8時だョ!全員集合

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8時だョ!全員集合
ジャンル お笑い番組
公開バラエティ番組
企画 渡辺プロダクション
演出 久世光彦
加藤嘉一
難波一弘
ほか
出演者 ザ・ドリフターズ
いかりや長介高木ブー仲本工事加藤茶志村けん[1]荒井注[2]
ほか
製作
製作総指揮 居作昌果(制作)
プロデューサー 古谷昭綱
森本仁郎
塩川和則
髙橋利明
ほか
制作 TBS
放送
音声形式モノラル放送ステレオ放送(1982年1月2日 - )[3]
放送国・地域日本の旗 日本
TBSチャンネルによる番組情報ページ
第1期
オープニング放送当時のドリフの新曲[注 1]
エンディングドリフのビバノン音頭
(ザ・ドリフターズ)
放送期間1969年10月4日 - 1971年3月27日
放送時間土曜 20:00 - 20:56
放送分56分
第2期(56分番組時代)
放送期間1971年10月2日 - 1972年9月30日
放送時間土曜 20:00 - 20:56
放送分56分
第2期(55分番組時代)
放送期間1972年10月7日 - 1982年9月25日
放送時間土曜 20:00 - 20:55
放送分55分
第2期(54分番組時代)
オープニング「チョットだけョ!全員集合!!」
(ザ・ドリフターズ)
エンディングドリフのビバノン音頭
(ザ・ドリフターズ)
放送期間1982年10月2日 - 1985年9月28日
放送時間土曜 20:00 - 20:54
放送分54分

特記事項:
放送回数:全803回
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ドリフフェスティバル
全員集合ベスト100
ジャンル お笑い番組
公開バラエティ番組
総集編
出演者 ザ・ドリフターズ
(いかりや長介、高木ブー、仲本工事、加藤茶、志村けん)
製作
制作 TBS
放送
放送国・地域日本の旗 日本
放送期間1985年10月12日 - 12月28日
放送時間土曜 20:00 - 20:54
放送分54分
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8時だョ!全員集合』(はちじだョ!ぜんいんしゅうごう)は、1969年10月4日から1971年3月27日、および同年10月2日から1985年9月28日までの2期にわたってTBS系列で毎週土曜日の20:00 - 20:54 (JST、1972年9月までは20:56、1982年9月までは20:55)に放送されていたお笑い番組・公開バラエティ番組である。全803回。

本項では、番組が終了した後のつなぎ番組である『ドリフフェスティバル・全員集合ベスト100』についても記述する。

概要[編集]

ザ・ドリフターズの冠番組。番組名は「全員集合」と略されたり「ドリフ」と呼ばれる場合もある。

番組はドリフによるコントが中心の前半パートと、体操あるいは合唱団などによるショートコントが中心の後半パートに分かれていた。前半パートと後半パートとの間には、ゲスト出演者による歌のコーナーがあった。

放送期間16年と、当時のバラエティ番組としては長寿作品でもあった。このうち1971年4月から9月までの半年間は、ドリフのスケジュールの都合から、ハナ肇とクレージーキャッツがメインの番組『8時だョ!出発進行』が放送されていた。

基本的には生放送であったが、事前収録の放送となる回もあった。例えば、番組がスタートしてから1か月の間は録画放送であった。また1970年代前半までは、日劇浅草国際での舞台公演があったこと、ドリフの休暇やスケジュールの都合などから録画放送となる回があった。このほか、ドリフが『ザ・ピーナッツ さよなら公演』に顔出しするため、1975年3月26日に事前収録したものを同年4月5日に流したことがある。この回は、近畿地方におけるネット局が朝日放送から毎日放送へ移行して最初の放送回となった。このほか、後述の理由から新作の制作を中止し、傑作選を放送した回も存在する。

毎週各地の劇場・ホールで公開生放送あるいは公開録画を開催した。第1回は三鷹市公会堂からの録画放送。原則としてTBSエリア内の東京首都圏を中心とし、時には系列局の開局記念企画として札幌仙台福島(ドリフのメンバー・加藤茶の出身地)、新潟静岡名古屋桑名金沢倉敷広島福岡宮崎といった地方での収録も実施している。1984年10月以降はTBS本社(旧社屋)Gスタジオでの公開生放送となることが多くなり、ホールからの中継放送が著しく減った。2005年10月2日の復活特番では、1994年に落成したTBS本社(新社屋)Bスタジオからの公開生放送を実施している。

随時、回り舞台を活用する大掛かりな舞台装置[4]と、入念に練り込んだコントや、大仕掛けの屋体崩しに代表される豪快なオチなど、出演者たちの身体を張った笑いが、小学生を中心とした老若男女を問わず幅広い層の視聴者に熱狂的に受け入れられた。また、生放送にこだわったために停電・セットのトラブル・出演者の負傷等のアクシデントに見舞われた回もあった。

ゲストには、当時の売れっ子アイドルや演歌歌手などを3 - 4組ほど招いていた。回によっては三船敏郎若山富三郎菅原文太加山雄三田宮二郎などの大物俳優やスポーツ選手、TBS系の他番組からゲストが出演することもあり、しかも彼らが積極的に番組のコントに参加していた。

番組全体の平均視聴率27.3%で、最高視聴率は1973年4月7日放送の50.5%ビデオリサーチ調べ、関東地区にての数値)であった。この50.5%という数値は、日本バラエティ番組史上の最高視聴率でもある。最盛期には40% - 50%の視聴率を稼ぎ、「お化け番組」「怪物番組」と呼ばれ、「土曜8時戦争」と呼ばれる視聴率競争でもほぼ無敵の存在であった。このため、この番組が全盛期を迎えていた頃は、TBSでは土曜夜のプロ野球中継が組まれることはほとんどなかった[5]

1970年代後半から1980年代前半にかけては、19時台前半の『まんが日本昔ばなし【第2期】』(1976年1月 - 1994年3月、毎日放送制作)、19時台後半の『クイズダービー』(1976年1月 - 1990年3月)、21時台の『キイハンター[6]Gメン'75』(1975年5月 - 1982年4月)や『スクール☆ウォーズ』(1984年10月 - 1985年4月)などとともに、TBSの土曜夜の黄金期を象徴する番組であった。このため、後年TBS系の番組名場面集などで取り上げられることが多く、番組終了から30年以上経つ現在も高い知名度を誇っている。

1978年には日本PTA全国協議会が「低俗テレビ番組を野放しにできない」として放送中止をテレビ局とスポンサーに求め、チャンネルの切り替え運動や商品の不買運動までちらつかせた[7]が、視聴率はびくともしなかった。

番組の終焉[編集]

1981年に仲本、志村の競馬のノミ行為事件の影響、その年の春から始まったフジテレビの裏番組『オレたちひょうきん族』の台頭、さらに6月のギロチン事件の影響が重なり、1982年中頃から番組人気に陰りが見え始め、1982年10月2日の放送回で初めてひょうきん族に視聴率を抜かれた。これ以降は視聴率争いに苦戦し、1983年8月13日に視聴率で初の1桁(9.2%)を喫した。以降は視聴率が10%後半くらいが平均となり、ひょうきん族と抜きつ抜かれつの視聴率争いを繰り広げるが[8]、1985年に入ってからはほぼ後塵を拝した。

そして遂に、土曜20時台枠の抜本的な見直しにより、1985年9月28日に中断期間を含めて16年の歴史に幕を閉じた。TBSは、1985年7月19日の打ち切り発表の中で、「生放送を公開形式でやっていくことには限界があった。ナンセンスギャグもやり尽くした」ことを理由に挙げていた[9]

その後、1985年10月5日は『電リクだョ!全員集合』と称し、約2時間枠で電話リクエスト形式で過去の名場面集を放送した。そして年内いっぱいは総集編番組『ドリフフェスティバル・全員集合ベスト100』でつなぎ、1986年1月から同じくドリフの加藤茶志村けんをメインに据えた『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が始まった。ドリフのメンバーがメインの番組は、1992年9月終了の『KATO&KENテレビバスターズ』まで続いた。

ドリフメンバーのスケジュールは木曜日から土曜日までの3日間押さえており、基本的には木曜日に次週分(9日後)のネタ作り、金曜日に翌日分の立ち稽古、土曜日がリハーサルと本番という流れとなっていた[10]。「番組がスランプに陥っている」と言う理由で、通常のレギュラー放送を一時休止して(その間は総集編を放送)、ドリフメンバーによる「合宿」まで行ったという。このように莫大な労力を費やして制作していた番組であった上、セットや出演者への保険といった諸経費の高騰・安全性の問題・その後の様々な表現規制・芸能事務所の生放送番組に対するスタンスの変化[11]などといった業界を取り巻く事情の大幅な変化もあり、現在ではこの様な規模の公開生放送番組を毎週1回のペースで作ることは極めて困難である。かつてドリフのマネージャーを務め、現在ドリフメンバーが所属するイザワオフィス社長の井澤健も『週刊新潮』のインタビューで[いつ?]「時代が変わり過ぎて、現在ではもう再現不可能な要素が多過ぎる」と語っている。

番組の構成[編集]

