甲冑

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尻鞘を被せた太刀を佩く武士
侍の甲冑と陣羽織
具足を身に着け剣を構えた侍の写真。フェリーチェ・ベアトによる1860年代の撮影。

甲冑(かっちゅう)とは、胴部を守る、よろい)と、頭部を守る、かぶと)からなる武具。主として刀剣弓矢を用いた戦闘の際に武士が身につける日本の伝統的な防具である。

概要[編集]

甲冑の発祥は、唯一、『常陸国風土記』に記されており、日本刀の起源や剣術等の発祥も東北地方であることから推測して、東日本が発祥とされている[1]。『古事記』『日本書紀』にも記されているが、古墳時代には、古墳から発掘された遺物埴輪、日本の周囲の土俗品[要出典]から推すと、大陸に系譜をもつ札甲(挂甲とも)と、日本列島および朝鮮半島南部で発達した板甲(帯金式甲冑・短甲とも)が併用されたことがわかっている[注 1]

甲冑を着た場合には動きが制限されるため、介者剣法と呼ばれる剣術が考案された。

分類[編集]

  • 主要部分の物質による分類 - おおむね5種。鉄・金銅が通常であり、革、布帛および張貫は特殊である。
  • 重量による分類
  • 構成による分類 - 解体の可能・不可能による
  • 沿革による分類 - 旧式のものと新型のものとによる。旧式は「昔」を、新型は「当世」をそれぞれ冠する場合がある。
  • 新旧による分類 - 製作完了日から現存使用時までの時間の長短による。
  • 式法による分類 - 型式・様式の精粗にもとづく。
  • 外観による分類 - 外観、とくに色彩による。
  • 着用者による分類 - 身体の大小、身分・職分、老幼・性による。
  • 使用による分類 - 使用目的(儀礼の甲冑、着初の甲冑など)、使用法(忍の甲冑、著替の具足など)。

歴史[編集]

弥生時代[編集]

考古学の成果として、弥生時代では「組合式木甲」(前期末から中期中葉)と「刳抜式木甲」(前期末から古墳前期)といった木製甲があり、弥生前期末頃には半島系武器と共に甲冑の出現も確認される[1]

古墳時代[編集]

古墳時代には、古墳の出土品として「板甲」または「帯金式甲冑」と呼ばれる、帯状鉄板を革綴(かわとじ)ないし鋲留(びょうどめ)して組み立てる日本列島独自形態の甲が出現した。さらに古墳時代中頃からは、大陸の影響を受けた多量の小札(小鉄板)を紐で縅(おど)した「札甲」(胴丸式・裲襠式)が出現する[注 2][2]。なお、冑では衝角付冑眉庇付冑などがある[3]。札甲は、形態こそ異なるが、のちの大鎧(おおよろい)へとつながる可能性が指摘されている[4][注 3]

現在、上記のような古墳時代の甲について、板甲を「短甲」、札甲を「挂甲」と呼ぶことが一般化しているが、これは奈良時代などの文献史料に記された「短甲・挂甲」の名称を、古墳から出土する甲冑に便宜的に当てはめたもので、近年の研究で考古資料の甲冑形態と、元の言葉の意味する甲冑形態が大きく異なっている事が指摘され[6]、用語の使用法に問題があり改めるべきとの意見が出てきている[7]

奈良時代[編集]

奈良時代には史料に『短甲』『挂甲』と呼ばれる甲冑が現れる。『短甲』『挂甲』の語は、聖武天皇崩御77回忌にあたる天平勝宝8年6月21日(756年7月22日)に、光明皇太后が亡帝の遺品を東大寺に献納した際の目録『東大寺献物帳』に見え、「短甲10具・挂甲90領」が献納されたとある。また、平安時代の『延喜式』などにも記載が見られる。

