居合術

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居合術
いあいじゅつ
1690年刊 人倫訓蒙図彙7巻「いあいとりて」
1690年刊 人倫訓蒙図彙7巻「いあいとりて」
別名 抜刀術、抜合、居相、鞘の内、抜剣
使用武器 日本刀
発生国 日本の旗 日本
発生年 中世?
創始者 林崎甚助ほか
源流 剣術柔術
流派 多数
派生種目 居合道抜刀道
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居合術(いあいじゅつ)、もしくは居合(いあい)、抜刀術(ばっとうじゅつ)とは、日本刀打刀とは限らない)をに収めた状態で帯刀し、鞘から抜き放つ動作で一撃を加えるか相手の攻撃を受け流し、二の太刀で相手にとどめを刺す形、技術を中心に構成された武術である。

抜合居相鞘の内抜剣などと呼ばれることもある。日本での武芸十八般では抜刀術の名で数えられている。

概説[編集]

もともと居合(居相)とは、刀を抜く技術に限らず、座って行う技の事を指している(「居合わす」という意味も含む)[1]居合が抜刀術の意味として使われる事となったのは、多くの抜刀術(居合)の流派が座った状態での抜刀技術を重視していたためとも言われる[2]。そのため流派によっては、とは座っているという意味で、立って行うものは立合であると説明している場合もある[2]

日本武術の基点は立居振舞い、その中でも「居る」ということ、居方自体が、日常の体の使い方から転換が求められる。礼法や弓術の座射、柔術の座捕りなど、どれも手足の動きを制限することによって、日本武術は末端ではなく体幹の使い方を発展させてきた。居合はその典型例である。

詳説[編集]

刀を抜くと同時に相手に切り付ける/攻撃を受け止める技術は、武器として刀が使用されていた以上、咄嗟の行為として古くからある程度自然に存在していたと考えられており、その起源は決して明らかでない。

一部古い流派に例外は見られるものの、一般に『本朝武芸小伝』をはじめとする多くの諸書では、室町時代末の林崎甚助が、武芸としての抜刀=「居合」を創始した人物として伝えている[2]

林崎新夢想流居合の伝書

林崎甚助直伝の術技は

弥和羅(やわら、柔術)と兵法(剣術)との間今一段剣術有る可しと工夫して、刀を鞘より抜くと打つとの間髪を入れざる事を仕出し、是を居合と号して三の刀を以て、敵の九寸五の小刀にて突く前を切止る修業也
新田宮流『所存之巻』
腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思義之極意一國一人之相傳也
無双直伝英信流『居合根源之巻』

とされ、同様の内容の伝書は、林崎甚助を開祖とする諸流で確認されている。

つまり、両者互いに極めて近い距離に座しているときに、短刀を持った極めて有利な相手に対して、自身は鞘に収まった極めて不利な長刀を用いて、如何に勝つか、という逆説的な発想から居合が生まれたとされており、決してその技術自体を実戦で使用することは想定していないものであった(理合を学ぶ方便)。大刀を帯びて座るということは、かつての日常生活において非現実的であったにも関わらず、居合において、座しての技法が大きな意味を持っていたのは、この考え方に基づくものである。なお林崎甚助を祖とする現存流派・林崎新夢想流では、三尺の長刀を使用し間近に座した相手が小太刀や短刀で突いてくるという、原始的な想定を未だに現在まで伝えている。

また一方で

干戈治りて年久しければ、治世の風俗につれて、兵法の穿鑿穏便の事になれり、斯に一法をまふけて居合と名付、諸人平常の嗜として、しかも治乱兼備の妙術也
『居合相傳印可巻聞書』
治世不時ノ変ニ應ズル剣術名付テ居合ト云
『居合相傳許之巻』

と記されているように、常に帯刀する武士の文化から派生した、平時の襲撃から身を守る護身術としても居合の技術は重視された[2]。一般的な長さの刀を使用し、立った状態での技を主体とする、あるいは室内戦に応ずるような、現実的な想定の形も多くの流派で見受けられた。特に林崎系以外の流派でこの傾向は強いが、林崎系においてもこの傾向は見られ、実際、前述のような三尺の長刀を使用する流派は、江戸時代の間に多数派ではなくなっていった。

