徳田要請問題

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証人喚問される徳田球一

徳田要請問題(とくだようせいもんだい)とは1950年2月ソビエト連邦シベリア抑留から帰還した引揚者の一部が、自分たちの帰国が遅れたのは日本共産党書記長であった徳田球一の要請によるものだと主張した事件。3月から4月にかけて衆議院参議院の各委員会で当事者が証人喚問され、証言者が遺書を残し証言翌日に自殺したことで話題となった。「徳田要請」「徳田要請事件」とも呼ばれている。

概要[編集]

抑留引揚者のグループ「日の丸梯団」は、日本帰国後の1950年2月12日、徳田球一が引揚を妨害したとの主張を行った。その根拠となったのは抑留中、ソ連の政治将校が自分たちに対し「徳田球一がソ連政府に対し共産主義者以外と反動の抑留者は日本に帰国させるなと(書簡で)要請した」という主旨の講話を行ったというものであった。

この件は政府GHQに告発され、当時レッドパージなど共産主義者や左派の運動に対する当局の弾圧が強まるなか、共産主義者攻撃の格好の材料とされ、政治問題化した。徳田球一については国会で証人喚問となり、この問題について証言させられたが、「要請」の存在を自ら否定した。

これに関連し抑留時、ソ連将校の講話を通訳していた哲学者菅季治は、「要請」について否定も肯定もせず「将校の講話は(徳田の言葉の引用については)『反動分子としてではなくて、よく準備された民主主義者として帰国するように期待している』というものであった」という内容の手記を参議院に提出し、共産党機関紙『アカハタ』はこれをもって「徳田要請は否定された」とした(菅はこの件で共産党に対し抗議した)。このため1950年4月5日に菅は衆議院に証人喚問され「『要請』というロシア語を(恣意的に)『期待』と訳したのではないか」[1]と厳しい質問を浴び(菅があたかも共産党のシンパであるかのようにアピールし、その証言が信用できないことを印象づける戦術であった)、翌日鉄道に飛び込み自殺した。

菅の自殺事件は社会的に大きな反響を呼び、木下順二がこの事件をテーマとする戯曲『蛙昇天』(背景も含めすべて蛙の世界の出来事に置き換えたもの)を書いている。

脚注[編集]

  1. ^ ロシア語原文では「トクダ・ナデーエツァ」。辞書ではナデーエツァは「希望する、期待する、hope,trust,expect」。考査会の篠田弘作委員が「要請はホープ、片方の期待ということはエクスペクト、そういうふうに区別はあるがこの場合ロシア語には私は区別はないと思う」と発言したが、ロシア語にはトレポワーティという言葉が別にあって「request,require,claim」という意味があると菅季治は指摘した。いずれにせよロシア語の十分な吟味もしないまま、考査委員会は「徳田期待」ではなく「徳田要請」として結論づけて終わった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]