小泉軍治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
こいずみ ぐんじ
小泉 軍治
生誕 (1885-07-08) 1885年7月8日
茨城県河内郡駒塚村
死没 (1965-04-15) 1965年4月15日(79歳没)
イギリス
国籍 日本の旗 日本
職業 柔道家
著名な実績 イギリスにおける柔道指導
流派 講道館8段

小泉 軍治(こいずみ ぐんじ、Gunji Koizumi、1885年7月8日 - 1965年4月15日)は、柔道イギリスに紹介し[1]、「イギリス柔道の父 (the Father of British Judo)」と称された日本柔道家である[2][3][4]G.K.の愛称でも知られた[5][6]

イングランドで最初、また、ヨーロッパで最初の柔道団体として、ロンドンに Budokwai (武道会)を創設した[6][7][8]。小泉はイギリス柔道連盟英語版の設立を助け[9]ヨーロッパ柔道連盟を創設した[6]。最終段位は講道館8段であった[5]1965年に、小泉が自殺と見られる死を遂げたことは、世界の柔道界に衝撃を与えた[6]

人物・生涯[編集]

生い立ち[編集]

小泉は1885年7月8日茨城県南部の駒塚村(現在の稲敷市の一部)に生まれた。当時、この地域は東京から50㎞ほど離れた農村であった[10]。小泉は、小作農だった・小泉周吉とその妻であった・かつの次男で、上に・千代吉、下に・いくがいた[10]1897年、12歳になった小泉は、学校で剣道の修業をはじめた[10]。また、アメリカ帰りの近所の住人から英語も習い始めた[10]

次男であった小泉は、自力で開墾して農場を興すか男子の跡継ぎがない他家に養子に行くしか選択肢がなかったが、小泉はどちらも嫌だった[10]1900年7月、15歳になる直前に小泉は東京で一旗揚げようと家を出て政府の電信技師養成所に入った[10]1901年、小泉は天神真楊流田子信重の下で柔術修業を開始した[10]。電信技師の資格を得て彼はしばらく東京で働いた後に朝鮮の鉄道に就職した。1904年には武家出身[5]の山田信勝について修業した[10]。当時の小泉は電気技術を学ぶことを決意し、そのためには渡米が最善の道であると考えるようになっていた[10]。出国した小泉は上海香港シンガポールインドを経由して途中働きながら西に向かった。その途中、シンガポールではアキシマ・ツネジロウについて修業した[5][10]

イギリス[編集]

1906年5月4日に小泉は蒸気船ロムズフォード号に乗って北ウェールズのモスティン英語版港に着いた[10]。そこからリヴァプールに行きカラ・アシカガ柔術道場で師範となった[10]。その後ロンドンに出て、元バーティツの師範であった上西貞一がピカデリー・サーカスで開いていた柔術道場で教えた[11]。この期間に小泉はロンドン工芸学校やイギリス海軍志願予備隊でも教えた[12]:17-18。数ヶ月後、小泉はニューヨークを目指して出発し1907年5月に到着した[10]。ここでニューアーク公共サービス鉄道会社に就職した[10]。数年後、アメリカでの生活に満足できなかった小泉は、イギリスに戻った[10]。小泉はロンドンのヴォクソール・ロードで電気会社を設立しようとしたが資本が足りなかった[10]1912年1月、小泉はロンドンのイーバリーストリートに漆器製作所を設立した[10]

1918年には自分で費用を出してロンドンに武道会を設立した[2][6][7][8]。武道会ではイギリス人に柔術、剣道などの日本武術を教えた[1] 。小泉はバッキンガム宮殿の裏手にあるロウワー・グローブズナー・パレスに建物を確保し[1]、武道会は1918年1月26日に開設された[9]

1919年には小泉はイギリス在住の日本人医療雇用住居を提供することを目的として共済会を設立した[7]。小泉がこの会の事務局長になり、武道会内に事務局を置いた[7]1920年嘉納治五郎アントワープ五輪に選手団長として赴く途中、武道会を訪問した。このとき小泉と谷幸雄はしばらく協議して柔術から柔道に切り替えることを決めた。嘉納は2人に講道館2段位を与えた[8][10]

1922年に小泉は東洋の漆器の専門家としてヴィクトリア&アルバート博物館の顧問に就任し、後に同館所蔵の漆器すべてのカタログを作成した[5]。小泉は1923年に著書『Lacquer work: A practical exposition of the art of lacquering together with valuable notes for the collector』を出版した[13]1932年には講道館の4段に進んだ[14]

第二次大戦中も武道会での柔道の稽古は続けられたが、これは小泉には大きな財政的負担を強いた[10]。小泉の伝記を書いたリチャード・ボウエンによれば、この期間に「小泉は拘留されず行動に制限は受けなかった」という[10]1948年に小泉は6段に進んだ[14]。小泉は1948年7月24日のイギリス柔道連盟設立を助け[1][15]、初代会長に就任した[8]。40年代末までに小泉は事業から引退しイギリスにおける柔道教授に専念した[10]1951年には7段に進んだ[14]

小泉はイギリス人女性と二度結婚しており、ハナという名前の娘が一人いた[16]。ハナは小泉の弟子のひとりパーシー・セキネ(Percy Sekine)と結婚した[10][17][18]

晩年[編集]

1954年9月19日に小泉は50年ぶりに日本に帰郷した[10]。小泉の妹や親戚とともに嘉納履正講道館館長や多くの柔道家たちが羽田空港で小泉を迎えた[10]。講道館は小泉を賓客として歓迎した[10]。小泉は日本からイギリスに帰った。その後、小泉は『Judo: The basic technical principles and exercises, supplemented with contest rules and grading syllabus』(1958年[19]、 『My study of Judo: The principles and the technical fundamentals』(1960年[12]など柔道に関する本を書いた。小泉は、1960年代はじめにも柔道を教え続け、1962年11月17日付で8段位を拝受[20][注釈 1]

