池田勇人
池田 勇人 いけだ はやと | |
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生年月日 | 1899年12月3日 |
出生地 | 日本 広島県豊田郡吉名村 |
没年月日 | 1965年8月13日(65歳没) |
死没地 | 日本 東京都 |
出身校 | 京都帝国大学法学部(現・京都大学) |
前職 | 大蔵省官僚・事務次官 |
所属政党 |
(民主自由党→) (自由党→) 自由民主党 |
称号 |
正二位 大勲位菊花大綬章 法学士(京都帝国大学) |
親族 |
廣澤眞臣(岳父の父) 廣澤金次郎(岳父) 池田行彦(娘婿・養子) 寺田稔(孫娘の夫) |
サイン | |
第58-60代 内閣総理大臣 | |
内閣 |
第1次池田内閣 第2次池田内閣 第2次池田第1次改造内閣 第2次池田第2次改造内閣 第2次池田第3次改造内閣 第3次池田内閣 第3次池田改造内閣 |
在任期間 | 1960年7月19日 - 1964年11月9日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第19代 通商産業大臣 | |
内閣 | 第2次岸改造内閣 |
在任期間 | 1959年6月18日 - 1960年7月19日 |
国務大臣(無任所) | |
内閣 | 第2次岸内閣 |
在任期間 | 1958年6月12日 - 1958年12月31日 |
第61-62代 大蔵大臣 | |
内閣 |
石橋内閣 第1次岸内閣 |
在任期間 | 1956年12月23日 - 1957年7月10日 |
内閣 | 第4次吉田内閣 |
在任期間 | 1952年10月30日 - 1952年11月29日 |
その他の職歴 | |
第55代 大蔵大臣 (1949年2月16日 - 1952年10月30日) | |
第2代 通商産業大臣 (1950年2月17日 - 1950年4月11日) | |
衆議院議員 (1949年1月23日 - 1965年8月13日) |
池田 勇人(いけだ はやと、1899年(明治32年)12月3日 - 1965年(昭和40年)8月13日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。
大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・7・19代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第58・59・60代)などを歴任した。
概説
大蔵官僚を経て終戦後まもなく政界入りすると、吉田茂の右腕として頭角をあらわし、吉田内閣の外交・安全保障・経済政策に深く関与した。佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格である。保守合同後は自民党の宏池会の領袖として一派をなし、1960年に首相に就任した。19世紀生まれの最後の首相である。
首相としては所得倍増計画を打ち出し、日本の高度経済成長の進展に最も大きな役割を果たした政治家である[1][2][3]。
生涯
生い立ち
広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)にて父・池田吾一郎、母・うめの間に7人兄弟の末っ子として生まれた[4]。父は酒造りや煉瓦の製造、塩浜の経営、郵便局長などをやり有為転変もあった[5]。生家が造り酒屋というのは、当時の政界進出者の一典型で、地元では素封家ということになる[6]。
学生時代
旧制忠海中学校、旧制第五高等学校を経て京都帝国大学法学部卒業[7]。
忠海中学校の1年時に陸軍幼年学校を受験するが、近視と背丈の低さで不合格となる[8]。同中学の1年先輩にニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝がおり、池田は寮で竹鶴のふとんの上げ下ろしなどもした。池田と竹鶴の親交は池田が亡くなるまで続き、池田が総理大臣になっても「日本にも美味しいウイスキーがある」と言って、外国の高官に竹鶴のウイスキーを薦めるほど、生涯変わらない友人だった[9][注釈 1]。
旧制一高受験の際、名古屋の下宿で偶然に佐藤栄作(のちの首相)と同じ宿に泊まり合わせた[注釈 2]。池田は忠海中学校の同級生2人と、佐藤は山口中学の同級生と、計5人で試験場に行った。入試が終わった日、5人は酒を飲み、大騒ぎして別れた[10]。一高受験には2度失敗し、五高に廻された[11]。
大蔵省時代
挫折と生命の危機を乗り越え
京都帝国大学法学部卒業後、高等文官試験をパスし1925年、同郷の政友会代議士・望月圭介の推薦を受け大蔵省へ入省[12]。入省同期に山際正道、植木庚子郎、田村敏雄などがいる[13]。学歴がものをいう官界の頂点に君臨し、一高、東京帝大出身、高等文官試験上位成績パスのルートのものがほとんどという大蔵省の風土は「東大法学部にあらずんば人に非ず」、[14][15]、五高、京都帝大という池田の経歴は傍流中の傍流であり[16]、長く地方廻りをさせられ悪くすると地方の出先機関の局長や税関長までということもありうる、省内においては出世コースから外れた、鉄道の切符になぞられて三等の"赤切符組"と見做されていた[11]。
入省後は地方を廻り、1927年、函館税務署長に任命される直前に、望月の秘書だった宮澤裕に勧められ維新の元勲・広沢真臣の孫・直子と結婚する[12]。媒酌は時の大蔵大臣・井上準之助だった[17]。1929年から宇都宮税務署長を務めるが、落葉状天疱瘡を発症したため、大蔵省を休職する。病気はなかなか治らず、一転して池田は人生の難局に直面した[12]。当時この病気は不治の病といわれた難病だった[12]。手足の皮膚から膿が吹き出す凄惨な病で、膿を抑えるために全身をミイラのように包帯でぐるぐる巻きにする。痒くて痛くて寝床でのた打ち回る[5]、たまりかねて「もういい、オレを殺してくれ!」と絶叫することもたびたびだった[18]。1931年、2年間の休職期間が切れたため、大蔵省を退職することとなる[19]。以後3年間、吉名村の実家で療養生活を余儀なくされた[20]。原因不明の難病に、周囲には白い視線を向ける者もおり、冷たい風の中で治療は続いた[20]。栄進への道を絶たれたも同然の池田は、失意に沈んだ[20]。少しよくなりかけた頃、四国巡礼をする[21]。池田とは対照的に出世の階梯を異例のスピードで駆け上がる、1期後輩の迫水久常に切歯扼腕する思いを持った[12]。
闘病中には、看病疲れから妻の直子を狭心症で失っているが、やはり看病に献身した遠縁の大貫満枝との出会いといった出来事もあり(後に結婚)、生死を彷徨った5年間は池田の人生観に大きな影響を与えた。1934年に奇跡的に病気が完治した[5]。医者も「どうして治ったのか判らぬ」と言っていたといわれる[5]。大蔵省を退職していたため、再び望月の世話を受けて日立製作所への就職が内定した[12]。その挨拶と就職の件で上京し、買い物で立ち寄った三越から、未練が残っていたのか大蔵省に電話を入れる[12]。電話に出た三年先輩の松隈秀雄が「なに、池田? おまえまだ生きていたのか」と言い、秘書課長の谷口恒二に相談し「復職はなんとかするから、戻ってこい」と二人が池田に復職を薦めた[22]。石渡荘太郎主税局国税課長に「税務署の用務員もいといません。よろしくお願いします」と訴え[23]、同年12月に新規採用という形で、34歳にして玉造税務署長として大蔵省に復職が決まった[12]。玉造では、やはり病気で遅れて和歌山税務署長を務めていた前尾繁三郎と知り合い、以後肝胆相照らす関係が続くことになる[24]。
財政家として基盤の形成
復職後は病気での遅れもあり、出世コースを外れ、税制関係の地味なポストを歩み続けたが、やがて税の専門家として知られるようになり、税務を通じた産業界との縁は後の政界入り後に大きな力となった。池田の徴税ぶりは有名で「税金さえとれば、国のためになる」と野間清治や根津嘉一郎の遺産相続時の取り立ては凄まじかったといわれる[25]。当時省内では、賀屋興宣と石渡荘太郎の二大派閥が対立していたが、池田は同郷の賀屋派に属した[26]。熊本税務監督局直税部長、東京税務監督局直税部長を経て、主税局経理課長として本省に戻るが、重要会議には全く呼ばれず、当分冷や飯を食わされる[16]。賀屋が大蔵大臣を務めていた1941年に主税局国税課長となり、ようやく遅れを取り戻した形となった[27]。本人は後に、国税課長昇進が蔵相就任時よりも嬉しかったと述懐している。国税課長時代は国運を賭けた太平洋戦争と重なり、賀屋とともに、日本の歴史上最大増税を行い軍事費の膨張を企てた[28]。国家予算のほとんどは戦費で、財源の大部分が国の借金、国家財政は事実上の完全なる破綻に至る[29]。1942年、同郷の宮澤喜一入省の際の保証人となる[26]。同じ年、主税局の管轄で横浜税関の業務部長になった下村治が挨拶に訪れ会う[30]。病気がちで何度も死線を彷徨った境遇が似ていた[31]。1944年、蔵相が石渡に交代して構想から外され東京財務局長[32]。出世の遅れに嫌気がさし、1期上の飲み仲間で当時満州国の副総理格だった古海忠之に「満州に呼んでくれないか」と頼んで承諾を得たが[33]、母親に猛反対され断念した[34]。1945年2月に主税局長となるが、初の京大出身の局長として新聞記事になったほどの異例の抜擢だった[26]。出世の遅れはここでほぼ取り戻した[26]。同年5月25日の東京大空襲で大蔵省庁舎の一部が焼失したため、必ず狙われる都心を離れ局ごとに建物を分散した[35]。池田の主税局は雑司が谷の自由学園明日館に移っており同年8月、終戦を告げる玉音放送は同所で聞いた[35]。「終戦の詔書」を起草したのは、病床の池田を悔しがらせ、当時内閣書記官長に出世していた迫水だった[26]。
終戦後池田は戦後補償の担当者だったといわれ[36]、軍需会社や民間の会社が大蔵省に殺到した[36]。1945年9月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から「日本の租税制度について聞きたい」と大蔵省に呼び出しがあり、前尾繁三郎を伴い第一生命ビルに陣取るGHQ本部に出向き、戦後の税制改革の協議がスタートした[37]。戦時補償の打ち切りと財産税法創設問題に精力的に取り組み[26]、1947年2月、第1次吉田内閣(大蔵大臣・石橋湛山)の下、主計局長だった野田卯一を飛び越えて大蔵次官に就任する。終戦、公職追放などによる人事の混乱に加え[38]、池田の政界入りの野心を見てとった石橋の親心も作用した[39]。これが池田の運のつきはじめといわれる[40]。石橋蔵相下で石橋に協力して戦後の財政再建の実務を担当する[41]。1947年5月片山内閣の発足で、次官会議で運輸事務次官になっていた佐藤栄作と再会した[38]。また社会主義の実現を目指す社会党内閣は、戦時中から続いていた経済統制や計画経済の中枢として経済安定本部(安本)の強化を図ったため、必然的に安本に出向くことが増え、ここで安本次官だった同郷の永野重雄と親しくなり、財界に強い素地を作る[38]。
政治家として
1948年に48歳で大蔵省を退官。浪人中に政治家になることを猛反対していた苦労かけた母が亡くなったことが政治家転身を後押しした[42]。翌1949年の第24回衆議院議員総選挙に旧広島2区から出馬し、選挙戦の第一声を出身校の竹原市立吉名小学校の裁縫室であげた[43]。演説の話が難しすぎ、100人近くの聴衆はポカ〜ンとして拍手一つ上がらなかったというが、初当選を果たす[43]。以降、死去まで選挙は連続7回トップ当選した[44]。
新人で大蔵大臣
民自党は大勝し、第3次吉田内閣の組閣は順調に進んだが、大蔵大臣のポストだけがなかなか決まらなかった[45]。この年2月1日にデトロイト銀行頭取でマッカーサーの財政顧問のジョゼフ・ドッジが公使の資格で来日し、日本のインフレ収束について強力な政策が執られるとの予想があったからである[46]。それまでのような蔵相ではとても総司令部に太刀打ちできそうもなく[46]、吉田はマッカーサーとの信頼を築くことに専一で外交は玄人だが[47]、財政経済は素人でほとんど無関心だったため[47]、信頼に足る専門家を見つけ出して任せるしかなかった[46]。吉田には数ヶ月前の前内閣で、池田成彬に凝って泉山三六を蔵相に起用し大失敗した苦い経験があった(国会キス事件)[48][49]。吉田は宮島清次郎に人選を依頼したが、宮島が挙げる候補者はみな公職追放の憂き目に遭っていた[50]。やむなく宮島が桜田武に相談し、桜田が永野重雄から永野の経済安定本部時代の次官仲間だった池田を推薦された[51]。実は池田は吉田と宮嶋が仲がいいのを前から知っていて、同郷の中村是公が経営する広尾の羽澤ガーデンというすき焼屋に出入りし、宮嶋が来ると碁の相手をしてごまをすっていた[52]。宮島が池田にテストを行った上で吉田に推薦した[53][54]。当時は財界でも池田の名を知る者はほとんどいなかった[46]。宮島の厳しい質問は、池田の最も得意とする領域で、スラスラ答えたといわれる[46]。池田は記憶力が抜群で、数字を丸暗記できる特技があり、日本経済の将来像を見抜く力を養い、進むべく方向性を見出していく[55]。こうして選挙後の1949年2月16日、林譲治や大野伴睦らの党人派の反対を押し切って池田は、1年生議員でありながら第3次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢された[27]。吉田側近の麻生太賀吉、根本龍太郎とともに、党内でこの人事に真っ先に賛成したのが田中角栄だったといわれる[56]。池田は大蔵大臣秘書官として黒金泰美と、大蔵省時代に英語が堪能で贔屓にしていた宮澤喜一を抜擢した[57]。まもなく黒金が仙台国税局長に異動したため、後任に固辞する大平正芳を否応なしに起用した[58]。大蔵次官・野田卯一が辞表を出したため、長沼弘毅を抜擢したが、長沼も池田と肌が合わず二年後、「朝から酒飲んでるやつに頭のいいやつがいるわけない」と新聞記者に池田の陰口を叩いたのがゴシップとして記事になり辞表を提出し退官した[59]。
占領下の経済政策
第3次吉田内閣は、その後内閣改造を計3回行ったが、いずれの内閣改造でも池田は大蔵大臣に留まった。さらに第3次吉田内閣で通商産業大臣を、第4次吉田内閣では経済審議庁長官を兼務した。ワンマンの吉田首相の絶大な信任を得て、いわば全権委任の形で経済を委された。ジャパン・ロビーの有力後援者でディロン・リードの副社長でもあったドレイパー陸軍次官が、トルーマン米大統領から1947年からの二年間限定で日本復興を命じられ、その随員の一人として来日したジョゼフ・ドッジ[60]と1949年3月1日、会談した[61]。池田は、後の「所得倍増計画」に見られるような積極財政をプランし、減税や公共投資を推し進め、それによって戦後の復興を成し遂げようと考えていたが、占領下ではGHQの指示は絶対で、意に反してドッジの超均衡財政の忠実な執行者を余儀なくされた[62][63]。折角作った予算をドッジにズタズタに切られ、6日後の3月7日にドッジ・ラインを実施[64][65][66]。超均衡予算を押し付けるドッジと、選挙公約の不履行という民自党内部や各党からの批判、「国民生活の窮迫」という国民の非難を浴びながら[67]、1950年度予算は、収支プラス3億円の超均衝予算を成立させる[62][68][69]。これを「インフレではない。ディスインフレ政策である」と強調したため、「ディス・インテリ」という渾名を付けられた[68]。この反動で、金づまり(デフレ)の嵐が吹き荒れ、企業合理化による人員整理で失業者が増大し、各地で労働争議が頻発、下山事件など暗い事件も相次いだ[70]。ドッジは特に公務員の大量解雇による人件費削減を池田に強く指示し、これを実行したため、ドッジと池田に非難が集中した[60]。政党、労働組合、産業界、特に中小企業からの集中砲火にさらされたが耐えに耐えた[71]。「池田勇人、鬼よりこわい、ニッコリ笑って税をとる」という戯れ歌が歌われ[16]、池田の憎たらしい面構えの風刺画が新聞・雑誌に掲載された[72]。行政は池田とドッジやGHQ担当者との密室で決まり、うっかり公表すればGHQからねじこまれるため報道関係者には一切喋れず、新聞記者からの人気が悪くなった[73]。シャウプに会った後、記者会見を要求され、無視すると「取材活動を妨害し、国論を軽視する非民主主義的な態度をとった。猛省を促す」という決議を記者クラブから突きつけられた[73]。ついでに「庭先で散歩中、レンズを向けたカメラマンにステッキを振り上げた」などと、新聞に悪口ばかり書きたてられた[73]。不機嫌な池田に、高飛車に出られても、粘りに粘った記者が4、5人ほどいて、それが池田記者・派閥記者の誕生であった[74]。中小企業の倒産や、企業主家族の心中が相次いだため、記者たちからの意見を求められた池田は「その種の事件が起こるのは当然のことと見ている」と述べ、国民にショックを与えた[49]。1950年6月の参院選では、吉田から「お前が喋らない方が党のためになる」と選挙応援には来ないでくれと言われたほどである[49]。経済の停滞は続いたが、ドッジ・ラインという劇薬と、1950年6月の朝鮮動乱勃発による特需ブームにより、ようやく戦後の日本経済は不況を脱した[47][62]。また見返り資金の管理を重要視したドッジが、大蔵省から独立した見返り資金管理官という次官級または大臣級のポストを新設してはどうかと池田に相談し、池田が吉田と相談し大蔵省内に次官クラスの役職として1949年6月に財務官という役職を新設し、初代の財務官には渡辺武を任命した[75]。国内からの反撥を受けながらもドッジ・ラインを実現できるだけの力を示すことで、対米信用を獲得し、政治家としての権力基盤を形成した[76]。ドッジと大蔵省の協議のほとんどに出席したヤング使節団のオービル・マークダイアミドは後年、「ドッジ使節団の成功に最も寄与したのは池田である」と述べた[49]。ドッジやGHQからの池田に対する信頼は厚く、日本の政治家は池田を通さないとドッジと面会できなかったといわれる[76]。それが吉田の池田に対する信頼感を持たせることにも繋がった[77]。1949年6月、大蔵政務次官として部下となった京大の後輩・水田三喜男を可愛がり、後の第1次池田内閣で大野派ながら『所得倍増計画』を推進する大蔵大臣に抜擢した[62]。また戦後税制3つの転機といわれる所得税中心の税制を確立したシャウプ勧告では、ドッジ予算ほど強い権限がないことに着目し、池田はその内容を柔軟に解釈し、勧告の中で示されている以上の減税が可能であるとの立場をとり、1949年度の補正予算に若干の減税をドッジに認めさせ、歴史上はじめて実質上の歳出増ならびに減税の両方を含む補正予算を示した[76]。占領下の国家予算等、経済政策を一手に引き受け[78][79][80]、日本経済の舵を取る[81]。ドッジ・ラインが成果をあげることによって池田がドッジとアメリカの信用をかちとり、大蔵省を足場にその政治的立場を強化していく[76]。日本経済の拡大均衡への胎動は、池田蔵相全盛時代の幕開けを告げるものだった[82]。1950年2月17日から同年4月11日まで通商産業大臣を兼務した。当初は白洲次郎がGHQを握り、吉田の懐刀のような仕事をしていたが、経済政策が政治・外交と結びついて展開していったため、池田がGHQ経済科学局長だったウイリアム・F・マーカット少将を抑えて、だんだん独自の力を発揮し、吉田の右腕になっていく[83]。ドッジ・ライン以降、池田が首相として「所得倍増計画」を打ち出すまでの12年間は、一貫してアメリカとの交渉を通じて対米信用を獲得しつつ、日本の経済復興を推進した時期といえる[84][85]。
講和の下交渉
1950年、生活の圧迫感からドッジ・ラインの緩和を求める声が国民の間でも強くなり、占領政策自体に対する不満に転化する気配が漂い始めた[83]。この年6月に参院選も予定されていたことから、世論の悪化を恐れた吉田は、池田を渡米させ財政政策の見通しについてドッジに打診させることを目論んだ[86][87][88]。GHQの一課長級が平気で日本側の閣僚を呼びつけ、一片の紙切れを「ディレクティブ!」(指令)と称して振り回し、日本の行政を完全にコントロールしていた時代、ワシントンと直に交渉するなど敗者の身としては想像できないことだった[89]。しかし渡米の最大の使命はこれではなかった[90][91]。ドッジやマーカット少将から「講和の交渉に池田をアメリカに行かせたらどうか」という進言があった[92]。マッカーサーには、講和のことについては何も話さず、池田は経済情勢の勉強のための渡米と伝え、池田の帰国後に報告書でそれを知り、GHQの頭越しに池田が米本国政府と重要政策の協議をしたと激怒したとする文献が多いが[86][93]、「マッカーサーが吉田に講和を薦めた」と宮澤がインタビューで話している[92]。出発前にマッカーサーは池田を呼びつけ長広舌を振るったとする文献もある[91]。当時、対日占領の経済的負担がアメリカにとって過重となっていて、アメリカ政府の中にも軍事的要求が満足できるなら必ずしも講和に反対しない、という意見が台頭しつつあったといわれる[68]。アメリカは日本を独立させるという条件を提示し、朝鮮戦争に全面的に協力させようと考えていたとする見方もある[91]。日本側の心配をよそに、池田の渡米の許可は難なく下りた[86]。ただしGHQで書類にサインした際に拇印を押さされ「一国の大蔵大臣なのに..」と悔し涙を流さんばかりだった[93]。当時マッカーサーはこれから日本人の海外旅行を増やしていきたいと考えていたといわれる[86]。こうして表向きは米国の財政金融事情・税制、課税状態の実情の研究として、実際は講和・安保問題の打診、"吉田からの伝言を預かり[94][95][96]、これをしかるべき人に、しかるべき場合に伝える"という[97]、重大なミッションを抱えて同年4月25日、吉田の特使として白洲次郎、宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米した[86][98][99]。池田は戦後、日本の閣僚がアメリカの土を踏んだ第1号でもあった[86]。池田はそりの合わない白洲とは別行動をとり[100]、通訳の宮澤とともに役所や工場の視察を重ねたのち、ワシントンD.C.でドッジ・ラインの緩和を要請した[83]。また池田は近い将来の日本経済の飛躍的発展と、その基盤を成す輸出振興のために日本輸出銀行(輸銀)設立の構想を持っており[89]、国際通貨基金 (IMF)総裁を訪ね、日本政府のIMF加盟、国際復興開発銀行(世界銀行)加入要請[101]、輸出入銀行 (輸銀)創設の要請などの話し合いを重ねた[71][89][92][96][102]。最終的な権限はGHQにあるため、まとまってもそこでは結論は出さずに、形式的にはGHQの決定に委ねる形である[102]。池田と宮澤は、1泊7ドルの安ホテルの2人部屋で、約1ヵ月相部屋生活を送り、夜は柳橋亀清楼の女将が持たせてくれた福神漬を肴にコップ酒を飲み交わした[52]。当時ワシントンD.C.には日本人が2人しかおらず[92]、安ホテルに泊まっていたため、印刷機もタイプもそろばんさえなく、資料を自前で作れなかったため、こちらが言ったことを国務省に作ってもらいそれを撒いて議論した[92]。5月3日、池田と宮澤が人気(ひとけ)のない国務省の一室でドッジに吉田からの重大な伝言を口頭で伝えた[90][92][89]。「吉田首相からの伝言をお伝えしたい。日本政府は早期講和を希望する。講和後も日本及びアジア地域の安全を保障するために、米軍を日本に駐留する必要があるであろうが、もし米軍側が申し出にくいならば、日本側から提案する形をとってもよろしい…条約締結の前提としてアメリカ軍基地の存続が必要だとしても、日本はすぐにでも条約締結の用意があります」などと、16ヶ月後の日米安全保障条約の基礎を成す内容を伝えた[86][95][103]。国務省の立場を非常によくする内容の日本側から安保条約的構想のオファーに[104]、バターワース国務次官がそれを聞き「白洲次郎から聞いていたのとは違う。吉田さんがそういうオファーをするなら、これはアチソン国務長官に伝えよう」と言ってアチソンにそれを伝え、アチソンはそれを持って対日講和を含む議題があったロンドンでの外相会議に出席した[92]。コピーのもう一部はジョン・フォスター・ダレスとマッカーサーに行き、日本側からそういうオファーがあるならと講和の準備が進められた[92]。なお、2人とは全くの別行動をとっていた白洲は、吉田からの安保構想は聞かされてなかったといわれ[105]、宮澤は「この時の渡米は白洲さんにとってはあまり重要な任務でなかったのではないかと思う」と話している[99]。白洲は財政経済の知識が皆無で池田とは専門分野が違っていた[91]。吉田から戦後再建の重要な足掛かりとなる対米打診に登用されたことで、池田は単なる数字に強い財政家の枠を超えて吉田に次ぐナンバー2の地位を築く[102]。占領下という極めて困難な条件の下で、国政の要ともいうべき外交と経済を、吉田と池田が長期にわたって分担したという共通の経験と思い出が、二人の関係をいっそう親密なものにした[106]。一方の白洲は帰国後、自身の果たした役割を世に説明することもなく、鶴川に引っ込んで好きな農民生活に戻っていった[102]。
この年6月ダレスが、講和条約起草という目的を持って来日し、以降吉田との話し合いが進んだ[92]。ダレスと吉田の話し合いは秘密裏に進められ、その内容を知るのは西村熊雄条約局長と岡崎勝男の二人だけだったといわれる[92]。1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約が調印されるが、講和会議に出席した全権団のメンバーで講和条約に関わったのは池田だけである[92]。他のメンバー構成は吉田が仕組んだショーといわれる[107][108]。この全権団入りも1年生議員で、しかも外相でもない池田がメンバーに加わったことに異議を唱える者も少なくなかった[109]。宮澤でさえ「これは、相当の贔屓だな」と思ったという[110]。オペラハウスで対日講和条約が調印された日の夜、吉田は池田を伴いプレシディオ国立公園内の当時、米国陸軍第六軍の基地として使用されていた下士官用クラブ(米軍将校用の酒場)に出向き、池田に「君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名する」と言って、日米安全保障条約を一人で署名した[111][112]。吉田は銃剣を突きつけられてサインさせられたともいわれる[113]。二つの調印に参与した他、ドッジらと会談も行われ、占領中に生まれた対米債務が主に議論された[104][114]。
講和・独立後の経済政策
ドッジ・ラインに従って厳しい金融引き締め政策が実行された結果、1949年4月から6月にかけて日本経済は激しい金融難に見舞われた。超緊縮予算は国庫収支の大幅な引き揚げ超過を伴うため、経済はデフレの傾向を示しはじめ企業は資金不足に悩んでいた。産業を再構築するための産業資金の供給を、政府に求める民間の要請が高まった[82]。1950年6月、池田は民間の住宅資金を供給する住宅金融公庫を設立して政府系金融機関を設ける糸口を付けたうえで[115][116]、手詰まりになっていた産業資金を作るため、財政資金を活用することにし、大蔵省預金部を改組して1951年4月に資金運用部を設立した[115]。これが後年、高度成長政策を進める上での財政上のテコになった財政投融資のハシリである[115]。1950年産業金融のあり方を巡り、一万田尚登日本銀行総裁と大論争が行われ、池田が勝利したことで、政治的あるいは役所間の権限争いに勝ち、大蔵省が日銀に対して圧倒的力を行使するようになった[117]。特に1956年、池田の大蔵省の同期・山際正道が日銀総裁になって以降、池田の影響力が増した[117]。一万田は重工業化政策に反対するなど、池田とは全く逆の財政観を持っていたため、一万田が勝っていたら、高度経済政策は違った形になっていた可能性もある[117]。1950年代は池田と一万田の二人が蔵相を務める時期が長かっため、通産省などはその二つのバランスの上に立ち、名人芸的な政策運営を進めた[117]。アメリカ対日協議会(ACJ、ジャパン・ロビーの中枢組織)のドレイパー陸軍次官が池田に「輸出でドル外貨を稼げ」と説得[60]。池田は「ドルがない。綿花を仕入れようにも綿花商人が綿花を送ってくれない」と嘆くとドレイパーが帰国して綿花業者を説得し「日本に綿花を送れ」と指示し、大量に送られた綿花によって日本の繊維産業が急ピッチで発展した[60][118]。繊維製品と日用雑貨製品のアメリカなどへの輸出増大でその振興を目的として1949年5月、商工省を改組して通商産業省(現経済産業省)が発足した[60]。また産業金融システムとして池田が設立したのが政府系金融機関である日本輸出銀行(輸銀)と日本開発銀行(開銀)である[71][82][119][117][120][121]。日本の再興期に於いて、当時の四大重点産業である電力、石炭、海運、鉄鋼など、輸出力のない基幹産業に、当時の民間銀行は資金不足で投資ができず[117][122]、財政余裕資金を国家要請に基づき、それらの分野に重点的配分し、基幹産業を復活させる目的を持った[60][82]。本来は1947年に設立された復興金融金庫(復金)が面倒を見るべきであったが、ドッジは復金は超インフレの元凶とみて嘲笑し、GHQの純粋主義者は戦前・戦中の国策会社的なものは一切認めないという態度を崩さなかった[117]。復金は融資を受けていた昭和電工が1948年に事件を起こしたことで(昭和電工事件)[120]、経済安定本部が監督していた復金を池田が大蔵省指導へ移していた[60]。「どこか他に上手い資金源はないか」と池田が思案し思いついたのがアメリカ国務省からの見返り資金と政府が運営する郵便貯金であった[117]。郵便貯金は明治時代から存続し、大蔵省の預金部資金として集められ、スキャンダルや様々な政治目的のための不正使用の歴史でもあったが、占領期間中、GHQはこの資金の用途を地方債の引き受けに限定していた[117]。インフレが収まると預金者が充分信用してない銀行ではなく、郵便局に預けるようになるにつれ資金量が増えていた[117]。池田はこの二つの資金を重要プロジェクトに利用したいと考え、ドッジと協議に入った[117]。池田は輸銀と事実上復興金融金庫(復金)の再生である新しい機関・開銀の設立を提案[117]、うち輸銀に関しては資本財の輸出促進のため、銀行から通常借りられるよりもっと長期の資金が必要であるという池田の主張をGHQは容易に理解して受け入れ、見返り資金と政府の一般会計からの資金、合計150億円を資本金として1951年2月1日に日本輸出銀行(輸銀)は営業を開始した[71][82][117][119][123]。しかしもう一つの開銀の設立は難航した[117]。池田のたび重なる要請にもかかわらず、ドッジは開銀は資金運用部資金(郵便貯金)から借り入れることを許さなかった。1951年になってドッジはやっと政府の特別プロジェクトへの郵便貯金特別会計からの支払いを認めた[117]。但しその資本金は見返り資金から100億円を供出したのみで、金融債の発行や外部からの原資の調達は行わない、貸し出しの際も運転資金は取り扱わないなどの厳しい条件をつけた[117]。こうして1951年4月、日本開発銀行(開銀)が設立された[60][82][117] [120][124]。開銀は調整プールの役割を演じ、業績が好転した産業からの回収金を、資金の欠乏している産業に再貸出した[60]。両銀行設立にアメリカが見返り資金を提供したのは、アメリカ国務省が朝鮮戦争の演出のため、日本を兵站基地とすべく日本の財閥解体を中止させ、軍需産業の復活を狙っていたためともいわれる[60]。池田が日本輸出銀行の初代総裁には河上弘一、日本開発銀行初代総裁には小林中とそれぞれ腹心をあて、小林は池田の指図通りに動いた[60][82][115][125]。小林は池田の操り人形だったのである[60]。輸銀と開銀は官僚の直接支配から独立した形での銀行であり、どちらもドレイパーやドッジ、マーカット、つまりアメリカの意向に沿ったもので、どちらも池田の指導・監督下にあり、池田は大手企業にも隠然たる力を発揮できるようになった[60]。産業界への資金供給の主要な役を日銀の一万田総裁から取り上げたため、小林はこれに恩義を感じ、以降"財界池田山脈"の中心的な肝いり役になった[115]。小林は開銀の頭取として民間企業へ見返り資金1400億円を融資し、その謝礼として借り手から保守政治家に対する献金を受け取り、政財界に絶大な影響力を持つようになった[60]。5年以上に及ぶ在職期間中に小林が振るった権力は日銀総裁を凌ぐものだった[60]。朝鮮特需により大企業はこの二つの銀行をフルに利用し、日本経済を大きく飛躍させた[60]。自身の資金源確保という一面もあるにせよ、池田はこの占領下時代に、日本の高度成長期の礎をすでに築いていたのである[60]。輸銀と開銀は行政上は大蔵省の管轄下にあったが、政策面では通産省が支配的な力を振るい、大きな力を持つようになった[117]。1952年には、池田主導のもとに長期信用銀行法が成立し、旧特殊銀行であった日本興業銀行と新設の日本長期信用銀行が長期金融を担当する民間金融機関として改めて誕生し、官民ともに長期資金の供給体制が確立した[82][126]。池田は税務畑の出身で、本来金融は畑違いだったのだが、苦心のドッジを始めとする対米交渉が実を結び、金融分野で思わぬ業績を挙げたことが得意だったらしく、「大手町界隈は、オレの作った銀行ばかり。池田銀行街になったな」とよく自慢していたという[60][82]。1949年「従来の一県一行主義に固執することなく、適当と認めるものは営業を許可する方針である」と表明し、この政策転換により1951年から1954年にかけて北海道銀行、東北銀行、千葉興業銀行、東京都民銀行など全国に12の新銀行(戦後地銀)が設立された[127]。戦後の様々な金融機関の設置はドッジ・ライン下で行われたため、事実上、池田・大蔵省が戦後日本の経済体制の基本を形成した[76]。国内からの反撥を受けながらもドッジ・ラインを実現できるだけの力を示すことで、対米信用を獲得し、政治家としての権力基盤を築いていく[76]。
度重なる問題発言
第3次吉田内閣にて大蔵・通産大臣を務めていた1950年3月1日、「中小企業の一部倒産もやむを得ない」との発言が問題となる。さらに第3次吉田第1次改造内閣にて蔵相を務めていた同年12月7日、「貧乏人は麦を食え」と発言したとして再び問題となる(実際は、参議院予算委員会で社会党の木村禧八郎の質問に答えた中で、「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたい」という発言を要約した言葉)[63][128][129]。占領軍の権威を傘に着る吉田の、池田はその代弁者ということで攻撃を浴びた[68]。また1年生で蔵相に起用されたことで、与党内はもちろん、野党議員まで反発し、国会でいろいろと意地悪された[69]。池田自身も吉田に目を懸けられ得意気になっており、衆院本会議で質問に答弁しようとする閣僚を制して「これらが、いずれも予算に関係がありますから、私から代わってお答えします」などとのさばり出て、一人で内閣を背負っているような気持になっていた[130]。日頃から「池田というのは若いくせに生意気だ」という空気があったため大問題になった[69]。"貧乏人は麦を食え発言"をやったときには、委員会が騒然となり、「放言だ!」「重大問題だぞ!」と声が上がり、「またやった!」と新聞は大喜びした[130]。1951年、日本医師会の田宮猛雄会長、武見太郎副会長から請求された健保の診療報酬大幅引き上げは、1954年の「医師優遇税制」と形を変え導入された(詳細は後述)。1952年1月、戦死者遺族援護費をめぐり橋本龍伍厚生大臣と対立し、橋本が辞任した[131]。1952年8月、吉田と密談を重ねて抜き打ち解散を進言する[132][133][134]。自由党の中でこの解散日を知っていたのは、吉田と池田以外は保利茂官房長官と麻生太賀吉の二人のみ[132]。衆議院議長の大野伴睦さえ知らなかった[133]。選挙資金の準備が整う前に抜き打ち解散をすれば、自由党の圧勝、鳩山一郎一派への大打撃になると池田が読んで吉田に進言したものであるが[132]、自身の選挙も危ないという事情が一番にあった。当時公職追放を解除された恩人の賀屋興宣は東京から出馬することになったが[135]、永野護が同じ広島2区から立候補することになり、石橋湛山が当時盛んに池田財政の非を訴え、広島にも乗り込んで煽っていた[133]。講和の下交渉の際に打診していた日本の国際復興開発銀行(世界銀行)と国際通貨基金 (IMF) 加盟が認められ、抜き打ち解散に伴う選挙中の9月にメキシコシティで開催された総会に宮澤を伴い出席[101][136]。ユージン・ブラック世界銀行総裁に只見川の電源開発資金(只見特定地域総合開発計画)の借り入れを打診し賛同を得た[101]。またスナイダーアメリカ合衆国財務長官とドッジ国務長官顧問から後にMSA交渉で展開される軍事援助の問題を伝えられた[137]。一本立ちした日本の大蔵大臣として、世界各国の蔵相や中央銀行総裁と、初めて対等の立場で物が言えた[138]。池田は数多い外遊の中でも晩年までこのメキシコ行を懐かしんだという[138]。しかし帰国すると吉田一派と鳩山一派の対立は、手が付けられない状態となっており、やむなく池田と広川弘禅農相とで、吉田批判の元凶と目した石橋と河野一郎の除名処分を強引に決め[133][139]、吉田に進言して実行させた[133][139]。当時、林譲治、益谷秀次、大野伴睦の「吉田御三家」といえども、池田、佐藤栄作という新興勢力を抑えられなくなっていた[139]。同年10月30日に発足した第4次吉田内閣では、通商産業大臣と経済審議庁長官を兼務し入閣した。この時、電力の分割民営化を目指す松永安左エ門が、三鬼隆、水野成夫、工藤昭四郎らの電力統合派と争うが、多勢に無勢で敗北濃厚となり[140]、通産大臣の池田に直談判して来た[140][141][142]。池田は松永の熱意に驚き協力を約束して形勢が逆転、その後分割民営化(九電力体制)が成された[141][143]。これをきっかけに、松永が池田を可愛がるようになった[140]。松永との関係が後の水主火従から火主水従というエネルギー切り替えに繋がった[144]。同年11月27日、日本社会党加藤勘十の「中小企業発言」の確認に対し「経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」とまた問題発言をしたため[128][129]、翌日に野党が不信任決議案を提出した。吉田政権は与党内に激しく対立する反主流派を抱えており、その一部が採決時に欠席したことにより、不信任案が可決された[145]。日本国憲法下での唯一の閣僚不信任決議である。閣僚不信任決議に法的拘束力はないが、無視した場合には内閣不信任決議にもつながりかねない状況であったため[注釈 3]、池田は決議に従って大臣を辞任した。このとき、中小企業の育成に尽くしてきたという自負から、池田は発言を撤回しなかった。失言の度に、大衆の反逆に遭ったことから、いかに大衆と結びつくべきかを考え、後の大衆に向けてのサービス精神を養った[146]。この不信任案が可決したとき、池田の党人グループが「池田を慰める会」を設け、定期的に会合を開くようになった[147]。当時は会合に料亭を使うという風習はなく、会合は池田邸でやったという[148]。この頃から池田は派閥を作ろうという気を持ち「将来、おれを総理にやるんだ」といい始めた[147]。また玉置敬三通産事務次官から、白州次郎一派で「永山天皇」として通商産業省権力を振るっていた通産省初代大臣官房長永山時雄の追い出しを要請され、退任の際、後任の向井忠晴に永山を辞めさせるよう申し送った[149]。同じ頃、白州が吉田をおおっぴらに批判したため、吉田に嫌われ力を失い、永山も力を失い1953年1月、永山は官房長を外された[149]。
