東映生田スタジオ

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東映生田スタジオ(とうえいいくたスタジオ)は、1970年代に川崎市多摩区細山(現・川崎市麻生区多摩美)に存在した東映テレビスタジオ[1]東映生田撮影所生田撮影所)と称されることもある[2]

単に生田スタジオと称されることもあるが[3][1]日本テレビ生田スタジオとは異なる[3]。以下、「生田スタジオ」と記述する場合は特記のない限り本所を指す。

概要[編集]

1971年に特撮テレビ番組『仮面ライダー』の制作のために立ち上げられ、1978年の『透明ドリちゃん』まで特撮テレビ番組を中心とする映像作品の制作が行われた[1]

施設自体は「細山スタジオ」という撮影スタジオであり、「東映生田スタジオ」という名称は東映が賃借時に看板に掲げていた名称である[1]。初代所長を務めた内田有作は、東映の公的な資料に「生田スタジオ」という名称は存在していないと証言している[1]

東映により管理・運営が行われていたが、設立時の事情ゆえに現場スタッフは東映以外からの参加も多かった[1]。美術を担当したエキスプロダクションの八木功は、生田スタジオは独立プロのようなものであったと述べている[4]

沿革[編集]

前身
細山スタジオは、1960年代中頃に地元農家2名によって設立された[1]内田有作によれば、建物は築3 - 4年くらいでまだ新しかったが、側だけのバラックで何もない倉庫のようだったという[5]。テレビドラマ『旅がらすくれないお仙』や『女三四郎』の撮影などが行われていたとされるが、1970年末には廃墟同然と化していた[1][3]
東映の労使問題と『仮面ライダー』の制作
1970年、東映では1971年春の新番組として『仮面ライダー』の制作が決定していたが、その頃の東映は労使関係が泥沼化しており、春闘による番組制作への影響が懸念されていた[3][1][6][注釈 1][8]。東映東京制作所所長の石田人士は、『柔道一直線』の制作担当を務めていた内田を労働争議により名前だけの部署となっていた関連事業室の室長に任命し、大泉撮影所以外の場所を制作拠点として『仮面ライダー』の制作にあたるよう内田に指示した[1]
内田は東映以外の映画撮影所が集まる多摩川周辺に目をつけ、『柔道一直線』に参加していた監督の折田至とともに探索を行い、1970年12月に細山スタジオへと行き当たった[1][9]。設備は整っておらず、敷地も谷底のような場所ゆえにトランポリンでのオープン撮影が行いづらいなど、劣悪な条件下であったが、放送開始まで時間がなかったことから1971年の年明けに賃貸契約が締結され、内田の指揮のもと『柔道一直線』に参加していた大野剣友会により整備が進められ、内田を所長として「東映生田スタジオ」が立ち上げられた[1]
制作スタッフには大野剣友会や監督の折田至・山田稔田口勝彦奥中惇夫ら『柔道一直線』の主要スタッフが参加[1]。内田は山田を代表取締役社長とする新会社東京映像企画を設立し、折田や田口ら東映の社員以外は同社に所属する形となった[1]
撮影や照明は、経営が悪化していた大映で撮影監督を務めていた山本修右らを事実上引き抜き、山本を社長とするS.K.プロ(後にプロダクション・ショットに改名)も立ち上げられた[1][10]
美術には大映特撮作品を手がけていたエキス・プロダクション三上陸男が参加[4]。しかし、三上は多忙であったため、立ち上げ作業後は高橋章八木功が中心となって美術を担当した[4]
編集・効果・音楽などの仕上げ作業は、東映の技術部門が独立した映広音響が請け負った[11]
変身ブームの到来