いずれにせよ、世界中に日本刀と同じような構造の刀は数多く存在していたにも関わらず(刀#主な刀の種類を参照)、ただ刀を"抜いて""斬り下ろして""納める"のみの技術が高度な武芸として成立している例は、他に類を見ない。

なお一般に、あるいは居合道以外の武道家ですら「居合抜き」と呼ぶことがあるが、これは長い刀を鞘から抜いてみせたり、刀を素早く抜き野菜や果物などを切断し、素早く納刀してみせる大道芸のことである。「居合切り」という名称もまた、基本的には何かモノを抜き打ちに切断する大道芸の意で使われる。

内容[編集]

使用する道具[編集]

日本刀居合刀[注 1]角帯などが一般的である。衣服については、演武時には紋付が着用されることが多いが、稽古に関しては流派によって独自の稽古着があるということは少なく、市販の剣道着や居合道着など様々なものが使用されている。

大刀のみの一本差しが多いが、大小二本差しで行う流派も多少見られる。なお"武士の正装は二本差しであるから、居合は本来二本差しで稽古するのが正しい"というのは絶対的な理論ではなく、先述したように、稽古は理合を学ぶ方便でもあり、世相的・文化的な現実性は考慮されない場合が少なくない。

居合は刀を抜くという技法を中心とする武術であって、刀の扱いに慣れ、基本的な刀の操法とその為の所作を身につけなければならず、これは木刀竹刀では代替することのできない点である[2]。そのため、他武芸のように木製の武器を使用することは基本的にない。ただし一部流派では付き木刀、袋竹刀などを使用する。日本刀については、江戸時代から、稽古用に刃引きしてある刀を使用する場合があるほか、製の刀身で、また拵えも非常に質素かつ独特な、現代で言うそれとは外見的に異なる「居合刀」が各流派(各個人)で独自に製作され、使用されることも多かった(それにしても木刀や竹刀に比べて圧倒的に本物の日本刀に近い存在であったことは確かである)。由緒ある伝世刀や有名刀工の刀は、貴重であるとして、使用しないことが多い。また刀身の長さは、#操法に記す理合から、右手のみではなるべく抜けないよう、身長に対して一般的な長さ[注 2]もしくはそれ以上の長さのものを使用する流派が多く、短いものを使用する流派は古くから少数派となっている。

帯に関しては、伝書の挿絵などから、古来は多くの流派で、現代のように(また武士の正装のように)内帯の幅広な角帯に大刀を差して稽古していたのではなく、袴紐や、袴の上から巻き付けた三尺帯のような幅の狭い外帯・柔らかい外帯などに、大刀を差して稽古していたと考えられている。それは、鞘の可動域をより広げるためとも、甲冑姿に基づくものとも言われる。この作法は民弥流浅山一伝流無比流など一部流派(特に柔術が併伝された流派)に未だ伝承されている。なおこういった簡易的な方法で刀を差した場合、通常のように抜刀時以外のとき両手を下げていると、刀がその重さからずり落ちてしまう[注 3]ため、現存流派でも時折見られるような、稽古中常に左手で鞘を握っていた流派は、少なくなかったと思われる。また礼法の一部に、帯を慣らすために差した刀を上下左右に二振り三振りする作法が残っている流派もいくつかある。

下緒捌きについては、に固く結びつけるものや、袴紐に引っ掛けるもの、鞘の後ろに垂らしておくもの、鞘に巻き付けておくものなどがあるが、古い伝書では後者2種類の捌き方が記載・描写されていることが多い。

稽古方法[編集]

影山流抜剣と「居合中腰台」

先に述べたように、林崎甚助が創始した神夢想林崎流に始まる原始的な居合では、相手を置いて稽古する形式であった。ただしその内容を紐解いてみると、剣術のように仕太刀打太刀が相互に激しく攻防するようなものでは決してなく、むしろ打太刀側は置物のようにほとんど動ずることがない。そもそも居合修行における最大の眼目は、形として刀を正しく抜けるようになることであるため、相手との積極的な攻防など必要のないものとも言え、実際に「居合台」などと言って、座した人体を模したような練習台を用いる流派は当時複数存在した。こうしたところから、居合には当初より、一人で習いを繰り返す独稽古のようなものが存在し、重んじられていたことは十分に考えられる[2]

