ジャニー喜多川
ジャニー きたがわ ジャニー 喜多川 | |
|---|---|
| 生誕 |
ジョン・ヒロム・キタガワ (John Hiromu Kitagawa) 漢字表記: 喜多川 擴(きたがわ ひろむ) 1931年10月23日 カリフォルニア州ロサンゼルス市 |
| 死没 |
2019年7月9日(87歳没) 東京都渋谷区[1] |
| 死因 | 解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血 |
| 住居 |
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| 国籍 |
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| 出身校 |
ロサンゼルス・シティー・カレッジ (LACC)卒業[3] 上智大学国際部(現・国際教養学部)卒業 |
| 職業 |
実業家 芸能プロモーター 音楽プロデューサー |
| 活動期間 |
1962年 - 2019年 (芸能プロモーターとして) |
| 著名な実績 |
ギネス世界記録 「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」 「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」 |
| 影響を与えたもの | ジャニーズ、フォーリーブス、SMAPなど |
| 親 | 父:喜多川 諦道 |
| 親戚 |
姉:メリー喜多川 姪:藤島ジュリー景子 |
| 受賞 | 第28回菊田一夫演劇賞「特別賞」 |
ジャニー 喜多川(ジャニー きたがわ、Johnny H. Kitagawa、本名: ジョン・ヒロム・キタガワ (John Hiromu Kitagawa)、漢字表記: 喜多川 擴〈きたがわ ひろむ〉、1931年〈昭和6年〉10月23日 - 2019年〈令和元年〉7月9日[4])は、日本の実業家・芸能プロモーター・音楽プロデューサーで、ジャニーズ事務所、ジェイ・ドリーム、ジャニーズ出版、ヤング・コミュニケーション、つづきスタジオの代表取締役。愛称は「ジャニーさん」。血液型はAB型。
アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。3人姉弟の末子でメリー喜多川は姉。その娘で、ジャニーズ事務所の代表取締役になった藤島ジュリー景子は姪にあたる。
目次
生涯[編集]
生い立ち[編集]
1931年(昭和6年)10月23日にアメリカ・ロサンゼルスに日本仏教・高野山真言宗米国別院の僧侶(第3代主監)で、1946年(昭和21年)2月から1948年(昭和23年)2月までプロ野球チーム「ゴールドスター(1947年に「金星スターズ」に改称)」のマネージャーだった喜多川諦道の次男として、[2][5]生まれる[6]。両親共に日本人[2]の日系2世。日本とアメリカの二重国籍を持っていたため、ミドルネームがあった[2]。姉はメリー喜多川、兄はNASAでアポロの設計もしていた科学者だったが1980年代に50代半ばで死去している[2][5]。
1933年(昭和8年)、喜多川一家は日本へ渡航し、大阪市で生活した[2]。しかし間もなくして母親が死去[7]、やがて第二次世界大戦が勃発すると子供たちだけで和歌山県東牟婁郡那智勝浦町に疎開した[6]。
日本の敗戦後、1947年(昭和22年)に子供たちだけでロサンゼルスに帰国し[5]、現地の高校に入学した。高校時代にはロサンゼルスの「アーニー・パイル・シアター」にて、ミュージックメイカーのアシスタントとして、アルバイトを経験している[3][6]。
ロサンゼルスの高校を卒業後、姉と同じロサンゼルス・シティー・カレッジ[3][注釈 1]に進学。
1950年(昭和25年)、美空ひばりが育ての親・川田晴久と共にアメリカ公演を行ったが、ロサンゼルス公演の際、父の勤務先だった真宗大谷派東本願寺ロサンゼルス別院が会場となったため、ステージマネージメント全体を担当する[5]。川田の知遇を得ると共に、ひばりとも親しく交流するようになった。このことが、日本芸能界への進出のきっかけとなる。
1952年(昭和27年)に再来日。駐日アメリカ合衆国大使館に陸軍犯罪捜査局 (USACIDC, CID) の情報員(通訳の助手)として勤務する。アメリカ軍関係の仕事の一環として、当時勃発していた朝鮮戦争による戦災孤児に英語を教授するために、日本でわずか11か月で朝鮮語を習得し、すぐ米軍側の板門店に出向き、1年2か月間に渡って子供たちに英語を教授した[7][8]。さらに、再来日後はアメリカ合衆国大使館軍事援助顧問団(MAAG)の職員として勤務[9][8]。その傍ら上智大学国際部(現在の国際教養学部の前身)に進学し、上智大学を卒業。大学在学中の1955年(昭和30年)、バンドを結成し芸能界へ参入した。以降は日本に永住している。