紆余曲折を経て制作が開始された『仮面ライダー』は次第に軌道に乗り、次なる作品として『好き! すき!! 魔女先生』が制作された[12]。『仮面ライダー』の人気は他社の競合作品とともに変身ブームを巻き起こし、生田スタジオでもブームの流れに乗り『魔女先生』が変身ヒロインものへと内容を変更し、1972年からは2年目に入った『仮面ライダー』に加え『超人バロム・1』と『変身忍者 嵐』を制作、翌1973年には『仮面ライダーV3』『ロボット刑事』『イナズマン』のほか、ヒーローもの以外でも『どっこい大作』を制作するなど、制作本数を拡大していった[13][1][14]。作品数を増やしたのは人気のみならず、『仮面ライダー』の制作予算だけではスタジオの賃料を賄えないという事情もあった[15][注釈 2]
一方で東京映像企画では映像作品だけでなくキャラクターショーも請け負うようになった[1]。しかし、ショーの収益は東映本社のものであったため生田スタジオの収益は増えず、直接収入を得る手段として映画『仮面ライダー対ショッカー』の公開時に東映直営館で仮面ライダーのサイン会を催した[1]。番組スポンサーの玩具メーカーポピーの協力を得て玩具の福袋を用意するなどして好評を博したが、『仮面ライダー』の制作局である毎日放送から純粋な番組宣伝以外でのサイン会は差し控えてほしいという要望書が東映に送られ、以後ショーなどの業務は東映芸能部が担当するかたちに一本化された[1]
オイルショックの影響と内田の退任
1974年、オイルショックによる物価上昇はテレビ・映画の制作現場にも影響を及ぼし、生田スタジオでは特に『イナズマン』が特撮に力を入れていたため1話につき約50万円の赤字を出すという状況に陥った[1]。これに対し内田は東京映像企画演出部の人員を『スーパーロボット レッドバロン』を制作していた日本現代企画へ参加させるなど事実上のリストラ策を講じたが、抜本的な解決へは至らなかった[1]
1974年春の段階で制作番組は『仮面ライダーX』と『イナズマンF』の2本に減少し、変身ブームの終息も相まって両番組とも視聴率で苦戦した[13][1]。1974年夏に東映東京制作所所長の久保田正巳が内田へ生田スタジオの参画企業の改編と内田の大泉への帰還を打診したが、内田はこれを拒否した[1]。その後、1974年10月に赤字の責任をとる形で内田は東映を退社した[1]
東映の撤退
内田の後任として東映東京制作所技術課長の原田一巳が所長に就任し、『仮面ライダーアマゾン』など番組制作は続けられた[1]。しかし、スタジオ設立時のスタッフはほとんど内田のコネクションにより集められた人員であったため、東京映像企画演出部の塚田正熙・長石多可男やプロダクション・ショットの太田耕治・川崎龍治など生田スタジオを離れるスタッフが増え、ほどなくして制作の中心であった東京映像企画は解散した[1]
その後も番組制作は続けられたが、1978年の『透明ドリちゃん』を最後に東映はスタジオの賃貸契約を解消し、撤退した[1][17][注釈 3]。東映プロデューサーの平山亨は、撤退の理由について制作作品の本数が減少したことと組合問題が沈静化して大泉撮影所が使えるようになったことを挙げている[1][注釈 4]
以後、東映の子供向け作品は東映京都撮影所制作の『宇宙からのメッセージ 銀河大戦』など一部の作品を除き大泉撮影所で制作されている[1]
後年
東映の撤退後、細山スタジオはテレビドラマ制作プロダクションのC.A.Lが借り上げ、CF制作などを行っていたとされる[1]。1995年初頭にC.A.Lも撤退し、同年2月にマンションを建設するために細山スタジオは取り壊された[1]が、その後に建設は行われず、跡地は月極駐車場となった[1]