番組は下記の順番で行われていた。

オープニング
生放送開始1分前、すなわち19時59分の時点ではステージ上にはいかりやのみが上がっており、ドリフの残りのメンバー(初期は手前から加藤・荒井・仲本・高木、志村が正式に入った後からは加藤・仲本・高木・志村の順で縦に並んでいる。なお、荒井がドリフ脱退後にゲスト出演した際は、志村の後ろに並んでいた)は観客席の通路に待機している。20時丁度になると、いかりやがカメラに向かって大きく指を差しだし「8時だョ!」と掛け声をかける。それと呼応するように、観客席から観客とドリフの残りのメンバー4人が片手を拳にして上げながら「全員集合!」と返し(連動して自動的にカメラの向きが変わる)、ゲイスターズの演奏と共に4人が客席後方から舞台上に登場する(1984年10月以降はメンバー全員が舞台に上がった状態でオープニングマーチが演奏されていた)。4人は、この演奏が鳴り終わるまでに、素早くステージに上がる。同時に舞台下手側からゲストが、両脇からレギュラー出演者が登場。
その後、いかりやのちょっとしたトークを5秒程度挟み(「寒くないか?」「春休みでございますね」「いっていいか?」「さぁ元気良く」等。年内最後の放送に当たる場合は「本年最後の「全員集合」です」が挙げられる)、「行ってみよう!」「ゆけ〜!」「出発〜!」という掛け声にあわせてオープニングテーマ曲「チョットだけョ!全員集合!!」(北海道民謡である「北海盆唄」の替え歌)[12]が流れ出す。「北海盆唄」の替え歌の使用は『8時だョ!出発進行』と入れ替わりで番組が再開した1971年10月2日の放送からで(この年には『ドリフ音頭 北海盆唄より』が発表されている)、番組開始当初は放送当時のドリフの新曲(『ドリフのほんとにほんとにご苦労さん』や『ズンドコ節』などの替え歌)を使っていた。振付は藤村俊二。1971年10月2日の第2期開始以降、オープニングは3コーラス(2コーラス目は当日のゲストが歌い、キーが低い。その後3コーラス目に入る前にいかりやが「ゆけ〜!」と掛け声を入れる)流していたが、1983年2月19日(第669回)の放送から2コーラスに短縮された(同時にキーも一定にされた)。そして最後はいかりやの「よろしく〜!」の叫びと共に、全出演者がお辞儀をして終わる。一時期、「よろしく〜!」の前に加藤がVTRで一言しゃべっていた時期もある。
なお大物ゲストが登場した回では、大物ゲストはオープニングの踊りには参加せずに舞台下手側で待機、そして歌が終わるとオープニングを一旦中断し、いかりやが大物ゲストを紹介してから、そのゲストが現れて舞台中央(いかりやの隣)に立ったところで、「よろしく〜!」→お辞儀となる。
放送上では、1コーラス目では手書き調ロゴによる出演者(順番はドリフ→ゲスト→レギュラー→コーラス→ゲイスターズ。回によっては、レギュラーとコーラスの間に殺陣やダンスグループ、ナレーター等が加わる)のロールが、続いて2コーラス目ではゴシック体でスタッフロールがいずれも縦方向に流され、3コーラス冒頭で画面中央に「企画 渡辺プロダクション」と「製作著作 TBS」のクレジットが表示される。末期の頃は曲調を速くしたことや3コーラス目を省略したため、ロールを速くして1コーラスの中盤に出演者のロールを終えて、スタッフロールに移り、「企画 渡辺プロダクション」も「製作著作 TBS」も止めずに流している。
オープニングでのドリフの衣装は2種類ある。1つは複数の白い丸(後に四角形に変更)がデザインされた半纏の色違い(いかりやは若草色、加藤はピンク、荒井は、仲本はオレンジ→水色(荒井脱退後)、高木は、志村はオレンジ(見習い時代は一般的な半纏))に黄色い襷と長股引、もう1つは市松模様の半纏に色違いの襷と帯(いかりやは黄緑、加藤は赤、仲本は黄色、高木は茶色、志村はオレンジ)と半股引で、いずれも頭に鉢巻を着用。また、ゲストは左襟に「8時だョ!」、右襟に「全員集合」と書かれた陣羽織(男性は水色、女性はピンク)、ゲイスターズは青い法被を羽織っている。
会場では、生放送が始まる十数分前から、いかりやが観客に対し何度も掛け声の練習を行わせる。2分前〜数十秒前(19時58分以降)になると、いかりやは練習にあたって観客に対し、「ゲンコツを握って大きく上へ突き上げていただきます」と案内し、それと連動して残り4人のメンバーも観客とともに観客席通路上でシュプレヒコールの練習を行い、本番開始に備える。時報までの残り時間が少なくなり、残りあと10秒を切る段階になるといかりやは「○秒前」と口ずさむ。生放送である以上、オープニング終了後、出演者全員はそれぞれの出番に間に合うように、素早く着替えや化粧替えなどを短時間で済ます。ここで一旦幕が下り、観客に対しいかりやは「只今、コマーシャルに入りました。番組ではここが一番忙しいところであります」と案内する。
なお、第2期のオープニングの歌詞は最終回まで変わらず同じものが使用され続けたが、例外として1981年2月の「ノミ行為事件」発覚から1ヶ月間、本来3番の歌詞を1番とし、3番の歌詞を異なるものに差し替えて歌われていた[13]
前半コント
この番組のメイン。通称「前半」。時間にして20時04分頃。大体の場合はいかりやが観客に向かって「オイッスー!」と挨拶してコントが始まる(例外的に「おはようさん」などの挨拶で始まったこともあった)。
開始時には、画面下に「○○(会場名)から生中継」のテロップが出る。事前録画の回では、テロップの表記が「○○から中継」に変更された。
概ね20時26分頃にオチがつくと「盆回り」が流れ、大勢のスタッフがステージに繰り出しゲストの歌1に間に合うように、30秒にも満たないといわれる短時間で素早くコントのセットや小道具類をステージ脇に撤収させる。短時間での撤収を可能にするため、大きなセットは全て可動する仕掛けになっている(建物類ではキャスターが付けられていたため、その建物類と床面との間にわずかな隙間があった)。この時点で演奏席はスタンバイを完了している。
撤収作業が終わるのと前後して基本的にステージ下手側から歌手が登場し、そのままゲストの歌1に入る。
ゲストの歌1
アイドル歌手・アイドルグループ。「盆回り」が流れる3 - 5分前には舞台袖方向でスタンバイしている。このゲストの歌1が終わるとCMとなる。
ゲストの歌2・3
若手から中堅の実力派歌手・シンガーソングライターなど(2組)。歌謡曲ポップスが主体だが、若手・中堅の演歌歌手が入ることもある。またゲスト歌手が3組(普段より1組少ない)の時は、キャンディーズなどの女性レギュラーが歌う事が有った。
なお、このゲストの歌1・2・3については、当日の出演者の顔ぶれや他コーナーの状況などによって順序が若干左右する。
少年少女合唱隊
1972年から始まったゲストと共に歌うコーナー。階段様のステージが設置され、パイプオルガンが奏でるジャック・アルカデルトの「アヴェ・マリア」と共にスタートし、司会役のいかりやが神父のような服装、残りの出演者が白いスモックに白いベレー帽、すなわち少年聖歌隊の様式で登場する。
この衣装に憧れたアイドル歌手も多かったという。いかりや以外のドリフのメンバーは半ズボンを穿いていた。基本型は童謡などをドリフとゲストで合唱。しかしコントでだんだん脱線していく。1976年、志村が「東村山音頭」を披露して以来、志村がトリを務めるようになった。東村山音頭に続いて、志村の「ディスコ婆ちゃん」「早口言葉」「ワンダードッグ」「ナターシャとアヤコフ」はこのコーナーより誕生した。末期(1983年2月19日)には消滅。1年7ヵ月後の1984年9月29日放送「15周年だヨ!全員集合」で1度限り復活した。
このコーナー終了後、その流れでゲストの歌3の出番が待っているゲストは、素早く白いスモックを脱ぎ、またショートコントの出番も待っているゲスト(ドリフターズは全員)は、それに間に合うように短時間で衣装替え等を済ます。
クリスマスの時期になると、実際の少年少女合唱団と競演した回もあった。
のちに『ドリフ大爆笑』のコーナーとして復活。
なお時期によっては、このコーナーの代わりに、出演者全員がスポーツを行う「今週のスポーツコーナー」や、いかりや扮する老婆の家で、女性歌手が花嫁修業を行うコント「今週の花嫁候補」などが行われていた。
ゲストの歌4
基本的には当日のゲスト出演歌手の中で最も実績のあるベテラン格の歌手が担当。演歌・歌謡曲が主体であるほか、デビューから長く(概ね10年前後)トップクラスの実績を積んでいるアイドル歌手が入ることもある。
「ゲストの歌」のテロップは、全て「題名」と「歌手」で構成(作詞・作曲・編曲は一貫して無し)、ロゴも「手書き調」を使用するが、1970年代までは同局で年末に開催される『日本レコード大賞』に受賞・ノミネートした歌手(主にレコード大賞・歌唱賞→金賞・新人賞)が出演した時には、まず手書き調ロゴで題名だけ映し、続いてゴシック体で歌手名、更にその上にやや小さめのゴシック体で「第〇〇回日本レコード大賞〇〇賞受賞」を映す様にしていた。
ショートコント
通称「後半」、正式名称は「ベスト100」。開始当初はランキング形式の音楽コントで、メンバー全員が楽器を持って立ち、いかりやの「第○位!!」の叫びと共に音楽を始めようとするも、「集計が出来てない」などの理由を付けて第100位から第2位まですっ飛ばし、第1位の曲でオチとなるが、すぐにネタが尽きて普通のコントになった[14]
いかりやは進行役で、コントは主にいかりや以外の4人とゲストによる(初期の頃はいかりやもコント本編に出演していた)。冒頭に、いかりやの指揮によりゲイスターズがファンファーレを演奏後、いかりやの「はい、後半参りましょう。後半出発!」で始まる。コントの変わり目には、いかりやが「次行ってみよう」、「次の方どうぞ」、「次参りましょう、次どうぞ」と言う。CMへ行く際には、いかりやもしくはコントの出演者がカメラに向かって「コマーシャル」と言う。
ショートコントは基本的に1回の放送につき2本、少年少女合唱隊のコーナーが廃止された末期は4本行われた。
ショートコント終了後のセットの撤収もエンディングに間に合うように短時間で素早く行う。その為、多くの大道具類には前半コントと同様に素早く撤収できるための仕掛けが取り付けられている。
加藤茶の『ちょっとだけよ』や仲本工事の体操コーナー、ヒゲダンス、ジャンケン決闘はこのコーナーの一部。
番組末期は中CM1が終わった後に放送され、当コーナーの後にゲストの歌2 - 4が集中して歌うか、22分コントの後にゲストの歌1・2を、ショートコント終了後にゲストの歌3・4をそれぞれ続けて歌う構成に変更されている。
エンディング
エンディングテーマは「ドリフのビバノン音頭」(デューク・エイセスの「いい湯だな」の替え歌)。中間部分にある「はぁビバノンノン」の部分は加藤がゲストの一人にマイクを振りそのゲストが歌う[15]。生放送ゆえ番組の残り時間次第でペースが少なからず変化する。時間が押しているときは、タイムキーパーの「巻け」というサインがもの凄く速かったとのちに加藤が他の番組でエピソードを語っていた。高木は『ダウンタウンDX』の中でエンディングのペースは5パターンあった事を打ち明けている(ちなみにオープニングのペースも同様5パターン用意されていた。3コーラス:1分40秒、1分20秒 2コーラス:1分10秒、1分5秒 1コーラス:40秒など)。
テレビの画面では2コーラス目の演奏中に翌週のゲストを紹介するテロップが出る。
エンディング曲の終盤に加藤の「風邪ひくなよ」「お風呂入れよ」「頭洗えよ」「宿題やれよ」「歯磨けよ」など、主に子供たちに向けた色々な掛け声が入り、最後は「また来週!!」で番組が終了した[16]。特に「歯磨けよ」「お風呂入れよ」は、初回から最終回まで一貫した筆頭スポンサーであるライオン(1979年12月以前は、ライオン歯磨・ライオン油脂、ライオンマコーミック)にも配慮した内容である[17]
「後半」の後のCM明けに放送されており、ほとんどの場合「後半」が押して途中からの放映になったが、まれに最初から見ることができた。特に内容構成が変わったりGスタジオからの放送になった末期は最初から見る機会が多くあった。時間が余っている際には、ゲイスターズによるファンファーレの演奏の後、いかりやがメンバーやゲストと軽くトークをしてから、「最後にもうひと踏ん張り、行ってみよう!」の掛け声でエンディング曲が始まっていた。また、放送素材では、番組開始数十秒前から本番終了後数分程度までCM中であってもそのまま会場内の中継映像をノーカットで収録していたため、「後半」が押して途中からの放映の場合でも実際のステージ上では最初から流れている。なおその場合であっても、歌が中途半端な部分から始まることは滅多になく、CM明け(基本的には遅くとも2番の後半入りには明けており、ここで次週の予告がテロップで出た)〜加藤の掛け声まですべて時間内に収まるように指揮者が演奏時間を計算していた。

進行タイム[編集]

  • オープニング:20:00:00 - 20:01:00
  • 前CM1、前提供、前CM2:20:01:00 - 20:03:20 
  • 22分コント、ゲストの歌1:20:03:20 -
  • 中CM1:1分30秒
  • ゲストの歌2・3、少年少女合唱隊、ゲストの歌4
  • 中CM2:1分30秒
  • ショートコント
  • 後CM:1分
  • エンディング: - 20:52:35
  • 後提供、後タイトル:20:52:35 - 20:53:00(終了)
  • ステーションブレイク:20:53:00 - 20:54:00
  • JNNフラッシュニュース:20:54:00 -
    • 初期は56分番組であった。1972年10月7日から55分、1982年10月2日から54分に短縮。また、オープニングは1分55秒→1分40秒であったが、1983年2月からオープニングのテーマ曲を3コーラスから2コーラスにすることにより、1分に収めた(正確には1分5秒 - 1分10秒)。提供は一貫して筆頭にライオン(現在も土8枠の筆頭スポンサー)、その他1〜2社が付いていたが時期によって変わっていた。
    • 少年少女合唱隊が廃止された1983年2月以降は、「前半コント(24分程度に拡張)→ゲストの歌1・2→中CM1→ショートコント→ゲストの歌3→中CM2→ゲストの歌4→後CM→エンディング」が基本的な流れになった。

制作背景[編集]

立ち上げまでの経緯[編集]

TBS系土曜20時枠はそれまで『逃亡者』などのドラマを放送していたが、やがて裏番組『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ)の影響で視聴率が低迷し『全員集合』開始前は3 - 5%にまで落ち込んでいた。そこで、この枠で視聴率の取れる番組を制作すべく、前枠番組『お笑い頭の体操』を成功させていたTBSプロデューサー・居作昌果に白羽の矢が立った。居作は新番組制作に専念するため、『お笑い頭の体操』のプロデューサーを降りようとしたが、これに『お笑い頭の体操』のスポンサーだったロート製薬が猛抗議。ロートは「居作君を『お笑い頭の体操』の専属にしてほしい」「他番組との掛け持ちは認めない」という姿勢だったが、居作の意志は固く、最終的にはロート側が折れて「番組掛け持ち」を容認させることとなった。

企画[編集]

居作は企画作成の際に、まず裏番組に出演するコント55号の事を考えた。55号の持ち味である「スピード感と即興力」に対抗するには、「時間をかけて練りに練り上げた笑い」しかないと考え、レギュラー出演者にザ・ドリフターズの起用を決めた。ドリフを起用したのは、「リーダーのいかりや長介は(アドリブに長けた55号に比べて)不器用で口下手だが、ギャグを考えるのが大好き」だったからだという。ところが、当時のTBS社内でのドリフの評価は低く、編成から反対の声が多数上がった[18]。その中には「クレージーキャッツを起用すべきだ」という意見があり、ドリフとクレージーの所属事務所・渡辺プロダクションからも「そういう番組であればクレージーの方が向いているのでは?」と言われた。しかし、当時のクレージーはグループとしての活動をほとんど行っておらず、居作は「(クレージーでは)メンバーそれぞれのスケジュールの調整がつかなくなる」としてドリフ起用の姿勢を曲げなかった。

その後、「ドリフがジャズ喫茶時代から客前でネタをやるのに慣れている」「会場にいる観客を笑わせられなくて、視聴者を笑わせられるはずがない」として、収録を劇場・ホールでの公開形式とすること、「視聴者に『番組が今、実際に行われている』という臨場感を持ってほしい」「出演者にNGが効かない緊張感を味わってほしい」という理由から生放送で行うことをそれぞれ決定、「ドリフをメインとする生放送の公開バラエティ番組」という骨組みを作り上げていった。

そして居作は、赤坂のTBSに程近い寿司屋にドリフの面々を呼び、顔合わせを兼ねて会食を行うことになった。その席上でいかりやが「今の55号は日の出の勢い。その裏でいくら頑張っても勝ち目はないんじゃないの?」と、新番組に対して消極的な発言をすると、居作は「確かに55号とドリフじゃ、今は月とスッポンかもしれない。だけどスッポンが月に勝てないと決まってるわけじゃない」と返した。これを受けたいかりやは驚き、「居作さんをギャフンと言わせてやろう」と新番組のオファーを受諾。こうして番組開始が決定した。

