ピエール・ド・クーベルタン
| ピエール・ド・クーベルタン | |
|---|---|
| Charles-Pierre de Frédy, baron de Coubertin | |
ピエール・ド・クーベルタン | |
| 任期 1896–1925 | |
| 前任者 | ディミトリオス・ヴィケラス |
| 後任者 | アンリ・ド・バイエ=ラトゥール |
| 個人情報 | |
| 生誕 | 1863年1月1日 |
| 死没 | 1937年9月2日(74歳没) |
| 国籍 | |
| 身長 | 1.62 m (5 ft 4 in)[1] |
| 獲得メダル | ||
|---|---|---|
| 芸術競技 | ||
| オリンピック | ||
| 金 | 1912 ストックホルム | 文学 |

クーベルタン男爵シャルル=ピエール・ド・フレディ(フランス語: Charles-Pierre de Frédy, baron de Coubertin, 1863年1月1日 - 1937年9月2日)は、フランスの教育者であり、古代オリンピックを復興させ近代オリンピックの基礎を築いた創立者である。一般にピエール・ド・クーベルタン男爵と呼ばれる。
経歴
[編集]1863年1月1日午後5時、パリ7区のフォーブール・サンジェルマン西側界隈ウディノ通り (Rue Oudinot) 20番地の自宅で、父シャルル=ルイと母アガート=マリー=マルセルの第4子として生まれた[2]。両親ともに貴族の家系であった(詳細は家族の項を参照)。
クーベルタンは、この当時設立されたイエズス会系の通学式中等学校である聖イグナチウス自由学園(Ecole libre Saint Ignace)に7年間通学した[注釈 1]。1880年に文学の、1881年には科学のバカロレアをそれぞれ取得した[3]。彼は両親の希望もあって[3]サン・シール陸軍士官学校に入学したが、半年で退学した[5]。当時の貴族の振る舞いとして実業に関わることを許されなかった彼は、父の希望を渋々聞き入れて⾃由政治科学学院に入学した[注釈 2]。この間、彼は何度かイギリスへ渡航し、特にラグビー校を訪問して強い感銘を受け[8]、スポーツに関わるようになった。英国パブリックスクールの教育に興味を持ち、ワーテルローの戦いでイギリスがフランスに勝ったのは、パブリックスクールの心身ともに鍛える教育の成果との記述を残している。
近代オリンピックの父
[編集]歴史書のオリュンピアの祭典の記述に感銘を受け、「ルネッサンス・オリンピック」の演説の中で近代オリンピックを提唱した。賛同者によって国際オリンピック委員会(仏: CIO、英: IOC)が設立され、1896年のアテネオリンピックの開催へとつながった。
1912年、第5回ストックホルム大会の芸術競技文学部門で、クーベルタンはジョルジュ・オロー(Georges HOHROD)[注釈 3]とM.エシュバッハ(M.Eschbach)という筆名を用いて[9][10]『オド・オ・スポール(Ode au Sport、スポーツ賛歌の意)』と題されたドイツ語・フランス語の詩[11]をエントリーした。この作品は金メダルを獲得した。IOCは作品とメダルの帰属を公式にクーベルタンのものとしている[11]が、筆名を使うだけでなくドイツからのエントリーとしていたため、メダル受賞者の国籍はドイツのままとなっている[12]。
また、彼の考案・提唱によって近代五種競技が1912年のストックホルムオリンピックから種目に採用された。
役職
[編集]国際オリンピック委員会事務局長、第2代国際オリンピック委員会会長などを務め、近代オリンピックのシンボルである五輪のマークも考案した。クーベルタンは、1914年6月17日、パリで開催されたオリンピック会議で五輪マークと旗を提示し、それらはIOCによって正式に採用された[13]。
クーベルタン男爵を始めとして、国際オリンピック委員会の設立時のメンバーであったアンプティル男爵、及び、初代イギリスオリンピック委員会会長のデスボロー男爵は、フリーメイソンリーの会員である。
発言
[編集]「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」(フランス語: L'important, c'est de participer、直訳:重要なのは、参加することである)の言葉が有名だが、実はこの言葉は彼の考え出したものではない。この言葉は聖公会のペンシルベニア大主教であるエセルバート・タルボット(Ethelbert Talbot)が1908年のロンドンオリンピックの際にアメリカの選手たちに対して語った言葉である。
