松坂大輔

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松坂 大輔
Daisuke Matsuzaka
ボストン・レッドソックス #18
IMG 0497 Daisuke Matsuzaka.jpg
2009年5月10日
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都江東区
生年月日 1980年9月13日(31歳)
身長
体重
6' 0" =約182.9cm
185 lb =約83.9kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1998年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1999年4月7日
MLB / 2007年4月5日
年俸 833万3,333ドル[1](2010年)
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 2000年2004年
WBC 2006年2009年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

松坂 大輔(まつざか だいすけ、1980年9月13日 - )は、ボストン・レッドソックスに所属するプロ野球選手投手)。背番号は18

目次

概説

青森県青森市生まれ[1]。父は北海道稚内市出身で、母は青森県外ヶ浜町出身。弟・松坂恭平愛媛マンダリンパイレーツに所属していた野球選手。妻は元日本テレビアナウンサー柴田倫世。夫婦の間には2005年12月に誕生した長女と、2008年3月に誕生した長男、2010年3月に誕生した次女がいる。

「大輔」という名前は、1980年に大旋風を巻き起こした甲子園のアイドル、早稲田実業荒木大輔のように甲子園で活躍できるようにという家族の願いからつけられたもの。

愛称は「マツポン」「マツ」「ダイスケ」、アメリカメディアでは「Dice-K」「D-Mat」という愛称が使われている。ボストンでは「Dice-K」が好まれる。本人は「D-Mat」をサインに使うこともある。渡米後の代理人はスコット・ボラス

「目標が、その日その日を支配する」を座右の銘にしているが、これは横浜高校創立者黒土四郎が愛した詩[2]の一節である。

経歴

プロ入り前

5歳から小学3年生までは、地元東京都江東区の福住剣友会で剣道に打ち込む。2006年の少年野球教室で、「球を速くするにはどうすればいいですか?」という質問には「剣道をすると背筋と手首が鍛えられて良いよ」と答えている。小学3年生で江東区の東陽フェニックスに入部し野球を始める。中学時代は江戸川区の江戸川南リーグ(リトルリーグ)に所属する(小谷野栄一が同い年のチームメートだった)。リトルリーグ時代にNHK教育テレビジョンの『天才てれびくん』に出演したことがある[3]

横浜高校時代は、「サボリのマツ」と言われるほどの練習嫌いであったが[4]、2年次の夏の甲子園県予選での対横浜商業高校戦で、自身の暴投によるサヨナラ負け以来奮起し、MAX152km/hの豪速球・切れ味鋭いスライダーカーブチェンジアップを武器に超高校級の投手として「平成の怪物」と注目を浴びた。またバッテリーを組んでいた捕手は、入学時は上地雄輔、上地の引退後は小山良男だった(本当は帝京高校への進学が内定していたが、シニア日本代表で知り合った小山の誘いで横浜へ方向転換)。

1998年第70回選抜高等学校野球大会では完成度の投球と小山、後藤武敏小池正晃らチームメイトの活躍で他校を寄せ付けず優勝。最後の夏となった第80回全国高等学校野球選手権大会では、準々決勝で上重聡(後に日本テレビアナウンサー)や大西宏明平石洋介や2年生田中一徳を擁する(春の準決勝で破った)PL学園高校を相手に延長17回という長丁場の試合に250球を投げ完投勝利。翌日の準決勝、寺本四郎擁する明徳義塾戦でも1イニングに登板し、逆転劇を呼び込む。

決勝の京都成章戦では嶋清一以来59年ぶり史上2人目となる決勝戦のノーヒットノーランという快挙。圧倒的な活躍で春・夏連覇を達成した。また、新チーム結成後、1997年秋季県大会ブロック予選から翌年かながわ・ゆめ国体決勝まで、公式戦44連勝を記録した。、第3回AAAアジア野球選手権大会でも背番号1を背負い日本のエースとして指揮官たる中村順司前PL監督の期待に応え活躍し決勝で(準決勝でチャスン・ペク擁する野球韓国代表破った)張誌家擁する野球台湾代表破り優勝投手になった。

1998年度新人選手選択会議では、指名順位1位で西武ライオンズ横浜ベイスターズ日本ハムファイターズの3球団が競合の末西武が交渉権を獲得(ハズレ1位として横浜は古木克明、日本ハムは實松一成を指名)。当初ドラフト直後の会見では、「自分の意中の球団は横浜ベイスターズでした」と語っていたが、西武へ入団した。ちなみにライオンズ同期入団で同い年の選手は第3回AAAアジア選手権大会日本代表でもチームメイト赤田将吾のみ。