番組タイトルの『8時だョ!全員集合』は、系列局やスポンサーを交えての企画説明会議で、スポンサーのライオン油脂(現・ライオン)の広告部長が、「8時になったら、テレビの前にみんな集まるような番組を作って欲しい」と発言し、それを聞いた居作がその場で思い付いたものである[19]

放送開始から人気上昇まで[編集]

1969年10月4日、番組はスタートを切った。この年の10月はドリフが新宿コマ劇場で公演を行っていたことから、初回から10月25日放送分までの4回分は、9月に事前収録となった。

開始当初はドリフによるコントだけでなく、作曲家の山本直純を起用しての音楽コーナーやゲストを招いてのトークコーナー、巨大滑り台セットを使用してのクイズコーナー「ドリフでドボン」があった。

こうして10月に放送された4回分の平均視聴率は約14%(初回視聴率は12.9%)で、これまでの番組と比べればまずまずの結果を収めた。しかし、VTRをチェックしていく中でドリフが苦手としているコーナーが多かったことがわかり、コント以外のコーナーを年内一杯で廃止。特に「ドリフでドボン」のセットに使われた巨大滑り台は制作費が高く、3ヶ月で終わらせることにTBS社内から顰蹙を買ったという。これらに代わって1970年より「ベスト100」(後の後半コント)を開始した。

視聴率は悪くなく、観客からの受けも良かったものの、裏番組の『コント55号の世界は笑う』は依然として視聴率が高く、居作はその打開策を考えていた。その中で「視聴率に繋がらないのは、チャンネル選びの習慣性によるものだ」という意見を聞いた居作は、視聴率が習慣によるものなのかどうかを実験すべく、当時のTBSの人気番組の出演者をゲストに呼び、コントに参加させることを思いつく。その手始めとして、1970年1月24日に『サインはV』のメンバー(岡田可愛中山麻理范文雀岸ユキなど)がゲスト出演、するとこの回の視聴率は一気に27%に上昇。さらに、翌1月31日に『柔道一直線』の主演・桜木健一を、その翌々週2月14日は『キイハンター』から丹波哲郎野際陽子らをゲストに招いた。しかし、この中の空いた1週(2月7日)、つまり人気番組のゲストのいない回こそが居作の狙い目であり、この回の視聴率が良ければ視聴者が視聴習慣を変えたことになり、逆に悪ければ失敗と踏んでいた。この結果、2月7日放送分の視聴率は25%を記録し実験は成功。こうして当番組は「お化け番組」と呼ばれるまでの人気を獲得していくことになった[20]

年表[編集]

1969年[編集]

  • 10月4日、放送開始、TVガイド9/12号ではドリフターズ・ショーと表記されていた。第1回は三鷹市公会堂からの公開録画[21]9月24日収録)。開始時はアメリカ占領下に置かれていた沖縄での琉球放送を含めた19局同時ネット。前述の通り10月末までは収録放送であり、翌週11月1日より生放送開始。
  • 番組初期のスポンサーはライオン油脂・ライオン歯磨(いずれも現在のライオン日立

1970年[編集]

1971年[編集]

  • 1月1日金曜日)、初の正月SP版『お正月だョ!全員集合』を14:45 - 15:56のノンプライム枠で放送。なお翌2日(土曜日)にも通常版を放送、2日連続して『全員集合』が見られた。
  • 1月23日30日に、視聴率が50.4%を記録する[22]
  • 3月27日、この日の放送を最後に番組が一旦終了。これはドリフターズが同年4月25日から半年間の予定でスタートした日本テレビの番組『日曜日だョ!ドリフターズ!!』に出演することになったため。
  • 10月2日、番組再開。オープニングもこれまではドリフターズの新曲を使用していたが、「ちょっとだけョ!全員集合」へと変わった。
  • 11月13日、五十嵐じゅんがゲストで登場、この時の映像はカラーで現存している。
  • 12月25日、最多登場ゲスト小柳ルミ子が初登場。

1972年[編集]

1973年[編集]

  • 4月7日、最高視聴率50.5%(関東地区)を記録する[22]。この回は前半コントがボクシングジムをネタにしたものであり、当時世界チャンピオンの輪島功一がゲスト出演し、キャンディーズが初出演した。
  • 12月8日志村けんがドリフターズ見習いとして出演し始め、初の6人ドリフになる。全員集合での志村の初舞台は福引コントでの5等賞であるお釜(女装したおかま)で、当てた荒井注を若手のエキストラと共に追いかけ回す役であった。

1974年[編集]

  • 1月12日、視聴率が44.7%を記録[22]
  • 3月30日、荒井がドリフターズメンバーとして最後の出演。翌週から志村がドリフターズの正式メンバーになる。
    なお、荒井は翌月から日本一周、翌々月から世界一周旅行へ赴いている[26]
  • 10月5日、当時NETテレビ系列(現:テレビ朝日系列)とのクロスネット局だった青森テレビが『全員集合』の放送を開始。青森テレビは、NETテレビ系列とのクロスネット時代は、土曜ゴールデンタイムがNET番組枠(現代劇または時代劇。特撮+アニメ2本立ての時期もあり)だったためネットできなかった。23局同時ネット。

1975年[編集]

  • 4月5日の放送から、関西地区の放映ネット局が朝日放送から毎日放送に変更された(ただしこの日はドリフが渋谷のNHKホールで開催していた、当時同じ事務所に所属していたザ・ピーナッツ さよなら公演に出向いたため、生放送ではなく録画放送であった)。腸捻転解消によるネットチェンジで、毎日放送はネットチェンジのPRキャラクターとしてドリフターズを起用。「4月から、4チャンネル(毎日放送のアナログチャンネル番号)だョ!全員集合」と、TBS系列になる毎日放送をアピールした[27]。また、ネットチェンジ以降、当時、毎日放送の看板番組だった『アップダウンクイズ』のパロディコントも作られ、また4月12日放送分では毎日放送制作の特撮番組『仮面ライダーストロンガー』から、仮面ライダーストロンガーがゲスト出演した[28]。しかしドリフターズは「修行」という理由で7月5日から9月13日まで休むことになる。この間は「夏休み傑作特集」と銘打ち、過去のコントを再放送した。
  • また、当時フジテレビ系列(FNSのみ加盟)・NETテレビ(現:テレビ朝日系列)とのトリプルネット局だったテレビ山口は1975年3月まではフジテレビ系列の番組(『フジテレビ土曜8時枠の連続ドラマ』【同時ネット】→『座頭市物語』【遅れネット】)を放送していたが、当時のフジテレビ系土曜20:00枠が不振だったことから、毎日放送と同日にネットを開始した。JNN24局同時ネット。

1976年[編集]

  • 3月6日新潟県民会館からの公開生放送での「少年少女合唱隊」のコーナーにて、志村が、独自リメーク版の「東村山音頭」を初披露。以後、毎週、同コーナーの最後にてこの曲を披露し続けた処、大ウケし、彼が一躍人気者となる。

1977年[編集]

1978年[編集]

  • 1月1日(日曜)、前日休止の振り替えとして、初の90分特番『お正月だョ!全員集合』を放送(この関係で同じドリフターズがメインのフジテレビ元日恒例『第15回新春スターかくし芸大会』は翌1月2日に放送)。
  • 8月12日、『JNN報道特別番組・日中平和友好条約締結』放送のため番組休止(報道特番による休止は1972年9月に続き2例目)。この日予定されていた放送(8月2日に埼玉県の行田産業文化会館で録画)は、翌々週8月26日(#435)に放送された。
  • 森永製菓がスポンサーを降板、同業者であるロッテが新たにスポンサーに加わる。

1979年[編集]

  • 加藤&志村のヒゲダンスが誕生。翌年9月20日(#542)まで行われた。
  • ドリフターズ全員参加及びゲストが行う体操コーナーが終了へ。
  • 年末、放送500回を達成。

1980年[編集]

  • 番組初期からのメイン提供スポンサーであるライオン油脂・ライオン歯磨が合併し「ライオン株式会社」が誕生。提供のクレジット表示・読みも「おはようからおやすみまで暮らしを見つめるライオン」に改められた[30]
  • 2月23日(#512)、視聴率が41.0%を記録する[22]
  • 5月3日(#522)、第522回目の放送で番組初のステレオ放送が行われた。この回の前半コントは、お化け屋敷が歌を歌い出す内容のもので、志村がベストテン形式で当時のヒット曲を次々と紹介し、建物のあちこちから顔や口が出てきて歌い、最後の大オチはコントのセット、観客およびドリフターズ全員と一緒に「カラスの勝手でしょ」を大合唱するという内容のものであった。後に同じコントを再演した回がステレオ音声で放送され、1982年1月2日(#609)の放送からは毎回ステレオ放送となった[31]
  • 9月、いかりやが声帯ポリープの手術を受けた都合で、13日20日の放送に声を出さずに出演した。コントの中ではいかりやが声を出せないのをいいことに、4人がいかりやをいじめ倒すシーンがあった。
  • この年の年間平均視聴率は34.3%を記録した。
ステレオ放送が実施された回と前半コントの内容
  • 第522回(1980年5月3日、歌うお化け屋敷)
  • 第575回(1981年5月9日、歌うお化け屋敷)
  • 第609回(1982年1月2日)以降、総集編放送時を除く最終回まで

1981年[編集]

  • 2月18日の志村・仲本「ノミ行為事件」発覚、小田原市民会館で3月7日放送予定の回を急遽お蔵入り前提でファンのために公演。終了後9時から同会見で二人といかりやの記者会見。
    • 3月13日、TBSで全員で記者会見を行い、21日から志村・仲本が復帰、この模様はTVガイド4/10号で特集された。
    • なお、2月24日のフジテレビ系『ドリフ大爆笑'81』は1月27日収録の旨、テロップを入れて予定通り放送された。
  • 2月21日(#564)、生中継でいかりやの謝罪からスタート。昭和50年代以降での最高視聴率47.6%を記録する[22]
  • 3月14日(#567)、細川たかしが収録中の坂道コントでアキレス腱断裂の重傷を負う(詳細は後述)。
  • 5月16日(#576)、フジテレビ系で『オレたちひょうきん族』スタート(当初はナイター中継がない時のみの雨傘番組としての不定期放送。10月10日よりレギュラー化)。徐々に『全員集合』を脅かす存在となる。
  • 6月27日(#582)、「ギロチン事件」(詳細は後述)。
  • 秋、放送600回を達成。
  • この年の年間平均視聴率は33.9%だった。

1982年[編集]

  • 1月30日(#613)、視聴率37.1%を記録する[22]。この日以降、視聴率30%後半を超える事はなかった。さらに7月以降は視聴率が30%を超える事もなくなる。
  • 8月末で番組の生みの親の居作が異動で番組を離れる(後任プロデューサーは高橋利明、プロデューサー就任後も演出を兼任)。
  • 8月7日(#640)、演奏がいつもの岡本章生とゲイスターズではなく、第1回目を演奏を担当した高橋達也と東京ユニオンが担当(しかし、オープニングのテロップ表示は変更されず、通常の岡本とゲイスターズのままだった)。
  • 10月2日(#648)の放送からTBSの夜のスポットタイムが6分に拡大し[32]、『フラッシュニュース』開始が20:54に変更されたため、終了時刻を20:54に再変更(さらに1分縮小)。
  • この年の平均視聴率は23.6%。前年より10%程度下落した。10月2日放送分(#648)で初めて『ひょうきん族』に視聴率で敗退した。この年に限れば視聴率で負けたのは2回だけであったが、前述の通り視聴率の低下傾向が見られるようになる。

1983年[編集]

