強制連行
強制連行(きょうせいれんこう)とは、ひとを強制的に連行すること[1]。連行とは「本人の意思にかかわらず、連れて行くこと」を意味する[2]。日本語では拉致や勾引と混同して使用される場合がある。
目次
概念・定義[編集]
戦争などで奴隷として強制連行される事例は歴史上多数あり[3]、近代では英仏戦争の結果カナダからルイジアナへ移住したフランス系カナダ人のケイジャン[4][5]や、ソ連による朝鮮人の強制移住[6]やラーゲリなどの強制収容所、対独協力をしたためウズベク共和国へ移住させられたメスヘティア・トルコ人やコーカサス・ボルガ河流域から強制移住させられたイスラム教徒[4][7]、ナチスドイツや中国共産党による強制収容所では強制連行され強制労働に従事させられる事例もある。
日本では奈良時代から東北・蝦夷地を対象とした移配や俘囚の制度があったことが知られている。近代では日中戦争以降に国家総動員法及国民徴用令に基づき実施し労務動員では朝鮮人、中国人などが日本内地、樺太、南方の各地に強制的に送られ[8]、一部の女性は「慰安婦」として強制連行されたとも [9]「奴隷狩り」であったともされる[10]が、これについては研究者間で議論がある(本項で述べる)。ほかにも第二次世界大戦当時には日系人の強制収容[11]やシベリア抑留[12]などの事例もある。日本軍による強制連行は強制労働とあわせて論じられることも多い[10]。
日本語における用法[編集]
国語辞典には、「強制連行」という言葉は殆ど採録されていない(表参照)。例外として『広辞苑』に「強制連行」の言葉が登場したのは2008年になってからであり、「朝鮮人強制連行」の言葉が先行して広辞苑に採録された際(91年)には、イデオロギーに基づく記述との批判もあった。この言葉を「政治的な糾弾の機能を担う造語(藤岡信勝)」[13]:2と見る者もいる。
「強制連行」という言葉は、最初は、中国人俘虜や労務者に対して使われた言葉(中国人強制連行)だったと見られているが[13]:40[14]、金英達や鄭大均によると、日本語の文脈で「強制連行」と記述する場合、ほとんどの場合は国家総動員法を制定した戦時体制下の日本政府(大日本帝国)が朝鮮半島で行った労務動員を指して使われる言葉だという(朝鮮人強制連行)[15]:32[16]:61。
国語辞典には殆ど採録されていないものの、事典類の中には独立した項目が存在するものもある。「強制連行」でなく「朝鮮人(中国人)強制連行」として項目を立てている事典もある。しかし、それに関して執筆者の偏りや政治性を指摘する声もある(後述)。
独立した項目が存在する事典類では、この言葉を、国家総動員法や国民徴用令を基本とした日中戦争や太平洋戦争中の日本政府の政策と説明している。
「強制連行」の言葉の大衆化[編集]
鄭大均は、北朝鮮の媒体には「強制」あるいは「強制的」などという熟語で帝国主義者の行為を罵るという傾向があり、1950年代の日本のコリア論者が、これに影響を受けたとしている。「朝鮮人強制連行」という言葉は、60年代の初期まで左派サークルの一部にのみ知られるジャーゴン(隠語)であったのが、1965年に朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』が刊行され後にこの本がバイブル化し、80年代に指紋押捺問題やソウルオリンピックの開催で韓国が注目されて日本のマスメディアが日本の戦争犯罪や差別問題を語るようになると「強制連行」の言葉も大衆化した、と鄭は述べている[17]。
サハリン残留韓国人支援運動に携わった新井佐和子は、『朝鮮人強制連行の記録』が世に出た時点では一部にしか知られていなかった「強制連行」の言葉が、吉田清治が現れた70年代後半から(吉田は、82年にサハリン残留韓国人訴訟の法廷で強制連行を証言[18]:178)朴の本が体制批判の道具として使われ始め、一気に広まったようだと述べている[19]:51。
定義の不明確さ[編集]
在日朝鮮人運動史研究家の金英達の著書『朝鮮人強制連行の研究』(明石書店2003年)によれば、「強制連行」という言葉は、「定義が確立しておらず、ひとによってまちまちな受け止め方がなされている」「もともと、強制連行とは、『強制的に連行された』という記述的な用語である。そして、強制や連行は、実質概念であり、程度概念である。その実質や程度について共通理解が確立されないまま、強制連行という言葉だけがひとり歩きして、あたかも特定の時代の特定の歴史現象をさししめす歴史用語であるかのように受けとめられていることに混乱の原因がある」と指摘している[1]。
日本での強制連行の研究について木村幹は「これらの研究の大部分が、そもそもの出発点における研究の目的を、日本による戦争犯罪の追求においており、その結果、必然的に多分な価値判断を含むものになっている」として、その結果、統計のずさんな分析もなされ、また「朝鮮半島における動員を、例えば、内地やあるいは他の植民地における動員と比較し、道徳的、倫理的視点を離れて、この問題を客観的かつ学問的にどのように位置づけるにかについて活発な議論が行われてこなかった」と指摘している[10]。
また、木村幹は、「強制連行」という用語は朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』(1965年)以降に広く用いられて来た点を指摘し、さまざまな論者により様々な含意のもとで用いられた用法には大きく3つあるあるとする[20]。すなわち