西武時代

初先発となった東京ドームでの1999年4月7日の日本ハム戦では155km/hの直球を披露、8回2失点の好投で初勝利を記録し、まさに鮮烈なデビューを飾った。その試合での(前年パリーグ史上最多の年間四球を記録し選球眼の良さで知られた)片岡篤史の豪快な空振りはプロでも変わらぬ“怪物”ぶりを示す映像資料として現在でもよく放送される。同じ試合で、マイカ・フランクリンへの投球が胸元の際どいコースに行き、フランクリンが怒りをあらわに詰め寄ったが、それに動じた様子を見せないなど、強心臓ぶりも見せた。

4月21日千葉ロッテマリーンズ戦では黒木知宏と投げ合い、0-2で惜敗。この試合後に「リベンジします」と宣言した松坂は、4月27日のロッテ戦で再び黒木と投げ合い、1-0でプロ初完封を記録しリベンジを果たした。このことから、松坂の「リベンジ」は、プロ同期で同じく鮮烈なデビューを果たした上原浩治読売ジャイアンツ)の「雑草魂」とともに同年の新語・流行語大賞の年間大賞に選ばれている。5月16日のオリックス・ブルーウェーブ戦ではイチローとの初対決が話題となったが、イチローを3打席連続三振(1四球)とほぼ完璧に抑えた。試合後のヒーローインタビューでは「自信から確信に変わった」と語った。7月24日に行われたオールスターゲーム第1戦に先発して3イニングを投げ、高卒新人としては史上最多となる5奪三振を記録。3回表に味方の失策によって2点を失い、自責点0ながら敗戦投手となったものの、この試合の優秀選手賞に輝いた。オールスター新人賞も受賞した。

最終的に16勝を挙げて最多勝。高卒新人としては史上初となるベストナインゴールデングラブ賞を受賞し、高卒新人の投手としては堀内恒夫以来、33年ぶりとなる新人王に輝いた。

また、シドニーオリンピックにおける野球競技のアジア最終予選(第20回アジア野球選手権大会)に参加し、9月15日台湾戦に先発。古田敦也ヤクルトスワローズ)とバッテリーを組み、その試合でサヨナラヒット記録の高校の5年先輩の内野手平馬淳東芝硬式野球部)からも叱咤激励され続け1失点完投勝利を挙げて日本の五輪出場に大きく貢献した。

2000年は、津野浩以来、15年ぶりに10代での開幕投手を務めた。レギュラーシーズンでは小野晋吾(ロッテ)との最多勝争いを制して14勝を挙げ2年連続の最多勝に輝いたが、後述の不祥事が発覚し、オフに世間からバッシングを浴びることになる。

8月にはプロアマ混成のシドニーオリンピック野球日本代表に選ばれ、9月17日のアメリカ戦に先発。10回2失点の好投を披露するも、チームは延長13回サヨナラ負け。中5日で先発した9月23日の韓国戦では、初回から4点を失うものの、その後は立ち直り、計161球を投じて9回5失点にまとめるも、またしてもチームは延長の末に敗れた。中3日で再び韓国と対戦した9月27日3位決定戦では、具臺晟と投げ合い、0-0の投手戦が続いたが、8回裏に李承燁に痛恨のタイムリー二塁打を打たれるなどし、3失点完投負け。好投も報われず、日本は五輪野球で初めてメダルを逃す結果となった。

2001年は15勝を挙げ、高卒史上初となる新人年からの3年連続最多勝を獲得。沢村賞を受賞したが、15敗と負け数も多かったため、選考委員からは反対意見も出た。結局、両リーグで唯一の15勝投手であることや、240回1/3という圧倒的な投球回数などが評価されての選出となった。藤田元司委員長(当時)は、「松坂の150キロを越える豪速球は沢村さんをほうふつさせる。将来の松坂に対する期待を含めて選んだ」とコメントしている。

2002年は開幕6連勝という順調なスタートを切ったが、5月13日大阪近鉄バファローズ戦で右ひじを痛め、何度か復帰するものの、本来の投球は戻らずに長期離脱。日本シリーズでも巨人打線に打ち込まれて2敗するという悔しいシーズンとなった。