  • 1月1日、1977年以来6年振りに元日が土曜日となり、『ドリフの初笑い!!お正月だョ!全員集合』を19:30 - 20:54の拡大版で放送[33](元日版で拡大版や別タイトルでの放送は唯一)。1972年6月から開始した少年少女合唱隊が休止。この回から合唱隊は隔週で披露に切り替わる。なおこの編成に伴い、フジテレビの『新春スターかくし芸大会』第1部(この年から1987年まで2部体制)は同日の21:00 - 22:54に編成(2日放送の第2部も同枠)。この日の放送の裏番組として『ひょうきん族』も生放送のスペシャルを放送した。
  • 2月12日(#667)、この回をもって少年少女合唱隊が終了。
  • 2月19日(#668)、この回よりオープニングの3番がカットされる。
  • 4月、それまで岡山県のみを放送エリアにしていた山陽放送(現・RSK山陽放送)が、岡山・香川の電波相互乗り入れに伴い、香川県でも『全員集合』の放送を同月2日より開始。
  • 8月13日(#693)の放送で初めて番組の視聴率が10%を下回る(9.2%)。この日はお盆の真っ最中で、関東地区の視聴率が全体的に落ち込んだ日でもあった(裏番組の「ひょうきん族」も10%そこそこと伸び悩んだ)。尚、この年以前にもお盆前後のシーズンは視聴率が普段に比べ低下する傾向にあったが、ここまで下がったのは初めてである。
  • 夏頃、いかりやが元当番組プロデューサーで当時TBS制作局長となっていた居作の元を訪ね「全員集合をやめようと思う」という意志を伝える[34]
  • 9月24日、加藤の出身地である福島県のネット局で、唯一の系列外ネット局だった福島テレビが10月1日からのフジテレビ系フルネット化に伴い、1972年4月1日から続けてきた放送を打ち切り。同局は1983年4月にフジテレビ系列に再ネットチェンジ(JNN脱退・FNN加盟)されていたが、1983年4月2日から9月24日までは本来の系列番組である『ひょうきん族』にすぐさま切り替えずに、視聴者保護のため番販扱いで放送していた(福島テレビは本番組打ち切り後『ひょうきん族』を遅れネットから同時ネットへ変更)。同年10月・11月はJNN23局同時ネットとなった。
  • 12月4日、TBS系新局として開局したテレビユー福島にて、福島県のネットが2ヶ月ぶりに復活した[35]。同時にJNN24局同時ネットに復帰。同日は700回目スペシャル1を放送し、前年6月以来の視聴率30%超えを記録。しかし、以降最終回まで視聴率が30%台に乗ることはなかった。
  • 12月31日、『第25回輝く!日本レコード大賞』放送のため番組休止。しかし1977→1978年の時のような、元日の振り替え放送はされなかった[36]。その代替として翌々日の1984年1月2日の18:30 - 19:54に、ドリフがゲスト出演する『ザ・チャンス!』の正月特番『ドリフが挑戦・お正月だョ!ウルトラチャンス』を放送した。
  • この年の年間平均視聴率は20.8%[37]と、前年の23%台よりさらに下落。一方、『ひょうきん族』が年間平均視聴率19.0%と猛追を見せる。
  • 1976年に開始した迷探偵金田一けんシリーズが、この年をもって終了。
  • この年をもって、神奈川県・茨城県での中継が終了。
  • この頃に、長年スポンサーを務めたタイガー魔法瓶が降板、新たに日産自動車が加わる。

1984年[編集]

  • 1月21日、日本青年館からの生中継だが、この日は東京で大雪となり、冒頭では雪景色となった日本青年館前から加藤と志村がレポートした後、ステージのいかりやが「8時だョ!」と叫んでお馴染みのオープニングとなった。
  • 3月 1984年に突入してからも視聴率20%前半はキープできていたが、3月下旬以降は視聴率が20%を切ることが多くなった。
  • 4月、長崎放送での放送が開始された。それまでは14年半の間、プロ野球中継や『全日本プロレス中継』を行うため日本テレビ系同時ネットを組み、『土曜トップスペシャル』を打ち切って放送を同月7日より開始した。同時にJNN全局ネット化達成。25局同時ネット。
  • 6月16日(#736)、いかりやの掛け声と同時に入間市民会館の電気が落ちる停電が発生。停電が続いている間は懐中電灯を用いてゲスト紹介をするなどして時間を繋ぎ、20時09分過ぎにようやく停電が復旧すると、いかりやの「8時9分半だヨ!」という掛け声でようやく本編開始にこぎ着けた。ただ、停電したのは入間市民会館の電源のみで、カメラやマイクなどの放送機材には外部の電源車から電源が供給されていたため、完全に放送不能となる事態は回避することが出来た。この停電の影響で、番組全体のタイムスケジュールが大幅にずれたり後半のコントをカットする結果になる。2番目に歌唱した菊池桃子の演奏スピードがアップしたり、後半コントも20人の縄跳びコーナーをする時間しかなく、撤収時にゲイスターズの生演奏と同時に退場するが、音楽が流れずスタッフの「音、音!」という怒号が放送に乗るハプニングも発生。縄跳びの後は、西城秀樹のバンドセットが急ピッチで用意されたが、間に合わずいかりやと西城が停電のハプニングについて話して時間を繋ぎ、出演者全員無事に歌唱した。エンディング時には、停電のお詫びをする時間が余り通常のエンディングで放送。この日は、「ひょうきん族」が野球中継で放送されていなかったこともあり、前年の10月15日(#702)以来の視聴率26.2%を記録。1984年度第2位の視聴率を稼いだ。
  • 9月14日、高木がアキレス腱を断裂。療養のために9月15日から12月29日まで番組を休む。
  • 9月29日に30分放送時間を延長したスペシャル版「15周年だョ!全員集合」が放送される。1日限定で「少年少女合唱隊」が復活。視聴率は1984年度の最高視聴率26.4%を記録。この回をもって、オープニングの入場行進が最後になる。
  • 10月6日の放送から、最終回までのメイン収録会場がTBSのGスタジオに切り替わった。その影響でオープニングの入場行進が正式に廃止され、タイトルロゴも動きのあるものから、ロゴが画面いっぱいにズームされるものに簡略された(ただし、この放送より前も、時間が押している場合はオープニングテーマが短縮されていた)。またこの日は、前に放送されている『クイズダービー』にもドリフターズが出演した(いかりやは解答者。加藤・仲本・志村は賭ける側としての出場者。高木は脚のケガの治療のため不参加)。しかし、同番組は収録扱いのため、ドリフターズは定刻通りに会場でスタンバイしていた。スタジオ収録に切り替え後は、大仕掛けの屋台崩しは大幅に減少。また前半コントが終わり、舞台を撤収する際に流れるゲイスターズの演奏が、Gスタジオ収録の場合は事前に録音されたBGMを流す様になった。最初のゲストにも変化があり、15周年スペシャルを区切りに常連の郷ひろみ(最終回では出演)、沢田研二、細川たかしなどの大物ゲストの出演が大幅に減り、若手アイドルのゲスト出演が増加する。Gスタジオでは、回り舞台は一度も使用される事はなかった。スタジオ収録に切り替わってからは、観覧募集の場合は、公会堂での収録では表記はされない「ご家族をご招待」・「グループをご招待」という記載が追記されるようになった。
  • 12月1日、入間市民会館から生中継。2ヶ月ぶりのスタジオ以外の会場からの生中継となった。この日を最後に東京以外での生中継が完全に終了。これ以後月に1回のみ日本青年館ホールでの放送(4月のみ渋谷公会堂)、それ以外はTBSのGスタジオからの放送になる。
  • 長年続いた、オフィスを舞台にした会社コントがこの年をもって終了。
  • この年の年間平均視聴率は18.2%と遂に20%台を割り込み、同じく19.5%を記録した『ひょうきん族』に遂に抜かれた。

1985年[編集]

  • 番組終期、ライオン以外の2社(ロッテ・日産自動車)がこの枠の提供スポンサーから外れる(両社は『ザ・ベストテン』の提供へ移動)。ライオン筆頭提供はそのままに、味の素三菱鉛筆などを新たに加え5~6社提供となる(後述の『ドリフフェスティバル』と後継番組『加トちゃんケンちゃん~』でも引き続き提供)。
  • 1月5日の放送からケガのため休んでいた高木が正式に復帰。またこの回は、全803回の放送の中で唯一のゲスト出演者がいない回となった。
  • 2月2日、前半コントで回り舞台を生かした忍者コントを披露。バンドセットまで撤収するほどの大きさだったために、長山洋子角川博の曲のみ生演奏ができずカラオケでの披露になる。後半コント終了後の小林幸子の歌唱シーンの時に「岡本章生とゲイスターズ」のテロップが出る。
  • 2月以降の視聴率は12%~23.6%の間を推移し、常に『ひょうきん族』の後塵を拝す状況となった。
  • 6月1日の放送で、全員集合最後の回り舞台を使用。
  • 7月19日、ついにTBSが「1985年9月限りで番組を終了する」と正式に発表。TBSは番組終了発表の中で「生放送を公開形式でやっていくことには限界があった。ナンセンスギャグもやり尽くした」ことを理由に挙げていた[38]
  • 7月27日8月31日、6週間に渡り、メンバーが選んだ夏休み傑作特集を放送。1週目には、生放送の舞台裏を特集。
  • 9月7日、全員集合最後のスタジオ以外の公会堂での生中継になる。
  • 9月14日、この回をもって後半コントが最後を迎える。
  • 9月21日、16年間のゲスト歌手の歌い納めは、岩崎良美の「愛がひとりぼっち」であった。
  • 9月28日、最終回を迎える(この日はTBS・Gスタジオからの生放送)。荒井もゲストで出演。前半は母ちゃんコント、後半は番組の名場面集を放送した後、ゲスト出演者からドリフターズに花束が贈られた。花束贈呈の後、いかりやは「この番組に対する長い間のご声援、またはご指導本当にありがとうございました。僕らごときが16年間頑張って来られましたのも、ひとえに皆様方の熱いご声援あってのおかげと一同本当に心から感謝致しております。どうも本当に長い間ありがとうございました」と挨拶し、視聴者に感謝した。その後、フィナーレでは通常通りエンディング曲を出演者全員で大合唱する中、天井から大量の紙吹雪がステージ一杯に降った。最後は加藤が「長い間ありがとう」「元気で!」などと視聴者に呼びかけ、いかりやが「ありがとうございました」と話し改めて視聴者に感謝。そして観客がスタンディングオベーション状態になり、画面下部に「長い間ありがとうございました 8時だョ!全員集合」の字幕スーパーが出て番組は終了。通算16年間・803回の歴史に幕を閉じた。34.0%の高視聴率を記録した[22]

番組終了後[編集]