設備・環境[編集]

スタジオ内の建造物は、第1ステージ・第2ステージと呼ばれる2つのスタジオとスタッフルームとして用いられたプレハブ小屋で構成される[1]。後に第2ステージ横に制作ルーム、第2ステージ裏に倉庫と会議室が増築された[1]

東映が契約した時点では、ステージにセットを組むための平台・照明用のブリッジ・カメラ移動用のレールやクレーンなど、撮影に必要な機材はほとんど揃っておらず、スタッフルームにも電話が通じていないという状態であった[3][1]。ステージは2つしかないため、複数の作品制作が平行している時は入れ替わりで撮影せねばならず、スケジュールは逼迫していたという[18][注釈 5]。ステージの屋根はトタンで建てられており、雨が降った際はスタジオ中に雨音が響いていたという[3]。映写室はなく、アフレコは外部の施設を借りて行われていた[18]

設備は十分なものではなかったが、地理的には特撮アクションを撮影するものとしては恵まれていたとされる[3][1][19]。スタジオ周辺は宅地造成中の場所が多く、三栄土木などの造成地がアクションシーンに活用された[3][1][注釈 6]。生田スタジオからは東名川崎インターチェンジ甲州街道青梅街道など主要幹線道路が近く、秩父奥多摩などの山岳地域あるいは伊豆三浦海岸などの臨海地域へ日帰りロケが比較的容易に行われた[3][1]