2003年は前年の怪我から奮起し、自己最多タイの16勝を挙げ、自身初めて最優秀防御率のタイトルも獲得した。アテネオリンピックの野球アジア予選では、11月6日の台湾戦に先発し、7回無失点の好投で勝利。五輪出場の条件である2位以内をほぼ決定づけ、大会の最優秀投手にも選ばれた。

2004年はロッテとの開幕戦で初回先頭打者波留敏夫に初球を叩かれヒットを浴び出塁を許し4番(日本プロ野球初打席)李承燁にタイムリーを浴び早々と失点、結果的に敗戦投手に。7月10日オールスターゲーム第1戦で2番手として登板し、2イニングを無安打無失点で4奪三振という好投を披露し、自己最速タイとなる156km/hも記録した。本塁打を2本以上打った選手がいなかったこともあり、松坂がこの試合のMVPに輝いた。

同年のアテネオリンピック野球日本代表に選ばれ、8月17日(現地時間)のキューバ戦に先発。4回にユリエスキー・グリエルの打球を右腕に受けるアクシデントに見舞われるも、8回まで無失点に抑える力投を披露し、完封も期待された。結局、9回に3点を失ったものの、石井弘寿(ヤクルト)のリリーフで逃げ切り、松坂は五輪での初勝利を手にした。中5日で先発した8月24日の準決勝・オーストラリア戦では、8回途中まで1失点の好投も報われず、0-1で惜敗して金メダルの夢はついえた。チームは翌日、カナダとの3位決定戦に勝利したため、松坂は銅メダリストとなった。

レギュラーシーズンは2位に終わったが、この年から導入されたプレーオフの第1ステージで3位の日本ハムと対戦。第1戦では、8回途中7失点と打ち込まれたものの、打線の援護で勝利投手となった。福岡ダイエーホークスと争った第2ステージでは第2戦に先発し、完封ペースだったが、打線の大量援護もあり、6回無失点で余力を残して降板。これが功を奏し、最終の第5戦に中3日で先発が可能となって、6回1失点の力投を見せた。勝利投手にはなれなかったものの、チームは延長10回の末に4-3で勝利し、リーグ優勝を果たした。

中日ドラゴンズとの日本シリーズでは、まず第2戦に先発。立浪和義に同点3ラン本塁打を打たれるなどし、6回1/3を8失点で敗戦投手。2勝3敗と王手をかけられた第6戦では、苦しみながらも8回2失点でしのぎ、勝利投手となって逆王手をかけた。翌日の第7戦には中継ぎで3番手として登板し、1イニングを無失点に抑えて日本一に貢献した。この直後に柴田倫世との結婚を発表した。

11月11日日米野球では第6戦に先発し、1失点完投勝利。アメリカ選抜チーム相手の完投勝利は、荒巻淳(毎日)以来、51年ぶり史上2人目の記録となった。

2005年5月18日セ・パ交流戦阪神タイガース戦でプロ野球選手として阪神甲子園球場で初登板。高校時代には同球場で15連勝、被本塁打0という記録を持っていたが、桧山進次郎に先制2ランを浴び、試合も2-3で惜敗(勝利投手は相手先発杉山直久)。甲子園での被本塁打0という記録は途絶え、連勝記録も15で止まった。

この年は防御率2.30と優れていたにもかかわらず、14勝13敗と負け数もかなり多かった。打線の援護が少なく、野手の失策も多かったため、6月27日の日本ハム戦後には「球際に弱い選手が多い。僕も含めてですが、一つ一つのプレーが軽すぎる。若い選手が多いんだから、もっとガムシャラにやってほしい」と野手批判とも受け取られかねない発言をしたが[5]、後日には野手ミーティングで詫びを入れたという。評論家からは「打線の援護がないのは、投球のリズムが悪いからだ」と指摘され、改善を目指した。オフにはスコット・ボラスを代理人としポスティングシステムでのメジャー挑戦を訴えたが、球団は制度の行使を否認した。

WBC日本代表での松坂

2006年第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に日本代表として出場。3月4日台湾戦では4回1失点、3月14日メキシコ戦では5回無失点、そして3月20日キューバとの決勝戦では、試合前に首を痛めながらも気合の投球で4回1失点に抑え、先発したすべての試合で勝利投手になった(球数制限があったため、先発勝利の条件が5イニング以上という規定がなかった)。結果的に、大会最多となる3勝、防御率1.38という成績が高く評価され、大会の最優秀選手(MVP)に選ばれた。