1908年のロンドン大会が開催された当時、アメリカとイギリスは犬猿の仲となっており、アメリカの選手団はロンドンに来てから色々な嫌がらせを受けた。それで気の滅入ってしまったアメリカ選手団が気分転換にセント・ポール大聖堂の聖餐式に出かけたところ、この大聖堂で説教を受けて、大いに勇気づけられた。この時の出来事とセリフが伝わり感銘を受けたクーベルタン男爵が、各国のオリンピック関係者を招いての晩餐会の席上でのスピーチで引用して演説したところ、たちまちこのセリフが“クーベルタン男爵の演説”として有名になり世界に広まってしまった、というのが真相である。しかし、クーベルタン男爵は実際に本人が考え出したセリフとしてその席で以下のように語った。
自己を知る、自己を律する、自己に打ち克つ、これこそがアスリートの義務であり、最も大切なことである — ピエール・ド・クーベルタン、1908年ロンドン大会
そのほかにも以下の言葉を残している。
オリンピックを復興し、世界中の若者たちに幸福と友好に満ちた出会いの場を提供しなければならないのです。みなさん、漕手たちを、走者たちを、そして剣士たちを海の向こうに送り出しましょう。彼らは平和の使者になるのです。 — ピエール・ド・クーベルタン、L'Athlétisme, son rōle et son histoire. La Revue Athletique. 2e année. no 4. 1891[14]
遺書
[編集]オリンピック発祥の地に自らの心臓を埋葬するようにと遺書に書き、亡くなった後の1938年3月にギリシャのオリンピアで埋葬式が行われ遺書の通り心臓が埋葬された[14][15]。
批判
[編集]クーベルタンは女性のスポーツや女性スポーツの世界大会に反対しており、「非現実的で、面白くもない。不格好であり、不適切だといっても過言ではない」と述べていた[16][17][18]。また、女性がスポーツの競技大会に出場することに賛成せず、女性がスポーツを行うことによって見せ物になり注目を集めるべきではないとも語り、オリンピックにおける女性の役割は、勝者へ栄冠を与えることであるべきだと述べていた[16][19]。
フランスの五輪アカデミー会長からは、女性参加に対するクーベルタン男爵の視点への社会的批判が、近代五輪の発祥地であるフランスの五輪教育で、男爵を取り上げにくいという状況を生んでいると指摘されている[19]。
クーベルタンはナチスドイツのアドルフ・ヒトラーによってプロパガンダとして利用されたベルリンオリンピックを称賛している[20]。またこの発言について、トーマス・バッハは擁護しており、2024年6月に行われたソルボンヌ大学で行われた式典にて、全ての人間は、その時代背景においてのみ評価される権利があり、また、彼の遺産を未来に引き継ぐことを誇りに思えるとコメントしている[20]。
2024年パリオリンピック開催期間中に新宿アルタ前で行われたデモにて、デモの参加者から、五輪を支えるイデオロギーは、クーベルタンの能力主義、人種主義、競争主義、性差別主義、国家主義、エリート主義であると指摘・批判されている[21]。
顕彰
[編集]家族
[編集]父方のフレディ(Fredy)家は1400年以前にイタリアからパリに移住したと考えられている[22]。ラオコーン像をローマ教皇ユリウス2世に献上したフェリーチェ・ディ・フレディ[23]は血縁関係にあるとされる[24]。ルイ11世の時代に貴族に叙されたことが記録されており、フランス革命を経てルイ18世の治世で世襲男爵となった[22]。父シャルル=ルイ・ド・クーベルタンは画家であり、その業績でレジオンドヌール勲章(シュバリエ)を受章している[25]。
母方のジゴー家は古くはヴァイキングの王ロロに遡るとされる[2]。ルイ15世の治世で文官を務め、クリズノワの領主権を得た。ルイ18世の時代にはクーベルタンの祖父にあたるエチエンヌ=シャルル・ジゴーが国民軍の上級副官となり、世襲男爵の地位を得た[26]。
クーベルタンには3人の兄姉がいた。長兄ポール(1847年 - 1933年)[25]は教皇ズアーブ兵、次兄アルベール(1848年 - 1913年)[25]はフランス正規軍大佐を務めた[27]。姉マリー(1855年 - 1942年)を含め、みなクーベルタンとはかなり年が離れていた[2]。
関連作品
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ↑ IOC.
