森章太郎

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森章太郎
本名 小野寺 章太郎
(おのでら しょうたろう)
生誕 1938年1月25日
日本の旗 宮城県登米郡石森町
(現・宮城県登米市
死没 (1998-01-28) 1998年1月28日(60歳没)
日本の旗 東京都文京区(順天堂大学医学部附属順天堂医院)[1]
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家
特撮原作者
称号 勲四等旭日小綬章
活動期間 1954年 - 1998年
代表作サイボーグ009
仮面ライダー
人造人間キカイダー
さるとびエッちゃん
マンガ日本経済入門
HOTEL
受賞 第 7回講談社児童まんが賞
(『サイボーグ009』『ミュータント・サブ』
第13回小学館漫画賞
(『ジュン』『佐武と市捕物控』)
第33回小学館漫画賞
(『HOTEL』『マンガ日本経済入門』)
第17回日本漫画家協会賞大賞
(『マンガ日本経済入門』)
日本漫画家協会賞文部大臣賞
手塚治虫文化賞マンガ特別賞
映画特別功労賞
公式サイト https://ishimoripro.com/
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森 章太郎(いしのもり しょうたろう、1938年昭和13年〉1月25日[2][3] - 1998年平成10年〉1月28日[3])は、日本漫画家特撮作品原作者。本名は小野寺 章太郎(おのでら しょうたろう)[3]

1984年までは石森 章太郎の表記を用いたが、この時期には「いしもり-」と呼ばれるのが通例だった。出生地の「石森」は「いしのもり」と読む。

概要

SF漫画ギャグ漫画から学習漫画まで幅広いジャンルの作品を量産し、「漫画の王様」[4][5]、「漫画の帝王」[6]と評された[注釈 1]

代表作は『サイボーグ009』、『佐武と市捕物控』、『009ノ1』、『さるとびエッちゃん』、『人造人間キカイダー』、『マンガ日本経済入門』、『HOTEL』など[3]仮面ライダーシリーズを始め、特撮作品の原作者としても活躍した。

昭和30年代から40年代、漫画の世界で新しい手法の開発者としてとくに目立った存在であり、多様な分野と作風の中でも特にSF漫画で他への影響が手塚治虫と並んで大きく、いわゆる手塚風漫画の中で最もスタイリッシュな作風で、各時点での新鮮な画面コマ表現と少女漫画にも通用する滑らかな線をもち、昭和40年代始め頃には漫画の王様と呼ばれていた。この時期の作風は、SF (S&F) 性・詩的叙情・アクションを含むことが多かった。それらの要素は1971年に放送開始された『仮面ライダー』以降、徐々に特撮作品へと移っていき、執筆する漫画の傾向は青年漫画や学習漫画など幅広いものとなっていった。

1989年(平成元年)、漫画には「面白い、おかしい」だけではない多数の表現が可能になったとして、漫画の新しい呼び名「萬画」を提唱し「萬画宣言」を発表した[注釈 2]。以降は自らの職業を「漫画家」ではなく「萬画家」と称した。没後の2007年末には、500巻770作品におよぶ個人全集『石森章太郎萬画大全集』(角川書店)が、一人の著者による最も多い漫画の出版の記録としてギネス・ワールド・レコーズに認定されている[注釈 3]。なお、テレビ原作者(アニメ、実写)としてのクレジットは放映期間のべ六十数年分に及び、野村胡堂長谷川町子らを凌駕して国内最高で、2020年現在も更新し続けている。手塚治虫の衣鉢を継ぐSF漫画の第一人者であったが、熱心なSFの読者としても知られ、海外SF小説から作品のヒントを得ていたことも指摘されている[7]し、本人も作中でよく紹介している。

妻の小野寺利子は石森グループ会長。息子に俳優の小野寺丈(長男)と石森プロ社長の小野寺章(次男)がいる。脚本家の石森史郎は従兄弟[8]。小説家の今野敏はとこ[9]

経歴

生い立ち

登米市中田町石森の石ノ森章太郎生家。一般公開されている。

1938年(昭和13年)1月25日[注釈 4]宮城県登米郡石森町(現登米市中田町石森[3][注釈 5]に、父・康太郎、母・カシクの長男として生まれる。姉、弟2人、妹の5人兄弟。下記にもあるように当初は映画監督を志していたが、3歳上の姉は生来病弱で外出もままならないため、学校での出来事や外での見聞などを絵に描いて見せていたのが、漫画の原点であったという。