レギュラーシーズンでは6月9日のセ・パ交流戦・阪神戦で1失点完投勝利を収め、高校時代に大活躍した甲子園でのプロ初勝利を記録し、自ら本塁打も打った(バッティングで後述)。また、6月16日のセ・パ交流戦・横浜戦で、江川卓(所要193試合)を抜きドラフト制度導入後最速(191試合)の100勝を達成する(その後、同年8月25日に上原浩治が同じ191試合での100勝を阪神戦にて達成し、松坂の記録は最速タイとなった)。

10月7日、ソフトバンクとのプレーオフ第1ステージ初戦に先発。厳しい内角攻めで4死球を与えたが、斉藤和巳との熾烈な投げ合いを制し1-0で完封勝利を挙げるが、チームはその後2連敗し第1ステージで敗退した。

オフにはポスティングシステムを利用。11月9日にボストン・レッドソックスが5111万1111ドル11セント(約60億円)で独占交渉権を獲得し、12月14日に総額5200万ドル(約61億円)の6年契約を結んだ。1998年の夏の甲子園よりレッドソックスは松坂に注目しており、同球団のスカウトが決勝戦の試合を観戦していた。レッドソックスファンであるクリストファー・ヒル国務次官補は、六カ国協議が行われる北京への出発前に記者会見で「今日のマツザカの交渉はどうなった?」などと交渉の行方を気にかけていた。

レッドソックス時代

日付は全て現地時間

2007年4月5日カンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャー初先発。7回1失点10奪三振で初勝利を挙げた。4月27日ニューヨーク・ヤンキース戦ではNHKのテレビ中継で自己最速となる158km/hを計時したが、球場内の表示は94mph(約151km/h)だった[6]。5月19日のアトランタ・ブレーブス戦まで5連勝を記録し、同月第3週にはア・リーグ週間MVPを受賞。6月は防御率1.59、WHIP1.09の好投を見せた。後半戦は5勝6敗、防御率5.19、WHIP1.44と不調に陥るも、シーズン最後の登板となった9月28日の対ミネソタ・ツインズ戦で日本人選手史上初・メジャー史上5人目となるメジャー1年目での15勝&200奪三振を挙げた。シーズン通算の1試合の平均球数はメジャー最多の108.8球だった。

ポストシーズンではロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムとのディビジョンシリーズ第2戦に初登板し、4回2/3を3失点で勝敗はつかなかった。クリーブランド・インディアンスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発、4回2/3を4失点で敗戦投手となった。第7戦は5回2失点で日本人メジャーリーガー初のプレーオフ勝利投手となった。コロラド・ロッキーズとのワールドシリーズでは、第3戦で登板。5回1/3を2失点でしのぎ日本人メジャーリーガー初のワールドシリーズ勝利投手となり、チームは翌日の第4戦にも勝利してワールドシリーズ優勝を果たした。

2008年は開幕8連勝を記録するも、5月27日に右肩回旋筋腱板の張りを訴え、故障者リスト入り。6月21日に復帰し、前半戦は10勝1敗、防御率2.65、WHIP1.38を残したが、オールスター初出場はならなかった。9月21日トロント・ブルージェイズ戦では、日本人シーズン最多となる18勝目を挙げた。

ポストシーズンではディビジョンシリーズ第2戦・エンゼルス戦に先発。5回3失点で勝敗はつかなかったが、チームは9回に勝ち越して勝利した。リーグチャンピオンシップシリーズ第1戦のタンパベイ・レイズ戦では7回0/3を無失点で勝利投手となった。第5戦では、4回0/3を5失点で降板し勝敗はつかず、その後チームは第7戦で敗れてリーグ優勝を逃した。

与四球率5.05はリーグワーストながら、被打率はリーグ1位の.211、被OPSはリーグ3位の.645。また、プレーオフを含めて満塁のピンチは15度あったが、押し出しと犠飛こそあったものの、全てノーヒットに抑えた。またロードでの試合は無敗で勝率.862を記録しメジャーリーグ歴代勝率25位にランクインした。また、リーグ3位の防御率2.90、リーグ4位の18勝、リーグ2位の勝率.857を残し、サイヤング賞の選出投票では4位となる評価を受けたものの、1イニングの平均投球数がリーグ2位と多く、先発で18勝以上挙げた投手ではメジャー史上最少イニングである投球回167回3分の2だったことなど、野手やリリーフのおかげとする向きも多く(松坂が残した走者をリリーフが返したのは、無死満塁で降板した6月21日だけであった)評価が二分された。セイバーメトリクスの観点からも、QSが14試合(規定投球回到達者88人中66位)でQS率が48%(同64位)、K/BBが1.64(同75位)、FIP4.03(同42位)と悪く、BABIP.267(同6位)、QS未満で7勝(同1位)、9イニング当たりの平均援護点6.1(同8位)と、運に恵まれたとする数値が示された。また、WAR3.3は、投手として40位であった。

