中村天風

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中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 - 1968年12月1日)は日本の思想家実業家。日本初のヨーガ行者で、天風会を創始し心身統一法を広めた。本名は中村三郎(なかむらさぶろう)。

来歴[編集]

「玄洋社の豹」[編集]

1876年(明治9年)、大蔵省初代抄紙局長の中村祐興の息子として豊島郡王子村(現東京都北区王子)で出生[1]。父祐興は旧柳川藩士で、中村家は柳川藩藩主である立花家と遠縁にあたる。王子村や本郷で幼少を過ごした後、福岡市の親戚の家に預けられ、修猷館中学(現・修猷館高校)に入学。また立花家伝の六歳の時より家伝の随変流の修業を始める。随変流は立花宗茂を流祖とし[2]戦国時代に成立した流派で、剣術抜刀術をもつ。天風は後に随変流を極めることとなる。ちなみに、「天風」という号は天風が最も得意とした随変流抜刀術の「天風」(あまつかぜ)という型からとられたものである[1]

幼少期より官舎の近くに住んでいた英国人に語学を習い、修猷館ではオール英語の授業を行っていたため語学に堪能となり、また柔道部のエースとして文武両道の活躍をするが、練習試合に惨敗した熊本済々黌生に闇討ちされ、その復讐を行う過程で出刃包丁を抜いて飛びかかってきた生徒を刺殺してしまう[3]。この件で正当防衛は認められたものの、修猷館を退学となった。その後、1892年(明治25年)に玄洋社頭山満のもとに預けられる[4]

天風は玄洋社で頭角を現し、気性の荒さから「玄洋社の豹」と恐れられた[5]。16歳の時に頭山満の紹介で帝国陸軍の軍事探偵(諜報員)となり満州へ赴き、大連から遼東半島に潜入し錦州城九連城の偵察を行う[4]日露戦争が迫った1902年(明治35年)には再度満州に潜入し、松花江の鉄橋を爆破したり、仕込杖青竜刀を持った馬賊と斬り合いを演じるなどの活躍を見せ「人斬り天風」と呼ばれたという。1904年(明治37年)3月21日にはコサック兵に囚われ、銃殺刑に処せられるところであったが、すんでのところで部下に救出された[6] 。その後天風は様々な危険を乗り越え、無事目的地の大連に到着した。日露戦争に備えて参謀本部が放った軍事探偵は合わせて113名いたが、そのうち生きて大連に到着したのはわずか9名であった[6]

求道の日々[編集]

戦後は帝国陸軍で高等通訳官を務めていたが、1906年(明治39年)に奔馬性(結核の症例の中で、急速に症状が進むもの。現代では「急速進展例」と呼ばれる[7])の肺結核を発病。北里柴三郎の治療を受けたものの病状は思わしくなかった[6]。その後1909年(明治42年)に作家オリソン・スウェット・マーデン(en:Orison Swett Marden)の『如何にして希望を達し得るか』を読んで感銘を受け、病気のために弱くなった心を強くする方法を求めて、アメリカへ渡る決意をする。しかし、結核患者には渡航許可が下りなかったため、親交のあった孫文の親類に成りすまして密航する[8]

アメリカに渡った天風は、マーデンを訪ねたが、あまり相手にされず願いは果たせなかった[8]。その後、親戚筋にあたり、当時アメリカ公使館に勤めていた芳澤謙吉の勧めで、哲学者のカーリントン博士に面会したのち、華僑の学生に代わって授業に出席したのをきっかけにコロンビア大学に入学し[9]、自らの病の原因を尋ねて自律神経系の研究を行ったとされる。ヨーロッパではイギリスでH・アデントン・ブリュース博士(en:Addington Bruce)に面会したのち[9]フランスでは大女優サラ・ベルナールの家に居候したり、ドイツハンス・ドリーシュと面会するなど数々の著名人を訪ねるが、いずれも納得の行く答えを得ることができなかった[10]

こうして天風は、1911年5月25日に日本への帰路に就く[11]が、その途中経由地であったアレキサンドリアにてインドヨーガ聖人であるカリアッパ師と邂逅[12]。そのまま弟子入りし、ヒマラヤ第3の高峰カンチェンジュンガ山麓にあるゴーク村で2年半修行を行う[11]。この修行を通じて結核はすっかり治癒し、さらに悟りを得るに至った[13]

1913年にインドを立ち日本へ向かうが、その途上で孫文の起こした第2次辛亥革命に巻き込まれ、そのまま「中華民国最高顧問」として協力[13]。革命は挫折したものの、その謝礼として財産を得た。

実業界、そして導師へ[編集]

帰国後は時事新報の記者を務め、実業界に転身すると東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任し実業界で活躍していたが[13]1919年(大正8年)5月末のある日、頭山に代わって公演を行っている最中に突然感じるところがあり、頭山に相談した上で一週間の間に一切の社会的身分、財産を処分して6月8日に「統一哲医学会」を創設。街頭にて心身統一法を説き始める[11]。その後、本部を芝公園内においた[14]

その後統一哲医学会は発展し、政財界の実力者も数多く入会するようになった[14]1940年(昭和15年)には「統一哲医学会」を「天風会」に改称。1962年(昭和37年)3月には国の認可により「財団法人天風会」となった[14]1968年(昭和43年)12月1日に天風は92歳でこの世を去った。墓所は東京都文京区大塚の護国寺にある。2011年(平成23年)には内閣府認定の公益財団法人に移行した[14]

教え[編集]

クンバハカ
瓶に水を満たした状態という意味。肛門を締めて、肩の力を抜き肩を下げ、下腹に力を充実させる体勢[15]

中村天風の精神哲学は日本におけるニューエイジの先駆者ともいわれる[16]

主な著書[編集]

天風に師事した著名人[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 池田(1995):45ページ
  2. ^ 中村天風先生、2013年4月10日閲覧。
  3. ^ 池田(1995):47ページ
  4. ^ a b 池田(1995):48ページ
  5. ^ 池田(1995):54ページ
  6. ^ a b c 池田(1995):52ページ
  7. ^ 奔馬性結核、結核用語辞典(結核予防会ホームページ)、2013年4月10日閲覧。
  8. ^ a b 池田(1995):55ページ
  9. ^ a b 池田(1995):56-57ページ
  10. ^ 池田(1995):58-59ページ
  11. ^ a b c 池田(1995):63ページ
  12. ^ 池田(1995):60ページ
  13. ^ a b c 池田(1995):83-84ページ
  14. ^ a b c d 天風会(2013)
  15. ^ 池田光「中村天風 打たれ強く生きる100の言葉」38ページ。
  16. ^ 羽仁礼 著 『超常現象大事典―永久保存版』 成甲書房、2001年

参考文献[編集]

  • 池田光 『中村天風 君だって、ここまでやれる!』、三笠書房〈知的生き方文書〉、1995年、ISBN 4837907547
  • 財団法人天風会公式サイト(2013年4月10日閲覧。)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]