昭和天皇

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裕仁 から転送)
昭和天皇
第124代天皇
在位期間:1926年12月25日-1989年1月7日
昭和天皇
在位中の時代 昭和
在位中の首都 東京
在位中の皇居 宮城・皇居
裕仁
幼称 迪宮
別名 摂政宮
若竹
出生 1901年4月29日
出生場所 東京府東京市東宮御所
死没 1989年1月7日
死没場所 東京都千代田区吹上御所
陵墓 武蔵野陵
皇子女 照宮成子内親王
久宮祐子内親王
孝宮和子内親王
順宮厚子内親王
継宮明仁親王
義宮正仁親王
清宮貴子内親王
皇后 香淳皇后

昭和天皇(しょうわてんのう、1901年明治34年)4月29日 - 1989年昭和64年)1月7日)は、日本の第124代天皇。名は裕仁(ひろひと)。お印は若竹(わかたけ)。神話上を除くと、歴代天皇の中で最も在位期間が長く、最も長寿であった。

目次

略歴

旭日旗を持つ、迪宮裕仁親王
旭日旗を持つ、迪宮裕仁親王
昭和3年(1928年)、即位の礼
昭和3年(1928年)、即位の礼

1901年(明治34年)4月29日大正天皇と皇后・九条節子(貞明皇后)の第一皇子として、東京府東京市赤坂区青山(現、東京都港区元赤坂)の東宮御所で生まれた。名は裕仁(ひろひと)、御称号迪宮(みちのみや)。産まれたとき、身長は51珊知米突(cm)、体重800匁(約3kg)であったという。

生後70日で枢密顧問官伯爵川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育された。1908年(明治40年)、学習院初等科に入学し、学習院院長・乃木希典陸軍大将)の厳格な教育を受けた。初等科在学中の1912年(大正元年)、皇族身位令の定めにより陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第一連隊および第一艦隊附となった。1914年(大正3年)3月、学習院初等科を卒業。

1916年(大正5年)年、立太子礼を経て皇太子となった。1918年(大正7年)、久邇宮良子女王が皇太子妃に内定。1919年(大正8年)、満18歳となり、成年式が執り行なわれた。大正天皇の病状悪化の中で、1921年(大正10年)3月3日から同年9月3日まで、イギリスをはじめヨーロッパ諸国を歴訪。同年11月25日、20歳で摂政に就任し、摂政宮(せっしょうみや)と称された。同年12月27日には、虎ノ門付近で狙撃されるが、命中を免れ命を取り留めた(虎ノ門事件)。1924年(大正13年)に、久邇宮良子女王と結婚した。

1926年(大正15年)12月25日、大正天皇崩御を受け践祚して第124代天皇となり、昭和改元[1]

1928年(昭和3年)11月、京都御所即位の大礼を行なった。以後、終戦まで国策決定に深く関与し、特に軍事・外交政策にはしばしば独自の判断を示した。1933年(昭和8年)12月23日、皇太子・継宮明仁親王が降誕(誕生)。1945年(昭和20年)8月ポツダム宣言受諾を決定し、同15日、戦争終結を告げるラジオ放送玉音放送)により、歴代天皇で初めて国民に天皇の声を聞かせた。1946年(昭和21年)1月1日詔書(いわゆる人間宣言)により、天皇の神格性や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、新日本建設への希望を述べた。

1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法において、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とされ、「国政に関する権能を有しない」とされたが、占領期にはGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーとの会見などにより、独自の政治的影響力を保持した。1952年(昭和27年)4月28日サンフランシスコ講和条約が発効して日本が主権を回復し、報告のため伊勢神宮神武天皇の畝傍山陵、明治天皇伏見桃山陵靖国神社をそれぞれ参拝した。

戦後は、天皇としての公務の傍ら、生物学研究者としての業績をあげた。1971年(昭和46年)、皇后と共にイギリス、オランダなどを歴訪。1975年(昭和50年)には、皇后と共にアメリカ合衆国を訪問した。1981年(昭和56年)、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。1986年(昭和61年)には在位60年記念式典が挙行され、(神代を除き)歴代天皇で最長の在位期間を記録した。