  • 1985年10月5日には、一般視聴者が見たい名場面を電話リクエストで受け付けるという2時間の特別番組『電リクだョ!全員集合』(司会:生島ヒロシ)が生放送され、翌週の10月12日から12月28日にかけて、総集編『ドリフフェスティバル・全員集合ベスト100』が毎週・計12回放送された(一部系列局は翌年以降に再放送されている)。番組枠はその後、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』に引き継がれ、ドリフメンバーによる番組シリーズは『KATO&KENテレビバスターズ』の最終回が放映された1992年9月26日まで続くことになる。ただし、この全期間に出演していたのは加藤のみである。
  • 1989年4月1日・10月・1990年4月4日・10月5日1991年4月3日の計5回、『全員集合スペシャル』として過去の名場面集が放送された。1989年10月の放送(このときは『全員集合スペシャル2』というタイトルだった)ではいかりやと生島ヒロシ(『全員集合スペシャル』のナレーションも担当)のトークを交えて放送された。なお、1989年10月の放送の第2弾は当初、プロ野球中継中止の際のレインコート番組として組まれていたが、最初の週(10月4日)は予定通りプロ野球中継が行われたため放送延期。その翌週(10月11日)も当初はプロ野球中継(このときはパ・リーグの優勝争いに絡む試合があったため)が放送される予定だったが、雨天中止となったため放送された。
  • 2001年
    • 8月11日にはNHK『思い出のメロディー』で、すわを含めたドリフメンバーによる全員集合が再現された。オープニングの後、前半はいかりやによる点呼ネタを軸とした進行で「ドリフのズンドコ節」、「誰かさんと誰かさん」の2曲を披露。「学校コント」を挟み、『飛べ!孫悟空』の挿入歌「ゴー・ウエスト」をすわを含めた6人で歌った。後半は加藤・志村による「ヒゲダンス」が披露され、ラストの「ドリフのビバノン音頭」では加藤による視聴者への呼びかけも復活した。
    • 12月31日には『第52回NHK紅白歌合戦』で、この回の出場歌手(ドリフのヒットメドレーを歌った)でもあるドリフ主演のアトラクションコーナーで少年少女合唱隊(番組では少年少女聖歌隊)が復活し、北島三郎松田聖子西城秀樹和田アキ子などの当番組にゲスト出演した経験がある歌手・モーニング娘。氷川きよしなど現代のアイドルが参加した早口言葉が放送された。紅白対抗ということで、衣装は通常の白から紅組(女性歌手)は赤のベレー帽に赤いスモックといういでたちだった。また、初盤のショーコーナー「Kids Dream」開始前にいかりやが登場し、当番組のオープニングコールを行った[39]。この時の視聴率は51.5%で歌手別、コーナー別視聴率では2番目の高さだった。後述の通り、2004年にいかりやが死去した為、この紅白出場時のメドレー・少年少女聖歌隊・コーナーオープニングコールが、ドリフ5人での「全員集合」の再現としては最後となった。
  • 2004年
    • 3月20日にリーダーのいかりやが死去した際、1週間後の3月27日にスタジオ追悼番組として『追悼緊急企画 長さんだョ!全員集合』を19時から約2時間放送。司会はTBSの斎藤哲也アナウンサーが務め、ドリフターズのメンバー(仲本はスケジュールの都合により番組前半はVTR、終盤は電話での出演となった)を迎えて放送され、20.1%の高視聴率をマークした。番組内でも20時(午後8時)ちょうどに『全員集合』のオープニングVTRを流した。この他、前半コントの舞台裏の映像も公開された。この映像は、1985年7月20日に夏休み傑作特集の1つのコーナーで放送されたものをそのまま使用した。
    • 4月10日には全員集合と『ごきげんテレビ』の名場面を振り返る特別番組として『加トちゃんケンちゃんドリフの全て見せますスペシャル』を19時から約2時間放送。当初3月27日放送予定が上述のいかりや追悼特番の為、2週遅れでの放送となった(詳細は同番組の項を参照)。
  • 2003年にドリフターズのメンバーが全員集合してドリフ結成40周年を記念し、一度だけ『全員集合』を復活したいとの声があったが、翌年にリーダーのいかりやが死去したことに伴い実現不可能かと思われた。しかし、のちに『全員集合』のDVDの売上げが好調であったため、2005年10月2日にTBSテレビ放送50周年特別番組として放送された『中居正広のテレビ50年名番組だョ!全員集合笑った泣いた感動したあのシーンをもう一度夢の総決算スペシャル』の目玉企画として復活した。この回はTBS・Bスタジオからの生放送となった。
  • 2008年
    • 6月25日には『水トク!』で「番組発生40周年記念!!8時だョ!全員集合SP」と題した特別番組を放送。この日は同番組のDVD第3弾が発売される3週間前であった(一部系列局では翌年に再放送が行なわれたところがある)。
    • 12月26日には『バラエティー番組誕生50年記念!8時だョ!全員集合年末スペシャル』と題した特別番組を4時間にわたり放送。『全員集合』の名場面だけでなく、後継番組の『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』の名場面もあわせて放送された。
  • 2009年
    • 4月1日には『JNN50周年記念 ハイパーバラエティウィーク』第3日のプログラムとして『ザ・ドリフターズ結成45周年記念!!8時だョ!全員集合SP』と題し、3時間半にわたり放送。この年は番組誕生から40周年を迎える節目の年となる。前回の年末の放送に続き、『全員集合』の名場面だけでなく、後継番組の『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』の名場面(探偵物語・おもしろビデオコーナー)もあわせて放送。本番30秒前時点での放送当時のリハーサルも放送された(本番開始数分前から本番終了後数分までノーカットでVTRテープを回していたため)。
    • 9月23日には『JNN50周年記念 8時だョ!全員集合SP』と題し、19:50~22:54で放送。首都圏以外の地方会場での回を中心に放送された。なお、この日の同番組オープニングの一部として、9月8日横浜スタジアムで行われたプロ野球横浜(現・横浜DeNA)VS巨人」戦の試合前に、同試合で始球式を務めた加藤の「8時だョ!」に続けて観衆が一斉に「全員集合!」と唱和するパートを収録した。
  • 2010年
    • 3月18日には『懐かしのいかりや長介大爆笑スペシャル!!』として、フジテレビ(映像提供:TBS)で、オープニング・公開コント(忍者)・最終回のフィナーレを放送した。
    • 3月31日には『ドリフ伝説最終章 8時だョ!全員集合 大笑いの4時間SP!』と題し、19:00~23:00で放送。
    • 12月31日にはTBS開局60周年記念の一環として『大晦日だョ!全員集合』と題した特別番組を17:30~20:54に放送。『全員集合』の名場面だけでなく、後継番組の『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』に加え、人形劇『飛べ!孫悟空』の名場面も合わせて放送された。因みに加藤は裏番組の『年忘れにっぽんの歌』(テレビ東京系列。17:00~21:30)にも出演。
  • 2011年8月25日には読売テレビ日本テレビ系で放送された『ダウンタウンDX』で加藤がゲストに出演した関係で1977年5月14日放送(セットが火災・取手市民会館)と1984年6月16日放送(会場が停電・入間市市民会館)の各一部が放送された。
  • 2017年10月28日から12月10日まで、東京・杉並区立郷土博物館分館(天沼弁天池公園内)にて企画展『8時だョ!全員集合展』が開催された。同展では1970年8月8日に旧杉並公会堂で行われた公開生放送の様子や、コントのセットの図面、台本などを展示した[40]
  • 2020年
    • 2月10日放送の『歌のゴールデンヒット』で、当番組開始1週間前の1969年9月27日に放送された、同年秋改編の新番組を紹介する番組『秋のスタジオ見学』より、第2回放送分の中から「ドリフでドボン」と「医者コント」(いしだあゆみが患者役で出演)を放送した。
    • 3月29日にドリフターズメンバーの志村けんが死去したため、その2日後の4月1日に放送された、TBSの朝8時からのワイドショー番組である『 グッとラック!』では8時の放送開始と同時にいかりやの当番組での「8時だよ!」の掛け声から番組が始まり当番組のオープニングテーマが流れるという演出が行われた。
    • 8月22日放送の『24時間テレビ 「愛は地球を救う」43』内のドラマ『誰も知らない志村けん -残してくれた最後のメッセージ-』の冒頭でオープニングと母ちゃんコント(1984年3月31日放送分)の一部が放送された。
    • その翌日の8月23日放送の24時間テレビでは番組内のコーナーの一部として、同日午前9時頃から「加藤茶の呼びかけでドリフ復活!」と題してドリフが復活。そのコーナーの中でオープニング、母ちゃんコント(前日の放送分とは別)、剣道コント、ヒゲダンスなどの一部のコントが、映像提供:TBS「8時だョ!全員集合」として放送された。
    • 12月31日TBSチャンネル2にて『年またぎ!「8時だョ!全員集合」集中放送』と題して20時から14時間にわたり15話連続で再放送された[41]
  • 2021年
    • 2月7日よりTBSチャンネル2にて、日曜9:00 - 10:00の枠で週1回放送(放送順は上述の年越し集中放送と同様)。
    • 3月28日にフジテレビ系列にて、『春だ!ドリフだ!みんなあつまれ全員集合!』(映像提供:TBS、企画制作:イザワオフィス)として、19:00 - 21:54に放送された。テレビ局の垣根を超えた一挙蔵出しとなり、志村けんの初登場場面等も放送された[42]

これまでの会場[編集]

生放送は日本各地の市民会館や大型体育館を使って行っていたが、次第に関東近辺の市民会館のみで行うようになり、末期になるとTBSのスタジオを使うようになった。

東京都
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広島県
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宮崎県
TBS局内スタジオ

番組発の流行[編集]

本番組からは、当時の小学生に影響を与えたギャグが誕生した。幾つかの代表的なものを記す。

流行語(出演者別)[編集]

CMや別番組からのコピーを除く。

  • いかりや長介
    • オィッスー!
    • いってみよー!
    • さあ後半まいりましょう、後半しゅっぱ〜つ!(番組後半のコント開始時の決まり文句で後半開始時には自ら指揮を執っていた)
    • 番号!(加藤:1!高木:4!)出発!!(後述の志村・仲本のノミ行為で「三人ドリフ」時に「探検コント」の隊長に扮したいかりやのギャグ)
  • 荒井注
    • なんだバカヤロー
    • This is a pen!
  • 加藤茶
    • 1、2、3、4、やったぜカトちゃん!!
    • くるりと回ってうんこチンチン
    • いっかりやに、怒られた(または、「いかりやさんに怒られた」)
    • ちょっとだけよ〜。あんたも好きねぇ〜。(この言葉は当時PTAの槍玉に挙げられた。また伴奏曲の「タブー」(ペレス・プラード楽団風のアレンジ)は、当時はストリップ劇場のBGMとして広く親しまれていた。いかりや長介も1973年9月15日放送回の病院のコントで1度だけ行ったことがあったが、直後仲本に蹴飛ばされてオチとなっている)
    • どうもスンずれいしますた
    • 風呂入れよ!
    • 痛いの痛いの飛んでけ〜
    • いや〜まいった!まいった!(仲本とのペア。志村時代にはほとんど使われなかった)
    • 母ちゃん、いっぽんつけろや(「母ちゃんコント」の最中、子供の役で登場しつつこれを言う)
    • タバコ シル!(といいながら、シャツをまくる)
    • 平賀整形外科!(いかりやを指して)
    • やはり人形は顔が命です。吉徳大光作ブス人形!!(いかりやを指して)
    • 5秒前、4、3、2、1、デーン(変な顔をする。ノミ行為で志村・仲本が謹慎となったいわゆる「三人ドリフ」時に、いかりやが苦し紛れに編み出したもの。舞台の左端でやったら再度右端で、といった感じに使用された)
  • 志村けん
    • お前、それはないだろ~!(上の立場にいて横暴の限りを尽くすいかりやに対して、報復手段として小馬鹿にした態度で「ため口」を叩く、というのが基本パターンだった。ちょうど「東村山音頭」のブレイクと時期的にリンクしており、言い回しはモノマネで登場する橋幸夫のようであった)
    • ちょっとちょっと!いかりやさん! おい!いかりや! おじさん!! マラリヤさん!! ギモール!!(上記と同じパターン。最後のギモールは、当時いかりやが実際に使用していたふりかけタイプの頭髪用化粧品)
    • カラスなぜ泣くの カラスの勝手でしょ(童謡「七つの子」の替え歌フレーズ。このフレーズも当時PTAの槍玉に上がった)
    • おこっちゃヤーヨ!(相手、特にいかりやを怒らせた時に取る、肘を前にして腕を突き出すポーズ。「アイーン!(実際にそうしたギャグは存在しなかった)」の原型はこれと下記のものに、ドリフ大爆笑でも加藤と志村がやっていた「ニン」とのポーズとを合成したものである)。
    • なんだ!(あんだ!)バカヤロー!!(荒井注のギャグにアントニオ猪木のフレーズを織り交ぜて、志村なりにアレンジしたもの。下あごを突き出すのもここから派生した。上記とともに「アイーン!」の原型)
    • 最初はグー(仲本とのじゃんけん決闘。「最初はグー、いかりや長介(チョキ)、頭はパー」などと発展。これ以後じゃんけんの掛け声の前に「最初はグー」が付くようになった。志村が大人数で酒を飲んでいた際、酔ってなかなか手が揃わないことから思いついたという。このギャグがきっかけで現在では日本中に認知され、一般的に用いられている)
    • ア〜ミ〜マ〜、ユ〜ヤ〜ユ〜、ミズヒムヒ~、シ〜ホ~ヒ~(「I, My, Me」「You,Your,You」などのデタラメな用法。学校コントより発生。この言葉は、子供がデタラメな英語の用法を覚えるということで、当時PTAの槍玉に挙げられた。また後に『飛べ!孫悟空』でも使用された)
  • 仲本工事
    • はいポーズ!
  • 観客(公開生放送が売りのこの番組にとって観客も重要な者の一人である)
    • 志村!後ろ!後ろ〜!!(志村が一人になったときに後ろからお化けなどが出てきて志村が気づいていない時に観客が叫ぶ。この「後ろ〜!後ろ〜!」は、実際のギャグの間の取り方にも使用。このことは、いかりや自身の著作である「だめだこりゃ」に書かれている)

いかりやの「だめだこりゃ」、「次いってみよう」はフジテレビドリフ大爆笑』から、加藤の「加トちゃんペッ!」は日本テレビ『ホイホイミュージックスクール』から、仲本の「コ・マ・オ・ク・リ・モ・デ・キ・マ・ス・ヨ」は松下電器産業(現:パナソニック)のホームビデオ「マックロード」のCMから、志村の「キントキント〜」はドリフターズ出演の人形劇であるTBS系の『飛べ!孫悟空』からそれぞれ生まれた流行語である。加藤と志村の「もう酒」「やめますか?やめられない?」はロート製薬の「パンシロン液」(正式にはパンシロン胃腸内服液)のCMでのギャグだが、『全員集合』のコントでも披露されたことがあった。

流行ギャグ(出演者別)[編集]

  • いかりや長介
    • メガホンどつき
    • ダメだこりゃ
  • 荒井注
    • いじわるじいさん
    • 先生と同級生の落第し続けた小学生
  • 加藤茶
    • ストリップ嬢(ちょっとだけよ)
    • ドジなおまわりさん
    • はげづらおやじ(加藤茶太郎)
    • オエ〜ッ
    • ヘーックション!!(くしゃみ[44]
    • 5、4、3、2、1、デーン(寄り目)
    • ヒゲダンス(志村とのペア)
    • 歌舞伎役者
    • カトちゃん、ペッ!
  • 志村けん
  • 仲本工事
  • 高木ブー
  • すわしんじ(後のすわ親治)
    • ブルースリー
    • 鏡に映った志村けん(沢田研二がゲストの時は沢田がやることもある)
    • 奇声
  • 桜田淳子
    • 夫婦コント
  • 小柳ルミ子
    • 浮気コント(志村との二人羽織)

名物キャラクター[編集]

名物小道具[編集]

金ダライ
金ダライといえばドリフとも言うべき定番小道具である。まず最初にヤカンボウルが落下してきて、その後に金ダライ、というのがパターン。多くは仕掛けやスタッフによる落下が常だが、ドリフメンバーが他のメンバー(主にいかりや)にめがけて落下させることもある。金ダライは他のコメディ系バラエティ番組にも波及し、ドリフメンバーによる『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』や『志村けんのバカ殿様』はもとより、他のコントグループ、番組でも「ネタに困ったら金ダライ」というような使われ方が、現在もなおしばしば見受けられる。
天板が外れる机
学校コントや会社コントでズッコケの時の効果が出るように、いかりやの机の片側が軸になり、天板の手前側を強く押すと反対側が跳ね上がるようになっていた。いかりやがずっこけると顔面を机の天板が直撃する。なお、顔面直撃の際にいい音が出るように材質はトタンを用い、また、リハーサルで用いたものはそのまま使わずに本番前に新しいものに付け替えていた。
メガホン
いかりやがツッコミに使う小道具。忍者やコンバットコントなどでツッコミを入れる時にメガホンで相手の頭を叩く。本来の拡声器として使われることは少ないが、その場合は遠く広く声を飛ばすのではなく、メンバーの耳元で怒鳴る事が多い。また、それをやる・やられるのは加藤・志村が多い。