池田・ロバートソン会談
しかしその後も池田は党・政府の要職を歴任する。1953年自由党政調会長に就任。松野頼三は池田の下で政調副会長として鍛えられ、政策通としての素地を作った[69]。同年5月、MSA問題が表面化[150][151]。MSAとはアメリカが1951年10月に作った相互安全保障法のことで、対外経済援助とアメリカの世界軍事体制を結合させる役割を担うものだったが、アメリカはこのMSA援助を日本にも適用し、日本の再軍備を促進したいと望んだ[150]。朝鮮戦争休戦の結果、過剰となった兵器を日本に渡し、日本の防衛力を増大することは、アメリカにとって一石二鳥の妙案だった[150]。これに対して日本側では、財界が朝鮮特需に代わる経済特需をこのMSA援助に期待して乗り気を示していた。ここでは日本再軍備に重点を置くアメリカ側と、経済援助引き出しを狙う日本側の思惑が明らかに食い違っていた。ダレス国務長官は同年7月、「保安隊が最終的には35万人に増強されることを必要とするというのが、アメリカの現在持っている暫定的構想である」と述べ[152]、8月来日の際、吉田にこの35万人増強を持ち出したが、吉田はこれに応じなかった[150]。吉田はMSA受け入れの前提として、防衛問題と経済援助で日米間の意見調整をはかる必要があると考え、経済に明るい腹心の池田の派米を決意した[150][151]。その前に日本側の立場を強化するため、再軍備を主張する改進党と協調する必要を認め[150]、池田が大麻唯男とのパイプを使い、吉田と重光葵改進党総裁との会談を実現させた[153][154][155]。前述のようにアメリカは創設にあたり35万人規模の体制を要求してきたが[156]、吉田は防衛に金をかけたくなく、池田にアメリカ側の主張を値切る理屈を考え出すように命じた[156]。池田は軍事問題には素人のため、当時大蔵省に出入りしていた元海軍嘱託の天野なる人物に知恵を出させた[156]。この天野の知恵でアメリカ側と折衝し自衛隊は18万人体制になったといわれる[156][157]。しかし池田の渡米に対して、国会で不信任を受けた人間をなぜ起用するのかという反発が強く、首相の個人特使という性格の曖昧さも野党から突かれ難航し、当初3月下旬を予定していた渡米は延期されたが[152]、1953年10月1日、吉田の個人特使の名目で、吉田政権下で三度目の渡米[151]。宮澤と愛知揆一が同行[158]。池田・ロバートソン会談で再軍備を巡る交渉(MSA協定)を行う[159][160]。10月30日に日米共同声明が出るまでの約一ヶ月、日米双方の交渉はまるで日米戦争だったといわれる[158]。当時ワシントンD.C.にいた改進党の中曽根康弘は交渉が始まって20日もたった10月20日付けの『産経新聞』に「苦境に立つ池田特使」と題した一文を寄せ「ミッドウェー海戦に於ける日本艦隊のようだ。情勢判断の誤りとそれに基づく準備不足」などと辛辣に批判した[152]。しかしアメリカ側の10師団32.5万人、フリゲート艦18隻、航空兵力800機の要求に対して最終的に、10師団18万人の陸上部隊とフリゲート艦10隻、航空兵力518機を5年間で整備という池田の主張が受け入れられた[151][160][161][157]。憲法、経済、予算その他の制約に留意しつつ、自衛力増強の努力を続けると約束し、アメリカ側も日本の努力を認めて、駐留軍を順次撤退させていった[161]。またMSA援助による5000万ドルの余剰農産物を受け入れ、その売上げを産業資金に貸し出すことを定めた[161][162]。この会談によって敷かれたレールに沿って、1954年3月、MSA関係四協定が調印され、防衛庁新設と、陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊の三自衛隊を発足させる防衛二法が国会に提出され、6月同協定に伴う秘密保護法と防衛二法の公布により、一連の安全保障体制が完結をみた[150][151][157][160][163]。池田は吉田派内部で新たな指導者として台頭しつつあるとアメリカ政府の注目を浴びた[164]。この他、この会談の中に池田が主張したといわれる[164]、「日本政府は教育および広報によって日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長することに第一の責任をもつものである」という一文があり[165]、これが1958年8月、学習指導要領の改定に先駆けた小中学校に道徳の授業が、1960年10月から高校の社会科の授業に「倫理」という科目が置かれ、1958年、学習指導要領における「日の丸・君が代」条項が新設されるなど、戦後の学校教育に大きな影響を及ぼしたといわれる[166][167]。
政界再編成と宏池会の結成
1954年の造船疑獄で東京地検は、政治資金が豊かな池田と佐藤栄作に焦点を当てて捜査を進めたが[168]、佐藤が逮捕寸前に犬養健法相の指揮権発動によって逮捕を免れ、事件そのものがうやむやになって池田の関与の有無も判然としないまま終息した[168][169]。この事件で池田は参考人として事情聴取を受けたにも拘らず[170]、5ヵ月後の同年7月26日、佐藤の後任として自由党幹事長(12月29日まで)に就任[168]。吉田政権の最後を看取る幹事長になったのは、後のために貴重な経験となった[68]。同年、重光、鳩山一郎、三木武吉、松村謙三らによる新党結成(日本民主党)の動きを見て、幹事長として自由党丸ごと新党なだれ込みを策したが、吉田退陣を明確にしなければ自由党丸ごとの合流は認めないと拒否され、新党に近づく岸信介と石橋湛山を自由党から除名した[155][171][172]。石橋は恩人ではあるが、反吉田派と吉田派という立場で長く敵対関係にあり[173]、この時点で深い亀裂が生じていた[173]。1955年の保守合同に参加することは、鳩山一郎を擁する三木武吉や河野一郎、岸信介らの軍門に下ることになり吉田派は迷った[174]。池田は反対グループの中心的存在だったが[175]、現実的に判断し吉田派全体を長老の林譲治・益谷秀次とともにまとめて自由民主党に参加する[168][176]。吉田にも入党を勧めたが佐藤栄作が反対し、吉田と佐藤は無所属になった[168]。1954年12月から1956年12月までの鳩山内閣の二年間は、完全に冷や飯を食わされた状態になる[177]。また鳩山政権下で吉田派は池田と佐藤の両派に次第に割れてゆく[178]。1954年の第1次鳩山一郎内閣から1956年の第3次鳩山一郎内閣まで大蔵大臣を務めた一万田尚登へ、背後から大蔵省に影響力を行使して嫌がらせをした[179]。池田は一万田とは比較にならないほどの政治力を持っていた[179]。吉田一派は親米嫌ソだったため、日ソ国交回復の際には、池田は「人気取りの思い付き外交、しかも国際的地位を傷つける二元外交」などと激しく反対し[180]、「モスクワに行くなら脱党だ」と息巻いたが、前尾がやっとの思いでなだめ思いとどまらせた[175][181]。ドッジ、吉田という二人の強力な庇護者が権力を喪失した上、保守合同による新党結成の働きが大であった緒方竹虎という強力なライバルの台頭により、池田は鳴かず飛ばずの状態になった[168]。保守合同の過程とこの後の岸内閣期に池田は岸と対立、または妥協したが、それには次期首相への伏線が張られていた[182]。1956年12月の鳩山一郎首相の退陣で池田は石井派に加担し総参謀長になった[183]。石井派は文教や財政の専門家は多いが党務の経験者がおらず、短期間でも自由党幹事長を務めた外様格の池田系が帷幕に入って、諸兵指揮もすれば、票読みもするし、石井の母屋を取るような格好となった[183]。池田は二年ぶりの戦機に興奮、しかし石井を支持するというより、岸・河野に一矢報いたいという怨念の虜になっていた[183]。岸反対で共通する石橋支持派と石井支持派の一本化に奔走し、石橋派の参謀・三木武夫と二、三位連合の政略を立てた仕掛けが成功[39]、石橋湛山が決戦投票で岸を僅差で破り政変が起きた[184]。第一回投票で池田ら自由党系の支持が厚く二位になると思われていた石井が三位に落ちたことから、二、三位連合で勝てると確信した池田は、石井派の参謀ながら、石橋が二位になるよう自派の票を石橋に流したといわれる[185]。石橋が総理になった方が、自身が蔵相として復帰できるという計算が働いたとされる[185]。土壇場で裏切られた石井は池田の相当な寝業師ぶりに気付き池田を決して許さないと言っていたといわれる[185]。確執も一時はあったが、ここで恩人でもある石橋に恩を返した形となった[39]。池田の石橋支持や石橋の総理就任は、アメリカのコントロール外にあったとされる[186]。この時の総裁選挙で、佐藤は石井を擁した池田と別れ、吉田派を池田と争奪しながら実兄岸の戦力となった[187]。もと吉田門下として同根の池田派と佐藤派の対立がここから生じ、また岸の下で河野と佐藤の競合もここから始まった[187]。同年12月23日に成立した石橋内閣で、石橋首相は積極財政を展開するため蔵相に池田を起用しようとし[188]、党内から猛反発を受けたが「他の人事は一切譲ってもいいから」と池田蔵相に固執し大蔵大臣を引き受け、石橋・池田コンビは「1000億円施策、1000億円減税」という積極政策を打ち出す[189][190][注釈 4]。しかし同内閣が二ヶ月の短命に終わり1957年2月、第1次岸内閣となり、政敵の岸[191]に抱き込まれ大蔵大臣を引き継ぐ[192]。岸は、金融政策を含め、経済政策を池田任せにした[192]。ここで岸とコンビを組み、政官一体を演出するが[192]、 1957年7月の内閣改造で、岸が日銀寄りの一万田尚登を蔵相に起用。池田は他ポストへ横滑りを要請されたが「蔵相以外はノー」と蹴飛ばし閣外に出て党内野党に転じる[193]。しかしこの雌状期に池田を支える後援組織が整い、政権への道が地固めされていく[194]。それは政治力だけでなく、後の「所得倍増計画」に繋がる池田の政策路線が確立される過程でもあった[194]。すなわち、健全財政と積極主義とを結びつける理論的裏付け、そして世論を取り込む政治的スローガンの獲得であった[194]。1957年10月頃には旧自由党の吉田派を佐藤栄作と分ける形で自らの政策集団・派閥である宏池会を結成した[注釈 5]。宏池会は経済を旗印にした初めての政策集団であり[195][196][197]、自民党派閥の原点といわれる[198]。宏池会は1957年10月に機関紙「進路」を発刊し公然と派閥を旗揚げした[199]。これを見た自民党執行部が、岸の意向を受けて「党内の派閥を解消すべきだ」と唱えだした。国民が自民党内の"派閥"の存在を明確な図式として意識するようになったのはこの時からだった[199]。宏池会の政策研究会「木曜会」のメンバーだった下村治をはじめとするエコノミストや官僚系議員たちとともに、この頃から「所得倍増」のもととなる政策構想を練り上げていく[200][201][202][203]。下村ら研究会の論争は宏池会事務局長・田村敏雄を通じて池田に報告された[204]。池田の"勘"と下村の"理論"を結びつけたのは田村で[205]、三人の独特の結びつきの中から『所得倍増』は生み出されたといわれる[205]。池田は大蔵省の税務畑を歩き、その実務に通暁していた[206][207]。同時に数字について異常な関心と能力があり、経済現象の予見を可能にした[208]。池田の頭の中には、数字で構成された世界ができていた[209][210]。下村たちの理論が池田の頭脳の中で強い反応を起こして導き出されたのが「所得倍増論」である[211]。また財界人のバックアップも、この時期強化された[58]。政権を明け渡し大磯に隠遁していた吉田が「池田の将来のため、みんなで応援してくれないか」と財界人に声をかけて作られた「末広会」という財界四天王を中心として集まったものと[140]、松永安左ヱ門が池田の支持者を集めて作った「火曜会」などがあり[140][212]、これほどの人脈が参集したケースは歴代内閣でも例を見ないといわれた[16]。特に池田と同じ明治32年の亥年生まれで集まる小林中ら「二黒会」のメンバーとは親密な付き合いだった[213]。吉田やドッジの庇護から自立しながら政治的地位を引き上げなければならなくなった池田は、異能なブレーンやアドバイザーを多く擁して足場を固めていく[58][214]。また保守合同をめぐり佐藤との関係が複雑になり[215]、佐藤の実兄の岸が総理になったことで吉田とも距離を置くようになった[216]。1958年、話し合い解散による同年5月の総選挙では、岸派、佐藤派、河野派、大野派の主流四派から外された池田派は、自民党から公認が得られず、大半が非公認のまま選挙を戦った[217]。池田は自派全ての候補者の応援に回り、のちに夫人が秘書に「あんな強行日程は組まないで欲しい」と言われたほどの昼夜兼行、夜汽車の連続で、ほとんど休息する時間もない強行軍の日程ではあったが、その甲斐もあり、その中から50名の池田派が生まれた[217]。これも池田が政界に飛躍する大きな出来事だった[217]。岸派57名に次ぐ50名当選という池田派大勝利に第2次岸内閣では、副総理か、幹事長か、総務会長かなと期待したが、組閣が進んでも全く声がかからず。主流四派で組閣を進め、池田には最後に防衛庁長官を提示された[217]。しかし岸政権への協力が政権獲得の近道と見て、無任所の国務大臣を引き受ける[192]。11月、アメリカシアトルで開催されたコロンボ会議に出席し、アメリカの中間選挙で大勝したアメリカ民主党の財務長官・ジョン・W・シュナイダーにお祝いを言った際、後に標語として用いた「寛容と忍耐」という言葉をシュナイダーから聞いたと言われる(諸説あり)[211][218]。反岸を鮮明にし同年12月31日大晦日、岸の警職法改正案の審議をめぐる国会混乱の責任を迫り、池田、三木武夫、灘尾弘吉の三閣僚で申し合わせ、揃って辞表を叩きつける前例のない閣僚辞任を画策[24][219][220]。岸が辞任を認めないため、今度は反主流派三派、池田、三木、石井らで刷新懇談会を作るなどして岸と主流四派を揺さぶり[221]、安保の改定を「二段階論」で考えていた岸政権を潰すため、三木や河野一郎らと謀り、そろって「同時大幅改定」を主張し無理難題をふっかけた[222]。保守合同以来、はじめての自民党分裂の危機だった[223]。1959年2月22日、郷里の広島に戻り、広島市立袋町小学校の講堂で行われた時局演説会にて、後に歴史的キャッチコピーとも評される「所得倍増計画」「月給倍増論」を初めて口にした[224][225]。満員の聴衆に語りかけると聴衆席に爆笑が起こり、いつもの池田の大風呂敷か放言癖としか受け止められなかったが[226]、この演説こそが、経済大国に向け日本が走り出す号砲だった[227]。広島からの帰途、大阪に立ち寄り、100人余りの関西財界人の前で再び「月給倍増論」を唱えたが「春闘を控えて、いたずらに労働者側に甘い期待を抱かせることになる」「月給を二倍にすると、必ずインフレになる。無理に生産力を伸ばせば、輸入が激増し国際収支が大幅赤字になる」といった反対論が噴出した[224][228]。池田は誤解を解く必要あると思い、帰郷後3月9日の『日本経済新聞』朝刊「経済時評」の欄に「私の月給倍増論」と題する小論を発表した[228]。内容は「いま月給をすぐ二倍に引上げるというのではなく、国民の努力と政策のよろしきをえれば生産が向上する..せっかく力が充実し、国民経済が成長しようとしているのに、これを無理に抑えている..いま日本でインフレの心配は少しもない」というようなものだった[228][229]。同年6月18日の第2次岸内閣改造内閣では、「悪魔の政治家の下にはつかん」と断言していたが[191]、岸と佐藤の使い・田中角栄から「政局の安危は貴方の閣内協力にかかっております。天下のため入閣に踏み切って下さい。そうすれば次の政権は貴方のものです」と口説かれて[230]、あるいは影のブレーン・賀屋興宣が「内閣に入って首相を狙え」と口説かれたともいわれるが[231]、大平は「あの時は、1日に株が30円も下がって、内閣改造がもう1日のびたら岸さんは、これを投げ出すという段階に来ていたから、再入閣は私がすすめた」と話している[232]。大平以外の側近は「たった半年で変節したら世間から何と言われるか」と猛反対していたが[233]、池田自身も後述する理由から無視して通産大臣に就任した[24]。保守政界の一方の雄として政治家池田の擡頭を印象付けたが[192]、ここで岸内閣の閣内にいたことは大きな意味を持った(詳細は後述1)(2)。安保闘争が激化した同年6月には、自衛隊の治安出動を強く主張した[234][235]。
内閣総理大臣
日本全国を争乱の渦に巻き込んだ60年安保で岸政権が倒れると、1960年7月14日に自由民主党総裁選挙に立候補して当選し、自民党第4代総裁に就任した(総裁選の詳細は後述)[236][237]。5日後の7月19日、内閣総理大臣に就任し、第1次池田内閣が発足。池田は第1次池田内閣で中山マサを厚生大臣に起用し、日本初の女性閣僚が誕生させた[238]。中山は在任5ヵ月だったが、母子家庭への児童扶養手当導入を図った[239]。また安保闘争以来引きずる労使を軸とした全保守と全革新の対立で紛糾していた三井三池争議を解決するため、桜田武の進言を受け、労働行政に精通した石田博英を労働大臣に起用[240][241]。同内閣発足の日に警官1万人とピケ隊2万人が対峙する一触即発の事態を迎えたが、池田は石田労相に1時間おきに電話を掛け「たとえ1人でも怪我人を出してはならぬ」と指示し[242]、争議は組合側の敗北により終息した。経済企画庁長官にはかつて生死を彷徨った5年間にライバル視した迫水久常を起用した[243]。
池田とメディア戦略(1)
60年安保は、大衆、世論を街頭に可視化し、そのイメージはテレビというメディアによって瀰漫した[244]。このような状況で表舞台に登場した池田にとって「マスメディア対策」が重要な課題となった。60年安保の余燼燻る中で、1960年7月19日の内閣総理大臣就任から11月20日の衆議院総選挙まで4ヵ月間の池田が試みたテレビを中心としたメディア戦略は見事、かつ戦後の政治史にも大きな意味を与えるものであった[244]。安保騒動で暗くなった人心を、一日も早く「国民所得倍増計画」で明るく切り替える、これは後に「政治の季節」から「経済の季節」へ、「チェンジ・オブ・ペース」などと呼ばれたが、実は「所得倍増計画」はすぐに発表しなかった[244]。首相就任当時、60年安保の盛り上がりを受けて、社会党は上げ潮ムードの中での「安保解散」を狙った。野党に対抗すべく「新政策」を既に準備はしていたが、組閣直後にはまだ生煮えであったため、臨時国会で野党の求めにも関わらず、池田は所信表明演説を行わなかった[244]。生煮えのまま公表すると野党から追及を浴びる可能性があったからである。所信表明演説を拒絶し、各省から提案を出させ、自民党の政策決定プロセスに乗せた[244]。正式発表は1ヵ月半後の9月で、それまでは低姿勢を貫き、スーツやメガネなどでキャラクターを変えて、庶民イメージを醸し出し、テレビを有効に使うメディア戦略に打って出た[245][246]。池田はテレビを利用して政策をアピールした最初の首相でもあった[198][247][248]。池田は過去の度重なる失言癖で、国民は勿論、政財界、マスメディアからも「高圧的な荒武者」「嫌なヤツ」という印象が広く共有されており、それを払拭する必要があった[16]。組閣翌日の記者会見は、テレビで生中継されたが、池田は会見中終始笑顔を絶やさず、岸前首相の"高姿勢"とは対照的なイメージを視聴者に与えた。さらに翌日、日本初の女性閣僚となった中山マサ厚生大臣がNHKテレビに出演し、マスメディアにも大きく取り上げられ、立派に内閣の看板役を務めた[244]。
低姿勢・寛容と忍耐
国民の怒りを一身に集める結果となった前政権の反省から、池田政権は徹底した「低姿勢」と「寛容と忍耐」を全面に打ち出し、国民との対話を重視する姿勢をとることに務めた[240][249]。「寛容と忍耐」という言葉の語源には諸説あり[218]、先述のようにアメリカ民主党元財務長官・ジョン・W・シュナイダーが「民主主義の基礎は時の政治的優位者の寛容と忍耐だ」とかつて言われたことを池田が思い出して使ったとする説と[250][251]、大平が"辛抱"という言葉を出してみたが、どうも貧乏くさく、これが"忍耐"と言い直され[250]、宮澤が得意の横文字から、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』の原著にある"tolerance"を思い起こしてと"寛容"をくっつけたとするものがある[250]。宮澤は回顧録で「大平さんが池田さんに、とにかくここは"忍耐"しかないですね、と言ってそんなことから"忍耐"を一つスローガンにする。もうひとつ私が、ジョン・スチュアート・ミルがよく"tolerance"ということを言っていたから"寛容"というのはどうですか、と私が言って、それでスタートした」と話している[252][253][254]。池田は記者会見で「待合もゴルフも行かない」と口にしたため[255]、任期中はほとんど実直に守ったが、池田は本来、「低姿勢」「寛容と忍耐」とは、ほど遠い性格の持ち主であり、これらは池田のブレーンが作り出したものである[252]。このように池田の下に結集した政治修辞学の信奉者たちは、一連の語句を連ねながら、それまでの日本の政治には欠如することの多かった努力、すなわち、池田内閣のスタイルの形成に努めたのである[256]。池田内閣によって、日本ではじめて政治にスタイルが持ち込まれた[256]。すぐれた頭脳を持つ側近を持つ幸運に恵まれ、これらブレーンと共同演出を展開していく[256]。池田のメディア戦略を支えたのは、前尾、宮澤、大平、伊藤昌哉、鈴木善幸らである。池田はテレビを盛んに利用し、国民のムードを変化させていく[244]。
「新政策」の発表
池田はその後もテレビでの露出を続け9月に入り「新政策」を発表した。ここで政治的論争となりうる安保と9条問題を極力避け「所得倍増」をスローガンに掲げて経済重視の内政主義を打ち出した[236][257][258][259][260]。1960年9月5日に「所得倍増論」の骨子を「今後の経済成長率を経済企画庁は年率7.2%といっているが、私の考えでは低すぎる。少なくとも年率9%は成長すると確信している」とぶち[261][262]「過去の実績から見て、1961年度以降3ヵ年に年平均9%は可能であり、国民所得を1人あたり1960年度の約12万円から、1963年度には約15万円に伸ばす。これを達成するために適切な施策を行っていけば、10年後には国民所得は2倍以上になる」「9%程度の成長がないと、10年間で完全雇用と、生活水準を西欧並みに引き上げることはできない」と公表した[16][263][264]。経済成長率年平均9%は、池田の裁断で決めたといわれ、外人記者は「ナイン・パーセント・マン」と打電した[264]。「所得倍増論」は、はじめは非現実な人気取りと見られ、野党、エコノミスト・マスコミ、一部与党内、また多くの国民の反応は冷ややかで、実現不可能と思われていた[265][266][267]。また実現したとしてもインフレと物価上昇が起こり、実質賃金が上がるわけではない、話がうますぎる、"絵に描いた餅"だなどと懐疑的に見られていた[265][268]。都留重人は「日本経済は伸びているように見えるが、それは"回復であって"成長"ではない」などと「所得倍増論」は本質を見誤った錯覚と切り捨てた[269]。エコノミストの多くは「所得倍増論」を愚かな暴論としか取り扱わず、痛烈な批判を浴びせた[269]。しかし池田は、国際政治経済の大きなうねりや、国内に於いても東京オリンピック開催に向け、大規模なインフラ整備という公共事業が控えていたこと、家電分野を中心にイノベーションが始まっていて、農村を中心とする地方からの勤勉な労働力にも恵まれているといった国内外に於ける成長へのうねりを見据えていた[259][265][270]。1960年9月7日午前9時から記者会見を官邸で行ったが、これはNHKテレビを始め民放テレビ全局で生中継された。午後からはテレビ朝日、KRテレビをはしごし、夜はNHKテレビに出演し政策を説明した。翌日は選挙遊説のスタートを「新政策発表会」と称して、共立講堂で行い、テレビ全局で生中継された[244]。発表会の後、池田らは全国遊説に出かけるが、これに第1次池田内閣で郵政大臣として初入閣した側近の鈴木善幸を同行させた。鈴木は「世論に対してテレビ・ラジオ等を通じていく上で、郵政大臣として私がお供した方がいいと判断した」と振り返っており、全国各地で演説のみならず電気メディアを通じた対策をとっていた[244]。
国民所得倍増計画
「国民所得倍増計画」が、池田内閣で世に出るまでは複雑な経緯を辿っている。そもそもこの"高度経済成長政策"の理論的骨格は、宏池会が結成された1957年頃から、池田の指示を受けた下村治たち池田のブレーンが、ケインズ的思想を初めて導入して、日本経済と国民生活がこれからの10年間にどこまで豊かになれるかという潜在成長力の推計を、緻密に、分かりやすく、パソコンのない時代に手回し式のタイガー計算器で模造紙に打ち出す作業を大蔵省内の一室で続け、池田とのディスカッションを経て練り上げたものが"大元"である[196][270][271][272][273]。ここから世に出るのは3年後となる[257]。当時から、この経済成長政策に"月給二倍"、"所得倍増"という考えが池田の頭に既にあったとする文献もあるが[16][228]、1958年頃はまだはっきりとは無かったものと思われる。池田がはっきり、"倍増"という発想を明確にしたのは、第2次岸内閣の国務大臣を辞めて閣外になっていた1959年の1月[189]。一橋大学教授の中山伊知郎が『読売新聞』1959年1月3日の朝刊に載せた短いエッセイの見出しで新聞社の整理部員が付けたといわれる[274]「賃金2倍を提唱」を読んだのが切っ掛けとされる[274][275]。内容以上に見出しの"賃金2倍"の言葉が池田の心を捉えた[228][274]。多くの政治家、経済学者も中山の寄稿を読んだものと推察されるが[204]、池田唯一人がこれを取り入れようと考えた[204]。月給が2倍になるという具体的な庶民のイメージを、番記者らと酒を酌み交わしながら掴んだ[276]。池田は1959年2月22日に郷里広島の演説会で「月給倍増論」を初めて口に出し、同市の天城旅館に宮澤、大平、登坂重次郎が集まった際に、池田が「月給倍増はいかん。月給というと給料取りばかりが相手だと思われる。"所得倍増"にしよう」と言ったといわれ[277]、時系列的には若干合わないものの、この辺りで"所得倍増"というフレーズが生まれたものと見られる。この演説を岸が忍者を派遣していて内容を岸に報告したといわれる[277] [278]。池田は3月9日の『日本経済新聞』朝刊に「私の月給二倍論」を掲載するなど[189][279]、自身が政権を取る一年以上前に「所得倍増論」を新聞や演説などで話し始めると大きな反響を呼んだ[24][189]。この「私の月給二倍論」の中で「国民総生産(GNP)」という経済用語が、初めて政治家によってマスメディアに持ち出されたといわれる[279]。第2次岸内閣で幹事長だった福田赳夫が「岸総理に『所得倍増』をいわせるんだ」と言っていたという[277]。経済企画庁の大来佐武郎が、福田赳夫が幹事長だったときに説明に言ったら福田が「何か二倍になるものはないか」と言ったと証言しており、福田の幹事長就任は1959年1月のため、福田は池田の『所得倍増』のアイデアを盗もうとしたものと考えられる[275][278]。大来は「何か倍増という考え方が当時の保守党のどこかにあり、それを池田さんが真正面から取り上げたという形です」と述べている[275]。こうして岸首相ー福田幹事長が、池田-下村の経済政策を自身の内閣に取り入れようとした[24][280][281]。岸は池田-下村案の「月給倍増論」を先取りしようとして、これに対応するような経済政策を1959年6月[275][282]、大来を中心とした経済企画庁で岸流の「月給倍増論」的経済成長政策作成を指示し[275]、1959年11月26日に正式に経済審議会(石川一郎会長)に諮問を行った[282][283][284]、あるいは自民党内に設置された経済調査会に「所得倍増構想」の具体化を託した[189]。下村によるとこのような自民党側(政府側)の「所得倍増計画」作成と池田-下村側の「所得倍増計画」とは相互に連動していたのではなく[285]、当時の自民党は安保騒動でそれどころでなく[285]、「所得倍増計画」の是非を論じる余裕はなかったと話している[285]。池田が1959年6月の参院選でも党内野党として「月給倍増論」を活発に繰り返すに及んで、岸は池田を強力な反主流派に留めておくべきでないと判断し、1959年6月の内閣改造を行う際に池田に入閣を迫り、反岸活動を抑制しようとし、池田に対して「所得倍増計画」の実現を任せると約束して池田を通産大臣として入閣させた[285]。池田は、早速組閣直後の閣議で、首相談話原案中に書かれた「10年で所得を倍増させる」という文章から「10年」という文字を削除させ、「10年」以内に所得倍増が可能であることを強調し、内閣を主導しようとした[286]。池田は入閣によって次期政権の機会を捉えようとし、政府側の経済政策を積極論へ転換させることに力を注ぎ「所得倍増計画」の原型を作っていく[285]。岸は池田の政策構想を福田に牽制させる体制を作ろうとし、福田を蔵相に据える構想を抱いたが、弟の佐藤が蔵相の留任に固執したため福田は農相に就任した[230]。池田は安保騒動を眺めながら、通産行政に専念することによって自らの経済政策の基盤を固めていった。池田はこの通産大臣時代に、後に自身が政権を取って発表した「所得倍増計画」と同じような積極財政論を公表しており「所得倍増計画」は、岸内閣時代に世に出る可能性があった。何故出なかったか(棄却されたか)は、明らかにされていないという文献もあるが[189]、岸は安保闘争でそれどころでなかった[285]、岸内閣はすでに末期的な症状に入っていて、新政策を展開する余力は失っていたなどとされ[287]、1959年10月、自民党内に設置された経済調査会が出した報告に池田通産相や佐藤蔵相が「具体的データが不足している」などとその内容にクレームを付けて[189][284]、白紙に戻された[286][288]。党の基本構想を葬り去った池田の背後には「下村プラン」が控えており、既に骨格を作り上げていたため、党の基本構想のデータの欠陥を指摘し得たのである[286]。やむなく岸内閣は1959年11月26日、あらためて経済審議会(石川一郎会長)に諮問したが、この年9月にあった伊勢湾台風の被害に対応するため、1960年度の予算編成は、国土保全政策に重点的な支出配分を行うものになったため「所得倍増計画」に重点を置くことができなかった[286]。結局、多数の官僚、財界人、学識経験者などを動員して慎重な調査・検討を繰り返し、その後1年という審議に入り、池田内閣に代わった1960年11月に答申が出て[275]、池田内閣で陽の目を見た(閣議決定1960年12月)[189][288][289][290]。福田赳夫もかねてから長期経済計画を持っていたため、池田が「月給二倍論」を唱えるのに対抗して「生産力倍増十ヵ年計画」を構想した[286][291][292]。福田は、これに池田が影響を受けたと話しているが[292]、池田サイドから福田のそれに影響を受けたとする証言がない。「福田が池田の構想を先取りしようと考えた」と書かれた文献もある[293]。福田は「積極財政」の池田とは逆の「均衡財政」志向の「安定経済成長論」を唱え続け、政調会長だった第2次池田内閣のとき「国民所得倍増計画」を批判して池田にクビにされた人である[24][270][294][295]。戦後最初の経済計画は第3次鳩山一郎内閣が1955年12月に決定した「経済自立五ヶ年計画」といわれており[189]、当然ながら福田以外にも同時期に経済成長政策を構想していた政治家もいたと思われ、また「所得倍増計画」に一部に共通する部分があるとしても、同じ経済成長政策のため似ている部分があっても不思議はない。鳩山内閣の「経済自立五ヶ年計画」や、岸内閣の「新長期経済計画」も、年平均5〜6%の成長率を政策運営の前提とし[200]、従来の経済計画はいずれも5ヵ年を目途とする計画であったのに対して、この計画は1970年を目標年次とする10ヵ年計画であった[296]。またそれまでの経済計画が、"安定成長"を志向したのに対して、池田は市場経済システムを強化することを主眼としていた[189][195][297][298]。当時の民間経済界やエコノミストの間では、日本の経済成長は、戦後の復興段階を終えて、屈折点を迎え、鈍化するのではないかとする見方が根強かったが[200][296]、この計画は全く趣を異にしていた[296]。点から見ても、他のものとは別物として考えた方がよい池田内閣の「国民所得倍増計画」は、このような殻を打ち破ろうとする政策だったのである[200]。全体を通じて、高度成長への自信と、これまでにない楽観的論調にみなぎり、その意味でも「国民所得倍増計画」は、高度成長時代の象徴といわれるにふさわしい[296]。立案には約3年間を費やし、民間の有識者など各方面から1000人ほどの意見を聞いて練り上げたともいわれ[299]、最終的には1960年7月、池田が首相就任後、池田とその側近である下村、大平、宮澤らも含めて、役所が総がかりで池田内閣として政策体系にまとめ上げた[196][202][300][301]。経済企画庁の大来局長の下で政策に関わった 宮崎勇は「岸内閣のときは大蔵省も反対し、佐藤栄作蔵相も『倍増なんて数字ではなかなかできない』と言っていたのに、池田さんが総理になってやるということになると、『これは協力すべきだ』と変わった」[302]、「池田さんは下村さんを中心とした個人的ブレーンを使っていたから、私どもが『倍増計画』を経済審議会の意向を受けて仕事をこなす以外に、池田さんとのブレーンとも調整を進めなくてはならず、複雑な機構になっていた」などと述べている[302]。「国民所得倍増計画」は、池田のアナウンス効果も含めて、国民各層の意欲を喚起するだけの新鮮な響きを持っていて、提唱が現実の施策として時宣を得ていたから池田内閣のときに、国民に受け入れられたといえ[303][304][305]。日本経済と国民生活がこれから10年間に、どこまで、どう、豊かになるのか、分かりやすく、かつ緻密に示したことが括目に値する[196][301]。「所得倍増計画」は池田の類稀なる指導力で実現されたものといえる[285]。沢木耕太郎は「所得倍増計画」の辿った運命について以下のように表現している。「池田とそのブレーンが生み出した"発想"としての『所得倍増』が、福田赳夫の機転により岸内閣のもとにかすみとられ、経済企画庁の"計画化"という長いトンネルに放り込まれ、そのトンネルがあまりにも長すぎ『所得倍増』が『国民所得倍増計画』の衣装をまとってトンネルを抜け出したときには、向こう側で待っていたのが放り込んだ者ではなく、"発想"をかすみとられた人々だったという皮肉な巡り合わせになる。池田にとって幸運だったのは"計画"としての『所得倍増』が岸内閣の手に渡されなかったことである。もし"計画化"が早くなされ、岸内閣の手に渡っていれば、『所得倍増』が明確な思想のもとに"政策化"されることもなく、ブームとなることもなかったろう。その処女性を失うだけで棚ざらしのまま、それまでのいくつかの政府長期計画のように意味のないものとなって消えただけだろう。そして、1960年代の政治状況は決定的に異なっていたかもしれない」[284]。中山伊知郎は「あの文章が池田さんの『所得倍増』を生んだとは、どうしてもぼくには思えないんですよ。ぼくは『所得倍増』という言葉を作った覚えもない。その当時のぼくが考えていたのは、高賃金の経済というものが日本でも可能なのではないかということでした。経営者は賃金のコストの面ばかりを見て抑えつけようとするが、賃金のもうひとつの側面である所得をあげることこそが、かえって生産性を上昇させ労働争議のロスを少なくさせ、社会全体にとってよいものなのだということを主張したかったわけです。賃金を二倍にしてもやっていけるような経済を作っていこうという、いわば夢を述べてわけなんですね。『所得倍増』は、ぼくのこの考えを基礎にしたものではありません。二つは無縁なものだと思いますね」と述べている[274]。総理になった直後、全国遊説に出た池田は、演説でユーモアを交えながら具体的な数字を示し、自信がみなぎった態度で「所得倍増論」を説き続けた[265]。池田が演説を始めると、最初は興醒めしていた聴衆の顔色が徐々に聞き入りはじめ、次第に期待を持って耳を傾けるようになった[265]。しかし、好事魔多し。ここで池田のメディア戦略は大きな危機に見舞われた。1960年10月12日に起こった浅沼稲次郎暗殺事件である。浅沼は庶民性で国民的人気も高く、またもピンチを迎えた。