2009年第2回ワールド・ベースボール・クラシックでは、東京ドーム3月7日に行われた第1ラウンドA組の第2戦・韓国戦に先発し、初回に金泰均に2ラン本塁打を浴びたものの、以降は立ち直って4回2失点にまとめ、打線の援護もあって勝利投手となった。ペトコ・パーク3月15日に行われた第2ラウンド1組の初戦・キューバ戦では、6回無失点の好投で2勝目を挙げた。ドジャースタジアムに舞台を移した3月22日の準決勝・アメリカ戦では、4回2/3を2失点で3勝目を挙げた。チームは翌日の決勝戦で韓国を破って優勝を決め、最多勝の松坂が2大会連続で最優秀選手に選ばれた。

レギュラーシーズン開幕後は2試合連続で打ち込まれ故障者リスト入りする。復帰後は6月2日に初勝利を挙げたが、その後も打ち込まれ、21日に再び故障者リスト入りする。その最中に、日本のメディアに対して「この環境の中で練習を強いられ続けたら、僕は日本のようなピッチングはもう出来なくなるかも知れない」とチームの調整方法を批判したとも受け取られる発言をしたため[7]、謝罪することになった[8]。9月に復帰して以降は3勝1敗、防御率2.22、WHIP1.35と復調したものの、シーズンを通しては4勝6敗、防御率5.76、WHIP1.87とプロ入り以降もっとも悪い成績に終わった。この不振の原因について、日本のメディアへのインタビューでWBCの前から股関節を痛めていたことを告白したが、股関節痛を報告せずにWBCに出場し、オフになって日本のメディアに報告したことがシーズン中から松坂の不振の原因を解明しようと取り組んでいた球団の怒りをかった。そのため、再び球団に謝罪することとなった[9]

2010年は本人や球団首脳陣は速球に手応えを感じたシーズンだと振り返るも[10]、キャンプ前から首の張りを訴えて調整が遅れ、スプリングトレーニングでも2試合の登板に終わり、開幕は故障者リスト入りして迎える。5月に復帰し、6月8日に日米通算150勝を達成。しかし12日に右前腕部の張りを訴えて再度故障者リスト入りする(同月下旬に復帰)。5月22日のフィラデルフィア・フィリーズ戦では8回2死までノーヒットノーランを続けるなど好投することもあったが、次に先発した27日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦では9四死球の大乱調を喫するなど、シーズンを通して好不調の激しいピッチングが続いた。最終的に、2年連続で規定投球回数未到達・1桁勝利に終わった。規定投球回数未到達ながら降板時に残した走者は21人と先発投手としてリーグワースト10位であった(そのうちリリーフが返したのは6人)。

2011年スプリングトレーニングでは東日本大震災を受けて岡島秀樹田澤純一正田樹と共に義援金を募った他[11]、100万ドルを寄付した[12]。開幕後は2試合で7イニング10失点を喫し2連敗したが、4月18日のトロント・ブルージェイズ戦で7回1安打無失点1四球3奪三振の投球で初勝利。23日のロサンゼルス・エンゼルス戦では8回1安打無失点3四球9奪三振の投球で2勝目を挙げ、15イニング連続無失点を記録した他、5月4日のエンゼルス戦では延長13回に8番手としてメジャー初となるリリーフ登板を経験(2死満塁から2点適時打を浴びて敗戦)[13]。しかし4月29日のシアトル・マリナーズ戦で途中降板するなど4月末から右肘に張りが生じ、5月17日に故障者リスト入り。一時帰国を経て31日にルイス・ヨーカムによるセカンド・オピニオンを仰ぎ、6月10日に同医師の執刀によるトミー・ジョン手術を受けた[14]