そして手塚治虫の「新寶島」に出会い、衝撃を受ける。以後手塚治虫の大ファンになった。

中学時代、近所の子供を集めて漫画同人誌墨汁一滴』を作るも、2号で廃刊した。2年生の時「毎日中学生新聞」に4コマ漫画を投稿し入選、以後投稿マニアとなる。

宮城県佐沼高等学校[注釈 6]入学後、『漫画少年』への投稿仲間を集めて「東日本漫画研究会」を設立、肉筆回覧誌『墨汁一滴』を制作する。このころ既に漫画業界で「宮城県に天才がいる」と評判になっている。この頃のあだ名は「じゃがいも」。

高校2年生の春、漫画少年の投稿が手塚治虫の目に入り、『鉄腕アトム』のアシスタントを務める。

デビュー以後

高校在学中の1954年(昭和29年)[3][注釈 7]、手塚治虫の仲介で、石ノ森は『漫画少年』でデビューすることになる[14]。デビュー作は『漫画少年』新年号にて掲載された『二級天使』[3]。厳格な公務員であった父からは漫画家になることを反対されていたが、喘息持ちの姉が両親を説得するなど熱心に応援してくれたこともあり、翌年の高校卒業と同時に姉の病気治療も兼ねて2人で上京する。手塚をはじめ多くの漫画家たちが住んでいたトキワ荘に住み、作家活動を始めた。トキワ荘グループの男性陣の中では最年少ではあったが、最も早く頭角を現し、赤塚不二夫[注釈 8]などは、自分の漫画を描くよりも、石ノ森のアシスタントをする時間の方が多いほどだった。また創作速度も極めて速く、藤子不二雄[注釈 9]やのちに石ノ森のアシスタントを務めた永井豪など、石ノ森を知る人間は口を揃えて制作の速さを証言している。藤子の『まんが道』では、藤子が2人で1日に5、6枚描ければよいところを、石ノ森は1人で15-20枚を描いていたという話が出てくる。また石ノ森のエッセイ漫画『サンジェルマン伯爵』(サイボーグ009「海底ピラミッド編」のエピローグに相当)には、「昔(赤塚不二夫と2人で描いていた時代)は月650枚という無茶もやったが、最近では歳だから300枚でフウフウいう」とある。島本和彦は文庫版『石ノ森章太郎のマンガ家入門』の解説で、「石ノ森章太郎は考えずに、考えたあとの結果を惹きだせる作家ということになる。(中略)その後、石ノ森章太郎本人にたずねたことがあるが、この私の理解は正しかった。描くときは「感覚」で描くのだ。しかも「考えながら描くと良いものが出ない」ということなのだ」と語っている[15]

しかし1958年(昭和33年)4月、トキワ荘で石ノ森と同居し、トキワ荘グループのマドンナ的存在となっていた姉が急逝した[注釈 10]。最大の理解者であった姉を失ったことは、後の石ノ森の作風にも大きな影響をもたらした。

1959年(昭和34年)、手塚のアシスタントだった月岡貞夫とともに、手塚の身代わりとして東映動画(現・東映アニメーション)の劇場アニメ『西遊記』の制作現場に派遣された。石ノ森は月岡とともに「このまま東映動画に入ってアニメーションをやりたい」と訴えたが、当時東映動画の若手スタッフだった白川大作(後に東映動画専務)から「(絵が個性的でアニメに向かないから)ちゃんと漫画をやれ。そのかわり漫画が売れたらそれを原作として買いに行く」と説得されて断念した[16][注釈 11]。後にこのときの約束通り東映動画で作品がアニメ化された。さらに東映本体での特撮番組企画へとつながる東映グループとの接点のきっかけとなる。

藤子、赤塚らと共にトキワ荘に長く住み、国民的売れっ子作家に上り詰めた中でも、もっとも遅い時期まで石ノ森はトキワ荘に住み続けた。

スター作家として

石ノ森萬画館の最寄駅であるJR石巻駅に飾られた人気作品の人形(左側: 仮面ライダー、右側: サイボーグ009)。
009が描かれた松島救難隊創設50周年記念塗装機。所属は石巻に隣接する東松島市松島基地