モットーは「ショー・マスト・ゴー・オン(ショーは何があろうと続けなければならない)」[10]。
ジャニーズ事務所の設立[編集]
1960年代初頭、ジャニーは自分の居住していた東京都渋谷区・代々木の占領アメリカ軍宿舎「ワシントンハイツ」にて、近所の少年たち約30名で構成された少年野球チームのコーチを務めていた。そのチーム名は、「オール・ヘターズ」「オール・エラーズ」を経て[11]、「ジャニーズ少年野球団」となった[注釈 2][12]。このチームのメンバーには、浜田光夫・小畑やすし・設楽幸嗣等もおり、応援団には松島トモ子も居た。このチームはプロ野球の球団や力道山等に支援されており、後に練習場も池袋にある立教大学のグラウンドへと移行した。
ある日、雨で野球の練習ができなくなり、このチームのメンバーの中から渋谷区立代々木中学校の生徒4名を選抜し映画館に連れて行く。そして、そこで鑑賞したミュージカル映画『ウェストサイドストーリー』に一同感動し、エンターテインメント事業を興業することを決意した[2]。1962年(昭和37年)4月、自身が結成させた野球チームのメンバーである4名の少年により最初のグループであるジャニーズ(通称・初代ジャニーズ)を結成する[6]。
最初は東京都豊島区・池袋西口にある芸能プロダクション「新芸能学院(現: 名和プロダクション)」に在籍をしていたが、1962年(昭和37年)6月にジャニーズ事務所を創業[6]、創業当初は渡辺プロダクションと業務提携し渡辺プロを窓口としていたが、1965年(昭和40年)には事務所が正式に構えられる。1975年(昭和50年)1月、正式に株式会社として法人登記した。
姉のメリーは、1950年代から東京都新宿区・四谷三丁目の円通寺坂入口右手の角にあった「スポット」という名のカウンターバーを経営しており、バーの客だった東京新聞記者(後に作家)の藤島泰輔と内縁関係となり、1972年(昭和47年)の藤島の離婚成立後に結婚した。ジャニーがジャニーズ事務所を創業するとバーは廃業をし、事務所の経理を担当するようになった。
男性アイドル事務所として成功[編集]
日本の芸能プロの草分けともいえる渡辺晋とほぼ同世代であるが、活動の開始は大きく出遅れたこともあり、先行する大手プロダクション群を凌駕し始めたのは1980年代に突入してからである。事務所黎明期の「フォーリーブス」「郷ひろみ」らに始まり、「たのきんトリオ」・「シブがき隊」・「少年隊」などの3人組アイドルを成功させた。
1980年代には、7人組のアイドルグループ「光GENJI」をデビューさせた。光GENJIはローラースケートで踊りながらアクロバティックなライブを行うという、これまでにないアイドルグループとして注目され大きな成功を収めたものの、活動期間は8年とアイドルとしてはやや短命に終わった。
1990年代には、「SMAP」を個性的なマルチタレント型グループとして、ライブだけでなくバラエティー番組でも活躍できるアイドルとして、光GENJIの路線からさらにグループ性を発展させ、かつ短命に終わらない持続性をもったグループとして、これまでにない大きな成功を勝ち取った。SMAPのデビュー後にも、バンド形式の「TOKIO」、年齢差のある個性派アイドル集団「V6」、関西系の二人組ユニット「KinKi Kids」、王道的アイドルを目指す「嵐」らが次々にデビューし、SMAPに続くバラエティー番組でも活躍できるアイドルグループとして、着実に成功を収めていった。
2000年代には、Kinki Kidsに続く二人組ユニット「タッキー&翼」、V6、嵐に続くワールドカップバレーのイメージキャラクターとしてデビューした「NEWS」、関西出身者だけで構成される「関ジャニ∞」、ジャニーズの異色グループ「KAT-TUN」、メンバー全員が平成生まれの「Hey! Say! JUMP」と続々と新たなグループがデビューし、個性的なグループが多く誕生した。
2010年代には、少年隊以来の3人組ユニット「NYC」、光GENJIを彷彿させるローラースケートを武器にした「Kis-My-Ft2」、嵐以来の5人組グループの「Sexy Zone」、ジャニーズ初のDVDデビューをした「A.B.C-Z」、V6同様に年齢差のある「ジャニーズWEST」、ジャニー喜多川にとって生涯最後のデビュープロデュースとなった「King & Prince」など、これまでの成功事例を取り入れる形で、所属タレントの活躍の場を広げ、男性アイドルの礎を築いた。