1964年10月に布井書房から出版された伝記『嘉納治五郎』を嘉納履正が小泉に贈ると、亡くなる前月3月16日に返礼の手紙が届き、謝意と共に「個人の生命に限りありますが、信念の進路には生死なしと思ひます。」と結ばれていた[22]。 小泉が死去する前夜、弟子の一人チャールズ・パーマーは、いつもと様子が違うように思った。『ブラックベルト英語版』誌の通信員ケイ・ツムラによれば、「いつものように笑ってお休みという代わりに彼はパーマーの手を握って「さよなら」と言った」という[6]:50。その翌日の1965年4月15日、小泉は変わり果てた姿で発見された。小泉は正装してお気に入りの椅子に坐り、ガスストーブを傍に置き[6]、頭にプラスティックをかぶっていたという[17]

小泉の死は柔道界に衝撃を与え議論が起きた[6]。自殺は不名誉だとする者もいたが、小泉の死は名誉あるサムライの死であると言う者もいた[6]。 嘉納履正は小泉の他界時には渡米中で、帰国後の4月29日に小泉から届いた手紙を受け取った。消印4月15日付で、「謹啓枯木の様な老生の餘生、天の攝理を待つのが退屈になりましたので一足先に失礼さして頂きます」「知遇以來御懇篤な御交誼と御指導深く御禮申上ます」「重大なる御使命の達成と、御一家の御多幸を祈りつゝ拜具」(いずれも原文ママ)とあり、裏面には大字で「信念の進路に生死なし」と記されていたという[22]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ グラントが1965年に書いた伝記では小泉は死の前に8段に進んだとしている一方[5]1982年のフロムとソームズの伝記では講道館から追贈されたとしている[21]

出典[編集]

  1. ^ a b c d Budokwai: The history of the Budokwai (c. 2005). Retrieved on 25 February 2010.
  2. ^ a b 山縣淳男 (1999年11月21日). “小泉軍治 -こいずみぐんじ”. 柔道大事典、138-139頁 (アテネ書房) 
  3. ^ British Judo Association: How do I start? (2003). Retrieved on 25 February 2010.
  4. ^ Schilder, J. D. (1967), “'Grandpa' sets an example”, Black Belt 5 (2): 46–47 
  5. ^ a b c d e f Grant, C. (1965), “A Judo landmark: Gunji Koizumi – G. K.'s 'New Judo' attracted Britain's professional classes”, Black Belt 3 (11): 10–14 
  6. ^ a b c d e f g h i Tsumura, K. (1966), “He died a Samurai's death: Two world Judo leaders defend the honour of G. K. Koizumi, Founder of British Judo, who took his own life”, Black Belt 4 (6): 48–50 
  7. ^ a b c d Keiko Itoh (2001), The Japanese community in pre-war Britain, RoutledgeCurzon, ISBN 978-0-7007-1487-2, http://books.google.com/?id=VBijCPLvWyUC 
  8. ^ a b c d Walker, S. (c. 2005): Gunji Koizumi (1885–1965) Retrieved on 25 February 2010.
  9. ^ a b Thomas A. Green; Joseph R. Svinth (2003-11), Martial arts in the modern world, Praeger Publishers, ISBN 978-0-275-98153-2, http://books.google.com/?id=CayyJJg0KIsC 
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y Ian Hill Nish; Hugh Cortazzi (2003-01-15), Britain & Japan, RoutledgeCurzon, ISBN 978-1-903350-14-0, http://books.google.com/?id=hB9lXQKaUIQC 
  11. ^ Chatterton, G. G. (1907), “The gentle art of ju-ju-tsu”, Chambers's Journal 84 (7): 751–752 
  12. ^ a b Koizumi, G. (1960): My study of Judo: The principles and the technical fundamentals, New York: Sterling.
  13. ^ Koizumi, G. (1923): Lacquer work: A practical exposition of the art of lacquering together with valuable notes for the collector. London: Pitman.
  14. ^ a b c Budokwai: Past personalities (c. 2005). Retrieved on 26 February 2010.
  15. ^ British Judo Association: History (2003). Retrieved on 25 February 2010.
  16. ^ Bowen, R. (2000): An Englishwoman's description of learning Judo in Japan: Letters from Sarah Mayer to Gunji Koizumi, 1934–1935, Part I Journal of Combative Sport Science (February 2000). Retrieved on 26 February 2010.
  17. ^ a b Anonymous (1965), “Britain's Mr. Judo is dead”, Black Belt 3 (10): 52 
  18. ^ British Judo Council: The history of Judo (c. 2004). Retrieved on 26 February 2010.
  19. ^ Koizumi, G. (1958): Judo: The basic technical principles and exercises, supplemented with contest rules and grading syllabus. Berkshire, UK: Foulsham.
  20. ^ 工藤雷介 (1965年12月1日). “八段・故人の部 小泉軍治”. 柔道名鑑、66頁 (柔道名鑑刊行会) 
  21. ^ Alan Fromm; Nicolas Soames (1982-07-01), Judo, the gentle way, Routledge/Thoemms Press, ISBN 978-0-7100-9025-6, http://books.google.com/?id=KLQ9AAAAIAAJ 
  22. ^ a b 嘉納履正 (1965年7月1日). “英国柔道の父を偲ぶ”. 機関誌「柔道」(1965年7月号)、1頁 (講道館) 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]