1964年(昭和39年)7月19日より代表作『サイボーグ009』の連載を開始する[注釈 12]。この頃にはすでにスター作家となっており、この時期に描かれた石ノ森のマンガ入門書『マンガ家入門』(1965年)、『続・マンガ家入門』(1966年)は当時から広く読まれた。これは漫画の技術論から、具体的なストーリー構想術までが書かれた画期的な漫画家入門書で、長年の間漫画家志望者のバイブルとなった。また、『サイボーグ009』を連載していた当時、ファンレターの宛先が漫画家の住所となっていたため多数の読者が訪問していた[7]すがやみつるが『サイボーグ009』の連載終了直後に訪問したときは、サインを貰いにきた別の訪問者に対して、訪問者に見えないところで当時チーフアシスタントであった永井豪が絵だけではなくサインまで書き上げて渡していたという[7]。このような対応を行わないと仕事にならないほど訪問者がきていたことが原因である[7]

1971年(昭和46年)より、東映特撮作品『仮面ライダー』の原作とその漫画化(仮面ライダー)を担当した[3]。既にある漫画の実写映像化ではなく、製作会社である東映の企画に設定とキャラクターデザインを提供、できあがったものを元に漫画も執筆するというものであり、この成功をきっかけに同社における数多くの特撮変身ヒーロー番組の原作を手がけることになった。もともと映画監督志望だったこともあり、一部の作品(『仮面ライダー』や『イナズマン』)では監督も務めている。

これらの実写作品では、主役などのレギュラーのキャラクターデザインを石ノ森が手がけるのが通例だったが、『仮面ライダーストロンガー』以降の仮面ライダーシリーズや『アクマイザー3』『秘密戦隊ゴレンジャー』『ジャッカー電撃隊』などの1970年代中期以降の作品では、毎回登場するゲストのキャラクター(敵の怪人)のデザインも数多くおこなっている。ゲストのキャラクターのデザインの多くは簡単な設定込みで石ノ森がラフスケッチを起こすという形で行われ、このラフスケッチをもとに東映の番組スタッフ側でシナリオや着ぐるみがつくられた[注釈 13]

1981年(昭和56年)より日本漫画家協会理事を務める。

1985年(昭和60年)[注釈 14]、画業30年を機に「石森章太郎」から「石ノ森章太郎[注釈 15]」に改名した[3]。もともと彼のペンネームは故郷の石森町に由来するもので、「石森」と書いて「いしのもり」と読ませるつもりだったが、誰も「いしのもり」と読んでくれず、「いしもり」としか呼ばれなかったため、初心に戻る意味をこめて改名を行なったという。しかし、山田ゴロが自身のサイトで語るところによると、改名する前は打ち合わせ・旅行・忘年会などの季節行事で関係者一同に頻繁に会っていたのが、改名した頃からはそれがなくなり、石森プロに連絡しても会わせて貰えなくなった。ほどなく関係者一同の間で「先生は御病気らしい」という話が広まったという。

1992年に突然高熱を出し入院。風邪によく似た症状だったが、検査の結果悪性リンパ腫と診断された。その後も闘病生活の傍ら執筆活動を続けたが、次第に病状が悪化。1998年(平成10年)1月28日東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院リンパ腫による心不全のため死去、60歳没[1][3]。還暦を病院で迎えてから僅か3日後のことであった。戒名は「石森院漫徳章現居士」。墓は東京都豊島区池袋三丁目の祥雲寺にある。

年表

人物

アシスタント経験者かつ弟子でもある永井豪は、石ノ森のことを「常人の5倍のスピードで描ける天才」と評している[19]

『仮面ライダー』以後、自身が原作を手がける特撮テレビ番組の漫画連載も多く担当したが、これらはパブリシティ展開として義務付けられていたものであり、テレビ作品の雑誌連載はやりたくないというのが本音であったと述べている[2]。特に作中へテレビ用のキャラクターを登場させると物語に無理が生じることにジレンマを抱えており、後発の『秘密戦隊ゴレンジャー』などではテレビ版とは異なる内容で執筆している[2]。小学生時代にこれらの作品を読んでいた東映の白倉伸一郎は、石ノ森のコミカライズは深いテーマを内包しているが、連載期間内では処理しきれないことが多いと評している[20]

原作者として参加したテレビ作品に対しては技術的な部分以外に不満はないとしているが、自身の既存の作品を映像化する際は身を切られるような想いであったといい、『サイボーグ009』や『好き! すき!! 魔女先生(千の目先生)』などの設定変更には抵抗があったことを語っている[2]

ヘビースモーカーで灰皿をすぐ一杯にするため、トキワ荘時代は赤塚不二夫が気を利かせてこまめに交換していたという[21]

主要作品リスト

※五十音順

外部原作者作品

特撮原作

この欄で紹介する作品は、テレビ番組の企画のブレーンとしての参加であり、テレビの企画が先行し漫画が原作というわけではない(詳細は上記の「経歴」を参照)。また、自らは漫画を描いていない作品も多い。