また戦乱を離れた時代にあっては、真剣を扱う機会も減り、剣術においても木刀や竹刀による稽古法が中心となってくる。こうした状況において、基本的な刀の操法を身につけることに始まる居合は、治世の武士にとっての嗜という性格を帯びており、このようなところに、一人で行なう居合の意義があったと言える[2]

斬撃における発声は、多くの流派で行われている。抜き付けの際に発する流派は少なく、多くは二の太刀で斬り下ろす・突く際に声を発する。「エィ、ヤァ、トォ」「イエィ」「ハッ」といったものや、中には「イアイ」と言うものもある。ただし「無声は有声に勝る」として、最初から声を発しない、または習熟するに従って発声を無くす流派もある[3]。あるいはその逆もあり、技に慣れてきて動作が速くなると発声する流派もある。発声する意味・理合は、剣術など他芸に同じである。

操法[編集]

「福岡の市」(『一遍聖絵』、1299年)より。一遍と対峙する3人の従者のうち、左2人の刀と手元に注目。一番左の人物は刃を下にし腰を屈めて下から抜かんとしているが、中央の人物は刃を上にし立ち姿のまま上から抜かんとしている。どちらも太刀拵えであるが、後者は打刀の抜き方である。

抜刀が古来から存在していた技術と仮定した場合、そもそも日本刀には太刀打刀の様式があったため、各々でその抜刀操法は大きく異なってくる。太刀の場合、刃を下にして吊るす(「佩く」という)ため、例として薬丸自顕流初実剣理方一流の抜き付けに見られるような、逆袈裟あるいは真っ向に下から斬りあげるものが主流であったとされる[2]

一方で打刀の場合、刃を上にして腰帯に差し込むため、鞘の可動域は広がり、従来の逆袈裟などのほか、真っ向、袈裟、横一文字、柄当て、柄打ちなど、抜き付け(初手)のバリエーションがかなり増える。この可動域の広さは、居合の発展に大きく寄与したと考えられている[2]

林崎甚助自身がどのような様式の刀を使用していたかは定かでないが[注 4]、前述した原始的な形態を残している流派・林崎新夢想流や、同じく原始的な形態を伝えていたかつての田宮流の伝書などでは、打刀の長刀が使用されている。なお香取神道流[注 5]立身流などの林崎甚助誕生以前の流派でも居合は含まれているが、同じく打刀が用いられている。

詳細な操法については、左半身を中心に身体全体を十分に使った鞘引きを行うことで、動作を短縮しながらかつ斬撃力を高め、切先のリーチも伸ばすことができる。そのため右手のみで抜くことは、ほぼ全ての居合流派において禁忌となっている(小手先よりも身体全体を使った動きの方が優れているという理論は、なにも居合に限った話ではない)。また鞘引きの時点で刀が帯から前方や上方などに出ていればいる程、その分右手で抜く動作が短縮できるため、柄に手をかける際に刀を前に押し出したり、最初から多少刀を前方に構えておく[注 6]流派が多い。

鞘離れの瞬間のスピードや威力がカタパルト(またはデコピン)の理論で説明されることがあるが、それは誤りである。切先を鞘の入口(鯉口)に引っ掛け、右手首を返して物理的に刀を弾き出すその理論では、斬撃力が低減することはおろか、指を負傷したり、鞘を傷めることにも繋がる。実際、抜刀する際に音(刃や切先が鞘に当たる音。「鳴り」という)を出すことは多くの流派で禁忌となっている。また納刀についても、流派によっては抜刀と同じ(逆再生)であると説いているほどで、右手のみで納刀する、音を出して納刀することは同様に禁忌となっている。

初太刀の技法としては、現存する多くの流派で刃を横に寝かせた横一文字の抜き付けが基本となっており、続いて逆袈裟や真っ向、袈裟などが一般的である。また抜いた瞬間に左手を柄に移動させ、両手で切り込む刀法もよく見られる。そのほか、居合特有の特徴的な刀法として鞘の利用があり、抜き付けた瞬間(または後)に鞘を左手で操ることで、刀を持つ右手と動きを同調させたり、二の太刀の際に鞘が邪魔にならぬよう捌いたり、打突に使用したりすることがある。二の太刀の技法は、剣術に拠るところが大きく、流祖が学んでいた剣術流儀から取り入れられたり、併伝の剣術流儀から影響されるといった場合もある。