1987年(昭和62年)9月22日、歴代天皇で初めて開腹手術を受けた。1988年(昭和63年)8月15日全国戦没者追悼式に出席。これが公の場への、最後の出席となった。1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)により崩御。87歳と、歴代の天皇で(神代を除き)最も長寿であった。在位中の元号である昭和より、昭和天皇追号された。

同年(平成元年)2月24日新宿御苑において大喪の礼が行なわれ、武蔵野陵に埋葬された。

年表

1938年(昭和13年)、陸軍始観兵式で「白雪」号にまたがり閲兵を行なう昭和天皇
1938年(昭和13年)、陸軍始観兵式で「白雪」号にまたがり閲兵を行なう昭和天皇

系譜

昭和天皇の父は大正天皇、母は皇后・九条節子(くじょう・さだこ)(貞明皇后)。父方の祖父は明治天皇、祖母は典侍柳原愛子。母方の祖父は九条道孝、祖母は野間幾子

系図

 
(122)明治天皇
 
(123)大正天皇
 
(124)昭和天皇
 
(125)今上天皇
 
徳仁親王皇太子    
 
 
 
 
 
 
 
 
 
       
 
 
秩父宮雍仁親王
 
 
常陸宮正仁親王
 
 
秋篠宮文仁親王
 
悠仁親王
   
 
 
 
 
       
 
 
高松宮宣仁親王
 
 
寛仁親王        
     
 
 
 
 
   
       
 
 
三笠宮崇仁親王
 
 
桂宮宜仁親王        
     
 
   
 
 
   
           
 
 
高円宮憲仁親王        
     
 
   


皇子女

昭和16年(1941年)12月7日、日米開戦前日の天皇一家
昭和16年(1941年)12月7日、日米開戦前日の天皇一家

香淳皇后との間に7人の皇子女を儲ける。以下誕生順。

主な出来事

宮中某重大事件

詳細は宮中某重大事件を参照

1918年(大正7年)の春、久邇宮邦彦王を父にもち、最後の薩摩藩主・島津忠義の七女・俔子を母にもつ、久邇宮家の長女・良子女王(香淳皇后)が、皇太子妃に内定し、翌1919年(大正8年)6月に正式に婚約が成立した。

しかし、11月に元老山縣有朋が、良子女王の家系(島津家)に色盲遺伝があるとして婚約破棄を進言。 山縣は西園寺公望原敬首相と連携して久邇宮家に婚約辞退を迫ったが、長州閥の領袖である山縣が薩摩閥の進出に危惧を抱いて起こした陰謀であるとして、民間の論客・右翼から非難されることとなった。当初は辞退やむなしの意向だった久邇宮家は態度を硬化させ、最終的には裕仁親王本人の意志が尊重され、1921年(大正10年)2月に宮内省から「婚約に変更なし」と発表された。

事件の責任を取って、中村雄次郎宮内大臣は辞任し、山縣は枢密院議長など一切の官職の辞表を提出した。しかし、同年5月に山縣の辞表は天皇の意思により却下され、翌1922年(大正11年)2月に山縣はひっそり世を去った。この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという。

婚礼の儀の延期と関東大震災

1923年(大正12年)の関東大震災により、同年秋季予定されていた皇太子裕仁親王(当時摂政であった)の婚礼の儀は延期されることとなった。本来なら関東という一地方で起きた地震であるので、国事である皇族の婚礼を延長することはせずに遷都するのが通例であったが、東京の惨状を視察した裕仁親王の意向により延期となった。

この関東大震災で裕仁親王は、後に「加藤のおかげで命拾いをした」と語っている。背景には、霞関離宮が修理中であったために箱根(大きな震災を被った)へ行く予定であったが、加藤友三郎内閣総理大臣が死去し、政変が起きていたため、東京の宮城(皇居)に留まったことがある(1973年の記者会見より。会見記録は、高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます』に詳しい)。