スタジオ裏手の山や近隣の団地も撮影に用いられており[3][1][注釈 7]、『仮面ライダー』に登場する喫茶店「アミーゴ」も近所の店舗が用いられていた[3]。そのほか、聖マリアンナ医科大学長沢浄水場旧多摩聖蹟記念館お化けマンションなど、周辺地域の建築物が撮影に活用された[3][22][20]

主なスタッフ[編集]

所属・肩書は生田スタジオ参加当時のもの。個別項目がある人物の詳細はそちらを参照。

所長
内田有作
初代所長[1][15]。東映東京撮影所関連事業室長[1][15]
1934年2月3日生まれ[15]。東京都出身[15]。父は映画監督の内田吐夢、兄は生田スタジオにも参加する内田一作[1][15]。妻は浮世絵研究家の内田千鶴子
1957年に東映に入社[15][23]。京都撮影所で助監督を務めた後、1960年に撮影・制作部に転属し、1961年より進行主任を務めた[15][23]。父・吐夢が監督を務めた映画『飢餓海峡』(1965年)に制作主任として参加するが、上映時間短縮を拒否したため更迭され[注釈 8]、興行部で新宿東映丸の内東映・丸の内東映パラスの支配人を務めた[1][15][23]。1969年に東映東京撮影所管理課長として制作現場に復帰し、『柔道一直線』の制作担当を務めた[15][23]。その後、関連事業室長に就任し、『仮面ライダー』製作のため生田スタジオを設立した[1][15]。『仮面ライダー』では制作担当として予算・スケジュールの管理や監督ローテーションの采配など現場の統括を行った[15]
1974年に東映を退社[1][15][23]。1976年から現代ぷろだくしょんで制作担当を務めた[23]。2011年には自ら実行委員長となり仮面ライダー40周年記念 ライダー大集合!を開催した[23]。2011年12月に死去[23]
演出(50音順)
内田一作
東京映像企画所属(2代目社長)[1]。内田有作の実兄[1]
奥中惇夫
東京映像企画所属[1]。『柔道一直線』からの流れで生田スタジオへ参加した[1]
折田至
東映所属[1]。『柔道一直線』からの流れで生田スタジオへ参加した[1]
田口勝彦
東映所属[1]。『柔道一直線』からの流れで生田スタジオへ参加した[1]
塚田正煕
東京映像企画所属[1]。『江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎』などで助監督を務め、内田有作の誘いにより『仮面ライダー』へ参加[24]。助監督の中で最初に監督へ昇格した[24]
長石多可男
東京映像企画所属[1]。『柔道一直線』からの流れで生田スタジオへ参加した[1]
福島孔道
1946年1月18日生まれ[25]。神奈川県出身[25]
テレビドラマ『張込み』でともに助監督を務めた中西源四郎の紹介で、『仮面ライダー』第53話から助監督として参加[25]。その後、長石多可男の後任としてチーフ助監督を務めた[25]。生田スタジオでは最も長く務めていたとされ、『透明ドリちゃん』まで参加している[25]
前川洋之
東京映像企画所属[1]。助監督を務めた後、『イナズマンF』で監督デビュー[26]。その後、日本現代企画へ移り『スーパーロボット マッハバロン』に参加した[1]
山田稔
東京映像企画所属(初代社長)[1]。『柔道一直線』からの流れで生田スタジオへ参加した[1]
技斗
大野剣友会
『柔道一直線』からの流れで生田スタジオへ参加した[1]
ジャパンアクションクラブ
ロボット刑事』からメインアクションを担当[27]
撮影
山本修右
プロダクション・ショット社長[1]大映テレビ室で撮影監督を務めていた[1]。『仮面ライダー』序盤で撮影を担当した[28]
篠原征夫
プロダクション・ショット所属[1]。『仮面ライダー』や『好き! すき!! 魔女先生』で撮影を担当した[28]
大映で山本修右に師事し、山本とともに生田スタジオへ参加した[1]
龍治
プロダクション・ショット所属[1]。1946年10月12日生まれ[28]。鹿児島県出身[28]
大映で山本修右に師事し、山本とともに生田スタジオへ参加した[1]。『仮面ライダー』で撮影助手を担当[28]。第3クールから篠原征夫の後任として撮影に抜擢され[注釈 9]、『仮面ライダーストロンガー』前半まで担当した[28]
照明
太田耕治
プロダクション・ショット所属[1]。1936年12月4日生まれ[10]。東京都出身[10]
大映で山本修右の右腕として活躍し、山本とともに生田スタジオへ参加した[1][10]。『仮面ライダー』から『仮面ライダーX』序盤まで照明を担当した[10]
美術
三上陸男
エキスプロダクション所属[4]。『仮面ライダー』の立ち上げに携わるが、多忙のため離脱[4]。その後、『好き! すき!! 魔女先生』から生田スタジオ作品へ復帰した[4]
高橋章
エキスプロダクション所属[4]。三上陸男の後任として『仮面ライダー』の美術を担当[4]
八木功
エキスプロダクション所属[4]。高橋章の助手として『仮面ライダー』に参加[4]。第80話から美術としてクレジットされた[4]
前澤範
エキスプロダクション所属[4]。『仮面ライダー』の時に高橋章とともに三上陸男に声をかけられていたが、他の契約があったため参加できず、その後、三上とともに『好き! すき!! 魔女先生』から生田スタジオ作品へ参加した[4]。その後、体調を崩し造形部へ異動し、工場長を務めた[4]
特殊効果
菊地潔
大平特殊効果所属[29]。『仮面ライダー』の途中から特殊効果を担当した[29]
1941年9月28日生まれ[29]。茨城県出身[29]。18歳の時に行川映画研究所に入所し、後に大平特殊効果を設立[29]
元々生田スタジオの近所に住んでいて以前から顔見知りのスタッフも少なからずいたことから現場に顔を出すことがあり、他の番組で使用する予定であった火薬を横流しして免許を持たないスタッフに使わせていたが、番組が人気となり制作本数も増えていき火薬の必要性が増したことから正式に参加したという[29]
メイク
小山英夫
1947年8月28日生まれ[30]。東京都出身[30]。父親と兄が大映に務めていた[30]
美容師として働いていたが、大映のメイクスタッフの紹介で『仮面ライダー』に参加[30]。『仮面ライダーストロンガー』までメイクを担当した[30]。オートバイを扱うことが出来たため、バイクの移動やスタントに駆り出されることもあった[30]
1979年に『ストロンガー』に出演していた岡田京子と結婚するが、1986年に死別[30]