死去[編集]
2019年(令和元年)6月18日、午前11時30分ごろ、自宅で体調の異変を訴え、救急搬送された[13]。同日、Twitter上にて「ジャニーが緊急搬送され、入院した」という趣旨の書き込みが発信された[14]。情報はすぐに拡散され、6月19日には、東京スポーツがジャニーの緊急搬送について報じていた[14]。
6月22日、まとめサイトが「ジャニー喜多川が死去した」という内容の記事を配信した[14]。同記事には、「ジャニーが死去した」と断定できる情報源について記載されておらず、死去に関する情報についても曖昧な内容であった[14]。これ以降、ジャニーの容体に関する情報がインターネット上でさらに拡散された[14]。
7月1日、ジャニーズ事務所は、ジャニーが解離性脳動脈瘤破裂によるクモ膜下出血で倒れ、入院し治療を受けていることを発表[15]。
7月9日午後4時47分、東京都渋谷区の日本赤十字社医療センター[1]でクモ膜下出血により死去した[16][17]。87歳没。
7月12日、子会社・ジャニーズアイランドの渋谷区に所在する稽古場において「家族葬」が行われ、司会を務めた国分太一(TOKIO)・井ノ原快彦(V6)はじめ「子供達」と称する事務所タレント150名に見送られた[18]
9月4日、東京ドームに於いて二部制(第一部:芸能関係者、第二部:一般参列者)によりジャニーのお別れの会が執り行われた。午前の関係者の部では約3500人の芸能関係者が、午後の一般の部では約8万8000人の一般人が参列した[19][20]。
事件[編集]
タレントに対する性的行為についての報道と裁判[編集]
ジャニーが同性愛者(ゲイ、少年愛、ペドフィリア)であり、事務所に所属する男性タレントに対して猥褻な行為を行っているとの噂は、1960年代から散発的に報道されていた。
- 元フォーリーブスの北公次による『光GENJIへ』シリーズ(データハウス、1988年)
- 元ジューク・ボックスの小谷純とやなせかおるによる『さらば!!光GENJIへ』(データハウス、1989年)
- 元ジャニーズの中谷良による『ジャニーズの逆襲』(データハウス、1989年)
- 平本淳也による『ジャニーズのすべて―少年愛の館』(鹿砦社、1996年)
- 豊川誕による『ひとりぼっちの旅立ち - 元ジャニーズ・アイドル 豊川誕半生記』(鹿砦社、1997年3月)
- 元光GENJI候補の木山将吾(山崎正人)による『SMAPへ - そして、すべてのジャニーズタレントへ』(鹿砦社、2005年)
など、事務所に所属したタレントらにより事務所の内情を取り上げたいわゆる「暴露本」が出版された。1988年(昭和63年)- 1989年(昭和64年/平成元年)に『噂の眞相』がこの問題を数回取り上げた。なお、自民党衆議院議員(当時)・阪上善秀(元・兵庫県宝塚市長)が2000年(平成12年)4月13日にこの問題を衆議院で取り上げている[21][22]。
1999年(平成11年)、『週刊文春』がジャニーズ事務所に関する特集記事、「ホモセクハラ追及キャンペーン[23] 」を掲載し、喜多川が所属タレントに対して同性愛行為を行い、事務所では未成年所属タレントの喫煙などがあると報道した。これらの記事は衆議院の特別委員会でも取り上げられ[24] 、これに対しジャニー側は記事が名誉毀損であるとして、文春に対し1億円あまりの損害賠償を要求する民事訴訟を起こした。
2002年(平成14年)3月27日の一審判決では東京地裁は文春側に880万円の損害賠償を命じた。文春側はこれを不服として東京高裁に控訴した。2003年(平成15年)7月15日の二審判決では、ジャニー側の所属タレントへの同性愛行為を認定した(矢崎秀一裁判長)。このため、同性愛部分の勝訴は取り消され、損害賠償額は120万円に減額された。ジャニー側は損害賠償額を不服として最高裁に上告したが、2004年(平成16年)2月24日に棄却され(藤田宙靖裁判長)、120万円の損害賠償と同性愛行為の認定が確定した。
『ニューヨーク・タイムズ』、『オブザーバー』などの世界各国のメディアでも取り上げられ、この問題をタブー視するなどして報道しない日本のマスメディアの姿勢を指摘した[25]。
ジャニー喜多川の死去後、海外メディアはジャニー喜多川の訃報を報じる一方で、性虐待についても触れている。イギリスのメディア「BBCニュース」は過去、事務所に所属していた少年たちから性的虐待の告発が繰り返されたと掲載。また、日本のTV等の大手メディアではタブー視され報じられないことについても掲載[26]。フランスの「AFP」は事務所に集まった少年たちを虐待していたという疑惑も浮上したと報じている[27]。アメリカの「ニューヨーク・タイムズ」では少年たちへの性虐待を認めた東京高裁判決にも触れている[28]。
