ちばてつや
ちば てつや | |
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![]() 2023年10月、内閣総理大臣官邸にて | |
本名 | 千葉 徹彌[1] |
生誕 |
1939年1月11日(84歳)[1]![]() (現:東京都中央区)[1] |
国籍 |
![]() |
職業 | 漫画家 |
称号 |
紫綬褒章 旭日小綬章 文化功労者 日本芸術院会員 |
活動期間 | 1956年[1] - |
ジャンル |
少女漫画 少年漫画 青年漫画 |
代表作 |
『あしたのジョー』(原作:高森朝雄) 『ハリスの旋風』 『おれは鉄兵』 『あした天気になあれ』 『のたり松太郎』 『みそっかす』 『ユカをよぶ海』 |
受賞 | |
公式サイト | ちばてつやのブログ『ぐずてつ日記』 |
ちば てつや(本名:千葉 徹彌[1]、1939年〈昭和14年〉1月11日[1] - )は、日本の漫画家。代表作に『あしたのジョー』(原作:高森朝雄)、『ハリスの旋風』、『あした天気になあれ』、『のたり松太郎』、『みそっかす』など。
東京府(東京都の前身)出身[1]。現在は練馬区在住。日本大学第一高等学校卒業[2]。
2005年からは文星芸術大学教授を務める[3]。2012年7月から2018年6月まで日本漫画家協会理事長を務め、2018年6月から同協会会長。2019年4月1日より2022年3月31日まで文星芸術大学学長に就任[4][5]。
『キャプテン』『プレイボール』などが代表作の漫画家、ちばあきおは実弟。
概要
作風は、体温のある描線の画風で1960年代には心理描写がうまいことで評価が高かった。また情景描写が長いことで生活感が表れたという評もある[6]。また、貧しい環境の自然児的な主人公が、微妙な摩擦を起こす(に出会う)話が多い。そうでない作品でも、同時期(昭和30年代)の他の少年漫画に比べて人間ドラマ性が強い。
初期には少女マンガの名手とされ、少年マンガで人気を得てからはそちらが主となり、のちに青年漫画へ活躍の場を広げた。中でも『あしたのジョー』は、当時の時代の象徴と受け取られていることも多く、国民的に名を知られた代表作になっている。
手塚治虫がかつて(1970年代末)語ったところによると「自分がストーリー漫画を始めて以降、ほんとに新しいものを加えたのはちばてつやだけだと思っている」と、また『あしたのジョー』の連載開始時点(1968年頃)で、梶原一騎が手塚治虫に並ぶ別格作家と語ったことがある[7]。楠高治は「ちば氏は手塚治虫氏から最も影響を受けていない漫画を描く人」だと語っている。
来歴
生い立ち
1939年(昭和14年)1月11日、東京府東京市京橋区(現:東京都中央区)明石町の聖路加国際病院で生まれる[1][8]。同年11月に日本を離れ、朝鮮半島を経て1941年1月、2歳の時に満州国奉天(現:中華人民共和国遼寧省瀋陽市)に渡る。印刷会社に勤めていた父親が暖房用にと貰ってきた紙の切れ端に絵を書いて寒い冬を過ごしていた[9]。
1945年(昭和20年)、同地で終戦を迎え、敗戦に伴い暴動や略奪などが相次ぐ社会的混乱の中、生と死が隣り合わせの過酷な幼少の一時期を過ごした。父の同僚の中国人徐集川に一家は助けられて、屋根裏部屋にかくまってもらった。翌年家族共々葫芦島へ約200kmを移動、いわゆる葫芦島在留日本人大送還により舞鶴港に引き揚げ、父親の故郷である千葉県海上郡飯岡町(現:旭市)に住んだ後、東京都墨田区に移り住んだ。『ユカを呼ぶ海』を描いた時の浜辺のモチーフは、この飯岡町である。
道ばたに落ちていた豆本で初めて漫画を見る。『アラビアンナイト』を題材にした杉浦茂の作品で、その面白さに衝撃を受け、漫画にのめり込む[10]。しかしちばの家は漫画に対して厳しく、一切禁止されていたため購入や家で読むことはできず、友人の家でこっそりと読むなどしていた[11]。
小学生時にちばが絵を好きなことを見て声をかけた木内堯央[12]と親友になり、彼が作成していた同人誌「漫画クラブ」に1950年(昭和25年)より参加するようになる[11]。
貸本時代