浅沼追悼演説
同年10月12日、日比谷公会堂で行われた自民党、民社党、社会党の党首立会演説会の壇上、社会党の浅沼稲次郎委員長が暴漢によって目前で刺殺される浅沼稲次郎刺殺事件が起こった。池田は「なぜ、俺じゃなくて浅沼なのか」と呟いたといわれる[85]。この事件の直後に池田が衆院本会議で行った追悼演説は今日でも名演説として知られている(後述)。 事件はNHKラジオ第1で生中継され、犯行の瞬間を捉えた映像が何度もテレビで放送され、全国民に計り知れないショックを与えた[306]。この年の政治テロはこれで3件目で、国民には何ともいい知れぬ重い不安感が覆った。この日の夕方、早くも東京都内の各所では池田内閣の責任追及の抗議デモが発生、社会党も池田内閣の総辞職を要求してきた。池田内閣は、この日の夕方「暴力を根絶する」との大平官房長官による政府声明を発表する一方、翌10月13日の臨時閣議で、時の国家公安委員長・山崎巌を政治責任をとる形で辞任させるなど、素早い対応をとったが、ことはそれで収まりがつく情勢ではなかった[306]。浅沼が刺された瞬間を産経新聞のデスクのテレビで観ていた池田と極めて親しい記者だった吉村克己が「この事件が政争のネタになったら、まさしく安保闘争の二の舞になる」と危惧し、池田邸を訪れて、数日後に迫る臨時国会を浅沼追悼国会として「池田総理自ら追悼演説をやるのが最良の方策です」と池田に進言[307]。池田はこの進言を受け入れあの追悼演説を行い、世論にある程度の納得を与えて、社会党としても上げた手の降ろしどころがなくなった。またそれまで世間は池田を傲慢だけの男として見ていたが、人間味のあるキチンとした男との印象を持つに至り、池田自身もこのショックを乗り越えたことで、一段と大きさを感じさせるようになった[306][308]。この浅沼追悼演説は、今日の日本の経済大国に代表される高度成長社会と、初めて政治というものを世論という土俵の上に引き出す切っ掛けになったという点で、戦後社会に別の大きな意味を投げかけた[240][306]。仮に池田内閣がそれまでの政権同様、高圧的な手法でこの事件に対応していたら、池田内閣はその時点で潰れていた可能性もあり、したがって池田の目指した「所得倍増政策」による奇跡の高度成長社会があったかどうか[306]、或いはそれまでのように政治は政治家だけがやるもの、世論無視で続いてきた政治手法に、以後世論の入る余地があったかどうか、池田内閣が浅沼事件を危機を乗り越え、スタートが切れたことは、日本に初めて民主主義が根をおろしたとも論じられる[306]。この演説を境に殺伐とした安保騒動の名残は薄れ、高度成長、経済立国へ時代が動いた[309]。
戦後最高の議席獲得
このピンチを凌ぎきると、その後の戦略は勢いを増した。浅沼刺殺への責任問題で攻め立てる社会党の代表質問を軽くいなして、国会を解散して選挙戦へ突入させた。1960年11月の総選挙で、池田はテレビのスポットCMに出演するという過去に例のない選挙戦術を使った[234][310]。放送料金は現在の価格で約4億円かかったとされ、賛否両論が渦巻いたが気に懸けず、また遊説でも米の値段、年金や税金の水準など数字を語り続けた[196]。「所得倍増」という分かりやすいスローガンは、国民に強い印象を与えた[263][311][312]。演説は下手だったが好きで、分かりやすくまとめ、国民は池田の言葉に夢を持った[85][270]。「経済のことはこの池田にお任せいただきたい。10年で所得を倍にしてみせます。私はウソは申しません」などと力説[257][301]。「貧乏人は麦を食え、と言って漫画に書かれた池田でございます。漫画より色男ではないでしょうか」などと型破りな演説も人気を博した[234]。"元祖ワンフレーズ・ポリティクス"である[85]。国民は最初は「所得倍増計画」に醒めた見方をしていたが[290]、こうした全国遊説やテレビ政見放送などを通じて[313]、大風呂敷と見られていた「所得倍増論」は国民に期待を持って受け入れられ空前の"池田ブーム"が巻き起こった[129][301][314]。池田のアナウンスメント効果が非常に大きかった[290]。当時はまだ日本人が政府の政策を信じることができる時代でもあった[301]。働けば報われる、国民が希望を持っていた時代でもあった[85]。池田の言葉は愚直ながら重みがあり、経済大国への扉を開けた[31][263][196][315][316][317]。慌てた民社党、社会党も、池田のペースに巻き込まれ、総選挙を目前に控え、不用意のまま、池田政策の各項目をなぞるような経済計画を発表した[189][318]。これらは安保解散で勝利を狙った各党が池田の議題設定に乗らざるをえなくなったことを示したもので、この反応を見た池田サイドは勝利を確信した[244]。1960年11月20日の衆議院総選挙で自民党は、繰り上げ当選者を加えると301議席という戦後最高の議席を獲得し大勝[236][265][267]。岸が安保騒動で政権を投げ出していたから、まさかこの総選挙で自民党が勝とうなどとは当初は誰も予想してなかった[319]。議席占有率61.7%は、1996年の小選挙区制導入までの最高記録だった[320][321]。
自民党政権の安定
池田は安保騒動の余燼を完全に払って国民の自民党離れを阻止し[239]、その後の党勢の礎を築いた[239][322][315]。日本の奇跡的な高度経済成長、経済大国ニッポンと自民党黄金時代はここが出発点だった[98][227][267][323][324][308]。また大蔵省(現財務省)が「官庁の中の官庁」というパワーを確立したのは、池田が大蔵省出身の政治家として戦後初めて首相になった池田政権の時代である[202][325]。池田は「所得倍増計画」を大蔵省出身の側近政治家、大蔵省出身のエコノミスト、大蔵省出身の現役官僚たちとの二人三脚で推し進めた[202][326]。池田の政策は当たり、国民の所得は着実に伸びて、池田内閣発足から8年後の1968年には日本のGDP(国内総生産)が米国に次いで資本主義国第2位に躍り出た[327]。日本は戦後、驚くほど短期間で一流国家への階段を上っていく[236]。池田内閣の初期には、相次ぐテロで政治の暗い裏面を匂わせたが、表面からテロが姿を消し、社会党から民社党が分かれ、野党が多党化すると選挙の際に自民党の追い風になった[255][308]。経済成長による生活水準の向上もあって、池田内閣時代の4年3ヵ月は、与野党対決といった局面はあまりなく、政局がきわめて安定した時代となった[236][255][328]。約4年4ヵ月続いた池田内閣は、朝日新聞の世論調査によれば、「55年体制」下で一度も支持率が不支持率を下回らなかった唯一の内閣といわれる(2012年まで)[329]。
池田とメディア戦略(2)
1960年11月20日の衆議院総選挙は、テレビによる空中戦や宣伝合戦という以上に組織票が激しくなった選挙としてジャーナリズムからは報じられ、後世にも記憶されることになった[244]。テレビを通じた空中戦は勿論、自民党の派閥と個人後援会による地上戦のどちらも、その後の日本政治に大きな影響を与えた[244]。地上戦は自民党の派閥政治を定着させ、個人後援会がやがて大きな利権の集団となり、その維持のため、公共事業が必要になるという図式を生んだ[244]。総理大臣の「政治より経済、花より団子」というメッセージは、テレビを使って国民全体に瀰漫され定着していった[244]。当時の人々の心の中には、戦前以来の「消費は背徳である」というモラルが薄まりながらも存在したが、池田のメディア戦略によって結果的に「消費は美徳である」というムードに変えた[244]。池田の唱えた経済主義は、個々の生活の豊かさに向けて邁進しようとする戦後日本の心証を公認し、それによって人々は高度成長を消費者ならびに生産者(そして廃棄者)として生きる大衆になった[244]。池田は衆院選挙後も積極的にテレビを利用した[244]。岸が退陣する二週間前に作った内閣総理大臣官房広報室(現・内閣府大臣官房政府広報室)は、まだ中身が無かったが、池田はここに充分な予算を付け広聴機能を充実させた。内閣総理大臣官房広報室を実質的に作ったのは池田である[330]。毎月1回、全国のモニターから意見徴取する「国政モニター制度」や総理や大臣たちが各地に赴いて意見を聞く現在のタウンミーティングにあたる「国政に関する公聴会」を設け、これは「一日内閣」と愛称されテレビでも生中継された[244]。また1961年11月から阿部眞之助NHK会長の要請を受け入れる形で、NHKと民放がひと月に一回交互に行う総理出演番組『総理に聞く』『総理と語る』を定例化した[331][248]。1962年からはテレビタレントをはじめとする芸能・文化人とも交流をはじめ、全国組織委員会の企画によるパーティ形式の「芸能文化関係者懇談会」が官邸で開催されるようになった[244]。池田はテレビを通じたコミュニケーションによって自民党を危機から救うと同時に自身の権力を固めた[244]。
政界へもたらした影響
「所得倍増計画」が現出させた大衆社会状況が社会党を停滞に追い込んだ[332][333]。最大野党の社会党にも、勢力の伸長が予想された時期もあったが[240][334]、池田の経済成長政策という大論点を前に先手を取られ続け、また党内の激しい派閥抗争で疲弊し全体として勢力を後退させていった[335][336][337]。池田の登場によって、思想を基に激しく対立する政治主義の時代は終わりを告げた[338]。池田以降、政権の質も総理大臣の質も変わった[338]。池田が憲法改正の"カ"の字も言わず、声高に訴えた「所得倍増」「月給倍増」などは、それまでの思想やイデオロギーとはほど遠かった[338]。池田が唱えた「低姿勢」とか「寛容」という語は、60年安保の後のとげとげしい空気のもとで一種の癒しの語として人々に受け入れられた[339]。社会党から見れば、せっかく盛り上がった反岸のエネルギーが、池田によってなだめられる形になり、社会党そのものへの期待がしぼんでいく焦りがあった[339]。社会主義にしかできないと思われていた貧困の克服を「所得倍増政策」が資本主義のままで可能にしたため、社会党に影響を与えた[323][340]。保守政治の大転換に社会党系の組織が解体していった[332]。経済成長が成功を収めているときの闘い方は社会党は不得手だった[332][311]。池田の「所得倍増計画」に煽られ、社会党も経済成長政策を出した[189][308][311][341]。池田政策に対する一つの対応として1962年に江田三郎が構造改革論「江田ビジョン」を発表[328][342][316]。これは社会主義的あるいは共産主義的に計画経済を発展させるという考えを含んでいたが[332]、社会党内部での派閥抗争の材料となり、社会党は長期停滞に追い込まれていった[332][338][343]。政治的対立を打ち出さない池田の基本的姿勢は、55年体制の特質ともいえる自民党と社会党の「競演による共演体制」を作り上げた[338]。野党は「対話路線」を強調する池田の術中にはまった[344][345][346]。自民党は池田以降、時に対決姿勢を示しつつも、社会党の言い分を取り入れながら国会を運営していく[338]。派閥抗争を続け、非現実な政策しか口にしない社会党に国民は政権交代を求めることはなくなり、社会党が野党として固定化していき、自民党はますます党内での権力闘争に専心できるようになった[338]。池田に始める「保守本流」の確立と[215][347]、自民党の「社会党包括」は、後の自社さ連立政権樹立まで地下水脈でつながっていく[328][338]。社会党とは逆に創価学会は大衆化状況の波に乗り、組織を拡大し政界に進出した[332]。後述する「所得倍増計画」の重要な施策だった「全国総合開発計画」(全総)や「農業基本法」などで、農村から都市へ労働人口が移動したため[332]、この人たちの持つ孤独感や行先不安を学会が家族的な集会で引きつけた[332]。経済成長そのものが学会の発展に非常に有利な条件をもたらしたのである[332]。「所得倍増計画」は、自民党と野党の在り方と消長に大きな影響を与えた[332]。
所得倍増計画その要締
第29回総選挙で自民党は60年安保の影響もなく議席数を伸ばし勝利し、同年12月8日に第2次池田内閣が発足すると、以前から言及していた「所得倍増」を目指す構想を実行に移し、12月27日に「国民所得倍増計画」を閣議決定する[128][258][289][348]。計画の主目標は、1970年度の実質国民総生産(GNP)を26兆円、すなわち1960年度のそれの二倍の大きさまでに成長させることに置かれた[236][296]。「経済の安定的成長の極大化」を通じて「国民生活水準の顕著な向上と完全雇用の達成」を企図した、社会理念としての「高度成長」を高らかに宣言した[296]。株価は安保騒ぎに嫌気して低迷していたが、池田の登場を歓迎して急速に回復し「所得倍増政策」の発表をうけて史上最高値を実現した[349]。「所得倍増政策」によって、国および地方の財政は大幅に拡大し[236]、年々大幅な減税を続けながら、次々と得意の経済政策を打ち出していく[236][350][351][352]。その後30年近くも続く「成長の時代」の幕開けであった[31]。具体的処方として次の五つが挙げられる[296][353]。
- 鉄道・道路・港湾・用水など、相対的に立ち遅れた社会資本の整備[296][354][355]。
- 産業構造の高度化、すなわち重化学工業化へ向けての誘導、生産性の高い部門へ労働力の移動[289][296]。
- 自由貿易の推進と上記の重化学工業による生産性向上により輸出競争を勝ち抜くこと[196][236][296][356]。
- 人的能力の向上と科学技術の振興により、従来経済と切り離されていた教育・研究などの文教問題を経済成長と関連付け、文教政策に積極的に取り組む[289][296]。
- 二重構造の緩和と社会的安定の確保[296]。経済的成長の背面に噴出が予想される産業構造の転換にともなう摩擦的失業、資金格差などの問題への対処。社会福祉と福祉政策の推進[296]。
「国民所得倍増計画」は「生産第一主義」「経済成長至上主義」「科学技術万能主義」などと呼称される「高度成長のパラダイム」の政策綱領として以後10年の間、席巻を極めた[296]。それはこの後自民党長期政権下での開発政策の基礎となった[357]。また国民もそれが人間の至福をかなえる手段だと刷り込まれていった[296]。
全国総合開発計画(全総)
「所得倍増政策」の一環として[283][336][358]、1962年10月に閣議決定した東京、名古屋、大阪、北九州を繋ぐ「太平洋ベルト地帯」の中間に新たな工業地帯を形成する「全国総合開発計画」(全総)は、戦後日本の国土計画の原点といわれる[336][359]。また関連の「新産業都市建設促進法」「工業整備特別地域整備促進法」[289][258][360][354][361]、これに漏れた地域の発展のために「低開発地域工業開発促進法」が1961年から1964年にかけて[358][362][363][364]、「農業基本法」「中小企業基本法」「沿岸漁業等振興法」「林業基本法」の四大産業基本法や「海運再建整備法」を任期中に策定し、産業の重化学工業化を推進した[236][365][366][367][368]。宮澤喜一は参議院議員ながら1962年42歳で第2次池田改造内閣の経済企画庁長官に抜擢され初入閣し、政治家として伸びる契機とするが[369]、経済企画庁長官としての大きな仕事が物価、GATTの問題ともう一つが五全総として今日続くこの年閣議決定した「全国総合開発計画」(全総)の初代長官としての対応だった[362]。策定の中心は下河辺淳で[370]、池田内閣による「所得倍増計画」を推進する地域開発の諸問題解決を目的とし、全国を均衡に発展させるという趣旨で[354][371][372]、これにより経済計画からブレークダウンして国土計画が決定されるという、その後のパターンを定着させた[288][358]。「太平洋ベルト地帯」に重化学工業地帯を出現させることを通じて「高度経済成長」に貢献した[283][358][373]。工業化が沿岸部で進んだ大きな理由は、原料が全部輸入のため船で運んでこなければならず経済的だったからである[341]。例えば鉄鋼業のライバルだったアメリカのピッツバーグは、ニューオーリンズ港に原料を持ってきて、それから川船や鉄道で五大湖の方へ持ってきていたが、日本は技術革新で大型タンカーを安く造り、一番安い原料を世界中から探し出して運び、アメリカより低コストで鉄鋼を作った[341]。日本の人口が農村から太平洋側に向かって流出し、定住したのは池田内閣の時代が始まりである[374]。しかし、拠点開発の指定をめぐり激しい陳情合戦が起こり[283][358][373]、結果、地元政治家を中心とした自民党の「利益誘導政治の始まり」[375]、「大企業による土地買占めによる地価高騰をもたらしただけで、富と人口の分散による国土の均衡ある発展というテーマは実現されずに終わった」[373]、「効率性を重視して大都市圏とその周辺地域に優先的に配分されただけ」[189]、「それは1969年の『新全国総合開発計画(新全総)』に受け継がれ、1972年の田中内閣における『日本列島改造論』につながって、ますます地価の高騰をもたらした」[373]などの批判も多い[365][375][376]。
貿易自由化推進
側近が反対したにも関わらず、池田がそれを無視して1959年6月、第2次岸内閣 (改造)通産大臣に就任した一番の理由は、経済界・産業界を広く見ることができる通産大臣の立場で高度経済成長の下準備をするためである[85]。当時、貿易自由化という大きな問題があったが、通産大臣はその責任者であった。神武景気、岩戸景気にみられた日本の著しい経済復興から判断して、アメリカは日本に貿易自由化を要求するようになった[377]。日本としても世界市場に復帰していくためには、アメリカは勿論、ヨーロッパに対しても自国に市場を開放することは長期的には必要であった。池田は自由化はそれ自体が目的なのではなく、日本の貿易拡大の手段であるという考えを早くから持ち[378][379]、日本が先進国入りを果たすには自由化は避けて通れない問題と受け止めていた[380]。当時大蔵省は自由化に積極的な姿勢をとっていたが、ことあるごとに路線対立する通産省は消極的で大蔵省を牽制していた[85][189][381]。1959年6月通産大臣就任早々の省議で「自由化構想」を打ち上げると、通産省幹部は唖然として新任大臣を見るばかりで賛成する者はほとんどいなかった[382]。池田は自由化のリーダーシップを執り、佐橋滋重化学局長ら、貿易自由化に消極的な通産官僚を説き伏せた[259][366][382][377]。通産省内で貿易自由化に賛成したのは今井善衛繊維局長一人だったといわれる[381]。今井は池田によく協力した[85]。城山三郎の小説『官僚たちの夏』は、佐橋のモデルを主人公に書かれたもので、池田のモデルも登場する。国内の業界から強い反対を受けたが、池田は経済基盤の整った日本が自由化を断行することは、諸外国の信用を勝ち取る上で必要不可欠で、日本経済を今後伸ばしていく唯一の道は、自由化以外には求められないと考えた[381]。自身の経済政策に揺るぎない自信を抱く池田は、GATTから要求されてやるのではなく、自ら積極的に自由化を受け入れ、日本の産業を国際競争の冷たい風にさらし鍛え上げる、それから世界市場に乗り出す実力を付けるべきだと考えた[382]。池田の自由化に対するスタンスが「所得倍増計画」に反映された[381]。「所得倍増計画」と「自由化」は車の両輪をなす一体の政策であった[382]。池田は通産大臣の時代から「次」を狙いつつ、経済政策では連続性を有し、貿易自由化においても、常に主導権を握った[236][259][383][384][385]。通産省や産業界では国内産業の現実の状況に精通しており、貿易自由化の進展には消極的だったといわれるが、貿易自由化を強く支持し1959年12月、池田は自由化に関する最初の決定を行い、綿花と羊毛の輸入を一切の政府統制から自由にし強力な先例を作った[386]。この二つを最初にしたのは、政敵への大口献金を潰すためだったいわれる[386]。1960年6月「貿易為替自由化大綱」を閣議決定させ[259][377][386]、池田内閣誕生は日本経済の「自由化」の夜明けで[387]、そのスピードが加速、開放経済へと大きく舵を切った[236][352][377][388][389][341]。後述する米国・欧州に対する実質的な経済外交は、まず日本経済の自由化、開放化が必須であった。池田の中では、対等な立場での国際経済への参加を実現し、自由な貿易環境の下で日本経済を拡大させる、それこそが戦後日本にとっての国際的な威信につながるという連動するナショナリズムの論理が形成されていたのである[377][390][391]。1960年6月の「貿易為替自由化大綱」は、3年後に自由化率80%をメドとしていたが[366]、池田政権初年度に輸入自由化率90%という目標に変更して、岸内閣当時、42%に過ぎなかった自由化率は、1964年に西欧諸国並みの93%に達成するに至った[236][389]。自由化計画の当初、保護の必要があった幼稚産業も極めて速やかに一人前に成長し、欧米先進諸国の競争相手と互角に渡り合えるようになった[392]。自動車産業がその典型である[392]。歴代首相は誰でも、多かれ少なかれ日本を大国にしたいという意識を持つものだが、池田は特に明確だった[380]。池田はドゴールの「トランジスタ・ラジオ発言」を気にしていたともいわれる[380]。貿易自由化の進捗は、当時日本では「第二の黒船」と騒がれた[393]。高度成長政策の支えによって、日本企業の体質も強くなってきたとはいえ、未だ国際市場では一人立ちできるとは考えられていなかった[393]。日本経済がもしや崩壊するのではという懸念と、いや日本企業の実力は本物であるという論が交錯している状態だった[393]。結果、アメリカの巨大資本に吸収合併されるのではないかという危機感から、重化学工業を中心に大型合併が成されて国際競争力が強化され、企業の近代化投資を加速させ、貿易外取引の分野における海外観光旅行の自由化や準備外貨割当制度の廃止にもつながった[259][367][394]。八幡製鉄、富士製鐵、日本鋼管の三社が寡占状態を形成し、一方的に価格を左右することに強い不満を持ち、通産省の幹部たちに「寡占状態はよろしくない。だいたい君たちの先輩ばかり三社にいるから通産省の腰が弱くてダメだ。住友金属や川崎製鉄を伸ばせ。設備投資や外貨の割り当てもその線に沿ってやれ」ときつく言い渡した[395]。最初に輸入自由化が問題になったのはレモンだった[380][395]。当時山手線の初乗りが10円、ラーメン一杯が50円だったが、レモンは1個80円もした[380]。通産省の官僚は国内産業の保護を理由に「時期早尚」と池田に具申したが「経済は君たちより俺の方が詳しい」とはねのけ1964年5月、レモン自由化を実施した[380]。国産レモンの主産地は、池田の選挙区の広島2区(当時)が含まれる瀬戸内地方で[396]、生産農家を含む関係者が大挙、池田のところへ押しかけ「自由化を強行するなら、次の選挙で反対側に回って当選を阻止する」と脅したが、池田はひるまず、「レモンぐらいで落選する俺ではない、帰れ、帰れ」と追い返した[395]。自由化の実施でアメリカ産サンキストレモンが輸入され、レモンは一個20円まで下落し、広島のレモン農家はたくさん潰れた[397]。後の福田赳夫や中曽根康弘は、地元群馬の名産・コンニャクの自由化に腰が引けたといわれる[341]。池田の退任に伴い自由化はストップし、再開は1970年代となっている[366]。貿易自由化によって外国製品が以前に増して各家庭に浸透した[398]。それまでの日本の昔からの辛い食生活は、外国からの甘さが加わって変化していった[398]。
エネルギー政策
エネルギー政策の大転換は、当時の大問題の一つであったが[367]、石炭から石油への転換を実現させたのも池田である[272][352][366]。その決定的な段階となったのが、池田が首相に就任してまず手を打った三井三池争議の解決であった[272]。三井三池争議は1959年12月に三井三池炭鉱で発生した大規模な労働争議であるが[258]、元は池田が通産大臣のとき進めた輸入自由化により1962年から、石油も自由化することが決定したことに端を発す[399]。池田が石田博英を労働大臣に起用して、約1年続いた激しい三井三池争議を無血解決したことでエネルギー生産も、当時日本で最強の労働組合の炭労から離れることになった[240][272][366]。総評の有力単産であった炭労の衰退は、総評をバックにしていた社会党に打撃を与えた[400]。これにより石油も含めて資源全体として自由化の体制に入り、高度成長の大きな与件になった[272]。また日本を他国より工業化を進めるために有利な条件を与えた[272]。臨海工業地帯が日本のように出来上がった国は他にない[272]。失業した石炭労働者は高度成長の中で他の産業に吸収させることで全体の効率化を図った[366]。1961年に雇用促進事業団を設立し、炭鉱離職者を雇用した企業への補助金支給を行ったり、炭鉱離職者たちの東京や大阪での就業支援として公団型のアパートを建設するなど手厚いケアも行った[366][401]。改革による痛みの代償として、三池・夕張・常磐炭鉱にお金を落とすのではなく、離職者の新しい就職先にお金を落とし、資源の移動を促進するような再分配政策を行った[366]。
科学技術振興
「所得倍増計画」の主要目的五つの一つとして科学技術振興を盛り込み、「文教の刷新と科学技術振興は、すべての施策の前提ともなる」と特に力を注いだ[258][383][385][388][402]。高度経済成長実現のため、それに即応する技術者 を必要とすることを予想し、医学を含めた理工科学生の拡充に重点を置いた文教予算を組んだ[341][403][355][404][405]。それまでの文科系学生中心の国庫補助からの転換で、戦後の文教政策のもうひとつの曲がり角ともいわれ、池田内閣によるこの勘案は、その後日本の先進工業国への歩みのなかで特筆される[349][406]。1961年に文部省が理工系学生2万人の増員を決め[405]、「理工系ブーム」が起こった[405]。また研究開発の推進、及び工業化対策の改善を目的に、国内に於ける独創的研究及び開発の推進が望まれ、欧米先進国に追い付くことを基本とした方向が示された[388][402]。文部省に於いて理工系学生増員計画が立案され、後の経済成長を支える基盤となった[388][402][407]。日本経済が今日あるのは、この時代の理工系学部の拡充強化で生まれた「技術革新」のおかげという社会通念が1960年代にはあった[296]。その考えが長きにわたり、日本の文教政策の根底に居座り続けた[296]。 また工業界、産業界に貢献する実践的な技術者の養成を目的に高等専門学校(高専)が全国で設立された他[166][408][409]、理工系大学の新設や理工系学部増設が以降増加した[355][341][407][410]。1961年には開発あっせん等の業務を行う新技術開発事業団(現新技術事業団)が設立され、同年産業界の共同研究を推進するため「鉱工業技術研究組合法」を制定した[388]。また世界の宇宙科学技術の進歩に日本がはなはだしく遅れをとり、将来に悔いを残す恐れがあるとの認識のもとに、原子力開発や宇宙開発などの巨大科学の自主技術開発を目指したナショナルプロジェクトに官民あげて取り組むことを申し合わせ体制の整備も進められた[388]。1963年には日本原子力船開発事業団が設立され原子力船『むつ』が開発された[388]。1962年に「国立試験研究機関を刷新充実するための方策について」の答申が出され、東京に立地している国立試験研究機関の集中的な移転が提言され[388]、これが茨城県筑波研究学園都市建設の主要なきっかけとなり1963年、筑波地区に国際的水準の研究学園都市を建設することが閣議了解された[388]。
農業基本法
農業、林業、漁業の第一次産業に対して近代化を図り[259]、1961年「所得倍増計画」の重要な柱として社会党と対決してまで、戦後農政の憲法といわれる「農業基本法」を成立させた[236][358][411][412][413]。1960年11月12日、選挙史上初の三党首テレビ・ラジオ討論会で、池田は「経済成長率が9%なら農村人口を半分以下にすることになる。日本の農業は、ほかの産業が合理化・近代化されているにも関わらず、徳川時代と同じ状態である。農業規模の拡大と、多角経営によって、ひとつの企業として成り立つようにしなければならない」[414]、宏池会の機関紙で「農業人口が日本の総人口の40%を占めているのに、農業所得は国民所得の20%に過ぎないのが問題である。そこで農業人口を鉱工業やサービス業に吸収して、農民の一人当たりの所得を増やす方向に持っていきたい」などと述べ[278]、農業の近代化と合理化、及び農業の発展と農業従事者の地位向上のための国の施策を定めた[366][411][412][415][416]。「所得倍増計画」による重工業へ農林水産業からの労働力流入によって、働き手が農業から離れることで海外のように大規模で機械を使った効率的な農業を目指した[258][352][417][418][419][420]。商社からの農機具の購入を奨励して機械化を図り、農家の経営規模を拡大して労働の生産性を上げ、農家所得の上昇と他産業への労働力確保を同時に達成しようとする目的を持っていた[421][422]。岸内閣末期の通産大臣時代に民間の農政家だった池本喜三夫に目を付け「農業基本法案」を作成させ採決を強行した[423]。[424][425]。稲作の一貫作業による機械化と耕地の大規模化、すなわち干拓地の開拓が中心的に推し進められた[421]。秋田県の八郎潟を干拓して誕生した大潟村はその象徴であったが[363][417][418]、新しい農業のモデルとされたこの村は、その後国の政策に翻弄された[417]。他地域でも農地の集約は進まず「農業基本法」が後押しした農業機械の普及は、機械の借金返済のために農閑期の出稼ぎを増やし、むしろ零細な兼業農家を増加させた[363][421][426]。農家の次男・三男が工場労働者やサラリーマンになり、高い収入を得るようになったが、長男まで都会に出て行くという事例も出た[427]。1963年、1964年には農村からの出稼ぎがピークに達し、その数60万人といわれた[421]。"過疎"という言葉はこの頃生まれたといわれる[421]。重工業の発展によって不足した労働力は主に農村部からの出稼ぎや、若年労働者の集団就職によって補われたのである[301][422][428][429]。だが家族を呼び寄せるほどの収入は得られず、実家には妻と男の両親が残され、農作業は、このかあちゃん、じいちゃん、ばあちゃんの「三ちゃん」にゆだねられたことから「三ちゃん農業」と呼ばれた[430]。化学肥料や農薬も飛躍的に普及を遂げ[422][431]、農家の所得水準は上昇したが[311]、その後の輸入自由化で主要穀物はアメリカの大規模農業に価格で太刀打ちできず、減反、食の洋風化に伴う米余り、農地の地価高騰などで「農業基本法」は日本の農業を強くするという目的は果たすことができなかった[258][413][432]。また農業に関連する公共事業が進められた半面、利益団体と自民党の癒着構造も生まれた[433]。里山の破壊もみるみるうちに進行した[422]。戦後の農政が置き土産にしたのは、食料自給率40%(1998年)という主要先進国最下位という数字だった[430]。
社会保障他
中小企業近代化のため「中小企業基本法」「中小企業支援法」や、労働者の雇用促進のため「雇用促進事業団」の他[240][259][358][383][384][434]、池田政権を通じて、新しい福祉国家の建設のため、減税、社会保障、公共投資を三本柱とすると訴えた[258][435]。福祉関連では厚生省から多くの要望が出されたが[436]、社会保障よりも公共投資に重点を置きたい大蔵省ともめたものの社会保障政策が拡充した[312]。1961年に国民全てが公的医療保険に加入する「国民皆保険・皆年金」を実現させ[236][366][436]、同年より生活保護基準が引き上げられた。朝日訴訟の第一審判決(1960年10月19日)が生活保護基準の大幅引き上げをもたらしたという見方もある。他に「児童扶養手当法」「老人福祉法」「母子福祉法」などが任期中に閣議決定している[236]。
文教政策
政権を通じて「人づくり」の重要性を唱え、文教振興に力を注ぐと終始主張を繰り返したこともあり[383][437][438]、これが「人づくり政策」とも称され、それに同調するように池田政権下で文部省を中心として多くの人材開発育成が成された[166][388]。「国民所得倍増計画」に於いて「教育投資論」の考え方が示され、高度経済成長を背景とした経済優先政策下に於いて計画的、体系的な公教育改革が行われた[258][388][439]。「経済成長に寄与・貢献する人材の養成」という義務を大学に対して明確に課した[388][440]。技術者養成機関として1961年に広域通信制高校、1962年に高等専門学校(高専)が全国で設立された[166][408][409]。また同計画に必要な人材を早期に発見し、適切な教育訓練実施の基礎資料とするため、文部省主催で1961年から1964年まで「全国中学校一斉学力テスト」が実施された[166][441][442]。テスト・選別・競争の教育体制づくり、今日に至る際限のない受験競争はここに始まったとされる[166][439][441][442][443]。1962年、文部省は『日本の成長と教育』で、「教育投資論」を軸に新たな国民教育の考え方を示し、1963年には経済審議会が「経済発展における人的能力開発の課題と対策」を答申し能力主義の徹底を標榜、「ハイタレント・マンパワー」の養成と尊重の必要を唱えるとともに、各自が自らの「能力・適性」に応じた教育を受け、それによって得た職業能力を活用することを求めた。これが高度経済成長下の中等教育の基調となった[438]。1961年に日本母親大会が「高校全入運動」を取り上げ運動が全国に広がると、池田内閣の「所得倍増政策」として高校の増設・定員を計った[444][445]。1962年以降、「みんなが高校に入れるように」というスローガンに結集する全国の父母・子ども・教師の国民要求が起こったこともあって、1961年から1963年まで相当規模の高校増設費が計上された[444]。1964年以降は文部省が増設を打ち止めを決定したが、この池田政権3年間の予算急増で高校進学率 も伸びた[444][446]。堺屋太一は「池田内閣は"効率"を最大の社会正義にした。人間の規格化を考え、教育の規格大量生産化を実現させた。教育カリキャラムを定め、学習指導要領をつくり、全国の学校で同じことを教えさせた。生徒指導に当たり、生徒の長所を伸ばすより欠点をなくすことに重点を置いた。5段階評価とすると、優秀な子供は全科目に5が並び、普通の子供は3が並ぶ、従って能力の差は丸の大きさだけで測れる。丸の大きさを示すのが偏差値で、これ1つですべてが評価できる仕組みを徹底させ、これが教育の場に浸透した」と述べている[447]。後藤基夫は「今日続く管理社会の指導者を作ろうとしたのが池田・佐藤時代だったと思う。それを打破しようとしたのが70年安保と絡んだ学生運動の激しい動きだった。池田・佐藤時代、明らかに彼らが日本のエスタブリッシュメントをつくるよう政策的にも色づけをしていた。あのとき色んな大学の先生、評論家がみんな政府に協力するといった形が出てきたのも、戦後できた中間層の中からエリートを作り出す作業の一つだった気がします」などと論じている[448]。「人づくり国づくり」政策の中で、学校のカリキャラムは過密化し「詰め込み教育」「落ちこぼれ」「見切り発車」というフレーズがマスメディアに現れた[443]。急激な都市化と工業化の中で、子どもたちの生活は大きく変貌した[443]。農村部では父親の出稼ぎで家庭崩壊の現象が、都市部では女性の社会進出とともに「カギっ子」問題がクローズアップされた[443]。その他「義務教育諸学校の教科用図書の無償に関する法律」[403][449]、「特別児童扶養手当等の支給に関する法律」などが任期中に閣議決定している[236]。
第2次防衛力整備計画
1961年7月18日、日本の防衛政策の結節点とされる五年計画の第2次防衛力整備計画(二次防)を国防会議及び閣議決定[450][451]。旧式航空機、兵器等の更新とミサイル導入など、装備近代化を自衛隊の強化を目標とした[450]。この計画によりソ連・中国・北朝鮮に対する防衛戦略が整備され[451]、同時に、自主防衛体制整備とともに、従来はアメリカから供与されていた兵器を極力国産化することとし、計画進展に伴って、この時期から兵器産業も新時代を迎えた[450]。
池田外交
池田内閣は日米安保障条約の改定をめぐる一連の政治的混乱、安保闘争の責任を負う形で退陣した岸内閣の後継として成立した。反政府運動によってアイゼンハワーアメリカ合衆国大統領の日本訪問が取りやめとなり[452]