のち1981年の記者会見で、昭和天皇は「その惨憺たる様子に対して、まことに感慨無量でありました」と述懐している。

田中義一首相を叱責

満州某重大事件の責任者処分に関して、内閣総理大臣・田中義一は責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかった時、天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。その結果、田中内閣は総辞職したとされる(田中はその直後に死去)。

田中内閣時には、若い天皇が政治の教育係ともいえる牧野伸顕内大臣の指導の下、選挙目当てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治関与を見せていた。そのため、軍人右翼国粋主義者の間では、この事件が牧野らの「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージが広がった。天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の揺らぎすら生じさせることとなった。

この事件で、天皇はその後の政治的関与について臆病になったという。

なお、『昭和天皇独白録』には、「辞表を出してはどうか」と天皇が田中に内閣総辞職を迫ったという記述があるが、当時の一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らしあわせると、そこまで踏み込んだ発言はなかった可能性が高い。

天皇機関説事件

1935年(昭和10年)、天皇機関説が排撃された天皇機関説事件について、昭和天皇は侍従武官長本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説で良い」と言った。昭和天皇が帝王学を受けた頃には憲法学の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていたにもかかわらず、直接・間接には何ら行動を起こすことはなかった。機関説に関しての述懐を、昭和天皇のリベラルな性格の証左としながら、同時に美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする記述は、しばしば見られるが、現実にはそれほど単純でない。

機関説は、「国家法人説」と呼ばれるドイツ学説に由来するが、この学説は国家の本質を「法人」とする点において主権および主権者の存在をあいまいにする意図をもった学説であり、当時すでに、後発資本主義国であり、外見的立憲主義の典型とされていたドイツにおいてさえ「時代遅れ」とされていた。しかし、戦前期の日本においては、天皇を国家の一機関として観念するという点において、社会科学的思考と結びつく側面をもつと同時に、吉野作造の「民本主義」と並んで護憲運動大正デモクラシーの理論的バックボーンを演じていたことは、日本資本主義がドイツよりもさらに後発であることと、立憲主義がさらに外見的であったことを反映していた。しかし、昭和天皇がそこまでの理解を持っていたかは疑問である。昭和天皇の理解していた機関説は、「一機関」としての性質を強調する一木-美濃部ラインのものではなく、有機体の「頭部」であることを強調する、清水澄の学説に近かったとする説もある。

二・二六事件

1936年(昭和11年)に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、侍従武官長・本庄繁陸軍大将の「彼らも国を憂えて起こした行動で必ずしも咎めるものではないかと存じます」との進言に、昭和天皇は怒りも露に「朕が頼みとする股肱の老臣を殺害する、かくの如き凶暴の将校の精神に何ら許すべきものがあると言うのか。老臣たちを悉く倒すは朕が首を真綿で締めるに等しき行為ではないか」、さらに「お前達がやらぬなら朕自ら近衛師団を率いてこれを鎮圧に当たらん」と発言したとされる。この事は「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面して初めて自らの意思を述べたとも言える。これによって決起軍は反乱軍と認定され、事件は速やかに解決に向かったのである。この時の発言を、太平洋戦争終結のいわゆる“ご聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」とか「あの時はまだ若かったから」と後に語ったと言われている。なお、1975年(昭和50年)にエリザベス女王が来日した際、事件の影の首謀者と言われることもある真崎甚三郎の息子を、昭和天皇は自分の通訳に選んでいる。

太平洋戦争

開戦

1941年(昭和16年)9月6日御前会議で、対英米蘭戦は避けられないものとして決定された。御前会議では発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、明治天皇御製の

「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらん」
(四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思う世に なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう)

という短歌を詠み上げた。

昭和天皇自身は開戦には消極的であったと言われている。しかし、戦争が始まった後の1941年12月25日には日本軍の勝利を確信して、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次の日記に記されている。

戦争指導

1943年6月24日、戦艦武蔵に行幸した昭和天皇(中央)
1943年6月24日戦艦武蔵行幸した昭和天皇(中央)