そのほか、相手に胸倉や柄等を掴まれた場合のや、帯刀はしているが、最後まで抜刀せずに対処する柔術と区別しがたい形、逆に相手と離れた状態で刀を抜いて切り合う、剣術のような形が居合の形として伝えている場合もある。居合の流派が柔術の流派に併伝された場合も多い。古武術家の黒田鉄山は、剣、柔、居合は、全て同じコンセプトの運動体系であり、単に得物や間合いが変わっただけだとしている。ほかにも居合の概念を、日本刀以外に用いる場合もある(分銅鎖参照)。

また居合の稽古や演武において一際目立つのが、刀を振った際の「風切り音」である。これはカルマン渦によるエオルス音であるが、この音が鳴ることによって刃筋が整っている証拠となるため、稽古においてはこの音も重要な意味を持つ(刀身にが彫られていることで、より音が鳴りやすくなる)[注 7]

座法[編集]

居合において、座法が重要かつ特徴的な位置付けとなっていることは、先に述べたとおりである。それは流派によって細かな作法の違いこそあるものの、基本的には共通した座法が伝承されており、時代の文化的側面が色濃く表れているため、歴史的価値も高い。

大まかに2種類の座法が多くの流派で共通して見られており、一つは「左ヲ蹉座シ右足ヲ夷居ス[6]る座り方、もう一つは正座となっている。

大久保利通の「立て膝」姿(写真自体は居合と関係なし)。

前者の座法は、左足を正座のように折り敷いて、右足を体育座りのように立てる、一般的には「立て膝」と呼ばれるものである。流派によってはこの座法を「居合膝」あるいは「居合腰」と呼んでいる場合がある。田宮流の伝書[7]によれば、「但シ是ハ戦国ノ遺風ニシテ、介者座ヨリ出タル法也」とあり、甲冑を着した場合の座法であると説かれている。この発祥由来についての信憑性は定かではないものの、立て膝が江戸時代初期より以前における一般的な座り方/武家作法であったことは確かである[8]

正座は、現代でも当たり前に見られる日本では一般的な座法であり、居合においても採用されている。ただしこの座法は歴史的に見れば浅く(詳細は「正座#歴史」を参照)、居合においても江戸時代中期以降の流派に多く採用されているものである。一部伝承によると、現在英信流に吸収されている大森流の流祖・大森六郎左衛門が初めて正座による居合を考案、自身が修めた流儀(新陰流とされる)に小笠原流礼法を取り入れ、創り上げたとしている。その理由については、時代の変化に適応させたという説以外に、両膝を畳むことから立て膝以上に足遣いが難しい座法であるためという説もある。なお頑なに正座を取り入れていない(正座居合を追加していない)流儀も見られる。

そのほか、片膝は地面に着きながらも両足の爪先を立てた姿勢(いわば片膝蹲踞のような姿勢)や胡座のような姿勢から抜刀する流派も伝書では複数見られるが、いずれも現在では、片手で数えられるほど少ない存在となっている。

居合の能力・性質[編集]

実用性[編集]

江戸時代から、本当に剣術に対抗できるのか、存在意義はあるのか、といった論争がある。剣術は表芸であり居合は隠し芸・秘術であったという論があるほか、剣術や柔術を一定以上習得していなければ居合を習うことができなかった稽古場藩校)もあったと言われている。あるいは逆に、剣術流儀・総合武術における単なる付属武芸(いわゆる外物・別伝)として扱われていた場合も多々ある[9]。"身に付けないよりは身に付けておいたほうが良い"と言ったものから、"居合は近間の飛び道具(のように恐ろしいもの)である"といった高い評価まで各種の論があり、前者は剣術流派側の書物から、後者は居合流派側の書物から散見される論である[9]