以下は没後製作されたが、著作権管理を一括する配慮からテロップでは原作者とされている。

共作扱い

スーパー戦隊シリーズの原作は、第1作『秘密戦隊ゴレンジャー』と第2作『ジャッカー電撃隊』のみ石ノ森(当時は「石森」)が担当し、第3作『バトルフィーバーJ』以降は八手三郎に交代した。ただし、ゴレンジャーとジャッカーも登場する場合や仮面ライダーシリーズとのクロスオーバーでは、石ノ森も連名でクレジットされている。

なお、『仮面ライダーディケイド』第24・25話と『侍戦隊シンケンジャー』第20・21話(両作品のクロスオーバー)においては、『ディケイド』では石ノ森のみが、『シンケンジャー』では八手のみが原作者としてクレジットされた。『手裏剣戦隊ニンニンジャー』第7話にはアカレンジャーが登場しているが、石ノ森のクレジットはない。

一方、石ノ森(石森)が単独原作者とされる東映作品(『宇宙鉄人キョーダイン』『快傑ズバット』『氷河戦士ガイスラッガー』など)において、八手が作詞者としてクレジットされている楽曲が多い。

アニメ 原作

以下は没後の製作。

テレビドラマ原作

以下は没後の製作。

  • おみやさん - 石ノ森の漫画「草壁署迷宮課おみやさん」が原作になっている。

この他、『新・おみやさん』2012年版第1話と『京都地検の女』2012年版第1話では両作品同士のクロスオーバーが行われたが、『京都地検の女』では石ノ森は原作者としてクレジットされていない。

映画原作一覧

アニメ映画

実写映画

他作家が執筆した作品の原作

映像作品のコミカライズ、ノベライズは除く。

漫画

仮面ライダーシリーズの漫画作品は、仮面ライダーシリーズ#他の作家による漫画作品を参照。

小説

作詞

  • 戦いおわって - 『サイボーグ009』(テレビ版第1作)ED
  • 原始少年リュウが行く - 『原始少年リュウ』OP
  • ランのうた - 同ED
  • がんばれロボコン - 『がんばれ!!ロボコン』OP
  • ゴーゴー・キカイダー - 『人造人間キカイダー』OP
  • キカイダー01 - 『キカイダー01』OP
  • 月光の子守唄 - 『好き!すき!!魔女先生』ED
  • 地獄のズバット - 『快傑ズバット』OP
  • 戦えイナズマン - 『イナズマン』OP
  • イナズマン・アクション - 『イナズマンF』ED
  • 勝利だ!アクマイザー3 - 『アクマイザー3』OP
  • 斗え!!超神ビビューン - 『超神ビビューン』OP
  • 宇宙鉄人キョーダイン - 『宇宙鉄人キョーダイン』OP
  • オー!!大鉄人ワンセブン - 『大鉄人17』OP
  • 透明ドリちゃん - 『透明ドリちゃん』OP
  • やがて青春 - 『それゆけ!レッドビッキーズ』OP
  • 勇者よ銀河を渡れ - 『宇宙からのメッセージ銀河大戦』OP
  • 星雲仮面マシンマン - 『星雲仮面マシンマン』OP
  • たたかえ!バイクロッサー - 『兄弟拳バイクロッサー』OP
  • ロボット8ちゃん - 『ロボット8ちゃん』前期OP
  • 8ちゃんのえかき唄 - 同後期ED
  • ロボットガンちゃん110番 - 『ロボット110番』OP
  • 誰がために - 『サイボーグ009』(テレビ版第2作)OP
  • 星の子チョビン - 『星の子チョビン』OP
  • 星のしずくの子守唄 - 同ED
  • 氷河戦士ガイスラッガー - 『氷河戦士ガイスラッガー』OP

など。

仮面ライダーシリーズ 関連楽曲

など。

スーパー戦隊シリーズ 関連楽曲

著書

  • 石森章太郎:「マンガ家入門」(1965年).
  • 石森章太郎:「レオナルド・ダ・ビンチになりたかった」、ポプラ社(1983年).
  • 石森章太郎:「続・マンガ家入門」(1966年).
  • 石ノ森章太郎:「石ノ森章太郎の青春」,小学館文庫(1998).
  • 石ノ森章太郎:「絆 不肖の息子から 不肖の息子たちへ」、鳥影社、ISBN 978-4886297952(2003年12月30日).
  • 石ノ森章太郎:「ボクはダ・ヴィンチになりたかった」(石ノ森章太郎生誕70年叢書シリーズ)、清流出版、ISBN 978-4860292522(2008年6月).

