在泊艦船のほか、沖合で哨戒中の第六水雷戦隊の「夕張」以下の艦艇も被害を受けた[46]。アメリカ海軍によるこの奇襲は成功し、ある程度の成果を収めたと判定された[40]。「金剛丸」は4月1日付で除籍および解傭された[14]

艦長[編集]

  • 水崎正次郎 予備海軍大佐:1941年9月5日 - 1942年4月1日[47]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この時、国際汽船では第一次船舶改善助成施設で「金剛丸」のほかに「鹿野丸」(8,572トン)と「清澄丸」(8,613トン)を建造しているが(#船舶改善助成施設実績調査表p.2)、「船舶改善助成施設実績調査表」では「金剛丸」が川崎造船所で、「清澄丸」が播磨造船所で建造、となっている。造船所建造番号は、「金剛丸」が播磨造船所205番船、「清澄丸」が川崎造船所第583番船であるが(#播磨造船所50年史p.87, pp.450-451 、#川重社史年表諸表pp.186-187)、「船舶改善助成施設実績調査表」では「金剛丸」と「清澄丸」が入れ替わっている(「金剛丸」=川崎第583番船、「清澄丸」=播磨第205番船)。ただし、#日本汽船名簿・金剛丸#日本汽船名簿・清澄丸での記述や「船舶改善助成施設実績調査表」の作成時期から察すると、「船舶改善助成施設実績調査表」の単純な誤りのほかに、国際汽船が何らかの理由で両船の名前を進水前に入れ替えた可能性がある。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(国立公文書館)
    • Ref.A08072182800 『船舶改善助成施設実績調査表(昭和九年四月十九日調)』。
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08050073100 『昭和十四年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一』、36頁。
    • Ref.C08050073100 『昭和十四年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一』、39頁。
    • Ref.C08030018200 『自昭和十六年十二月一日 至昭和十六年十二月三十一日 第四艦隊戦時日誌』、1-8頁。
    • Ref.C08030018200 『自昭和十七年一月一日 至昭和十七年一月三十一日 第四艦隊戦時日誌』、9-18頁。
    • Ref.C08030018200 『自昭和十七年二月一日 至昭和十七年二月二十八日 第四艦隊戦時日誌』、19-33頁。
    • Ref.C08030120100 『昭和十六年十二月十三日 「ウ」攻略部隊戦闘詳報 第一号』。
    • Ref.C08030120400 『昭和十六年十二月二十三日 「ウ」攻略部隊戦闘詳報 第二号』。
    • Ref.C08030057700 『第十八戦隊戦闘詳報 第一号』。
    • Ref.C08030067300 『昭和十七年二月二十八日 R攻略部隊戦闘詳報第一号』。
    • Ref.C08030757600 『軍艦津軽戦闘詳報 第十四号 SR作戦自昭和十七年二月二十日至昭和十七年三月十七日』。
    • Ref.C08030647500 『昭和十七年三月二十日 軍艦聖川丸戦闘詳報 第六号』。
    • Ref.C08030123100 『昭和十七年三月十七日 南洋部隊「SR」方面攻略部隊戦闘詳報』。
  • 新聞記事文庫(神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ)
  • 川崎重工業(編) 『川崎重工業株式会社社史 年表・諸表』 川崎重工業、1959年
  • 播磨造船所(編) 『播磨造船所50年史』 播磨造船所、1960年
  • 岡田俊雄(編) 『大阪商船株式会社八十年史』 大阪商船三井船舶、1966年
  • 財団法人海上労働協会(編) 『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』 財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6
  • 山高五郎 『図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)』 至誠堂、1981年
  • 木俣滋郎 『日本水雷戦史』 図書出版社、1986年
  • 木俣滋郎 『日本軽巡戦史』 図書出版社、1989年
  • C.W.ニミッツ、E.B.ポッター 『ニミッツの太平洋海戦史』 実松譲、冨永謙吾(共訳)、恒文社、1992年ISBN 4-7704-0757-2
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」、『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年
  • 松井邦夫 『日本商船・船名考』 海文堂出版、2006年ISBN 4-303-12330-7
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第10巻、第一法規出版、1995年。

関連項目[編集]