二日市保養所

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二日市保養所の入り口
二日市保養所

二日市保養所(ふつかいちほようじょ)は、福岡県筑紫郡二日市町(現筑紫野市)にあった厚生省引揚援護庁医療施設。ここでは、太平洋戦争終了後、満州・朝鮮等からの引揚者日本人女性を検査、堕胎手術性病の治療を行った[1]

開所に至る経緯[編集]

終戦直後より在・在日本人は塗炭の苦しみを味わうことになった。追放財産略奪・接収に止まらず、強制連行虐殺などで、祖国の地を踏むことなく無念のうちに斃れた者も少なくなかった。これに加えて女性は、現地人男性やソ連等による強姦を受けたり、あるいは外地で生き延びるため、一時的に愛人・妾といった形で暮らしたり、心ならずも売春を行ったり、引揚の途上で同じ引揚者の男性と夫婦同然の立場となった者も多い。その結果、妊娠したり、性病に罹ったりしたとしても、必要な措置を取ったり、必要な治療を受けることは困難な状況であった。当時、根こそぎ動員により、外地の日本女性の中には夫を兵にとられ、その生死すら判然としないケースも多かった。その一方、当時の日本は現代以上に女性の貞操が重視されていた時代で、たとえ強姦であってもむしろ被害を受けた女性の方が白眼視される傾向があり、まして戦時中は、出征した兵士の士気維持のため、貞操を守ることが強調されたため[注 1]、夫の出征中に他の者と性的関係が生じたことには事情の如何を問わず、世間の目は厳しかった。その結果、妊娠した女性の中には、郷里への帰還を前にして、郷里の者や親・親族に知られることを苦にして、自殺する者も出ていたとされる[注 2]。ヨーコ・カワシマ・ワトキンズは、信憑性については議論のある作品だが、彼女の自伝とする『竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記』において、日本人女性が朝鮮半島において現地人男性から暴行・強姦の被害を受けたことを書いている[3][4]

最も早い設立経緯に関する情報としては、九大産婦人科の元医局長が、日経メディカル1987年8月10日号に報告を寄せ、そこでは、1945年8月末に医局の助教授が厚生省に呼ばれ、性病蔓延防止と混血児発生による家庭崩壊防止を理由に、女性の入国時にチェックし、性病の隔離治療・妊娠の極秘中絶を指示され、後述の古賀と中原の療養所で中絶を行うことになったとするものがある[5]。ジャーナリストの下川正晴は1945年8月末は早すぎるのではないかとしているが[5]特殊慰安施設協会設立の素早さを考えれば、満更あり得ないこととも思われない。元医局長は、これを決定した当時の政府責任者は謎としている[5]

移動医療局[編集]

ソウルから釜山にかけての旅程にいる引揚者の治療にあたるため、移動医療局(英名MRU、上坪隆はムービング・リリーフ・ユニオン、下川正晴はメディカル・リリーフ・ユニオンとしている[5])という組織が形成されていた。これを手掛けたのは文化人類学者の泉靖一(元京城帝大法文学部助教授、民族学)と田中正四(元京城帝大医学部助教授、衛生学)で、のちの在外同胞援護会救療部も、一部の資料によれば泉が働きかけて資金援助をとりつけ作り上げたとされる[6][7]。米軍公認の組織だったので、アルファベット表記になったという。

移動医療局は、釜山日本人世話会と共同で検診する女性を対象に1945年12月より被害調査を行い、 1946年3月の調査では、調査対象者885人のうち、レイプ被害者70人、性病罹患患者19人、約1割が性犯罪の被害に遭っているという数字が示された[8]。上坪隆は、これは引揚援護局でも問題になっていたが、援護局の関心は女性への憂慮ではなく、性病からの日本民族防衛であったとする[8]

京城帝大グループ[編集]

