甲冑

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具足を身に着け剣を構えた侍の写真。フェリーチェ・ベアトによる1860年代の撮影。

甲冑(かっちゅう)は、主として刀剣弓矢を用いた戦闘の際に兵士が身につける日本の伝統的な防具である。

概要[編集]

甲冑の発祥は、唯一、常陸国風土記に記されており、日本刀の起源や剣術等の発祥も東北地方であることから推測して、東日本が発祥とされている。古事記日本書紀にも記されているが、これに古墳から発掘された遺物、埴輪、ならびに日本の周囲の土俗品から推すと、北方系の札(さね)鎧と、南方系の板鎧が併用されたことがわかる。

弥生時代では「組合式木甲」(前期末から中期中葉)と「刳抜式木甲」(前期末から古墳前期)といった木製甲があり、弥生前期末頃には半島系武器と共に甲冑の出現も確認される[1]

現代では古美術品工芸品的、歴史資料的性格をもっており、写真のように展示される場合も多い(旧来住家住宅)。

古代には埴輪古墳の出土品に挂甲など大陸の影響の強い甲冑が見られるが、平安時代における武士の出現とともに大鎧(おおよろい)という独自の甲冑がみられるようになる。 平安時代は中国との交通が絶え、日本的な趣味が発揮されて、甲冑にも一大変化がもたらされた。 それまでの騎射戦がほぼ完成されたため、大鎧の出現を見た。 挂甲は儀礼的なものとして残り、綿甲はまったく廃れた。 したがって藤原時代から鎌倉時代までを大鎧時代と言うこともできるが、なお大鎧(当時は鎧もしくは着長といった)に対して略的なものとして腹巻があり、これは歩兵の着用する上腹巻(のちにいう胴丸)、鎧下もしくは衣下に着込む最も短小な下腹巻(のちにいう腹当)の2つにわけられる。源平時代に日本の甲冑は最高度に発達し、荘重優美をきわめたが、遺品は多くない。 文永弘安の役ののち、騎射戦が白兵戦にうつろうとしたため、騎射からの要求で発達した大鎧は煩重のきらいがあり、ここにおいて軽快なものがもとめられ、雑兵が着用した胴丸に兜および袖をそえて将士も着するようになり、いっぽうで、腹当が進化した一種の腹巻も見られた。 この腹巻は足利時代に最もおこなわれた。 ようするに、足利時代は胴丸腹巻併用時代と言うことができるが、槍の流行、鉄砲の伝来など足利時代末期の軍事上の変革にともなって甲冑は三たび変化を余儀なくされた。 こうして戦国時代には当世具足が一世を風靡した。 しかし元和偃武、世は太平を謳歌し、このために実用的な当世具足は虚飾をくわえられるようになり、また学問的発達が過去の形式を復活させもしたが、多くは形式に堕した。 甲冑の堕落時代であるが、文化文政以降、復活もやや成功を見て、形式もととのい、外観も鎌倉時代のそれにちかづいた。 幕末には革製の甲冑もつくられた。 日本の甲冑はその後の武器の変遷や戦闘形式の変化により常に改良が加えられながらも一定の特徴を有していたが明治維新による武士階級の消滅や軍備の近代化にともない実用に供されることはなくなった。

現代では古美術品工芸品的、歴史資料的性格をもっている。日本の甲冑は、世界の防具と比較しても彩りが豊かで美しいが、中世近世において武士が常に権力の中枢にあったことや、特に戦乱の無い江戸時代において一部の上級武士が象徴的に珍重したためであって、その時代の鍛鉄皮革工芸・金工組紐など様々な分野の技術を駆使して製作されているためである。その取り扱いにあたっては、素材が多種多様にわたる保管や、兜・胴を中心に各部分をつないで組み立てる構造上の理解とが必須である。

その他[編集]

  • 本来は、甲は身を護る「よろい」、冑は頭にかぶる「かぶと」であるが、甲を「かぶと」、冑を「よろい」と読む例もある。一般的には「鎧」、「兜」の字を使用することが多い。
  • 元史』成宗本紀(フビライ・ハーンの孫の年代記)に「倭商有慶なる者が、貿易のため、慶元府に来て、金鎧を献上した」と記述があり、この頃には日本製の甲冑も輸出がなされていたとみられる[2]。中世では、大陸に限らず、日本製甲冑は、琉球[3]・北海道アイヌ[4]・台湾[5]といった周囲の諸島にも伝わっている(これらの国々の鎧は日本製と比較して軽装である)。

甲冑の分類[編集]

  • 主要部分の物質による おおむね5種。鉄が金銅通常であり、革、布帛および張貫は特殊である
  • 重量による
  • 構成による 解体の可能・不可能による
  • 沿革による 旧式のものと新型のものとによる。旧式は「昔」を、新型は「当世」をそれぞれ冠する場合がある。
  • 新旧による 製作完了日から現存使用時までの時間の長短による
  • 式法による 型式・様式の精粗にもとづく。
  • 外観による 外観とくに色彩による
  • 着用者による 身体の大小、身分・職分による、老幼・性による
  • 使用による 使用目的(儀礼の甲冑、着初の甲冑など)、使用法(忍の甲冑、著替の具足など)

甲冑の新聞[編集]

甲冑の雑誌[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「第5回 歴博国際シンポジウム 古代東アジアにおける倭と加耶の交流」 国立歴史民俗博物館 2002年。橋本達也(鹿児島大学総合研究博物館)『古墳時代甲冑の系譜 -朝鮮半島との関係-』より。
  2. ^ 筧雅博 『日本の歴史10 蒙古襲来と徳政令』 講談社 2001年 p.292. 元の甲冑が軽装であったため、重装の和式甲冑に興味を示したとも。
  3. ^ 李朝実録』の記述に、1456年正月に難風によって琉球諸島に漂流した朝鮮人が2月に保護され、首里城へ赴いた際、「日本製の鎧兜に身を固めた警備兵が待機していた」と記録される。
  4. ^ 『諏訪大明神畫詞』の渡党の記述に、「和国人に似ているが(中略)、男は甲冑を(略)、骨鏃に毒をぬり」と記され、蠣崎氏勝山館跡からも館内に鎧の飾り金具を作る工房があり、この館にはアイヌも住んでいたことが示唆されている。参考・大石直正(他) 『日本の歴史14 周縁から見た中世日本』 講談社 2001年 pp.118 - 119. この他、ユーカラに登場するポンヤウンペが身につける鎧の外観が日本製と同様、嚇して作られたものとされ(当頁を参照)、アイヌ本来の鎧である「ハヨクペ」が蓑のような外観(参考・同『周縁から見た中世日本』 p.75)の為、異なる事がわかる。
  5. ^ 例として、鄭成功の「日本風武者隊」。

関連項目[編集]