日本では週刊文春が2019年7月25日号で「本誌しか書けない稀代のプロデューサーの光と影ジャニー喜多川審美眼と「性的虐待」」と題し新証言を報じている。嵐のメンバーと同年代の元ジャニーズjrがジャニー喜多川の誘いに抵抗したらステージの隅に追いやられた。ファーストキッスはジャニー喜多川だったことなどをインタビューで答えている[29]。
住居侵入被害[編集]
2011年(平成23年)7月、東京都渋谷区内の自宅マンションに見知らぬ男が侵入、ジャニーを締め出して30分以上に渡って篭城するという事件が起こった[30]。ジャニーは34階建てタワーマンションの最上階に居住していたが、この事件による怪我や室内の物品の破損・盗難などの被害はなかった[31]。
逸話[編集]
- ジャニーは所属タレントを呼ぶ時に「YOU」と呼ぶことが多い。しかし混同するため「ゆう」という名前(芸名)の関ジャニ∞メンバー・横山裕に限り、「ヨコ」と呼んでいる。
- 「YOU」と呼ぶ理由について、「アメリカでは相手をYOUと呼ぶのは普通の事」「タレントの名前を覚えられない時に便利」という2つの理由があると、ジャニー本人が答えている。そのことを受けて蜷川幸雄は「いやータレントの名前を全部覚えるのは正直無理。僕の悪い所なんだけどね」と共感していた[32]。
- ジャニーが所属アーティストを採用する基準として「顔」以外に、「その子のハートの強さ」も加味して選んでいる。最近は所属アーティストの髪型が一緒で、特徴が消えてしまうことが不満なようで「髪の毛は坊主にしたい。坊主はすごくカッコイイよ、みんな」と語っている。また、身長は170cm以下の子を優先して採用していたが、最近の子は身長が高くスタイルがいいことも分かっているようである[33]。
- 「敬語は堅苦しいから」とジャニーから敬語禁止令が出ており、所属タレントは皆、ジャニーに対しタメ口で話している[34]。所属タレントからの呼称は「ジャニーさん」または「社長」。
- 第二次世界大戦中、和歌山に疎開していたジャニーは和歌山大空襲に遭遇して必死に逃げ回り、防空壕に入れずに橋の下に逃げ込んで九死に一生を得たこともあった[7]。またアメリカ陸軍軍属として朝鮮戦争に赴いたこともあり、その自身の体験を2017年に自身が演出した舞台『ジャニーズ YOU&ME アイランド』で描いたが、それも「(自分が体験した)本当のことを(みんなに)伝えたい」という思いであったという。ジャニーその人も生前、自社の若手タレントや舞台の出演者たちに自身の戦争体験を話して聞かせるなど『平和』を願い、それを強く訴え続けて来た人物でもあった[7]。
- ジャニーは「大の演歌好き」とのことで、年末恒例のテレビ番組『NHK紅白歌合戦』から北島三郎が2013年限りで勇退したのを始め、年々演歌歌手が減少傾向があることに関して「大変寂しいこと」であると語っている[35]。
- 1985年8月11日に大阪の新歌舞伎座で幕を開けた舞台「森の石松」の主演の近藤真彦の応援のために少年隊と共に翌12日の羽田発伊丹行の日本航空123便に搭乗予定だったが、舞台スタッフから初日に近藤が記者会見を開くので初日に来て欲しいと要請を受け初日に前倒しで大阪入りし少年隊は東京に残ることになり日本航空123便墜落事故を免れることができた[36]。
- 2012年5月3日に中国への進出を報道陣の前で表明[37]するも結局頓挫した[38]。
出演[編集]
受賞歴[編集]
- 2003年(平成15年)、第28回菊田一夫演劇賞「特別賞」受賞。授賞式には堂本光一を代理人として参加させた。
- 2011年(平成23年)、ギネス・ワールド・レコーズが「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」と「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」に認定[40]。ジャニー喜多川はそれまで「自分の写真を決して公開しない人物」として有名であったが、この受賞に際し自身の公開用肖像写真を初めて撮影した[41]。ギネスブック(日本版除く)を始め、この写真をスポーツ新聞等マスコミ各社が掲載した(ただし、野球帽にサングラス姿のため、仔細な肖像は判らない様になっている。また、ジャニーズ事務所の方針に従い、インターネット上では公開されない)[注釈 3]。2012年(平成24年)にも「最も多くのチャート1位アーティストを生み出したプロデューサー」としてギネス認定を受けている[42]。