戦争末期のころは、文字通り世界中で日本軍が戦火をあげていた状況で、昭和天皇は各地の戦況を淡々と質問していた。この点で昭和天皇の記憶力は凄まじいものがあったと思われ、実際に幾つか指示等もしている。また、この様なやりとりのなかで答えてしまったがために、後にはひけずにニュージーランドなどオセアニア付近へ戦局を広げねばならなくなってしまった経緯が存在する。 戦争当時、皇室は大銀行国策会社大株主であり、戦時経済は皇室財政の拡大に貢献した(後述の財産参照)。

和平に向けて

1945年(昭和20年)1月6日に、連合国軍ルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。この時、木戸は陸海両総長と閣僚の召集を勧めている[2]。 準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であった[3]

詳細は近衛上奏文を参照

そのなかで特筆すべきものとしては、2月14日に行われた近衛文麿上奏がある。近衛は敗戦必至であるとして、和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだと提案している。昭和天皇は、近衛の言うとおりの人事ができないことを指摘しており、近衛の策は実行されなかった[4][5]。近衛が共産主義革命を恐れた背景としては、皇室が日本最大の富豪であり資本家であった事実がある。

東京大空襲の戦渦を視察し、関東大震災につづく帝都の破壊に直面した昭和天皇は、これをもって終戦を決意したと後に述懐している[要出典]8月9日ポツダム宣言受諾決議案について長時間議論したが結論が出なかっため、首相・鈴木貫太郎の判断により天皇の判断(御聖断)を仰ぐことになった[6]。 昭和天皇は受諾の意思を表明し、8月15日玉音放送。終戦となった。後に昭和天皇は侍従長の藤田尚徳に対して「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」と述べている[7][8]

なお、敗戦に備えて、昭和19年に皇室財産をスイスに隠匿したという主張がある(後述の財産参照)。

象徴天皇への転換

人間宣言

昭和天皇(右)とマッカーサーの会見で(1945年)
昭和天皇(右)とマッカーサーの会見で(1945年

1946年(昭和21年)1月1日人間宣言を渙発。この詔書はイギリスアメリカソ連を中心とした連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導下にあったマスコミにより天皇の神格否定として喧伝され、国民に大きな衝撃を与えた。

これと前後して、天皇がGHQ本部を表敬訪問した際に撮影された、GHQ総司令官でアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥と一緒に並んだ全身写真が公開(情報局により「不敬」を理由に発禁処分となったという[9])されている。天皇が正装のモーニングを着用し直立不動でいるのに対し、マッカーサーがラフな服装で腰に手を当てたリラックスした態度であることに、国民は改めて敗戦の重みを思い知らされた。天皇はマッカーサーに比べて身長が低かったことも衝撃を与えている。また、マッカーサーは「天皇のタバコの火を付けたとき、天皇の手が震えているのに気がついた。できるだけ天皇の気分を楽にすることにつとめたが、天皇の感じている屈辱の苦しみがいかに深いものであるかが、私には、よくわかっていた」と回想している(「マッカーサー回想記」より)。

天皇イメージの転換

戦前の天皇は国民との接触はほとんど無く、公開される写真、映像も大礼服軍服姿がほとんどで、現人神大元帥と言う立場を非常に強調していた。

ポツダム宣言には天皇や皇室に関する記述が無く、非常に微妙な立場に追い込まれた。そのため、政府や宮内省などは、天皇の大元帥としての面を打ち消し、軍国主義のイメージから脱却すると共に、巡幸と言う形で天皇と国民が触れ合う機会を作り、天皇擁護の世論を盛り上げようと苦慮した。具体的に、第1回国会の開会式、伊勢神宮への終戦報告の参拝時には、海軍の軍衣から階級章を除いたような「天皇御服」と呼ばれる服装を着用した。

さらに、進駐軍が上陸してくると、礼服としてモーニング、平服としては背広を着用してソフト路線を強く打ち出した。また、いわゆる「人間宣言」でGHQの天皇制擁護派に近づくと共に、一人称としてを用いるのが伝統であったのをを用いたり、巡幸時には一般の国民と積極的に言葉を交わすなど、日本の歴史上最も天皇と庶民が触れ合う期間を創出した。