石ノ森章太郎萬画大全集

角川グループ創立60周年の記念企画。2006年2月22日第1期発売開始。全12期500冊。770タイトルにもなる。2008年現在全12期発行完了。

ネットでの予約販売のみ(一般書店では購入不可能)、各期ごとのセット販売のみ(1冊ずつの購入は不可能)、限定生産という、入手を難しくする条件が重なったため、復刊ドットコムで販売形式が発表された当初は、掲示板に批判的な意見が多数寄せられた。

2008年1月24日ギネス・ワールド・レコーズから「1人の著者によって出版された最多コミックの記録」として世界記録の認定を受けた[24]

2014年〜2015年には、同様の企画として電子書籍『石ノ森章太郎 デジタル大全』(石森プロ・講談社)の配信が開始されている。(全15期500冊)[25]こちらは1冊から購入可能になっている。

キャラクターデザイン

上のアニメや特撮の原作となった作品のキャラクターは省いている。

その他

  • 鉄腕アトム ミドロが沼の巻 - 原画マンのうちのひとりとして。※ スタジオ・ゼロが虫プロダクションから制作を受けたもの。アトムなどの絵柄が各人ごとにバラバラであったために、虫プロは大幅に手直し作業をしたとされる。
  • オバケのQ太郎 - 作画協力
  • 石ノ森章太郎のマンガ超電導講座(講談社Quark編) - 漫画作品(高温超電導体の発見、フィーバーの様子を独特の表現で描いた)
  • シージェッター海斗
  • デューン 砂の惑星/砂の救世主/砂の子供たち(長編SF小説、早川書房) - 日本語初期版の表紙イラストと挿絵
  • ルパン三世 DEAD OR ALIVE - モンキー・パンチ応援団の参加者。
  • コズミックゲリラ - ユニバーサルのアーケードゲーム、石森プロとしてコンセプトデザインを担当
  • あしたの朝は星の上
  • 絆 不肖の息子から 不肖の息子たちへ(鳥影社) - 石ノ森の話を書き下ろしにしたエッセイ
  • 2012 009 conclusion GOD'S WAR(サイボーグ009完結編) - 小説作品、小野寺丈との共著(膨大な量のプロットを作成したが実際の作品は一部の原稿を執筆したのみで未完、後に小野寺が引き継いだ)
  • 有害コミック騒動に対して - 「コミック表現の自由を守る会」を結成、表現の規制を抑止
  • ゆうばり国際ファンタスティック映画祭 - シネガーのキャラクターデザイン
  • 2008年は石ノ森章太郎生誕70周年や没後10年でもあり、同年3月23日から29日にかけてNHK-BS2にて石ノ森の漫画作品や映像原作作品を特集する「とことん!石ノ森章太郎」が31時間超の異例の特別番組として放送され、また、「70周年記念DVDボックス」が発売されるなど記念行事的なイベントが続いた。
  • 猫が通れば道理引っ込む - エッセイ集

主な出演作品

原作者という立場ではあるが、いくつかの作品では、石ノ森章太郎本人がテレビ番組や映画作品中に出演している。

出演時期によっては「石森章太郎」名義になっている。

テレビ

映画

ビデオ

ラジオ

関連人物

手塚治虫

手塚治虫と石ノ森章太郎は単に知名度のみならず、漫画作品の質・量とも随一であり、二人にまたがるエピソードも多いため、節を分けて解説する。(1985年に改名して「石ノ森章太郎」となるよりも前のことがらについては、歴史的事実に忠実に「石森章太郎」と表記するべきである。)

デビュー前

石森章太郎は幼少の頃、手塚治虫・酒井七馬の「新寶島」に衝撃を受け漫画家を志し、手塚治虫の連載していた学童社の漫画少年誌の読者投稿欄に毎回送っていた。手塚治虫は石森章太郎を「ズバ抜けたデッサン」「天才的な少年の絵」と評価し、それは次第に仕事を手伝って欲しいと思わせるようになる[27]

高校2年生の春、『鉄腕アトム』の「電光人間の巻」執筆中の手塚治虫に「シゴトヲテツダツテホシイ」との電報を受けて、学校を休んで上京。中間テストを挟んで手塚治虫のアシスタントを務めた。このとき背景や脇役だけを描けば充分であったにもかかわらず、アトムやヒゲオヤジなどのメインキャラクターまですべてを手塚タッチで描いてみせたため、手塚も度肝を抜かれたという。