- 朝鮮半島の人を物理的暴力により力づくで連れてきたもの、という意味で理解するもの。
- 総力戦体制下の戦時動員のすべてを「強制連行」とするもの。
- 植民地支配下における朝鮮半島からの内地へのあらゆる労働移動を「強制連行」と見なすもの。植民地支配そのものが「強制」されたものである以上、そこでのあらゆる労働は「強制」であるとするもの。
日本語における用例[編集]
もっとも、「強制連行」という語そのものは1939年に使用例[21]が見られ、「連行」としてはそれ以前のものが見られる[22]が、訓読「連れ行く」以上の明確な実力行使の意味があったわけではなく、「連行」という語は国語辞典明治37年12月(林幸行、修学堂)[23]や大日本国語辞典1940-(上田萬年・松井簡治共著、富山房)[24]には採録されていない。「人を捕らえて無理に連れていく」意味である「勾引」[25]という用語は刑事訴訟法(旧:大正11年法律75号)による法律用語でもあり、大日本国語辞典(1940-)に採録されている。
戦後、公式の場でのもっとも古い使用例は1953年11月19日の参議院法務委員会での與謝野光・東京都衛生局長の発言で、街娼を検診のため強制的に連行したことを「強制連行」するという表現を用いて説明している[26]。
戦後一般に、「連行」は公的権力によって連れて行かれることについて使われることが多い。
日本語における強制連行の定義に関わる議論と研究[編集]
日本においては、戦時中に朝鮮人・中国人を労働者や慰安婦として強制連行したとする主張があり、他方で朝鮮半島での動員の実態については通常の戦時徴用であったとする主張もあり、そもそも「強制連行」と呼ばれるべき事象であったかどうかを巡り議論がある[27][1]。また、強制連行という言葉の定義も論者によって一定せず、議論が混乱する原因になっている[1]。
事典類の記載[編集]
百科事典・歴史事典・歴史辞典の書籍版における記述状況(オンライン事典では、複数の辞書や事典が横断的に検索される場合がある)。 語釈は原文を要約した。詳しい内容は後段参照。小辞典(事典)や学習辞典は除外した。
| 百科事典(版) | 強制連行 | 朝鮮人強制連行 | 中国人強制連行 | 出版社/年/執筆者等 |
|---|---|---|---|---|
| 日本大百科全書(2) | なし | 国民徴用令に拠る。39年の内務・厚生次官通牒から。 45年までの強制的労働力動員。 |
なし | 小学館/95年 /執筆:朴慶植 |
| 大日本百科事典(新装) | なし | なし | なし | 小学館/80年 |
| 世界大百科事典(新装) | 国策として中国・朝鮮人を内地等に投入。 国民徴用令に基づく動員計画。 |
「強制連行」参照 | 「強制連行」参照 | 平凡社/09年 /執筆:田中宏 |
| 丸善エンサイクロペディア(初) | 第二次大戦中、中国・朝鮮人を強制的に軍需動員。 閣議・朝鮮総督府決定。 |
なし | なし | 丸善雄松堂/95年 |
| ブリタニカ国際大百科事典(3) | なし | なし | なし | TBSブリタニカ/98年 |
| 歴史事典(版) | 強制連行 | 朝鮮人強制連行 | 中国人強制連行 | 出版社/年/執筆者等 |
| 日本歴史大事典(初) | 37年以降の国策。中国・朝鮮人を内地等に投入。 39年動員計画を閣議決定。 |
「強制連行」参照 | 「強制連行」参照 | 小学館/00年/執筆:田中宏 |
| 日本史大事典(初) | 37年以降の国策。中国・朝鮮人を内地等に投入。 39年に徴用令公布。女子は従軍慰安婦に。 |
「強制連行」参照 | 「強制連行」参照 | 平凡社/93年/執筆:田中宏 |
| 世界歴史事典(復刊) | なし | なし | なし | 平凡社/92年 |
| 世界歴史大事典(初) | なし | なし | なし | 教育出版センター/85年 |
| 歴史辞典(版) | 強制連行 | 朝鮮人強制連行 | 中国人強制連行 | 出版社/年/執筆者等 |
| 国史大辞典(初) | なし | 15年戦争時の政策。朝鮮にも国民徴用令等を適用。 当初は募集形式の労務動員計画を実施。(姜) |
4万を強制連行。42年に閣議決定。 翌年より試験運用開始。(臼井) |
吉川弘文館/88年 /執筆:姜徳相 臼井勝美 |
| 日本史広辞典(初) | なし | 労働者を強制的に動員する日中戦争中の政策。 「朝鮮人労務者内地移住に関する件」により許可。 |
42年の閣議決定で試験運用開始。 44年の次官会議決定により本格化。 |
山川出版社/97年 |
| 日本歴史大辞典(4) | なし | なし | なし | 河出書房新社/90年 |
| 日本史辞典(初) | 日中・太平洋戦争期に中国・朝鮮人・ミクロネシア人等を 徴用使役した政策。国民徴用令で許可。 |
39年から。総督府の下部機関・警察の圧迫を利用。 従軍慰安婦の動員も。 |
「強制連行」参照 | 岩波書店/99年 |
| 日本史辞典(初) | アジア太平洋戦争時に政府が中国・朝鮮人に強制した労務動員。 従軍慰安婦も女子挺身隊の名で連行。 |
なし | なし | 角川書店/97年 |
| 日本史用語大辞典(初) | なし | なし | なし | 柏書房/78年 |
| 日本近現代史辞典(初) | なし | 公募・官斡旋・徴用など様々な形式も 国の計画に基づき強制的に連行。多数が慰安婦に。 |