朝鮮に在留していた日本人を治療していた経験を持ち、継続して今度は引揚者の治療にあたりたいと志願したのが、旧京城帝国大学医学部医局員グループで[注 3]、外務省に働きかけて省の外郭団体である在外同胞援護会の「救療部」として活動を始めていた[9]。引揚船に船医を派遣したが、搭乗者していた日本人の大多数は朝鮮北部からの引揚者で、特に婦女子の有様は凄惨であった。なかには性的被害に遭った者、なおかつ性病感染や妊娠させられた女性もおり、彼女らに対しなんら救済措置も用意されていない次第を博多引揚援護局に報告し、被害者患者のための病院の設立を具申した。提案は受け入れられ、外務省の外郭団体である在外同胞援護会と厚生省博多引揚援護局との協力により、1946年(昭和21年)3月25日に「二日市保養所」が開設されることになった[10]。在外同胞援護会の松田令輔理事長らは1946年4月3日に高松宮邸を訪問し、高松宮は同17日に現地を訪れて「ご苦労さん、頼みますよ」と医師や看護師らを激励したとされる[11][12]

婦人健康相談所[編集]

上坪隆の『水子の譜』によれば、女性らは二日市保養所のみに集められたわけでなく、国立福岡療養所、九大、久留米医専の各病院でも手術や治療が行われ、それは当時これらの病院で働いていた医師らの証言で裏付けられているという[8]。婦人相談業務を先発引揚港の舞鶴や函館では既に日本赤十字社で行われていたが、あまりうまく行かず、YMCA理事長を長らくしたことがある援護院総裁斉藤長官が古くからの友人で雑誌「婦人之友」の「全国友の会」会長の羽仁もと子に相談、協力が得られることになったという[8]。佐世保市では、「佐世保友の会」に羽生もと子からの指示にしたがって、会員数名が「佐世保援護局」に行くと、斉藤長官から内意が伝えられていて、婦人相談所の問診員になってくれということであったという。理由としては「外国人など人種の違う者から受けた性病は悪質であるため、今後亡国病となる危険性がある。ために、これを国内に流布せず、水際でとめるために、生活相談とともに婦人相談の形で行う」ということであった[8][12]

佐世保では15~55歳の引揚女性は全員がそこに来なければならないことになっていて、そこを通らなければ引揚証明書がもらえないことになっていた[8]。この動きや取り扱いは他でも同様であった可能性が高い。引揚孤児や子の世話をできない寡婦の子を引き取るために泉らがMRUと同時期に作った孤児院である聖福寮においても、その保母を「友の会」の志願者から得ており、援護院・友の会の経路でこれらのほとんどが取り扱われていたと考えられるためである。佐世保の場合は、中絶が必要な女性らは中原の国立療養所に送られたという[8]

上坪隆は性病防止のためであれば陸軍将兵の検査も厳重にすべきで、援護院の出した方針では女性のみを対象にしたことは片手落ちの気がするとしている[8]。藤田繁は、性病予防目的ならば男性も対象とせねばならないはずが、男性は壮年者のみが訊問され調書を取られただけだったことから、実際は性病問題よりも妊娠女性の堕胎目的が主眼で、男性からは中国の情報と本人の思想傾向を調べたのであろうとする[12]

背景[編集]

病院の開設や人員確保の経緯は以上の通りだが、これとは別に、医師たちがなぜ違法な中絶手術を恒常的に行う道に踏み切ったのか、そのきっかけとなったというエピソードも紹介される:このグループの一員は[注 4]、朝鮮での元教え子に遭遇するが、彼女は国民学校に赴任しており、凌辱されたために妊娠して腹が大きくなっているのが目立ってきた。両親の歎願で中絶手術を決行したが、失敗し、母子ともに死亡したという[2][15][16]

一方で、そもそも戦前の状況として、当時は母体保護法のような法律はなく、中絶は産婆(助産婦)が行おうが正規の医師が行おうが全くの違法であったが、実際にはヤミ行為として横行しており、そういった延長線上のことであったとする説もある。同様な中絶は福岡県古賀の国立福岡療養所と佐賀県中原の国立佐賀療養所でも行われ、九大から医師が派遣されていたとされるが、福岡療養所に行ったある医師は、当時の医局長から「稽古に行ってこい」と言われたという[5]