プレースタイル

投球

投球する松坂

投球フォームはワインドアップ中に間をとるモーションからの高目のスリークォーターで[15]クイックは1.0秒台と非常に速い[5]。被ウェルヒット率(アウト、ヒットにかかわらず打者にいい当たりを打たれた率)とストライクの空振り率では優秀な数値を残し、ボールの質はメジャーでも高いレベルにあると評価されているが[16]、速球のコマンド(狙ったスポットに投げる能力)に難があり[17]、与四球率が高い。2006年から2010年にかけてはストライドがやや狭まったこと以外に投球動作に大きな変化はないが[18]、リリースポイントで頭が動くことと[15]、下半身が安定せず上下動が激しいことがコントロールの極端さを生んでいると指摘されている[19]

平均球速92mph(約148km/h)[20]、最速97mph(約156km/h)の速球(フォーシーム、ツーシームカッターワンシーム[21])に加え、二種類のスライダーカーブ、数種類のチェンジアップ(サークルチェンジ、スプリットチェンジ[22]、ストレートチェンジ、パームチェンジ)、スプリッターを投げ分け、縦に変化するスライダーで三振を奪うケースが多い[23]

2010年からは速球主体のピッチングとなり[24]、チームメイトからはメジャー4年間で最高の球威だとの評価を得た[25]

ジャイロボール論争

メジャーリーグのスカウトの間で「マツザカはジャイロボールを投げる」という噂が立ったことがあり、本人も初めは何のことか分からなかったが、彼の持ち味の一つである140km/hを超えるカットボールの抜け球のことであった。

打撃

高校時代は4番を務めていた時期もあり、高校通算14本塁打を記録。打撃に悩む野手に打撃のアドバイスを送ることもあり、2003年4月21日のオリックス戦では松坂から「チェンジアップを狙うと面白いんじゃないか」とアドバイスされた[要出典]後藤武敏具臺晟のチェンジアップを捉えて本塁打を打ったことがある。パ・リーグに所属する投手は打撃練習をほとんどしないが、松坂は気分転換もかねてトレーニングに取り入れていた。しかし、レッドソックスに加入した2007年の春季キャンプでは、マイバットを持参したにもかかわらず、打撃練習をさせてもらえなかった。高校時代の恩師である横浜高校渡辺元智監督は、松坂が打者として活躍していたら巨人高橋由伸を右にしたようなバッターになると語った[要出典]

守備

西武時代はフィールディングの評価が非常に高く、NPB在籍8年間のうち、資格を得ていた7年すべてでゴールデングラブ賞を獲得している(2002年のみ投球回・試合数の不足のため同賞の有資格者ではなかった)。

レッドソックス移籍後は、プラス・マイナス・システムおよび守備防御点の評価が、それぞれ2007年が±0と-1、2008年が+2と+1、2009年が-1と-2、2010年が+2と-1と、おおむね平均的な守備力を示す数字が出されている。

逸話

新語・流行語大賞

プロデビューの年、プロ同期の上原浩治読売ジャイアンツ)とともに同年の新語・流行語大賞の年間大賞に選ばれた。

交通違反揉み消し事件

2000年9月13日、当時交際中で現夫人の柴田倫世の自宅マンション前にて、球団名義の車で駐車違反を犯してしまう。松坂はその年の8月に犯した時速50kmオーバーのスピード違反で一発で免許停止状態になっていたこともあり、身代わりとして西武球団の黒岩彰広報課長(元スピードスケート選手・カルガリーオリンピック銅メダリスト、後の同球団代表)が出頭した。

もともと、松坂が柴田宅に泊まったことをスクープした写真週刊誌の記事であったが、その記事で身代わり出頭が当局の知るところとなり、松坂は道路交通法違反(無免許運転、駐車違反)、黒岩ともども犯人隠避の疑いで東京地検書類送検されている。その結果、略式起訴により罰金19万5000円の有罪判決を受けた。当時の小野球団社長及び黒岩は責任を取って辞表を提出するにまでに至った。また、松坂が当時埼玉県警から交通安全キャンペーンのイメージキャラクターに選ばれていたこともあり世間からは激しい批判を浴びた。球団側は松坂を無期限の自宅謹慎処分としたものの、謹慎処分は一ヶ月足らずで解除された[26]。後にこの事件について記者会見が開かれたが、揉み消し事件について聞かれても、自分は知らない、黒岩が勝手にやった事だと発言するだけだった。