軍部が大々的に「労工狩り」。42年、 華人労働者内地移入ニ関スル件が閣議決定。 |
東洋経済新報社/89年 /執筆:井口和起 |
「強制連行」の項目が存在する例[編集]
百科事典では平凡社世界大百科事典、同MYPEDIA(前身は平凡社の『小百科事典』)、丸善エンサイクロペディアは独立項目として「強制連行」を記述する。うち平凡社世界大百科事典は田中宏により執筆されている。
- 平凡社の世界大百科事典第2版では「1937年に日中全面戦争に突入して以降,労働力や軍要員の不足を補うために,日本は国策として朝鮮人,中国人を日本内地,樺太,南方の各地に投入したが,駆り集め方が強制的であったためこう呼ばれる。」とし、「38年4月には国家総動員法が,翌年7月には国民徴用令が公布され,日本の内外地における労務動員計画がたてられた(徴用)。39年の動員計画数110万のうち8万5000は朝鮮人に 割り当てられ,各事業主にその狩出しを認可し,42年からは国家自身の手になる 〈官斡旋〉に移行した。」ことが紹介されている[28]。
- 丸善エンサイクロペディアでは「(中国人1943-45、朝鮮人1939-45)第二次大戦中、中国人、朝鮮人を強制的に軍需動員したもの。総力戦体制の一環として、中国人労働者、朝鮮人労働者内地移入に関する件が各々閣議、朝鮮総督府により決定された(後略)」と記述する。
- 角川新版・日本史辞典には「アジア太平洋戦争」時に日本政府が朝鮮人や中国人に強制した労務動員を指して、一般に使われる。戦時統制経済下で、政府は1939年(昭和14年)に労務動員実施計画綱領を作成し、不足する労働力を「移入朝鮮人」で補おうとする方針を立てた。(以下略)」と書かれている。また「連行先は日本国内だけでなく、樺太、東南アジア、太平洋諸国と広範囲におよび、炭坑・土木工事など、危険な重労働につかされたため死傷・逃亡が多かった。朝鮮人の動員数は72万人とも150万人ともいわれ、中国人は約4万人と見られている。」と書かれている[30]。
- 小学館の『日本歴史大事典』も田中宏が執筆しており、要点は『世界大百科事典』と同じ。中国人に対しては、「華人労務者内地移入ノ促進二関スル件」により移入が本格化したとし、中国人の「補償請求訴訟」についても、詳しく解説している。参考文献は、朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』、田中宏・松沢哲成編『中国人強制連行資料』、山田昭次・田中宏編『隣国からの告発--強制連行の企業責任二』。
- 岩波書店の『日本史辞典』では、「強制連行」を戦時中の日本の政策としている。慰安婦にされた者も少なくないとも。対象者に中国人・朝鮮人の他にミクロネシア人が挙げられている。「朝鮮人強制連行」の項目では、募集・官斡旋・徴用の流れで説明。執筆者は不明。編集委員には、強制連行に関する著書もある西成田豊の名前がある(表紙)。「中国人強制連行」に関しては、項目はあるが解説はない。
「朝鮮人(中国人)強制連行」の項目のみ立てられている例[編集]
- 小学館の日本大百科全書には「朝鮮人強制連行」[31]という項目があり、「朝鮮人強制連行の記録」の著者である朴慶植が執筆している。そこでは「朝鮮総督府の官公吏・警察官および会社労務係らが一体となって暴力的に各事業所に強制連行した。それらは割当て動員数を満たすため昼夜を分かたず、畑仕事の最中や、勤務の帰りまでも待ち伏せしてむりやりに連行するなど「奴隷狩り」のような例が多かった。(中略)陸軍慰安婦として数万人の女性が女子挺身(ていしん)隊の名のもとに狩り立てられた。」と記載している。
- 吉川弘文館の『国史大辞典』における、正確な項目名は「朝鮮人強制連行問題」と「中国人強制連行問題」。朴慶植の志を受け継いで建てられた在日韓人歴史資料館[32]の館長を後に務める事になる姜徳相が「朝鮮人強制連行」の項目を執筆している。国家総動員法を公布した日本国が、「国民職業能力申告令」「国民徴用令」などの勅令を相次ぎ発令し、「国家権力の動員計画により、軍部・官憲・資本家が一体となり強制的に動員」したとする。数万人の従軍慰安婦が含まれるとも、連行された120万人を含む当時の在日人口250万人が、現在の在日朝鮮人のルーツであるともしている。「中国人強制連行問題」は、臼井勝美が担当。東条内閣が「華人労務者内地移入ニ関スル件」を閣議決定。中国人労務者の大部分は華北労工協会の取り扱いで、その七割が事実上農村から拉致されたとしている。参考文献として、中国人強制連行事件資料編纂委員会編『草の墓標』と、田中宏、内海愛子、石飛仁解説の『史料中国人強制連行』の二冊が挙げられている。
- 山川出版社の『日本史広辞典』。「朝鮮人強制連行」の項目の執筆者は不明。やはり戦時中の政策としている。「中国人強制連行」の項目も執筆者不明。42年の閣議決定から説明。大半は日本軍の捕虜か占領地で強制的に集められたとする。
- 東洋経済新報社の『日本近現代史辞典』は、「朝鮮人強制連行」「中国人強制連行」共に井口和起が執筆。朝鮮人強制連行は、国家の動員計画に基づいて実行されたとしている。参考文献として朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』、朝鮮人強制連行真相調査団の『朝鮮人強制連行強制労働の記録』。中国人強制連行についても東条内閣の閣議決定により5万人が強制連行されたとしている。参考文献は『草の墓標』。