当時、主に中絶を行う場合は、一つは、通常の結婚をしていても貧しくて子を育てられないという場合、もう一つは、別に暴行に限らずとも、有夫の女性が不倫相手の子や未婚女性で親が結婚を認めない男性の子、自身が愛人等でいわゆる日陰の子といったような婚外子を身籠った場合である。二日市保養所に当時九大から派遣された橋爪将医師(京城帝大医学部七期)は、救療部では強姦等による妊娠を不法妊娠と呼んでいたとするが[12]、引揚げてきたばかりで九大医学部では比較的若手であった橋爪が当時の日本社会の一般的状況がどの程度分かっていたか疑問が残る。永尾和夫の纏めた記事によれば、博多引揚援護局史によるとして、患者の内訳は不法妊娠218人、正常妊娠87人、性病35人という数字を挙げ、不法妊娠がカッコ付きで暴行による妊娠とされている[17]。しかし、正常・不法の二分法であれば、姦通罪もあった当時は本来、正規の婚姻関係の者どうしでの妊娠が正常妊娠、暴行に限らず不貞不倫によるものも含めた婚外子の妊娠が不法妊娠ということになる。実際に当時ここで働いた村石正子は、既婚者の正常な妊娠が正常妊娠で、それ以外は不法妊娠と(正式書類のたぐいでは)表記される扱いであったことを述べている[18][注 5]。また、下川正晴は、不法妊娠の中心をソ連兵による暴行と考え、正常妊娠における中絶を出産に母体が耐えられない場合とする[5]が、病気や栄養不良等により衰弱している者には、むしろ中絶こそ危険なため手術前に数日入院させて体力を回復させており[8]、母体のためにはそのまま回復させて中絶しない方がかえって良いことから、彼の考えが当てはまるようには見えない。上坪隆もこれらの妊娠を性暴力によるものが中心と考えてはいるが、正常妊娠における中絶について、当時の状況では子を養うどころではなく、先行き不安から中絶したケースもあったようだとしている[8]

救療部の記録によれば、5~6回にわたって有名新聞に抽象的な内容で二日市保養所の広告を出したとされるが、上坪隆が調査で見つけ出せたのは1946年7月17日西日本新聞の広告だけであったが、そこには以下のように記載されていた。『(略)一朝にして産を異境に失い生活のため否生存の為あらゆる苦難と戦われた同胞の中、殊にか弱き女性の身を以って一旦の命をだに支える術もなく、遂にはそのゆかしきほこりを捨てて、果てはいまわしき病に罹り、或いは身の異状におぞましき翳をまといて家郷に帰り、親兄弟にも明かされず、まして夫に対しては余りに憚り多く今は身も世もなく暗澹たる憂悶の日々を送っているご婦人も少なくはないと思料されます。こうした不幸なご婦人方を専ら収容して之が救療に最善を尽くし、一日も速く健康を恢復してその新生の前途に光明を与えようと、(略)快適の療養施設を完備して皆様をお待ちしております。』ここでは、売春を行った女性も、愛人となった結果として妊娠した女性も、遠慮なく来ることが出来るよう配慮した文面となっている。文案は泉靖一によるという。[8]

施設の概要[編集]

二日市保養所は、かつての愛国婦人会保養所だったところである[2]。博多引揚援護局が愛国婦人会福岡県支部武蔵温泉保養所の建物を福岡県から借り、財団法人在外同胞援護会が運営にあたった[19]。閑静な立地条件にあり、温泉も湧き出ており療養には最適であった[20]。木造2階建てで[21]、上の階は14、 15室あり小さい部屋に分かれていた[20]。そして何よりも交通の便がよいが[2]、人目に触れにくい場所であることから選定された(主要な引揚港であった博多港から直行した場合は、当時の劣悪な交通事情下においても3時間内外で到着できた)。

施設の職員[編集]

二日市保養所で帝王切開手術を受ける女性。博多へ上陸すると、桟橋に出ている「婦人相談所」の看板が目についた。屈辱の過ぎし日を思い出した女性たちは、相談所へかけ込み、二日市の手術室へと送られて、そこで牽出手術か帝王切開による人工堕胎をして故郷へ帰っていくのだ[22]
不法妊娠の堕胎手術 大陸で暴行され、妊娠した婦人は、本人の希望により風呂場改造の手術室で牽出手術を受けるのだった[23]

以下の職員によって構成された。

当時の看護師、吉田ハルヨはNHK「戦争証言アーカイブス」で中絶手術について証言している。

患者の収容[編集]