高校生だった16歳のちばは、新聞の三行広告で漫画家を募集しているのを見つけて日昭書店に応募[9]。社長の石橋国松[注 1]は、ちばにプロの生原稿を見せて道具の使い方を教え、試しに描いてくるように指示したため、ちばは本格的な執筆を始めた。約3か月間にわたり、毎回20ページから30ページずつ原稿を持って行くとそのたびに続きを描くように言われていたちばは、これをテストだと思い込んでいたが、128ページ目で話を終わらせるように指示を受けて描いた最後の原稿を持ち込むと、その場で当時の大卒初任給を超える1万2351円を原稿料として石橋から手渡された[9]。
この時に執筆した『復讐のせむし男』は1956年(昭和31年)に貸本として出版され、ちばは17歳で漫画家としてデビュー[11]。以降、高校に通いながら貸本の執筆を続けた。
雑誌デビュー
高校卒業を前に先輩の漫画家である鳥海やすに付いて訪れた『少女クラブ』(講談社)の編集部で自身の原稿(江戸川乱歩原作の『魔法人形』)を見せて執筆依頼を受け、読み切り『リカちゃん』を執筆。また同時期に訪れた『少女ブック』(集英社)でも執筆依頼を取り付け、読み切り『舞踏会の少女』を執筆する。両作共に1958年(昭和33年)に発表されたが『少女ブック』が先に発売されたため、『舞踏会の少女』が雑誌デビュー作となった。ともに少女誌となったのは、当時執筆陣が固まっていた少年漫画に比べ、少女漫画の方が新人の入る隙があったためであった[9]。
両作をきっかけに連載も依頼され、同年6月号より『オデット城のにじ』(『少女ブック』)と『ママのバイオリン』(『少女クラブ』)を同時に連載開始する。しかし『少女ブック』がちばの了承なしに別冊への掲載を予告したことを機に講談社との専属契約を結び、『オデット城のにじ』は連載途中で降板する[13]。
1961年(昭和36年)には『週刊少年マガジン』(講談社)において野球漫画『ちかいの魔球』(原作:福本和也)の連載を開始し、少年漫画の執筆にも活動を広げる。1962年(昭和37年)より『少女クラブ』の別冊ふろくで『1・2・3と4・5・ロク』を連載開始し、同年に同作と『魚屋チャンピオン』で第3回講談社児童まんが賞を受賞する。
『あしたのジョー』で社会現象に
その後も『紫電改のタカ』、『ユキの太陽』などヒット作を手がけ、1965年(昭和40年)に発表された『ハリスの旋風』はテレビアニメ化され、注目を集めた。
1968年(昭和43年)には劇画作家である高森朝雄(梶原一騎)と組み、ボクシングを舞台とした『あしたのジョー』を発表。同作品は爆発的なヒットとなり、連載されていた『週刊少年マガジン』の発行部部数を飛躍的に伸ばしたほか、一躍社会現象にもなった。
スポーツ漫画の長期連載
その後は、角界を舞台にした『のたり松太郎』や、プロゴルフを舞台にした『あした天気になあれ』などスポーツ漫画のロングランヒット作に加え、幅広い作品を発表。1980年(昭和55年)にはこれまでの功績を称え、青年漫画家の発掘を主とした講談社主催のちばてつや賞が設立された。
1984年(昭和59年)の創刊時から『GOLFコミック』(秋田書店)の表紙イラストを担当し、2018年の休刊まで続いた[14]。
連載活動の休止

『少年よラケットを抱け』の執筆中、心臓疾患と網膜剥離を患って手術を受けることになり、ちばの身を案じた妻がちばの入院中にスタッフを解散させた[15]。このため、1994年(平成6年)に連載を終了した『少年よラケットを抱け』以降は短編作品の執筆を中心とし、大人数を雇うプロダクション形式での長期連載は行っていない[16][17]。
1998年(平成10年)にはやなせたかしの後任として、社団法人日本漫画家協会の常任理事に就任[18]。また、2002年(平成14年)に横浜市で開催された『第5回アジアMANGAサミット』実行委員長に就任し、漫画文化の担い手として活躍する一方、2005年(平成17年)からは文星芸術大学でマンガ専攻の教授を務め、後進の育成に力を注いでいる。表現の自由に関する問題にも関心が高く、東京都青少年の健全な育成に関する条例改正問題に関しても何度も積極的に発言しており、特に東京都知事・石原慎太郎が進める“非実在青少年”規制には否定的。