外遊

皇太子として

1921年(大正10年)、英国オックスフォード大学でボートレースを見物する皇太子
1921年(大正10年)、英国オックスフォード大学でボートレースを見物する皇太子

皇太子時代の1921年(大正10年)3月3日から同年9月3日までの間、イギリスフランスベルギーイタリアバチカンなどを公式訪問した。これは史上初の皇太子の訪欧[10]であり、国内には反対意見も根強かったが、山縣有朋西園寺公望などの元老らの尽力により実現した。

裕仁親王の出発は新聞で大々的に報じられた。お召し艦には戦艦香取が用いられた。イギリスでは日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、国王ジョージ5世ロイド・ジョージ首相らと会見した。ジョージ5世はバッキンガム宮殿での最初の夜、慣れぬ外国で緊張する当時の裕仁親王に父のように接し緊張を解いたという。イタリアでは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らと会見したほか、各国で公式晩餐会に出席したり、第一次世界大戦当時の激戦地などを訪れた。後に昭和天皇はこの外遊が非常に印象的であったと述べている。

天皇として

1971年(昭和46年)には9月27日から10月14日にかけて17日間、再度イギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問した。訪問先には数えられていないが、このとき、経由地としてアラスカアンカレッジに立ち寄っており、当時アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンとも会見、実質的にアメリカも訪問している。当初の訪問地であるデンマークベルギーフランスなどでは暖かく歓迎された。

フランスでは旧知であるウィンザー公と隠棲先で再会、しばし歓談している。しかし当時両国が植民地支配していたビルマや、インドネシア戦線で旧日本軍の捕虜となった退役軍人が多いイギリスとオランダでは、彼らの抗議活動に遭遇することになった。特に植民地であったインドネシアを失ってアジアにおける拠点を完全に失ったオランダにおいては、生卵や魔法瓶を投げつけられ、同行した香淳皇后が憔悴したほど抗議はひどいものであった。

また、1975年(昭和50年)には、当時アメリカ合衆国大統領ジェラルド・R・フォードの招待によって9月30日から10月14日まで14日間にわたって、アメリカ合衆国を公式訪問した。天皇の即位後の訪米は史上初の出来事である(これ以前に実現しなかった理由には、国事行為の臨時代行に関する法律が整備されていなかったという事情もあった)。これに先立つこと10余年前、皇太子明仁親王夫妻が訪米しており、この訪米は皇太子夫妻のつけた道筋を辿ってのものといえる。

なお、1973年(昭和48年)、1974年(昭和49年)にも訪米が計画されたが、調整不足もあって実現には至らなかった。訪米前にはアメリカ人は天皇の訪米にあまり関心がないという報道がなされ、侍従長入江相政によると、天皇に対する激しい憎しみを露わにしたアメリカ人もいたといい、関係者を悩ませた。

天皇はウィリアムズバーグに到着して後、2週間にわたってアメリカに滞在し、訪米前の予想を覆してワシントンD.C.ロサンゼルスなど、訪問先各地で大歓迎を受けた。10月2日フォード大統領との公式会見、10月3日のアーリントン国立墓地に眠る無名戦士の墓への献花、10月4日のニューヨークでのロックフェラー邸訪問とアメリカのマスコミは連日大々的に報道し、新聞紙面のトップは天皇の写真で埋まった(在米日本大使館の職員たちは、その写真をスクラップして壁に張り出したという)。ニューヨーク訪問時には、真珠湾攻撃の生き残りで構成されるパールハーバー生存者協会が天皇歓迎決議を行っている。訪米中は学者らしく、植物園などでのエピソードが多かった。

ホワイトハウス晩餐会でのスピーチでは、戦後アメリカが日本の再建に協力したことへの感謝の辞などが読み上げられた。ロサンゼルス滞在時にはディズニーランドを訪問し、ミッキーマウスの隣で微笑む写真も新聞の紙面を飾った。同地ではミッキーマウスの腕時計を購入したことが話題になった。昭和天皇の外遊は、この訪米が最後のものであった。