内容が内容だけに、当該女性に対して、この施設の存在をどのようにして広報するかが大きな問題であった。そこで採られたのが、引揚船中でのビラの配布であった。上坪が例にあげたところによれば、「在外同胞援護会救療部派遣医師」名義のチラシで「不法な暴力脅迫により身を傷つけられたり、又はその後、体に異常を感じつつある方には、(略)日本上陸の後、速やかにその憂悶に終止符を打ち、希望の出発点を立てられる為に乗船の船医へ、これまでの経過を内密に忌憚なく打明けられて相談して下さい。知己にも故郷へも知れない様に、診療所へ収容し、健全なる体にする」旨が記されていたとされる[2]。また、すでに引揚が完了し全国に散っていった女性に対しては、有力紙に「本人にはわかるような」婉曲的表現の広告を出し、施設の存在を知らせていた[25]

博多港では、博多引揚援護局が、博多検疫所および女子健康相談所を1946年4月25日に設置し、妊娠、違法妊娠、性病の検査・問診を行い、選別された対象者を国立福岡療養所や二日市保養所に送致していた[26]。当初は自己申告または一目で明らかな妊婦を検診していたが、それではすべてを把握できないということで、14歳以上すべての女性を検査する方針に変更になり、そのために博多の現場には婦人検診室も設けられたもいう[27]。一方で、1946年3月の婦人健康相談所の開設当初から、15~55歳の引揚女性は全員がそこに来ること、そこを通らなければ引揚証明書がもらえないことになっていたとの主張もある[12]。国から違法な妊娠中絶の施術を強制された医師はその不本意を述べている[27][注 7]

二日市保養所の医務主任だった橋爪将の報告書によると、4月からの施設の本格稼働から約2か月間で、不法妊娠は地区別には北朝鮮24人、南朝鮮14人、満州4人、北支3人、相手男性の国籍内訳は、朝鮮28人、ソ連8人、支那6人、米国3人、台湾・フィリピンが各1人だった[29]。橋爪は、6月10日付の報告書で最も朝鮮人が多いが、これは、これまで朝鮮からの引揚が多かったためで、これから満州からの多数の引揚が開始されるに従い、不法妊娠も増えるだろうとしている。下川は、性暴行が数多く起こったことは事実と考えているものの、これらの数字を雑誌等が韓国人批判に用い、その結果、ネット上で「朝鮮28人、ソ連8人」という数字が一人歩きし、感情的な排外主義を煽っていることを批判、上坪が『水子の譜』で、日本人自らが女性らを人身御供に出した例を引いて、それらも見つめることを主張している[30]

さらに、開拓移民を多く出した石川県の満蒙開拓団関係者の依頼で開拓団史をまとめた藤田繁によれば、引揚者の記録から、ソ連兵の暴行が猖獗を極めたのは1945年の8月からせいぜい9月半ばまでで、したがって1946年の6月以降に現れて来る妊娠の多くをソ連兵の暴行によるとするのは時期が合わないとし、橋爪の報告でソ連人による被害者が8人と意外と少ないこと、また、報告後の妊娠をソ連兵による強姦と考えるには時期が合わないことから、実際には暴行ばかりでなく、外地で生き延びるために、満洲や朝鮮等で現地の男性あるいは同じ引揚者の日本人男性らと一時的にでも夫婦同然となるような生活を送るしかなかった女性らが、郷里への帰還を前にして中絶の選択を迫られた、また、妊娠経緯もそのような形で説明せざるをえなかった等の事情が考えられることを示唆している[12]。1947年秋の施設閉鎖までに約400~500件の堕胎手術をおこなったと推計される[31][32][33][注 8]

患者の治療[編集]

麻酔薬が不足していたため、麻酔無しの堕胎手術が行われ[36]死者も少なからず出た。

その後の二日市保養所[編集]

保養所跡(現・特別養護老人ホーム むさし苑)にある石碑

二日市保養所は、優生保護法の施行にともない、1947年(昭和22年)頃に閉鎖した。同保養所の主務官庁である引揚援護庁は1954年(昭和29年)まで存続した。

その後、同敷地に済生会二日市病院が建てられた(現在病院は南に200m程の場所に移転し、跡地には同じ済生会が運営する老人ホーム「むさし苑」が建てられた)。なお、むさし苑の駐車場の隅には二日市保養所跡の石碑が建てられている。

二日市保養所以外の婦人患者の手術・治療[編集]

