二日市保養所
二日市保養所(ふつかいちほようじょ)は、福岡県筑紫郡二日市町(現筑紫野市)にあった厚生省引揚援護庁の医療施設。ここでは、レイプ被害に遭った日本人女性(引揚者)に堕胎手術や性病の治療を行った[1]。
開所に至る経緯[編集]
終戦直後より在満・在朝日本人は塗炭の苦しみを味わうことになった。追放や財産の略奪に止まらず、強制連行や虐殺などで、祖国の地を踏むことなく無念のうちに斃れた者も少なくなかった。これに加えて女性は、朝鮮人やソ連兵、中国人等による度重なる強姦を受けた末、心ならずも妊娠したり、性病に罹ったりしたにもかかわらず、何ら医療的治療が施されずにいた。そして強姦により妊娠・性病罹患した女性の中には、これを苦にして自殺する者が出た[注 1]。
移動医療局[編集]
ソウルから釜山にかけての旅程にいる引揚者の治療にあたるため、移動医療局(英名MRU、メディカル・リリーフ・ユニオン)という組織が形成されていた。これを手掛けたのは文化人類学者の泉靖一で、のちの在外同胞援護会救療部も、一部の資料によれば泉が働きかけて資金援助をとりつけ作り上げたとされる[3][4]。
移動医療局は、釜山日本人世話会と共同で検診する女性を対象に1945年12月より被害調査を行っていた。 1946年3月の調査では、調査対象者885人のうち、レイプ被害者70人、性病罹患患者19人、約1割が性犯罪の被害に遭っているという数字が示された[5]。
京城帝大グループ[編集]
朝鮮に在留していた日本人を治療していた経験を持ち、継続して今度は引揚者の治療にあたりたいと志願したのが、旧京城帝国大学医学部医局員グループで[注 2]、外務省に働きかけて省の外郭団体である在外同胞援護会の「救療部」として活動を始めていた[6]。引揚船に船医を派遣したが、搭乗者していた日本人の大多数は朝鮮北部からの引揚者で、特に婦女子の有様は凄惨であった。なかには性的被害に遭った者、なおかつ性病感染や妊娠させられた女性もおり、彼女らに対しなんら救済措置も用意されていない次第を博多引揚援護局に報告し、被害者患者のための病院の設立を具申した。提案は受け入れられ、在外同胞援護会と引揚援護局の協力により、1946年(昭和21年)3月25日に「二日市保養所」が開設されることになった[7]。
病院の開設や人員確保の経緯は以上の通りだが、これとは別に、医師たちがなぜ違法な中絶手術を恒常的に行う道に踏み切れたのか、そのきっかけとなったというエピソードも紹介される:このグループの仲間の一員は[注 3]、朝鮮での元教え子に遭遇するが、彼女は国民学校に赴任しており、凌辱されたために妊娠して腹が大きくなっているのが目立ってきた。両親に歎願で中絶手術を決行したが、失敗し、母子ともに死亡した[2][10][11]。
施設の概要[編集]
二日市保養所は、かつての愛国婦人会の保養所だったところである[2]。博多引揚援護局が愛国婦人会福岡県支部武蔵温泉保養所の建物を福岡県から借り、財団法人在外同胞援護会が運営にあたった[12]。閑静な立地条件にあり、温泉も湧き出ており療養には最適であった[13]。木造2階建てで[14]、上の階は14、 15室あり小さい部屋に分かれていた[13]。そして何よりも交通の便がよいが[2]、人目に触れにくい場所であることから選定された(主要な引揚港であった博多港から直行した場合は、当時の劣悪な交通事情下においても3時間内外で到着できた)。
施設の職員[編集]
以下の職員によって構成された。
当時の看護師、吉田ハルヨはNHK「戦争証言アーカイブス」で中絶手術について証言している。
患者の収容[編集]
当該女性に対して、この施設の存在をどのようにして広報するかが大きな問題であった。内容が内容だけに、慎重な対処が求められた。そこで採られたのが、引揚船の医師を通じてのビラの配布であった。そこには「不法な暴力と脅迫で体に異常を感じつつある方は、診療所へ収容し健全なる体にする」旨が記されていた。婉曲的表現になっているのは被害に遭った女性に対する配慮である[2]。また、すでに引揚が完了し全国に散っていった女性に対しては、有力紙に前述のビラと同様の「本人にはわかるような」婉曲的表現の広告を出し、施設の存在を知らせていた[18]。