、岸内閣が退陣に追い込まれた安保闘争は、日本国内における共産主義的な反政府勢力の興隆と政府の統治能力の不充分さを国内外に印象付け、日本は米国をはじめとする自由陣営の国々からの国際的信用を著しく失墜したと池田は感じていた[390][453]。日本にとって対米関係は、安全保障面においても経済面においても極めて重要であり、池田内閣にとって対米関係を修復することが第一の外交課題だった[390]。鳩山や岸はアメリカとの協調関係を追及しつつも、東アジアの国際秩序がアメリカの軍事力・経済力を中心として維持されることに何らかの形で異議を差し挟もとしたが、池田はアメリカがアジアに於ける中心的役割を果たすことを与件として受け入れていた[454]。それによって日本が受ける利益は計り知れず、また日本はアメリカの軍事力によって自国の安全を保障され、アメリカ市場が開放されることによって通商上の利益を確保できる、このようなアメリカの指導的役割こそが日本の経済成長の持続を可能にする外的条件であり、アメリカの役割に対する挑戦ともとられかねない態度を示すことを極力避け、自由主義陣営内部でのアメリカの指導的役割があって初めて日本の果たす役割も定まるという態度を示そうとした[454]。また米国とともに自由陣営の主力をなす欧州諸国は、当時日本に対して経済的差別を課していた。日本は1955年に関税及び貿易に関する一般協定(GATT)へ加入を実現したものの、英国、フランス、ベネルクス三国などの欧州諸国は、日本に対してGATT35条を援用し、日本とGATT関係に入ることを拒んでいた[390][455]。英仏両国は「日本が加入となればOECDの地域的性格は失われ、日本の他に参加を認めねばならない」などと日本の加盟を渋った[456]。加えて1961年9月に発足した米国・カナダと欧州諸国から構成される経済協力開発機構(OECD)は、日本を原加盟国として招請しなかった。OECDはマーシャル・プランによる米国の対欧援助の受け皿であった欧州経済協力機構(OEEC)を改組した組織であるが、日本は既にOEECの下部機関である開発援助グループ(DAG→DAC)に参加していたものの、OECDの発足にあたり原加盟国として招請されず、世界経済の大勢から乗り遅れるかもしれないという孤独感を抱かせていた。つまりグローバルな状況でいえば、池田政権が発足した当時日本は、自由陣営から孤立しかねない状況に陥っており、池田政権はそれを充分に自覚していた[390]。国内において池田は「国民所得倍増計画」を打ち出し、経済成長を政治の中心課題に据え、各種施策も順調な滑り出しを見せていたが、やはり経済成長政策の成否のカギは、輸出であった[390]。外貨の保有量を増やし国際収支の天井を高め、経済成長を持続させることが基本構想の柱の一つであった[259][255]。そのためには海外市場、それも購買力のある米欧先進諸国すなわち自由陣営諸国の市場が重要な役割を果たす。したがって、池田政権にとって「自由陣営からの孤立」の状況を打開し「自由陣営の一員」の地位を確立することは、池田政権が打ち出した経済成長政策を実現するためにも、また日本の国際信用を回復し、さらに国際地位の向上をはかるためにも不可欠であり、自由陣営諸国との関係の改善・強化が極めて重要な外交課題となった[390]。池田は政権発足直後から「日本は大国である」と声高に主張した[457]。池田は「世界の一流国」とか「経済大国」「先進国クラブの一員」になりたいという「大国願望」が非常に強かった[390]。すると社会党は池田の「大国意識」に対して「日本帝国主義の復活」などと批判し、メディアの中にも「むなしい大国意識」と揶揄するものもあった[457]。勿論、アメリカをはじめ各国が日本を自由主義陣営の「大国」と認識していたとは言い難く、池田にとって日本が「自由主義陣営の有力な一員」となるためには、諸外国、特にアメリカにそれを認めさせる必要があった[457]。池田は日本が大国になれるかどうかの分水嶺に立っていたのである。1960年12月12日、国会の所信表明演説で、貿易自由化を進め、日米関係の緊密化とともにアジア・アフリカグループ(AA諸国)と中南米諸国との経済交流の進展、内政不干渉の原則の下に共産主義諸国との友好関係の増進を述べた[383]。これは日本経済が発展すればアジア人による西欧的経済水準達成の可能性を実証でき、経済成長の成功事例として共産圏およびAA諸国に日本を強く印象付け、日本の対外的信用を勝ち取ることができるという意味を含んでいた[454]。輸出振興には日本製品に対する市場が確保されていることが重要で、日本に対する保護主義的な傾向の強いヨーロッパ市場を開放させ、日本に対する敵愾心が完全には払拭されていないアジア諸国を市場として確保するためには、日本は全面的にアメリカのイニシアチブに依存せざるえをえなかった[454]。池田は「自由陣営の一員」の確立という外交目標の追求にあたり、まず対米関係を緊密化し、それを利用しつつ欧州への外交的地平を拡大するという戦略を据えていた[390]。藤井信幸は池田外交について「経済システムの選択という形で、西側陣営に帰属することの正当性・有利性を国民に再認識させるという政治的日的も有していた」と論じている。
- アメリカ合衆国
- 1961年1月、ジョン・F・ケネディ大統領の誕生を待って、小坂善太郎外務大臣やマッカーサー駐日米国大使、朝海浩一郎駐米大使らが池田訪米の日程調整を行う[458]。同年4月、日本との関係改善を考慮したケネディから任命された日本びいきのライシャワーが駐日アメリカ大使に赴任した影響もあり、アメリカとも関係が密接になっていく[458][459][460]。1961年6月19日に占領下から数えて11回目の訪米[461]。キャピトルで上下院議員全員と握手し[462]、アメリカ合衆国下院で「こんどは援助の要請にきたのではありません」と演説し、拍手喝采を浴びた[463]。ハイライトは1961年6月21日、ジョン・F・ケネディ大統領とワシントンD.C.ポトマック川に浮ぶ、大統領専用ヨット・ハニー・フィッツ上での会談で、アメリカが日本を重視しているという態度を演じさせることに成功した[259][464][465]。このヨットでの会談はマクミラン英国首相に次いで二人目だった[464]。米国との「イコール・パートナーシップ」(対等の関係)を目指し日米文化教育交流会議(カルコン)の設置を決定[259][260][456][466][467]、今日に至る日米関係の礎を築いた[466][468]。日本の対米輸入額の増加に対して米国政府の協力を要請し、ケネディから「今後も自由貿易政策の維持に全力を尽くす」との回答を得た[469]。ホワイトハウスでの昼食会では、安保騒動で訪日を延期したアイゼンハワー前大統領も同席し友好ムードを後押しした[464]。こうした厚遇に対する池田の感謝は連日、新聞、テレビを通じて日本国内へ伝えられ「イコール・パートナーシップ」の現れとして大きな反響を呼んだ[464]。これは一行のスポークスマンだった宮澤の巧みな演出によるものだった[464]。留守を守っていた大平が池田の自信過剰を心配して手紙を送って来たほどだった[464]。この首脳会談の具体的成果として、ケネディに祝日に限り沖縄の公共建築物に日の丸掲揚を認めさせ[463][470][471][472][473]、「沖縄と小笠原諸島に対し、日本が潜在主権を保有する」ことをアメリカに認めさせた[464][472][473][474]。これが1972年5月の佐藤政権下での沖縄返還協定への含みとなった[473][475]。アメリカ、特に国防省は基地確保のため、沖縄に日本色の滲透することを極力排除しようとしていたため、祝日の国旗掲揚も米国にとっては些々たる問題でなく一大譲歩のつもりだった[464]。当時は日本人の意識はアメリカに対する政治的な嫌悪感と物質的な憧れの矛盾する感情であったが[476]、池田はアメリカが正義であるかどうかを問うことなく、経済的に豊かだという点だけを強調した[476]。池田はアメリカの物質的な豊かさを評価し、それと結びつくことで日本も豊かになる、そのためには日米安保体制が必要だと説き、対米追随を正当化した[476]。池田は米国との協調関係の維持を最も重視し、この関係が維持されてこそ高度経済成長が実現可能になると考えていた[477]。このことが国内的には国民生活の向上・民生の安定に基づく政局の安定をもたらし、対外的には日本の国際的信用・地位を向上させ、また経済面での国際貢献を可能にすると判断していた[477]。ケネディ政権としても、この直前に行ったフルシチョフソビエト連邦共産党書記長とのウィーン会談でも何ら成果がなく、ラオス、南ベトナム、韓国とアジアの米国防の前線は政情不安定で[240]、CIAの援助を受けた反カストロ反乱軍のキューバ上陸作戦にも失敗し(ピッグス湾事件)、極めて困難な立場であり、ちょうど手詰りの状況のときに懐に飛び込んできた池田は歓迎すべき客だった[464]。そもそも日本は、アメリカにとって不確かな同盟国であった[390]。アメリカの占領から独立した後、日本は中国との貿易やソ連との国交回復など、共産圏に接近するような姿勢を見せていたし、日本国内には一定の反米・中立勢力が存在した。アメリカは日本が自由陣営から離脱あるいはそうでなくても中立に進むのではないかという懸念を感じ、安保闘争はそのような米国の懸念をより大きなものとしていた[390]。目覚しい経済成長を以って発展してきた日本を真に信頼できるアジアの自由陣営の一翼としてとどめておくことが必要であり、急成長中の日本に西側諸国の負担を分担をして欲しいという考えがあった[478]。日本への期待は、中国の脅威と東南アジア情勢の不安定化、さらには国際収支の悪化というケネディ政権が当時直面していた諸問題に関連していた[479]。また日本が経済的に繁栄すれば、西側陣営全体の魅力と求心力を高め、西側を支持するアジアの新興国も増えるという読みもあった[478]。池田は反米運動に転化しかねなかった安保騒動を見事に沈静化させた[464]。日本の経済発展と政治の安定性を、アメリカとケネディに認めさせる絶妙のタイミングでの池田の訪米だった[464]。またケネディの義弟でシュライバー平和部隊初代長官から、ケネディが創設したばかりの海外ボランティア平和部隊についての説明を受けたことが、日本の青年海外協力隊創設への一つの流れといわれる[480]。帰途ハワイでは全米知事会議に招かれ、アメリカを代表する全ての政治家と会ったことになった[462]。ハワイの日系人の歓迎会では、"日本の復活"について語っているうちに声をあげて泣きはじめ、聴いていた一世、二世も涙を流した[481]。
- ソ連
- 池田は「イコール・パートナーシップ」を演出するなど、日米関係の改善に努めたが、1961年8月、東京晴海で開催された「ソ連商工業見本市」出席のためミコヤンソ連副首相が、それまでの最高レベルのソ連首脳として訪日[482][483]。ミコヤンは訪問国のいたるところで、放言したり、商談を持ち込み"死の商人"という異名を持つ危険人物だった[482]。アカ嫌いの多い日本では、相当な身辺警護が必要となり、典型的な"招かれざる客"であった[482]。また悪いことにソ連大使館が池田との会見を申し込んできた。首相官邸を訪問したミコヤンは予想通り、米国攻撃と日米安保体制の非難を捲し立てた後、アメリカとの関係強化を急ぐ池田を牽制すべくフルシチョフソ連書記長からの書簡を池田に手交してきた[473][484][485]。すると「ワシントン・デイリー・ニュース」が8月16日の一面トップ全段抜きの大見出しで"フルシチョフ、日本に米軍追放を要求"と報道し、「ロイター通信」も"ミコヤンが在日米軍基地閉鎖を要求するフ書簡を池田首相に渡した"と報じた[483]。池田がケネディと反共・自由主義の世界観を一致させていただけに、この年の秋に東南アジア4カ国の池田の訪問に対する反共戦線の牽制の意味もあった[483]。池田は大平官房、小坂善太郎外相、及び外務省幹部と相談の上、返事はできるだけ軟らかく、しかし言うべきことは言うという方針を固め反撃を開始、池田とフルシチョフの間で、以後2年半にわたり激しい非難の応酬が書簡上で繰り広げられた[482][484][485]。それまでソ連は、日本を全くの弱小国扱い、時には属国扱いにして、もっぱら脅迫の一手を用いていた当時であったため、池田返書は国民の溜飲を下げ、支持率アップにつながった[483]。フルシチョフも黙ってなく、特に領土問題をめぐって難癖をつけてきた[483]。「領土問題は一連の国際協定によって久しき以前に解決済みであり、日本国の領土でない領土の日本への返還問題をどうして提起できるのだろうか」と、日ソ共同宣言を反故にし、歯舞群島・色丹島を含めた領土問題のゼロ回答をほのめかした[483][484]。これに対して池田は国会審議を通じて「日本固有の領土」たる国後島・択捉島は、サンフランシスコ講和条約で日本が放棄した「千島」のなかには含まれない」とする新見解を発表し「領土問題は解決済み」とするソ連側の主張に反駁し1962年3月9日には、沖縄・小笠原施政権回復とともに、北方領土回復を閣議決定した[473][484][485]。また池田政権として国内世論を「四島一括返還」論に一本化しようと試み、1964年には、択捉・国後に対する「南千島」という旧来の呼称に代え、四島を返還要求地域として一括する「北方領土」という用語を使用するよう指示するに至った[484]。池田は"親米嫌ソ"の本尊であるため、当然自らがこのような難局の解決に進んで乗り出すことはなかったが、高碕達之助が「日ソ間昆布採取協定」を足場にその打開を図ろうとしたものの、領土問題の進展には至らなかった。但し池田政権の間、日本の経済成長により日ソ貿易は大きく拡大している[484]。
- 韓国・中国
- 日韓問題に下手に手を出せば、南北朝鮮の対立が日本に持ち込まれ、安保闘争の二の舞になることを恐れ当初は消極的であった[486]。しかしケネディとの会談で「あなたにやってもらいたい」と頼まれたことと、岸ら対韓安全保障積極論者の政治的圧力の存在もあり、党内圧力の緩和と牽制のため、韓国問題にも取り組むことにした[486][487][488]。1961年朴正煕国家再建最高会議議長の訪日を要請[487][489]。同年11月11日、非公式で来日した朴正煕と会談し「対日請求権」問題を事実上決着させ[334][490][491][492]、大平を外務大臣に据えて交渉に当たらせ、日韓国交正常化の早期妥結への道を開く(佐藤内閣は、事実上、同条約の調印を継承しただけ[472][493])[236][487][491][494][495]。また1957年、親台派の岸内閣の発足で、中国は「政経不可分の原則」を持ち出して日中間の貿易を拒んだが[241]、岸の後総理になった池田は「政経分離」の原則のもと、民間貿易で「日中間の関係を打開し、貿易を拡大させたい」と考えた[496]。ケネディとの会談の際にも、日中の歴史的・文化的に密接な関係を説き「日本が中国とヨーロッパ並みに貿易を行うことは当然である」と訴えていた[497]。アメリカは当時、中国敵視政策を採っており日中接近には極めて警戒的であったが[497]、親中派の石橋湛山に相談し[496]、石橋から「政治問題では松村謙三、経済と貿易問題なら高碕達之助でしょう」との助言を受けた[496]。こうして松村には全権を与え[498]、高碕には事実上の政府特使として日中関係改善にあたらせ[499]、これがLT貿易協定の締結につながった[182][241][491][500][501][502]。クーヴ・ド・ミュルヴィル仏外相が来日した際の会談で池田は「いずれ日英仏が語らってアメリカを説得する時期が来るだろう」と語ったといわれる[16]。日中国交正常化は池田路線の継承という見方もできる[16]。1963年8月、総額73億5800万円にのぼる倉敷レイヨンの中国向けビニロンプラント輸出にあたり、日本輸出銀行の融資による延べ払いを閣議で了承した[496][498]。
- 日米貿易経済合同委員会
- 1961年11月2日から4日まで第一回日米貿易経済合同委員会が箱根観光ホテル(現・パレスホテル箱根)で開かれ、ラスク国務長官ら、カナダとの閣僚級委員会以外では初めて半数近い米閣僚が揃って来日し日米協調を印象づけた[456][490][503]。会議場の箱根の山は内外の取材陣でごった返した[504]。1962年10月のキューバ危機では、ヨーロッパ並みに迅速にアメリカ支持を表明した[456]。
- 東南アジア
- 池田のアジア外交は、共産主義が中国からその周辺に拡大しないこと、資本主義・民主主義システムがアジアにおいて確固たる地位を確立することを外交目標に置いた[505]。特に中国の影響が強く、西側諸国との関係が好ましくないビルマとインドネシアが、日本の責任地域であると池田は考えていた[483][505]。池田は賠償の再検討などの手段、つまり経済的援助によって、中国に依存しないで済むようにして両国を中国から引き離し、自由世界に引き込みたいと考えた[505]。1960年、アジアの途上国援助の市場の調査に関する政府機関として「アジア経済研究所」を設立した後[506]、1961年3月、海外援助を行うため「海外経済協力基金(OECF)」を設立した[507][506][508]。同年1月16日から東南アジア4カ国(パキスタン・インド・ビルマ・タイ)を訪問した[483]。このとき台湾を素通りしたと台湾政府から抗議を受けた[509]。インドでは非同盟中立主義の大立者・ネルー首相と会談。この直前、ネルーはユーゴのチトー、エジプトのナセル両大統領と会談して「全面軍縮の緊急性」を決議し、米ソ両陣営に楯突いており、自信家の池田も緊張せざるを得なかった[483]。同行した東畑精一スポークスマンも「池田首相も半年は寿命が縮まったろう」と記者団に話した[483]。ナセルもインドネシアのスカルノもネルーを学ぶことによって東西両陣営の中間に"第三の道"を発見しうると信じていた時期でもあり、池田はネルーから「日本はあまりにアメリカ寄りの道を歩きすぎている。このままでは日本はアジアの孤児になる。日本の苦しい立場は分かるが、アジアにはアジアの道があるはずだ」などとたしなめられた[483]。しかし得意の経済問題では反撃し、ネルーから「綿や砂糖をもっと買って欲しい」と言われたが「貴国の農産物は品質が悪い上に価格が高い。模範農場を見学させていただいたが、あのような非近代的やり方は、経済開発とはいえない」と直言した。ニューデリーでの記者会見では外交儀礼を無視して「この美しく豊かな国に迎えられて」と本来言うべきところを「この民度の低い、貧富の差の甚だしい国を見て驚いている」と言ってしまい大顰蹙をかった[483]。ビルマはインド、パキスタンとともに中共を承認している半社会主義国で、周恩来訪問の際には歓迎に50万人以上が押し寄せたといわれたが、池田の市民歓迎会は中止になった。不機嫌になった池田は首相主催の夕食会で原稿なしの大演説会をやってしまい「あなた方は日本が賠償として差し上げた発電機で一体何を作っておられるのか。ここにある鉛筆も紙も輸入品だと聞いた。こんなものは自分で作れるようにならなければいけない。統制は国民の心を萎縮させてしまう。国民の活力をあふれさせることによってのみ、国は栄えるのだ」などと力説した[483]。タイのサリット首相は、特別円の問題を解決しなければ、他のことは一切話し合わないと牽制した。池田はこの問題を未解決のままにして逃げる予定にしていたが、ビルマとは全く違うタイの国家建設の意気に感じて、独断で96億円を8年で支払うことを決めた(日タイ特別円協定)[483][510]。見返りとしてタイはどこの国にもやらせなかった地下資源の開発を日本にやらせると伝えた[483]。
- ヨーロッパ
- 第二次世界大戦で日本は欧州諸国の敵であり、その名残は1960年当時はまだ残っていた[511]。欧州のいくつかの国は日本を西側につなぎとめる必要を感じてはいたものの、欧州全体でいえば、外交課題としてより重要であったのは、欧州統合問題や米欧関係であり、遠く離れた極東に位置する日本への関心は決して高くはなく、日本は形式的な、不確かなパートナーであった[511]。このような状況下での池田の欧州接近ではあったが、ドル防衛政策で陰りが見える米国市場と違い、充分な購買力を持つ欧州市場にはフロンティアとしての魅力があった[511]。また池田自身が大国志向を持っており、欧州諸国の対日経済差別を撤回させ、日本が欧州諸国と対等となることに、国際社会における日本の地位向上という意義を見出していたのである[511][512]。しかし1958年に西欧6か国で結成された欧州経済共同体(EEC)の経済発展が目覚しく、加えて米国がEECへの接近を計り、EECの発展にともない世界経済が、米国中心から、米・EECの二つを中心に編成替えされ、米・EECとで一つの巨大自由貿易圏を形成する動きがあり、そこから日本は閉め出されるのではないかと懸念していた[511]。EECとの接近を目論むケネディ政権は、EECとの間で関税を大幅に引き下げる通商拡大法、およびGATTにおける関税引き下げ交渉(ケネディ・ラウンド)を準備していた[511]。加えて英国が1961年8月にEECの加盟申請に踏み切ったことで、英国が対日差別を撤回しないままEECに加盟し、経済協力開発機構(OECD)への加盟を打診し、日英通商航海条約が結ばれた後も、対日差別が固定化されてしまうのではないかという懸念まで生じていた[511]。池田訪欧の課題は、いまだ解決されていない欧州諸国の対日経済差別待遇の是正ー経済関係の正常化と、EEC諸国が閉鎖的にならないよう求めることが急務であった[511]。池田は「『自由主義諸国』は、北米、ヨーロッパ、日本及びアジアの三つの柱が中心にあるべきであって、日本とアメリカとの結びつきが、そのままヨーロッパの結びつきに置き換えられるとき、世界平和を維持する道が開かれる」という極めて野心的な計画を持っていた[182][456]。大平外相による地ならしの後[456]、池田は1962年11月4日からヨーロッパ七カ国(西ドイツ・フランス・イギリス・ベルギー・イタリア・オランダ・バチカン)を訪問した[270][513]。訪欧は日本の首相として吉田、岸に次いで三人目だった[514]。池田は欧州へ向かう機内で同行した記者たちと会見を行い、日本、北米、欧州の自由陣営「三本の柱論」を述べ、「吉田、岸前首相でもこれほどハッキリ言い切ったことはない」と述べた[456][511]。当時のメディアもこの"三本柱"発言には「池田の大風呂敷がまた始まった」ぐらいにしか捉えられず、ピンと来なかった[16]。訪欧した1962年11月には、日本は「所得倍増計画」の成功によって既に目覚しい経済発展を遂げており、欧州各国の首脳は大国になりつつある日本の自由陣営における重要性を認識し、概ね好意的に池田に接した[511]。フランスでは首脳会談の際にシャルル・ド・ゴール大統領から有名な「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄されたが[515][516]、会談の際は池田は厚遇された[251][511][517]。モードリング英国蔵相から「経済成長率がどうもよく分からない」と懐疑的な指摘を受けると「戦後の日本の経済を赤ん坊の時分から育ててきた。私には良く分かる」などと一蹴した[456]。イギリスは先述の理由により訪欧のメイン・イベントであったが、イギリスとしても経済成長著しい日本に輸出増加のチャンスを見出しており、日本に対し最恵国待遇を保証した日英通商航海条約の調印に至り「日英対等」を演出した[456][511][518]。同時にイギリスの対日GATT35条援用も撤回され、共同コミュニケには日本のOECD加盟支持が明記された[511]。これにより池田は「これで日本は初めて世界の一流国と肩を並べることになった」と述べ、日本の国際的地位の向上を誇った[511]。またマクミラン首相との会談の際、マクミランから「インドネシアのスカルノ大統領を押さえるのはあなたしかいない」と頼まれたため[512]、翌年第二次アジア訪問を行う[512]。
- 三本柱
- 池田訪欧後、日本のOECD加盟の機運が一気に高まり、池田は米欧提携による日本分裂回避に成功した[452][511][513]。欧州首脳の池田への歓待が、池田の大国意識と結びつき、「三本柱」意識へ昇華したのである[511]。「三本柱」論が重要なのは、第二次世界大戦から立ち直り、経済成長を続ける中で、日本国民に米国と欧州に並ぶ「一流国」「先進国」日本という新しいアイデンティティを与えたこと[511]、また自由陣営において米国を超えて欧州へと外交的地平を拡大し「自由陣営の一員」の地位を確立し、日本の国際的地位の向上と、日本の欧州市場参入への糸口をつかんだ[511]。ヨーロッパから帰国後、池田は"世界の柱の一つ日本"を強調し[456][512]、「日本は独立後10年間に国民の努力により、世界史上まれに見る復興をしりっぱな国になった」と述べた[511]。またヨーロッパの訪問でEECの発展を見て、池田の頭の中にアジアに関する新しい夢が生まれていた。日本だけが孤立しては繁栄しない、アジア各国が資源と労働力と市場を互いに交換し、成長政策が成功すれば、大きな繁栄地帯をつくることができる「アジア経済共同体」という考え方がますます強くなっていた[182][259][519]。
- 東南アジア・オセアニア
- 1963年9月23日から東南アジア(フィリピン・インドネシア)とオセアニア(オーストラリア・ニュージーランド)の計4カ国を訪問[520]。直接の切っ掛けは、オーストラリアのマッキュアン副首相の招待で、太平洋時代の到来を見越して同国は、日本に対する関心を高めており、従来の英連邦中心主義から日本を中心とするアジアとの経済的な結びつきに重点を移し換えを考えていた[521]。ニュージーランドも同様の立場であることから、池田はこの機会に、これら両国との経済的な連携を強化しEECとも対抗しうる、自由陣営の三本柱の一つとして、日本の地位を確立したいと考えた[521]。フィリピンとインドネシアは、先に挙げたようにマクミラン英国首相に頼まれたマレーシア紛争で強硬な態度をとるインドネシアのスカルノを説得し、マレーシア、フィリピン、インドネシア三国間の同盟(マフィリンド)を設立させるための調停工作として予定に組み込んだものであったが、最初に訪問したフィリピンの若いマカパガル大統領からは「御好意はありがたいが、国連でも持て余している問題が日本の手に負えますか」などと断られた[521]。インドネシアのスカルノとの会談は世界の報道陣がジャカルタに集中したほど注目を浴びた[521]。デヴィも同席[521]。池田はスカルノを内心嫌っていたが、東京で共に飲み遊んだ仲でもあり、二人で腹を割って話した[521]。しかしスカルノは「君は何もしらない。イギリスやアメリカがこの国で何をやっているか。イギリスは植民主義の再建を企ているし、CIAが何をしているか知ったら君も驚くだろう。イギリスやアメリカがおれを敵視するなら、おれはインドネシアにソ連の基地を認めてやる。第二のキューバだ。そうなったら奴らも少しは参るだろう」などと、当時のスカルノはイギリス大使館を焼打ちするなど、意気はなはだ盛んで曲者でもあり、とても調停どころでなかった[521]。しかし池田はインドネシアの安定が、軍と共産党の危険なバランスの上に乗るスカルノの存在によってかろうじて維持されていると判断し、スカルノへの支援を継続した[505]。その後佐藤政権まで経済援助が続き1965年の「9月30日事件」でようやく解消された[505]。戦前の対日感情から、まだまだアジア人には、日本の主導による外交問題の処理については警戒心が強く、日本が外交でイニシアチブを発揮しようとしても、日本の指導は受け入れてもらえなかった[522]。日本国内では池田の大国意識の結果であるとの批判を浴びた[523]。一転、オーストラリアは当時ドゴールの反対でヨーロッパ市場から締め出された形となっていたため、日本への関心も高く第一級の国賓待遇を受けた[521]。またニュージーランドも同様に親日国になっており歓迎を受けた。この他、東南アジア諸国に於ける戦後補償問題では、その解決を目指し、タイ、ビルマ、フィリピン、インドネシア、南ベトナムには補償支払い金を決定した[475][519]。またアメリカ政府へガリオア・エロア資金両援助の返済にも調印[475]、戦後日本の対外的な負債処理を決着させた[259]。日本の悲願ともいわれたOECD加盟は、その後紆余曲折があったものの1964年4月28日、正式加盟を果たした[236][511][513]。以上、成果0も勿論あったが、池田以後の日本外交の最重要課題となる諸問題についての素地を作り[492]、「外交追随、経済自主」というその後自民党の基本パターンを形作ったといえる[501][515]。
所得倍増計画の功罪
高度成長期あるいは高度経済成長期とは、通常1955年から1973年頃までを指し「日本を変えた6000日」とも言われる[524]。この間、日本は年平均10%という驚異的な経済成長を遂げた[525]。高度成長期の前と後では、すでに日本は同じ国でなかったといっても過言ではなく「国民所得倍増計画」を掲げて軌道に乗せ、国内を成長ムードに染めたのが池田内閣である[301][524][526]。従って、戦後史に於いて池田勇人の名と高度成長は分かちがたく結びついている[98][31][354][515][524]。「高度成長」という言葉を流行らせたのも池田であった[527]。「高度経済成長」は、偶然の産物ではなく「国民所得倍増計画」によって、あらかじめ計画されたものであり[427]、池田内閣の発足が事実上の高度経済成長時代のスタートである[31][302][263][528][529]。池田は「国民所得倍増計画」を打ち出し[383][530]、国民総生産(GNP)を「10年以内に26兆円に倍増」させて、国民の生活水準を西欧先進国並みに到達させるという経済成長目標を設定し、内政と外交を結びつけることで、完全雇用の達成と福祉国家の実現、国民各層間の所得格差の是正をはかることを目指した[236][257][258][259][531]。さらに減税、社会保障、公共投資を三本柱として経済成長を推進させた[236][310][289]。「国民所得倍増計画」という国のグランドデザインを描き、道路・港湾・工業用水・学校・研究施設・公営住宅などインフラを効率的に整備した[354][366][355][532]。1960年当時の日本社会はまだ驚くほど未整備だった[533]。社会資本の充実が経済成長にとって不可欠であるという要件の元[534]、1961年から(1964年修正)5年間に4兆9000億円の道路投資が決定し[415][534]、任期中に中央自動車道、東名高速道路や[534]、羽田空港に代わる新国際空港建設などが閣議決定されている[535]。また左藤義詮大阪府知事、原口忠次郎神戸市長から「大阪に公団を設立して欲しい」との陳情を受け、阪神高速道路公団の設置を決定させた他[536]、行政に関する公的な事業推進のため、任期中に水資源開発公団、産炭地域振興事業団など公団等を増加させた[354]。民間企業が資金を借りやすくするため日銀金利を0.37%引き下げ、さらにおよそ800億円の減税を実施した[427]。一方で二年以内に9割の貿易自由化を決定し、日本企業を海外との競争に向かわせた。このアメとムチの政策により企業は新たに工場を建設するなど一斉に設備投資に走った[311][427]。また日本企業がアメリカ資本に吸収合併されるのではないかという危機感は、大企業同士の大型合併への引き金となった[365]。企業は生き残りを賭け、他社より魅力的な製品を作ろうとこぞって海外から新技術を導入、その件数はそれまでの4倍に達した[427]。これが高度成長の鍵となった技術革新(イノベーション)である[270][427]。これが一番目に見える形で現れたのが家電製品であった[427]。続々と登場する新製品が国民の消費を加速させ経済は急成長を遂げた。池田を支えた「財界四天王」と金融機関の首脳を中心とした財界グループも実働部隊として重要な役割を果たした[537][538][539]。結果的に民間経済の潜在的エネルギーを巧みに引き出して[31][540]、"ジャパンミラクル"といわれる高度の経済成長をとげた[65](en:Japanese post-war economic miracle)。また悪い表現でいえば"エコノミックアニマル"の出発点でもある[541][542][543]。「国民所得」や「総生産」「GNP」「成長率」といった、一部の専門家しか知らなかった術語が、あっという間に大衆の言葉になった[16][542]。1961年度予算から、シーリング(概算要求基準)が取り入れられた[544][545]。弱気だったエコノミストもいっせいに強気になった[311]。池田はアメリカの物質的な豊かさを評価し、それと結びつくことで日本も豊かになる、アメリカは自動車産業が発達して産業を引っ張っている、だから日本もそのために高速道路を造り、自動車産業を伸ばそうと説いた[476]。減税、社会保障、公共投資の拡大は医療、製薬、建設、電機メーカーの発展をもたらした[476]。国鉄のディーゼル化と複線化を本格化し輸送力を強化した[546][547]。産業構造を軽工業から重工業に転換させ[258][548]、それまで日本の主要な輸出産業だった繊維や雑貨など軽工業を抑えぎみにして、鉄鋼、自動車、電機などの産業部門に政府資金の財政投融資を集中的に行い振興を図った[259][301][476][549][550]。「全国総合開発計画」(全総)に於いて「新産業都市」や「工業整備特別地域」を指定し[258][358]、そこに国から多くの補助金を投入して埋め立て、道路を造り、港湾を整備し、重化学工業が工場を誘致しやすい土地を整備する公共事業を行った[352][358][476]。工業先導による地域振興を謳い上げたため、地方自治体は工場誘致を血眼にした[476]。既存の四大工業地帯の周辺に、鉄鋼・石油精製・石油化学・火力発電所を結ぶコンビナートを造る構想が出され、四日市を皮切りに全国各地に工業地帯が続々建設された[201][336][358][367][388][551]。これらは日本の海岸の形を変えた[311]。全総の「工業先導性の理論」は、まず大規模工場を誘致すれば、流通業やサービス業は後から付いてくるという理論であった[552]。重化学工業を中心とする企業群が規模の利益を取り入れて規格化、大量化を進めて、工場施設を大型化し、規格品を大量生産する近代工業社会が一挙に完成した[476][553]。石炭から石油へ、原子力へエネルギーを転換[65][352][420][554]、エネルギー革命のエポックもこの時代だった[555]。国内経済を発展させながら、一方では国際情勢に対応して貿易自由化を計り、開放経済体制へ大胆に移行させた[236]。また雇用の拡大、労働の流動化促進により、農業・中小企業の近代化も図った[310]。こうして日本は欧米諸国とかなり酷似した重機械中心の産業構成に変貌していった[556][557]。証券業界が沸き立ち[558]、これに引きずられて鉄鋼、自動車を筆頭に軒並み設備投資に走った[270][301][559][560]。時計やカメラ、ラジオ、自動車、バイクなど、「メイド・イン・ジャパン」の製品が世界に販路を広げた[65][476][515][561][562]。日本の"輸出大国化"は、池田後に日米貿易摩擦として政治問題化した[550][563]。日米貿易摩擦は、日本が池田路線を選択したことの当然の帰結である[564]。高度成長の中で幼稚産業だった産業も発展して国際競争力も強くなった[526]。1961年の暮れは神武以来の"忘年会ブーム"だった[406]。1962年に一旦景気が失速し「幻の所得倍増」「破綻する所得倍増」などと池田批判に火の手が上がったが、池田は高度経済成長を維持する有力な武器として、1964年開催予定の東京オリンピックに着目[565][566]。公共投資の拡大には、国民が納得できる旗印が必要だが「オリンピックをてこに成長に弾みを付ける」という戦略を立て、公共事業や社会保障に積極的に予算を付けていく[310]。池田の戦略は当たり、日本経済は勢いを取り戻し「オリンピック景気」が到来した[310]。「新幹線、東京の高速道路は、なんとしてもオリンピックに間に合わせろ」と厳命[310]、この二つには特に惜しみなく予算を注ぎ込んだ[565][567]。柔道競技の会場として建設された日本武道館は、池田と河野一郎建設大臣が建設場所を選定したといわれる[568]。1960年7月から1962年7月まで蔵相を務め、オリンピック予算を盛らされた水田三喜男は「オリンピックの準備は全部池田さんがした」と述べている[569]。その他、オリンピック開催に合わせて、各種の公共事業が全国で進められた[310][384][557]。政府もどんどん金を注ぎ込み、財政主導で日本経済を引っ張っていく[310]。新幹線、高速道路、港などのインフラ整備は大きな需要を生み出した[65][258][388][549][570]。オリンピックは、それまで放置されていた貧弱な道路網を飛躍的に改善する画期的な機会になった[365][571]。都市における労働力提供のため、都市周辺に住宅地を開発して、地方から出て来て重化学工業やその周辺に勤める人々を収容できる住宅団地をつくった[447][572][573]。池田はオリンピックをバネに「所得倍増政策」の仕上げを図った[310]。池田内閣の時代に日本で初めての原子力発電が成功し[310]、東海道新幹線が開業、海外旅行が自由化された[65][241][550]。国民の所得水準はその想定を上回るテンポで向上し、人々の暮らしぶりも大きく変貌した[549]。当時「三種の神器」と言われて、一般家庭には高嶺(値)の花だったテレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫が、驚異的な勢いで普及したのは池田政権の時代だった[268][301][574][575]。最初は本当に「所得倍増計画」が実現するかどうか、国民は疑心暗鬼だったが[310]、"投資が投資を呼ぶ"(1961年『経済白書』)[576]好景気と消費ブームが起きた[240][310][301]。通貨量の増大は中小企業や流通部門の投資拡大を支え、大手スーパーマーケットのチェーン展開が本格化し、また中小スーパーの設立も増加して「流通革命」という言葉も生まれた[526][528][577]。既製服やインスタント食品の販路も急速に拡大した[578]。消費の大型化・高級化・多様化が進み、国民の生活も大きく変えていった[549][579][580][581]。"レジャー"という新しい言葉が日常の暮らしの中で使われはじめたのもこの頃からで[572][582]、"レジャーブーム"という和製英語も流行した[578]。旅行やゴルフ、スキー、ボウリング、広告業界などもこの時期伸びた[580][582][583]。日本経済が復興の時代を経て、新たな段階への飛躍の基盤を整えたのが池田政権の時代といえる[336][559]。これらは「1億総中流社会」を作り上げたという見方もある[584]。この時代に日本人が郷愁を持つのは、ライフスタイルの面で、現代日本の原点だからである[585][586]。
