荒木しげる

半保護されたページ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

あらき しげる
荒木 しげる
本名 荒木 生徳
別名義 荒木 茂(旧芸名)
生年月日 (1949-02-09) 1949年2月9日
没年月日 (2012-04-14) 2012年4月14日(63歳没)
出生地 日本の旗 日本鹿児島県出水市
死没地 日本の旗 日本東京都目黒区
身長 174 cm[1]
血液型 B型
職業 俳優歌手ドラマー
ジャンル 映画テレビドラマ舞台
活動期間 1968年 - 2012年
活動内容
主な作品
テンプレートを表示

荒木 しげる(あらき しげる、1949年2月9日[2][3] - 2012年4月14日[3])は、日本俳優ドラマー。フォークグループ「フォー・セインツ」のメンバー。旧芸名、荒木 茂(読み同じ)[3]。本名、荒木 生徳(あらき いくのり)[4][2][3]

鹿児島県出水市出身[2][3]日本学園高等学校[1][2]玉川大学[5]卒業。妻は元女優の樋口のり子[3]。前妻との間の娘は女優の三枝りな[6]

来歴

高校時代に渋谷でスカウトされ、男性ファッション誌などでモデルを務める。玉川大学在学中の1968年にカレッジフォークグループフォー・セインツドラムスとしてデビュー[7][2][3]。「小さな日記」「希望」「冬物語」などのヒット曲を生み出す[3]

1973年の解散後は、CMモデルを経て俳優に転向。当初は本名で活動していたが、1975年、『仮面ライダーストロンガー』に「城茂」役で主演したことから荒木 茂に改名した。のちに荒木しげるに改名(1983年 - 1988年までは、再度「茂」を名乗る)。また、ごく一時期だが新木しげる名義だったことがある。

その後、1976年の『超神ビビューン』でふたたびヒーロー役を演じ、『特捜最前線』『暴れん坊将軍』では長期にわたってレギュラーで活躍した。2000年にはシングル「失恋日記 / 雨情話」をリリースし、音楽活動を再開していた。

2008年にはフォー・セインツの再結成に参加。新曲「この街で」をリリースし、各地でライブを開催した。

2007年4月の統一地方選挙東京都目黒区議会議員選に立候補するが、48人中45位で落選[8]。選挙後のインタビューで「どうやったら区議会議員に受かるか、もう分かった。でも4年後またやるかというと、もうやりたくない」と発言していたが、その後の4年間に食道癌の摘出手術を受ける体験を経て、考え直したことで2011年4月の統一地方選挙で東京都目黒区議会議員選にもう1度立候補するが、再び55人中51位で落選している[9][8]

2011年は仮面ライダー生誕40周年でもあったので、選挙前から落選後もライダー関連のイベントには積極的に参加している。その間、駒込にて「スナック・どっと混む」(2010年閉店)のマスターも務め、同店を通じファンとの交流なども積極的に行っていたが、癌の治療によって食が細り、体力が落ちてきたことで体調を崩すことが多くなっていた。

2012年4月2日、娘の大学の入学式当日に東京都内の病院に入院する。その12日後の2012年4月14日アスペルギルス症併発の肺炎のため、東京都内の病院で死去。同17、18日に目黒区内にて葬儀が行われた。63歳没[10]

遺作は、往年の仮面ライダーシリーズのプロデューサー平山亨の門下生が制作に参加した、特撮オリジナルビデオ『バレットリヴァース』。

人物・エピソード

『特捜最前線』共演時代から同い歳の誠直也とは仲が良く、一緒にゴルフに行く仲だったという。選挙に立候補した際には応援演説に駆けつけ、その写真がニュースサイトに掲載されるとネット上で「立候補したストロンガーをアカレンジャーが応援演説している」と話題になった。また『仮面ライダー』関係のイベントにも藤岡弘、佐々木剛と共に参加している[要出典]

仮面ライダーアマゾン』の主演・岡崎徹とは、同じ所属事務所だった時期があったこと、同じ九州出身であることから個人的にも親交があった。2010年と2012年には、既に芸能界を引退して久しい岡崎を長崎から東京に招いて、共にイベントに参加している[要出典]

2010年9月の自身のブログで「荒木しげる後援会『強兜倶楽部(ストロンガークラブ)』」を発足させることを発表。死去するまでの間に数度、ファンとの交流会を設け、活動を行っていた[要出典]

娘の三枝りなは、父親としての荒木には許せない部分があったが、自身も役者になり役者として荒木を見るようになってすべてを許せるようになったと述べている[6]

太りやすい体質で、娘と公園に行くときも自転車に並走してランニングを行っていた[6]