2012年、日本漫画家協会理事長に就任し、2018年6月から同協会会長となる。2019年4月1日より文星芸術大学学長に就任[4]。
2021年10月29日、体調を崩し東京都内の病院へ入院した[19]。持病の心臓疾患などの治療を受け、年内に退院予定[19]。
2022年1月4日、自身のブログを更新し仮退院したことを報告した[20][21]。
2022年2月22日、2022年3月1日付けで文部科学大臣が発令する予定の日本芸術院の新設分野「マンガ」の新会員候補として選出された[22][23]。
2022年3月31日、文星芸術大学学長を退任[5]。
受賞歴

- 1962年 - 第3回講談社児童まんが賞 - 『1・2・3と4・5・ロク』・『魚屋チャンピオン』
- 1976年 - 第7回講談社出版文化賞児童まんが部門 - 『おれは鉄兵』
- 1977年 - 第23回小学館漫画賞青年一般部門 - 『のたり松太郎』
- 1977年 - 第6回日本漫画家協会賞特別賞 - 『のたり松太郎』
- 2001年 - 文部科学大臣賞
- 2002年 - 紫綬褒章
- 2009年 - 第33回講談社漫画賞講談社創業100周年記念特別賞
- 2012年11月 - 旭日小綬章[24]
- 2014年 - 文化功労者[25]
- 2017年 - 練馬区名誉区民に選定[26]
- 2022年 - 日本芸術院会員
家族構成
四人兄弟の長男で、実弟に漫画家のちばあきお(三男)[27]と漫画原作者の七三太朗(四男)[28]がいる。妻は漫画家のチバユキコ[29]。ちばの次男の千葉修平は文星芸術大学で専任講師を務め、父の助手として漫画教育に携わっている[3]。
エピソード
- 漫画家デビュー作の『復讐のせむし男』の元版(日昭館書店)は2018年現在、5冊のみ現存が確認されている(まんだらけ調べ)[30]。
- 2008年に『週刊ヤングマガジン』で発表された『トモガキ』によると、ちばは気分転換として弟のちばあきおと共に、幼い頃から他人に電気あんまをかますことがしばしばあったという。しかし、『ママのバイオリン』(1958年7月 - 1959年5月、『少女クラブ』講談社)の連載時、締め切りが迫っていて缶詰状態になった際、気分転換のため当時の担当者にあきおと電気あんまを無理矢理かましたところ、担当者は堪らずにちばを思い切り蹴飛ばしてしまった。
- ちばは蹴飛ばされた勢いで窓ガラスに体を突っ込んでしまい、割れたガラスで腕の腱を切った上に口の中にも破片が刺さる大怪我を負い、一時は漫画が描けなくなってしまった。口の中の傷は頚動脈寸前にまで達しており、かろうじて奥歯で食い止められたため九死に一生を得たという。締め切りが迫っていた中での出来事だったため、担当者はトキワ荘のメンバーである赤塚不二夫、石ノ森章太郎をはじめとしたメンバーに慌てて代筆を依頼した。当初は仕事で睡眠が取れていないことと絵柄の違いから渋られていたものの後に承諾、一同の代筆により締め切り内に原稿は無事完成したという。これを機に、ちばとトキワ荘のメンバーとの交流が始まった。
- 本人はこの時の体験を言いたくなかったらしく、怪我の原因を"疲れから誤って窓ガラスに突っ込んでしまった"とずっと話しており、電気あんまをかましたからと明かしたのは、40年経ってからのことだった[31]。
- 人間描写の力を磨くため、2014年現在も大学に通勤する電車の中で車内の人物をこっそり無断でスケッチしている。ただ、それが元でトラブルになったことも何度かあるという[32]。
- 『あしたのジョー』の力石徹が亡くなったのはちばがボクシングをよく理解せずに、力石徹を丈より大柄に描いてしまったため、設定の都合で、力石徹に減量が必要になってしまったためである。『トリビアの泉』で「力石徹は作者のつじつま合わせで死んだ」というトリビアが紹介され、ちばがコメントをしておりVTRの最後で力石をつじつま合わせで死なせたことに対して、「彼(力石)には申し訳なく思っている」とコメントしている[33]。ただし、ちばは後年、この見解を撤回している。「当時はしょっちゅう梶原さんと会って、打ち合わせをしていましたから。ボクシングは同じ体重同士で戦うんだから、最初からライバルと決めていればそう言うでしょう」と、最初は少年院編でのみ登場するキャラクターだったが、梶原が力石のキャラクターを気に入って方針変更したのではないかと語っている[34]。