ダイスケの呪い

松坂は、アマチュア時代の高校野球の連覇などの輝かしい戦績に比べ、プロ入りしてからは優勝争いや五輪のメダル争いなど大舞台でしばしば打たれ、優勝に縁がない投手だった。加えて松坂が怪我で戦列を離れた2002年西武が優勝したため、「ダイスケの呪い」などと言われることがあった(ダイエー松中信彦らとともに「逆シーズン男」と呼ばれたことも)。

しかし2004年は、アテネオリンピック準決勝では好投しながら打線の援護がなく敗れたものの、ペナントレースでは順調に白星を重ね、特に弱いとされたポストシーズンで、ダイエーとのプレーオフ第2戦と第5戦に好投し、西武をリーグ優勝に導いた。直後の中日との日本シリーズでは、第2戦に先発し6点の援護を貰うも7回に集中打を浴びてKOされ、呪い再びかと思われたが、王手をかけられた第6戦では、序盤リードを奪われながらも結局2点に抑えて自身初のシリーズ勝ち投手となる。さらに翌日の第7戦にもリリーフ登板し、日本一に貢献。

2006年のワールド・ベースボール・クラシックでも3勝を挙げ日本の世界一に大きく貢献。この大会のMVPに選ばれ、大舞台に弱いという「呪い」を完全に払拭した。

WBC

2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で唯一の3勝をあげ、最優秀選手(MVP)に選ばれた松坂は、MVPのトロフィーを受け取った直後にTVのインタビューで、「MVPとったんですけど、これ(=トロフィーの円盤状の飾り)もうとれちゃったんですね。この辺がアメリカっぽいですけど」と苦笑いしつつ、「後で自分でアロンアルフアでくっつけて直しますけど」と冗談を言ってのけた。その後、実際に販売元の東亞合成から松坂へアロンアルフアが大量に送られた。

優勝を祝うシャンパンファイトにおいて、甲子園で投げ合った同い年の上重聡・日本テレビアナウンサーに「今日のピッチング気合入ってましたね」と問われた松坂は、日本帰国後に開幕するパ・リーグのペナントレースをうっかり忘れたのか、「もうそりゃ、今日最後だから。今年最後だから」と口を滑らせた。「今年最後ではありません」と突っ込まれると、「それくらい気持ちを入れていたってことです。帰ってもしっかりやります」と自己フォローしていた。実際、この年オフのWBC祝勝コンベンションにおいて、「WBCが終わり、そのままシーズンオフになれば良かったとさえ思った」ほどの、プレッシャーと達成感があったと語っている。

2009年の第2回ワールド・ベースボール・クラシックでも3勝を挙げて最優秀選手に選ばれた。しかし、松坂自身は今回も選ばれるとは思っておらず、インタビューの際「岩隈くんに悪いなと思いました」とコメントを残している。

松坂世代

松坂大輔と同学年の選手には、投手を中心にプロで活躍する逸材が揃っており、総称して『松坂世代』と呼ばれている。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1999 西武 25 24 6 2 0 16 5 0 -- .762 743 180.0 124 14 87 1 8 151 5 2 55 52 2.60 1.17
2000 27 24 6 2 0 14 7 1 -- .667 727 167.2 132 12 95 1 4 144 2 0 85 74 3.97 1.35
2001 33 32 12 2 1 15 15 0 -- .500 1004 240.1 184 27 117 1 8 214 9 1 104 96 3.60 1.25
2002 14 11 2 0 0 6 2 0 -- .750 302 73.1 60 13 15 1 7 78 2 1 30 30 3.68 1.02
2003 29 27 8 2 1 16 7 0 -- .696 801 194.0 165 13 63 2 9 215 4 0 71 61 2.83 1.17
2004 23 19 10 5 0 10 6 0 -- .625 601 146.0 127 7 42 0 6 127 5 0 50 47 2.90 1.16
2005 28 28 15 3 3 14 13 0 0 .519 868 215.0 172 13 49 0 10 226 9 0 63 55 2.30 1.03
2006 25 25 13 2 2 17 5 0 0 .773 722 186.1 138 13 34 0 3 200 5 0 50 44 2.13 0.92
2007 BOS 32 32 1 0 1 15 12 0 0 .555 874 204.2 191 25 80 1 13 201 5 0 100 100 4.40 1.32
2008 29 29 0 0 0 18 3 0 0 .857 716 167.2 128 12 94 1 7 154 5 0 58 54 2.90 1.32
2009 12 12 0 0 0 4 6 0 0 .400 283 59.1 81 10 30 1 2 54 8 0 38 38 5.76 1.87
2010 25 25 0 0 0 9 6 0 0 .600 664 153.2 137 13 74 1 8 133 4 0 84 80 4.69 1.37
2011 8 7 0 0 0 3 3 0 0 .500 167 37.1 32 4 23 0 1 26 0 0 24 22 5.30 1.47
NPB:8年 204 190 72 18 7 108 60 1 0 .642 5768 1402.2 1102 112 502 6 55 1355 41 4 508 459 2.95 1.14
MLB:5年 106 105 1 0 1 49 30 0 0 .620 2704 622.2 569 64 301 4 31 568 22 0 304 294 4.25 1.40
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル・表彰