博多港では、博多引揚援護局が、博多検疫所および女子健康相談所を1946年4月25日に設置し、妊娠、違法妊娠、性病の検査・問診を行い、選別された対象者を国立福岡療養所や二日市保養所に送致していた[19]。当初は自己申告または一目で明らかな妊婦を検診していたが、それではすべてを把握できないということで、14歳以上すべての女性を検査する方針に変更になり、そのために博多の現場には婦人検診室も設けられた[20]。国から違法な妊娠中絶の施術を強制された医師はその不本意を述べている[20][注 5]。
二日市保養所の医務主任だった橋爪将の報告書によると、施設の開設から2か月間で強姦被害者の加害男性の国籍内訳は、朝鮮28人、ソ連8人、支那6人、米国3人、台湾・フィリピンが各1人だった[22]。1947年秋の施設閉鎖までに約400~500件の堕胎手術をおこなったと推計される[23][24][注 6]。
患者の治療[編集]
麻酔薬が不足していたため、麻酔無しの堕胎手術が行われ[27]、死者も少なからず出た。
その後の二日市保養所[編集]
二日市保養所は、優生保護法の施行にともない、1947年(昭和22年)秋頃に閉鎖した。同保養所の主務官庁である引揚援護庁は1954年(昭和29年)まで存続した。
その後、同敷地に済生会二日市病院が建てられた(現在病院は南に200m程の場所に移転し、跡地には同じ済生会が運営する老人ホーム「むさし苑」が建てられた)。なお、むさし苑の駐車場の隅には二日市保養所跡の石碑が建てられている。
二日市保養所以外の婦人患者の手術・治療[編集]
上坪隆『水子の譜』には、二日市保養所以外に九州帝国大学医学部、国立福岡療養所、九州高等医学専門学校が特殊婦人患者の治療にあたったとある[28]。また同書によると、佐世保港に上陸した満鮮引揚特殊婦人入院患者に対しては陸軍病院中原療養所が手術・治療にあたった。
注釈[編集]
- ^ 現地の例では、青酸カリの服毒自殺の例が、「戦後…博多港引き揚げ者らの体験:<1> ‛ソ連が来る’息潜めた」にあり、博多に到着しながら引揚船から飛び込み自殺した例が"<2>"にある[2]。
- ^ Watt (2010)では"Seoul Group"と称しているが、医師も「活動家」も含んだグループとする。写真家の飯山達雄が含まれるが、泉靖一の名は出されていない。山本良健医師は含まれている。
- ^ 聖福寮(孤児院)の山本良健医師か[8]、あるいは人類学者の泉靖一か[9]。
- ^ 京城帝国大学医学部卒
- ^ 国からの通達というのは、例えば佐賀の場合は 「厚生省(当時)に助教授が招かれ、(中絶手術を行うように)指示があった」という証言がある[21]。
- ^ 『局史』では1946年3月~年末まで(9か月の)の統計として380名中、内訳は不法妊娠218、正常妊娠87、性病35、その他45となっている[25][26]。"性病その他の婦人科疾患の患者数も同じ位あったと推定され"[13]とは一致していない。
典拠[編集]
- 脚注
- ^ 封印された引揚女性の慟哭 「二日市保養所」70年目の記録
- ^ a b c d e f 「戦後…博多港引き揚げ者らの体験:<2> 医師らひそかに中絶手術」、『読売オンライン 九州発』2006年07月27日
- ^ 上坪 (1993), pp. 21: 「活動の中心は文化人類学者の泉靖一氏であった。彼はやがて「在外同胞援護会救療部」という組織を作りあげていく」
- ^ 中村粲「戦争と性-ある終戦処理のこと-」(『正論』1998年5月号所収)、59頁
- ^ 上坪 (1993), p. 169.
- ^ "外務省の外郭団体「在外同胞援護会」に働きかけ、[京城帝大医学部の医師たちの]グループ全体を「在外同胞援護会救療部」に衣替え"[2]。1946年2月、「聖福病院」という診療所を聖福寺 (福岡市)の地所に開設した。
- ^ 博多引揚援護局 (1947)『局史』、該当箇所抜粋
- ^ Watt (2010), pp. 15–16.
- ^ 山本 (2015), pp. 81–82.
