渡邊亮徳

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渡邊 亮徳(わたなべ よしのり、1930年2月18日[1][2] - )は、日本映画・実写特撮、アニメーション、テレビプロデューサー、東映社員。

東京府(現在の東京都)出身[1][2]専修大学卒業。東映株式会社本社副社長、東映ビデオ株式会社代表取締役社長、株式会社東急エージェンシー顧問、株式会社伊藤園、株式会社東北新社顧問、(社団法人日本映画テレビプロデューサー協会副会長などを務めた。

来歴[編集]

1952年1月に東映へ入社し、営業部配給課営業係に配属された[1][2]。1953年に関東支社営業一課へ異動[1][2]。1958年から東京担当となった[2]

1959年に東映にテレビ課を新設され、初代課長となった今田智憲から東映社長大川博への進言により、1964年6月には営業部テレビ課に移動し、今田の後任として課長就任[3][4][1][2]。その後、東映テレビ部部長に昇進[2]

1989年6月に東映ビデオ社長に就任、のち東映の副社長となった。

1995年税務調査で渡邊の度を超えた会社のカネの使い込みが発覚[5][6]。内容はカンヌの出張などに夫人を同伴させ、仕事は1日か2日で終わるのに、そのまま会社持ちでヨーロッパを2週間も旅行し、飛行機はファーストクラスで、ホテルも超一流のスイート。移動はすべてリムジンを使用[5][6]。また6年前にも銀座のクラブなどの偽造領収書で会社から約5000万円を不正に所得し[5][6]修正申告に応じたが、追徴課税は会社に負担させた[5][6]。また会社に三越松屋商品券を購入させ私用に使ったり、銀座で購入した時計を経費で落としたなど[5][6]。これが翌1996年2月に怪文書として東映社内は勿論、取り引き銀行や、系列のテレビ朝日にもばら撒かれ、1996年4月には東京国税局特別国税調査官が東映に税務調査に入るなど当時のマスメディアも大きく取り上げる事態となった[5][6][7]。税務署の調査で怪文書の内容が驚くほど正確で、税務署も感心するほどだったが[5]、渡邊は『FOCUS』の取材に対して悪びれることなく、「全部会社の接待で使った経費だから、会社に支払わせるのは当然。海外のレセプションは夫人同伴は自然で、妻同行は業務のうちと判断して会社の総務も金を出した。税務署が払えと言うから、オレが使った金だから追徴金を払ったよ。私はいままで体を張って東映を儲けさせて来た。このやり方で40年間うまく行ってるんだから、カネの使い方は変えようがない。"仮面ライダー"は日本で20億円儲けたし、"パワーレンジャー"はアメリカで50億円儲けた。だから怪文書なんてゴミみたいな話をするな! 私は最後の活動屋だよ。いまの若い官僚みたいな社員には分からないかも知れないが、私のやり方は岡田茂会長は理解してくれてるハズだ」などと話した[5]。しかし1996年2月29日付けで「ビデオ事業・テレビ事業統括」担当を解任され[5]、無任所副社長となる[5]。岡田会長は「彼は本体が儲からなかった時に一気に稼いでくれたから、僕も多少の交際費は使わせてやってもいいと思った。でも女房のカネぐらいは自分で出さなくちゃいかん。最初は6月の株主総会までは引き留めてやろうと思ったが、『FOCUS』で偉そうに喋ってるのを記事で読み、亮徳を呼んで『辞めろ』と言ったんだ。彼は素直に『わかりました。申し訳ありません。今後ともよろしくお願いします』と言うから、『夏が過ぎたら個人事務所でも作れ』と言ったんだ」と話した[6][8]。捜査が進んで解雇になると2億円の退職金が払われなくなる恐れもあり[6]、渡邊は岡田の進言を受け入れ、1996年4月5日付けで東映副社長を辞任し、東映から離れた[6][9]。怪文書は反岡田勢力からのリークで[6]、本来は岡田が住専と深い関わりがあることを糾弾し、岡田体制の弱体化を狙ったものだったが、岡田の権力も相当なものでこれを跳ね返され、結局渡邊の首切りだけで終わった[6]

