朴慶植

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朴慶植
各種表記
ハングル 박경식
漢字 朴慶植
発音: パクキョンシク
日本語読み: ぼくけいしょく
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朴慶植(パク・キョンシク、1922年12月7日 - 1998年2月12日)は、在日朝鮮人の歴史研究者。慶尚北道奉化郡鳳城面金峰里で生まれる。1929年3月に両親とともに来日。1943年9月、日本大学高等師範部地理歴史科(夜間)卒業。1942年9月、国民学校助教となる。1949年3月、東洋大学文学部史学科卒業。朝鮮中高級学校朝鮮大学校教員を務める。1998年、自転車で帰宅途中に交通事故死[1]。満75歳没。

主張[編集]

朴慶植は、小学館の「日本大百科全書」の中の「朝鮮人強制連行」という項目の執筆を担当している。その中で朴慶植は、「朝鮮総督府の官公吏・警察官および会社労務係らが一体となって暴力的に各事業所に強制連行した。それらは割当て動員数を満たすため昼夜を分かたず、畑仕事の最中や、勤務の帰りまでも待ち伏せしてむりやりに連行するなど「奴隷狩り」のような例が多かった。(中略)陸軍慰安婦として数万人の女性が女子挺身(ていしん)隊の名のもとに狩り立てられた。」などと記載している[2]

朴慶植の代表著作である『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)の信憑性については的場光昭氏がその著書『反日石碑テロとの闘い』(展転社)で詳しい検討を行っている。

朴の著書において南方へ強制連行されたという人物について、北海道新聞が記事で紹介した総督府に残る資料と照合してその実態を明らかにしているが全く強制連行には値しない。

著書に紹介された人物は、干ばつによる飢饉を逃れて妻と四人の子供を連れてパラオに移住し、さらに二年後には横浜で一男を出産している。朴の著書にあるような昼夜分かたず官憲が男たちを狩り集めて連れ去ったという状況からかけ離れた実態を明らかにしている。

 また的場氏は自身のブログで朴の著書巻頭の〝5.30間島事件、朝鮮人虐殺の惨状〟と題して日本人に虐殺されたと紹介されている写真について、この生首写真は朝日新聞が1984年に南京大虐殺の証拠として大々的に報じ、後に取り下げたものと同じで、それは昭和6(1931)当時の朝鮮と中国の国境に位置する会寧にある文房具兼写真屋で「匪賊ニ惨殺サレタ朝鮮人」もしくは「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」として売られたものだと紹介している。

 おなじく山積みにされている小児の死体の写真についても、「土匪のために殺された鮮人の幼児」とあるのを南京大虐殺の写真として転用されていたものを、〝5.30間島事件、朝鮮人虐殺の惨状〟の写真として朴が使いまわしていることを明らかにしている。

 このように朴慶植の著書は冒頭から捏造で始まっており、全く信頼に値しない。この〝強制連行〟が独り歩きして、これに吉田清治と朝日新聞が追い打ちをかけ、日韓関係を大きく損なう原因になったことを考えれば、朴慶植は北朝鮮もしくは中共の命を受けて日韓分断工作のために活動していたのではないかとすら考えられる。

著書[編集]

  • 『朝鮮人強制連行の記録』未来社、1965年
  • 『日本帝国主義の朝鮮支配』上下、青木書店、1973年
  • 『朝鮮三・一独立運動』平凡社、1976年
  • 『在日朝鮮人運動史―8・15解放前』三一書房、1979年
  • 『在日朝鮮人・強制連行・民族問題―古稀を記念して』三一書房、1992年

脚注[編集]

  1. ^ 青丘文庫月報/127号(1998年3月3日)
  2. ^ 「朝鮮人強制連行」 日本大百科全書 小学館 Yahoo!百科事典

外部リンク[編集]