手塚治虫の仲介が入り石森章太郎は漫画少年誌で漫画家としてデビューすることになる[14]。デビュー作「二級天使」の原稿をみた手塚治虫は「かれもディズニーにいかれているな」と評したという[27]

デビュー後

高校卒業と同時に上京、その一ヶ月後、手塚治虫が住んでいたトキワ荘に住む。

1959年(昭和34年)、手塚治虫が制作スタッフとして加わっていた東映動画(現・東映アニメーション)の劇場アニメ『西遊記』の制作現場に、手塚治虫から依頼されて助手として派遣された。漫画の執筆等により多忙で制作に参加できなくなった手塚治虫が、自分の代わりとして当時手塚のアシスタントであった月岡貞夫とともに送り込んだのであった。

1967年(昭和42年)より虫プロ商事発行の『COM』に石森章太郎が連載した『ジュン』は、姉への愛情とその喪失を主題に、明確なストーリーを描かずに絵とコマの流れだけで叙情的な世界を表現した実験的な作品であり、当時の漫画読者に熱狂的に迎えられた。しかしこの時に手塚治虫と石森章太郎の両方のファンであるという某読者が手塚治虫に対して『ジュン』についての感想を求めた手紙に対して手塚治虫は「あれは漫画ではない」と『ジュン』を批判するととれる内容を返信した。その読者はそれを手塚治虫はこのように評していますと石森章太郎に送った。それを読んで衝撃を受けた石森章太郎は『ジュン』の打ち切りを宣言したが、直後に手塚が一人で直接に石森章太郎の住むアパートを訪れて、「なぜあんなことを言ったのか分からない」と謝罪したというエピソードがある[28]。結局『ジュン』はそれ以降も描き継がれ、『佐武と市捕物控』とともに1968年小学館漫画賞受賞作品となった。

その後に二人の関係は修復し、手塚は何度か石森を自身の漫画に登場させている。手塚が亡くなる少し前には二人で対談も行なっている[29]

手塚治虫の没後

1990年「手塚治虫展 フィルムは生きている」で、タイトル題字を藤子不二雄鈴木伸一馬場のぼる等との共同で担当。

没後、第2回手塚治虫文化賞マンガ特別賞が贈られる。

アシスタント

山田及びすがやのサイトによると、正確には「石ノ森の作画作業を補助する、本来の意味のアシスタント」(こちらは石森スタジオと呼ばれていた)と、「石森プロ関連作品の漫画化やキャラクター商品などの絵描き」の二種類があり、両者は仕事場も別々で、どちらかしか担当したことがない者も多いという。例として永井は前者、すがやは後者である。石森が亡くなった際、葬儀は密葬にて行われたが、『ライダー』ブームから始まるテレビまんが誌黎明期に活躍していた門下生たちは直訴した結果、石森の家までの集団訪問を許されている。

石ノ森はすがやに対し「アシスタントは多かったが、弟子はすがやだけである」と述べている[30]

芸名を命名した俳優

石ノ森章太郎を演じた人物

俳優
声優
  • 山寺宏一 - 『ヒーローを作った男 石ノ森章太郎物語』(ナレーション)

関連施設

石ノ森萬画館(2012年4月撮影)
石ノ森章太郎ふるさと記念館
石ノ森の人物と歴史に焦点を当てた展示施設[32][33]宮城県登米市の石ノ森の生家に近くに所在する。2000年7月開館。
石ノ森個人の愛用品や収集物、記念品などを中心に展示している。
石ノ森萬画館
石ノ森作品を題材とした展示施設。石ノ森が第2の故郷としていた宮城県石巻市に所在する。2001年7月開館。
2011年3月11日に東北地方太平洋沖地震の大津波で被害を受けたが、2012年11月17日再開館[18]