二日市保養所以外に九州帝国大学医学部、国立福岡療養所(福岡県古賀市)、九州高等医学専門学校が特殊婦人患者の治療にあたった[37]佐世保港に上陸した満鮮引揚特殊婦人入院患者に対しては陸軍病院中原療養所が手術・治療にあたった[38]。下川正晴は、国立福岡療養所と国立佐賀療養所(佐賀県中原)の他にも、関東の病院やまた別の国立病院が関係する形でも行われていたらしいことを報告している[5]。また、九大の元医局長によれば、古賀と中原の療養所で中絶された件数は千件を下らないと推定している[5]

また、臨月の女性用の病棟が針尾島(佐世保市)にあったという。そこでは分娩直後の子も処分していたとされ、生まれた子を注射で処分していたと聞いたとの話が伝わる[8][12]

注釈[編集]

  1. ^ 吉田裕の研究によれば、未亡人でさえ再婚したりすることのないよう、軍関係者らは求めている。『日本軍兵士』P.177中公新書(2017)
  2. ^ 現地の例では、青酸カリの服毒自殺の例が、「戦後…博多港引き揚げ者らの体験:<1> ‛ソ連が来る’息潜めた」にあり、博多に到着しながら引揚船から飛び込み自殺した例が"<2>"にある[2]
  3. ^ Watt (2010)では"Seoul Group"と称しているが、医師も「活動家」も含んだグループとする。写真家の飯山達雄が含まれるが、泉靖一の名は出されていない。山本良健医師は含まれている。
  4. ^ 聖福寮(孤児院)の山本良健医師か[13]、あるいは人類学者の泉靖一[14]。『水子の譜』では田中外四となっている(1979)P.174。
  5. ^ なお、村石も当時朝鮮の京城出身の看護師で、植民地であった朝鮮では日本人はいわば特権階級の者ばかりで、経済的困窮から中絶や間引きすらあった当時の日本社会の実情にうとかった可能性が強い。
  6. ^ 京城帝国大学医学部卒
  7. ^ 国からの通達というのは、例えば佐賀の場合は 「厚生省(当時)に助教授が招かれ、(中絶手術を行うように)指示があった」という証言がある[28]
  8. ^ 『局史』では1946年3月~年末まで(9か月の)の統計として380名中、内訳は不法妊娠218、正常妊娠87、性病35、その他45となっている[34][35]。"性病その他の婦人科疾患の患者数も同じ位あったと推定され"[20]とは一致していない。

典拠[編集]