反面、「高度成長のひずみ」として物価の上昇や第一次産業の激減、大都市一極集中と地方の過疎化、公害問題、自然破壊などの多くの問題を生んだ[360][361][420][587][588]。これらが表面化したのは池田が亡くなった後で、池田はそれらを知らずに世を去った[589]。
政権運営
池田のブレーンは大蔵官僚を母体としていたため、経済や外交では目覚ましい成果を挙げたが[255]、国会の運営には難があった[590]。1960年11月20日の第29回衆議院議員総選挙で、301もの議席を獲得して大勝したにも関わらず、この時も組閣で衆議院議長を石井光次郎に断られ、池田が強引に清瀬一郎を起用したが、清瀬は安保国会で警官を導入した当の責任者であり、社会党が猛反発[590]、紛糾のまま国会を開かれたものの本会議は流れた。池田が三党首会談を開いたが、社会党が副議長1名を要求してきた。「300名もとっているのに、副議長をわたす法があるのか」と自民党党内が息巻き、「人選が悪い。清瀬をおろせ」という声も出た。益谷秀次幹事長と大橋武夫は働かず、保利茂総務会長や福田赳夫政調会長も大した働きもなく[590]、責任が一直線に池田に来た[590]。結局先の社会党の要望を飲み、副議長1名を渡し清瀬の衆議院議長は決まったが、翌日の新聞に早くも「池田短命内閣」という見出しが載った[590]。組閣では、安保のとき、岸に協力しなかったことがしこりとなって、それまで冷や飯を食わされていた河野派、三木派から閣僚が入り、挙党態勢、言葉を変えれば、派閥均衡内閣ができた。1961年3月31日の国会で、社会党の代表質問に「弱小国がいかにしようとも、日本は中立主義をとらない」とまた失言を犯し、"弱小"の二字は取り消した。この翌日嶋中事件が起こり、池田の公約でもある農業基本法が紛糾した上、社会党欠席で強引に可決し、社会党は安保国会の再現と批判声明を出した[590]。さらに右翼テロが相次いだことから民主党の松野鶴平が「政治的暴力行為防止法案」を持ち込んできた[591][592]。警職法の二の舞を懸念し宮澤や大平は慎重だったが、池田は審議に協力的な民社党のメンツを立てるためと、国会後の訪米を控えてこの法案が不成立なら国際信用が傷つくことを懸念し、側近の反対を聞かず強引に推し進めた[590][591]。政防法案の審議が進むと、また浅沼の刺殺事件の時のように国会議事堂周辺をデモが取り巻き、異常な雰囲気となった[24]。清瀬議長は、議長席を社会党議員が占拠し着席できず、自民党席で議事を進めるという混乱の中で同法案は可決された[240]。しかしその後も大荒れし、政防法は参議院自民党幹部の反対に遭い、継続審議となった[590][592]。これは反池田である保利総務会長と福田政調会長が謀って、池田にこれを強行させ、国会を混乱させ、あわよくば辞職に追い込もうとする策謀で、池田は上手くそれに乗せられた[593][594]。こうした党内からの揺さぶりは続くが、景気の上昇に伴う国民の将来への希望と、池田を中心とする同志の結束がますます固くなり、決定的な影響を受けずに済んだ[590]。1961年6月の訪米で自信をつけた池田は、帰国後余勢を買って党人事と内閣改造にかかった[595]。それまで組閣や改造でろくに動かなかった池田が、今度は積極的に自身で根回しに奔走した[595]。小選挙区制を意図する公職選挙法改正案は、1956年第3次鳩山内閣でスタートを切り、選挙に金がかかり、悪質な買収などが横行したため、その手立てを講じる狙いから第2次池田内閣時代の1961年6月に「選挙制度審議会」が作られ本格化した[596][597]。1961年7月18日に組閣した第2次池田内閣 (第1次改造)では「所得倍増政策」に本腰を入れるべく、農林大臣に河野一郎(河野派)、通商産業大臣に佐藤栄作(佐藤派)、行政管理庁長官・北海道開発庁長官に川島正次郎(旧岸派、川島派)、経済企画庁長官に藤山愛一郎(藤山派)、科学技術庁長官に三木武夫(三木・松村派)という、各派の幹部クラスを通り越して、オーナーをすべて閣内に"閉じ込めてしまう"という作戦に出て、野心的であると同時に前例にない奇抜な人事を用いた[240][456] [598]。石井光次郎を除く当時の自民党派閥七師団の長が、池田軍司令官のもとに慴伏した形となった[599]。また「安定成長に切り換えるべき」と政調会長でありながら「所得倍増政策」を批判した福田赳夫を切り、後任に田中角栄を据えた[295][456]。総裁選の経緯から党人派がバラバラになったため、池田の出方を見ていたという部分もあったが[600]、これら実力者は力がほぼ均衡しており、池田の各派への等距離が逆に求心力となって結集した[595]。「新主流はつくらない」という池田の言明に、一時佐藤派は非難の色を見せたが直ぐ軟化した。下手をすれば孤立する恐れも出て、各派が一斉に協力体制へ雪崩れうった[595]。池田は「党の選挙対策委員会懇談会」の名目で実力者会談を開き、国際情勢に対応する党、及び内閣の強化を確認、暗に各実力者が政治責任を負うことを要請した[595]。実力者内閣に出現でその特色が具体的な政策の面で現れるとみて、国民も経済界も大歓迎した[595]。マスメディアは、この改造内閣を「実力者内閣」「重量内閣」などと呼び[220]、自民党はより勢いを増した[601]。この辺りから、池田を支える顔ぶれが河野、大野、川島ら党人派となり、佐藤は池田から距離を置くようになって、主流と反主流とが逆転する[498]。また岸派が川島派、藤山派、福田赳夫派と三分されたなかで、その直系を自負する福田は「党風刷新懇談会」(のち「党風刷新連盟」)を結成し最も早く反主流活動を行う[602]。池田は「党風刷新連盟」が出した派閥解消などの党近代化要求に対して、第2次池田内閣 (第2次改造)で佐藤とともに閣外に出た三木武夫を会長とする「自民党第三次組織調査会」(1962年10月発足)で論議させることにした[603][498][604]。福田らの動く口実を封じる意味があったが、三木調査会は派閥の無条件解消などを内容とする「近代化」を一年後の1963年10月答申を取りまとめた[498][605]。「三木答申」は反主流の息を弱らせる効果があったが[606]、最大の目的であった派閥の解消は答申を受けて、各派閥はいったん解散を宣言したものの、翌月の総選挙が終わるとたちまち復活し、その後派閥はますます酷くなった[605]。また公務員の労働基本権を巡って争われたILO87号条約は、野党の抵抗にあって度重なる国会提出にも関わらず審議未了になった[240][255]。そこで池田は政権後半は他派閥とりわけ河野一郎に接近した[255]。河野は萩原吉太郎、永田雅一、渡邉恒雄、児玉誉士夫といった人脈を持ち[191][607][608][609][610]、池田と河野は犬猿の仲 だったが[610]、河野は迅速果敢な行動力が持ち味で、建設大臣・オリンピック担当大臣として首都開発を強力に推進し、国民的人気も高まった[255][611]。また河野と間近に接するうちに、河野の豪胆にして細心な人柄に惹かれたともいわれる[612]。池田は佐藤にライバル意識を燃やす河野に接近し、佐藤を牽制することで党内バランスを保ったのである[255]。
池田と大蔵省支配
池田の積極財政路線は、その経歴が大蔵省主計局ではなく、主税局を出発点としていることと無関係でない[613]。予算編成に強大な権限を有する主計局の出身者が財政支出の抑制へと動きやすいのとは対照的に、主税局出身の池田は経済成長に応じた財政拡大方針を執ることに適していた。池田は1947年に石橋湛山大蔵大臣の下で大蔵次官となり、石橋に協力して戦後日本の経済再建の実務を担当し、石橋の経済運営から多くを学んだ。また池田は大蔵次官になって以来、常に大蔵省との間に緊密な関係を保持し、大蔵省を権力基盤として鳩山内閣の経済運営にも影響力を持った[202][613][614]。前述のように大蔵省(現財務省)が「官庁の中の官庁」というパワーを確立したのは、池田が大蔵省出身の政治家として戦後初めて首相になった池田政権の時代で[202][325]、池田は「所得倍増計画」を大蔵省出身の側近政治家、大蔵省出身のエコノミスト、大蔵省出身の現役官僚たちとの二人三脚で推し進めた[202][614]。池田は高度経済政策を阻止する財政保守派を排除するため、そして大蔵省を自分自身の政治的野心への協力者に組み込むために、大幅な人事の入れ替えを行った[615]。池田の積極財政は池田個人の政策に止まらず、大蔵省首脳人事を通じて継承され、森永貞一郎、石野信一らによる大蔵省首脳人事は1970年代まで池田の影響力を保持する形で行われた[613][616]。戦後の首相で、大蔵次官→大蔵・財務事務次官を経た後、首相まで上り詰めたのは、今なお池田唯一人のため、大蔵省に於ける池田の影響力は強く長く続いた[613]。石野も池田の蔵相時代の主計局長〜事務次官であり、池田の政策ブレーンの一人であった[85][617]。池田内閣の時代、日本銀行は消極財政に舵を切ろうとし、金利引き上げを何度も求め、日銀法改正による中央銀行の独立を要求したが、池田は断固拒否し主張を押さえ込んだ[85]。結果、日本の景気は萎縮することなく、高度経済成長は順調に実現した。池田時代の日銀総裁は大蔵省の同期・山際正道であり、最終的には池田と山際は歩調を合わせた[85]。財界は言うに及ばず、池田内閣時代の日本は、政府与党、大蔵省、日銀、財界が一体となって国を動かした[85]。池田は1956年に石橋内閣で蔵相に抜擢され、ここで石橋とコンビを組んで「1000億円施策、1000億円減税」という積極政策を打ち出すが、これは池田内閣の「所得倍増計画」と政策上の共通点があった。これが第2次池田内閣 (第2次改造)の田中角栄蔵相に受け継がれ、党の要求を反映した積極財政が大蔵省の伝統的な緊縮財政を排して推進されていくことになったのである[613]。
官僚主導体制の強化
池田が政治家として後世に残した大きな影響として、金権体質と政・官・財の癒着、とりわけ官僚主導体制の強化がある[323][447][618]。終戦から池田登場までの15年は、まだ政治の力が強く、マッカーサーが植え付けた民主主義の思想と仕組みがある程度保たれていたが、池田が首相になり「所得倍増計画」という官僚主導の計画経済的思考を定着させると共に、各官庁は規格規制や公共事業などの大きな権限を得るようになった[476]。また政府の補助金がないと地方公共団体は事業が出来ないという財政構造も作り上げていく。池田を中心とする官僚出身の政治家と、現役の中央省庁の官僚たちが手を取り合う形で、道路や鉄道、団地、都市施設などを建設し、池田をはじめとする政治家は、官僚が計画した通りに財政資金を投入して規格大量生産型の重化学工業を育成した。戦争中にも実現できなかった官僚統制が、池田内閣時代に実現したのである[476]。官僚に嫌われた政治家は出世しないという伝統も池田内閣と池田派(宏池会)が作り出したものである[476]。戦後日本に於ける金権政治の基礎構造は、1955年の保守合同を切っ掛けとして翌1956年、財界から自民党への政治献金を集約する組織として日本経済再建懇談会(国民政治協会の前身)が設立されて形作られたものであるが[619]、池田内閣が高度経済成長を推進し、日本経済の占める財政の比重を増大させたことで、自民党と財界の一体的な関係は、政策の立案と遂行を担う官僚機構をパーティに組み入れ、いよいよ強固なものとなっていった[619]。強化された官僚と、自民党の政治家が結びつき、官僚の指導により各業界団体が強化され、官僚主導型の業界協調体制が池田内閣の時代に確立した[476]。その後日本中にはびこる"カネ万能主義"の原点を作ったという見方もできる[620]。池田は「権威主義的官僚国家」を支配した稀有な政治家である[621]。こうして金権体質が生まれたがしかし、これが自民党政権の安定にもつながった[308][476]。また戦後政治における"派閥"は、吉田内閣末期に、戦前の政治家が公職追放から解除された時に始まるといわれ[476]、池田内閣以前の派閥は、親分個人の魅力や面倒見の良さで派閥ができていたが、池田内閣以降の派閥は、親分個人を超えた強い組織になって継承されていく。これは宏池会が業界との結びつきによって政治資金が入る仕組みを作り出したからである[476]。これもまた池田の先見性といえる[476]。
臨時行政調査会(臨調)「行政改革」と「審議会政治」
池田は戦後の宰相陣を通じて、ブレーンを周辺に集め、それを活用し、その献策を政府の施策に取り入れた最初の政治家である[622]。戦前では近衛文麿のブレーンだった昭和研究会が知られるが、その討議が内閣の方針となり決定するまでには至らなかった[622]。しかし池田のブレーンは顧問的存在ではなく、たぶんに実務の役割を持ち、しかも他の人と見事に意思が調整され、池田政治の方向に対してほぼ統一された発想を抱いていた[622]。また池田内閣は成立当初から諮問機関を設けて内閣レベルで政策決定を図り[623]、内閣成立直後に「外交問題懇談会」が法律によらない懇談会として設けられた[623]。看板として掲げられた「国民所得倍増計画」の閣議決定後の1961年1月には、右翼のテロ活動取り締まりを名目に「暴力犯罪防止対策懇談会」が設置された[623]。同じ1月の党大会で立党以来の懸案である党近代化問題と取り組む決意を表明し「党組織調査会」を設立[603][605]。自民党への政治献金の取りまとめにあたり、党資金の明朗化をはかるため、癒着に対する批判が高まっていた「経済再建懇談会」を解散させ[622]、1961年7月15日に国民協会(のち国民政治協会)を発足させた[622][569]。立ち上げは当時の自民党資金局長でもあった前尾繁三郎が行った[603][622]。このため同協会のシステムはそっくり宏池会を真似たものである[622]。初代会長には長谷川如是閑に要請したが引き受けてもらえず[603]、岩田宙造に要請した[603]。1961年4月には通産省内に、池田の自由化計画の実際の策定者だった大慈弥嘉久を室長とする「産業構造審議会」を設けた[624]。同年「選挙制度調査会」を拡充し、法定の審議会とした上で小選挙区制を導入するかどうか諮問した。1962年には憲法調査会が中断していた審議を再開して、本格的に議論を重ねた[623][625]。同年国会での決議を下に行政改革について本格的な審議を行う「臨時行政調査会」(第一次臨時行政調査会)を発足させた[623][626]。同調査会が設置されて以来、行政改革という概念が広く一般に流布した[627]。橋本登美三郎が自民党広報委員長を務めた1963年からはマスメディア各社の幹部との懇談が「新聞通信懇談会」や「放送懇談会」の名のもとに定期的に行われるようになった[628]。同年から「人づくり」を公約に掲げて教育政策についての審議会を設置して政策を主導した。第1次臨調には農林省官房企画室の育ての親である小倉武一が事務次官退官後、調査員として参加した。内閣レベルの諮問機関と各省の調査・企画部門とが内閣へ出向した官僚を介して結びつき政策を構想する、この新しい意思決定の方式を持つ総理大臣による審議会の設置、「審議会政治」は、池田内閣を起源とする[623]。池田内閣時の審議会は、世論の注目を集めたものの、有効に活用するには至らなかったが、以降「審議会政治」は形を整えつつ、1990年代後半に入ると内閣の成立に伴う政策形成のスタイルとして完全に定着した[623]。
経済大国の礎を築く
池田は貿易自由化を推進、開放経済体制への大胆な移行を果たし、日本の国際的地位も向上させた[236][258][529][629][630]。1963年2月11日、OECD加盟申し込みを言明し、翌1964年4月28日に悲願のOECD加盟を果たし[128][513]、非欧米唯一の経済先進国としての地位を獲得した[236][392][511][631]。1955年のGATT加盟からOECD加盟までの期間はわずか9年であった。またそれまでIMFで経済力に不安のある「14条国」として扱われていた日本はこの年、先進国と同等のIMFの区分で「8条国」(国際収支上の理由で為替制限ができない国)へ移行[258]、"世界の奇跡"と称された高度経済成長を実現させた[265][317][632][633]。1960年にスローガンに掲げた「所得倍増計画」は、日本のGNP13兆6000億円を10年で2倍とするとしていたが、この目標はわずか4年で達成された[198]。同年9月7日、池田がオリンピックと共に東京開催を待望していたIMF・世界銀行の年次総会が日本で初めて開かれた[634]。東京ホテルオークラ「平安の間」に設けられた演壇で、1800人の外国人を前に日本語で演説を行い「IMFの皆さん、日本の爆発的なエネルギーを見て下さい。明治維新以来、先人の築き上げた教育の効果が驚異的な日本経済発展の秘密なのです...戦後19年間、日本経済が達成した高度成長は、われわれが重化学工業国へと転換したことによるものです...アジア諸国の人々よ。君たちがいま、独立にともなってうけつつある苦難は、敗戦以来20年、われわれがなめつくした苦難でした。そこから1日も早く抜け出して下さい。その手がかりを見出すことこそ、IMF東京総会の意義なのです」などと述べ[136][635][636][637]、OECD加盟とIMF8条国移行により、名実ともに日本が先進国入りしたことを世界各国に印象付けた[265][384][629][638]。第二次世界大戦の廃墟から被占領国の辛酸をなめて独立、高度経済成長の名のもとに奇跡ともいえる経済再建を成し遂げ、名実ともにともに国際社会への参加を果たしたのである[639]。廃墟の中で日本国民がかすかに抱いた"ジャパニーズ・ドリーム"はようやく現実のものとなった[639]。「西欧に追いつき、追い越せ」といった明治開国以来の国家目標はここで達成した[16]。日本が経済でアメリカやヨーロッパに認められたのは、池田の手腕によるものである[265]。1963年8月14日、部分的核実験禁止条約(PTBT)に調印し、1964年6月15日に批准した[98]。1964年10月に開催されたアジア初のオリンピック東京大会は、池田内閣の高度経済成長政策による経済的繁栄を鮮やかに象徴する世紀の大祭典であり、世界に類を見ない奇跡の経済復興を外国に知らしめ日本の威信を著しく高めた[236][268][327]。
池田内閣
- 1961年
- 1962年
- 7月14日、自民党総裁選再選。
- 7月18日、内閣改造。第2次池田内閣第2次改造内閣
- 1963年
- 7月18日、内閣改造。第2次池田内閣第3次改造内閣。
- 11月5日、郡山市で遊説中、右翼に襲われる。
- 12月9日、第3次池田内閣発足。
- 1964年
- 7月18日、内閣改造。第3次池田内閣改造内閣。
退陣、死去
9月9日、国立がんセンターへ喉頭癌の治療のため入院。すでに癌は相当進行していたといわれる。病名は本人に告知されることなく、「前がん症状」と発表された。東京オリンピック閉会式の翌日の10月25日に退陣を表明し、11月9日に後継総裁として佐藤栄作を指名した[640][注釈 6]。
その年の12月に退院するが、翌1965年7月29日、東京大学医学部附属病院に再入院する。8月4日に手術を受けるものの、9日後の13日、術後肺炎により死去。65歳没。
葬儀は自由民主党葬として行われた。葬儀委員長は佐藤栄作。戒名は大智院殿毅誉俊道勇人大居士。墓所は故郷の広島県竹原市と東京都港区青山霊園にある。
評価
1960年の総裁公選で総裁に就任した池田に秘書の伊藤昌哉が「総理になったら何をなさいますか」と尋ねると、池田は「経済政策しかないじゃないか。所得倍増でいくんだ」と答えた[327][641]。伊藤は池田が本気で「所得倍増計画」に取り組むとは思っていなかった[641]。側近の前尾繁三郎も大平も宮澤も反対した[310][641]。しかし池田は「国民の人心を一新するためには経済政策しかない」との強い使命感を抱いていた[265]。時代は安保闘争で大揺れ[642]、大内兵衛は「世界は第三次世界大戦をやって人類が滅亡するか、それとも平和共存で行くのかの追分に直面し、日本も昭和5、6年の満州事変のはじまる当時と似ている」と表現した時代の転換期[641]。ブリティッシュコロンビア大学教授・フランク・C・ラングドンも、著書『戦後の日本外交』の中で「日本にとって1960年は、終戦以来最大の危機に陥った年であった」と書いた[643]。池田が首相に就任した時、果たさねばならぬ課題は、恐ろしく難しく、実現不可能とすら思われていた[643]。池田内閣は"岸亜流内閣"になるんじゃないかというのが世間一般の見方だった[644]。池田が岸の裏返しに出てくるとは、誰も考えていなかった[644]。岸とは正反対の政治姿勢を打ち出した池田に、第2次岸内閣 (改造)の科学技術庁長官だった中曽根康弘は「安保閣議の際の池田氏の言動からは予想し得なかった」と驚いたと述べている[645]。この難局をまさか経済のことで乗り切れると想像する人はいなかった[641]。藤井信幸は「岸は新安保条約の強行採択で国家と国民の間に対立を生んだが、池田は所得倍増という民間に自由にやらせる開放的な経済政策を打ち出すことで国家と国民を結びつけることに成功しました。強兵なき富国を実現する最善のシステムは資本主義だという思いとともに、戦時を過ごしてきたことからくる『やり返すんだ』というルサンチマンもあったと思います」と述べている[261]。萩原延壽は「とりわけ対立するエネルギーが灼熱し、激突した安保闘争のあとであっただけに、言い換えれば、高度に政治的な季節のあとに訪れる"政治"についての倦怠感や疲労感を味わっていたときだけに、池田内閣が"国民所得倍増計画"において提供した"豊かな生活"というイメージは、いっそう新鮮なものとして国民の眼に映ったに違いない」などと述べている[646]。「給料を二倍にする」ー日本の歴代総理大臣でこんなに分かりやすい目標を打ちだした人はいない[647]。何よりも官僚をはじめ民間企業の経営者や労働者たちの気持ちを"成長マインド"に放り込んだことが功績として挙げられる[490]。また社会福祉の増進や農業政策にかなりの予算を振り向けた。それらは個々には批判の余地のあるものであったとしても、やはり強烈な政府指導がそこにあったといえる[490]。内田健三は「池田政権こそは、古典的な保守政治支配の方式に、はじめて"管理"の概念を導入した政権だった」と論じている[648]。萩原延壽は「池田内閣の経済優先主義は、統治技術という点からみても、極めて巧妙なものであった。政治の分野における低姿勢にもかかわらず、経済の分野においては、極めて強気な態度をとり続けた。池田は1964年(政権最終年)元日の日経新聞の年頭所感で『日本経済の西欧水準への到達は、かつては遠い将来の夢に過ぎなかったが、今日では"倍増計画"最終年次からほど遠くない時期の可能性の問題に変わりつつある。明治維新以来の日本経済百年の歩みの中で解決できなかったことを、われわれはいま解決しようとしているのである』などと述べた。西欧水準への到達ということをもって、近代日本の歴史に於けるライトモティーフだと考えるならば、池田内閣は、明治維新以来の日本の"進歩的伝統"を継承する正統な嫡子であった」と評している[646]。「所得倍増政策」は、のちに宮澤が「結果として日本は非生産的な軍事支出を最小限にとどめて、ひたすら経済発展に励むことができた」と解説したように、日米安保条約に経済成長の手段という役割を与えることになった。いわゆる「安保効用論」は、安保条約体制も結局は豊かさの追求に従属するものだという安心感を誘い、安保に同意する人々の数を増やす効果を生んだ[490]。御厨貴は「安保闘争の後、池田は『所得倍増』をスローガンに経済成長を唱え、それに続く佐藤の長期政権で"富国民"路線が定着した。吉田の弟子・池田、佐藤によって再軍備の問題はほぼ棚上げになった。戦前のように、予算の半分を軍事費に投じてたら、経済成長は簡単には遂げられなかった。日米安保体制の下で、自由な市場経済を守り通してきたことは、自民党の功績」[649]、「あのままいけば自民党も危なかったかもしれないけれど池田勇人政権で変わった。池田・佐藤で12年以上、2人のおかげで自民党は10年で終わるはずが60年も続いた」などと述べている[650]。伊藤昌哉は「池田という人は経済を中心に政権に近づいたのですが、政治家と財政家がひとつである、という珍しいケースです。普通この両方は兼備しないものです。ケンカは好きですね。うまいですよ。政治的判断は素晴らしいものがありました。一旦決めたら動かない。それまでは柔軟な姿勢ですがね。あの激動期に頼りになる、それが経済の面でも現れる、財界人でも政界人にもファンができるわけです。『所得倍増政策』を成功させたものは、下村の理論と勉強会と池田の鋭いカンです。政治の上に経済学的な科学性を導入した。それまでの政治はいわば腹芸だった。この科学的な政策によって、池田が革命期とも激動期ともいえる一時代を開き得た。あの頃"所得倍増"なんて誰も信じてませんでしたよ」などと述べている[16]。やるにしても「日本は自由主義経済の国。所得倍増計画の"計画"という言葉は不適当では。別の言い方に変えた方がいいと思います」と大平が進言すると池田は「何を言うか。"計画"と謳うから国民は付いてくるんだ。外すわけにはいかん」と一蹴した[310]。武田晴人は「"所得倍増計画"という巧みなレトリックによって、民間企業の投資行動の背中を押すとともに、経済諸政策の立案の焦点を明確化し、高成長の実現を目標として、これを前提として創造的な活動を次々生み出すこととなった」と評している[651]。黒金泰美は「"所得倍増計画"というのは空前絶後の選挙用スローガンだった。あの言葉を聞いただけで、なんだかみんな金持ちになれるような気になってしまう。とにかく明るい感じにさせる力がありました」と述べている[652]。橋本治は「"所得倍増計画"という、えげつない名前の政策は"新時代の始まり"だった。戦後という貧乏を克服し、その後に訪れる"新しい時代"の素晴らしさを語ろうとする時、"月給が倍になる"は、いたって分かりやすい表現だった。人は、その分かりやすさに魅せられたのだ」と述べている[632]。安保騒動で政治不信に陥っていた日本人一人ひとりに、自らが豊かになる道筋を実感させた[196]。大胆とも思える数値目標を挙げて次代の日本の姿を示した点が評価される[653]。
60年安保で高揚した「反体制」「反政府」のエネルギーは、池田内閣のさまざまな施策の前に、なし崩し的に拡散した[643]。「反体制」の闘争が最も激しかった6月から、まだ半年ほどしか経っていない1960年12月、その理論的支柱の一人と目されていた法政大学助教授・松下圭一は『朝日ジャーナル』に「安保直後の政治状況」という論文を書き「池田内閣は"安保から経済成長へと完全に政治気流のチェンジオブペースをやってのけたかのごとき観"がある」と、ある種の無念さを込めて記した[643]。日本中が左翼のようになり、インテリは早く共産主義革命が起きて欲しいと考えていたような時代に[654]、池田が混乱した社会を安定化させようと「所得倍増計画」のような、資本主義のままで年収を二倍にするとという政策を打ち出して、本当にそれが実現してしまったので、革命前夜みたいな状況がリアルな革命運動に向かっていかなかったとも論じられる[654]。岸以前の吉田茂・鳩山一郎の関心はもっぱら独立と戦後処理の外交で、内政面での政策はほぼ各省の立案に従っていた[255]。吉田内閣は講和独立、鳩山内閣は日ソ国交回復、岸内閣は安保改定と、歴代内閣はいずれもハイポリティックスのレベルで大きな課題を処理してきたため、池田も当然、政治・軍事を中心とする外交の手腕が問われると考えられていた[641]。今でこそ、経済成長を掲げる首相は珍しくないが[655]、池田まで経済政策を全面に押し出す首相はいなかった[255][629]。池田は政治に経済を持ち込んだ初めての政治家だった[227]。池田は独自のブレーンによって政策を構想し、政権に就任するとそれを実行するスタイルを初めて明確にした[255][656]。池田は「日本らしさ=経済」に変えていく青写真を持ち、軍隊のない日本は、政治よりも経済をアイデンティティーにすべきという明確なビジョンを持っていた[629][641][657]。政治から経済成長への"チェンジオブペース"を見事に演出した池田は、日本の経済成長が、日米安保の存在により軽軍備に抑えられていたからこそ可能になったという「日米安保効用論」を打ち出すことによって、安保の問題を経済成長に取り込んだのである[390]。
池田はそれ以前の首相にような戦前に政治活動歴がなく[234]、敗戦後に政界に入った政治家としては、最初の首相であり、その意味では厳密な意味での「戦後派首相」第1号である[264][311]。それまでの歴代首相には多かれ少なかれ、戦前回帰型の発想が見られたが、池田は「所得倍増論」を提起することによって、経済成長中心の「戦後型政治」を軌道に乗せた[264][658]。とかく「ゼニカネのこと」を軽視、蔑視しがちだった、それまでの政治指導者とは、ひと味違った政治目標を掲げたといえる[264]。岸が「政治の季節」を演出したとすれば、池田は「経済の季節」にギアを切り替え、日本が経済的実力を付けるのに貢献した[264][255][642]。これは戦後史の重大な局面転換であった[641]。自民党がこのように全く違った個性を持つ「総理・総裁」を起用して、国民の批判をかわす「振り子」の手法は田中角栄から三木武夫へのバトンタッチした時にも使われ、自民党が長期政権を維持したカギの一つといえる[312][264]。池田はそれまでの内閣が必ずしも明示しなかった資本主義と社会主義の優劣を政治争点として改めて国民に突きつけ、その選択を迫ったのであるが[259][641]、池田の「所得倍増計画」は肩肘張ったイデオロギー的な議論の対象としてではなく、さしたる抵抗もなく、あっさりと国民の間に浸透した[658][641]。池田政権が発足した1960年は終戦からまだ15年しか経っておらず、選挙権を持つ人全員が戦争の時代を直接知っていた。国民の間には、戦争や戦争を主導した政治権力に対する反発感・嫌悪感がまだ強かったにも関わらずである[659]。「所得倍増計画」は、戦後の首相が掲げたスローガンの中で、最もわかりやすく、かつ説得力もあった[660][263]。誰にでもわかる数字を駆使したことと、池田とそのブレーンたちの演出も効果的だった[641]。高度経済成長は、1950年代後半から始まっていたが、ここに分かりやすい目標を得たことで一段と活気づいた[290]。政府が強気な成長見通しを明確に示したことで、民間企業は投資を拡大し、現実の高度成長を呼んだのである[290]。池田は発言でも舌渦事件を何度も引き起こすなど、歴代首相の話題性ナンバーワンだった[660]。官僚臭を感じさせない、庶民的でガラガラ声のキャラクターも、安保改定で騒然となった世情を一変させることに役立った[660]。あのガラガラ声とともに時代を強力にリードした[227]。池田はテレビを利用して政策をアピールした最初の首相でもあった[198][248]。国民の関心が専ら生活水準の向上に移っていた頃合いを見逃さなかったともいえる[661]。池田は政治を生活の延長にある祝祭空間と見て、その演出を試みる演出家だったとも評される[255]。池田は首相就任後の参議院予算委員会に於いて、所得を2倍にするのではなく、2倍になるような環境を作るのだと答弁した[662]。すなわち経済の成長は国民自身の努力によって実現するものであり、政府の任務は、かかる成長実現への努力を円滑に働かすことのできる環境と条件を整備することにあると明言した[662]。池田の最大の功績は、日本の国民に自信を与え、すすむべき方向を示したこととも評される[662]。「敗戦国」から高度成長を進め「経済大国」「先進国」に変貌していった日本に、そして日本国民のナショナリズムに居場所を与えた[663]。森田実は「ケネディが日本に対しても干渉する考え方を取らなかったため、高度経済成長路線を打ち出した池田内閣の時期が(アメリカの支配を受けない)戦後日本で一番自立していた時期だった」と述べている[113]。
宮澤喜一は「池田さんは占領時代にインフレから日本を救う過程で身につけた自由主義的市場経済の信念に加えて、ケインズの乗数理論を具体化して、投資→雇用・所得・消費→投資の循環と拡大を見事に日本経済の中に実現した」[64][664]、「"所得倍増計画"というのは、ケインズ理論を中心とした政策だが、日本の経済成長、工業化を通じて、完全雇用、高賃金になるという雰囲気をはっきり国民に植え付けて、政策的にそれを誘導したというのが、あの政策の値打ちでしょう。それが池田さんの功績だと思う。池田内閣の時、まさに日本が経済大国になる基礎ができた。戦争が終わって、外地から沢山の人が引き揚げてき、戦後の日本は深刻な失業問題を抱えていた。加えて日本は農業国だったし、この労働力が過剰にあったことが、日本の工業化ひいては所得倍増を可能にした」などと述べている[665]。田中六助は「『国民所得倍増論』というのは、綿密な統計や数字に裏打ちされた政策体系であるが、その端緒を知る者としては、池田さんの意がどこにあったかが理解できる。すなわちそれは、戦後の復興が一段落し、新しい日本の行く道をどう考えるか、ということであり、それにはまず社会を繁栄させ、国民の生活を豊かにすることから始めるということである。それは池田さん自身の財政に対する反省でもあった。昭和30年頃の財政は約一兆円の規模だったが、池田さんは大蔵大臣として32年にそれを大きく突き破る一兆三百七十五億円という積極予算を組んだ。しかしその経験などから、国民に何でも与えるだけではだめだ、自分自身で稼ぎ出す所得を倍増する必要があるという思いが生まれたのであろう。『所得』とか『倍増』とか、あるいは詳細に計算された数字などに眩惑されると、経済至上主義とか、物質万能主義のように見えてしまうが、その原点にはモノで測れない『心』があり、政治哲学としての目標があった」と解説している[666]。前尾繁三郎は「池田さんの功績は、総理大臣自ら先頭に立って推進したということ。それまで経済問題というのは、非常に抽象的で一般に分かりにくい感じだった。その経済問題を正面から政治問題としてクローズアップさせ、総理自ら数字を使って説明したり論争した。彼は数字に対する記憶力がよかったから、朝書類を見て数字を覚え、それを使って説明するから非常に現実的な感じを与えた。1961年にも不況がきたけど、あの時も強い調子でやったので、国民に自信を持たせた」[667]、水田三喜男は「経済を政治問題にして真正面から取り組んだということが池田さんの功績。経済計画というのは吉田さんのときから全部あるんですが、初めて池田さんが自分でマスターして、実行の先頭に立ったというのが特徴です。それまで総理自身がそういう形でやったことがなかったので、当時としては非常に国民に訴えるものがありました」などと述べている[667]。高坂正堯は「『所得倍増計画』は驚くほどの成功をおさめ、国民が豊かな生活を求めて努力するという目ざましい状況が出現した。経済発展は国民の間に存在する唯一のコンセンサスであった。おそらく1960年からの後の数年間は、二つの楽観主義によって特徴づけられる特異な時期として日本の歴史に残るかもしれない。すなわち、ひとつは経済は発展するものだという楽観主義であり、他のひとつは経済が発展すれば国民生活は幸福なものになるという楽観主義である」と論じている[668]。若田部昌澄は「『所得倍増計画』は、これまで日本が行った最大かつ最高の経営成長戦略であり、効率化政策と再分配政策をうまく組み合わせたもの。それが裁量的な計画・統制によるものではなかったことは、経済学的知見に一致している。それにより実現したのは、史上もっとも成功した構造改革(産業構造の転換、生産性の向上、経営の近代化)であり、二重構造と言われる経済格差の縮小だった。池田にとって、経済成長はそれ自体が目的ではなかった。敗戦を経験した国民が"国としての誇り"を取り戻すための手段、それが池田にとっての経済成長だった」と論じている[669]。京極純一は「池田内閣は経済成長、所得倍増、月給二倍というナショナル・コンセンサスを確立して安保騒動の混乱を収拾しました。外交、防衛、治安といった天下国家の問題ではなく、所得倍増という経済生活の問題で国民統合を実現したのは、日本の政治の画期的な転換でした。これからあと、日本の政治の中心問題は、高成長か低成長か、赤字財政か財政再建か、といった経済問題に集中します。それは経済テクノクラート主導型政治の開幕でもありました。こうして戦後議会政治の上演するドラマのA、経済成長が定着しました。そして輸出主導型の経済成長にともなってGNPも大きくなり、それとともに財政規模も大きくなります。ここから、一方で財政というチャネルを使い、公共事業費、交付金、補助金を活用する、全国的な富と文明の分配が政治ドラマの主題Bとして成立します。『地元の面倒を見ることは職業政治家の仕事である』などの今日の政治常識が確立しました」などと論じている[311]。上前淳一郎は「日本の高度成長政策は、池田の自己改造のひとつの産物といえるかも知れない。ひたすら国民から税を取り立てることだけに熱心だった男が、いや、民にはまず与えるべきだと悟る。その結果、所得倍増という桁外れの贈り物ができるようになったのではなかったか(中略)高度成長政策は池田が政治生命を賭けた骨太な日本改造策だった。これほど具体的で、輝きに満ちた政策を引っ下げて登場した首相は、日本の政治史にほかにない。その結実を最後まで見届けずに氏は世を去ったが、もしあの時期に池田勇人を持たなかったら、日本はいまこれほどの成長と繁栄を謳歌していただろうか。むろん、当時の環境と条件の下では、放っておいても日本経済はかなりの成長を遂げたに違いない。しかし、その行方に明確な目標を掲げ、国民の知恵と力を結集して成長をより早く、より大きくしようとしたという意味で、池田勇人の存在は偉大であった」と評している[670]。沢木耕太郎は「60年安保をめぐる社会的混乱は、保守合同後の保守が直面しなければならなかった最初で最大の"危機"だった。この"危機"の時代に総理大臣になった池田は、"所得倍増"という言葉が指し示す方向を明らかにすることで"危機"を逆に"蜜月"の時代に転じる離れ業を演じた。"所得倍増"という言葉自体は60年代の半ばを待たずして風化するが、それ以後も時代は依然として"所得倍増"の射程の中にあった。池田以後のどの保守政治家も"所得倍増"を超える現実的で力強い政治経済上の言葉を発見することができなかったのだ(中略)佐藤内閣の政治経済思想は、池田が1960年代前半に遺したものの無定見の"増補版"にすぎない。仮に佐藤栄作が無定見の増補版だったとすれば、田中角栄の"日本列島改造論"は"所得倍増"の壮大な"増補決定版"であったといえるかもしれない。もしかしたら池田の政治的嫡子は、大平正芳でなく田中角栄だったのかもしれない。しかし田中角栄は遅すぎた、だから悲劇的な"決定版"だったといえる(中略)佐藤以降の権力者たちが、政治的シンボルとしての言葉を考えるとき、常に意識しなくてはならない存在は池田勇人であった」と述べ、それは池田時代から一貫して反池田の旗を振り続けてきた福田赳夫においても例外ではなく、『福田赳夫論』の編著者・佐藤雄一が、政権を手にする直前の福田に「保守にとって池田の政治こそ最高だったのではないだろうか。政策、ブレーン、政治姿勢、どれをとってもよかった。福田さんも池田さんから学ぶべきでないだろうか」と語りかけると福田は、ほんのわずかながら頷いたという。沢木はこの微かな肯定の中には、「保守単独政権の崩壊という60年安保以来の大きな"危機"に直面した福田の、かつてその"危機"を乗り切った政治家としての池田に対する、ある種の畏れのようなものが秘められていたのではなかったか」と論じている[304]。
