鐘捲流
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| 鐘捲流 かねまきりゅう | |
|---|---|
| 使用武器 | 日本刀 |
| 発生国 |
|
| 発生年 | 戦国時代 |
| 創始者 | 鐘捲自斎 |
| 源流 | 中条流 |
| 公式サイト | 日本古武道協会 鐘捲流抜刀術 |
鐘捲流(かねまきりゅう、別名:外他流〈とだりゅう〉)は、流祖・鐘捲自斎が中条流を学んだ後に創始した武術の流儀。鐘捲流の伝書では鐘捲自斎の次代が伊藤一刀斎となっているものもある。
剣術をはじめ、小太刀等の技術を伝えていた。前橋藩、新発田藩などで伝承されていた。
仙台藩の系統が「鐘捲流抜刀術」として2019年には現存し、日本古武道協会に属する抜刀術の一流派として岡山の地で保存・伝承されている。
歴史
[編集]仙台藩伝
[編集]元亀・天正年間(1570年〜1590年代初頭)に越前(福井)の剣豪・鐘捲自斎(生没年不詳)によって創始された流派で、出羽国米沢出身の中村某が道統を継承した[1]。
慶長年間(1596年〜1615年)、中村家は仙台藩祖伊達政宗に迎えられて米沢から仙台に移住し、剣術指南役の傍ら歴代藩主の護衛などを任された。仙台藩の藩校・養賢堂の剣術師範などを務めた中村家七代・中村祥三(1831年生)の代に幕末を迎えた[1]。
明治維新後も、仙台を離れ関東に移った中村家八代・中村虎造が東京・千住町に道場を開くなどして伝承は続いていたが、1945年(昭和20年)5月、中村家九代・鐘捲流第十代の中村圭吾は道統を星島弘道(鐘捲流第十一代)に託して満州へ出陣し、戦死した[1]。
鐘捲流には組太刀三十五本、寝技(寝ているときに襲われた場合の技)五本、小太刀十五本、立技十五本が伝わっていたが、組太刀は一刀流に吸収され、寝技と小太刀は失伝し、立技十五本の抜刀術のみ残った。また、鐘捲流の伝書は預けていた菩提寺の火災によって焼失した[2]。
新発田藩伝
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
書籍『柔道五十年』によると、1894年(明治27年)頃から1896年(明治29年)まで、従来は関口流だった慶應義塾幼稚舎の柔術の師範に新潟県新発田の鐘捲流の渋谷という人物を招いた[3]。
系譜
[編集]仙台藩伝
[編集]- 流祖 鐘捲自斎
- 二代 中村某(出羽国米沢産)
- (三代 - 六代は不詳)
- 七代 中村荘之助
- 八代 中村祥三(1831年〈天保元年〉9月生[1])
- 九代 中村虎造[4](1866年〈慶応2年〉12月 - 1936年〈昭和11年〉6月[5])
- 十代 中村圭吾(1910年7月 - 1945年8月[1])
- 十一代 星島弘道(ほししま ひろみち、1917年2月21日生[10])
- 岡山県児島郡藤戸町(後の倉敷市藤戸町)に生まれる。星島家は土地の名家であり、祖父の星島寛(ゆたか)、父の星島昂一は藤戸村(藤戸町)の村長・町長を務めた。また叔父(父の実弟)に、実業家・政治家で1926年に日本初の民間天文台「倉敷天文台」を設立した原澄治がいる。戦後に吉田茂内閣の商工大臣や国務大臣、サンフランシスコ講和会議全権委員や衆議院議長を務めた星島二郎は遠縁にあたる。[11]
- 1940年、早稲田大学政経学部卒業。小学生時代から剣道を始めていたが、1943年5月、26歳のときに満洲の武道会の公開演武で中村圭吾の抜刀術に魅了され入門。以来、満洲・新京(長春)にあった中村圭吾宅に2年間毎日早朝に通い、抜刀術の稽古を受けた[9]。戦後はシベリア抑留を経て1949年12月に復員し、1950年より岡山電気軌道に奉職。1961年、鐘捲流抜刀術の保存振興のために門弟をとって稽古を始める。門弟の数は1980年代末までで延べ約40名を数えた[1]。1988年度、日本古武道協会より古武道功労者表彰。
- 十二代 楢原正士
脚注
[編集]- 1 2 3 4 5 6 7 日本古武道協会 1989 p.106
- ↑ 高原守 1991 p.35
- ↑ 老松信一「第一篇 柔道勃興時代 2 講道館の基礎時代 学校における講道館柔道の採用」『柔道五十年』時事通信社、日本、1955年10月10日、42頁。
- ↑ 『武芸流派大事典』(新人物往来社、1969年)や『剣道日本』1981年11月号など「中村寅蔵」と表記する文献もある。
- ↑ 『歴史研究』1995年9月号
- 1 2 『千住総覧』 pp.150-151
- 1 2 佐藤兵衛「剣道の想い出」『青森県剣道史』青森県剣道連盟、1984年、pp.1109-1118
- ↑ 『武芸流派大事典』新人物往来社、1969年、p.163、p.272
- 1 2 『剣道日本』1981年11月号、p.65
- ↑ 『人事興信録 第24版 下』人事興信所、1968年、ほ11
- ↑ 『彰邦原澄治翁』彰邦会、1969年、pp.1-2