脚注
  1. ^ 封印された引揚女性の慟哭 「二日市保養所」70年目の記録
  2. ^ a b c d e f 「戦後…博多港引き揚げ者らの体験:<2> 医師らひそかに中絶手術」、『読売オンライン 九州発』2006年07月27日
  3. ^ ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ 『竹林はるか遠く』(株)ハート出版、2013年7月19日、111,118頁。 
  4. ^ [1]中央日報2007年1月23日
  5. ^ a b c d e f g h 下川正晴 『忘却の引揚げ史』(株)弦書房、2017年8月5日、84-85,85,85,50,89,55,82-83,85頁。 
  6. ^ 上坪 (1993), pp. 21: 「活動の中心は文化人類学者の泉靖一氏であった。彼はやがて「在外同胞援護会救療部」という組織を作りあげていく」
  7. ^ 中村粲戦争と性-ある終戦処理のこと-」(『正論』1998年5月号所収)、59頁
  8. ^ a b c d e f g h i j k l 上坪隆 『水子の譜』(株)現代史出版会、1979年8月10日、176,177,213-214,214,214,215,215,215,201-202,210-211,181-183,237頁。 
  9. ^ "外務省の外郭団体「在外同胞援護会」に働きかけ、[京城帝大医学部の医師たちの]グループ全体を「在外同胞援護会救療部」に衣替え"[2]。1946年2月、「聖福病院」という診療所を聖福寺 (福岡市)の地所に開設した。
  10. ^ 博多引揚援護局 (1947)『局史』、該当箇所抜粋
  11. ^ 下川 正晴 『忘却の引揚げ史《泉靖一と二日市保養所》』弦書房、2017年7月21日、69頁。 
  12. ^ a b c d e f g 藤田繁 編 『石川県満蒙開拓史』石川県満蒙開拓者慰霊奉賛会、1982年9月10日、91,87,87,88,87,90,90-91頁。 
  13. ^ Watt (2010), pp. 15–16.
  14. ^ 山本 (2015), pp. 81–82.
  15. ^ 『西日本新聞』1977年8月1日、山本 (2015), pp. 81–82の出典
  16. ^ 上坪 (1979)『水子の譜』、174–176頁。山本 (2015), pp. 81–82およびWatt (2010), pp. 115–116の出典
  17. ^ 【戦後75年】秘密の中絶施設、二日市保養所(福岡県筑紫野市)”. 産経新聞社. 2023年2月23日閲覧。
  18. ^ 「京城日赤」と引揚医療 : 村石正子氏談話聞書”. 山口県大学共同リポジトリ. 山口県大学共同リポジトリ. p. 80-81. 2023年3月10日閲覧。
  19. ^ 高杉 志緒「「京城日赤」と引揚医療--村石正子氏談話聞書」『下関短期大学紀要 / 下関短期大学紀要編集委員会 編』第28巻、2009年、79頁。 
  20. ^ a b c 中村粲戦争と性-ある終戦処理のこと-」(『正論』1998年5月号所収)、63–64頁
  21. ^ a b c 中村粲戦争と性-ある終戦処理のこと-」(『正論』1998年5月号所収)、62頁
  22. ^ 飯山達雄『遥かなる中国大陸写真集3敗戦・引揚げの慟哭』国書刊行会、昭和54年10月20日発行、145頁。129.帝王切開手術を受ける。
  23. ^ 飯山達雄『遥かなる中国大陸写真集3敗戦・引揚げの慟哭』国書刊行会、昭和54年10月20日発行、146頁。130.不法妊娠の堕胎手術。
  24. ^ Watt (2010), p. 116, note 51
  25. ^ 『西日本新聞』1946年7月17日付に呼びかけ広告。ただし、この新聞広告には本文中で言われるような暴力や脅迫による云々はなく、売春によるものであろうが、不貞によるものであろうが、広く救おうとするものになっている。上坪 (1979)『水子の譜』P.181に新聞の原文を掲載。[24]
  26. ^ 山本 (2015), p. 79.
  27. ^ a b 山本 (2015), p. 81.
  28. ^ 「戦後…博多港引き揚げ者らの体験:<4>日誌につづられた悲劇」、『読売オンライン 九州発』2006年08月10日
  29. ^ SAPIO2015年7月号、NEWSポストセブン2015年6月19日、「引揚途中の強姦被害者47人 加害男性の国籍は朝鮮、ソ連など
  30. ^ 下川正晴 『忘却の引揚げ史』(株)弦書房、2017年8月5日、56-57頁。 
  31. ^ 山本 (2015), p. 82:「二日市保養所は、1947年秋に閉所になるまでの1年半ほどの間に「四六二名」(千田夏光『皇后の股肱』 1977:81)、「四、五〇〇件」(『朝日新聞』 1995.8.9)の中絶が行われたとされる」
  32. ^ 京都大学グローバルCOE「帝国日本の戦時性暴力」,p36
  33. ^ 下川正晴「封印された引揚女性の慟哭 「二日市保養所」70年目の記録」(『正論』2016年7月15日所収)
  34. ^ 日置, 英剛 『年表太平洋戦争全史』国書刊行会、2005年、780頁https://books.google.com/books?id=G24xAQAAIAAJ 
  35. ^ 木村 (1980), p. 95.
  36. ^ 「戦後…博多港引き揚げ者らの体験:<3> 麻酔なしの中絶手術」、『読売オンライン 九州発』2006年08月03日
  37. ^ 上坪 (1993)、203頁。
  38. ^ 上坪 (1993)
参考文献
  • 「引揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐」- 『正論』2005年11月号
  • 『麻山事件』中村雪子(草思社1983) [2] ISBN 4794201672
  • 半藤一利『ソ連が満洲に侵攻した夏』 文春文庫、2002年 ISBN 4167483114
  • 下川正晴『忘却の引揚げ史 泉靖一と二日市保養所』、弦書房、2017年
  • Watt, Lori (2010). When Empire Comes Home: Repatriation and Reintegration in Postwar Japan. Harvard University Press. pp. 116–117, 120. ISBN 9-780-6740-5598-8. https://books.google.com/books?id=_F3AN6x6AQ8C&pg=PA116 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]