2007年現在で13回の海外訪問を行っている今上天皇(明仁)と比較しても、回数はごく僅かである。しかし、二度の外遊はいずれも第二次世界大戦の痛手からの回復、国際社会への復帰を印象付けるに十分以上の成果を挙げたといえる。帰国の当日には二種類の記念切手が発行されており、この訪米が一大事業であったことを物語っている。

行幸

昭和22年(1947年)石川県で開催の第2回国民体育大会の折り、山中温泉で栢野大杉を見上げる昭和天皇。あまりの大きさに暫く言葉もなく見上げたという。
昭和22年(1947年石川県で開催の第2回国民体育大会の折り、山中温泉栢野大杉を見上げる昭和天皇。あまりの大きさに暫く言葉もなく見上げたという。

戦前、皇太子時代から盛んに国内各地に行啓、行幸を行った。特に正式に日本領として認められて日の浅い北海道沖縄両地への行啓は大掛かりに実施され、記録に残っている。1923年(大正12年)には台湾にも行啓している。

戦後は1946年(昭和21年)2月から約9年かけて日本全国を巡幸し、各地で国民の熱烈な歓迎を受けた。三井三池炭鉱の地下1000mもの地底深くや、満州からの引揚者が入植した浅間山麓開拓地などにも赴いている。開拓地までの道路は当時整備されておらず、約2kmの道のりを徒歩で村まで赴いた。1947年(昭和22年)には原爆投下後初めて広島に行幸し、「家が建ったね」と復興に安堵する言葉を口にした。その他、行幸先でのエピソード、御製も非常に多い(天覧の大杉のエピソード参照)。

全国46都道府県を巡幸するも、沖縄巡幸だけは沖縄がアメリカ軍の占領下にあったため、ついに果たすことができず、死の床にあっても「もうだめか」と沖縄巡幸を行なえないことを悔やんでいた。

また、1964年(昭和39年)の東京オリンピック1970年(昭和45年)の大阪万国博覧会1972年(昭和47年)の札幌オリンピックバブル経済前夜の1985年(昭和60年)の国際科学技術博覧会(つくば博)の開会式にも出席している。これらイベントの成功にどれほど寄与したかを正確に計ることはできないが、特に敗戦から立ち直りかけた時期のイベントである東京オリンピックの成功には、大きな影響を与えたと見られている。病臥した1987年(昭和62年)秋にも、沖縄海邦国体への出席が予定されていた。病臥し自ら訪沖することが不可能と判明した後は、皇太子明仁親王を名代として派遣し、お言葉を伝えた。これに関して、「思はざる病となりぬ沖縄をたづね果たさむつとめありしを」との御製が伝わり、深い悔恨の念が思われる。代理として訪沖した皇太子明仁親王(今上天皇)は沖縄入りし代表者と会見した際、「確かにお預かりしてまいりました」と手にしたお言葉をおしいただき、真摯にこれを代読した。

スポーツ観戦

詳細は天覧試合を参照

大正2年(1913年)頃、侍従と相撲に興じる裕仁親王(12歳)。
大正2年(1913年)頃、侍従と相撲に興じる裕仁親王(12歳)。

皇太子時代から大変な好角家であり、皇太子時代には当時の角界に下賜金を与えて幕内優勝力士のために摂政賜杯を作らせている。天皇の即位に伴い、摂政賜杯は天皇賜杯と改名された。観戦することも多く、戦前戦後合わせて51回も国技館天覧相撲に赴いている。特に戦後は1955年(昭和30年)以降、病臥する1987年(昭和62年)までに40回、ほとんど毎年赴いており、贔屓の力士も蔵間富士桜霧島など複数が伝わっている。特に富士桜の取り組みには身を乗り出して観戦したと言われ、同タイプの力士であり毎回熱戦となる麒麟児との取り組みは、しばしば天覧相撲の日に組まれた。天皇は後に、少年時代に相撲をやって手を覚えたため、観戦時も手を知っているから非常に面白いと語った。