居合の実戦的理論としては以下のようなものが挙げられる。通常の考え方では、刀が鞘に収まっている状態は、抜いて構えている状態よりも圧倒的に不利である。しかしながら、刀を抜いた状態の相手と抜いていない状態のこちらが相対しているとき、こちらは相手が刀を抜いているために間合(距離感)を把握していながら、逆に相手はこちらの刀身が見えないために間合が掴みにくい。そのため機を狙えばこちらの方が有利な状況になってくる、という理論である。

中立的な居合の位置付けとしては

元来居合者、不レ抜以前を居合と謂、抜ては兵法也
『光玉集居合巻』

とされるように、抜くまでを重んずるのが居合であって、抜いた後は剣術であるという捉え方や、

先師曰、剣術を得たりとも、抜刀を不レ知ば、刀あれども持べき手なきが如し。〈中略〉譬ば、剣術は身体なり、抜刀は手足なり、其身体を捨て、手足のみにては勝べからず
『古今武芸得失論』

といった、 居合と剣術とは本来表裏一体で一つのものだという捉え方がある。近代以降には中山博道を中心とする剣道界において、竹刀を使う剣道のみでは本当の刀術は学べないという考え方から、「剣居一体」という言葉が作られ、剣道人は日本刀を扱う居合を並行して学んだ方が良いという傾向になった。

剣術家と居合術家の対決を描いた書物も、決して多くはないものの、古くから存在している。著名なものとして、撃剣叢談(1790年刊)に記された水鴎流堤宝山流の対決がある(詳細は「水鴎流#撃剣叢談」を参照)。

幕末の日本に滞在したデンマーク人エドゥアルド・スエンソンは、

日本刀を完璧に扱える日本人は、刀を抜いたその動作から一気に斬りつけ、相手がその動きを一瞬の間に気づいて避けない限り、敵の頭を二つに両断することができると言われている。当然のことながらこの武器は極度に危険な物と見なされ、刀を抜きそうな素振りを見せた時にはその場で直ちにそのサムライを殺しても正当防衛と認められる。一瞬でもためらえば、自分の方が犠牲になるのは明白だからである

と記しており、居合の技術は当時恐れられていたという。実際、生麦事件におけるチャールス・リチャードソンへの初太刀や追い討ちは居合であったほか、幕末の四大人斬りのうち、河上彦斎桐野利秋の二人が居合の名手であり、居合を暗殺術として使用していたとされる。また福沢諭吉の著書には、幕末当時浪人による辻斬りが横行しており、福澤自身も夜道を歩いているときに、前方から大男が殺気を放って近づいてきたときのことを

いよいよとなれば兼て少し居合の心得もあるから、如何して呉れようか。〈中略〉愈よ先方が抜掛れば背に腹は換えられぬ。此方も抜て先を取らねばならん
福翁自伝

と、両者互いに居合の機会をうかがう探り合いの状態であったと記している(なおこの出来事は結局両者の物怖じから、すれ違いざまにお互い一目散に逃げたという笑い話になっている)。

ほかにも薩摩藩に伝わるところによると、

殊に薩摩藩士は他藩に勝れて居合の術を習ふ事の流行せしより最も辻斬の妙を極め當時薩摩の辻斬と云へば劔道を心得たる者さへ怖れたる程なり
村井弦斎福良竹亭共編『西郷隆盛一代記:繪入通俗(甲)』[10]

とある(なおこの話の続きには、偶然辻斬りに遭遇した斎藤弥九郎がその薩摩藩士の居合を外し、ねじ伏せたとも記されている)。

このように、不意打ちとしての居合の実用性の高さを示す事例は多数見られる。

神秘性[編集]

居合には、前述したように圧倒的に不利な状況からの立場の逆転という、一種のトリック奇術的な要素が含まれていた。そのため、居合に対して当時「何か不思議な術」という印象が強かったことは否定できず[11]、それは香具師が居合に目を付けたことにも関連づけられる。

林崎甚助に関する言い伝えには、「刀を抜いて人を斬るに、傍えの人にはただ鍔鳴りの音だけが聞えて、鞘を出入りする刃の色は見えなかったけれど、相手の首は既に下に落ちていた」というような逸話がある[12]。また新田宮流の伝書『所存之巻』には、山下又兵衛という人物が江戸通町で無礼討ちとして町人を抜き打ち袈裟に斬った際、抜刀と納刀が一調子で、他人にはそれが見えなかったと記載されている[11]。現在でも小説漫画映画において、居合に対してそういった神秘性を求める大衆心理は消えていない。