記録

NPB
初記録
節目の記録
打撃記録
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:7回(1999年 - 2001年、2004年 - 2006年)※2002年と2003年は負傷により出場辞退

背番号

  • 18 (1999年 - )

CM出演

PV出演

脚注

  1. ^ 松坂大輔物語 120億円を生んだ遺伝子”. ゲンダイネット (2007年3月30日). 2008年7月20日閲覧。
  2. ^ 後藤静香の「第一歩」。後藤は黒土の先輩にあたる。
  3. ^ 【松坂大輔物語 120億円を生んだ遺伝子】 日刊ゲンダイ 2007年4月12日閲覧
  4. ^ 参考文献:江夏豊『松坂大輔へ 江夏豊からのメッセージ』中央公論新社、2000年
  5. ^ a b 小関順二、泉直樹、荒井太郎 『プロ野球スカウティングレポート2006』 アスペクトムック、2006年、5頁。ISBN 978-4-7572-1246-1
  6. ^ 松坂幻の158キロ日刊スポーツ、2007年4月27日。
  7. ^ http://allatanys.jp/B001/UGC020005920090726COK00348.html
  8. ^ http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2009/07/30/20.html
  9. ^ http://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20100131-591083.html
  10. ^ 松坂、岡島、田沢それぞれの2010年 Rソックス日本人選手を振り返る カルロス山崎 スポーツナビ、2010年10月15日。
  11. ^ 松坂が岡島が…ヤ軍戦前280万円集めた日刊スポーツ、2011年3月16日。
  12. ^ 松坂が100万ドル=約8000万円寄付日刊スポーツ、2011年3月26日。
  13. ^ 松坂、メジャー初の真夜中リリーフで黒星日刊スポーツ、2011年5月6日。
  14. ^ 松坂の右肘手術成功、倫世夫人付き添う日刊スポーツ、2011年6月11日。
  15. ^ a b 現役スカウト部長による“本物”のスカウティング・レポート『月刊スラッガー』2010年10月号、日本スポーツ企画出版社、2010年、雑誌15509-10、11頁。
  16. ^ 侍メジャーリーガー研究ラボ 松坂大輔 予想外の大不振 原因はどこに?『月刊スラッガー』2009年9月号、日本スポーツ企画出版社、2009年、雑誌15509-9、56-57頁。
  17. ^ SILVER LINING 制球克服の鍵は速球にあり『月刊スラッガー』2010年10月号、日本スポーツ企画出版社、2010年、雑誌15509-10、25-27頁。
  18. ^ 現役スカウト部長による松坂の2006&2010投球動作分析『月刊スラッガー』2010年10月号、日本スポーツ企画出版社、2010年、雑誌15509-10、14-17頁。
  19. ^ WBCコーチが語る 松坂の苦闘『月刊スラッガー』2010年10月号、日本スポーツ企画出版社、2010年、雑誌15509-10、14-17頁。
  20. ^ FanGraphs Daisuke Matsuzaka PichFX
  21. ^ 松坂、パワーピッチャーへ=新たな武器ワンシームを習得 カルロス山崎 スポーツナビ、2010年7月27日。
  22. ^ 不振脱出!松坂、新球「スプリットチェンジ」だスポニチ、2010年09月28日。
  23. ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2009』 廣済堂出版、2009年、51頁。ISBN 978-4-331-51370-5
  24. ^ ストレート勝負の本格派に変身中!松坂大輔は魅力的な“悪女”である 生島敦「スポーツ・インテリジェンス原論」Number Web 2010年6月13日。
  25. ^ メジャー4年目で最高の出来だった松坂大輔を襲った悲劇 笹田幸嗣 Web Sportiva 2010年10月05日。
  26. ^ 2000年10月27日付。読売新聞

関連項目

外部リンク

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