『超神ビビューン』でのセリフで、「お前たち妖怪から日本を守る」と言わなければいけないと思われるところを、「お前たち妖怪を日本から守る」と言ってしまった。あきらかにNGのはずなのだが、なぜかそのまま放送されてしまった(第21話「良い子が筆になる?呪いの習字教室」)[要出典]

『特捜最前線』への出演が決定していた『ビビューン』放送終盤では、津上刑事の役柄に合わせて短髪にしていた。『特捜最前線』は荒木が降板後から海外ロケが増えて「そりゃないでしょう」と残念そうに冗談めかしくDVD発売記者会見で語っている[要出典]

『仮面ライダーストロンガー』関連

俳優業をやり始めて間もないころ、履歴書を持って子供向け番組の主役オーディション会場へ向かい、そこでカメラテストを受け、渡邊亮徳の目に止まり、『仮面ライダー』『秘密戦隊ゴレンジャー』『正義のシンボル コンドールマン』の中で、どれか好きな物を選ぶように言われ、仮面ライダーしか知らなかったこともあり「仮面ライダーをやりたい」と返答。これにより、仮面ライダーストロンガー / 城茂役に選ばれた[11]

空手柔道(初段)、フットボールの経験があり主演に抜擢され、年下だが大野剣友会の代表である岡田勝から「初めてとは思えないぐらい勘がいい」と評されていた[2]。また、宮内洋と同じくノースタントで危険なシーンも全部自分で演じきった。危険なアクションを行う際は、岡田が宮内や藤岡弘を引き合いに出して煽ったが、後日嘘であったことを明かされた[2]。岡田は荒木がやれと言われたものを断らなかったことを感心したと荒木に告げ、荒木もその言葉に感激したという[2]

二輪免許は撮影開始直前に取得したが、運転自体は中学生時代から父親のバイクを乗り回していた[2]。『ストロンガー』で初めて乗ったモトクロスタイプのバイクに面白みを感じ、よく空き時間にスタントの人間と岩山に登って転び、監督から怒られていたという[2]。細い山道で後ろに子供を乗せて走るシーンの撮影では、反対から走ってきたジープを避けるためとっさに脇の崖を登り、無事に回避したこともあった[7]

『ストロンガー』制作発表時には(俳優転向間もないこともあって)「演技の引き出しがないので、どんどん地を出してやりたい」と語っている。演じた「城茂」が自分の性格と違い過ぎて荒い台詞回しが多かったが、優しい面を出そうと思うようになり、番組後半では優しい面を見せるようになった[12]。共演した小林昭二には、しばしば食事に連れていってもらったと語っている。

『ストロンガー』の終了を持って仮面ライダーシリーズが一旦終了した際は、作品に参加できたことに感謝をすると同時に、それぞれ活躍していた先輩仮面ライダー俳優たちの姿を見て、ヒーローを卒業することへの寂しさを感じつつ、これを糧として今後を頑張るという新たな心構えを抱いたという[2]。後年のインタビューでは、『ストロンガー』での経験が、時代劇でも役立ったことを述べている[7]

1997年に腸閉塞および肺炎で長期入院を余儀なくされた際、病室に若い医師や看護婦が押しかけてサイン攻めにあったことがある[2]。理由は、担当医が『ストロンガー』を見て育った世代で、自身が荒木の担当であることを仲間の医師に噂したためであり、その医師たちが自身を憧れのヒーローとしてみている姿に感激し、「このような体験は仮面ライダーを演じた自分たちだけだと思う」と感じたという[13][2]

大野剣友会の当時のスーツアクター面々と佐々木剛速水亮高杉俊介と共にライダー関係のイベントに出演。舞台上で短い殺陣と「変身」を披露した。ストロンガーの変身後を披露したのは中屋敷哲也であったがストロンガーの前口上のアテレコは荒木が行った[要出典]

闘病・死去

2012年4月13日午後に危篤状態になり、肺がアスペルギルス症に感染していたこともあり、肺炎で死去。

2012年4月17日と18日に都内の斎場にて葬儀がしめやかに営まれ、会場ではフォーセインツの「小さな日記」などが流れる中で、仕事先関係者やファンなどが告別式には500人ほど参列した。17日の通夜には佐々木剛と高杉、横光克彦、フォーセインツのメンバーが来場、翌日の告別式には藤岡弘、と、速水亮、誠直也、白川由美らが訪れていた。