事典類の記述を巡る議論[編集]
外村大は、「朝鮮人強制連行」という用語を用いることについて議論があることは認めつつ、大概の歴史辞典に「朝鮮人強制連行」や「強制連行」の項目が存在すると指摘している[33]。
一方、鄭大均は、朴慶植や田中宏の名を挙げ、こうした項目を執筆したのは、殆どが日本の加害者性の糾弾に情熱を注いできた人々だと反論している[34]。
外村大はまた、辞典によっては朝鮮人を日本軍の兵士や軍属、「従軍慰安婦」としたことも強制連行として説明しているケースもある。このような記述はこれまでの歴史研究の成果を反映したものであると書いている[35]。
新井佐和子は、執筆者が朴慶植や姜徳相といった在日朝鮮人や在日韓国人であったり参考文献が彼らの著書であったりする点を指摘し、自国の歴史事典を安易に、あるいは故意に外国人に書かせる事を批判した[36]:50,52。
国語辞典の記載[編集]
国語辞典(書籍版)における「強制連行」の項目の有無。小辞典や学習辞典は除外した。
| 国語辞典(版) | 強制連行 | 出版社/年/備考 |
|---|---|---|
| 大辞泉(2) | なし | 小学館/12年 |
| 大言海(新) | なし | 冨山房/94年/大槻文彦編 |
| 大辞林(3) | なし | 三省堂/06年/小辞典『新明解国語辞典』も同じ |
| 言泉(初) | なし | 小学館/87年/尚学図書言語研究所編 |
| 学研国語大辞典(2) | なし | 学習研究社/91年/ |
| 大辞典(復刻) | なし | 平凡社/94年/初版1936年 |
| 言林(初) | なし | 全国書房/49年/新村出編 |
| 日本国語大辞典(2) | なし | 小学館/01年 |
| 国語辞典(2) | なし | 集英社/00年 |
| 日本語大辞典(初) | なし | 講談社/89年 |
| 広辞苑(7) | 強制的に連れて行くこと--朝鮮人強制連行。 | 岩波書店/18年 /6版(08年)から登場。編者新村出は既に他界。 別個に「朝鮮人強制連行」の項目。 |
広辞苑[編集]
岩波書店の広辞苑には、4版(1991年)から「朝鮮人強制連行」として登場する[37]。6版(2008年)からは「強制連行」の言葉が、「強制的に連れて行くこと」という解説と共に追加された。例として「朝鮮人強制連行」が挙げられている。
- 【朝鮮人強制連行】
- (4版1991年1月)日中戦争・太平洋戦争期に百万人を超える朝鮮人を内地・樺太(サハリン)・沖縄などに強制的に連行し労務者や軍夫などとして強制就労させたこと。女性の一部は日本軍の従軍慰安婦とされた。
- (5版1998年11月)日中戦争・太平洋戦争期に百万人を超える朝鮮人を内地・樺太(サハリン)・沖縄・東南アジアなどに強制的に連行し、労務者や軍夫などとして強制就労させたこと。女性の一部は日本軍の従軍慰安婦とされた。
- (6版2008年1月)日中戦争・太平洋戦争期に100万人を超える朝鮮人を内地・樺太(サハリン)・沖縄・東南アジアなどに強制的に連行し、労務者や軍夫などとして強制就労させたこと。女性の一部は日本軍の慰安婦とされた。
- (7版2018年1月)日中戦争・太平洋戦争期に多数の朝鮮人を日本内地・樺太(サハリン)・沖縄・東南アジアなどに連行し、工場・鉱山の労務者や戦地の軍夫・慰安婦などとして強制就労・服務させたこと。労務者だけで約七〇万人に達した。
広辞苑に対する批判[編集]
5版(1998年)と6版(2008年)との間の変化をみると、強制連行に関しては「従軍慰安婦」が「慰安婦」に変わるという変化がある。谷沢永一と渡部昇一は5版の記載を前提に、これは史実と異なる記述でありイデオロギーにもとづく記述は辞書に値しないと批判し、岩波書店に対して訂正と謝罪を求めた[38]。
新井佐和子は、初版にあった「朝鮮事変」「朝鮮征伐」などが消え、4版では「朝鮮人虐殺」「朝鮮人強制連行」などと入れ替わっていると指摘(朝鮮関連の用語、5増5減)。説明文の言い回しまで微妙に異なるのは、執筆者が高崎宗司や和田春樹に変ったからだろうかと疑問を呈している[39]:48,49。
朝鮮人強制連行[編集]
日中戦争が長期化し国家総動員法が成立すると、日本人(内地人)に続き朝鮮半島や台湾出身者も大日本帝国の国民として戦時体制に動員された。朝鮮人強制連行とは、一般的に日中戦争から太平洋戦争まで間の朝鮮人労務動員のことを言う。
朝鮮人強制連行という言葉の定義は明確ではないが、金英達は、1939年から始まった国家総動員計画実施にともなう朝鮮人労務者の集団移入を中心に見るのが大方の共通理解であり、通常は兵力動員(軍人・軍属)は含まれないとしている[40]。
朝鮮人労務者の移入は、(1)朝鮮半島の指定された場所で企業が労務者を募集する「募集」に始まり、(2)その労務者募集を朝鮮総督府が斡旋する「官斡旋」、そして(3)国民徴用令に基づく「徴用」の三段階を踏んで実施された[41]:18。
朝鮮人強制連行の言葉は、鄭大均によれば1960年が初出で[42]、朝鮮学校の教員朴慶植が1965年に出版した『朝鮮人強制連行の記録』をきっかけに注目されるようになった[43][44]:124
近年の新聞(全国紙)では、「(朝鮮人)徴用工」「労務動員」といった言葉が使われている[45] [46][47]。
「朝鮮人強制連行」という言葉の妥当性を巡る議論[編集]