- ^ 『西日本新聞』1977年8月1日、山本 (2015), pp. 81–82の出典
- ^ 上坪 (1979)『水子の譜』、174–176頁。山本 (2015), pp. 81–82およびWatt (2010), pp. 115–116の出典
- ^ 高杉 志緒「「京城日赤」と引揚医療--村石正子氏談話聞書」『下関短期大学紀要 / 下関短期大学紀要編集委員会 編』第28巻、2009年、 79頁。
- ^ a b c 中村粲「戦争と性-ある終戦処理のこと-」(『正論』1998年5月号所収)、63–64頁
- ^ a b c 中村粲「戦争と性-ある終戦処理のこと-」(『正論』1998年5月号所収)、62頁
- ^ 飯山達雄『遥かなる中国大陸写真集3敗戦・引揚げの慟哭』国書刊行会、昭和54年10月20日発行、145頁。129.帝王切開手術を受ける。
- ^ 飯山達雄『遥かなる中国大陸写真集3敗戦・引揚げの慟哭』国書刊行会、昭和54年10月20日発行、146頁。130.不法妊娠の堕胎手術。
- ^ Watt (2010), p. 116, note 51
- ^ 『西日本新聞』1946年7月17日付に原文、上坪 (1979)『水子の譜』に同文掲載[17]。
- ^ 山本 (2015), p. 79.
- ^ a b 山本 (2015), p. 81.
- ^ 「戦後…博多港引き揚げ者らの体験:<4>日誌につづられた悲劇」、『読売オンライン 九州発』2006年08月10日
- ^ SAPIO2015年7月号、NEWSポストセブン2015年6月19日、「引揚途中の強姦被害者47人 加害男性の国籍は朝鮮、ソ連など」
- ^ 山本 (2015), p. 82:「二日市保養所は、1947年秋に閉所になるまでの1年半ほどの間に「四六二名」(千田夏光『皇后の股肱』 1977:81)、「四、五〇〇件」(『朝日新聞』 1995.8.9)の中絶が行われたとされる」
- ^ 下川正晴「封印された引揚女性の慟哭 「二日市保養所」70年目の記録」(『正論』2016年7月15日所収)
- ^ 日置, 英剛『年表太平洋戦争全史』国書刊行会、2005年、780頁。
- ^ 木村 (1980), p. 95.
- ^ 「戦後…博多港引き揚げ者らの体験:<3> 麻酔なしの中絶手術」、『読売オンライン 九州発』2006年08月03日
- ^ 上坪 (1993)、203頁。
- 参考文献
- 木村秀明 『ある戦後史の序章: MRU 引揚医療の記録』 西日本図書館コンサルタント協会、1980年 。
- 『局史』博多引揚援護局、1947年。
- 上坪隆 『水子の
譜 () ― 引揚孤児と犯された女たちの記録』 現代史出版、1979年。 ISBN 9784198018146- 上坪隆 『水子の
譜 () ― 引揚孤児と犯された女たちの記録』 社会思潮社、1993年 [1979年] 。 - 『水子の譜』現代教養文庫、1993年、文元社、2005年。
- 上坪隆 『水子の
- 山本めゆ 「
生存者 ()の帰還―引揚援護事業とジェンダー化された〈境界〉―録」 『ジェンダー研究』 17巻、68–91頁、2015年。 (東海ジェンダー研究所) - “戦後…博多港引き揚げ者らの体験: <2> 医師らひそかに中絶手術”. 読売オンライン 九州発. (2006年7月27日). オリジナルの2007年1月21日時点におけるアーカイブ。
- “戦後…博多港引き揚げ者らの体験: <3> 麻酔なしの中絶手術”. 読売オンライン 九州発. (2006年8月3日). オリジナルの2007年1月21日時点におけるアーカイブ。
- “戦後…博多港引き揚げ者らの体験: <4> 日誌につづられた悲劇”. 読売オンライン 九州発. (2006年8月10日). オリジナルの2007年1月21日時点におけるアーカイブ。
- 中村粲 「戦争と性-ある終戦処理のこと-」 『正論』 、59–65頁、1998年5月 。
- 下川正晴 「封印された引揚女性の慟哭 「二日市保養所」70年目の記録」 『正論』 、2016年7月15日 。 (リンクは部分掲載)
- 「引揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐」- 『正論』2005年11月号
- 『麻山事件』中村雪子(草思社1983) [1] ISBN 4794201672
- 半藤一利『ソ連が満洲に侵攻した夏』 文春文庫、2002年 ISBN 4167483114
- 下川正晴『忘却の引揚げ史 泉靖一と二日市保養所』、弦書房、2017年
- Watt, Lori (2010). When Empire Comes Home: Repatriation and Reintegration in Postwar Japan. Harvard University Press. pp. 116–117, 120. ISBN 9-780-6740-5598-8