時折メガホンが叩いた影響で横に広がって変形する事もあった。

鈍器
鈍器ではあるがハンマーやバールの類ではない(ただし、金槌は使われたこともあった)。一斗缶海苔缶のフタ等、視覚的、聴覚的に派手なものが使われる。志村や加藤のオーバーリアクションが特に一般に受けた。一方、いかりやは(特に志村に)全力で殴られるため、本番中に痛がっていたこともある。変形し衝撃を吸収しやすい素材であるため、打撃力はそれほど大きくないが、「子供が真似をしたらどうするのか」と前述の金ダライ共々槍玉に挙げられた。なお、一斗缶は叩かれた際、痛くないようにするためと音が強く響くようにするために上蓋を1枚まるごとくり抜いて外してある。しかし、志村はあえて一斗缶の角でいかりやに殴りかかることもあった。

スタッフ[編集]

  • 作・構成田村隆塚田茂、前川宏司、奥山侊伸、佐々木史朗、大倉徹也][45]、福地美穂子、松原雅彦、堀英伸、宮田和実、松岡孝、かとうまなぶ、石川雄一郎、下山啓、鈴木哲、栽松美晴、原すすむ、前田昌平、前岡晋、小川美篤、柊達雄、高田文夫 ほか
  • 音楽たかしまあきひこ/山本直純、青山勇
  • 振付:一の宮はじめ
  • 技術:市川英夫、佐藤満、村上敦彦、大野健三、橋本英一
  • TD:三島木好光、太田博、木村敦彦、日野治隆、大野健三、椙浦正明、斉藤清一、倉松賢三、遠藤和夫、小林稔雄
  • カラー調整:新田隆、中島章、小林忠雄、斉藤清一、白取靖弘、山田茂、佐藤満、佐藤利弘、西沢正捷、岩永義輝、山中正弘
  • 映像:平沢一夫、椙浦正明、田名部誠一、佐藤満、鈴木克彦、遠藤和夫、佐藤秀樹、村上敦彦、小林稔雄、梶一郎、浜田泰生、三島木好光
  • 音声:大野信弘、秋吉隆伸、椎木洋次、古川守、山岡三郎、飯島雅宏、丸山勝、浜田毅、和田英雄、山田紀夫、山下泰弘
  • 照明:吉田武志、橋本英一、和気文雄、松村劦、小島久明
  • 音響効果:飯田寿雄、若林宏夫、鈴木敏夫、大鐘信慶、平田研吉、荒井忠利
  • 美術デザイン:山田満郎(第1 - 765回)、浦上憲司(第766回 - 最終回)
  • 美術製作:西川光三
  • 演出:中村寿雄、井原利一、副島恒次、峰岸進、西川章、服部晴治、豊原隆太郎、平山賢一、赤地偉史、中畑義昭、保坂奉正、東修、高柳等、久世光彦、西内綱一、深尾隆一、水留章、加藤嘉一難波一弘
  • 演出→プロデューサー:古谷昭綱、森本仁郎、塩川和則、髙橋利明[46](1982年9月4日 - 1985年9月28日)
  • プロデューサー→制作:居作昌果 (1969年10月4日 - 1982年8月28日)
  • 企画:渡辺プロダクション[47]
  • 製作著作:TBS

演奏台の背景デザイン[編集]

岡本章生とゲイスターズのいる演奏台(バンドステージ)と背景のデザインは年代により変わっている。

  • 初代デザイン:ひげ柄をモチーフにしたデザイン。背景の頭上に当時のスポンサーである『日立』、『ライオン歯磨、油脂』の看板が掲げられていた。1969年 - 1971年前半。
  • 2代目デザイン:丸の形をいくつか重ねたような七宝文のデザイン。9代目と同じデザインだが、2代目が七宝文のサイズが大きく、円弧部分に色が付いている。1971年後半 - 1972年前半。
  • 3代目デザイン:左右対称の三角形の斜辺部分を湾曲したデザイン。1972年前半 - 1972年後半。
  • 4代目デザイン:丸や楕円形をモチーフにしたもの。1972年後半 - 1973年前半。
  • 5代目デザイン:枠の中に丸をモチーフにしたもの。1972年後半 - 1975年7月(廻り舞台のない週に設置されていたが、廻り舞台のある週でも設置されていたことがある)。
  • 6代目デザイン:三角をモチーフにしたもの。1973前半 - 1975年7月(廻り舞台のない週に設置されていた。また週によっては、前代の5代目のデザインと併用して使われることも多かった)。
    • 初代から6代目デザインの演奏台は基本は橙色だが、6代目デザインの演奏台や7代目デザインの演奏台もあった。
  • 7代目デザイン:三角をダイヤモンドの様にモチーフにしたデザイン。1973年後半 - 1975年7月(廻り舞台のある週、演奏台は常時同じデザインに固定されている)。
  • 8代目デザイン:左右対称の三角をモチーフにしたデザイン。1974年前半 - 1975年7月(廻り舞台のない週に設置されていたが、廻り舞台のある週でも設置されたことがある。演奏台は7代目デザイン)。
  • 9代目デザイン:丸の形をいくつか重ねたような、"七宝文"をモチーフにしたデザイン。廻り舞台のある週とない週とでは、配色が異なる。1975年8月の「夏休み傑作特集」期間明けとなる1975年9月 - 1985年の最終回,2005年10月2日の「復活特番」(常時、同じデザインに固定。1回だけ正月の絵画が掲げられていた)。
    • 番組の背景デザインとしては最も長い10年間も使用され、番組の象徴を表す最も知られているデザインである。番組DVDのディスク表面、ジャケットおよびあらすじが書かれている「コントファイル」も一部この背景デザインが使われている。なお、初期のバンド席(ボックス)には「TBS」(旧ロゴ<1991年9月までのもの>)が入っていた(これは『TBS歌のグランプリ』でも同様である)。のちにゲイスターズオリジナルのものを使用するようになった。
    • 全国の様々な会場で生放送を行ったため、会場の規模によって、2種類の大きさのもの(横幅の狭いもの・広い物)が使い分けられていた。
  • 1975年4月26日の倉敷市民会館と、1976年3月6日の新潟県民会館からの生放送では、バンド席(ボックス)ではゲイスターズオリジナルのものでなく、それぞれ山陽放送の略称である「RSK」ロゴ・新潟放送の略称である「BSN」ロゴ(1992年3月まで使われていた1世代前ロゴ)と、各放送局のロゴが入っていたものを使用していた。
  • 廻り舞台のある週では背景デザインは2分割になっているか、アクリル板の後に白い幕で覆っていた。
    • 舞台の回転によってバンド席が現れた後に上半分のデザインが会場の美術バトンにより降ろされ上下一体化するようになっている。
  • バンド席の配置も会場により異なり、横1列(ほとんどが9代目デザイン以降)の場合や上下2段、TBS・Gスタジオでの収録では3段配置となっている。ただし、1985年9月21日放送分(第802回)のみオーケストラコントを行った関係上、Gスタジオでも横1列の配置が見られた。

出演者[編集]

レギュラー[編集]

尚、上記7人の中で803回全ての回に出演したのはいかりやのみである。[49]

殺陣[編集]

コーラス[編集]

  • コールアカシア
  • ライトエコーズ

演奏[編集]

  • 高橋達也と東京ユニオン(第1回・第640回)
  • ニューシャープオーケストラ(第2 - 4回)
  • 森剛康とゲイスターズ(第5回 - 1973年)
  • 岡本章生とゲイスターズ(1973年 - 最終回)

ゲスト出演者[編集]

16年間の最多ゲスト出演は小柳ルミ子だった。 ドリフ8 『サインはV』の立木大和バレー部メンバー、三船敏郎若山富三郎菅原文太加山雄三田宮二郎といった特別ゲストもしばしば登場した[50]

男性[編集]

女性[編集]

番組にまつわるエピソード[編集]

  • 当初企画段階で、TBS社内外から「ドリフよりも世間に名の知れているクレージー(ハナ肇とクレージーキャッツ)を使った方がいいのでは」という声があった。
  • 番組初期には、ミゼットレスラーのコーナーもあったが、すぐに消滅した。理由は不明だが、ミゼットレスラーを笑いのネタにすることによって差別やいじめを助長するという批判により、打ち切られたという記述の文献がある[55][56]
  • この番組が放送されている時期のTBSの4月や10月の番組再編成の時期に放送される特別番組は『4(10)月だョ!全員集合』(2時間番組で火曜日夜に放送、土曜日昼にも再放送された局もある)と題され、ザ・ドリフターズが進行役として出演していた。番組後半の「少年少女合唱隊」は出演者全員が参加し、非常に好評だった(早口言葉もやったことがあった)。また、特番(末期)の中で史上最大のドミノ倒しが行われる時は、ドミノの最初の牌を倒すのは必ずいかりやだった。
  • 1980年代の1インチVTRが登場するまで、生放送の同時録画は2インチVTRが使われていたが、当時はテープが高価(60分あたりの当時の単価は10万円)だったために他の番組ではほとんどが消去される中、この番組は第2期開始の1971年10月放送分以降1985年9月の最終回までほぼすべての回がVTRテープに記録され保存されている(TBSのバラエティー番組の中では2インチVTRで最も多く残されているとされている)。これが後のリクエスト特集などの特別番組やDVD化に活用された。ただしDVD版の収録に選ばれたコントは、ステレオ放送化された1982年以降のものが比較的多く選ばれている。横浜市放送ライブラリーには、1978年3月4日放送の第412回と1984年9月29日放送のスペシャル版「15周年だョ!全員集合」が保存されている。70年代後半までは歌番組の映像もほとんど残されていないため、ゲストの歌のコーナーの映像が貴重なライブラリーとなっており特番などで利用されることも多い。歌手によっては本番組出演時の映像しか当時の歌唱映像が残されていない歌も多い。
    • 特別番組放送時とDVD化された作品の一部にはボカシの映像処理により一部の表示テロップを伏せている部分がある。これは放送素材のVTRテープ(主に1970年代前半のもの)にCMテロップ(当時は番組本編中、画面下に商品名や企業名のテロップを数秒表示することも珍しくなかった)や提供クレジット(開始初期は前半・後半に分けていたが、後に1つの枠に統一された)・その週の中継会場の名称テロップがそのまま入っていたためである。なお、CMテロップは志村加入と相前後して廃止された。
  • いかりやが後にインタビューで「決して子ども向けの番組にしたつもりはない」と述べている通り、加藤のストリップを題材にしたギャグや人形の首をちょん切るギャグ、小型のギロチンを使うシーン(実際に切ったのはスイカ)などがあり、他にもシュールなネタや下ネタが所々で含まれるなど、後世に言われるほどファミリー層向けの内容ではない。
  • 生放送であった故に、楽屋オチは一切禁止されていた。加藤がアドリブで楽屋オチを行った際にはなべおさみを通して渡辺晋直々に加藤が叱責を受けた。ただし、これは番組前期の事であり、後期はドリフが渡辺プロから離れた影響もあり、楽屋ネタがアドリブでよく出てきていた。
  • 裏番組『オレたちひょうきん族』のメインキャストであったビートたけしは、この番組を「今見ても面白い」「それは完璧に計算して稽古して作り上げたものだからだ」と高く評価している。一方で自身が担当した『ひょうきん族』については「今になって『ひょうきん族』を見ても面白くも何ともない」「古臭くて笑えるもんじゃない」とし、『ひょうきん族』で行った楽屋話的な笑いを「芸の笑いとは別のもの」と述べている[57]
  • 学校コントは基本的に机と椅子があればネタができるため製作費がほとんどかからないコントだった、このため、大掛かりなセットを組んで予算がオーバーした翌週などに、予算調整目的で学校コントをすることがよくあったとのこと[58]
  • 仲本によると、「『全員集合』における一番の敵は『ひょうきん族』などの裏番組じゃなく、体調不良だった」という。これは何日もかけて打ち合わせ・稽古をして作られる同番組において、1人でも体を壊して休んでしまうとコント内容の変更などが大変なためとのこと。このため、メンバー全員ちょっとでも体に異変を感じたらすぐに病院に行き、体調管理だけは徹底していたという[58]
  • 『全員集合』の放送期間は、生放送を終えてもメンバー同士で飲みに行くことはしなかった。これは、仲が悪いわけではなく当時ハードスケジュールで少しでも体を休めたいとの考えや個々のプライベートを大切にしたいとの考えによるものだった。仲本は後年、「毎週本番が終了したら、メンバーは即解散してそれぞれ散って行った。当時はお互いに仕事終わりにどこでどう過ごしているかなんて一切知らなかった。敢えて私生活に干渉しなかったからこそ、長年『全員集合』を続けることができたんです」と語っている[58]
  • 仲本は後年、「『全員集合』が成功したのは元々僕らがバンドマンだったことが大きかった」としている。「それまでバンドとしてステージで生演奏していたから、『全員集合』みたいな生放送に向いていた。本番中にちょっとしたハプニングなどで急に間が空いても自分たちで繋げる臨機応変さもあった」と語っている。また、「ドリフの強みはリズム感。例えば誰かが“ボケ”を言った途端、他のメンバーが一斉にずっこけるのは音楽のリズムと同じ。一連の流れはある種の“踊り”みたいなものです」と評している[58]