内地人や台湾人も動員されたにも関わらず、強制連行と言う場合ほとんどが朝鮮人についてである(「中国人強制連行」に関しては後述)。これについて金英達は、法的強制力の伴わない「募集」や「官斡旋」であっても朝鮮人に対しては物理的暴力が用いられ、徴用に至っては「公認された人狩り」だったとしている[48]。
こうした主張に対し西岡力は、「募集」の枠外でもその3倍の人間が、朝鮮半島から高賃金に魅かれて内地に渡っていたことなどを上げ、一部で強引なことはあったにしても、出稼ぎ希望者を政府が人気薄の炭鉱や鉱山に配置しようとしたというのが実態ではないかとして、強制連行という表現に異を唱えている[49]:4,10-12。動員計画に応じるふりをして内地に”密入国”するケースも、当時から問題になっていた[50]。
徴用の段階に入ると内地人同様朝鮮人にも拒否する自由がなくなったことについては、論者の意見は一致している。
鄭大均は、(朝鮮人)強制連行という言葉を、朝鮮人は徴兵された日本人の欠員を補う形で炭鉱等に動員されたのだという実態を無視しており、「価値中立的な歴史用語」とは言えないと批判している[51]。
韓国語[編集]
高崎宗司によると、韓国では軍人・軍属と(日本語で言うところの)強制連行者を合わせて「被徴用者」ということが多かった[52]:119。反日色の濃い李承晩政権がまとめた「対日請求要綱」の中でも強制連行という言葉は使われておらず、「被徴用韓国人未収金」などの表現があるにとどまる[49]:4。
強制動員・強制徴用[編集]
近年韓国メディアでは「強制動員」「強制徴用」などの言葉が用いられているが[53][54]、これらが日本語の強制連行の完全な同義語かどうかは不明。 釜山には国立日帝強制動員歴史館がある[55]。崔碩栄は、韓国では、たとえ志願であったとしても当事者たちは「強制動員」と表現せざるを得ないと述べている[56]: 129。
落星台経済研究所のイ・オヨンは、現在韓国で最も知られているのは「強制徴用」という言葉だとした上で、徴用(징용)という言葉自体に強制の意味が含まれており、概念として成立しないと述べている[57]。外村大によれば、早くも1945年12月8日の『京城日報』に「強制徴用」の絵が掲載されていたという[58]。
盧泰愚大統領訪日時の調査(1990年)[編集]
徴用工の問題は、1965年の日韓基本条約(とその付随協約)によって日韓両政府の間で決着していたが、1990年の盧泰愚大統領訪日の際、韓国政府から日本政府に対して改めて「強制連行者」に関する調査が要請された。民主化により市民運動の突き上げが激しくなったことが背景にあると見られている[52]:114,115 。
韓国政府から調査の要請を受けた日本政府は、強制連行に軍人・軍属は含まれないものと理解していたが、韓国側はこれらを含むものと考えており、両政府の間で「強制連行」という言葉の解釈が食い違う場面もあった[52]:118,119。
日本政府は調査の結果、約8万人分の名簿の存在を確認し、その目録を韓国政府に提供した[59]。
中国人強制連行[編集]
1942年、産業界の要請を入れ、日本政府は戦時下の労働力不足を補う為に「華人労務者内地移入ニ関スル件」[60] を閣議決定し、中国人労働力を国内の国民動員計画産業に導入する方針を決定した。開始は、1944年の次官会議決定(華人労務者内地移入ノ促進ニ関スル件)[61]:62から。 多くの中国人労働者は、当時日本の影響下にあり、満州国を支える労働力の供給地でもあった華北の出身だった[62]:38。 この日本政府による第二次大戦中の中国人労働力の国内産業への導入を、俗に中国人強制連行と呼ぶ。
閣議決定には、契約期間を二年に区切り雇用継続の際は一時帰国させることや、中国人労働者の食習慣への配慮、家族への送金を考慮することなどが決められていたが[60]、国内の食料事情の悪化と物資不足から企業での待遇も悪化し、これを不満とした中国人労働者による暴動も発生した(花岡事件)。死亡率が17.5%という高率に終わった事について、送り出した中国側機関と日本企業の双方に原因があった事が指摘されている[63]。
「華人労務者の内地移入」の仕組みは、日本企業が厚生省に希望する人数を申請し、許可を受けた上で中華民国南京国民政府の施政下にある中国側機関と契約を結び、労働者を日本に招くというものだった[62]:31。労働者集めは中国側が行ったが、華北労工協会のように企業への労働者の割当などを担当する実務に日本人職員が当たっていたケースもある[64]:144,145。
供出方法には四つの形式があったが、このうち中国の行政機関が郷村に人数を割り当てた「行政供出」は、結果的に労務者として相応しくない人間を半強制的に供出させることになったと終戦直後の外務省の調査で指摘されている[64]:72,73。また軽犯罪者や捕虜が釈放され、契約の下渡日した「訓練生供出」の例も少なくない事から、「中国人強制連行」とは、日本軍が「兎狩り」と称して現地住民を狩り集めたもの(中国人殉難者名簿共同作成実行委員会)[65]:639、あるいは日本軍による三光作戦(殺しつくし焼きつくし奪いつくす)だと考える者もいるが[66]:12、こうした主張には異論もある。
中国人労働者の総数は、約4万人[64]:228。「中国人強制連行」の言葉は、現在でも新聞紙上で使用例が見られる[67]。
慰安婦の強制連行[編集]
「広義の強制連行」[編集]
