黒木和雄
くろき かずお 黒木 和雄 | |||||
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生年月日 | 1930年11月10日 | ||||
没年月日 | 2006年4月12日(75歳没) | ||||
出生地 | 三重県松阪市 | ||||
死没地 |
東京都板橋区 高島平中央総合病院[1] | ||||
国籍 |
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民族 | 日本人 | ||||
職業 | 映画監督 | ||||
ジャンル | 日本映画 | ||||
活動期間 | 1958年 - 2006年 | ||||
配偶者 | あり | ||||
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黒木 和雄(くろき かずお、1930年11月10日 - 2006年4月12日 )は、日本の映画監督。宮崎県立小林中学校(旧制)、宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校、同志社大学法学部卒業。
経歴[編集]
母親の実家・三重県松阪市生まれ[2]。兵庫県神戸市、宮崎県飯野町(現えびの市)を経て、5歳のときに父の仕事先満州に家族と渡り、少年時代は満州で育つ[2]。1942年日本に戻り、中学から祖父母の住む宮崎県えびの市で育った[2]。高校時代の恩師の勧めで同志社大学に進学。卒業後、岩波映画製作所へ入社。1958年の『東芝の電気車輛』で監督デビュー。その後も主にPR映画を監督するが、火力発電所の宣伝映画でありながら前衛的な表現に訴えた『海壁』(1959年)や『ルポルタージュ 炎』(1960年)、アラン・レネ監督の影響を受けた北海道のPR映画『わが愛 北海道』が異色のドキュメンタリーとして注目される。土本典昭、小川紳介たち岩波映画製作所周辺の若手映画人たちと交遊し、そのリーダー格であった。
同1962年に退社してフリーとなり、1964年東京オリンピック前の君原健二を追った『あるマラソンランナーの記録』(1964年)を監督するが、製作の東京シネマ首脳部と対立してPR映画という枠組み自体に限界を感じたため、以降は当初からの望みであった劇映画の世界を目指す。1966年の初の劇映画『とべない沈黙』は、東宝で制作したが、その前衛的な作風のため公開中止となり、ATGの配給で公開された。以降、ATGを製作基盤として精力的に作品を発表し、1970年代半ばの『竜馬暗殺』や『祭りの準備』は迸る青春群像を描き、熱狂的なファンを生んだ。1976年、芸術選奨新人賞受賞。1984年より文化庁新進芸術家在外研修員として海外留学。その後1988年に原爆を主題とした力作『TOMORROW 明日』を発表し芸術選奨文部大臣賞を受賞するものの、1990年代は勢いが失われた。しかし21世紀に入って大型の傑作を連打、日本映画を代表する巨匠と目されるようになった矢先、痛恨の他界となった。
盟友土本典昭のプロデュースにより完成した『キューバの恋人』は、日本とキューバの初の合作映画である。
『TOMORROW 明日』『美しい夏キリシマ』『父と暮せば』は戦争レクイエム三部作と呼ばれる。
2006年4月12日、脳梗塞のため死去。享年75[3]。同年8月12日に商業公開を控えた『紙屋悦子の青春』が遺作となった。戦前の名監督、山中貞雄を描く映画を長年にわたって構想していたが、ついに実現しなかった。
主な監督作品[編集]
脚注[編集]
- ^ 「紙屋悦子の青春」公式サイト. “黒木和雄監督”. パル企画. 2012年12月29日閲覧。
- ^ a b c 日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 16 黒木和雄
黒木和雄とその時代 - 東日新聞 - ^ “黒木和雄さんが死去 戦争3部作映画など監督”. 47NEWS. (2006年4月12日) 2011年11月14日閲覧。
関連文献[編集]
- 日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 16 黒木和雄
- 『ドキュメンタリー映画は語る 作家インタビューの軌跡』未來社にも収録
- ETV特集「戦争へのまなざし〜映画作家・黒木和雄の世界〜」NHK教育テレビ、2006年8月12日
外部リンク[編集]
- 黒木和雄 - allcinema
- 黒木和雄 - KINENOTE
- 黒木和雄 - 日本映画データベース
- Kazuo Kuroki - インターネット・ムービー・データベース(英語)
- 黒木和雄 - テレビドラマデータベース
- 黒木和雄 - NHK人物録
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