フランス『ルモンド』は「池田は1960年代に於ける日本の反米エネルギーを経済問題に向かせることに成功した。池田の最大の功績は、日本国民に対して、日本は豊かな社会を実現できる能力を持っていることを教えたことではないか」[182][671]、イギリス『タイムズ』は「池田の在任4年半に、日本経済の成し遂げた驚嘆すべき成功は、ひとえに池田の功績といわなくてはなるまい。世界の目に、日本の新しいイメージを植えつけた」と評した[671]。チャルマーズ・ジョンソンは「池田は戦後日本経済の驚異を生んだ最大の功労者とし、記録されねばならない」と述べている[117]。『サンケイ新聞』元政治部長の吉村克己は「資源、エネルギーもない小さな四つの島国の国民に、やればできるの自信を持たせた功績は、やはり池田ならではのものだった」[665]、「池田の政治的決断は、当時においては思い切った勇気を要する賭けであった(中略)10年後の現在振り返ってみるとき、このような池田的決断は見事な成功をおさめたということができる(中略)成功の主な原因は、やはり池田的構想が当時の日本経済の潜在的成長能力を正しくとらえた点にあると思われる。しかしそれと同時に、計画の発表やそれに対する池田内閣の強力な支持が、人々に成長を前提として行動するという習慣をつけさせたことも無視できない(中略)池田構想の術中に陥った日本経済は、事実的にも心理的にも高度成長の持続を前提とした体質をとるようになった」などと評している[672]。日本経済新聞社は、「池田の"所得倍増計画"は、根拠も実現性もさだかでない最近のそれとは好対照の、本物の成長戦略だった」[196]、『エコノミスト』は「池田内閣の4年半は、日本資本主義発達史上、一つの大きな画期であった。日本経済が先進国的な高度資本主義への急激な構造転換を加速した時期だったからである。戦後十指をこえる経済計画が立てられたが『国民所得倍増計画』ほど影響を持ったものはない」と評している[673]。江坂彰は「"月給倍増"なら、その恩恵に与れるのはサラリーマンだけだと思う。しかし"所得倍増"という言葉は、小商工業者や農民にも配慮したスローガンであり、そこに国民全体が豊かになるのだという思想が感じられる。"所得倍増"という言葉の響きが格別によかった」[674]、「戦後強兵の道を捨て(あるいは捨てさせられて)経済の基盤固めに一点集中した池田の戦略は、最良の選択だったはずである。日本はよき敗者の道を、別に卑屈にもならず、驕りもせず、着実に歩んでいくことになった」などと評している[674]。橋本五郎は「政権構想の戦後最大のヒットは、なんといっても池田内閣の『所得倍増計画』でしょう。政治的に行き詰まり、国民がどちらの方向を向いたらいいのか探しあぐねていたときに、生きる希望を与えられたといっても過言ではありません」[675]、星浩は「これからはイデオロギーではなく、経済でいくという提示するタイミングが絶妙でした。『所得倍増』というのは具体的で魅力的で、みなが実現可能なスローガンに感じられたのです。そして実際に成し遂げられた」[675]、飯尾潤は「池田は政策の優先順位を明確に変えようとした。しかも"安保"を捨てたわけではない。非常にしたたかな計算に基づいて政治の重心の転換を図ったところに大きな意義があります」[675]、渡邉恒雄は「池田さんの経済政策が、現在の日本の繁栄を築いたことは間違いないでしょう。池田さん自身、ブレーンを使いながらも、自分自身で高度経済成長政策を考え、財政均衡を考えていたと思うよ(中略)池田さんは口癖のように『私は嘘を申しません』と言っていたけれど、本当に言ったことは守り、実行した人だった」などと評している[661]。三宅久之は「政治家が小粒になった。池田勇人は所得倍増を言って、その通りにした。有言実行だ。いまはみんな選挙のことばかり考えている。派閥全盛がなつかしい面もある」と話した[676]、筆坂秀世は「誰の経済政策が優れていたか1人に絞るなら、やはり池田勇人」[446]、田原総一朗は「池田内閣の『所得倍増計画』から日本の高度成長が始まった。この高度成長によって、戦後日本の繁栄、そして現在の日本の基礎をつくることができた」[98]、池上彰は、池田を「高度経済成長の立役者」と評している[2]。沢木耕太郎は「所得倍増計画」を「戦後最大のコピー」と評している[198][237][274][677]。「所得倍増計画」は2015年現在でも圧倒的知名度を誇り[196]、キャッチコピーとしても言葉してもよく引用される[678][679]。安倍晋三は第2次安倍内閣において成長戦略を打ち出すにあたり「『所得倍増計画』に匹敵する目標はないか」と秘書官に指示したとされる[680]。小林吉弥は池田を「第二次大戦後の敗戦経済、虚脱社会の真っ只中で政治家として登場し、日本経済の歴史的勃興期にあたって所得倍増政策を推進、絢爛の高度成長社会"経済大国日本"へのレールを敷くに至る、いわば日本経済革命というべきわが国史上初の歴史的実験の施行者」と表現している[681]。宮澤は「戦後の日本が世界史に残したものは、奇蹟的な経済成長であろう。その象徴である池田首相の『所得倍増計画』は、ただ過ぎ去った歴史であるだけではなく、今日もなお第二の日本たらんとする開発途上国にとって生きている手本である」と述べている[64]。池田といえば、『所得倍増計画』という内政面で語られることが多いが、外交面でも、その後の日本を形作った点も忘れてはならない[682]。フランスのド・ゴール大統領から「トランジスタのセールスマン」と揶揄された逸話が有名であるが[251][515][683]、これは池田がソニーの最新のトランジスタラジオを首脳会談で売り込んだことで、ドゴールが側近にそう漏らしたと反ドゴール派の『フィガロ』が記事にしたものが日本の新聞に紹介され有名になったもので[512][684][685]、池田の帰国後、日本で大騒ぎになり、多くの日本人は嫌な思いをした[682]。しかし八幡和郎は「当時は首脳が経済について語ることが珍しかったためにド・ゴールも意外に思ったもので、その後同じフランスのジスカール・デスタン大統領は、経済を主題にしたサミット(先進国首脳会議)を始めて日本をメンバーにしてくれたし、ミッテランやシラクは"エアバスのセールスマン"として何機売ったかを海外訪問の成果として誇った。経済外交重視は世界的にみてもその後の大きな流れになったことから、池田は世界の外交史の中で先駆者であり、世界史的偉人である」と評価している[682]。池田の経済優先の発想は今日まで続いており[352]、日本が経済大国を実現できたのも「吉田ドクトリン」というよりも「池田ドクトリン」の所産ともいわれる[182]。1965年、愛弟子・池田の逝去の報を受け、吉田茂は「今日の繁栄は池田君に負うことが多かった」と呟いたといわれる[198]。下村治は、池田死去翌日の日経新聞に追悼文を寄せ「池田勇人が果した歴史的な役割は、日本人が内に秘めていた創造力、建設力を『成長政策』という手段によって引き出し、開花させたことである」と記した[290]。「所得倍増計画」は、首相として最大の仕事は経済に在ると明言していた池田と孤高のエコノミスト下村の巡り合わせによって生まれたものであった[290]。
宮澤喜一は「池田は政治に出て死ぬまで16年しかない」と評しており[255]、池田は戦後政治を短期間で駆け抜けた政治家だった[255]。池田はドッジライン以来の念願の国内経済産業体制の再編と自由化を、まさに"一内閣一仕事"でやり遂げた[259]。池田内閣以後の自民党政権による政治・外交運営は、池田が築いた国内安定と国際的地位を基盤として展開された[256][663][686][687]。池田は戦後日本の原型を、国内経済政策面でも経済外交面でも創り上げたといえる[259][687]。高度経済成長は、池田の後を継いだ佐藤内閣の時期に最盛期を迎えるが[688]、佐藤政権も池田政権という大きな括弧の中に入るともいわれる[687]。その佐藤も池田同様引退後まもなく死去する。両者は1970年代の田中角栄や福田赳夫が1980年代にも穏然たる影響力を持ったのとは対照的である[255]。高度経済成長とともに敗戦と占領の残滓を最終的に清算したのが池田と佐藤といえる[255][574]。池田と佐藤の時代に自民党政権は安定の中で成熟を遂げた[236]。東京オリンピックと大阪万博による大都市圏の開発、公共事業を通じた国土・列島の整備によって自民党は包括政党の道を進めていく[255]。「55年体制」は成立こそ1955年であったものの、その確立は1960年代前半の池田内閣にあった[524][689]。日本の国内政治の基本的な枠組みを作り上げたのが池田であった[686][524][687]。この戦略は、田中角栄、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘ら、その後の内閣にも担われることになる[265][323][328][255][328][686][690]。「池田時代に、経済発展を国家目標の中心に置いた政治が始まった。田中角栄はその子である」[688]、「田中の『日本列島改造論』は池田の『所得倍増計画』の延長線上にある」[688]、「『日本列島改造論』は『所得倍増計画』の地方版」[352][681]、「池田の後に登場した政権の大半はイデオロギーなしの、無定見な高度成長を追い求めていた」などと評される[675][688][691]。経済成長による社会の多様化は、自民党内に於いては党内派閥の分散化にとどまり、野党の方が多党化していくことで、自民党支配を維持させていくことになった[255][336]。田中浩は「池田内閣登場以後、日本政治は、ほとんど"事なかれ主義"を旨とする安全運転、無風状態が続き、保守の安定化(資本主義体制確立化)の道をたどっている」と論じている[400]。この時期に派閥政治が確立し[255]、閣僚や国会、党内での主要役職を当選回数によって配分する制度化も進み、議員の個人後援会が普及し、二世議員が増えていく[255]。宏池会第7代会長・古賀誠は池田を「政治家として今の自民党の基礎を確立させた人」と評している[198]。
経済政策での功績が語られることが多い池田であるが、ドッジ・ライン、サンフランシスコ講和条約・日米安保の下交渉を経て、池田・ロバートソン会談、池田・ケネディ会談まで、池田は今日の日米体制をつくった最大のキーパーソンでもある[158]。
中曽根康弘は、2008年9月3日付の読売新聞朝刊(13面)に、同年9月1日に辞任会見を行った福田康夫に関する文章を寄稿。文中で「我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする」と述べ、その例えとして、がんで入院して生命力もないという段階においてぎりぎりまで耐え抜いて後継に佐藤栄作を指名した池田を挙げ、政治家としての最後までの志、執念を持つべき、と記した。
1959年12月3日、池田の還暦祝賀会が東京丸の内の東京會舘で開催されたが、これを主催したのが共同通信の和田清好、産経新聞の吉村克己、毎日新聞の土師二三生、日本経済新聞の田中六助で、発起人代表として板倉卓造、小汀利得、吉田秀雄、東畑精一が名を連ねた[692]。案内先は新聞、放送、出版とマスメディアに限り、出席者は400人近くにのぼった。池田の祝賀会であれば財界主体が通常だが、敢えて常識を破る試みであった。政界人のお祝いに、言論界の長老が発起人を引き受けたことも異例だった。吉田内閣以来、とくにマスメディアに不評だった池田の祝賀会にこれだけ集まったことは「岸政権後の池田本命」が世間一般の印象となる契機となり、マスメディアに認知されたことが、池田政権の発場する最大の要件となって生きた[692]。
1950年代も終わろうとするこの還暦祝賀会のスピーチで池田は「次にくる日本の10年間は、日本人が一度も味わったことのない豊かな時代になる。日本経済はかつてない飛躍的な成長を遂げるはずだ」と述べた[642][693]。日本が黄金時代を迎えようとしている時期に政権を握り、自分の手で「黄金の'60年代」をつくり出す場面を本気で胸に描いていた[693]。池田の65年間の軌跡を振り返ると、地獄と天国を行き来するような浮き沈みの激しい人生だった。前半生と後半生はまるで彩りが異なり、前半は不運の悪魔に憑りつかれ、逆に後半は一転して幸運が舞い込み続ける人生航路だった[693]。
堺屋太一は、著書『日本を創った12人』で、聖徳太子、源頼朝、織田信長、徳川家康、マッカーサー、松下幸之助らとともに、唯一の政治家として池田勇人を挙げ、その理由として、「現在われわれが生きている戦後の日本を、経済大国へ導き、実績として経済成長の実現もさることながら『所得倍増計画』の策定によって『経済大国』を日本の理想に据えた点が最重要である」と述べている[1]。負の遺産として「経済発展に貢献する一方、すべてに金銭が優先する価値観を生むことになり"金権体質社会"を作り出した。池田の果たした役割は、日本社会の理念と倫理を決定する上で、歴代総理の中でも、最も大きかったのではないか、戦後の総理大臣としてよく取り上げられるのは、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄の四人で、吉田茂が大きな存在だが、その重要な政治決定はほとんどが占領軍、つまりマッカーサーから出ていた。それに比べて池田は、自らの発想と手腕で今日の日本人の心や生き方、あるいは日本の社会の在り方や動き方に大きな影響を残した」[1]、「池田が総理大臣であったのは4年3ヵ月、吉田茂や佐藤栄作よりはずっと短い。しかし、この男の植え付けた経済優先思想と、それを実現する官僚主導の仕組みは、今日も揺るぎなく続いている」と述べている[694]。
宮内義彦、八幡和郎は、池田を日本の歴代最高の総理大臣と評価している[695]。御厨貴は「戦後最も成功した首相は池田勇人。吉田茂の果実をうまく育てた。権力を行使していると見せずに行使した」と評している[696]。片岡剛士、倉山満は、池田を戦後最高の総理大臣として推している[697]。宇治敏彦は「いま呼び戻したい総理は、大平正芳、宮澤喜一ら、最高の側近がいた池田勇人」と述べている[698]。八幡和郎は、著書『本当は偉くない?世界の歴史人物 : 世界史に影響を与えた68人の通信簿」で、"世界史に影響を与えた68人"のうち、東洋人を7人を選び、うち日本人2人を明治天皇とともに池田を選んでいる[699]。
語録
池田勇人の語録には、後世に歴史的失言として記憶されているものや、当時の流行語にまでなった有名な発言などが多い[63][128][198][251]。
- 貧乏人は麦を食え
- 第三次吉田内閣で吉田は一年生議員の池田を大蔵大臣に抜擢して世間を驚かせたが、池田は有能な大蔵官僚であっても政治家としては駆け出しで、発言に脇の甘さが目立った。
- 1950年12月7日の参議院予算委員会で社会党の木村禧八郎議員が高騰する生産者米価に対する蔵相の所見をただした。この質疑応答を池田は「所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります」と締めくくったが、これが吉田政権に対して厳しい態度を取っていた新聞を刺激した[128]。
- 翌日の朝刊は「貧乏人は麦を食え」という見出しで池田の発言を紹介、これが池田自身の発言のように伝わってしまい、各方面から強い批判を受けることになった[700]。この発言をしたとき宮澤は「ちょっと総理大臣になるのは無理じゃなかろうかなと思った」と述べている[262]。
○木村禧八郎君 (略)米価を特に上げる、併し麦とか何とかは余り上げない。こういう食糧の価格体系について大蔵大臣には、何かほかに重要な理由があるのではなかろうか。この点をお伺いしたいと思います。
○国務大臣(池田勇人君) 日本の経済を国際的に見まして立派なものにしたいというのが私の念願であるのであります。別に他意はございません。米と麦との価格の問題につきましても、日本古来の習慣に合つたようなやり方をして行きたい。(略)麦は大体国際価格になつている。米を何としても値段を上げて、それが日本経済再建のマイナスにならないように、徐々に上げて行きたいというのが私の念願であります。ほかに他意はございません。私は衆議院の大蔵委員会に約束しておりますから、ちよつと……、又来ますから……。
○木村禧八郎君 それじや一言だけ……、只今日本の古来の考え方に従つてやるのだという、その点はどういう意味なんですか。
○国務大臣(池田勇人君) 御承知の通りに戰争前は、米一〇〇に対しまして麦は六四%ぐらいの。パーセンテージであります。それが今は米一〇〇に対して小麦は九五、大麦は八五ということになつております。そうして日本の国民全体の、上から下と言つては何でございますが、大所得者も小所得者も同じような米麦の比率でやつております。これは完全な統制であります。私は所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります。 — 1950年(昭和25年)12月7日 参議院予算委員会[701]
- 中小企業の五人や十人…
- 2年後の第三次改造内閣で池田は通産大臣になっていたが、1952年11月27日の衆院本会議で右派社会党の加藤勘十の質問に対し、池田は「正常な経済原則によらぬことをやっている方がおられた場合において、それが倒産して、また倒産から思い余って自殺するようなことがあっても、お気の毒でございますが、止むを得ないということははっきり申し上げます」と答弁した[128]。
- これに対して野党からは「中小企業を倒産させてよいのか」というヤジと怒号が飛び、議場は一時騒然となった。翌日の新聞はまたしても「中小企業の五人や十人自殺してもやむを得ない」とこれを報道。
- これを受けて野党が提出した池田通産相不信任案が自由党反主流派の欠席によって可決されると、池田は辞任に追い込まれた。その後池田は自宅に引きこもってしまったが、宮沢喜一秘書官の証言では「これで終わった。明日は土曜日だな。週末旅行でもするか。」と話して[702]さばさばした様子であった[703]。なおこの辞任記者会見の際に「私は正直すぎた。政治家として終戦以後色々あったが政治家には向いていないのかもしれない。」という政治の道を諦めるかのような発言をしている。
- 経済のことはこの池田にお任せください
- 池田は総理となると政治的論争となりうる安保と9条問題を早々と棚上げして、国民の目を経済に向けさせるべく街頭演説やテレビ討論会などでこう力説した[260][251]。有名なこのセリフは、世の反発を呼ばず、そのまままかり通っていた[200]。
- 低姿勢
- 私はウソは申しません
- 池田はテレビを本格的に活用しようとした最初の首相である[248]。池田は1960年の総選挙に於いて、ケネディとニクソンの大統領選でのディベートを模倣して行われた「三党首テレビ討論会」に出演した。これは社会党の江田三郎の申し出に対して、泥仕合にならないならという条件で受けたものであったが、1960年11月20日の第29回総選挙に先立っては自ら自民党のテレビCMに登場して、本音しか言えない池田というイメージを逆手に取って「私はウソは申しません」と言い切った[128]。これらいずれもが当時の流行語となり、これが世論を背景にした政権運営という新しいスタイルに先鞭を付けるものともなった[198]。翌1961年には、NHK専務理事の提案により、『総理と語る』を開始した[704]。この番組は、ルーズベルトがおこなった『炉辺談話』というラジオにならって、首相がくつろいだ気分で国民に語りかけることを目的とした番組であった。他にもテレビを意識してメガネを変えるなど、テレビを通じて親しみやすい首相イメージを作り出そうとした[248]。
- 国のためになることなら…
- 総理就任後「寛容と忍耐」を政治理念に掲げた池田は周囲に「国のためになることなら、電信柱にもお辞儀するつもりで総裁になったんだ」と話した[309]。
- 君は…
- 浅沼稲次郎暗殺事件の発生をうけて池田が衆院本会議場で行った追悼演説は、故人に対して「君」とよびかけ、大正末年に浅沼の友人[注釈 7][705][706]が浅沼のことをうたった詩「沼は演説百姓よ、よごれた服にボロカバン、きょうは本所の公会堂、あすは京都の辻の寺」を引用するなど型破りな演説で、社会党議員が涙を拭うほどだった。池田のこの演説は今日でも国会における追悼演説の傑作のひとつに数えられる名演説として知られている[309][注釈 8]。
- 山より大きな猪…
- 政治家としての池田はたびたび難局に直面したが、一度も逃げたことはなかった。そのつど周りに「なに、山より大きな猪は出ないよ」と口癖のように言った[707]。どんな大きい猪、つまり難局が向うからやってきても、そいつが普段隠れている山より大きいことは有り得ない、人は猪の勢いだけに気をとられるて怯えるが、大局から見れば大したことはないという比喩で、元は郷里の農夫たちのいいならわしだったとされる[707]。池田は亥年生まれで猪が好きで、自宅の居間にはいつも猪を描いた掛軸を下げていた。池田自身、猪突猛進の積極論者でもあり、この台詞はいかにも池田にふさわしい[707]。
- 国づくりとは人づくりである
- 第2次池田内閣時代の1962年8月10日の国会衆議院本会議に於ける所信表明演説で「国づくりの根本たる人づくりに全力を尽くす」と述べ[708][709]、その考えを根幹に同年10月、池田の私的諮問機関である「国づくり懇談会」を[710]、12月5日に「人づくり懇談会」を創設し「期待される人間像」を掲げて、文教政策、児童政策に重点を置くことを指示した[220][383][438][711]。敗戦の焼け野原にあって、国民は食うために何でもした。池田の仕事はまず経済の復興になってしまった[712]。これが一応実現し、次に何かと文教の刷新を考え、日本がしっかりした国になるには、経済的独立の奥の精神の独立が必要だと「人づくり」という発想が生まれた[712][713]。また安定成長論で池田を揺さぶる福田赳夫ら党内批判勢力の「池田内閣の所得倍増政策は物質万能主義であり、日本民族の精神を荒廃させるもの」とする声に対抗する術でもあった[714]。池田の思いは文教の刷新にあり、占領政策や、それに便乗する日教組の教育方針を正すことではあったが、真の願いは日本人と精神の独立であった[712]。人格育成に重点が置かれたのは、池田が「西欧には宗教と結んだ道徳観があるが、日本には戦前は儒教と神道にささえられた教育勅語があったが、今はそれがない」と憂いていたためで[715]、当時青少年犯罪が社会問題となりつつあったことも背景にあった[716]。池田内閣の時代に全国的に統一した教育カリキュラムが徹底されている[476]。とかく経済成長のみを重視した印象が強い池田だが、国民道徳の確立にも目を向けていた[717]。しかし肉付けする役割を持つブレーンたちがこの分野は得手ではなく[710]、この方針は、佐藤、田中両内閣まで引き継がれたものの[718]、「国づくりとは人づくり」という哲学的命題は上手くいかなかったとする評価もある[403][719][720]。
池田はマスコミが面白おかしく発言を曲げても怒らなかった。これがマスコミにも人気を得た理由といわれる[721]。池上彰は「わかりやすい言葉で聴衆の心をとらえる抜群の発信力が、池田の魅力のひとつだった」と評している[251]。
逸話
人物
- 旧制五高在学当時、酒代があまりかかるので、趣味と実益を兼ねてそば屋と一杯飲み屋の屋台を開業することを発案[81]。「池田屋」と称した。しかし友人達にツケで飲ませ自身も一緒に飲むといった放漫経営で、わずか3日でつぶれた[81]。のちに自らの派閥「宏池会」を率いる親分肌が表れたエピソードである[251]。
- 同じ造り酒屋の出なのに、池田とは反対に酒をほとんど飲めず、酒席でも打ち解けられなかった佐藤栄作は池田に「そんなに飲んでると家が潰れるぞ」とからかうと池田は「ばかをいえ、味見もせんで人さまに売れるか」とガブガブ飲んだ[319]。旧制五高の学生そのままのバンカラ気風の上、一連の放言癖。英語にも滅法弱く「エチケット」を「エケチット」と"発音"し、周囲を大いにうならせた[722]。粗野で強気で、あちこちに圧力をかけまくることから「圧力釜」という渾名もあった[723]。
- 首相になると大平に待合とゴルフを禁止させられたが、煙草も酒も大好きで死の直前まで止めなかった。火鉢の灰に林立させる程のヘビースモーカーかつ、酒乱の逸話を多く残す宮澤喜一も苦笑するほどの酒好きであった[724]。
- 池田は宮澤が大蔵省に入った時の身元保証人だったが「池田勇人なんて、当時(昭和16年)誰も将来、出世するとも思っていなくて、どうしてこの人に保証人になってもらったのかと聞かれたことがある」と話していた[725]。
- 苦難の多い前半生もあって、大蔵官僚出身とは思えないほどさばけた気さくな性格だった。池田を「ディスインテリ」という造語で評した宮沢によれば、池田は「(本当はそんなことはないのだが)自分が秀才ではないと思い込んでしまった人」と表現している[726]。それが、人の話をよく聞くという非常に優れた能力を作り出した。自分の話をよく聞いてくれるということが、また人のやる気を起こさせ、高い地位にあっても、自然に周囲に有能な人物を集めることになった[726]。宮澤は「それがあの人の将たる器なのかもしれませんが」と話している。しかし1960年の総裁選では、池田は周囲の意見に耳を貸そうとしなかったという[726]。池田をからかった「ディスインテリ」「非インテリ」などの渾名、「池田は書籍は読まない。読むのは書類だけだ」というジョークは宮澤の作といわれている[727]。
- 陰に陽に池田の政策をサポートした宮澤喜一は宮澤は「この人のためならと思って、一生懸命やったと思う。こんなことは一生に何回もないんで、私はいっぺんでもあったということが幸せだったと思ってるんです。ところが、そう思った人は私ばかりじゃなくて、たくさんいましてね。そう思わせるところが、池田さんの偉いところじゃないですか」などと話している[262]。
- 出世レースに遅れ、苦難の連続だった大蔵官僚時代であるが、人柄から省内での人気は抜群ではあった[14]。池田のブレーンに大蔵官僚出身者が集結したのはこれが理由の一つである。
- 池田が最も心を許したのは、同じ明治32年の亥年生まれで集まる亥の「二黒会」のメンバー、小林中、水野成夫、小池厚之助、堀田庄三、東畑精一で、池田が総理になってからも「おまえ」「おれ」と呼び合う仲であったが、この中でも池田が一番の酒豪であったという[728]。池田が亡くなると急に淋しくなり、話が上手な水野が亡くなると集まることがなくなったという[262]。
- とにかく家の中は人で溢れていた[729]。朝は6時に郷里広島の人たちが夜行列車で東京に着くとそのまま池田邸に訪ねて来るので、やかん酒とスルメを出して長旅を労った[729]。夕食後には大蔵省や通産省など省庁の人たちと勉強会[729]。入れ替わりに番記者の人たちと夜中1時頃まで懇談が続く[729]。毎日何10人と人が来るので魚屋では間に合わず、娘の紀子が長靴を履いて築地魚河岸に通い箱ごと魚を買って帰り家で捌いてお客さんに出した[729]。
- 「貧乏人は麦を食え」といった大臣というイメージが付いてまわり、大宅壮一が池田を「没人間味でのし上がった男」「ヒューマニズムというものが全然欠けている」などと表現し、それがマスコミの態度によって増幅され、当時のジャーナリストは池田を毛嫌いする人が多く、池田に好感を持つ人はほとんどいなかった[670]。
- 閣僚時代はとても威張り、新聞記者に対しても見下した態度をとっていたが、総理になるといい方に変わり、対等に接するようになった。特に満江夫人が面倒見がいい人で、記者の名前を全員覚えて、池田邸で記者が御馳走になるとお酒を注いで回った。渡邉恒雄は総理の奥さんでそこまでしてくれた人はいなかったと話している[661]。
- 吉田茂の大磯の家に行くと酒を飲んで、吉田に自分の本当の親父と同じような調子で談論風発し、少しの遠慮もない態度でいいたいことを言って、吉田はそれをまたニコニコ笑って聞いているというような間柄だった[730]。佐藤栄作は酒を飲んでも池田のように談論風発という形はなく、徹底的に吉田に師事するという、本当に教えを乞うという態度を最後まで崩さなかったという[730]。吉田の選挙の費用は全て池田が面倒をみていて、選挙が異常な金喰い選挙になっていき、迷惑がかけられないと吉田は政界を引退したといわれる[730]。吉田は1960年の衆議院総選挙で最下位だったこともあって、池田が1964年春に復活を予定していた生存者叙勲で、最高位の大勲位菊花大綬章の贈与が予想されたため、落選でもすると最後が傷つくと、1963年の総選挙で池田が引退を勧告し吉田がこれを受け入れた[731]。
- 舌足らずながらも無邪気さに富み、吸い寄せるように人材を集めた[85]。財界を中心に支持者が多く、政治資金にはまったく困らなかったとも[85]、池田ほど金に恵まれた政治家は戦後一人もいないとも[732]、御手洗辰雄が「いまの保守党政治家が束になっても池田にかなうまい」と言ったともいわれる[733]。1952年の抜き打ち解散を吉田に進言した際、急な話でそれに伴う衆院選の選挙資金調達が間に合わないと心配されたが、池田は「選挙資金は心配いらない」(全員の資金を出すという意味)と説明し、同席の保利茂も大賛成したという笑い話がある[132]。自由党が衆院選で立候補を予定していた公認候補は、現職と新人合わせて300数十人であった[734]。日本の戦後史を飾る政治家の中で、田中角栄が最大の利権家であったと多くの学者やジャーナリストが騒ぐが、田中も池田の資金力には到底及ばないとも評される[733]。
- 愛唱歌は、1938年の松竹映画『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』。出だしと最後の文句が苦闘時代の池田の鬱屈した心理をとらえている。総理になっても酒が入るとこの曲を歌った[735]。
占領下時代
- 太平洋戦争に敗れた3日後の8月18日、内務省の橋本政実・警保局長が各府県の長官(県知事)に、占領軍のためのサービスガールを集めたいと全国で慰安婦を募集、当時大蔵省主税局長だった池田の「いくら必要か」という質問に、野本特殊慰安施設協会副理事長が「1億円くらい」と答えると、池田は「1億円で(日本女性)の純潔が守られるのなら安い」と答え、特殊慰安施設協会が8月27日に東京大森で開業し、1360名の慰安婦がそろったとされる[736]
- 戦災で灰燼に帰した慶應義塾大学医学部の再建に、同大学OBの武見太郎が吉田茂に頼み、一万田尚登と池田を呼んで、「慶應医学部を何とか助けてやってくれ」と頼み、2400万円を貸し付けて再建させたという[737]。
- 占領時代に蔵相だった池田は、国家予算などの重要な話し合いをするためGHQを頻繁に訪問。GHQ経済科学局の局長・ウィリアム・フレデリック・マーカット少将に面会するためで、そんな時、まず約束の2時間前に白洲次郎は、マーカット少将の副官で通訳だったキャピー原田中尉に電話をかけ「マーカット少将のご機嫌はいかがなものか」と尋ねる。原田が「今日はあんまり良くないね」と答えると、白洲の横で話を聞いていた池田が電話を横取り、「今からそちらへ伺います。原田中尉、それまでに少将の機嫌を直しておいてください」と頼む。そして1時間前になると、今度は秘書官だった宮澤喜一から確認の電話があり「間もなく大臣はそちらへ伺います。よろしくお願いします」と念を押す。原田はこういう時、マーカットにさり気なく野球の話題を投げかける。往年の大リーグ選手などの話題を持ち出すと、マーカットは機嫌が悪いことも忘れてスイッチが入り、野球の話に夢中になっていく。最高潮に達するとバットを手に持って上機嫌になり、ちょうどその頃、池田がオフィスに現れて、厄介な話もうまく進むというのがお決まりの段取りであった[79]。
- 1949年3月7日のドッジ・ライン実施後の4月2日、ジョゼフ・ドッジが池田に「昭和24年度予算では、輸出入の補給金を大幅に切ったが、その時自分は、1ドル=330円というレートを仮想して計算してみた」と言うので、池田は「仮想であることは分かっているが、現実のレートとして1ドル=330円は非常にきついと思う、また時期としてもドッジ予算の効果が分かるまで、早くても今年の下半期までは待たねばなるまい。レートは自分としては、せいぜい辛く考えても1ドル=350円でしょうか」と答えた。ドッジは「5月にはアメリカへ帰らなければならない」と言って、それ以後この為替レートの話は、ドッジ・池田の親しい仲でも一度も議論にならず、占領軍司令部の中でもタブーとなっていた。だから同年4月23日の朝刊に、UPIのワシントン電として円の対ドル為替レートを360円として4月25日から実施すると出た時は、すべての日本人及び占領軍の人々にとって、まさに青天のへきれきであった。ドッジから話が洩れてスクープになったらしく事実、4月25日から1ドル=360円が突然実現した。この年9月19日に、英国ポンドが4ドル3セントから2ドル80セントへ大幅に切り下げられた。日本側は池田のところへ、通産大臣、経済安定本部長官、日銀総裁などが集まって相談したが、ドッジ・プラン実施以来4、5ヶ月で、思ったより安定効果が現れており、こちらは1ドル=360円でやれるだろうという自信をみんなが持ち始めており、結局1ドル=360円のレートの変更を要望しないことにした[61]。池田政権で蔵相だった田中角栄が国会で「なぜ、1ドル=360円なのか」と質問され、「円は360度でありますから、360円なのです」と答えたことがある[738]。
- 根津嘉一郎が死去した際、故人の遺志で遺産は寄付されることになっていたが、まず相続してから寄付せよとの税務署の意向に、東京国税局長として故人の遺志を尊重させ、それが甲州系の実業家を動かし吉田内閣への蔵相入閣につながった。小林中は根津美術館建設の税対策担当者として国税課長時代の池田と知り合った[739]。
- 1949年の『ドッジ・ライン』実施については、評価の分かれるところではあるが、ジョゼフ・ドッジと真正面から渡り合い、渡辺武財務官、宮澤喜一秘書官の全能力を駆使して闘った。池田は中川順に「自分の考えを主張し、相手に反駁する時にはね、相手の目をみつめ、コブシで卓を叩き、大声で怒鳴るに限る。相手は言葉は分からなくても、その気迫に押されるんだよ。通訳の方を見て話す、なんて無意味だね」と話していたという[740]。
- 日本の戦後税制に大きな影響を与えた『シャウプ勧告』は、富裕税、付加価値税、資産再評価税等々、新しいことばかりの革新的なもので、担当の新聞記者にとって、その解説記事の記述などは至難の業で頭を抱えた。しかし池田は税畑育ち、税は得意の分野でもあり、シャウプ折衝でも、自信満々の態度で、税エキスパートの平田敬一郎主税局長、原純夫税制一課長を駆使して体当たりした。池田の税自慢は有名で、1961年の池田・ケネディ共同声明合意のため渡米するに当たって「ケネディに税制を教えに行ってくるよ」と吹いていたという。大蔵省の省議でも、税の問題で議論を交わす場合、池田の話を理解できるのは平田主税局長だけだったという[740]。
- 1949年8月27日に出された1回目の『シャウプ勧告』の報告書にあった「net worth tax」を「富裕税」と日本語に訳したのは池田だという[741]。内容からいけば"財産税"であるが、1946年に導入された「財産税」が封鎖預金の騒ぎを起こしたため、池田がこれを避けて、辞書で代わりになる言葉を調べ、最初「富有税」としたが、柿の名前のようなので"有"にあたる字を調べると"裕"を見つけ「富裕税」とした[741]。"裕"という難しい字が常用漢字に残っているのを不思議に思ったが「天皇陛下のお名前の故と思う」と話している。「富裕税」は1950年に導入され1952年に廃止された。
- 蔵相時代、いずれも後の総理になる大平正芳、宮澤喜一を秘書官に配し、対外折衝の要衝財務官に渡辺武、ブレーンの官房調査スタッフに石野信一、下村治らを擁して、磐石の政策決定構造を持った[740][742]。池田は人の使い方が非常に上手く、この総合戦力で、ドッジ、シャウプ時代を切り抜け、困難な戦後インフレの処理からデフレの調整に至る、最大の混乱時代に対処、克服し、高度成長期の素地を培ったのである[60][740]。