実物が伝わっておらず、どのような形態・外観であったのかよく解っていない。ただし、宮崎隆旨らの文献記述の分析により、史料に見える「挂甲」「短甲」はともに「貫(縅紐)」を用いる製作法であることから両者とも小札甲であり、「挂甲」は脇盾を持つことから考古学にいう「裲襠式挂甲」を表し、「短甲」は縅紐の量の多さから「胴丸式挂甲」を表していると考えられている[8][9]

この他に、奈良時代中頃に遣唐使によって大陸から綿襖甲が持ち帰られ、各地の軍団にも導入される。

平安時代・中世[編集]

平安時代における武士の出現とともに大鎧という独自の甲冑がみられるようになる。

平安時代は中国()との交通が絶え、日本的な趣味が発揮されて、甲冑にも一大変化がもたらされた。それまでの騎射戦がほぼ完成されたため、大鎧の出現を見た。挂甲は儀礼的なものとして残り、綿襖甲はまったく廃れた。

したがって平安時代から鎌倉時代までを大鎧時代と言うこともできるが、なお大鎧(当時は鎧もしくは着長といった)に対して略的なものとして腹巻があり、これは歩兵の着用する上腹巻(のちにいう胴丸)、鎧下もしくは衣下に着込む最も短小な下腹巻(のちにいう腹当)の2つにわけられる。源平時代に日本の甲冑は最高度に発達し、荘重優美をきわめたが、遺品は多くない。文永・弘安の役ののち、騎射戦が白兵戦にうつろうとしたため、騎射からの要求で発達した大鎧は煩重のきらいがあり、ここにおいて軽快なものがもとめられ、雑兵が着用した胴丸に兜および袖をそえて将士も着するようになり、いっぽうで、腹当が進化した一種の腹巻も見られた。この腹巻は室町時代に最もおこなわれた。ようするに、室町時代は胴丸・腹巻併用時代と言うことができるが、の流行、鉄砲の伝来など室町時代末期の軍事上の変革にともなって甲冑は三たび変化を余儀なくされた。こうして戦国時代には当世具足が一世を風靡した。

近世・近代[編集]

日本の甲冑

しかし元和偃武、世は太平を謳歌し、このために実用的な当世具足は虚飾をくわえられるようになり、また学問的発達が過去の形式を復活させもしたが、多くは形式に堕した。甲冑の堕落時代であるが、文化文政以降、復活もやや成功を見て、形式もととのい、外観も鎌倉時代のそれに近づいた。幕末には革製の甲冑もつくられた。日本の甲冑はその後の武器の変遷や戦闘形式の変化により常に改良が加えられながらも一定の特徴を有していたが明治維新による武士階級の消滅や軍備の近代化にともない実用に供されることはなくなった。

現代[編集]

現代では古美術品工芸品的、歴史資料的性格をもっている。日本の甲冑は戦闘用の防具としては比較的装飾性が高い[注 4]。これは中世近世において武士が常に権力の中枢にあったことや、特に戦乱の無い江戸時代において一部の上級武士が象徴的に珍重したためであって、その時代の鍛鉄皮革工芸・金工組紐など様々な分野の技術を駆使して製作されているためである。その取り扱いにあたっては、素材が多種多様にわたる保管や、兜・胴を中心に各部分をつないで組み立てる構造上の理解とが必須である。

メディア[編集]

その他[編集]

  • 本来は、甲は身を護る「よろい」、冑は頭にかぶる「かぶと」であるが、甲を「かぶと」、冑を「よろい」と読む例もある。一般的には「鎧」、「兜」の字を使用することが多い。また体を守る装備が「十分に足りている」という意味で「具足」という表現も使われる。
  • 赤備えのように全体を塗装する例もある。
  • 元史』成宗本紀(フビライ・ハーンの孫の年代記)に「倭商有慶なる者が、貿易のため、慶元府に来て、金鎧を献上した」と記述があり、この頃には日本製の甲冑も輸出がなされていたとみられる[10][注 5]。中世では、大陸に限らず、日本製甲冑は、琉球[注 6]・北海道アイヌ[注 7]といった周囲の諸島にも伝わっている。これらの国々の鎧は日本製と比較して軽装である。
  • 北海道アイヌは和人から儀礼刀(アイヌ刀)を輸入していたが、鎧は「ハヨクペ」と呼ばれるのような外観の物を使用していた[12]。しかしユーカラに登場する英雄ポンヤウンペが身につける鎧「金の小袖、黒の縅(おどし)」など日本の甲冑のような外観として描写されており、ユーカラの成立時期や和人との交易品を考察する際に参考となっている。
  • 蝦夷は動物の皮で作った軽い鎧を使用していた。また「蝦夷に横流しされた綿で敵が綿冑(綿襖甲)を作っている」という記述があり[注 8]、重装甲の和人とは異なり軽騎兵だったことがうかがえる。

