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秦彦三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
秦 彦三郎
生誕 1890年10月1日
日本の旗 日本 三重県
死没 (1959-03-20) 1959年3月20日(68歳没)
所属組織 日本陸軍
軍歴 1912年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
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秦 彦三郎(はた ひこさぶろう、1890年明治23年)10月1日 - 1959年昭和34年)3月20日)は、日本陸軍軍人。 最終階級は陸軍中将ロシア通として知られ第二次世界大戦終戦時の関東軍総参謀長。戦後はシベリアに抑留された。

略歴

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三重県に生まれ、1912年陸軍士官学校を卒業(24期)して歩兵少尉となる。1915年、歩兵中尉となる。1919年陸軍大学校を卒業(31期)。1922年、歩兵大尉となり参謀本部員(ロシア班)となり、翌年、関東軍の満州里機関長となる。1926年ソ連大使館武官補佐官となり、翌年、歩兵少佐となる。

1930年ポーランド公使館武官ラトビア公使館附武官となる。1931年、歩兵中佐となる。1932年ルーマニア公使館附武官となる。1933年、参本ロシア班長、翌年、ソ連大使館附武官となる。 1936年、歩兵大佐(新聞班長)となる。

1938年、関東軍司附(ハルピン特務機関長)となり、翌年、陸軍少将となる。1940年、 関東軍参謀副長となり、1941年、関東軍参謀副長(兼秦機関長)となり陸軍中将となる。1942年10月に第34師団長、1943年4月に参謀次長大本営兵站総監となり、戦局不利な状況の中で作戦指導にあたる。1944年3月から8月までは陸軍大学校校長も兼職した。1945年4月7日、敗戦濃厚の中、関東軍総参謀長となる。同年8月9日、ヤルタ協定に基づきソ連軍満州朝鮮に侵攻し、同月18日、満州帝国滅亡。同年8月19日、山田乙三関東軍総司令官と秦は瀬島龍三中佐らを伴い、ジャリコウヴォアレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥(極東ソ連軍総司令官)との停戦交渉を行った。

1945年12月2日A級戦犯として連合国軍最高司令官より出された第3次逮捕命令のリストに後宮淳大将と共に名前があった[1]が、既にソ連軍により捕らえられシベリア抑留の身であった。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[2]1956年12月26日に復員

逸話

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  • ロシア語に長ける秦は大佐(陸軍省新聞班長)の頃、ユダヤ系ロシア人の家に下宿して『隣邦ロシア』と言う本を出版している。

栄典

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位階
勲章等
外国勲章佩用允許

脚注

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  1. ^ 梨本宮・平沼・平田ら五十九人に逮捕命令(昭和20年12月4日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p341 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  2. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」210頁。
  3. ^ 『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。
  4. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  5. ^ 『官報』第4632号 付録「辞令二」1942年6月20日。