1959年(昭和34年)には天覧試合として、プロ野球巨人阪神戦、いわゆる「伝統の一戦」を観戦している。天覧試合に際しては、当時の大映永田雅一社長がこれを大変な栄誉としてとらえる言を残しており、相撲野球の振興に与えた影響は計り知れないと言える。この後プロ野球において天覧試合は行われなかったが、プロ以外では1966年(昭和41年)11月8日日米野球ドジャース戦が天覧に付されている。

靖国参拝

靖国神社問題#天皇の参拝も参照

昭和天皇は、終戦直後から1975年(昭和50年)まで以下のように靖国神社に参拝[11]していたが、1975年の参拝を最後に靖国神社への参拝を行わなくなった。

  1. 1945年(昭和20年)8月20日(昭和天皇行幸)
  2. 1945年(昭和20年)11月・臨時大招魂祭(昭和天皇行幸)
  3. 1952年(昭和27年)4月10日(昭和天皇、香淳皇后行幸)
  4. 1954年(昭和29年)10月19日・創立八十五周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)
  5. 1957年(昭和32年)4月23日(昭和天皇、香淳皇后行幸)
  6. 1959年(昭和34年)4月8日・創立九十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)
  7. 1964年(昭和39年)8月15日・全国戦没者追悼式(昭和天皇、香淳皇后行幸)
  8. 1965年(昭和40年)10月19日・臨時大祭(昭和天皇行幸)
  9. 1969年(昭和44年)6月10日・創立百年記念大祭(昭和天皇、香淳皇后行幸)
  10. 1975年(昭和50年)11月21日・大東亜戦争終結三十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)

天皇が参拝を行わなくなった理由については、左翼過激派の活動の激化、宮中祭祀が憲法違反であるとする一部野党議員の攻撃など様々に推測されてきたが、近年『富田メモ』(日本経済新聞2006年)・『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞、2007年4月26日)などの史料の記述から、1978年(昭和53年)に極東国際軍事裁判でのA級戦犯14名が合祀されたことへ昭和天皇が不快感をもっていたからとの説が浮上している。

ただし、例大祭に際しては勅使の発遣を行っているほか、ABC級戦犯も追悼の対象とされている全国戦没者追悼式には崩御直前の1988年(昭和63年)まで欠かさず出席していた。また、1979年(昭和54年)5月、愛知県豊田市で開かれた植樹祭に出席した際は、わざわざ不便な幡豆郡幡豆町三ヶ根に宿泊し、早朝に同地にある殉国七士廟(絞首刑となったA級戦犯7人の墓碑)に向かって長い間直立不動の姿勢をとっていたとされる。

歴史教科書問題の持ち上がった1982年には、「わが庭のそぞろありきの楽しからず わざわひ多き今の世を思へば」、自身最後となる戦没者慰霊式典に参加した1988年8月15日にも「やすらけき世を祈れどもいまだならず くやしくもあるかきざしみゆれど」との御製もある。御製に関しては、昭和天皇の大御歌も参照のこと。

「崩御」前後

1988年(昭和63年)の暮れに入って病臥すると、各地に病気平癒を願う記帳所が設けられたが、どこの記帳所でも多数の国民が記帳を行った。病臥の報道から一週間で記帳を行った国民は235万人にものぼり、最終的な記帳者の総数は900万人に達した。

各地の記帳所、記帳所の設置された場所
  • 皇居前記帳所
  • 千葉県民記帳所
  • 葉山御用邸通用門記帳所
  • 名古屋熱田神宮境内記帳所
  • 京都御所前記帳所
  • 福岡市庁舎内記帳所
  • 東京都大島町 天皇陛下病気お見舞い記帳所

1988年9月19日の吐血直後暫くの間、公式行事や儀式、歌舞音曲を伴う行事が自粛された。また、1989年(昭和64年)1月7日崩御するまでの期間に、さまざまな「自粛」が行われた(以下はその例)。