- かつての大蔵省の正門の銘版は昭和39年当時首相であった池田の筆によるものである[743]。
閣僚時代
- 1951年、日本医師会の田宮猛雄会長、武見太郎副会長が健保の診療報酬の大幅引き上げを迫って来た[744]。武見は既に実力派で、吉田に働きかけるなどでバリバリ政府を押しまくった。政府側で受けて立ったのが蔵相の池田で、厚生大臣の橋本龍伍、池田、田宮猛雄との三者会談が連日のように開かれた。税制のプロ・池田は一点単価18円40銭などとても呑めないと一歩も譲らず、両者の主張には大きな開きがあったが、吉田が「医療は大事な問題だから何とかしてやれ」と池田を説得にかかり、最終局面で池田が決断を下し「わかった。差額は税で措置する。まかせて欲しい」と胸をたたき、日本医師会の要求と池田の主張との間にあった5円90銭分72%、診療報酬の72%までを必要経費として認めたものが「医師優遇税制」として1954年に導入された[69]。抵抗の気配を見せた大蔵省の事務当局を池田がピシッと抑えたといわれる[745]。その後「医師税制」を抜本的に見直すような力量を持った大蔵大臣は出ず[69]、不公平税制の代表のようにいわれ続け、1974年の第2次田中角栄内閣 (第1次改造)から、改正に向けて議論が本格化したが、日本医師会の強力な抵抗があって先送りが続き[745]、1979年に収入金額に応じて異なる率を導入する形での改善がなされるまでこの税制が続いた[745]。しかし、72%までを必要経費として認めるという60年以上前に池田が決めた基本制度は、今日まで残っている。なお、武見太郎は著書で上記の交渉を大磯の吉田茂邸で、武見と池田の二人で酒を飲みながら決めたと書いているが[70][745]、当時、厚生政務次官として折衝の一部始終を見たという松野頼三の証言を優先した[69]。
- 池田が1953年自由党政調会長時代に政調副会長として仕えた松野頼三は、池田を「官僚離れした知恵者」だったと評し、その後の自身の政策は「池田さんの行動が自身の念頭にあった」と話している[69]。
- 三木武夫とは仲が良く、自由党政調会長時代に改進党の三木とはよく政策調整をやり、1955年の保守合同で同じ自民党になると「おれは自由党の本流、きみは改進党の本流、ともに提携して新しい政治をしよう」とよく秘密に会っていた[178]。その後も共同戦線を張り、第2次池田内閣 (第1次改造)のとき、党近代化を進める党組織調査会の会長に三木を抜擢した。池田が三選なった1964年7月10日の自民党総裁選では、三木政調会長の功績があったことから7月18日に発足した第3次池田内閣 (改造)で、三木を幹事長に抜擢した[746]。他派幹事長のこれがハシリといわれる[746]。
- 蔵相時代の池田の秘書官を務めていた頃の大平正芳は、陽明学者の安岡正篤に歴史上一番偉い秘書官は誰かと質問したところ、安岡は織田信長の草履とりを務めていた間に信長の欠点を知り尽くした豊臣秀吉であると答え、以後、大平は池田の欠点を知り尽くして政治家になるための経験を積んだという[747]。
- 安岡とともに歴代内閣にパイプを持っていた人物に四元義隆がいる[748]。黒幕などと取り上げられる人物であるが、四元が一言「四元です」と電話をかけたら、秘書も側近も用件を聞かずに取り次ぎ、歴代総理が即座に電話に出たといわれる。四元はかつて吉田茂の義父である牧野伸顕を狙ったこともあったが、吉田が何故かかわいがったため、戦後の内閣に影響力を持つようになり、池田が総理のときも、池田邸の人目につかない早朝吉田の内密の手紙を持って来たりした。鬼塚英昭は、四元は迫水久常から派遣された人物と推察している[749]。四元は純粋な右翼で、唯一の事業が田中清玄が設立した神中組という土建会社で、その後三幸建設という社名に変更したが、この会社が経営不振に陥ったとき四元が譲り受け、池田が応援し再建した。四元が池田を揶揄するような記述も見られるが、池田からすれば吉田が四元の話を1時間でも2時間でも熱心に聞くので、我慢して拝聴していただけで「あの人の話は退屈でたまらん」とこぼしていたという[750]。
- 出光興産が商業者から製造業へ転換する切っ掛けとなった出光興産徳山製油所(1957年竣工)建設のための敷地払い下げは、当初、地元の大勢は、石油精製に実績のある昭和石油に傾いていたが、出光佐三の要請を受けた池田や石橋湛山通産大臣、松永安左エ門らの援助により、出光興産が逆転獲得した[751][752]。また1959年、池田が通産大臣のとき、ソ連との長期貿易協定を結び、出光にソ連からの原油輸入を手引きした[752]。
- 1959年、第2次岸内閣改造内閣の通産大臣時代の7月、この年フィデル・カストロとともにバティスタ独裁政権を倒しキューバ革命を成功させたチェ・ゲバラがキューバ特使として7月に来日、池田と帝国ホテルで15分間の会談を行い、ゲバラから「日本にもっと砂糖を買って欲しい」と申し入れられたが「現在の両国貿易は日本側の入超になっている。キューバこそ日本商品をもっと多く買い付けるべきだ」と断った[753]。
- 池田が将来の総理という意識を始めた頃、最もライバル視したのは人脈も豊富で政治家としては池田より格上だった緒方竹虎だったが、緒方はそこへ手が届く直前に突然亡くなった[754][755]。
首相時代
- 1960年、岸信介総裁が辞任し後継総裁を選ぶ際、岸は自身のイニシアチブによって、候補者を一本化することが好ましいと考えたが、池田、大野伴睦、石井光次郎、藤山愛一郎、松村謙三の5人が立候補の意思を示した[756][757][758]。当時の世相は荒れ、誰がやっても失敗は見えていた[97]。安保闘争激化で、池田は自衛隊の治安出動を強く主張したこともあって[235]、池田が首相になったら、岸路線を継承すると見る向きが強かった[759]。自民党の長老的存在だった読売新聞社主・正力松太郎は「この混乱のさなかに強気一点張りの池田に果たして時局の収拾ができるかどうか」と危惧した[726]。宮澤は朝日新聞論説主幹・笠信太郎に呼びつけられ「このような社会が荒れた後は、治者と被治者といった対立をなくすことが必要だと思う。池田さんのような荒武者は、仕事はできるかもしれないが、対立を深める恐れがある。少々仕事はできなくてもいいから、性格の穏健な人に総裁を譲ってもらいたい」と朝日新聞OBの石井光次郎を推薦され、池田に伝えて欲しいと頼まれた[726]。宮澤も「高圧的な岸に続いて横柄なイメージを持つ池田が首相になれば、自民党そのものが致命的な打撃を受けかねない」と考えていたため[760]、笠の進言通り、人心が鎮静する穏やかな人柄の石井を主張した[97]。このように宮澤も大平も総裁公選の立候補には時期尚早と反対していたが[760]、池田は「おれに目には、政権というものが見えるんだよ。おれの前には政権があるんだ」と、己の勝負どきだと直感し忠告を一蹴した[667][674]。時代が今、はっきり自分という男を必要としていることを、当の池田はしっかり見抜いていたのである[674]。大平の忠告を池田が蹴ったのは次官、蔵相就任に続き三度目だった[760]。経済のことなどで世の中を鎮められるとは誰も思っていなかったといわれる[760]。岸は立候補意思を示した5人のうち、池田、大野、石井、藤山の4人に借りがあり(次期総裁を約束した空手形など)[191][220]、一本化は容易でなかった。当初は佐藤栄作も立候補を考えていたが吉田茂に「こういう時代の総裁には正直者を先にした方がいい」と、池田が政権を取っても短命を予想し、吉田に総裁選立候補を自重させられ、池田を支持するよう説得させられていた[726]。佐藤派は「池田が首相になると、佐藤の時代が遠のくのではないか」と危惧し、しかし党人派に政権を渡すことは考慮の外でもあり内部は混乱していた[761]。岸もかねがね弟の佐藤を後継にしたいという気持ちを持っていたが、兄の次にすぐ弟というわけにもいかず、ホンネは気心の知れた盟友で人物もいい藤山がよかったのだが[762]、藤山には力がなく、党内の力関係からいっても藤山ではムリと佐藤が判断し、結局佐藤派は池田支持に回った[762]。岸は表向き中立を装ったが吉田と賀屋興宣と相談し、池田支持を決めていたともいわれる[763][764]。話し合い路線でいけば、岸からの念書を持つ副総裁の大野が暫定的に総裁になる可能性があり、それゆえに池田は話し合いを拒み、公選を主張して頑として話し合いには応じず[765]。大野と石井は話し合いを主張し党内の動きは混沌した。7月5日、まず池田が総裁選立候補を正式に表明すると7月8日に大野が、7月9日には、岸や佐藤におさえられていた藤山が小沢佐重喜、江崎真澄、遠藤三郎らに推され予定通り立候補を表明、同日石井と松村も「反主流派の代表」として三木・松村派に擁せられて立候補を表明した[761]。公選を主張する池田の態度は、極めて高姿勢に映り、公選前の数日間、新聞とテレビで「強情なヤツ」などと凄まじく叩かれた[761]。吉田が池田支持を明らかにすると、大野、石井両派は、2、3位の連合戦線を結成した。池田支持対大野、石井両派の対立が激化したため、川島正次郎幹事長らは、党大会を1960年7月13日に決め、できれば一本化し公選を実施せず、やむを得ない場合は公選を実施することに決めた。岸派は三分裂し、岸、福田赳夫らは佐藤派とともに池田支持、川島正次郎、赤城宗徳らは大野支持、綾部健太郎、南条徳男、武知勇記らは藤山支持、一万田尚登は石井派だった[756]。大会二日前の7月11日、河野一郎の奔走によって、大野、石井、川島、一万田、高碕達之助、正力松太郎の六者が会談し「党人派結集」へ一致、「岸亜流政権反対」「官僚政治反対」を打ち出した[756]。しかし党人派の結集は諸刃の剣であった。支持の範囲を広げる効果を持ったものの、主力の河野や三木武夫は安保の採決の本会議を欠席していた[765]。それは安保に政治生命を賭けた岸にとって許しがたい行為であった[765]。岸は特に三木を「世の中で一番嫌いな奴」と異常に嫌っていた[766]。池田支持派の参謀は佐藤、石井支持派の起動力は河野であった。実際に佐藤派を引っ張って池田支持にまとめたのは田中角栄といわれる[762]。田中の政界での栄達は池田内閣を起点とする[767]。公選となった場合、池田派、石井派、大野派はいづれも自分の陣営が当選するとシミュレーションしていた[220]。7月12日の深更に事態は急転した。大野、石井両派は、2、3位連合を組めば勝算は充分あると踏んでいたが、石井派は参議院議員が池田派に切り崩されて戦える状況になく、石井の指示を受けた灘尾弘吉が大野派の参謀である水田三喜男、青木正、村上勇らと会い「大野派が2、3位連合に期待しても、石井派は期待に応えられる状況にない」と伝えて来た[220]。石井派との2、3位連合にメドが立たないと大野の勝算はない。未明にもかかわらず、川島や河野も駆けつけて大野を中心に大評定が始まり、河野が大野を説得し7月13日の明け方6時半に大野が立候補を辞退した[758][768]。松村もこれに応じて出馬を取りやめ、三木・松村派は石井支持を表明し[502]、岸、池田、佐藤の官僚派連合に対抗し、候補者を石井に一本化して党人派連合を組む方針を決定[220]。河野、川島らは党人派を結集するため、党大会を明7月14日まで延期することを申し入れた[769]。会場の産経ホールでの党人派の盛り上がりはすさまじく「池田は負けた」と囁かれた。しかし党人派は策戦を間違えた。予定通りこの日に党人派が「勝った、勝った」と会場に雪崩れ込み、そのまま公選に持ち込んでいたら、石井が当選していたといわれる[756]。ところが産経ホールはこの日の夜、藤原義江のリサイタルが予定されていて長くは使えず、このため党人派は1日延期する方を選んだ[769]。この一夜のうち、岸、佐藤らは池田派の体制立て直しをやった。池田と親しくかつ河野一郎をかねてから警戒していた「財界四天王」を中心とする財界主流が、熱心に岸を口説いた[308][756]。これを受け、それまで池田派のとりまとめを佐藤一人に任せていた岸が、岸派60人を集め、もう一度再結集して池田を支持するよう説得[760][770]。この戦略が成功し党人派の産婆役の一人だった川島正次郎も、あっさり仲間を引き連れて池田の支持に回った[771][772]。松野頼三は「岸は池田に色々虐められたから池田を快しとしていなかったが、遠縁でもある吉田に『次は池田にしてやってくれ』と頼まれていた」と述べている[773]。藤山派は「筋を通す」建て前から、立候補は辞退せず[758]、第二回投票では池田支持という態度を明らかにするなど、池田支持派が一気に巻き返した。池田陣営は財界主流をバックに総額10億円ともいわれる空前の実弾爆弾を仕掛けたとされる[769]。これに対して大野が用意した実弾は3億円だったとされる[771]。後で川島は大野に3000万円返したという[769]。但し宏池会の裏方を任された大平は池田に「"ビタ一文、金を使うようなことは相ならん"と言われ、事実その通り実行した」と述べている[774]。こうして1960年7月14日、会場を日比谷公会堂に移して総裁選挙が行われ、池田が大勝、激しい権力争いの末、池田が総理の椅子に就いた[775]。保守本流の危機を突破する役割を池田が果しえた主因は、勿論運もあるが、池田の決断とブレーンの後押しにあったといえる[760]。その日の午後、首相官邸における新総裁披露宴の最中、岸はテロに見舞われ重傷を負った[776]。
- 総裁選に際して、池田は同郷の先輩政治家肥田琢司に協力要請をした。岩淵辰雄は「池田勇人氏を再び岸内閣に迎え、安保条約の成立では、池田氏が身を挺してこれを支持したことであったが、それも肥田さんの努力の賜物であったし、岸内閣のあとに池田内閣が成立したのも肥田さんの力に負うものが大部分であった」と述べており[777]、池田から協力を懇願されてた肥田は人脈を生かした工作に加えて資金面でも大きく貢献した[778]。
- この総裁選の後、当時、自民党政治家のゴーストライターをやっていた渡邉恒雄に『サンデー毎日』から、大野伴睦の名前で、池田の金権政治に抗議するという内容の手記を書いてくれという注文がきた[779]。大野は鷹揚で「大野さん、『サンデー毎日』から手記を頼まれましたけども、書いていいですか」と渡邉が聞いたら「おう、適当に書いておいてくれ」という調子で、「原稿を見てくれませんか」と言っても「いい、いい、任せた」などと言われた。それで大野の手記の体裁で『サンデー毎日』1960年7月31日号に「陰謀政治は許されない 伴睦ここに大死一番」というタイトルで30枚の記事を書いた。当時の渡邊の原稿料は1枚千円だったが、大野の名前で書いた原稿料は1枚1万円で30万円になった。渡邊の月給は当時2万円だったので、思わぬ大金が入り毎晩後輩記者を飲ませていたら「渡邊が派閥を作っている」と言われたという[779]。なお、大野は池田が一年生ながら大蔵大臣に抜擢された際に、猛反発する党人派を宥めて池田を推したことから、大野と池田は仲が良く、大野が「池田は正々堂々と(?)戦ってくれた。池田に恨みは全くない」と渡邊に「池田に言って衆議院議長を取ってきてくれ」と頼み、渡邊が仲の良い大平に頼んだが、衆議院議長はダメで副総理を予定したが、佐藤栄作が反対し、1962年の第2次池田内閣 (第2次改造)のとき、副総理に就任している[772]。
- 池田は国民の間には「貧乏人は麦を食え、と放言した嫌なヤツ」という強烈な印象が残っていた[16]。岸内閣の安保強行採択で、人心はささくれ立っていて、岸の後に池田と二代も続けて官僚出身の政権が出来ることに辟易していたのが実情だった[16]。このため首相になるにあたって、放言癖や前岸内閣で傷ついた政府のイメージを払拭し、親しみやすさをアピールすることに努めた。池田のエリート臭を消すため、大平が苦心の演出を駆使した[245]。大平と並んで首相官邸の食堂で昼食のカレーライスを食べている写真を新聞各紙に載せさせたり[246]、ダブルの背広が好きだった池田にシングルに改めさせ、金属製のフレームの眼鏡をアメ色の材質に変えさせた[245]。池田の尊大で冷たいといった印象を払拭させるためで、さらに、総理総裁たる者は「徹底的に庶民」にならなければならないとして待合とゴルフが大好きな池田に、絶対に行かないことを約束させ記者会見でこれを発表[780]、最初に渡されたときのメモには「芸者の入る宴会とウィークデーのゴルフ」と書いてあったため[781]、池田を大いに悔しがらせた[245]。
- 1960年、広島県人が御所へ行き皇太子に同年8月6日の広島平和記念式典への出席を要請し皇太子が承諾した[232]。皇族はそれまで一度も同式典に出席したことがなかったため、アメリカが難色を示して大変深刻な問題となった[232]。この年7月19日に第1次池田内閣が発足し、官房長官となった大平にも圧力がかかった[232]。外務省も頭を痛めたため、大平が池田首相に「やめにしたら」と言うと池田は断固として「アメリカに気兼ねはいらん。皇太子が約束された以上、皇太子は行かねばならん」と言ったという[232]。
- 1960年、第1次池田内閣の発足で、日本初の女性閣僚として中山マサを厚生大臣に起用したが、1961年4月からの「国民皆保険」導入にあたり[782]、日本医師会の武見太郎会長が制限診療の撤廃など、素人には難しい要望書を提出してきた[782]。10日後、厚生省に武見が呼ばれ大臣室に出向くと、中山は机の下に隠した役人が用意したメモを読みながら回答を読み始めた。しかも老眼で首をのけぞるように苦心して読む。それに対して武見が反対意見を述べると「わかりました」と返事し、またメモをめくり次の文章を読む。これを繰り返すので話にならないと武見がキレて「あんたね、老眼で苦労して読んでるけどそれじゃ大変でしょう。そのメモを僕に貸しなさい」と言ったら、すんなり寄こし、メモを一読した武見が「これはとんでもない話だ。もう読んだからあなたの話は分かった。このメモはもらって帰る」と大臣室を出た。慌てて森本潔保険局長が追いかけて来て「そのメモを返して下さい」と言うので「返さない。おれはこれから総理のとこへ行く」と池田に直談判に行き「あんなばかなやつを厚生大臣にするなんてどうしたわけですか」と言ったら、池田が「こんど総選挙をするから女の票が欲しい。女性議員でまともなのはいないかと聞いたら、あれが一番良いというから起用したんだ。そんなに怒んなよ」と言われた[782]。池田も閣議で厚生白書の説明について中山に質問したら、答えがしどろもどろだったという[782]。
- 池田内閣時代に中山マサと近藤鶴代と二人の女性閣僚を誕生させたが、その後は中曽根内閣の石本茂まで女性閣僚の就任は約20年空いた。
- 「政治は結論だ。経過は役人だ」と政治家は結論だけ打ち出して、その経過は役人に任せりゃいいという自論を持っていた[783]。役人上がりながら大胆不敵。演説も上手く、一千億円減税を打ち出す際、実際は3年でやるのを「所得倍増!」「一千億円減税!」とバーンとぶち上げた後、小声で「3年で」と言っていたという[783]。また、「みなさんが着ているワイシャツは870円くらいでしょう。これが社会主義国のソ連だと4300円もします。日本の五倍ですよ」「いま日本の国民所得はアメリカの八分の一に過ぎません。西ドイツの三分の一です。せめて西ドイツぐらいにはなりたい。それが出来るんです。日本の経済には、それだけの力がついているのです」「今後10年で実質所得は二倍になる。月給が二倍になるのです。そのときこそイギリスの大思想家ベンタムが唱えた、最大多数の最大幸福、という政治理想が実現すると私は信じるものであります」などと、分かりやすい数字を挙げ、身近な日常品から、経済、景気、政策へ入っていく[784]。池田の街頭演説は大いにうけた[784]。
- 私邸に新聞記者を集めては、経済政策、所得倍増を熱心に語った[785]。当時日経記者で同郷でもあった中川順は著書に池田との思い出にページを割き、多くのエピソードを書いているが、唯一残念なことは、日経の「私の履歴書」が日の目を見なかったことと話している。池田が大蔵大臣就任以来、赫々の"武勲"よろしく男の階段を登り始めて以来、中川は履歴書執筆をねばり強く交渉し続けたが、「総理にでもなればね」と断り続けられ、総理になると繁忙でダメになり、そのまま世を去ってしまった。総理経験者で「私の履歴書」に登場しなかったのは、吉田茂と三木武夫らわずかで、池田は中でも惜しまれる人物であった、と中川は話している[740]。
- 総理時代の池田が「財界四天王」の小林中、桜田武、永野重雄、水野成夫と会うのは、極秘中の極秘。もう一人小間使いとして同席したのが鹿内信隆であった。池田は総理在任中、約束通り待合には行かなかったが「栄家」と「福田家」だけは利用した[786]。保険法案をつくる場合は、経営者側の負担を0.01%減らすと全国で3000億円違うとか、そういう話が決められた。数字に詳しいのは池田と小林と桜田の3人で、水野は数字に疎かった。特に小林は富国生命の社長で株の操作をやっていたという[787]。
- 第2次池田内閣で高度経済成長政策を批判した政調会長福田赳夫をクビにし、福田及び同調者を池田内閣の続いている間、完全に干し上げた[295][788][789]。安定成長論者である福田とは相容れなかった[310][790]。池田は派閥強化を助長し、派閥による党内抗争は池田内閣になって、その弊害が増幅し、これが力の政治になり、力を得るための金権政治を増長させることになる[791]。福田は池田との対立を機に派閥解消などを掲げた「党風刷新連盟」を結成した[24]。これが後に福田派(清和政策研究会)に発展する[602][788]。
- 福田が池田と仲が悪くなったのは、1948年の昭和電工事件で福田が連座された際に、福田が大蔵省の同僚ということから池田のところへ、「自分の立場を理解して欲しい」と頼みに行ったら、池田が「よし、何とかしてやる」と言ったのに何もしてやらなかったのが切っ掛けと松野頼三は話している[792]。池田の後の大蔵次官は福田で当然と省内では言われていたから、池田は「あんな有能な人を、あったかなかったか分からん汚職で失うのは大蔵省の損失だ」と、せっせと裁判所に足を運び福田の弁護を買って出たと書かれた文献もあるので[14]、本当のところはよくわからないが、池田が大雑把で大酒飲みに対して、福田は秀才で酒を嗜まず、心から許して付き合う間柄ではなかったという[14]。池田と福田の確執は、福田と旧制一高の同期だった前尾繁三郎との対立が、池田、福田の抗争にズレ込んだ形跡が強く[14]、昭電汚職で出遅れた福田が無所属で政界入りして自由党に一旦入党したものの、そこは池田の勢威が行き渡って福田の入り込む余地がなく、すぐ岸の新党運動に走った。福田は1952年の抜き打ち解散に伴う総選挙で初当選し、池田に唯一自身から挨拶に行ったら、カネを出すから自由党に入れ、のようなニュアンスの事を言われた[793]。当時国会には参議院を含めて24人の大蔵省出身者がいたが、うち23人が池田の子分になっていた[793]。福田は池田の誘いをキッパリ断り、自らこれを「栄えある一議席」と呼んだ[793]。このスタート時点の違いに、すでに陽の池田、陰の福田の政治的位置付けの始まりがあった[14]。岸が何故福田を重用し続け、岸派が空中分解した際も福田派に身を寄せたかといえば、岸はずっと大蔵省との関係に腐心し、大蔵省傍流組である池田派が力をつけていく中、大蔵省本流組である福田を取り込みたいと考えていたからである[794]。
- 田中角栄は政治家デビューして間もない1948年頃の29歳のとき、不当財産取引調査特別委員会委員として大蔵省官僚だった池田と知り合った[795]。池田は当時48歳で、数字を並べてぽんぽん財政の話を繰り出され「大蔵省というところには、大変な人がいるものだな」と圧倒された[795]。池田の財政通ぶりに感心していたため、池田が1949年に政治家としてデビューして大蔵大臣に抜擢された際もいち早く賛成に回った[56][795]。1955年の保守合同の際には、池田は自由党幹事長として岸信介と石橋湛山の自由党からの除名が決めたが、このとき筆頭副幹事長だったのが田中で総務会で恩人・石橋の書類にサインをするとき池田が震えて躊躇していると傍らにいた池田の腕を取ってサインさせた[171]。池田も田中も同じ吉田門下であったが、吉田の寵臣として栄華を極める池田を見て田中は、池田につながって出世したいと策を巡らせ、田中の妻はなの連れ子・静子と池田の甥との結婚を仕組んだ[796]。田中は池田と縁戚まで結んで池田に付いていくつもりであったが変心した[181][796]。1956年12月に鳩山一郎首相の退陣に伴う総裁選があり、旧吉田派(当時は丙申会と呼んだ)[181][797]のうち、池田が石橋湛山を推し、佐藤が実兄岸を推したため田中は佐藤に付いて行った。結婚式は1956年12月5日にあり、その日の夜に丙申会の派として誰を推すのか最終的に決める総会が開かれる予定だった。二つに割れることが予想されたためこの日が吉田派の最後の日でもあった。結婚式が終わり外へ出たところで、池田は田中に「お前、どうしても佐藤の方に行くのか」と言うと田中は顔が上げられず、ようやく顔を上げて「池田さんにはお世話になりました。しかしその一歩前から、佐藤さんにお世話になった義理があるのです」と言った[796]。この義理とはかつて佐藤に長岡鉄道の顧問になってもらったことを指すが、それは本当の理由ではなく、総裁選では岸が勝つ、とすれば日の当たる場所に踊り出るのは佐藤であり、従って佐藤に付く方が自身の出世に有利であるとしたたかに計算したのである[796]。池田は田中の肝の中を見透かし「お前はきついやつだなあ」と言った[796]。田中は策を巡らせ、皮肉にも策が実って親戚になった日に、一度は盟主と仰いだ相手を裏切ったのである[796]。ところが政権を取ったのは佐藤より池田が先だった。1961年池田内閣での田中の自民党政調会長就任、1962年第2次池田内閣での大蔵大臣就任は、盟友関係にあった大平との関係を生かしたもので、田中の成長は佐藤派の参謀でありながら池田の側近でもあったからといわれる[790][798]、特に第2次池田内閣に於ける尋常高等小学校卒の田中、44歳の蔵相抜擢は、1890年日本の帝国議会開設以来、後にも先にも例がない[790]、田中蔵相と書かれた閣僚名簿を見た池田は「アレは車夫馬丁のたぐいだ。どこの馬の骨かわからん」と一蹴した[790]、「高度経済政策」を推進していくにあたって最も重要なポストである蔵相に、いくら池田と親戚関係になっているとはいえ、国家財政に一度も携わったことのない素人をあてることはできない[799]、ところが大平が「あの男ならやれます」と熱心に説得、党内の反発を押し切って池田はこれを了承した[790][799]、田中の蔵相抜擢を聞いた佐藤は「あいつはおれを売って池田の子分になった」と激怒したといわれる[799]、時として反旗を翻すことのある大蔵省へ池田が打ち込んだ"楔"という見方もある[794]というように記述されるが、前述のように池田と田中には長い因縁があり、大平だけのパイプで重要なポストに抜擢されたわけではない。田中は石橋の死後一周忌で「池田さんは大蔵次官のとき、石橋さんに拾い上げられて、それからトントン拍子で政界をのしていかれた。うらやましいと思い、私は池田さんにそのように自分を引き立てて欲しいと頼み、そうしてもらいました」と話している[800]。田中は池田内閣で2年4ヶ月大蔵大臣を務めるが、「所得倍増計画」に代表される池田の経済主義路線は、開発政治の旗手である田中に絶好の機会を与えた[801]。田中はこの大蔵大臣就任期間の間に、得意の人心収攬術と政治力で誇り高い大蔵官僚を押さえ込んだといわれる[802]。
- 1961年6月の訪米で、ジョン・F・ケネディ大統領と会談する際、夫人がジャクリーン・ケネディ・オナシスなので、こちらも夫人同伴がいいのではないかという話になり、池田の妻・満江が同行した[803]。それまでそんなところに女性が出て行くという習慣はなく、満江は首相夫人が外遊などに同行する先駆けとなった[803][804]。
- 池田がアメリカに行ってる時、三木武夫に電話をかけてきて「株の値は?」などと聞いたりするので、経済に疎い三木は、なんで株の値を聞く必要があるのか分からず、野村證券の奥村綱雄ら、池田を囲む財界人の勉強会に誘われて参加し必死に勉強したが、分からないことばかりで、子供のようであったという[805]。1963年11月にも、ジョン・F・ケネディ大統領葬儀のために訪米していたとき、夏から急落していた株価を気にして、留守を預かる黒金泰美官房長官に問い合わせた。このエピソードは大蔵省で知らぬ者がいないほどであった[806]。
- 1960年代にインドネシアのスカルノ大統領と池田をつなぐ仲介役を務めたのはデヴィ夫人という。デヴィ夫人は池田と家族ぐるみの付き合いがあったといい「日本外務省にはこき使われました」と話している[807]。
- 首相時代の総務会の宴会で中曽根康弘に対して「やはり日本も、核を持たなくては駄目だね」と語った[808][809]。中曽根は「同感だと。政治家として公言はしないが、日本を背負って立つような政治家になるためには、根性を持たなくては駄目だと思っている」と述べている[809]。経済外交としても目覚しい成果を挙げた池田であるが、1962年11月の訪欧時にロンドンで英首相ハロルド・マクミランと会談した後、池田はホテルでくつろぎながら、秘書の伊藤昌哉に「日本に軍事力があったらなあ、俺の発言権はおそらく今日のそれに10倍したろう」と慨嘆し、各国首脳との接触を重ねるうちに、経済力の裏付けしかなく軍事力の後ろ盾を欠く外交の弱さを思い知らされていたという[182][456][507]。
- 首相になっても晩酌が進むと「大国である日本はそれにふさわしい核武装をすべきだ」などとぶちだすのが毎度で、その度に、外部に洩れたら大変だと側近はハラハラした[759]。「被爆地広島を選挙区に持つ政治家の発言することではない」と懸命に諫めても池田は聴きいれない。三木武夫と柳橋の八百善で会合したとき、その核武装論をぶってしまい、三木がどこかにそれを書き大事になったこともある[759]。
- 1961年6月、アメリカでケネディと会談した際、ケネディに対し、アメリカが核実験再開に追い込まれた場合、米側の立場を「了解する」と明言したとされ[810]、池田はアメリカからの日本国内への核兵器持ち込みを知っていたとされるが(日米核持ち込み問題)[811]、1963年3月の参議院予算委員会で「核弾頭を持った潜水艦は、私は日本に寄港を認めない」と答弁した[811][812]。この発言にライシャワー駐日アメリカ大使が慌てて1963年4月4日、大平正芳外相を密かに呼び、大平が核密約(日本国内の基地への核兵器の持ち込み)の内容を確認し、日本国内への核兵器持ち込み(イントロデュース)を了承したとされる[811][813][814]。
- アメリカの中央情報局(CIA)が反共政策の一環として、岸内閣[815]、池田内閣[815]、および旧日本社会党右派に秘密資金を提供し政界工作を行っていたと報じた[815]。
- 第2次池田内閣時代の1963年5月14日に「全国戦没者追悼式実施要項」が閣議決定し、同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、8月15日が終戦記念日と法的に定められた[816][817]。この1963年8月15日は靖国神社で行われ、天皇、皇后両陛下ご臨席の下に池田首相と全閣僚、衆参両院議長が臨席した[731][818]。それまでにも民間で追悼行事は行われていたが、国家が主体となって8月15日に追悼イベントをやることが、この時に初めて打ち出された[816][819]。これが今日まで問題になっている8月15日の首相、閣僚の靖国神社参拝は合憲か違憲かという論争の発端であるが、このときはさして問題にはならなかった[731]。前年は日比谷公会堂で行われたが、日本遺族会から強い要請があり[731]、自民党内の支持勢力も強く、総裁三選の絡みもあって会場をこの年靖国神社に移した[731]。この件に関して池田は積極的だったという[731]。池田は「戦後わが国の文化と経済の著しい発展は、その底に祖国の栄光を確信して散った多くの人々の願いあったことを忘れてはならない」と式辞を述べた[819]。以後、毎年8月の追悼式の首相式辞において、わが国の平和と繁栄は戦没者の尊い犠牲の上に築かれているという評価が定着していった[819]。池田政権が戦没者に対する国家としての意味づけを定着させたことは、300万人に及ぶ遺族を保守政権に惹き付けるのに少なからず寄与した[819]。
- 1963年11月、暗殺されたケネディ大統領の葬儀参列のため渡米し11月25日、聖マタイ教会での葬儀とアーリントン国立墓地での埋葬式に参列。同行した秘書官の伊藤昌哉に池田はぽつりと「伊藤君、これが政治家の死というものだ。オレもできたら短刀を突き刺され、弾丸のひとつも撃ち込まれて死にたいと思っている」と言ったという[820]。
- 首相在任中の1964年、戦後の歴代総理が果たせなかった生存者叙勲を、太政官布告の運用再開という形で復活させる[731]。国会では石橋政嗣ら日本社会党から異論が出るも、ついに押し切った。再開後最初の叙勲で政治上の恩師吉田茂に大勲位菊花大綬章が授与され、親授式後の記念撮影では、満面の笑みを浮かべた両者が最前列中央に立った。「電力の鬼」松永安左エ門は、共に戦後の国内電力事業再編成を実現させて[141][142]、以降懇意であったが、松永に勲一等瑞宝章を打診した際、松永は「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」と怒り、これを拒否。困った池田は、松永に可愛がられていた永野重雄に説得を頼み、何とか受勲させたものの、親授式の出席は拒否された[注釈 9]。
- 池田が自民党総裁の三選を目指した1964年の自民党総裁選挙は、池田の出馬を阻止しようとする動きがあったとされるが池田は拒否し、池田vs佐藤の直接対決となった[821]。この総裁選はかつてないほどの"実弾"が飛び交い、"史上最低の選挙"ともいわれた総裁選として知られる[758][822][823]。以後の総裁選には必ずこれに類する裏工作が展開されるのが常識になった[365]。池田薄氷の勝利には二つの大きな流れがあった。一つは田中角栄で、池田派と佐藤派という保守本流同士の争いで、その立場が微妙だったのが当時の大蔵大臣だった田中だった。田中は大平との関係から池田シンパで、池田に力を貸していた[762][824]。佐藤派幹部で池田と口が利けるのは田中だけで[825]、吉田は別として池田と佐藤を繋ぐ者は田中しかいなかった[825]。総裁選の間、田中は佐藤派の事務所にはほとんど姿を見せず、保利茂参謀長ら佐藤派の幹部から「田中はどうした」「田中を呼べ」と声が渦巻いた。一回だけ来て「ヤァ、ヤァ」と挨拶しただけで帰ってしまった[762]。佐藤も田中の立場は知っていて「田中のことは触れるな」と言っていたという[762]。田中が積極的に佐藤側に付いていれば佐藤が勝ったといわれる[762]。もう一つが渡邉恒雄[826]。前述したように渡邊は大野伴睦と親しい間柄であったが、総裁選で激しい党内争いをしていたとき、副総裁だった大野が脳溢血で倒れた。そのとき大野派では、総裁選で池田を推すか佐藤を推すかで派内で大議論の最中だった。渡邉は池田支持だったため、病床の大野に「あなたは佐藤には騙されたことがあるが、池田には騙されたことがない。今回も池田を支持すべきだ」と話したが、大野はかなり容体が悪く返事がない。渡邊は秘書の山下勇や中川一郎と仕掛け、大野が権力を維持するためには、大野が元気で、しっかり意思表示できるという証明がいると、まず面会謝絶にして、大野が毎日俳句を作ってることにしてそれを記者会見で発表した。俳句は多少心得のあった大野の第三秘書が書いた。その後渡邉が大野事務所に行き「大野さんは池田支持に決めた」とみんなに言うと幹部の船田中や原健三郎が「大野先生の意向は決まった」と叫び、大野派40名が池田三選支持に回った[826]。こうして7月10日に行われた総裁選挙は、池田が三選したが大野派40名の支持がなければ微妙な戦いだった[758][826]。渡邊はこの功績によって池田に可愛がられ、大野派を継いだ船田番となり、旧大野派の窓口になって池田に直接閣僚人事を交渉したという[827]。田中はこのときは佐藤を裏切った形となったが、池田の近くにいたため、池田が病に倒れた後、池田を見舞い、最も早く池田の病状や胸中を察知でき、池田が「後継を佐藤」と判断しているという認識を佐藤に橋渡しすることで先の総裁選での佐藤への義理を返した[762]。
- 三選後、外国人記者に「池田内閣は来年(1965年)7月で終了し、次期(首相)は佐藤に間違いない」と言われると「オレは長年続けて首相を務める。アデナウアーのように、だ」とぶった[828]。