- 2019年(令和元年)、第61回日本レコード大賞「特別音楽文化賞」受賞。没後に追贈される形となり、同年12月30日の日本レコード大賞発表音楽会の際には愛弟子の近藤真彦が賞を受け取る予定[43]。
製作に関わった映画[編集]
- 急げ! 若者(1974年)
- ブルージーンズメモリー BLUE JEANS MEMORY(1981年)
- グッドラックLOVE(1981年)
- 映画 少年たち(2019年)
- など多数。
関連文献[編集]
- あおきひろし『ボクの夢はキミたちが描く夢〜ジャニー喜多川が語るジャニーズ塾の子供たち』メタモル出版、1999年8月 ISBN 978-4895952408。
- 和泉ヒロシ『ジャニーズ・ファミリー - 裸になった少年たち -』オリオン出版、1976年6月。
- 江木俊夫『ジャニー喜多川さんを知ってますか』KKベストセラーズ、1997年7月。ISBN 978-4584183007
- 鶴田康文『ジャニーさん―光Genjiへ総集編 』データハウス、1990年3月。 ISBN 978-4924442818
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b “ジャニーズ所属タレントがコメント(6)「僕の人生を救ってくれて」”. 産経新聞. (2019年7月10日) 2019年7月12日閲覧。
- ^ a b c d e f g “ジャニーさんの歩み 父はプロ野球球団マネ、野球チームから4人選び「初代ジャニーズ」結成”. スポーツニッポン (株式会社スポーツニッポン新聞社). (2019年7月10日) 2019年7月10日閲覧。
- ^ a b c “奇跡のアイドル王国築いたジャニー氏奇跡の青春時代”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2019年7月9日) 2019年7月10日閲覧。
- ^ “ジャニー喜多川さん 死去 87歳”. NHKニュース (日本放送協会). (2019年7月9日) 2019年7月9日閲覧。
- ^ a b c d “ジャニー喜多川さん、エンタメのDNA 父も美空ひばりのLA公演斡旋”. スポーツニッポン (株式会社スポーツニッポン新聞社). (2019年7月10日) 2019年7月10日閲覧。
- ^ a b c d e “62年創業/ジャニー喜多川さんとジャニーズの歩み”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2019年7月9日) 2019年7月10日閲覧。
- ^ a b c d “ジャニーさん反戦訴え 日本と米国で2度の戦争体験”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2019年7月9日) 2019年7月10日閲覧。
- ^ a b “ジャニー喜多川さん死去 たのきん& SMAP &嵐など生みの親…最期まで“生涯現役””. スポーツ報知 (報知新聞社). (2019年7月10日) 2019年7月10日閲覧。
- ^ “ジャニー喜多川氏逝く 87歳 SMAP、嵐…帝国築いたアイドルの父”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社). (2019年7月10日) 2019年7月10日閲覧。
- ^ “「平和」訴え、ショービジネスに懸けた人生 ジャニー喜多川さん”. 産経ニュース (産経新聞社). (2019年7月9日) 2019年7月10日閲覧。
- ^ “ジャニー喜多川さん逝去、ベールに包まれた生い立ちと男性アイドル認知させた功績”. 週刊女性PRIME. 主婦と生活社 (2019年7月9日). 2019年7月12日閲覧。
- ^ “「ジャニーズ」名付け親 初代ジャニーズ・あおい輝彦だった 4年前に知らされる”. デイリースポーツ (デイリースポーツ). (2019年7月11日) 2019年7月12日閲覧。
- ^ “ジャニー氏死去、87歳 くも膜下出血で…少年アイドル作った男、生涯プロデューサー人生に幕”. デイリースポーツ (デイリースポーツ). (2019年7月9日) 2019年7月10日閲覧。
- ^ a b c d e “まとめサイトが拡散した「ジャニーさん死亡説」 憶測の広がり、事務所の容体発表まで”. BuzzFeed. (2019年7月1日) 2019年7月2日閲覧。
- ^ “ジャニー喜多川さん入院 くも膜下出血で6月18日から”. 朝日新聞デジタル. (2019年7月1日) 2019年7月2日閲覧。
