伊藤久男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
伊藤 久男
伊藤久男.jpg
基本情報
出生名 伊藤 四三男
別名 宮本 一夫
生誕 1910年7月7日
出身地 福島県本宮市
死没 1983年4月25日(満72歳没)
学歴 帝国音楽学校
職業 歌手
活動期間 1937年1984年
レーベル コロムビア

伊藤 久男(いとう ひさお、1910年明治43年)7月7日 - 1983年昭和58年)4月25日)は日本歌手。本名:伊藤 四三男(いとう しさお)。福島県本宮市出身。本名の四三男は生年の明治43年に由来。元妻は戦前にコロムビアレコード等で活躍した元芸者歌手赤坂百太郎(大西ふさ子)。

歌手として[編集]

生家は福島県安達郡本宮町(現本宮市)の旧家。父親は立憲政友会所属で県会議員を務めた伊藤彌[1]、兄は福島県議会議員を経て戦後に自由民主党所属の衆議院議員を務める伊藤幟である。たいへん裕福な家庭で、当時はまだ珍しかったピアノに没頭し、中学(旧制)の頃にはピアニストを志望するようになる。家族親族の反対を押し切り単身上京、音楽を生業とすることに反対していた家族へのカモフラージュのため東京農業大学に入学。その後、同郷の新進作曲家古関裕而と懇意になり[2]、家族には知らせず農大を退学、帝国音楽学校に進む。同校では同郷の声楽家平間文寿に師事する。

農大を退学したことが家族に知られ毎月の仕送りが止まり、音楽学校の同級生とともにコロムビア吹き込み所で合いの手や囃子の吹き込みのアルバイトを始める。ピアニスト志望だった四三男としては不本意だったが、これが後に作曲家やディレクターたちの耳に止まることになる。

1932年(昭和7年)、古関裕而の勧めにより、1933年(昭和8年)6月25日付で「伊藤久男」名義でリーガル(コロムビアの廉価レーベル)から「今宵の雨」でデビュー。コロムビアからのデビューは同年9月の「ニセコスキー小唄」で、宮本一夫の名前で発売。出身地本宮をひっくり返した芸名だった[3]。その間、アルバイトとしてタイヘイレコードにて内海四郎名義でレコーディング。その後、コロムビアでは伊藤久男、リーガルでは宮本一夫を使用していたが、1935年(昭和10年)「別れ来て」の発売を機に芸名を伊藤久男に統一。

戦中・戦後[編集]

伊藤久男の抒情性豊かなバリトンで、昭和10年代前半から戦時歌謡(軍歌)のレコーディングが多く、伊藤久男としての初めてのヒットは日中戦争支那事変)を題材とする1938年(昭和13年)の「湖上の尺八」(2月20日発売)。慰問演奏藤原義江に抒情的なバリトンを流行歌手として生かすことを奨められる。一時期はオペラ歌手としての進路も検討したが、同年に慰問のため服部良一赤坂小梅らと中国戦線の日本軍部隊を訪れた際、自分の歌に涙を流す兵隊の姿を目の当たりにし、流行歌手としての途を選択した。

その後、「暁に祈る」「白蘭の歌」「高原の旅愁」「お島千太郎旅唄」と連続してヒットを飛ばし、スター歌手としての地位を確立した。1940年(昭和15年)、日劇のアトラクションに出演し、伊藤が歌う「熱砂の誓い」を客席で見た岡本敦郎は、その歌声に感動し、歌手になる決意をしたと述懐している。

一方、朴訥とした台詞回しながら多くの映画にも起用され、1939年(昭和14年)松竹映画「純情二重奏」に流しの芸術家として、本人が主題歌を担当している1940年「征戦愛馬譜 暁に祈る」には歌う兵隊として、さらに1942年(昭和17年)には大映映画「歌う狸御殿」には村の青年役としてスクリーンでも活躍した。

終戦直後は、戦時歌謡を多く歌った責任感から疎開先に引きこもりに溺れ[4]、再起不能とも言われたが、1947年(昭和22年)松竹映画「地獄の顔」(監督マキノ雅弘)主題歌「夜更けの街」でカムバック。その後は、「シベリア・エレジー」「イヨマンテの夜」「あざみの歌」「山のけむり」「君いとしき人よ」「数寄屋橋エレジー」「ひめゆりの塔」など様々なジャンルでヒットを飛ばした。殊にラジオ歌謡においては詩情豊かな抒情歌が多く、「たそがれの夢」は本人もかなり気に入って、晩年まで愛唱していた。