- 吉田学校の双璧といわれた池田と佐藤栄作は、盟友でもあり最大のライバルでもあった[246][375][775]。両者は協力し合いつつ敵対し、敵対し合いつつ助け合ってきた[319][829]。1964年、池田の死で後を継いだ佐藤は、総理大臣として歴代最長の7年8か月の連続在任を記録したが、そのエネルギーは池田への激しい対抗意識があったといわれる[471][472]。佐藤は池田の三選阻止のため、1964年夏、自民党総裁選挙に立候補した際、記者団に「ソ連には南千島の返還を、アメリカには沖縄の返還を積極的に要求する。領土問題が片付かないと"戦後は終わった"とか、日米パートナーシップの確立とか、ソ連との平和外交の推進とかはいえない。池田内閣が沖縄の返還を正式にアメリカに要求したのは聞いたことがないが、私がもし政権を取れば、いずれアメリカに出かけてジョンソン大統領に対して正面からこの問題を持ち出すつもりだ」と話した。佐藤が総理大臣として後世に名を残すほどの業績をあげようとする場合、その選択肢は自ずと限られるという事情があった。内政とくに経済面でいえば、「所得倍増計画」をひっさげて登場した池田に比べてどうしても影が薄い[304][679][830]。池田の後を引き継いで池田以上の経済成長はしたが、本来佐藤は経済は全くの素人で[831][294]、蔵相になって経済の勉強を始めたような人で、「新しいものは何もない」などと評された[16]。池田に比べて国民的人気も低く、池田の向うを張って、どうすれば国民的人気を得られるかに腐心した[832]。外交面でも残る戦後処理案件は、日ソについては、領土問題が絡んで難しく、また反共主義者の権化佐藤が、中国や北朝鮮の国交正常化に本腰を入れる予測は皆無で、すると残りは沖縄返還しかなかった[472][833]。これが佐藤が政治生命を賭けて沖縄の施政権返還に取り組むに至った事情である。池田と佐藤は、吉田茂門下という保守本流の基盤の上に長い交遊関係を続けていた[762]。池田ら5人が立候補した1960年の総裁選挙でも、吉田の説得もあり、結局兄の岸と共に同じ官僚出身の池田を支持し、党人派連合を破り、池田内閣をつくり上げた。佐藤には「池田内閣は、おれが作ってやった」という自負があった[472]。池田は1960年7月からの第1次池田内閣では、佐藤の要請を聞いて河野派を締め出し、大野伴睦の副総裁帰り咲きも見送りさせたが、1962年7月からの第2次池田内閣 (第2次改造)では、池田は佐藤の要請を無視し、佐藤とは犬猿の仲の河野一郎を入閣させ、同じく佐藤と犬猿の仲の大野を副総裁に復帰させた。当時、政界では、池田に近い友人(佐藤)から遠い他人(河野)へ馬を乗り替えたという例え話が流行った[612]。佐藤からすれば、池田との間に「次は佐藤」という言外の信頼関係があるという思いがあり、池田再選(1962年7月)のときも、回りから「出馬すべし」の声が強かったが立候補しなかった[762]。ところが4年も経った池田三選のときには、さすがに池田に「俺に譲れ」と迫った。しかし池田が「まだやる」と佐藤の訴えを却下した。吉田を調停役に三者の会談が行われたが池田は譲らない。池田は吉田に会うのも避けるようになった。これで池田と吉田に完全に溝ができた[762]。佐藤はこれを「恩を仇で返す」離反とみなし、こうした両者の激しい対立関係が池田へのアンチテーゼとして佐藤の沖縄問題への傾斜を一層促すことになった。佐藤の時代に日本経済の高度成長期はピークを迎えるが、一般には佐藤独自の政策の効果というよりは、やはり池田からの延長線上の景気拡大と受け止められていた。佐藤は政権担当の前後から、自らの名誉獲得すべてを沖縄の施政権返還に託したのである。それは沖縄問題に突き進む以外の選択肢は見当たらなかったともいえる[472]。
- 西武グループの創業者で衆議院議員でもあった堤康次郎は池田と親しく[834]、1964年池田が死去する少し前に亡くなったが、後援会は父の秘書を務めたことのある息子・堤清二に地盤を受け継ぎ政治に出てくれと頼んだ。池田が清二に親父の後を継がないのか」と聞いたら「自分は政治家に向かないと思います。しかし地盤は残っているので、総理から誰か推薦いただければ」と言うので、池田が大蔵省の青山俊を推薦し清二に「口説いてくれ」と頼んだ。しかし青山も清二と同様に政治が嫌いでやはり断わり、青山が山下元利を推薦し、池田も大蔵省時代の部下だった山下を知っていて「山下ならいい」となり、山下が堤康次郎の地盤を継ぐことになった[835][836]。しかしほとんど面識のない山下に地元から不平不満が爆発し、池田も亡くなったため、清二は佐藤栄作総理から田中角栄幹事長を紹介され、田中が滋賀県県議10人を前に料亭の畳に額をこすりつけ、「山下元利を男にしてやってくれ」と頼み込み話がまとまった。田中と山下の師弟コンビをここに始まる[836]。また先の堤康次郎が亡くなった際に清二が家督を継がないと表明したため、弟の堤義明がコクド・西武鉄道グループを引き継いだが、康次郎は生前、相続税に疑問を持っていて、その対策により相続税が0円になるようにしていた。西武という巨大企業の創業者の遺族が相続税0では世間で通らないと、清二は税の専門家である池田に相談し、池田のアドバイス通り1億円以上の相続税を支払った。しかし40年後、義明が西武鉄道株を他人名義にしていたことが発覚し、西武グループの総帥として君臨していた座から転落した。清二は「あのとき池田さんに名義株のことをきちんと話していれば、西武鉄道グループが、今のような憂き目を見ることもなかった。それが残念でなりません」と話していた[836]。
- 数字に強いのが売りだったため、城山三郎が「数字の使い方が違う」と新聞に書いたら、池田の秘書から電話が掛かってきて池田の自宅に呼びつけられた。城山が「この数字はおかしい」と言ったら、新しい資料を持って来て「これでどうか」と言うから「やっぱり僕の考え方と合わない」と言ったら「あなた、大学で教えているそうだけど、大学での資格は何だ?」と聞くから、専任講師と答えると「僕を教えられるのは、講師でなく教授だよ」と言われたという[837]。
- 1964年5月、朝永振一郎日本学術会議会長が、人類の起源の解明には霊長類研究が必須だ、という理由から、池田に「霊長類研究の重要性に鑑み、その基礎的な研究をおこなう総合的な研究所を速やかに設立されたい」という主文はわずか1行半の「勧告」を行い、3年後1967年6月に京都大学霊長類研究所が発足した[838]。
- 1964年、病気退陣の直前、戦後初めて日銀総裁に民間人として宇佐美洵を据えるよう佐藤に申し送った[366][537][839]。宇佐美は三菱銀行頭取のときに、桜田武の斡旋で、岩佐凱実富士銀行頭取、中山素平日本興業銀行頭取の金融トリオとして池田に接近したことに付き合いが始めるが[839]、岩佐、中山が自主調整論の信奉者であったのに対して、宇佐美は自由経済を尊重し、その基盤に立つ成長のバイタリティーを評価する点で、三人の中では池田に近く最も密接な関係があったといわれる[537]。
- 児玉誉士夫が吉田内閣のとき、反吉田運動のテコにしようと池田のスキャンダルを握って暴き立てようとしたら、池田の某側近がやってきて「勘弁してくれ、そいつを暴かれると池田の政治生命が断たれてしまうから」と手をついて頼んできた。しかし児玉が「いや許すわけにはいかん」と居丈高に断ると側近が「いや、実は他にもこれがある、これがある」とみんなペラペラ洗いざらい喋った。児玉の方がびっくりして「これは保守政治全体が危ない」と思案し暴くのをやめたという[840]。
- 池田が大蔵省官僚時代に主税局長に就任したのは1945年2月17日であるが、この頃はもう敗戦色濃く、国民は食うものもなく逃げ惑う状態で、徴税のための税務署の職員も出征や田舎に引き揚げたりで徴税どころでなく、池田本来の仕事はもう無かった[841]。当時池田は家族を埼玉県春日部に疎開させていたが滅多に自宅へ帰って来なかったとされ、この後敗戦までの半年間、何をしていたか。池田の伝記は全て主税局長就任の1945年2月以降の記載がなく、この後は終戦後の活動となっている。陸軍に引き回されていた主計局と違って実は主税局は当時、国有財産管理の仕事があった[841]。池田は敗戦後の8月の先述の特殊慰安施設協会の話と、8月20日頃、1日だけあったとされる庁舎清掃の日は大蔵省内にいたとされる[841][842]。林房雄著の『随筆 池田勇人』のみ、主税局長就任の1ヵ月後の「3月16日に軍需省参与・大東亜省交易局参与に任じられた」と記述されているが、具体的にどんな仕事をしていたのかは書かれていない[843]。鬼塚英昭は、池田はその後国有財産の管理をやっていたのだろうと推察している[841]。1945年2月からGHQが日本を支配することを想定し、皇室財産担当のマーカット少将を局長とするGHQ経済科学局(ESS)は、天皇家の財産目録の作成にかかり、宮内大臣になっていた石渡荘太郎が宮中内に天皇財産管理室を作り、宮内庁の役人にできる仕事でないため、迫水久常からの進言を受け、津島寿一大蔵大臣が数字に強い池田を天皇家の財産管理人として指名、この財産の中の処分仕切れない金塊、プラチナ・ダイヤモンドなどを池田が外部に移した、またこれとは別に敗戦二年前に東条英機首相が国民から供出を訴えて集まった金、銀、ダイヤモンドなどのうち、工業用には使えないものを集め「日本金銀運営会」を立ち上げ大蔵省の管理下に置いた、この運営は迫水と三浦義一が行ったとする文献が多いが、三浦は一役員で、実際は迫水と池田が共同運営した、戦後贅沢三昧で遺産を食い潰し金を持っていなかった吉田茂に迫水と池田が「金銀運営会」から金を引き出して吉田に渡し、吉田は首相になったのであろうと推察している[841]。林房雄は、吉田ら占領下時代の首相を"牢名主"と表現している[842]。"牢役人"は民政局であり、吉田政権もアメリカの傀儡政権ともいわれる[841][844][845]。池田は占領下の日本に於いて、ESSのマーカットやジャパン・ロビーのドッジやドレイパーらと親しくなっていき、CIAからも見返り資金(通称:キャンデイ)を一番貰い、彼らの要求にも応えた。池田は戦後のドサクサ紛れの隠し金、「天皇マネー」、「日本金銀運営会」(大蔵省外郭団体)、「隠退蔵物資」の管理者との指摘もあり[841]、隠退蔵物資事件では世耕弘一から国会で追及を受けている[846]。その他、豊富な献金ルートを持っていてアメリカの要求に応えることが出来た。勿論応えられる実力もあった。アメリカの要求とは、短期的にはドッジによる銀行集団が戦前に日本に投資した金の回収と再投資で、これには数字のエキスパートである池田が必要だった[847]。また長期的にいえば、日本をアメリカ好みにコントロールすること、その基礎は親米であり[848]、権力欲の強い池田とは利害が一致した。異例の出世を遂げた理由も、なぜ戦後の重大な日米交渉を池田がやっているのかもこれで説明できる[841]。池田指名は吉田からではなく、アメリカから出ていたのである[849]。鬼塚は、戦後の日本の政治家で最も力を持っていたのは「天皇マネー」を握った迫水と池田、特に他にも豊富な資金源を持った池田だったと推察している[850]。迫水の方の目的はメディアを通じた天皇信仰がその一つだった[851]。一般に吉田と池田は師弟コンビとして語られるが、鬼塚は経済オンチで経済政策を池田に丸投げした吉田を池田が尊敬するはずがなく[850]、吉田は出世の階段を昇っていく手段としての師で、本当の意味での師は石橋湛山だったと推察している[850]。石橋は大蔵省時代の上司と部下の関係から、戦後お互い政治家となると関係が悪化した。石橋は池田の不信任案に2度賛成し、池田は石橋を2度党から除名した[852]。石橋は池田の政策に何度も異議を唱え、池田は窮地に陥ったこともあるため、これらは出来レースではなく実際に仲が悪かったものと考えられる。しかし石橋が首相になったとき復縁した。石橋は金を持っておらず、池田の資金無くして総裁選を戦えなかった。この取り持ちは松永安左エ門と考えられる[852]。首相になった石橋は組閣人事で「他のポストは全て譲ってもいいから」と池田蔵相にこだわり、ここで師弟コンビが復活した[189][853]。石橋・池田コンビは「1000億円施策、1000億円減税」という積極政策を打ち出すが同内閣が二ヶ月の短命に終わってしまった。石橋が3年ぐらい首相をやってその後池田と考えられたので[841]、そうなれば「国民所得倍増計画」に近いものが少し早く実現したかもしれないが、この1957〜58年の段階では、石橋も池田も理論的にはまだ不十分で[854]、このコンビが続いたとしても経済成長政策がどのような形になったかは不明である。
- 池田は、その死の直前に「自分は国民を甘やかす政治をしてしまった」と言い残したといわれる[855]。池田は自身の公約が着々と実現されていくのを見ながら、憂鬱に囚われていたともいわれる。秘書の伊藤昌哉はこの言葉の意味を「経済を良くしたことで、賃金も労働条件も国民は要求するばかり、国家はそれを聞いてやるばかりになった。国民は国家の一員だということ、国家に対する義務や、国家が国民に期待することを果たす責任も、国民にあることを説明するのが下手だった」「戦後日本の政治は父親の政治ではなく、母親の政治をやってしまった、甘やかすことに長じていて、自分の足で立っていないような国にした」と解説している[855]。伊藤は「池田が残した思いとは、国防を自前でやることと、憲法改正だったと思う」と話している[855]。
- 戦後の総理大臣の中で、東京都以外に位置する日本の大学を卒業しているのは池田のみである(宇野宗佑は神戸商業大学中退)。
栄典
- 1965年8月13日:贈大勲位菊花大綬章
家族・親族
池田家
- 前妻・直子(元伯爵で貴族院議員だった広沢金次郎の三女、元参議広沢真臣の孫)
- 後妻・満枝(医師大貫四郎吉の二女、母の従姉妹の娘にあたる)
- 長女・直子(元近藤商事会長近藤荒樹の長男近藤荒一郎の妻)
- 二女・紀子(大蔵官僚、政治家池田行彦(旧姓粟根)の妻)
- 池田家の養子になったことについて池田行彦は「たまたまって感じですね。大蔵官僚は仕事がいそがしいので、女性とめぐり合う機会が少ない。そこで紹介というのが多くなるのですが、たまたまそれが池田の娘だったということですよ」と述べている[858]。
- 三女・祥子(元日本ゴム会長石橋進一の長男で元ブリヂストンタイヤ会長石橋正二郎の甥にあたる石橋慶一の妻)
系図
著書
- 『改正税法に就て』(東京銀行集会所、1942年刊)
- 『改正税法並びに関係命令に就て』(銀行員同攻会、1942年刊)
- 『改正税法の解釈:法人関係』(生産拡充研究会編、1942年刊)
- 『間接税等改正税法解釈:酒税等の増徴等に関する法律解釈』(大蔵財務協会、1942年刊)
- 『広告税に就て』(日本広告倶楽部編、1942年刊)
- 『財産税・法人戦時利得税・個人財産増加税の解釈』(日本産業経済新聞社、1946年刊)
- 『均衡財政‐附・占領下三年のおもいで』(中公文庫〈シリーズ戦後史の証言〉、1999年2月) ISBN 4122033586
参考文献
- 宮澤喜一『東京―ワシントンの密談』実業之日本社、1956年 のち中央公論社、中公文庫
- 鈴木幸夫『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』光文社カッパ・ブックス、1965年。
- 『池田勇人 その生と死』 至誠堂 1966年。
- 石川達三 『金環蝕』 新潮社 1966年 のち新潮文庫、岩波現代文庫
- 土生二三生『人間 池田勇人』講談社、1967年。
- 林房雄『随筆 池田勇人 敗戦と復興の現代史』サンケイ新聞社出版局、1968年。
- 内田健三『戦後日本の保守政治』岩波書店、1969年。
- 宮崎吉政『政界二十五年』読売新聞社、1970年。
- 村上泰亮『経済成長』日本経済新聞社〈リーディングス・日本経済論4〉、1971年。
- 『実録読物・戦後の日本』家の光協会、1973年。
- 三鬼陽之助『三鬼陽之助・評論選集』講談社、1974年。
- 塩口喜乙『聞書 池田勇人 高度成長政治の形成と挫折』朝日新聞社、1975年。
- 賀屋興宣『戦前・戦後八十年』経済往来社、1976年。
- 自由民主党広報委員会出版局『秘録・戦後政治の実像』永田書房、1976年。
- 大久保利謙・入江徳郎・草柳大蔵監修『グラフィックカラー昭和史 第13巻 繁栄と混迷』研秀出版、1977年。
- 中央大学経済研究所『戦後の日本経済ー高度成長とその評価』中央大学出版部、1975年。
- 大来佐武郎『東奔西走 私の履歴書』日本経済新聞社、1981年。
- 後藤基夫・内田健三・石川真澄『戦後保守政治の軌跡 吉田内閣から鈴木内閣まで』岩波書店、1982年。
- チャルマーズ・ジョンソン・矢野俊比古監訳『通産省と日本の奇跡』TBSブリタニカ、1982年。
- 渡辺武・大蔵省財政史室編『対占領軍交渉秘録 渡辺武日記』東洋経済新報社、1983年。
- 桜田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史(下)』サンケイ出版、1983年。ISBN 4383022898。
- セオドア・コーエン・大前正臣『日本占領革命 GHQからの証言(下)』TBSブリタニカ、1983年。
- 佐和隆光『高度成長――「理念」と政策の同時代史』日本放送出版協会〈NHKブックス465〉、1984年。ISBN 4140014652。
- 塩田潮『東京は燃えたか 黄金の'60年代、そして東京オリンピック』PHP研究所、1985年。ISBN 4569214991。
- 田中六助『保守本流の直言』中央公論社、1985年。ISBN 4120013650。
- 細川隆元監修・伊藤昌哉『池田勇人』時事通信社〈日本宰相列伝(21)〉、1985年。ISBN 4788785714。
- 松野頼三(語り) 戦後政治研究会(聞き書き・構成)『保守本流の思想と行動 松野頼三覚え書』朝日出版社、1985年。ISBN 4255850704。
- 伊藤昌哉『池田勇人とその時代』朝日新聞社〈朝日文庫〉、1985年。ISBN 4022603399。
- 吉村克己『池田政権・一五七五日』行政問題研究所出版局、1985年。ISBN 4905786436。
- 上前淳一郎『山より大きな猪――高度成長に挑んだ男たち』講談社、1986年。ISBN 4062026570。
- 文藝春秋『文藝春秋にみる昭和史:第二巻』文藝春秋、1988年。ISBN 4163626409。
- 山田栄三『正伝 佐藤栄作 (上巻)』新潮社、1988年。ISBN 4103707011。
- 小林吉弥『花も嵐もー宰相池田勇人の男の本懐』講談社、1989年。ISBN 4062044048。
- 樋渡由美『戦後政治と日米関係』東京大学出版会、1990年。ISBN 9784130360555。
- 三輪和雄『猛医の時代 武見太郎の生涯』文藝春秋、1990年。ISBN 4163447504。
- 中村隆英『昭和史II』東洋経済新報社、1993年。
- 中川順『秘史ー日本経済を動かした実力者たち』講談社、1995年。ISBN 4062078643。
- 石川真澄『戦後政治史』岩波書店、1995年。ISBN 4004303672。
- リチャード・ボズウェル・フィン・内田健三監訳『マッカーサーと吉田茂(下)』角川書店〈角川文庫〉、1995年。ISBN 4042679021。
- 塩田潮『昭和をつくった明治人(上)』文藝春秋、1995年。ISBN 4163501908。
- 塩田潮『昭和をつくった明治人(下)』文藝春秋、1995年。ISBN 4163502009。
- 東京新聞編集企画室『図解 宰相列伝』東京新聞出版局〈東京ブックレット(2)〉、1996年。ISBN 4808304775。
- 北岡伸一『自民党 ――政権党の38年』読売新聞社〈20世紀の日本(1)〉、1995年。ISBN 4643951060。
- 石川真澄『人物戦後政治』岩波書店、1997年。ISBN 4000233149。
- 『朝日キーワード別冊・政治』朝日新聞社、1997年。ISBN 4022276045。
- 堺屋太一『日本を創った12人 後編』PHP研究所〈PHP新書〉、1997年。ISBN 4569553893。
- 堀越作治『戦後政治裏面史 「佐藤栄作日記」が語るもの』岩波書店、1998年。ISBN 4000236083。
- 宮澤喜一『東京―ワシントンの密談 シリーズ戦後史の証言―占領と講和①―』中央公論社〈中公文庫〉、1999年。ISBN 4122033101。
- さいとうたかを画『池田勇人と佐藤栄作の激突』講談社+α文庫〈歴史劇画 大宰相〈第4巻〉〉、1999年。
- 伊藤隆・御厨貴・飯尾潤『渡邉恒雄回顧録』中央公論新社、2000年。ISBN 412002976X。
- 春名幹男『秘密のファイル-CIAの対日工作(上)』共同通信社、2000年。ISBN 9784764104549。
- 日本経済新聞社『20世紀日本の経済人』日本経済新聞出版社〈日経ビジネス人文庫〉、2000年。ISBN 4532190169。
- 『高度成長 ビートルズの時代 1961-1967』毎日新聞社〈シリーズ 20世紀の記憶〉、2000年。ISBN 4620791660。
- 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』講談社、2000年。ISBN 4062098199。
- 宇治敏彦『首相列伝 伊藤博文から小泉純一郎まで』東京書籍、2001年。ISBN 9784487795321。
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脚注
注釈
- ^ 竹鶴が「私の履歴書」に記したところでは、池田は当時寮長だった竹鶴に対して「こわい」という印象を抱いていたという(『マッサン』より10倍豪快な竹鶴政孝の「ウイスキー人生」)。
- ^ 友人として急速に接近するのは、互いに政界入りしてからである。池田が死亡した際、佐藤が葬儀委員長を務めている(『正伝 佐藤栄作(下)』 42頁)。
- ^ 約3か月半後に第4次吉田内閣は反主流派の採決欠席により内閣不信任決議を受け、バカヤロー解散に至っている。
- ^ 下村治は「石橋さんは理論的には不十分な展開だったと思う」と述べている(『聞書 池田勇人』、252頁)。
- ^ 佐藤は田中角栄・松野頼三・保利茂・愛知揆一・橋本登美三郎・二階堂進らと周山会を結成する。
- ^ 佐藤を「指名」したと言われていることについて、当時、読売新聞社の記者だった渡邉恒雄は自伝『天人天職』のインタビューの中で「抗がん剤の副作用で意識が朦朧としていた池田さんを田中角栄と大平正芳が丸め込んだのではないか」と回想している。ただし、池田は、この際に放射線照射による治療を受けているが、抗がん剤の投与は受けておらず、かつ、佐藤への後継指名は、池田が副総裁川島正次郎と幹事長三木武夫に自民党内の意向を調整するよう指示した上で行われており、この話の信憑性は薄い。
- ^ 浅沼稲次郎『私の履歴書』によると、田所輝明。田所輝明『無産党十字街』では、「ある同志」の歌としている。
- ^ 1960年10月18日の衆議院本会議の議事録を閲覧。この演説は、池田の「場内がシーンとなる演説を」という注文によって、首席秘書官の伊藤昌哉が書いた。「あの演説は五億円か十億円の値打ちがあった」と池田は述懐している(若宮啓文「忘れられない国会論戦」中公新書 1206 中央公論社 1994年 ISBN 4121012062 C1231)。
- ^ 説得にあたり、小田原の松永宅に尋ねた永野は、松永に立ててもらったお茶の懐紙で鼻水をかんだ上、「あなたが叙勲を受けないと、生存者叙勲制度の発足が遅れて、勲章をもらいたくてたまらない人たちに、迷惑がかかる。それに、あなたはどうせ老い先が短い。死ねばいやでも勲章を贈られる。それなら生きているうちにもらった方が人助けにもなりますよ」と、相当失礼な言を吐いて迫った。結局、松永はこれを了承する格好となった(永野重雄著『わが財界人生』ダイヤモンド社(1982年)、167-170頁)。
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- ^ 中島琢磨 2012, pp. 113–114.
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- ^ 上之郷利昭『堤義明は語る』 講談社 1989年 [ISBN 4061843834] 126、185頁
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- ^ a b c 松崎隆司『堤清二と昭和の大物』 光文社 2014年 ISBN 9784334978013、107-117頁
- ^ 「対談」 城山三郎 vs 櫻井よしこ 「指揮官『小泉純一郎』を採点する」
- ^ 所長のあいさつ京都大学霊長類研究所 松沢哲郎 -2006年4月
- ^ a b 塩口喜乙 1975, pp. 98–99.
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- ^ a b c d e f g h i 鬼塚英昭 2014, pp. 68–206.
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追悼集
参考文献
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- 鈴木幸夫『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』光文社カッパ・ブックス、1965年。
- 『池田勇人 その生と死』 至誠堂 1966年。
- 石川達三 『金環蝕』 新潮社 1966年 のち新潮文庫、岩波現代文庫
- 土生二三生『人間 池田勇人』講談社、1967年。
- 林房雄『随筆 池田勇人 敗戦と復興の現代史』サンケイ新聞社出版局、1968年。
- 内田健三『戦後日本の保守政治』岩波書店、1969年。
- 宮崎吉政『政界二十五年』読売新聞社、1970年。
- 村上泰亮『経済成長』日本経済新聞社〈リーディングス・日本経済論4〉、1971年。
- 『実録読物・戦後の日本』家の光協会、1973年。
- 三鬼陽之助『三鬼陽之助・評論選集』講談社、1974年。
- 塩口喜乙『聞書 池田勇人 高度成長政治の形成と挫折』朝日新聞社、1975年。
- 賀屋興宣『戦前・戦後八十年』経済往来社、1976年。
- 自由民主党広報委員会出版局『秘録・戦後政治の実像』永田書房、1976年。
- 大久保利謙・入江徳郎・草柳大蔵監修『グラフィックカラー昭和史 第13巻 繁栄と混迷』研秀出版、1977年。
- 中央大学経済研究所『戦後の日本経済ー高度成長とその評価』中央大学出版部、1975年。
- 大来佐武郎『東奔西走 私の履歴書』日本経済新聞社、1981年。
- 後藤基夫・内田健三・石川真澄『戦後保守政治の軌跡 吉田内閣から鈴木内閣まで』岩波書店、1982年。
- 桜田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史(下)』サンケイ出版、1983年。ISBN 4383022898。
- セオドア・コーエン・大前正臣『日本占領革命 GHQからの証言(下)』TBSブリタニカ、1983年。
- 塩田潮『東京は燃えたか 黄金の'60年代、そして東京オリンピック』PHP研究所、1985年。ISBN 4569214991。
- 田中六助『保守本流の直言』中央公論社、1985年。ISBN 4120013650。
- 細川隆元監修・伊藤昌哉『池田勇人』時事通信社〈日本宰相列伝(21)〉、1985年。ISBN 4788785714。
- 松野頼三(語り) 戦後政治研究会(聞き書き・構成)『保守本流の思想と行動 松野頼三覚え書』朝日出版社、1985年。ISBN 4255850704。
- 伊藤昌哉『池田勇人とその時代』朝日新聞社〈朝日文庫〉、1985年。ISBN 4022603399。
- 吉村克己『池田政権・一五七五日』行政問題研究所出版局、1985年。ISBN 4905786436。
- 文藝春秋『文藝春秋にみる昭和史:第二巻』文藝春秋、1988年。ISBN 4163626409。
- 山田栄三『正伝 佐藤栄作 (上巻)』新潮社、1988年。ISBN 4103707011。
- 小林吉弥『花も嵐もー宰相池田勇人の男の本懐』講談社、1989年。ISBN 4062044048。
- 樋渡由美『戦後政治と日米関係』東京大学出版会、1990年。ISBN 9784130360555。
- 三輪和雄『猛医の時代 武見太郎の生涯』文藝春秋、1990年。ISBN 4163447504。
- 中村隆英『昭和史II』東洋経済新報社、1993年。
- 中川順『秘史ー日本経済を動かした実力者たち』講談社、1995年。ISBN 4062078643。
- 石川真澄『戦後政治史』岩波書店、1995年。ISBN 4004303672。
- リチャード・ボズウェル・フィン・内田健三監訳『マッカーサーと吉田茂(下)』角川書店〈角川文庫〉、1995年。ISBN 4042679021。
- 塩田潮『昭和をつくった明治人(上)』文藝春秋、1995年。ISBN 4163501908。
- 塩田潮『昭和をつくった明治人(下)』文藝春秋、1995年。ISBN 4163502009。
- 東京新聞編集企画室『図解 宰相列伝』東京新聞出版局〈東京ブックレット(2)〉、1996年。ISBN 4808304775。
- 石川真澄『人物戦後政治』岩波書店、1997年。ISBN 4000233149。
- 『朝日キーワード別冊・政治』朝日新聞社、1997年。ISBN 4022276045。
- 堺屋太一『日本を創った12人 後編』PHP研究所〈PHP新書〉、1997年。ISBN 4569553893。
- 宮澤喜一『東京―ワシントンの密談 シリーズ戦後史の証言―占領と講和①―』中央公論社〈中公文庫〉、1999年。ISBN 4122033101。
- さいとうたかを画『池田勇人と佐藤栄作の激突』講談社+α文庫〈歴史劇画 大宰相〈第4巻〉〉、1999年。
- 伊藤隆・御厨貴・飯尾潤『渡邉恒雄回顧録』中央公論新社、2000年。ISBN 412002976X。
- 春名幹男『秘密のファイル-CIAの対日工作(上)』共同通信社、2000年。ISBN 9784764104549。
- 日本経済新聞社『20世紀日本の経済人』日本経済新聞出版社〈日経ビジネス人文庫〉、2000年。ISBN 4532190169。
- 宇治敏彦『首相列伝 伊藤博文から小泉純一郎まで』東京書籍、2001年。ISBN 9784487795321。
- 櫻井よしこ『迷走日本の原点』新潮社、2001年。ISBN 4101272239。
- 土志田征一『経済白書で読む戦後日本経済の歩み』有斐閣〈有斐閣選書〉、2001年。ISBN 9784641280649。
- 神一行『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』角川書店、2002年。
- 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』講談社、2000年。ISBN 4062098199。
- 佐藤卓己『戦後世論のメディア社会学』柏書房〈KASHIWA学術ライブラリー02〉、2003年。ISBN 4760123997。
- 牧原出『内閣政治と「大蔵省支配」 ―政治主導の条件』中央公論新社〈中公叢書〉、2003年。ISBN 4120034186。
- 沢木耕太郎『危機の宰相』文藝春秋〈沢木耕太郎ノンフィクションⅦ〉、2004年。ISBN 4163649107。 のち魁星出版、2006年/文春文庫、2008年。
- 波多野澄雄『池田・佐藤政権期の日本外交』ミネルヴァ書房〈MINERVA日本史ライブラリ〉、2004年。ISBN 9784623039210。
- 永六輔・佐々木毅・瀬戸内寂聴監修、古川隆久執筆『昭和ニッポン ――一億二千万人の映像(第11巻) 所得倍増計画とキューバ危機』講談社〈講談社DVD book〉、2005年2月15日。ISBN 4062780313。
- 御厨貴・中村隆英『聞き書 宮澤喜一回顧録』岩波書店、2005年。ISBN 4000022091。
- 『池田勇人展 その人生と素顔に迫る』 竹原市立「たけはら美術館」編、2005年。
- 木村貢『総理の品格 ――官邸秘書官が見た歴代宰相の素顔』徳間書店、2006年。ISBN 4198622337。
- 天川晃・御厨貴・牧原出『日本政治外交史―転換期の政治指導』放送大学教育振興会〈放送大学教材〉、2007年。ISBN 9784595307331。
- 西山太吉『沖縄密約 ――「情報犯罪」と日米同盟』岩波書店、2007年。ISBN 9784004310730。
- 金斗昇『池田勇人政権の対外政策と日韓交渉 内政外交における「政治経済一体路線」』明石書店、2008年。ISBN 9784750327259。
- 「池田勇人と昭和30年代 奇跡の「高度成長」を生んだもの」『歴史街道』2007年12月号、PHP研究所、2007年12月1日。
- 福永文夫『大平正芳 「戦後保守」とは何か』中央公論新社〈中公新書〉、2008年。ISBN 9784121019769。
- 萩原延壽『萩原延壽集6 自由のかたち 評論・エッセイ①』朝日新聞社、2008年。ISBN 9784022503824。
- 宮前めぐる他『その時歴史が動いた 昭和史復興編 下村治 所得倍増の夢を追え—高度経済成長の軌跡』集英社、2008年。ISBN 9784834274196。
- 杉田米行 編『アメリカ外交の分析 ー歴史的展開と現状分析ー』大学教育出版〈アメリカ・アジア太平洋地域研究叢書 第2巻〉、2008年。ISBN 9784887308329。
- 塩田潮『昭和30年代 「奇跡」と呼ばれた時代の開拓者たち』平凡社〈平凡社新書382〉、2007年。ISBN 9784582853827。
- 八幡和郎『本当は偉くない?歴史人物 ー日本を動かした70人の通信簿ー』ソフトバンククリエイティブ〈ソフトバンク新書114〉、2009年。ISBN 9784797356632。
- 芹沢一也・荻上チキ・飯田泰之・岡田靖・赤木智弘・湯浅誠『経済成長って何で必要なんだろう?』光文社、2009年。ISBN 9784334975746。
- 大下英治『池田勇人vs佐藤栄作 昭和政権暗闘史 三巻』静山社〈静山社文庫〉、2010年。ISBN 9784863890336。
- 塩田潮監修『日本の内閣総理大臣事典』辰巳出版、2011年。ISBN 9784777809660。
- 『週刊 池上彰と学ぶ日本の総理 3 池田勇人』小学館、2012年1月31日 。
- 藤井信幸『池田勇人 所得倍増でいくんだ』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2012年。ISBN 9784623062416。
- 倉山満『検証 財務省の近現代史 政治との闘い150年を読む』光文社〈光文社新書571〉、2012年。ISBN 978433403674-4。
- 読売新聞昭和時代プロジェクト『昭和時代 三十年代』中央公論新社、2012年。ISBN 9784120043925。
- 中島琢磨『高度成長と沖縄返還 1960‐1972』吉川弘文館〈現代日本政治史3〉、2012年。ISBN 9784642064378。
- 日本国際政治学会『戦後日本外交とナショナリズム』有斐閣、2012年。ISBN 9784641299542。
- 孫崎享『戦後史の正体 1945ー2012』創元社、2012年。ISBN 9784422300511。
- 水木楊『評伝 出光佐三 反骨の言霊日本人としての誇りを貫いた男の生涯』PHP研究所〈PHPビジネス新書256〉、2013年。ISBN 9784569809854。
- 保阪正康『高度成長――昭和が燃えたもう一つの戦争』朝日新聞出版〈朝日新書412〉、2013年。ISBN 9784022734600。
- 鈴木宏尚『池田政権と高度成長期の日本外交』慶應義塾大学出版会、2013年。ISBN 9784766420692。
- 木立順一 『日本偉人伝』 メディアポート、2014年。ISBN 978-4865580150。
- 武田晴人『「国民所得倍増計画」を読み解く』日本経済評論社、2014年。ISBN 9784818823402。
- 日本経済新聞社『日本経済を変えた戦後67の転機』日本経済新聞出版社〈日経プレミアシリーズ234〉、2014年。ISBN 9784532262341。
- 波多野澄雄『池田・佐藤政権期の日本外交』ミネルヴァ書房〈MINERVA日本史ライブラリー(15)〉、2014年。ISBN 9784623039218{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 鬼塚英昭『天皇種族・池田勇人 知るのは危険すぎる昭和史』成甲書房、2014年。ISBN 9784880863221 。
- 田中浩『田中浩集 第八巻 現代日本政治』未來社、2015年。ISBN 9784624900489。
- 塩田潮『内閣総理大臣の日本経済』日本経済新聞出版社、2015年。ISBN 9784532169510。
- 野口悠紀雄『戦後経済史 私たちはどこで間違えたのか』東洋経済新報社、2015年。ISBN 9784492371183。
- 御厨貴『安倍政権は本当に強いのか 盤石ゆえに脆い政権運営の正体』PHP研究所〈PHP新書〉、2015年。ISBN 9784569823652。
- 橋本五郎編・読売新聞取材班『戦後70年 にっぽんの記憶』中央公論新社、2015年。ISBN 9784120047688。
- 若田部昌澄『ネオアベノミクスの論点 レジームチェンジの貫徹で日本経済は復活する』PHP研究所〈PHP新書〉、2015年。ISBN 9784569824222。
関連項目
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外部リンク
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先代 岸信介 |
内閣総理大臣 第58・59・60代:1960年 - 1964年 |
次代 佐藤栄作 |
先代 稲垣平太郎 高橋龍太郎 高碕達之助 |
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先代 創設 |
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次代 廃止 |
先代 大屋晋三(臨時代理) 一万田尚登 |
大蔵大臣 第55代:1949年 - 1952年 第61・62代:1956年 - 1957年 |
次代 向井忠晴 一万田尚登 |
先代 山崎猛 |
経済審議庁長官 第3代:1952年 |
次代 小笠原三九郎 |
先代 山田義見 |
大蔵次官 1947年 - 1948年 |
次代 野田卯一 |
党職 | ||
先代 岸信介 |
自由民主党総裁 第4代:1960年 - 1964年 |
次代 佐藤栄作 |
先代 結成 |
宏池会会長 初代:1957年 - 1965年 |
次代 前尾繁三郎 |
先代 佐藤栄作 |
自由党幹事長 第6代:1954年 |
次代 石井光次郎 |
先代 木暮武太夫 |
自由党政務調査会長 第6代:1953年 - 1954年 |
次代 水田三喜男 |