詳細は朝鮮人強制連行#慰安婦問題と強制連行を参照
従軍慰安婦問題の研究者吉見義明も「強制とは『本人たちの意思』に反する行為をさせること」であり「本人の意思に反して連行していくことは『強制連行』」であると定義している[68]:3。民間人による就職詐欺のケースも強制連行に含め朝鮮半島や台湾で慰安婦の強制連行が行われたのは事実であり、軍はこれに通行許可書を発行するなどの関与をしたと主張している[69]。このように拡大された定義を「広義の強制連行」と呼ぶ[70]:35。吉見によれば、自発的に慰安婦になる女性が存在するはずはなく、「たとえ本人が、自由意思でその道を選んだようにみえるときでも、実は植民地支配、貧困、失業など何らかの強制の結果」なのだという[71]:103。1997年に吉見は「官憲による奴隷狩りのような連行が朝鮮・台湾であったことは確認されていない」とした[72]。しかし、フィリピン、中国、インドネシアでは強制連行があったと主張している[72]。このように吉見らは、インドネシアやベトナムといった戦地で兵士によって女性が拉致されたケースも強制連行に含め、日本外国特派員協会などで発表[73]。日本政府に対するニューヨーク・タイムズなどの厳しい論調を引き出した[74]。
こうした吉見の「広義の強制連行」論は、貧困・就職詐欺や戦地での軍規違反のケースまで含めるなど、強制(連行)という言葉の解釈を拡大する手法には批判も出ている。秦郁彦はこの拡張した定義について「この論理を適用すると、当今の霊感商法やねずみ講のたぐいまで、国は被害者への補償責任を負うことになってしまう」といっている[75]。
挺対協による議論[編集]
挺対協は婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約条約の指定する「醜業ヲ行ハシムル為ノ婦女売買禁止ニ関スル国際条約」第2条を引用し「詐欺または、暴行、脅迫、権力乱用、その他一切の強制手段」による慰安婦動員を強制連行とする[76]。
朝鮮戦争における慰安婦問題[編集]
朝鮮戦争中、韓国政府関係者や米軍、国連軍兵士などによって韓国や北朝鮮の女性が強制的に国連軍・韓国軍慰安婦にさせられたケースが指摘されている。近年訴訟沙汰にもなっている[77]。
世界史上の類例[編集]
人類学者の綾部恒雄は、移民と異なり、強制移住や強制連行によって異郷へ送られ少数民族になったケースとして、英仏戦争の結果、カナダからルイジアナへ移住したフランス系ケージアン、第二次大戦中に日本によって強制連行された朝鮮人、樺太やカザフ共和国における朝鮮人、対独協力をしたとしてウズベク共和国へ強制移住させられたメスヘティア・トルコ人やコーカサス・ボルガ河流域から強制移住させられたイスラム教徒などをあげている[4][78]。ほか強制移住のケースとしてはアメリカ合衆国におけるインディアン移住などもある(涙の道参照)。
大西洋奴隷貿易(黒人奴隷)[編集]
大西洋奴隷貿易は、15世紀にポルトガル人によって始められた[79]。主に西アフリカの部族や奴隷商人などに捕らえられた人々がヨーロッパ人に売られ、1000万人前後がや南北アメリカ大陸に奴隷として送られた[80]。ポルトガルは4世紀半の間に450万人の奴隷をアフリカから運び、イギリスは18世紀中だけでも250万人の奴隷移送に関わった[81]。
南米における黒人奴隷[編集]
アフリカからブラジルに送られた奴隷は全体の4割に達し(カリブ海地域向けも、ほぼ同じ割合)、北米に送られた5%に比べ遥かに多い[82]。スペイン王室は、スペイン領との奴隷貿易に関して独占的請負制を導入した。その担い手はポルトガルに始まり、最終的にイギリスに移った[83]:27。
カリブ海における黒人奴隷[編集]
カリブ海地域の国々では1492年のコロンブスらの到来以降、西欧列強の本格的な海外植民地として、アフリカなどから強制連行されてきた奴隷を使ったプランテーション経営が行われた[84]。カリブ地域は他のラテンアメリカ地域とは異なり、原住民インディオ文化はほぼ完全に絶滅させられたか局所的に残るだけとなり、奴隷として強制連行された西・中央アフリカの黒人の子孫が社会の大多数を占め、アフリカ黒人系文化が重要な位置を占めるに至った[85]。
北米における黒人奴隷[編集]
北米のイギリス植民地では18世紀初頭までに奴隷法典が整備され、奴隷制度が広がった[86]:21。イギリスは、王立アフリカ会社に植民地への奴隷貿易を独占させたが、やがてイギリス国旗を掲げる全ての船に権利を開放した[83]:27。独立したアメリカ合衆国で公式に奴隷制度が廃止されたのは1865年である(アメリカ合衆国憲法修正第13条)。
インディアス法(スペイン王国)[編集]
16世紀にみられるカスティーリャ王国(スペイン王国)によるアステカ・インカ征服のさい、先住民(インディオ)の虐待、奴隷化が聖職者から告発され、先住民の処遇が問題となった。モンテシーノス修道士の植民者糾弾によりブルゴス諸法が公布されたが、スペインがインディアスを支配する根拠を明白にする必要が生じ、フェルディナンド王はインディオに対する戦闘を正当化させる方策を検討させた。これは「レケリミエント」(催告・勧降状)というものであって、法王の代理人であるスペイン国王の権威、またキリストの信仰を認めなければ懲罰を加えるというものであった。植民者たちはインディオ狩りに際しこの文書を読み上げることを義務付けられ、公証人も同行した。そしてインディオの側から承諾の返事がなければインディオを強制連行することを許可される、というものであった[87]。