脚注

注釈

  1. ^ 「漫画の神様」と評された手塚とも対応している。
  2. ^ この時期は青年以上向けのストーリー漫画は劇画と呼ばれる傾向があった。
  3. ^ それまでのギネスレコードは手塚治虫。
  4. ^ 松本零士と同じ生年月日である[10]
  5. ^ これが石ノ森のペンネームの由来である。当時「軍隊生活 兵営便り」など軍隊漫画絵葉書で活躍していたイラストレーター・小野寺秋風の絵柄を嫌い、同じ苗字を避けて石森を名乗った[11]
  6. ^ 同校出身の漫画家に大友克洋がいる。
  7. ^ 書籍によっては1955年と記載している[12][13]
  8. ^ 初期の『少女クラブ』に掲載された作品には、赤塚不二夫との共同ペンネームいずみあすか名義、赤塚および水野英子との共同ペンネームU.マイア名義のものなどがある。
  9. ^ 藤子の『オバケのQ太郎』の主人公「大原正太」は石ノ森の名前を元にしている。また「藤子不二雄」の共同ペンネームをやめて藤子不二雄Fとなった藤本弘に藤子・F・不二雄にするよう助言をしたのも石ノ森である。
  10. ^ 石森章太郎 『トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代』ISBN 978-4-06-183752-2 講談社〈講談社文庫〉、1986年、208頁によれば、死因は持病だった喘息の発作を抑えるための「モルヒネの打ちすぎによる心臓発作」。石ノ森は、「姉が倒れて救急車を呼び、入院して注射を打ったところ、容態が安定した」ように見えたため、一旦トキワ荘に帰り、その後、赤塚、水野英子と共に映画を見るために外出。帰ったところに「病院に来る」よう、電報が届いた、と記述している。また、石ノ森の姉が亡くなった当日、石ノ森、赤塚と終日行動を共にしていた水野も自著『トキワ荘日記』(自費出版、2009年)の中で、石ノ森の言動を含めて事態を詳細に記述している。さらに、この出来事は、石ノ森、水野の証言と比べると、細部がかなり異なってはいるが、藤子不二雄Aの著作『愛…しりそめし頃に…―満賀道雄の青春』にも描かれている。
  11. ^ 『トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代』、96頁によれば、「漫画(自分の仕事)と東映動画との両立が厳しい事が判ったから」、となっている。
  12. ^ 『トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代』、184-213頁によると、この前に世界旅行に出かけている。海外旅行自由化される前であり、「個人の観光」では許可は下りなかった。そのため、集英社に依頼し、臨時に「記者」の肩書きを入手している(シアトルで開かれるSF大会の取材、という名目)。貯金がなかったため、旅費も各出版社から前借りした。SF大会では、矢野徹の紹介状を持ち、フォレスト・J・アッカーマン(雑誌「MONSTER」の編集長)、ロバート・A・ハインラインポール・アンダースンと会っている。この時に訪問した国・都市・名所は、アメリカに3週間(ロサンゼルスサンフランシスコニューヨークラスベガスディズニーランドグランド・キャニオン、シアトル)の他、イギリスロンドン)、フランスパリ)、オーストリアウィーン)、ドイツ東ベルリン西ベルリン)、オランダスペインマドリード)、イタリアローマミラノ)、ギリシャパルテノン神殿)、エジプトカイロピラミッドスフィンクス)、香港マカオなど(太字はサイボーグ戦士〈002、003、004、005、007〉の出身国。また、ギリシャはミュートスサイボーグのモチーフとなっている。後年にはピラミッドも登場した)。なお、この旅行は「雑誌(『少女クラブ』他)の廃刊が続いたことや、姉の死にショックを受けた逃避行」、という面も持っていた。
  13. ^ ただし、必ずしも石ノ森のラフが尊重されたわけではなく、番組スタッフ側で大幅にアレンジされることもあった。これらのラフスケッチで現存するものは、ジェネオンエンタテインメント『石ノ森章太郎 変身ヒーロー画集 ―Before 1975―』および『石ノ森章太郎 変身ヒーロー画集 (After1975)』に収録されている。
  14. ^ 資料によっては1986年と記載している[17][3]
  15. ^ 「ノ」の字の表記については、石ノ森が存命時、出版物や映像原作表示の際には、他の字に比して縦横2/3から1/2のサイズに表記する(「半角文字ではない」と言われる)ことが求められた。
  16. ^ エンディングではキャラクターデザインに雨宮慶太と野口竜の名前がクレジットされているが、主役のRXのラフ(頭部のみ)や、番組中期以降の多くの怪人のラフは石ノ森によっておこなわれている。
  17. ^ 敵側のキャラクターのみ、キャラクターデザインを担当。
  18. ^ 八手三郎山川啓介小池一夫との共同作詞扱い。詞・曲は、スーパー戦隊以外の作品の主題歌(渡辺宙明作曲)からも引用されている。
  19. ^ このときに撮影されたスナップ写真は、石ノ森の生家の玄関付近に飾られている。