ネット局[編集]

※系列はネット終了時(打ち切り時はネット打ち切り時)のもの

『8時だョ!全員集合』ネット局
放送対象地域 放送局 系列 備考
関東広域圏 東京放送
(TBS)
TBS系列 制作局
現:TBSホールディングス(持株会社に移行。テレビ放送は新法人のTBSテレビが承継)
北海道 北海道放送
(HBC)
青森県 青森テレビ
(ATV)
1974年10月5日にネット開始[59]
1975年3月まではNET系列とのクロスネット局[60]
岩手県 岩手放送
(IBC)
現:IBC岩手放送
宮城県 東北放送
(TBC)
福島県 福島テレビ
(FTV)
フジテレビ系列 1972年4月1日にネット開始、1983年9月24日に打ち切り
1983年3月まではTBS系列とのクロスネット局[61]
テレビユー福島
(TUF)
TBS系列 試験放送期間中の1983年11月26日にネット開始
(正式には開局後の1983年12月10日から放送)
山梨県 テレビ山梨
(UTY)
1970年4月の開局時から
長野県 信越放送
(SBC)
新潟県 新潟放送
(BSN)
静岡県 静岡放送
(SBS)
中京広域圏 中部日本放送
(CBC)
現:CBCテレビ
石川県 北陸放送
(MRO)
近畿広域圏 朝日放送
(ABC)
1975年3月29日まで
現:朝日放送グループホールディングス(持株会社に移行。テレビ放送は新法人の朝日放送テレビが承継)
毎日放送
(MBS)
1975年3月31日の腸捻転解消に伴う移行
1975年4月5日にネット開始
岡山県・香川県 山陽放送
(RSK)
1983年3月26日までの放送免許エリアは岡山県のみ
1983年4月2日からは相互乗り入れに伴い香川県でも放送
現:RSK山陽放送
鳥取県島根県 山陰放送
(BSS)
1972年9月16日までの放送免許エリアは島根県のみ
1972年9月23日からは相互乗り入れに伴い鳥取県でも放送
広島県 中国放送
(RCC)
山口県 テレビ山口
(tys)
TBS系列/フジテレビ系列 1975年4月5日にネット開始
1978年9月まではテレビ朝日系列とのトリプルネット局[62]
高知県 テレビ高知
(KUTV)
TBS系列 1970年4月の開局時から
福岡県 RKB毎日放送
(RKB)
長崎県 長崎放送
(NBC)
1984年4月7日にネット開始[63]
熊本県 熊本放送
(RKK)
 
大分県 大分放送
(OBS)
宮崎県 宮崎放送
(mrt)
鹿児島県 南日本放送
(MBC)
沖縄県 琉球放送
(RBC)

ネットに関する備考[編集]

  • TBS系列局以外への遅れネットはなく、原則同時ネットであった。
  • 当時クロスネット局だった青森テレビ福島テレビテレビ山口の3局は以下の対応が取られていた。
    • 青森テレビはNET系列メインのクロスネット局として開局したため、1974年9月までNET系列の番組を同時ネットしていたが、JNN正式加盟の半年前の1974年10月5日からネットを開始した[59]
    • テレビ山口はフジテレビ系・NET系とのトリプルネット局として開局したため、1975年3月までフジテレビ系列の番組を同時ネットしていたが、1975年4月5日からネットを開始した。なお、同局では『オレたちひょうきん族』は、本番組直前の土曜19時から放送されていた。
    • 福島テレビは1971年10月に実施した福島中央テレビ(現在は日本テレビ系列)とのネット交換(福島テレビはNNN脱退ならびにJNN・FNS加盟)の半年後の1972年4月1日からネットを開始。1983年4月1日にTBS系列メインのクロスネット局からフジテレビ系フルネット局に再ネットチェンジ(JNN脱退・FNN加盟)したが、視聴者保護も兼ねて同年4月2日からはスポンサードネットにより放送していた。しかし同年10月1日のフジテレビ系フルネット局への完全移行に伴い、1983年9月24日放送分をもって打ち切りとなった(打ち切り後は『オレたちひょうきん族』を遅れネットから同時ネットに変更)。このため、福島県では1983年10月から11月19日まで本番組は未放送となっていたが、この年に開局したテレビユー福島が同年11月26日のサービス放送をもって福島県における放送を再開している。
  • 長崎放送は1984年3月まで日本テレビ系列の番組を同時ネットしていたが、1984年4月7日からネットを開始した。
  • なお、未ネット地域の内、山形県ではテレビユー山形開局と同時に、富山県ではチューリップテレビ開局と同時に後継番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』からネットを開始した。

備考[編集]

  • 番組のオープニングテーマ曲のアレンジ版が「キリン淡麗グリーンラベル」のCMに使用されている。このCMには志村けんのほか、公募で選ばれた、ザ・ドリフターズのメンバーに容姿がよく似た外国人5人が出演している。2007年秋からは志村のヒゲダンスを使ったバージョンも放送された。
  • エンディングテーマ曲は、2007年にグリコ「ポスカム」のCMに使用されている(こちらもアレンジ版)。
  • 番組内のコント「志村けんのバカ殿様」のために番組スポンサーであるコナミ(現在のコナミホールディングス、コナミのゲーム諸権利はコナミデジタルエンタテインメントが継承)がファミリーコンピュータソフト『ハイパーオリンピック』のプレイヤーの片方が殿様となっている特別バージョンを製作している。コント内で志村がプレイする姿が好評だったため、1986年1月4日に限定版として市販されている。
  • 2012年[64]に、サントリーが当番組とのコラボキャンペーンを実施している[65]
  • 2020年2月10日放送、「歌のゴールデンヒット」にて、全員集合の最古の映像として、第1回の予告映像(ゲストのいしだあゆみとのコントの一部)が放送された。

関連書籍[編集]

番組関係者による回顧録として、以下の書籍がある。

関連ソフト[編集]

番組の映像ソフトは下記のタイトルが発売されている。制作著作・発売元:TBS、販売元:ポニーキャニオン。いずれも3枚組DVD-BOX。

  • ザ・ドリフターズ結成40周年記念盤 8時だョ!全員集合(2004年1月7日発売 PCBX-50558)
  • TBSテレビ放送50周年記念盤 8時だョ!全員集合 2005(2005年6月24日発売 PCBX-50718)
  • 番組誕生40周年記念盤 8時だョ!全員集合 2008(2008年7月16日発売 豪華版:PCBX-50890、通常版:PCBX-50891)
  • 8時だョ!全員集合 最終盤(2010年3月17日発売 豪華版:PCBE-63402、通常版:PCBE-63403)
  • 8時だョ!全員集合 ゴールデンコレクション(2012年2月15日発売 豪華版:PCBE-63406、通常版:PCBE-63407)[66]
  • 全体的に前半コントは1980年〜1984年の作品が比較的多く収録されている。後半コントも80年代の作品が多いが、荒井注時代や1970年代後半の作品もまんべんなく収録されている。1969年〜1971年の作品は一本も収録されていない。
  • 第1集は33万本を超える大ヒットを記録し[67]、第4弾までで累計約74万本が出荷された[67]

ゲストの歌唱シーンが収録されているソフトとしては以下のものがある。

  • 麻丘めぐみPremium BOX 〜オリジナル・アルバム・コレクション〜』(2009年3月25日発売 ビクターエンタテインメント VIZL-324)付属DVDに『全員集合』出演時の映像を収録。
  • 柏原芳恵『Live&Rarities CD+DVD BOX』(2010年7月21日発売 ユニバーサルJ UPCY-9196)付属DVDに『全員集合』出演時の映像を収録[68]
  • 植木等『植木等スーダラBOX』(2010年11月3日発売 発売元:TBS、販売元:ポニーキャニオン PCBE-63404)ディスク2に1979年4月28日放送分の一部映像(植木が「これで日本も安心だ」を歌う)を収録。
  • 本田美奈子.『GOLDEN DAYS』(2011年10月26日発売 ユニバーサル TOCT-28012)付属DVDに『全員集合』出演時の映像を収録。
  • 桜田淳子『Thanks 40 〜青い鳥たちへ』(2013年10月23日発売 ビクターエンタテインメント VIZL-568)付属DVDに『全員集合』出演時の映像を収録。
  • キャンディーズ『キャンディーズ メモリーズ FOR FREEDOM』(2015年11月4日発売〈ネット通販限定〉 発売元:渡辺プロダクション・渡辺音楽出版・TBS、販売元:ソニー・ミュージックダイレクト DQBX-1222)ディスク2に『全員集合』出演時の歌唱映像のみを収録[69]。TBS番組の映像では他に『ザ・ベストテン』『歌のグランプリ』出演時の映像も収録している。
  • 沢田研二『沢田研二 TBS PREMIUM COLLECTION』(2021年4月28日発売 ユニバーサル POBD-25094/100)ディスク1に『全員集合』出演時の歌唱映像を収録(約84分)。すべてTBS番組の映像で構成し、『ザ・ベストテン』『セブンスターショー』等の音楽番組はもちろん『日本レコード大賞』に出演した当時の映像も収録[70]。なお、ディスク2「on TV」編には『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』で1回だけ歌唱した映像も収録されている[71]

オンデマンド配信[編集]

2013年6月15日からTBSオンデマンドで、23回分のオープニングからエンディングまでノーカットでの配信が行われた[72]。2016年現在、計62回分の映像が配信されている[73]

2016年現在、1969年 - 1971年、1973年 - 1977年の映像は1回分も配信されていない[74]。またOPテロップはスタッフ名を省いてのニュープリント、EDは「次回の出演者」テロップは省いていた[75]

TBSオンデマンドが2018年6月30日を持ってサービスを終了したが、それに先駆け2018年4月1日から動画配信サイト「Paravi」で視聴可能となっている。2019年11月1日からはAmazonプライム・ビデオでも視聴可能となった。

TBSチャンネルでの再放送[編集]

2020年12月31日~2021年1月1日にかけて、CS放送・TBSチャンネル2において『全員集合』初のCS再放送が行われた。12月31日20時より1月1日10時まで約14時間に亘り編成[76]、この時は1979年12月15日(第502回)から1985年6月8日(第787回)までが放送された。

オンデマンド配信と同様、OPテロップはスタッフ名を省いてのニュープリント、EDの「次回の出演者」テロップは省略されている。なお、当時のエンドカード(「8時だョ!全員集合 おわり」と書かれたもの)はそのまま放送されている。

2021年2月7日より週1回、日曜9:00 - 10:00の枠で放送されている(特別編成時は休止)。放送順は同様に15回分(502回~787回)で、15回全て放送した後に再び502回から放送する。

参考文献[編集]

  • 居作昌果『8時だョ!全員集合伝説』(双葉社、1999年9月) ISBN 4-575-29016-5
  • 山田満郎 著/加藤義彦 取材・構成『8時だョ!全員集合の作り方 笑いを生み出すテレビ美術』(双葉社、2001年5月15日) ISBN 4-575-29204-4

脚注・出典[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 「ドリフのズンドコ節」、「ほんとにほんとにご苦労さん」、「誰かさんと誰かさん」など

出典[編集]