作品リスト
連載作品のみを記載。詳細はちばてつやの漫画作品一覧を参照。
- オデット城のにじ(1958年6月号 - 8月号、少女ブック、集英社) - 初連載作品。
- ママのバイオリン(1958年7月 - 1959年5月、少女クラブ、講談社)
- (単行本。母と娘でみる漫画名作館シリーズやちばてつや全集において各全3巻。)
- ユカをよぶ海(1959年6月 - 1960年8月、少女クラブ)
- リナ(1960年9月 - 1961年12月、少女クラブ)
- ちかいの魔球(1961年1月 - 1962年12月、週刊少年マガジン、講談社、原作:福本和也)
- 1・2・3と4・5・ロク(1962年1月 - 12月、少女クラブ) - 1972年及び1988年-1989年に2度ドラマ化されている。
- ハチのす大将(1963年1月-5月、週刊少年マガジン)
- 紫電改のタカ(1963年7月 - 1965年1月、週刊少年マガジン)
- パパのお嫁さん(1964年1号 - 9号、週刊マーガレット、集英社)
- 島っ子(1964年3月 - 1965年6月、週刊少女フレンド、講談社)
- 少年ジャイアンツ(1964年11月 - 1966年11月、少年ブック、集英社)
- ハリスの旋風(1965年4月 - 1967年11月、週刊少年マガジン) - 2度のテレビアニメ化
- アリンコの歌(1965年9月 - 1966年7月、週刊少女フレンド)
- みそっかす(1966年8月 - 1967年8月、週刊少女フレンド) - 『あかねちゃん』としてアニメ化。
- ジャンボ・リコ(1967年39号 - 48号、週刊少女フレンド)
- あしたのジョー(1968年1月 - 1973年6月、週刊少年マガジン、原作:高森朝雄) - アニメ化・映画化
- テレビ天使(1968年7号 - 50号、週刊少女フレンド)
- 若とのゴン(1968年6月15日付 - 1971年8月26日付、産経新聞)
- モサ(1969年20号 - 1970年2・3号、週刊少年ジャンプ、集英社)
- 餓鬼(1970年6号 - 36号、ぼくらマガジン、講談社)
- 蛍三七子
- おれは鉄兵(1973年8月 - 1980年4月、週刊少年マガジン) - アニメ化
- のたり松太郎(1973年8月 - 1993年6月、1995年10月 - 1998年5月、ビッグコミック、小学館) - アニメ化
- おれイガオくん(1975年3月23日付-12月21日付、読売新聞)
- 練馬のイタチ(1980年7月 - 同年10月、ヤングマガジン、講談社)
- あした天気になあれ(1981年1月 - 1991年5月、週刊少年マガジン) - アニメ化
- 男たち(1982年1月 - 1983年7月、コミックモーニング、講談社)
- 少年よラケットを抱け(1992年5月 - 1994年6月、週刊少年マガジン、講談社)
- ハネ太(1998年4号 - 1999年13号、コミックアルファ、メディアファクトリー)
- ひねもすのたり日記(2016年1号 - ビッグコミック、小学館)
アニメ作品
- テレビアニメ『3月のライオン』第7話エンドカード
- テレビアニメ『おじゃる丸』放送20周年記念イラスト[35]
- テレビアニメ『UQ HOLDER!』第12話エンドカード
- テレビアニメ『アニ×パラ〜あなたのヒーローは誰ですか〜 episode5 車いすラグビー』キャラクターデザイン[36]
- アニメ映画『風のように』(2016年7月9日)原作(1969年)
- テレビアニメ「住友生命 青春アニメ全集 日本名作文学 『姿三四郎 』」(1986年10月、日本テレビ系列、全3回)キャラクターデザイン
展覧会
その他の活動
文庫解説
出演
- 課外授業 ようこそ先輩「いかせ! 君のキャラクター」(2000年9月10日 NHK) - 小学生を相手に特別授業を行った。
- 伊集院光とらじおと(TBSラジオ)- ゲストコーナーで伊集院と約30分間、話した。