出典

  1. ^ a b 日本文芸協会『文芸年鑑 1999』新潮社、1999年、375頁。 
  2. ^ a b c d 変身ヒーロー大全集 1995, p. 152, 「原作者インタビュー 石ノ森章太郎」
  3. ^ a b c d e f g h i j k 仮面ライダー怪人大画報 2016, p. 178, 「仮面ライダー スタッフ・キャスト人名録 2016年版」
  4. ^ マンガの王様 石ノ森氏生誕イベント - 石巻日日新聞
  5. ^ 中島健人、“漫画の王様”石ノ森章太郎さんになる「プレッシャー」 - サンケイスポーツ
  6. ^ 【銀座 蔦屋書店】「漫画の帝王」石ノ森章太郎 生誕80周年記念フェア開催! - 日刊工業新聞
  7. ^ a b c d すがやみつる「感涙の最終回は新『009』への序章」『この最終回がすごい!』(初版第1刷)メディアファクトリー、2003年2月11日、72-80頁。ISBN 4-8401-0703-3 
  8. ^ 講談社編『キャラクター大全ノンフィクション 証言!仮面ライダー 昭和』講談社、2017年、p.28
  9. ^ 読売新聞×ダ・ヴィンチ ミステリーブックフェア2015 【鼎談】今野 敏×湊 かなえ×間室道子(代官山 蔦屋書店 文学担当)<後編> ダ・ヴィンチニュース 2015年3月8日
  10. ^ 荒俣宏の電子まんがナビゲーター 第11回 松本零士編”. ebookJapan (2011年10月7日). 2013年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月9日閲覧。
  11. ^ 山内ジョージ『トキワ荘最後の住人の記録』p.222(東京書籍、2011年)。
  12. ^ 石ノ森ヒーローファイル 2013, pp. 124–125, 石ノ森章太郎年表.
  13. ^ 昭和石ノ森ヒーロー列伝 2013, pp. 106–111, 石ノ森章太郎ヒストリー.
  14. ^ a b 石ノ森章太郎のマンガ教室[要ページ番号]
  15. ^ 石森章太郎 『石ノ森章太郎のマンガ家入門』ISBN 4-253-17250-4 秋田書店〈秋田文庫〉272頁
  16. ^ WEBアニメスタイル 白川大作インタビュー(2) 2012年10月29日閲覧。一方、月岡はその才能を評価されてそのまま東映動画に入社し、「天才アニメーター」と呼ばれた。
  17. ^ 石ノ森章太郎『石ノ森章太郎 変身ヒーロー画集 -Before 1975-』ジェネオン エンタテインメント、2004年3月24日、207頁。ISBN 4-89452-797-9 
  18. ^ a b 仮面ライダー帰ってきた! 被災の石ノ森萬画館が復活”. 朝日新聞 (2012年11月18日). 2012年11月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年1月28日閲覧。
  19. ^ 永井豪、2010、『激マン!』デビルマン編第2話(単行本第1巻収録)、日本文芸社[要ページ番号]
  20. ^ 「スーパー戦隊制作の裏舞台 白倉伸一郎」『スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1992 恐竜戦隊ジュウレンジャー講談社〈講談社シリーズMOOK〉、2019年3月8日、32-33頁。ISBN 978-4-06-513708-6 
  21. ^ お別れなのだ 赤塚不二夫さん死去
  22. ^ マンガ中国大人物伝第2巻項羽224頁~225頁
  23. ^ 藤子不二雄Ⓐまんが道 愛…しりそめし頃に…』第3巻 p17参照
  24. ^ 仮面ライダーの故石ノ森さん、最多コミックでギネスに”. 朝日新聞. 2008年1月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年10月29日閲覧。
  25. ^ http://www.ebookjapan.jp/ebj/special/st/ishinomori_digital.asp
  26. ^ 大恐竜時代”. メディア芸術データベース. 2016年10月30日閲覧。
  27. ^ a b 手塚治虫「ぼくはマンガ家」p.143。
  28. ^ 岩上安身「現代の肖像24 石ノ森章太郎」『AERA』、朝日新聞社、1990年。web掲載 2012年10月29日閲覧。
  29. ^ 石ノ森章太郎『ことばの記憶』2008年 P.132。
  30. ^ 「石ノ森章太郎を継ぐ者 仮面ライダーマンガ家列伝 第1回 すがやみつる」『KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.1 仮面ライダー1号』講談社、2004年7月9日、30頁。ISBN 4-06-367086-4 
  31. ^ プロフィール”. 2012年10月29日閲覧。
  32. ^ 石ノ森ヒーローファイル 2013, pp. 117–119.
  33. ^ 昭和石ノ森ヒーロー列伝 2013, pp. 104–105.

参考文献

関連項目

外部リンク

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