アメリカ原住民の強制移住[編集]
アメリカ合衆国政府は、1830年にインディアン移住法を制定し、抵抗の意思を放棄した原住民(インディアン)をその本拠地からミシシッピ川以西へと移住させた。この困難な旅路の中で大勢の原住民が命を落とした。チェロキー族のケース(1838年-1839年)では、1万5, 6千人のうち3-4千人が旅の途中で死亡したと言われる[88]。世に言う「涙の道」である。
1860年代には、アメリカ陸軍の発案により、ナバホ族が彼らの本拠地から数百マイル離れた土地に徒歩で移住させられた[89]。ナバホ族は1868年にアメリカ政府と条約を結び、故郷への帰還が叶うが[90]、このロング・ウォーク・オブ・ナバホ(ナバホ族の長旅)でも大勢の犠牲者が出た。
南太平洋におけるブラックバード狩り[編集]
19世紀には南太平洋諸島の島民が詐欺や誘拐といった手段でオーストラリアやペルーなどのプランテーションに送り込まれた[91][92]。これを「ブラックバード(クロウタドリ)狩り」と言う。ブラックバードとは、原住民を指すスラングである。バーンズ・フィリップといった商船会社や実業家が関わったとされるが[92]、一国の政府が実行したものではない。逆にオーストラリア政府は、1901年に白豪主義に基づき太平洋諸島出身労働者法によりこうした人々を含めたカナカ人を追放したことで、一家離散などといった悲劇が生じた[92]。
オーストラリアにおける原住民児童の隔離政策[編集]
オーストラリアの連邦法や州法によって、原住民の親元から強制的に引き離され白人入植者の養子にされるか施設に入れられた混血児を「盗まれた世代」と呼ぶ。2008年に、ケビン・ラッド首相が1910年から1970年までのこの隔離政策について謝罪した[93] (ただし賠償は行われなかった[94])。南山大学のマイケル・シーゲル教授は、児童の福祉目的で行われた時期(初期・晩期)もあるが、政策の根本理念は優生思想に基づくオーストラリア社会の白人化であったとしている[95]:73。近年になって州レベルで被害者に対して補償を行う例も出てきている[96]。隔離された児童は、10万人を超えるとも言われる[95]:69。
ソ連における朝鮮人移民の強制移住政策[編集]
1920年代から1930年代にかけてソ連では朝鮮人移民が問題視され、1926年1月には「中国人と朝鮮人のソ連領への流入を阻止するため、あらゆる可能な措置をとる」ことを外務人民委員が決定し、1930年12月28日には極東地方執行委員会が、朝鮮人への土地の賃貸を完全停止し、また朝鮮人労働者の雇用を禁止した[6]。さらに1937年8月21日にソ連人民委員会議・全連邦共産党中央委員会は国境地域からの朝鮮人追放と南カザフスタン州、アラル海とバルハシュ湖周辺、ウズベクへの強制移住を命じた[6]。
第二次世界大戦[編集]
日系人の強制収容[編集]
第二次世界大戦中、アメリカ合衆国において、12万人にも及ぶ日系人の強制収容が行われた。南米諸国からも、日系人が合衆国に送られ施設に抑留された。ロナルド・レーガン大統領が「1988年の民権法」に署名。謝罪し補償したが、対象は日系アメリカ人に限定された[97]。1998年、ビル・クリントン大統領が、南米から合衆国に連れて来られた日系人も補償の対象にした[98]。カナダやオーストラリアでも日系人の強制収容が行われた。
アメリカ合衆国の日系人強制収容所[編集]
アメリカ合衆国では、陸軍発案の大統領令9066号に基づき、合衆国西部から日系人が強制収容所へ送られた。戦時に敵国人が抑留されること自体は珍しいことではなく、日本にも400人以上の敵国民が抑留されていたが[99]:10、強制収容所に収容された日系人の7割は市民権を持つ二世であり [100]、民族的出自を理由にしたこの様な取り扱いは、ドイツ系やイタリア系アメリカ人に対しては行われなかった[101]。のちにアメリカ議会が設置した調査委員会(合衆国戦時民間人再定住・抑留に関する委員会)は、人種的偏見と戦時ヒステリーに基づくものだったと結論付けている[102]。
南米からの日系人強制送還(追放)[編集]
南北アメリカ諸国は、1939年から各国に居住する枢軸国側の国民の取り扱いについて協議を開始。最初に、戦略的要衝であるパナマの日系人が、アメリカの支援でパナマの収容所に抑留された[103]。各国で対応し切れない敵性外国人はアメリカ合衆国に送られる事になっており、日系移民排斥ムードが高まっていたペルーを筆頭に、12カ国の日系人が合衆国へ追放された[104]:63。彼らはいわゆる日系人社会のリーダー層であり、日本軍への協力の嫌疑をかけられ、人数は多くは無いが、米国に強制的に移送される際、パスポートの携帯を許されずあるいは途中で没収されたかの理由により、米国政府から不法移民の地位を付与され司法省移民局管轄の抑留所に監禁された[105]。
ナチスドイツによるKZと外国人労働者政策[編集]
ナチスドイツのコンツェントラツィオンス・ラーガー、KZとよばれる施設があった。
大恐慌以降のナチスによる経済政策の結果、1936年以降高失業率は解消され、軍備拡大政策にともなう諸工業の発展は逆に深刻な労働力不足をもたらした。近隣諸国との労働者派遣に関する二国間協定により国外から労働力が集められたが、それは市民労働者と戦時捕虜としての外国人労働者が含まれていた。1941年以降には強制収容所労働者がドイツ軍需産業に投入され、1942年以降にはフリッツ・ザウケルを中心に3年に渡りヨーロッパ占領地区から労働従事者を強制連行した[106][107]。