名作曲家・古関裕而と伊藤久男[編集]

伊藤は同郷の作曲家・古関裕而の作品を多くレコーディングしている。「露営の歌」「続露営の歌」「暁に祈る」「海底万里」といった戦時歌謡から、「イヨマンテの夜」「君いとしき人よ」といった歌謡曲、また、現在でも夏の高校野球全国大会で歌われている「栄冠は君に輝く」までも伊藤の創唱によるものであった。

NHK紅白歌合戦にも計11回出場している(詳細は下記参照)。古関裕而のクラシックの格調は、美しいテナーの音色で歌う藤山一郎に代表されるが、古関メロディーのドラマティックな抒情性は伊藤久男のリリックな歌唱によって声価を高めた。

伊藤の人柄と病魔に悩まされた晩年[編集]

性格はまさに豪放磊落。をこよなく愛し、誰からも「チャーさん」の愛称で慕われた。一方で、異常な潔癖症で、常にアルコールを含ませた脱脂綿を消毒のために持ち歩き、閉所恐怖症のためエレベーターには乗らなかったと言われる。

日本歌手協会の設立にも尽力し、後進の指導にも力を惜しまなかったが、晩年は酒豪が祟り糖尿病のためインスリンの注射に依存。昭和50年以降には、注射による低血糖発作で震えながらステージを務め、痛々しいものがあった。

妻は元宝塚歌劇団娘役宝塚歌劇団21期生桃園ゆみか(本名:伊藤あさの、旧姓:西山)。NHKの歌番組ステージ101に出演していた歌手伊藤三礼子は長女。また、弟で次男の悟も出演していた(後に「伊藤さとる」名義で1980年頃、郷ひろみのバックコーラスを担当したといわれる)。

1978年(昭和53年)に紫綬褒章受章、1982年(昭和57年)には第24回日本レコード大賞特別賞を受ける(この受賞の際中継で顔出し出演していたが、伊藤が公の場に姿を見せるのは、これが生涯最後となった)。翌1983年4月、肺水腫のため死去、享年72。勲四等旭日小綬章受勲

代表曲[編集]

NHK紅白歌合戦出場歴[編集]

  • 第2回 (1952年1月3日、NHK東京放送会館第1スタジオ) 『イヨマンテの夜』(『山のけむり』とする説あり)
  • 第3回 (1953年1月2日、NHK東京放送会館第1スタジオ) 『オロチョンの火祭り』
  • 第4回 (1953年12月31日、日本劇場(日劇)) 『君いとしき人よ』
  • 第5回 (1954年12月31日、日比谷公会堂) 『数寄屋橋エレジー』
  • 第7回 (1956年12月31日、東京宝塚劇場) 『キャラバンの太鼓』
  • 第8回 (1957年12月31日、東京宝塚劇場) 『宵待草の唄』
  • 第9回 (1958年12月31日、新宿コマ劇場) 『イヨマンテの夜』
  • 第10回 (1959年12月31日、東京宝塚劇場) 『サロマ湖の歌』
  • 第11回 (1960年12月31日、日本劇場(日劇)) 『山のけむり』
  • 第12回 (1961年12月31日、東京宝塚劇場) 『メコンの船唄』
  • 第15回 (1964年12月31日、東京宝塚劇場) 『イヨマンテの夜』

脚注[編集]

  1. ^ 父親が立候補する際の選挙スタッフに児玉誉士夫がついていたことがある。
  2. ^ この頃すでに古関裕而の妻が帝国音楽学校で声楽を学んでいた。
  3. ^ デビュー直後に、宮本一夫を名乗る偽者がファンの女性を騙すという騒ぎが多数起きている。
  4. ^ 終戦後のため物資がなく、メチルアルコールまで飲んでいた。また、この時期の酒が祟り人相が変わった、と伊藤久男本人が冗談めかして語っている。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 「伊藤久男全集」等レコードに付属の解説書・文献、多数(解説者森一也ほか)
  • 「鐘よ鳴り響け―古関裕而自伝」(主婦の友社発行)
  • 本宮町史第11巻 各論編Ⅲ「文化」第四編「音楽・芸能・娯楽」

外部リンク[編集]