- 1 2 3 Muller 2000, p. 23.
- 1 2 3 Durry 2021, p. 10.
- ↑ マカルーン 1988, p. 83.
- ↑ マカルーン 1988, pp. 97–98.
- ↑ Durry 2021, p. 11.
- ↑ マカルーン 1988, p. 125.
- ↑ マカルーン 1988, p. 123.
- 1 2 Durry 2021, p. 54.
- ↑ 大野益弘「オリンピックの「芸術競技」―ヒトラーのオリンピックと芸術―」『昭和のくらし研究』第17号、昭和館、2019年3月、57頁。
- 1 2 HOHROD, Goerges; Eshbach, M. (1912). Ode au Sport. Coubertin, Pierre de. International Olympic Committee
- ↑ “Stockholm 1912 Athletes” (英語). International Olympic Committee. 2026年1月19日閲覧。
- ↑ “The Olympic flag”. International Olympic Committee.. 2025年6月24日閲覧。
- 1 2 3 日本放送協会. “「平和の祭典」、大いなる矛盾 - 映像の世紀バタフライエフェクト”. 映像の世紀バタフライエフェクト - NHK. 2024年7月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年7月25日閲覧。
- ↑ “クーベルタンとオリンピズム|オリンピックを知る|JOC - 日本オリンピック委員会”. JOC - 日本オリンピック委員会. 2024年7月25日閲覧。
- 1 2 “Les femmes aux Jeux Olympiques”. digital.la84.org. 2024年7月30日閲覧。
- ↑ “クーベルタンの女性差別に挑んだアリス・ミリア ジェンダー平等精神、パリ五輪で開花”. GLOBE+. 2024年8月7日閲覧。
- ↑ “【オリ・パラ今昔ものがたり】オリンピックは女性に優しくなかった”. 日本財団ジャーナル (2021年3月17日). 2021年3月17日閲覧。
- 1 2 “クーベルタン男爵の「人気度」は?…フランス社会の冷ややかな視線”. 読売新聞オンライン. 2024年6月11日閲覧。
- 1 2 “クーベルタン男爵の光と影=表に出ない「近代五輪の父」―花の都、熱狂間近・パリ五輪(中)”. 時事通信ニュース. 2024年7月16日閲覧。
- ↑ “パリ五輪に世界各地で反対デモ 「人権侵害、環境破壊の五輪は廃止を!」”. 週刊金曜日. 2024年8月16日閲覧。
- 1 2 マカルーン 1988, p. 36.
- ↑ “Laocoön” (英語). Galleria degli Uffizi. 2026年1月16日閲覧。
- ↑ マカルーン 1988, p. 20.
- 1 2 3 Yvan de Navacelle de Coubertin. “The de Coubertin family” (英語). The Comité Internationale Pierre de Coubertin. 2026年1月16日閲覧。
- ↑ マカルーン 1988, p. 39.
- ↑ マカルーン 1988, p. 96.
参考文献
[編集]- ジョン・J・マカルーン 著、柴田克幸・菅原克也 訳『オリンピックと近代:評伝クーベルタン』平凡社、1988年8月。ISBN 4-582-82366-1。NDLJP:13296923。
- “Pierre de Coubertin: Visionary and Founder of the Modern Olympics” (英語). International Olympics Committee. 2026年1月16日閲覧。
- Norbert Müller, ed (2000) (英語). Olympism: Selected Writings. International Olympic Committee. ISBN 92-91490660
- ジャン・デュリー 著、シュルモリ国岡なつみ 訳『真実のピエール・ド・クーベルタン』フランス・ピエール・ド・クーベルタン委員会、2021年7月。
関連項目
[編集]| その他の役職 | ||
|---|---|---|
| 先代 |
第2代:1896 - 1925 |
次代 |
| 先代 (創設) |
初代:1924 |
次代 |