ソ連におけるラーゲリ[編集]
ソ連では政治犯や戦争捕虜が強制収容所(ラーゲリ)に入れられた。
シベリア抑留[編集]
第二次大戦の終結後、スターリンは「国家防衛委員会決定No.9898(俗に、スターリン秘密指令)」を極東戦線の司令官らに送り、日本人捕虜をソビエト連邦内に移送し強制労働に従事させるよう指示した[108]:58。日本軍人の立場は正式には捕虜だったが、旧軍関係者の感情に配慮し、一般的に「抑留者」と呼ばれる。移送先も広大な地域に及んだが、これも一般的に「シベリア抑留」と呼んでいる[109]:37。寒さや飢えなどで、5.5万人以上が死んだと言われる[109]:43。ソ連は大戦で多くの人的資源を失っており、イワン・コワレンコ元ソ連共産党中央委国際部副部長は、抑留は戦後復興の労働力を確保するために、対日参戦前から決まっていたという内容の証言をしている[109]:35。ロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されていることが明らかになっているが、これには重複分も含まれていると見られる[110]。200万人以上との説もある[111]。ポツダム宣言では、武装解除後兵士を家庭に復帰させることになっていたにもかかわらず、シベリア抑留は最長11年に及んだ[112]:105。日本人以外にも、ドイツ人やハンガリー人捕虜など、計416万人がソ連で強制労働に従事させられた[108]:79。
中国共産党による日本人捕虜・居留民への強制連行[編集]
また、第二次世界大戦終結後、中国に残留していた日本人のなかには中国共産党によって中華民国政府との戦争や技術取得のために強制的に連行された者もあった[113]。連行された者には小学生[114]や女子高校生のような10代の若者もおり、数年間に渡って戦争の支援をさせられた[113]。1946年2月3日には、八路軍の圧政に蜂起した日本人が虐殺される通化事件が発生している。
他方、国民党の蒋介石は「徳を以て怨みに報いる」として、終戦直後の日本人居留民らに対して報復的な態度を禁じたうえで送還政策をとった[115]。
バントゥースタン(南アフリカ共和国)[編集]
バントゥースタンは、人種隔離政策(アパルトヘイト)を取る南アフリカ共和国が、黒人居住地として作った10の疑似国家である。ホームランドとも呼ばれる。南ア共和国政府は、人口の75パーセントを占める黒人を、国土の13パーセントの痩せ地に隔離し、これらを国家として独立させようとしたが、国際社会の承認は得られなかった。原住民は、部族ごとにそれぞれのバントゥースタン(ホームランド)を指定され、その市民権が与えられる代わりに、南ア共和国の市民権と政治的権利を剥奪された[116]。これによって、黒人は豊かな都市部(白人居住地)から強制的に排除された。黒人はパス法により身分証明書の携帯を義務付けられ、自由に移動したり都市に住むことが出来なかった。バントゥースタンは、アパルトヘイトの廃止と共に1994年に消滅した。
アルゼンチン軍政期[編集]
アルゼンチンでは軍事政権期(1976-83年)に3万人以上が軍の強制連行により行方不明になったとされる。1979年に「5月広場の母たちの運動」が結成され、行方不明者の調査と不法逮捕者の釈放を求める要望書に2万4000人の署名が集められた[117]。
現代の強制連行[編集]
チベット人の強制連行[編集]
チベット亡命政府や大紀元は、チベット人僧侶やダライ・ラマ14世を支持する者が中国共産党によって「強制連行」され続けていると継続的に主張している[118][119]。
労働改造所[編集]
北朝鮮の強制収容所[編集]
現在でも北朝鮮では強制収容所が存在する。
アメリカ合衆国グァンタナモ米軍基地問題[編集]
2000年代でもアメリカ軍によってグァンタナモ米軍基地へ非軍人を含むアフガニスタン人、イラク人が収容され、アムネスティ・インターナショナルから「対テロ戦争を口実にした収容所での人権侵害」と告発され、オバマ大統領は閉鎖を命じたが、2015年現在まだ閉鎖されていない(グアンタナモ湾収容キャンプ参照)。
強制連行を扱った作品[編集]
脚註[編集]
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参考文献[編集]
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- 外村大「朝鮮人強制連行―その概念と史料から見た実態をめぐって―」[23],2006年
- 西岡力 『よくわかる慰安婦問題』 草思社、2007年6月。ISBN 978-4794216014。
- 洪祥進(朝鮮人強制連行真相調査団)「朝鮮人強制連行、歴史用語から人権用語に」,『フォーラム平和・人権・環境』第45回護憲大会第3分科会「歴史認識と戦後補償」報告,2009年2月1日
- 李恩民「日中間の歴史和解は可能か―中国人強制連行の歴史和解を事例に」『境界研究』No.1(2010)pp.99-112
- 外村大「在日コリアンと強制連行―1959年発表の「外務省資料」をめぐる議論に関連して―」,2010年
- 外村大『朝鮮人強制連行』岩波新書2012年