大東流合気柔術の創始者武田惣角は、脇差で「刃鳴り」を見せた。武田惣角一代記に居合の先生の記述がある。調査の結果、生家の隣の会津藩士・御供番佐藤金右衛門が武芸十八般、居合・御式内の柔術を教えた。

芸術性[編集]

前項の神秘性にも関連する事柄であるが、居合においては、その芸術性に関する考察がなされることがある。

まず日本刀を扱う武術という点である。古来は神器魔除けとされ、近世になると"武士の魂"となり、また近年では"世界で最も美しい武器"とも評されるようになった日本刀を、実際に稽古道具として普段から使用する武術は居合のほか存在せず、その心理効果・視覚効果は芸術性に大きく寄与すると考えられている[13]

次に静から動への著しい転換がある。居合では"生死を鞘離れの一瞬にかける"と言われるように、座した状態や普通に歩いている状態から素早く抜刀することが求められる。この構えのない状態から瞬時に攻撃・守備に展開する、静から動への爆発的な転換の様子は、技の切れ味を助長させる効果がある[13][14]

それに加えて、残心(血振り)の作法がある。これは、日本武術では武芸の種類に関わらず一貫して見られる作法であり、技を繰り出した後の余韻のことであるが、居合においては、特に顕著なものとなっている[13]。それは、納刀という他にはない余分な動作が含まれているほか、多くが弓術などと同様に一人稽古であるために、残心に対して時間配分が長く取られる場合が多いためである。この時間配分の長さが、技終わりの動から静へと復す様子を如実に視覚化させ、前述の静から動への転換と併せて、「静→動→静」という形全体のコントラストを向上させる構造となっている[14]

精神性[編集]

居合とは 人に切られず人切らず 己を責めて平らかな道
林崎系居合の秘歌

居合には「鞘の中の勝(鞘の内)」という理合があり、"刀を抜かずして勝つ"という意味を持つ。修行によって磨き上げた百錬不屈の心魂をもってすれば、自然と敵を威圧できるという精神論で説明される場合もあるが、技術論としては、対手の攻撃は当たらずこちらは切れる角度と距離を作る対処を追求していった結果、対手側がどうシミュレートしても返し技を受けることが分かるようになり手が出せなくなる状態を指す。この時点では、こちらは未だ刀が鞘に収まっている状態である。武士の世界では、刀を抜くこと自体が自他どちらかの死を意味する重い行為であったため、そもそも剣術となる以前の刀を抜かないことを極意とする居合は、殺人剣ではなく活人剣として、"武道の真髄を具現化したもの"、あるいは"剣術中の精髄"とも言われることがある[15]

静坐した状態から見えない敵()に対して気を集中させ、刀を抜き納めするその稽古姿から、居合は、坐禅に対して"動く=動禅"と称されることもある。また、主として独稽古で充分その用が足りるほか、室内という必要最小限の限られた空間で日本刀一本と帯[注 8]さえあればほかに何も必要としないため、ミニマリズムという観点からも禅の影響を強く受けた武術である。

幕末から明治にかけては、歴史上の著名な人物の中に居合に魅せられた者が少なからずおり、井伊直弼山内容堂板垣退助、福沢諭吉などが知られている。大名から下級武士までその地位は様々であるが、いずれの人物も居合稽古の眼目としては、殺人術というよりも求道の面が色濃く、中でも福澤の居合に関するエピソードは、その精神修養性を如実に表している(詳細は「福沢諭吉#居合の達人」を参照)。

居合修行・伝承における障害[編集]

居合は、相手との物理的な攻防が基本的にないため、形の動きにある程度慣れたところで、もはや修得できたとまで思い込み、その時点で満足してしまいやすい節がある。特に現代では、その「動きに慣れた」というのが、動作をただ表面的になぞっただけ(右手のみで抜く、筋力のみで動くなど)であったりと、術として根本的に成立していないような場合も多く、それは形骸化の大きな要因ともなっている。