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- ^ “ジャニー喜多川社長が死去、87歳生涯現役貫き逝く”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. (2019年7月12日) 2019年7月27日閲覧。
- ^ “代表取締役社長ジャニー喜多川「お別れの会」に関するお知らせ” (日本語) (HTML) (プレスリリース), 株式会社ジャニーズ事務所, (2019年8月13日) 2019年8月13日閲覧。
- ^ “ジャニー氏お別れ会は9.4東京ドーム 異例の規模”. ニッカンスポーツ・コム. 日刊スポーツ新聞社. (2019年8月13日) 2019年8月13日閲覧。
- ^ 第147回国会青少年問題に関する特別委員会第5号
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- ^ 【ジャニー喜多川氏追悼特集2】全メディアが沈黙した「中居の中絶」と「長瀬と山口らの乱交パーティー」|日刊サイゾー
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- ^ In Japan, Tarnishing a Star Maker(日本のスターメーカーの曇り)ニューヨークタイムズ2000年1月30日、カルビン・シムス記者。Japan's bizarre music industry(日本の奇妙な音楽産業)オブザーバー2005年8月21日、クリス・カンピオン記者
- ^ ジャニー喜多川社長の”性的虐待”を報じた英BBCニュースに称賛の嵐「これこそがメディアの姿」|日刊サイゾー
- ^ ジャニー喜多川さん死去 87歳 日本の男性アイドルを多数輩出」|AFP
- ^ ジャニー喜多川氏の少年たちへの性虐待を認めた東京高裁判決は、永久に黙殺されるのか|wezz-y
- ^ さすが週刊文春やるねえ!ジャニー喜多川礼賛の中で元ジュニアの「性的虐待」告白・・・誘いに抵抗したらステージの隅っこ|j-cast
- ^ ジャニーさん宅に侵入容疑 男を現行犯逮捕 『47ニュース』 共同通信 2011年8月17日配信
- ^ ジャニー喜多川社長宅に男侵入、立てこもり デイリースポーツ/神戸新聞社 2011年8月18日
- ^ 蜷川幸雄×ジャニー喜多川 2人の”演出家”が語る極意 AllAbout 2015年1月11日配信。2019年1月12日閲覧。
- ^ ジャニーさんがラジオで衝撃発言!「ジャニーズ全員、丸坊主にしたい」 LITERA 2019年1月12日閲覧
- ^ ただし、これには自分に対して敬語を使われると自分の感覚・感性が死んでしまうからダメだ、と憂慮していた側面もあったという。(関西テレビ「村上マヨネーズのツッコませて頂きます!」2019年08月11日放送分より)
- ^ ジャニー喜多川社長 紅白サブ不在に… デイリースポーツ 2015年1月3日閲覧
- ^ “ジャニー列伝(7) 「日航機」搭乗予定が…:芸能・社会:中日スポーツ(CHUNICHI Web)”. 中日新聞社 (2019年7月18日). 2019年11月29日閲覧。
- ^ “ジャニーズ中国アイドル育成”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2012年5月4日) 2019年7月10日閲覧。
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- ^ “ジャニー喜多川氏 3つ目ギネス世界記録”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2012年11月20日) 2019年7月10日閲覧。
- ^ "ジャニーさんありがとう、新設のレコード大賞「特別音楽文化賞」を受賞 代理受賞はマッチ". スポーツ報知. 報知新聞社. 2019-12-02. Retrieved 2019-12-03.
参考文献[編集]
- 芸能裁判研究班『平成の芸能裁判大全』鹿砦社、2003年10月、ISBN 978-4846305314
- 小菅宏『芸能をビッグビジネスに変えた男「ジャニー喜多川」の戦略と戦術』講談社、2007年3月、ISBN 978-4062139007
- 『アステイオン』85号 CCCメディアハウス、2016年11月29日
- “ジャニー喜多川みずからが語った「芸能史を変えた」数奇な人生”. 現代ビジネス. 講談社 (2019年7月10日). 2019年7月11日閲覧。
関連項目[編集]
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