- The News Masters TOKYO(文化放送 2019年2月4日 - 2月8日) - プロゴルファーのタケ小山を相手に約4分×5回話した(ゴルフ関連の話題もあり)。
- 『屋根裏のちばてつや』(NHK総合、2020年6月1日) - ちばの日常を追った30分間のドキュメンタリー番組。
- 浦沢直樹の漫勉 neo『ちばてつや』(NHK Eテレ 2020年10月1日) - 『ひねもすのたり日記』の製作過程を収録した画像を見ながら浦沢と対談した。
アシスタント出身者
- ちばあきお[2]
- 川三番地[38] - 2013年よりちばてつやのアシスタント時代を描く自伝的漫画『あしたのジョーに憧れて』を執筆。
- 倉田よしみ[39]
- ながとしやすなり[40]
- 政岡としや[41]
- 梅本さちお[42]
- 石井さだよし[43]
- 村尾忠義(村尾ただよし)[44]
- あべりつこ(阿部律子)[45]
関連文献
- 『少女マンガはどこからきたの? 「少女マンガを語る会」全記録』全349頁(本編335頁+索引など14頁),2023年5月30日第1刷発行,青土社,語る会メンバー12名:水野英子(発起人)/上田トシコ/むれあきこ/わたなべまさこ/巴里夫/高橋真琴/今村洋子/ちばてつや/牧美也子/望月あきら/花村えい子/北島洋子【※発起人水野以外はデビュー順[46]】ISBN 978-4-7917-7553-8
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h ちばてつや 漫画家生活55周年記念号 2011, p. 9.
- ^ a b 漫画家人名事典 2003, p. 243.
- ^ a b ちばてつや 漫画家生活55周年記念号 2011, pp. 108–113, 「親子対談 ちばてつや×千葉修平」.
- ^ a b “ちばてつや氏、文星芸大学長に あしたのジョー漫画家”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社 (2019年2月27日). 2021年11月3日閲覧。
- ^ a b “文星芸大のちばてつや学長辞任へ 後任に田中副学長”. 下野新聞 SOON(スーン). 下野新聞 (2022年3月26日). 2022年9月10日閲覧。
- ^ 村上もとか『フイチン再見!』83話
- ^ 「手塚治虫特集」、『ぱふ』、1979年
- ^ 佐藤正弥編著 『データ・バンク にっぽん人』現代書林、1982年、196頁。
- ^ a b c d ちばてつや 漫画家生活55周年記念号 2011, pp. 196–204, 「ちばてつや×モンキーパンチ “漫画家”になるために」.
- ^ “【インタビュー】ちばてつやさん(漫画家)|漫画家デビュー60年、戦争体験を描き続ける”. サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト. 小学館 (2018年1月8日). 2021年11月3日閲覧。
- ^ a b c ちばてつや 漫画家生活55周年記念号 2011, pp. 10–41, 「ちばてつや3万字ロングインタビュー 「真っ白な灰に燃え尽きるまで」」.
- ^ ちばてつや (2005年8月31日). “木内くんを偲んで”. ちばてつや公式サイト. ちばてつやプロダクション. 2011年2月13日閲覧。[リンク切れ]
- ^ ちばてつや 漫画家生活55周年記念号 2011, p. 212, 「ちばてつや作品解説 1956 - 2008」.
- ^ “GOLFコミックが休刊、ちばてつやが表紙を描くゴルフ専門月刊マンガ誌”. コミックナタリー. ナターシャ (2017年12月28日). 2020年8月10日閲覧。
- ^ 松岡かすみ (2019年6月8日). “ちばてつやの入院中に妻がアシスタント8人を解散させ…そのワケは?”. AERA dot. (アエラドット). 週刊朝日. 2021年11月3日閲覧。
- ^ ちばてつや 漫画家生活55周年記念号 2011, pp. 114–121, 「妻・千葉幸子」.