中山博道は、居合修行者が陥りやすい慢心驕心について、以下のように述べている。

居合自体は一術と雖も対者を予想しない形はないが、普通に於いては一人術の如く主客共に自然に思いがちであり、術も簡単である様考えられ、そこに安易感が生じ、只抜き切り差し納めが練れて三、四十本の本数を覚えた程度で、これが居合だとする考え方が多く、しかも一人での修行のため、優劣というか勝敗を目的にしていないいわゆる競争的刺激がない故、一寸ばかり慣れてくると、はや一角の器用者然として己れの刀法をと慢じないまでも、其れに近い考えになる傾きが非常に多い
『新装版 中山博道剣道口述集』[16]

また一方では、形の多くが「抜刀して二の太刀で斬り下ろす」という、他芸に比べて非常にシンプルな構造となっているため、素人が一から形を創作することが他芸に比べてさほど難しくなく(ただし内容のない表面的な動きのみに留まるが)、また前述の神秘性や芸術性の要素からもわかるように、速技や長めの残心(血振り)などその性質上、派手な動きを求める/創作するには、居合は格好の標的となっている。

そのため、新興流派(あるいは捏造流派)はこぞって居合を取り入れる傾向にあり、もはや取り入れるどころか、流儀の主軸となっている場合も多い。中には単なる創作のみに留まらず、実在する居合流派から一部あるいはほとんどの動作(簡単な動作や個性的で見栄えのする動作のみ)を表面的に盗み、それを稽古料金を徴収して教授しているような団体も存在する。

ただしこの傾向は決して現代になって始まったものではなく、江戸時代では、見せ物として行われた居合抜きや居合切りが町人の間で流行したことから、それが本来の「武術としての居合」と混同され、当時の居合術家たちは眉をひそめていたと言われる。また落ちぶれた武士の中には、学んでいた本来の居合技術を転用し、見せ物として居合抜きや居合切りを披露することで、町人から金銭を取るような者もいたという。

流派[編集]

居合専門の流派に加え、総合武術として居合が含まれている流派も記載。現存するものを中心として、現時点で失伝しているものも少なからず記載している。

林崎系[編集]

林崎系以外[編集]

明治以降に創始された流派[編集]

居合道・抜刀道との相違[編集]

居合道

本来「居合道」は、「剣術/剣道」などに同じく、「居合術」と同意義の語として創られたものであったが、1956年(昭和31年)に全日本居合道連盟刀法が、1969年(昭和44年)に全日本剣道連盟居合が制定されて以降、これらの型を演武し、技の正確さで勝敗を決定する現代武道の語として定義された。

居合道では、居合道連盟(複数あり)に加盟している「居合術」流派が「古流」と称され、前述のような指定された型と並行して学ばれることがほとんどである。その影響から、ほとんどの連盟でその名が見られる無双直伝英信流夢想神伝流といった流派では、未だに「居合術」と「居合道」の境界が曖昧となっている。またそれ故に、どこの居合道連盟にも加盟せず、居合道と全く関連性を持たない流派を、狭義に「居合術」流派とすることもある。

抜刀道

抜刀道は、試し斬りを競技化した現代武道であり、居合術の別称である「抜刀術」から着想を得た名称と考えられている。ただし、本来居合術と試し斬りは全く異なる分野であり、試し斬りは決して抜刀すること自体に重要な意味を持っているわけではない。また江戸時代の居合術流派に試し斬りが稽古として積極的に行われていたという記録はなく、両者の融合は、明治時代の戸山流の影響ともされる。

そもそも剣術や居合術の世界では、「刃が届いてかすりさえすれば良い(戦闘不能にできる)」という考え方であるため、切り口の良し悪しは二の次であった(ただし居合術では、多くの流派で素振りの動作が形の中に取り入れられており、その点では試し斬りと共通点があるとも言える)。

