伊号第五十五潜水艦
艦歴 | |
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計画 | 昭和17年度計画(マル追計画) |
起工 | 1942年6月15日 |
進水 | 1943年4月20日 |
就役 | 1944年4月20日 |
その後 | 1944年7月14日戦没 |
除籍 | 1944年10月10日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:2,095トン 常備:2,564トン 水中:3,644トン[1] |
全長 | 108.7m |
全幅 | 9.30m |
吃水 | 5.12m |
機関 | 艦本式22号10型(過給器付き)ディーゼル2基2軸 水上:4,700馬力 水中:1,200馬力 |
速力 | 水上:17.7kt 水中:6.5kt |
航続距離 | 水上:16ktで21,000海里 水中:3ktで105海里 |
燃料 | 重油 |
乗員 | 94名[2] |
兵装 | 40口径14cm単装砲2門 25mm機銃連装1基2挺 53cm魚雷発射管 艦首6門 九五式魚雷17本 |
航空機 | なし |
備考 | 安全潜航深度:100m |
伊号第五十五潜水艦(いごうだいごじゅうごせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。伊五十二型潜水艦(丙型改潜水艦)として完成した最後の艦。艦名としては二代目。
初代伊55については伊号第百五十五潜水艦、または伊百五十三型潜水艦を参照のこと。
艦歴
[編集]1941年(昭和16年)の昭和17年度計画(マル追計画)により呉海軍工廠で1942年6月15日起工、1943年4月20日進水、1944年4月20日に竣工した。呉鎮守府籍となり、訓練部隊である第六艦隊第11潜水戦隊に編入された。
1944年6月30日、呉を出港し、7月1日に横須賀に到着。7日に運砲筒を積んで横須賀を出港し、テニアン島の第一航空艦隊司令部と飛行機搭乗員救出、守備隊への補給任務に向かう。10日、第15潜水隊に編入。13日0040、「15日夜、テニアン島着の予定」の電報を最後に消息不明。
アメリカ側記録によると、13日2120、米哨戒機がサイパン島近海で潜航中の潜水艦を発見。通報により、上陸輸送船団を護衛中の米高速輸送艦ギルマー(USS Gilmer, DD-233/APD-11)と米護衛駆逐艦ウィリアム・C・ミラー(USS William C. Miller, DE-259)の2隻が差し向けられた。14日0022、2隻は潜水艦を発見した海域に到着し、潜水艦の捜索を行った。7時間後、ウィリアム・C・ミラーが自艦から約1500mの位置に潜航中の潜水艦を探知し、0726と0752にそれぞれ爆雷13発ずつを投下。この結果。0804にウィリアム・C・ミラーの右舷船首から約450m離れた海面に木片が浮かび上がり、その1分後には海中での爆発音がして、その衝撃でウィリアム・C・ミラーの船体が揺さぶられた。そして、気泡が海中から上がるのを確認したウィリアム・C・ミラーは、止めとして0806に爆雷13発を一斉に投下。その結果、重油の流出が確認できた他、コルク片、木片、日本海軍のものと思われる帽子が浮かび上がってきた。これが伊55の最期であり、艦長の井筒紋四郎少佐以下乗員112名全員戦死。沈没地点はサイパン島近海、北緯15度18分 東経144度26分 / 北緯15.300度 東経144.433度。
15日テニアン島付近で喪失と認定、10月10日除籍。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』421頁による。
艤装員長
[編集]- 井筒紋四郎 少佐:1944年3月5日 -
艦長
[編集]- 井筒紋四郎 少佐:1944年4月20日 - 7月14日戦死
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0462-8
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
- 福井静夫『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1