- ^ 荒俣宏 (2010年10月22日). “荒俣宏の電子まんがナビゲーター 第3回 ちばてつや編 その4 まんがのこと、自分のことの巻 (8)”. 荒俣宏の電子まんがナビゲーター. eBookJapan. 2014年10月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年2月13日閲覧。
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- ^ a b “漫画家ちばてつやさん入院 持病の心臓疾患などで”. 産経ニュース. 産経新聞社 (2021年11月3日). 2021年11月3日閲覧。
- ^ ちばてつや (2022年1月4日). “か、帰ってきました。”. ちばてつやのブログ『ぐずてつ日記』. 2022年1月11日閲覧。
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- ^ 黒田健朗 (2022年2月22日). “ちばてつやさん「漫画が芸術、文化のひとつに」 芸術院新会員に”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. 2022年2月23日閲覧。
- ^ ちばてつや. “【日本芸術院 入会のご報告】 - ニュース”. ちばてつやホームページ. 2022年2月23日閲覧。
- ^ "平成24年秋の叙勲 旭日小綬章等受章者 東京都" (PDF). 内閣府. 2012年11月3日. p. 2. 2017年1月17日時点のオリジナル (PDF)よりアーカイブ。2017年1月17日閲覧。
- ^ “文化功労者選出のちばてつや氏とノーベル賞受賞者2人の写真”. NEWSポストセブン. 小学館 (2014年11月10日). 2021年11月3日閲覧。
- ^ “練馬区、名誉区民を選定 画家・野見山暁治さん、漫画家・ちばてつやさん”. 練馬経済新聞 (2017年6月9日). 2021年11月3日閲覧。
- ^ ちばてつや 漫画家生活55周年記念号 2011, p. 105, 「ちばてつやが語る 弟・ちばあきおの素顔」.
- ^ ちばてつや 漫画家生活55周年記念号 2011, p. 230, 「ちばてつや作品解説 1956 - 2008」.
- ^ ちばてつや 漫画家生活55周年記念号 2011, p. 114, 「妻・千葉幸子」.
- ^ “日昭館書店-千葉徹弥「復讐のせむし男」”. まんだらけ. 2021年11月3日閲覧。
- ^ ちばてつや「一番の宝物」(丸山昭『トキワ荘実録』小学館文庫、1999年、pp. 240-242)。
- ^ 田中圭一 (2014年5月20日). “【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-】第一話:ちばてつやの「こづゆ」”. ぐるなび みんなのごはん。. 2021年11月3日閲覧。
- ^ フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 6』講談社、2004年。
- ^ 伊藤和弘『「週刊少年マガジン」はどのようにマンガの歴史を築き上げてきたのか? 1959-2009』星海社新書、2022年、pp.75-76。ちばてつやの発言引用箇所
- ^ “著名マンガ家続々!「おじゃる丸」にスペシャルなイラストが登場”. NHKアニメワールド. (2017年10月13日) 2021年11月3日閲覧。
- ^ “ちばてつや氏、車いすラグビー描く 声優は玉山鉄二”. ORICON NEWS. oricon ME (2018年12月10日). 2019年3月29日閲覧。
- ^ “Manga now - three generations”. British Museum. 2015年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月20日閲覧。
- ^ 漫画家人名事典 2003, p. 110.
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- ^ ちば 2014, p. [要ページ番号].
- ^ “少女マンガはどこからきたの?上田トシコ、むれあきこら50~60年代の少女マンガ語る書籍”. コミックナタリー (ナターシャ). (2023年6月2日) 2023年6月2日閲覧。 “帯:ジャンルを育てたレジェンドたちの証言/1953年の手塚治虫「リボンの騎士」から1972年の池田理代子「ベルサイユのばら」までの期間で、少女マンガというジャンルがいかにして開拓されてきたのかをたどる。”
参考文献
- 『ちばてつや 漫画家生活55周年記念号』河出書房新社〈文藝別冊 KAWADE夢ムック〉、2011年2月7日。ISBN 978-4-309-97745-4。
- まんがseek、日外アソシエーツ編集部 編『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月1日。ISBN 978-4-8169-1760-8。
- ちばてつや『ちばてつやが語る「ちばてつや」』集英社〈集英社新書〉、2014年5月16日。ISBN 978-4-0872-0739-2。
関連項目
- 国松さまのお通りだい - 『ハリスの旋風』の2度目のアニメ化作品
- 松文館裁判(証人として)
- ちばてつや賞(選考委員)
- トキワ荘
- 有名人100枚の絵でつなぐ カンボジア学校建設プロジェクト
- 戦後70年 ニッポンの肖像(オープニング映像キャラクターデザイン)
外部リンク
- ちばてつやのブログ『ぐずてつ日記』 - Ameba Blog
- ちばてつや公式サイト
- ちばてつやホームページ - ウェイバックマシン(2005年2月3日アーカイブ分)
- ちばてつや (@chibatetsu8) - Twitter
- 文星芸術大学マンガ専攻
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