鹿岡円平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鹿岡 円平
生誕 1901年4月11日
日本の旗 日本 福島県
死没 (1944-11-05) 1944年11月5日(43歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1922 - 1944
最終階級 海軍少将
テンプレートを表示

鹿岡 円平(かのおか えんぺい、1901年明治34年)4月11日 - 1944年昭和19年)11月5日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍少将

経歴[編集]

福島県出身。医師・鹿岡貫治の四男として生れる。旧制石川中学校を経て、1921年7月、海軍兵学校49期)を卒業。皇族2名を除いた席次は172名中5番。翌年5月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を首席卒業し、「加古分隊長アメリカ駐在(イェール大学)、「夕霧」航海長、「夕凪」水雷長、「羽黒」分隊長などを経て、1934年7月、海軍大学校(甲種32期)を首席で卒業。

軍令部出仕、「嵯峨艦長、軍令部第1部第2課部員、第2根拠地隊参謀海軍省軍務局第1課局員などを歴任し東條英機首相秘書官となった。太平洋戦争には、東條内閣総辞職後1944年8月、重巡洋艦那智」艦長として出征した。北方部隊の第五艦隊旗艦であった「那智」は、志摩清英に率いられ、第二遊撃部隊の旗艦としてレイテ沖海戦に参戦しスリガオ海峡夜戦を戦う。「那智」は先行した第一遊撃隊第三部隊の「最上」と衝突し、左舷を損傷した。10月27日にマニラへ到着し応急修理を行っていたが、11月5日、マニラ湾において米空母「レキシントン」(USS Lexington, CV-16)の艦載機による空襲を受け「那智」は撃沈され、鹿岡は戦死。一階級特進により海軍少将に進んだ。鹿岡の戦死を聞いた東條英機は、家で飼っていた犬に「那智」と名づけて鹿岡を偲んだという。

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9