  1. ^ 1973年12月から。当初はメンバー見習いとして出演。ドリフターズの正式メンバー入りは1974年4月から。
  2. ^ 1974年3月まで。
  3. ^ 本格的に行うようになったのは1982年1月からだが、それ以前にも1980年5月3日と1981年5月9日放送分でステレオ放送を行ったことがある。
  4. ^ 最後に回り舞台を使用したのは1985年6月1日の日本青年館からの放送で、1985年ではこの回のみだった。
  5. ^ 例外は、TBSが土曜日に開催されるオールスターゲームの放映権を獲得した場合だが、このケースも1977年までは一度もなかった。
  6. ^ 「キイハンターのユミちゃん」は今…女優・大川栄子がライフナビゲーターとして初の著書   |まいどなニュース
  7. ^ TVワースト7 放映の中止を要求 日本PTA全国協議会『朝日新聞』1978年(昭和53年)8月9日朝刊、13版、22面
  8. ^ この「熾烈な視聴率争い」について、当時のひょうきん族と全員集合のスタッフはしばしば会遇し、その際に視聴率は話題に上らなかったと語る関係者の視点もある。(高橋秀樹. “<放送作家40年・日本コント史の裏側>「ひょうきん族」と「全員集合」は視聴率争いなどしていなかった”. 2016年4月8日閲覧。
  9. ^ 『朝日年鑑1986』p.331。
  10. ^ ドリフ「8時だョ! 全員集合」の真実 スタッフ反乱にラクダ失禁も (1/4) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)
  11. ^ 現在では、出演芸能人の生放送での不用意な問題発言によるイメージの瑕疵の発生を芸能事務所側が警戒するようになっている。
  12. ^ 1973年6月10日にシングルとしてリリース。
  13. ^ 1番の歌詞に「5人の色男」という歌詞がある為。仲本と志村が復帰直後も差し替えた歌詞のまま歌われていたが、すぐに元の歌詞に戻った。
  14. ^ 『1955〜1989 ちょっとだけ狂気TVの35年 昭和バラエティ番組の時代』河出書房新社、2018年、P.137 - p.138。
  15. ^ 第1期の最終回(1971年3月27日放送分)ではゲストではなく仲本と荒井が担当、(仲本)「おい、楽しかったな」「仲良くしろよな」(荒井)「いつまで見てんだよ」「もう終わりだよ」という台詞だった。
  16. ^ 年内最後の放送は「餅食い過ぎるなよ」「また来年」。第1期最終回は「長い間どうもありがとう」「別れるのはさびしいけどもさ」「また逢えるもんな」「病気だけはするなよ」、そして最終回は「長い間ありがとう」「元気で」。
  17. ^ TBS 『がっちりマンデー』2012年2月5日放送 ライオンの広告宣伝
  18. ^ 当時、TBSではドリフメインの『突撃!ドリフターズ』が終了し、その後番組で55号メインの『みんなで出よう55号決定版!』をスタートさせたばかりだった。
  19. ^ なお「全員集合」というフレーズは、ドリフのネタでいかりやがメンバーを舞台上に招集するために用いられており、当番組開始以前にもドリフ出演の映画シリーズや、テレビの単発番組(日本テレビ『サンデープレゼント』「全員集合! ザ・ドリフターズ」1967年4月23日放送)等でタイトルに使用されていた。
  20. ^ 居作昌果『8時だョ!全員集合伝説』(双葉社・ISBN 4575711950)
  21. ^ (マダニャイ とことこ散歩旅:137)三鷹通り:10 三鷹市公会堂:朝日新聞デジタル - ウェイバックマシン(2019年9月27日アーカイブ分)
  22. ^ a b c d e f g h i あの時の視聴率/50年の歩み/代表者メッセージ jump50-おかげさまで50年- Video Research - ウェイバックマシン(2018年9月10日アーカイブ分)
  23. ^ なお、この年は土曜日から始まる年だったが、閏年のため大晦日(12月31日)は日曜日だった。
  24. ^ 山陰放送の本社は鳥取県米子市にあるが、相互乗り入れ前は島根県のみをテレビの放送対象地域としていた。なお同局のラジオ事業は開局当初から鳥取・島根両県を放送対象地域としている。
  25. ^ いかりや長介『だめだこりゃ』(新潮社)182頁
  26. ^ 週刊平凡1974年4月11日号42頁
  27. ^ 毎日放送40年史編纂室(編集) 『毎日放送の40年』 毎日放送、1991年、365頁。 
  28. ^ これより前の4月1日に放送された『20年だョ!全員集合』ではストロンガーの他、城茂(仮面ライダーストロンガー)役の荒木茂と岬ユリ子(電波人間タックル)役の岡田京子が出演、ドリフと共演した。
  29. ^ 2日に放送出来なかったのは、『UFOロボ グレンダイザー』『世界名作劇場』(この年は『あらいぐまラスカル』)『オールスター家族対抗歌合戦』といった人気番組が編成されていたため。
  30. ^ なお、この年の元日未明(1979年12月31日深夜)に民放92社共同で放送された同社提供の特別番組『'80年未来をこの手に!』(司会:西田敏行)は新会社誕生を記念したもので、同番組にはドリフも出演した(厳密には当時の民放テレビは93社で、このうちびわ湖放送は大株主である滋賀県の意向により放送を拒否した)。
  31. ^ ただし第522回・575回放送分のマスターテープはモノラル音源で残されているため、当時のステレオ音声での再生は不可能となっている。
  32. ^ TBSを除く在京キー局の夜のスポットタイムは、1975年秋からすでに6分に変更されたが、TBSは5分のままだった。
  33. ^ 19:30の『クイズダービー』は18:30 - 19:30に繰り上げ拡大し、『お年玉だョ!クイズダービー』として放送。
  34. ^ 「8時だョ!全員集合 伝説」 双葉社刊
  35. ^ 放送再開は1983年12月10日放送分(厳密には11月26日の試験放送)からであり、当日はテレビユー福島開局記念として福島市市民会館から公開生放送された。
  36. ^ 1984年元日夜には恒例特番『'84新春レコード8社対抗オールスター大運動会』を19:00 - 20:54枠で放送した。
  37. ^ 白夜書房『笑芸人』1999年冬号のデータより。以下の視聴率記述についても同様。
  38. ^ 『朝日年鑑1986』p.331。
  39. ^ なお、8時になって4分過ぎた為、実際は「8時4分過ぎだョ!全員集合」というコールで行った。
  40. ^ “ドリフの舞台裏展@荻窪”. Around Tokyo:朝日新聞デジタル. (2017年12月5日). http://www.asahi.com/articles/DA3S13260694.html 2017年12月13日閲覧。 
  41. ^ “ドリフ「全員集合」傑作選14時間ぶっ通し放送 テレビ初の再放送で志村さん追悼”. スポーツニッポン. (2020年11月9日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/11/09/kiji/20201108s00041000574000c.html 2021年5月11日閲覧。 
  42. ^ “フジ「志村友達」いったん3月終了 今後はSPに 3・28特番に異例の「8時だョ!全員集合」コントも”. スポニチアネックス. (2021年3月15日). https://news.yahoo.co.jp/articles/30aa69ada0d774c347aa0b8ab7f69c84e9d32eae 2021年3月26日閲覧。 
  43. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 昭和のテレビ 第28回 8時だョ!全員集合(TBS) ランキング データで見る「8時だョ!全員集合」の歴史”. サンデー毎日. 毎日新聞 (2016年4月14日). 2016年4月24日閲覧。
  44. ^ 98年10月3日に加藤が解答者として参加した『オールスター感謝祭'98超豪華!クイズ決定版この秋お待たせ特大号』で、志村との医療コントのVTRが流れた後、実際にクイズが出題された(加藤と志村の医療コントのVTR中、紳助と和歌子も笑っていた。)。
  45. ^ いかりや長介は「笑い」に人生を賭けていた……伝説の放送作家が振り返る『8時だョ!全員集合』の時代 文春オンライン
  46. ^ 番組初期の頃にADとしてスタッフに加わり、後にディレクター→プロデューサーと昇格。後番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』のプロデューサーも務めた。
  47. ^ 2000年の持株会社化に伴い、芸能プロダクション事業などは新設子会社ワタナベエンターテインメントに移行した。
  48. ^ 付き人はすわを含め数人が出演していたが、オープニングの出演者・スタッフロールには名前が出されなかった
  49. ^ 加藤は1970年に交通事故による怪我及び謹慎、仲本は1981年にノミ行為事件での謹慎、高木は1984年にアキレス腱の怪我の為に休養といずれも出演していない期間があるため全ての回には出演していない。荒井の後任でドリフメンバーとなり、見習い期間を含めて1973年12月以降から出演していた志村も1981年に仲本同様にノミ行為事件での謹慎で出演していない期間がある。すわに関してはオープニングの出演者テロップに名前が出されていた訳ではなく、正確な出演回数は分からないものの、全員集合に付き人として出演し始めたのは、いかりやに弟子入りした1972年以降となる。少なくとも1969年の番組開始時点ではまだ上京していなかったため、いずれしろ全ての回に出演していないのは事実である。いかりやも1980年に喉の手術をして声が出せなかった期間があったが、声は出せなくても番組には顔を出していたので、結果的に全ての回に出演した。
  50. ^ 各回のゲストは、『8時だョ!全員集合の作り方』(双葉社、2001年5月15日刊)に詳しく掲載されている。
  51. ^ 尾藤イサオ&ドーン名義で出演したことがある。
  52. ^ 盆が故障した回に、故障した盆の前で歌った。
  53. ^ a b c d 番組初期のトークコーナーにゲスト出演。
  54. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w コントにゲスト出演。
  55. ^ 「誰が小人を殺したか?」小人プロレスから見るこの国のかたち livedoor news 2009年4月22日発信、2018年7月12日閲覧。
  56. ^ 現在ではむしろ障害者の門戸を狭くしてしまう、また障害者差別に繋がるという理由で逆に出演者側や団体からのクレームが来る場合もあるが、当時はこの件についてはあまり問題にされなかった。
  57. ^ 北野武『超思考』幻冬舎 2013 p161 - 162
  58. ^ a b c d 週刊ポスト令和3年12月1日号増刊セピア「昭和のライバル あなたがいたから、強くなれた」p24-27
  59. ^ a b 青森テレビ20周年記念出版編集委員会 企画制作 『ATV20年のあゆみ』 青森テレビ、1989年、71頁。 
  60. ^ クロスネット当時はJNNには番販で参加していた(1975年3月31日にテレビ朝日系列脱退・JNN正式加盟)。
  61. ^ ただし、1983年4月に福島テレビフジテレビ系列ネットチェンジ(JNN脱退・FNN加盟)した後も1983年4月から9月の間は視聴者保護のため放送された。また、10月1日から11月19日放送分は福島県では『全員集合』は未放送。なお、福島テレビは『全員集合』の番販ネット終了後、『オレたちひょうきん族』の同時ネットに切り替えている。
  62. ^ 本番組の放送期間中、直前の土曜19時が『オレたちひょうきん族』の遅れネット枠にあてられた時期がある。
  63. ^ TBS系列ではあるものの、当時はニュース以外事実上日本テレビ系列・テレビ朝日系列とのトリプルネット状態であった。
  64. ^ 2011年春に行われる予定であったが、東日本大震災の影響により延期された(「いい湯だョ!全員集合」キャンペーン実施(ニュースリリース)”. サントリー (2011年2月8日). 2015年5月17日閲覧。
  65. ^ 「いい湯だョ!全員集合」キャンペーン実施(ニュースリリース)”. サントリー (2012年2月7日). 2015年5月17日閲覧。
  66. ^ 当初は2011年12月21日に発売される予定であった。
  67. ^ a b ポニーキャニオン半世紀へ 日本の音楽史と重なる歩み産経新聞、2012年7月31日。
  68. ^ 柏原芳恵 / Live&Rarities CD+DVD BOX - CD Journal(2015年10月1日閲覧)。
  69. ^ http://www.110107.com/mob/pageShw.php?site=OTONANO&ima=4323&cd=candies_memories
  70. ^ 『レコ大』の映像がDVD化された前例はこれまでになかったため、沢田が最初である。
  71. ^ 沢田研二のTBS出演映像がDVDボックス化、「全員集合」「ザ・ベストテン」「レコ大」ほか収録 音楽ナタリー、2021年2月26日
  72. ^ ザ・ドリフターズ : 「8時だョ!全員集合」が初のノーカット配信まんたんウェブ 2013年6月15日
  73. ^ http://tod.tbs.co.jp/zeninshugou/index.html[リンク切れ]
  74. ^ 荒井注在籍時代の放送分で配信されているのは1972年12月30日放送分の1回だけである。
  75. ^ 但し、一部配信回ではオンエア時に付加していたテロップごと収録されたVTR素材しか現存していない事がある為、その場合は本放送当時に準じてスタッフ名や次回の出演者のテロップを加工する事なくそのまま使用している。
  76. ^ “ドリフ「全員集合」傑作選14時間ぶっ通し放送 テレビ初の再放送で志村さん追悼”. スポーツニッポン. (2020年11月9日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/11/09/kiji/20201108s00041000574000c.html 2021年5月11日閲覧。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

TBS系列 土曜20:00枠
前番組 番組名 次番組
結婚戦争ここ一番!
(1969年7月26日 - 1969年9月27日)
※20:00 - 20:56
8時だョ!全員集合(第1期)
(1969年10月4日 - 1971年3月27日)
8時だョ!出発進行
(1971年4月3日 - 1971年9月25日)
※20:00 - 20:56
8時だョ!出発進行
(1971年4月3日 - 1971年9月25日)
※20:00 - 20:56
8時だョ!全員集合(第2期)
(1971年10月2日 - 1985年9月28日)

ドリフフェスティバル・全員集合ベスト100
(1985年10月12日 - 1985年12月28日)
加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ
(1986年1月11日 - 1992年3月28日)
※20:00 - 20:54
TBS系列 土曜20:54枠
8時だョ!出発進行
(1971年4月3日 - 1971年9月25日)
※20:00 - 20:56
8時だョ!全員集合(第2期)
(1971年10月2日 - 1982年9月25日)
【1982年10月廃枠】
JNNフラッシュニュース(土曜)
(1982年10月2日 - 1987年9月26日)
※20:54 - 21:00
TBS系列 土曜20:55枠
8時だョ!出発進行
(1971年4月3日 - 1971年9月25日)
※20:00 - 20:56
8時だョ!全員集合(第2期)
(1971年10月2日 - 1972年9月30日)
【1972年10月廃枠】
JNNフラッシュニュース(土曜)
(1972年10月7日 - 1982年9月25日)
※20:55 - 21:00