オレンブルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
オレンブルク
Оренбург
ウラル川に架かる橋
ウラル川に架かる橋
オレンブルクの市旗 オレンブルクの市章
市旗 市章
位置
ロシア内のオレンブルク州の位置の位置図
ロシア内のオレンブルク州の位置
座標 : 北緯51度46分 東経55度6分 / 北緯51.767度 東経55.100度 / 51.767; 55.100
歴史
建設 1735年
旧名 チカロフ
行政
ロシアの旗 ロシア
 連邦管区 沿ヴォルガ連邦管区
 行政区画 オレンブルク州の旗 オレンブルク州
 市 オレンブルク
地理
面積  
  市域 300 km2
標高 150 m
人口
人口 (2008年現在)
  市域 526,430人
その他
等時帯 エカテリンブルク時間 (UTC+5)
郵便番号 460xxx
市外局番 +7 3532
ナンバープレート 56
公式ウェブサイト : http://www.admin.orenburg.ru/

オレンブルクあるいはオレンブルグОренбург, Orenburg)は、ロシア連邦の都市。沿ヴォルガ連邦管区オレンブルク州の州都で人口は、526,430人。1938年から1957年までは、有名な飛行士ヴァレリー・チカロフにちなんでチカロフЧкалов, Chkalov)と呼ばれていた。モスクワから南東に1480km。カザフスタンとの国境に近い。標高約150m。ウラル川が流れ、ウラル山脈の南端に位置する。文学「大尉の娘」の舞台のひとつにもなった。

歴史[ソースを編集]

オレンブルク建設[ソースを編集]

1734年ロシア帝国は、南ウラル地方に東方の前線基地を建設する計画を立て、1735年要塞都市を築いた。ヤイク川バシキール語: Яйыҡカザフ語: Жайық、反乱後にロシア語名はウラル川 Урал と改名された)とオリ川ロシア語版英語版: Орь)の合流地点であった。町の名前は「オリ川の要塞」の意味で、オレンブルクとなった。要塞の建設に反発するバシキール人は、バシキールの蜂起 (1735年 - 1740年)ロシア語版を起こしたが、強力な弾圧が加えられた。

1739年オルスク(Orsk)と改名。1741年にオレンブルクの町はウラル川下流に移転するが失敗、1743年に再度移転する。これが現在の場所で、1734年に最初に作られた町(現在のオルスク)からは250kmも下流に移動したことになる。この移転が、オレンブルクをカザフ人の遊牧民への前哨基地としての町の性格を強めた。

1773年プガチョフの乱では、ウラル川地方の行政の中心として発展していたオレンブルクは、プガチョフの軍勢に半年間も包囲され、数千人の犠牲者を出し町は廃墟と化した。さらに18世紀末の大火などを経験するも、軍事拠点、交易の中心として立ち直った。1833年アレクサンドル・プーシキン大尉の娘などの執筆調査でこの町に滞在、ロシア初のロシア語辞典を編纂することになる旧友のウラジーミル・ダーリ(Vladimir Dal)とオレンブルクで再会している。

グレート・ゲーム[ソースを編集]

グレート・ゲームの時代には、1830年代から1850年代にかけて、ヴァシリー・ペロフスキー英語版(Vasily Alekseevich Perovsky)のヒヴァ・ハン国侵略の基地となり、その後はロシアと中央アジアを結ぶ交易の中心となった。

1906年トランス・アラル鉄道(オレンブルク-タシュケント間)が完成し、カスピ海横断鉄道トルクメンバシ-タシュケント間)と接続。これ以降、中央アジア(トランス・アラル鉄道、カスピ海横断鉄道)やシベリアシベリア鉄道)への重要な鉄道分岐点なったサマーラがオレンブルクにとって代わる玄関口として発展する。

バスマチ蜂起[ソースを編集]

バスマチ蜂起1918年 - 1924年)。1920年キルギス自治ソビエト社会主義共和国英語版が誕生、オレンブルクがその首都になる。

戦間期[ソースを編集]

キルギス自治ソビエト社会主義共和国は1925年カザフ自治ソビエト社会主義共和国と改称されるが、オレンブルクはロシアへの帰属を決め、代わりに同国の首都はクズロルダに移った。1929年には、トルキスタン・シベリア鉄道(タシュケント-ノヴォシビルスク間)が開通し、首都は再度アルマトイに移った。

カザフ自治ソビエト社会主義共和国は、1936年カザフ・ソビエト社会主義共和国となったが、オレンブルクはロシアに帰属し続けた。

第二次世界大戦[ソースを編集]

第二次世界大戦中、戦火を逃れるために多くの工場がヨーロッパロシアからオレンブルクに疎開、戦後の市の経済発展の土台となった。

著名な出身者[ソースを編集]

姉妹都市[ソースを編集]