また、速水亮は荒木の追悼記事を自身のブログにて掲載し、荒木を最後までストロンガーと呼び、他の葬儀参列者らとともに荒木の棺を霊柩車まで送り届けた(そのブログのコメント欄などには荒木を偲ぶ声が寄せられた)[14]。マスコミ陣の取材に対し、公私ともに兄貴分として荒木を可愛がっていた藤岡は声を詰まらせ、「時をともにした仲間なので非常に胸が痛い。早すぎる、無念………」と語り、荒木のことを「いつも明るくて前向きでチャレンジ精神が旺盛な人でした」。と語った。亡くなる3年前に「会って話がしたい」と言われ、久しぶりに再会した時に「藤岡さんを中心にもう一度、ライダーの仲間たちで頑張りたい」と熱っぽく語っていたという。藤岡が本人と最後に会ったのは二谷英明の通夜だったようで、「忙しくて会釈ぐらいしかできなかったけど、明るい顔をしていたので『大丈夫だ』と思っていたのですが…」と、肩を落とした[要出典]

その後、夫人が自身のブログにて夫の葬儀に参列した芸能関係者、全国から集まったファン、葬儀手伝いなどでお世話になった人々に対して、深い感謝の気持ちを述べている[要文献特定詳細情報]

漫画家の村枝賢一は、このことに伴い『月刊少年マガジン』で連載中の原稿を差し替え、『宇宙船』の7月号に追悼記事を掲載している[要ページ番号]

訃報に際して、仮面ライダー関連では、佐々木が「最近は仮面ライダーのイベントで顔を合わすことも多かったので『一緒に何かやろう』って言ってたのですが」、高杉は「藤岡弘、さんを筆頭にもう一度みんなで集まりたかった」とコメントした。さらに、目黒区議選立候補のときにバックアップした横光は「よく飲みに行きましたが、とにかく格好よくてどこに行ってももてた。人なつっこくて本心でつきあえる人でした」とコメントし、『暴れん坊将軍』の御庭番コンビとして共演した朝加真由美は「4年間ほぼ一緒にいたので兄貴みたいな存在でした」とコメントした[15]

出演

テレビドラマ

映画

オリジナルビデオ

ネットムービー

舞台

CM

音楽

シングル
  • 失恋日記 / 雨情話(2000年、オリエント)

脚注

注釈

  1. ^ a b c 新木 しげる」名義。

出典

  1. ^ a b 『日本タレント名鑑'94』VIPタイムズ社、1994年、16頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m OFM仮面ライダー7 2004, p. 26, 「主演俳優の素顔8 荒木しげる」
  3. ^ a b c d e f g h 「追悼 荒木しげる」『宇宙船』Vol.137、ホビージャパン、2012年6月30日、122 - 123頁、ISBN 978-4798604213 
  4. ^ 『仮面ライダーX・アマゾン・ストロンガー大全』双葉社、2004年。ISBN 978-4575297324 
  5. ^ ファンタスティックコレクションNo.9 仮面ライダー 総集版』朝日ソノラマ、1978年、[要ページ番号]頁。 
  6. ^ a b c 仮面ライダー1971-1984 2014, pp. 448–449, 「父との思い出(荒木 茂)」
  7. ^ a b c 仮面ライダー大全集 1986, p. 233, 「仮面ライダーSTAFF CASTインタビュー 荒木茂」
  8. ^ a b 目黒区議会議員選挙 平成27年4月26日執行PDFファイル)、目黒区
  9. ^ スポーツ報知新聞2007年4月23日版、2011年4月25日版より
  10. ^ “「仮面ライダーストロンガー」役 荒木しげるさん死去”. スポニチ Sponichi Annex. (2012年4月16日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/04/16/kiji/K20120416003053450.html 2016年10月25日閲覧。 
  11. ^ 岡謙二 1999, pp. 131–132
  12. ^ 岡謙二 1999, pp. 134–135
  13. ^ 岡謙二 1999, pp. 139–143
  14. ^ 速水亮. “告別式……”. 仮面ライダーX 速水亮オフィシャルブログ. Amebaブログ. 2022年4月26日閲覧。
  15. ^ [1][リンク切れ](アーカイブ)荒木しげるさん願っていた「もう1回、フォー・セインツ」…通夜に500人参列”. 報知新聞社 (2012年4月18日). 20018-06-19閲覧。

参考文献

  • 『創刊15周年記念 テレビマガジン特別編集 仮面ライダー大全集』講談社、1986年5月3日。ISBN 4-06-178401-3 
  • 『KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー』 Vol.7《仮面ライダーストロンガー》、講談社、2004年11月25日。ISBN 4-06-367095-3 
  • 講談社 編『仮面ライダー1971-1984 秘蔵写真と初公開資料で蘇る昭和ライダー10人』講談社、2014年11月20日。ISBN 978-4-06-218566-0 
  • 岡謙二 著、ソニーマガジンズ 編『不滅のヒーロー 仮面ライダー伝説』ソニー・マガジンズ、1999年2月26日。ISBN 4789713385 

関連項目

外部リンク