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 弥生時代や古墳時代など、大鎧出現以前の甲冑は、考古学用語としての慣習上「鎧」「兜」ではなく「甲」「冑」で表記される。
  2. ^ 裲襠式は、小札を紐で連接して構築した2枚の装甲板(札板)を肩上(わたがみ)で繋ぎ、胴の前後にサンドウィッチマンのようにかけて装着し、両脇は脇盾(わいだて)状の別部品の装甲で覆うタイプである。これに対し胴丸式は、小札を縅した札板を、胴に巻き付けるように一周させ、前方で引き合わせて装着するタイプである[2]
  3. ^ 縅(おどし)は鉄板に可動性を与えた連接法であり、綴(とじ)・鋲留(びょうどめ)は鉄板同士を完全に固定する連接法である[5]
  4. ^ 戦闘用のプレートアーマーは彫金や型押しによる小さな装飾のみで塗装されず、装飾は盾や兜、シュールコーであった。儀礼用のパレードアーマーには塗装や細かな彫刻が施されたものもある。
  5. ^ 元の甲冑が軽装であったため、重装の和式甲冑に興味を示したとも。
  6. ^ 李朝実録』の記述に、1456年正月に難風によって琉球諸島に漂流した朝鮮人が2月に保護され、首里城へ赴いた際、「日本製の鎧兜に身を固めた警備兵が待機していた」と記録される。
  7. ^ 『諏訪大明神畫詞』の渡党の記述に、「和国人に似ているが(中略)、男は甲冑を(略)、骨鏃に毒をぬり」と記され、蠣崎氏勝山館跡からも館内に鎧の飾り金具を作る工房があり、この館にはアイヌも住んでいたことが示唆されている[11]
  8. ^ 類聚三代格』巻19

出典[編集]

  1. ^ 橋本 2002.
  2. ^ a b 末永 1944.
  3. ^ 田中 2003.
  4. ^ 棟方 2012.
  5. ^ 阪口 2001, p. 35.
  6. ^ 宮崎 2006, pp. 6-18.
  7. ^ 橋本 2009, p. 27-30.
  8. ^ 宮崎 2006, pp. 13-15.
  9. ^ 橋本 2009, p. 28.
  10. ^ 筧 2001, p. 292.
  11. ^ 大石, 高良 & 高橋 2001, pp. 118-119.
  12. ^ 大石, 高良 & 高橋 2001, p. 75.

参考文献[編集]

  • 山上, 八郎『日本甲冑の新研究(上・下)』歴史図書社、1928年。
  • 山上, 八郎『日本甲冑の新研究(上・下)訂正版』飯倉書店、1942年。
  • 末永, 雅雄『日本上代の甲冑 増補版』創元社、1944年。NCID BN08451778
  • 阪口, 英毅「武具の種類と変遷」『季刊考古学』第76巻、雄山閣、2001年8月1日、 34-38頁、 ISSN 02885956
  • 宮崎, 隆旨「令制下の史料からみた短甲と挂甲の構造」『古代武器研究』第7巻、古代武器研究会、2006年12月28日、 6-18頁。
  • 橋本, 達也「古墳時代甲冑の形式名称-「短甲」・「挂甲」について-」『考古学ジャーナル』第581巻、ニューサイエンス社、2009年1月30日、 27-30頁、 ISSN 04541634

関連項目[編集]