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 「居合刀」は、居合などの稽古用の刀であり、比較的丈夫(材質にもよる)にできている。「模擬刀(模造刀)」は観賞用であるため、強度に乏しく、稽古などに用いることはない。勿論どちらも刃は入っていない。
  2. ^ 最もポピュラーな測り方としては、直立した姿勢で抜き身の刀を右手に持ち(右手は鍔近くの柄を握る)、その手を真下に下げたとき、刀の切先が地面に着くか着かないか程度の長さが丁度良いと言われる。
  3. ^ 座した姿勢はともかく、立った姿勢では袴紐などに刀を差していると非常に不安定である。
  4. ^ 山形県最上郡大蔵村にある禅寺「東漸院」には、林崎甚助所有と伝わる刀三尺二寸三分が現存し、文化財に指定されているが[4]、一般公開はされていない。なお日本古武道協会が製作したビデオ『日本の古武道 林崎夢想流』に数秒ほどその外観を見ることができる。
  5. ^ ただし総合武術として、居合(抜刀術)がいつから流儀の内に存在していたのかは不明である。
  6. ^ この状態を一般に「閂差し」と言うが、「居合構え」と言うこともある。
  7. ^ 資料:「居合抜方を鍛錬して、兩手を以て八相に引つ冠ッて切り下ろせば、刀は空氣を切りて「キエーッ」と鳴る、若しを切りたる刀なれば此鳴聲一層高し、此鳴聲を術語に打込みと云ふ。右(前記)の如く、切り下ろす時に、打込み即ち鳴聲を發せしむることは、少しく鍛錬すれば、能く之を爲し得べしと雖も、抜付の場合に於て、此鳴聲を發せしむることに至りては、尤も至難の業なりとす、蓋し多年の鍛錬を以てして、始て能く抜付に於て、此鳴聲を發せしむることを得べし、其業此地位に到達して、其人は、始めて居合抜方の堂に入りしものなり」(小野清『徳川制度資料―昨夢瑣事』[5]
  8. ^ 前述したように本来は帯を使用せず袴紐に差すことが多かったほか、帯を使用するにしても、かつては常に身に着けていたものであり、また現代でも場合によってはベルトや下緒などで代用することが可能であるため、そういった意味では日本刀一本のみでも事足りる。稽古の空間としては、形によっては2-3畳程度あれば事足りる場合もあり、座しての技では天井の高ささえも必要としない。

出典[編集]

  1. ^ "goo辞書「居合」"デジタル大辞泉(小学館)。
  2. ^ a b c d e f g h i 和田哲也「居合の成立と技法的変遷に関する一考察」(1981, 武道学研究14-1, 筑波大学)p.27-33
  3. ^ "立身流に学ぶ ~礼法から術技へ~ (国際武道文化セミナー講義録)"立身流総本部公式サイト
  4. ^ 林崎夢想流居合術」日本古武道協会
  5. ^ 小野清『徳川制度資料―昨夢瑣事(影山流居合術)』, 六台館林平次郎刊, P. 36-37, 1928. )
  6. ^ 岡田敬直『居合師弟問答』(1671年)
  7. ^ 杉上清兵衛尉より杉山八左衛門『田宮真傳奥義集』(1814年)
  8. ^ "『麒麟がくる』の帰蝶の立膝は不作法じゃないって?正座の本来の意味がコワかった!"warakuweb
  9. ^ a b 和田哲也「伝書に見る居合と剣術の関係について」(1986, 武道学研究19-(1), 10-16, 香川医科大学)p.13-14
  10. ^ 1899年著、146頁
  11. ^ a b 甲野善紀『武道から武術へ: 失われた「術」を求めて』(2011年, 学研プラス)
  12. ^ 中原介山『日本武術神妙記(復刻版)』(平成28年、角川文庫)p.170
  13. ^ a b c 福井勇「居合道の芸術性について」(1976, 奈良大学紀要(5), 奈良大学)p.303-305
  14. ^ a b 湯浅晃, 大保木輝雄, 酒井利信『剣道専門分科会企画 講演会「武道の伝統性について考える」』(武道学研究, 2017年49巻3号, p.261-280)p.270-272
  15. ^ 黒田鉄山『居合術精義』(1991, 壮神社)p.24
  16. ^ 43頁。

参考文献[編集]

  • 甲野善紀黒田鉄山共著 『武術談議』 荘神社刊
  • 池月映 「武田惣角は大東流合気柔術の創始者」『歴史春秋』会津史学会 歴史春秋社 2021年

関連項目[編集]