エピソード[編集]

  • 1971年から放送されたTBSのテレビドラマ『刑事くん』は当初生田スタジオでの撮影が予定されていたが、視察に訪れたTBSプロデューサーの橋本洋二はキャストを受け入れる設備がないことを理由に使用を断った[15]。所長の内田有作はこれに怒り、橋本が手掛けるウルトラシリーズ打倒を目指してキャラクター路線に注力していったという[15]
  • 生田スタジオでは、『仮面ライダー』第3話の撮影時に拾われたシロという犬を飼っており、番組に出演させることもあった[1]。所長の内田が一番面倒をみていたため、内田が退職時に引き取り、その後長生きしたという[1]

制作作品[編集]

テレビ作品[編集]

映画[編集]

テレビ作品のブローアップ版は除く。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ その後、実際に1971年4月17日から27日にかけて銀座の東映本社で賃上げ交渉に伴うロックアウトが実施された[1]。また、翌1972年も労働争議の影響で大泉撮影所が使用不能になっており、東映テレビ・プロダクション制作の『人造人間キカイダー』や『どっこい大作』などの撮影に支障が出ている[7]
  2. ^ 平山は、スタジオの維持には打ち切りの対策も兼ねて最低でも3本は必要であったと証言している[16]
  3. ^ 書籍『変身ヒーロー大全集』では1976年4月に閉鎖したと記述している[13]
  4. ^ 書籍『全怪獣怪人 下巻』では、「(裏山で)火薬を使うと苦情が来るようになった」という平山の証言から、宅地開発が進んだことを撤退の理由として考察している[3]
  5. ^ アクマイザー3』では、『仮面ライダーストロンガー』と『秘密戦隊ゴレンジャー』の撮影が先行していたため、両番組が撤収した夜中から早朝にかけて撮影をしなければならなかった[18]
  6. ^ 「三栄土木」は正確には稲城周辺の開発を担当していた土木業者の名前だが、スタッフ間では撮影場所の通称として用いられていた[20]。爆薬も使いやすかった赤土の崖が後年には「聖地」と称される[21]この地域は後に造成され、京王相模原線稲城駅とその周辺地域となった[3][20]
  7. ^ 裏山は後に整備され、多摩美児童公園となった[3][1]
  8. ^ 詳細は飢餓海峡#製作経緯を参照。
  9. ^ 当時、撮影は30歳を過ぎてから独り立ちすることが一般的であったため、25歳での抜擢は異例のことであった[28]
  10. ^ 『KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.11』では途中で東映東京制作所に移行したとしている[31]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu OFM1 2004, pp. 27-29, 「特集:生田スタジオ “夢”が紡がれた『仮面ライダー』の故郷」
  2. ^ 仮面ライダー大全集 1986.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 全怪獣怪人 下 1990, pp. 467-481, 「『仮面ライダー』ロケ地探訪」
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n OFM6 2004, pp. 27-29, 「特集 仮面ライダー造型美術」
  5. ^ 『仮面ライダーSPIRITS公式ファンブック 受け継がれる魂』 (ISBN 4-06-334551-3) 117頁。
  6. ^ 仮面ライダー1971-1984 2014, p. 13, 「序章「仮面ライダー誕生まで」」.
  7. ^ 変身ヒーロー大全集 1995, p. 162, 「人造人間キカイダー 作品解説」.
  8. ^ 辰巳出版『東映ヒーローMAX』Vol.40、53頁
  9. ^ OFM3 2004, p. 33, 和智正喜「仮面ライダー監督紳士録 第3回 折田至」.
  10. ^ a b c d e OFM6 2004, p. 32, 杉田篤彦「匠たちの肖像 第4回 太田耕治」
  11. ^ OFM2 2004, p. 31, 早川優「仮面ライダー音楽考 第7回 映広音響のサウンド・メイキング術」.
  12. ^ 変身ヒーロー大全集 1995, p. 134, 「好き! すき!! 魔女先生 作品解説」.
  13. ^ a b c 変身ヒーロー大全集 1995, pp. 130-133, 「概説 変身ブームの変遷」
  14. ^ 仮面ライダー1971-1984 2014, pp. 194-195, 「生田スタジオ制作予定表」.
  15. ^ a b c d e f g h i j k l m n o OFM7, 杉田篤彦「匠たちの肖像 第10回 内田有作」
  16. ^ 変身ヒーロー大全集 1995, p. 151, 「プロデューサー・インタビュー 永遠なる変身ヒーロー 在りし日の生田スタジオ 平山亨」.
  17. ^ OFM8 2004, pp. 16-17, 「作品解説」.
  18. ^ a b c アクマイザー3 ビビューン大全 2003, pp. 164-166, 「RESPECT 鈴木武幸
  19. ^ キャラクター大全1号・2号編 2014, p. 146, 「仮面ライダー 考察と研究」.
  20. ^ a b c OFM6 2004, p. 33, 高橋和光「仮面ライダーが佇む原風景 第4回 各社がひしめくロケ地のメッカ」
  21. ^ 仮面ライダー45周年! 初代のバトル現場でよく登場した「赤土の崖」のいま | まいじつ | 2ページ
  22. ^ OFM3 2004, p. 32, 高橋和光「仮面ライダーが佇む原風景 第3回 田園地帯にそびえる近代建築の妙」.
  23. ^ a b c d e f g h 仮面ライダー1971-1984 2014, p. 41, 「内田有作氏プロフィール」
  24. ^ a b OFM7 2004, p. 29, 高橋和光「仮面ライダー 監督紳士録 第10回 塚田正煕」
  25. ^ a b c d e OFM1 2004, p. 28, 「生田スタジオを支えたスタッフ 福島孔道」
  26. ^ 変身ヒーロー大全集 1995, pp. 189-191, 「イナズマンF EPISODE GUIDE」.
  27. ^ OFM11 2004, p. 32.
  28. ^ a b c d e f g OFM4 2004, p. 33, 杉田篤彦「匠たちの肖像 第6回 川龍治」
  29. ^ a b c d e f OFM5 2004, p. 33, 杉田篤彦「匠たちの肖像 第9回 菊地潔」
  30. ^ a b c d e f g OFM3 2004, p. 29, 「小山英夫」
  31. ^ OFM11 2004, p. 33.

参考文献[編集]