東映退社後は、個人事務所「渡邊事務所」を作って活動した[1][2]。大下英治著『日本ジャパニーズヒーローは世界を制す』など二冊、渡邊に関係する書物がある。

人物・エピソード[編集]

  • 「お客様が得をする。私共も得をする。両方、得する亮徳りょうとくです」を営業時のキャッチフレーズとしていた[1][2]。セールスマンとして活動していた営業時代のあだ名は「ブルドーザー」「ギャング」「大名」[3][1][2]
  • 口の巧さから「渡邊が来ると騙される」と揶揄されることもあった[1]。自身もそれを自覚しており、金銭が絡む契約時には出向かないようにしていた[1]
  • 企画者として今現在流行しているものを追いかけるのではなく、次に来るブームを見定めることを重視している[10][1][11]。また、「企画は螺旋形に推移する」という持論を掲げており、過去に流行したものは少し進化した形で再び流行すると考察している[1][11]。『仮面ライダー』企画時は、当時ヒットしていた『タイガーマスク』を参考にしつつ、ブームが過渡期にあったスポ根ものではなく『月光仮面』に代表される仮面ヒーローとすることを直感したという[1]。また、「モーレツ」や「ビューティフル」に代わるものを作ろうという意気込みもあり、「変身ブーム」が社会現象となった時には自分たちの努力が実ったことを感じたという[10]
  • 東映プロデューサーの平山亨は、渡邊について映画の営業を勤めていた経験から、作品の当否について鋭い勘を持っていたと評している[12]。『仮面ライダー』の企画時では、強力な裏番組に対して勝算のない仮面ヒーロー物をぶつけるという渡邊の提案に対し、平山は半信半疑であったが最終的には渡邊の勘を信じたと述べている[12]
  • 『仮面ライダー』の開始当初、赤字を理由として役員会で叱責された際、社長の大川博に対して「将来100億売ってみせる」と大見得を切った[1]。その後、渡邊はテレビ作品の制作を拡大し、最高で300億円売り上げるに至った[1]。多忙な中でも同シリーズの試写はほとんど立ち会ったという[10]
  • 人造人間キカイダー』では、脚本[注釈 1]も担当している。東映プロデューサーの吉川進によれば、内容に対する批判が多かったため、渡邊が自ら執筆に名乗りを挙げたという[14]
  • 『キカイダー』に登場するライバルキャラクターであるハカイダーは、渡邊が組織の脱走者であるキカイダーに対して怪獣型の追手よりもさらに凶悪な追手を登場させて追い込む、という考えから発案したものである[14]

企画・製作[編集]

など

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 1972年11月11日放送分 第18話「クロカメレオン 幻の大強奪作戦」(島田真之との共同執筆)[13]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o OFM仮面ライダー11 2004, pp. 31-33, 構成・杉田篤彦 進行・高橋和光「ファイナル特別座談会 東映ヒーローの礎」
  2. ^ a b c d e f g h i j 仮面ライダー怪人大画報 2016, p. 210, 「仮面ライダースタッフ・キャスト人名録2016年版」
  3. ^ a b #キャラクタービジネス、p40-45
  4. ^ #日本ヒーローは世界を制す、p35。
  5. ^ a b c d e f g h i j 「「東映副社長」税務署が呆れたムチャな豪遊ー怪文書に「最後の活動屋」の弁明」、『FOCUS1996年平成8年)3月27日号、新潮社1996年、 6 - 7頁。
  6. ^ a b c d e f g h i j k 「腹心が使い込みで解任、息子祐介氏の悪評、税務調査...東映・岡田茂会長の「なぜだ!?」」、『週刊文春1996年平成8年)5月23日号、文藝春秋1996年、 172 - 175頁。
  7. ^ 脇田巧彦・川端靖男・増田晃・黒井和男「映画トピックジャーナル」、『キネマ旬報1996年平成8年)8月下旬号、キネマ旬報社1996年、 209頁。
  8. ^ 脇田巧彦・川端靖男・増田晃・黒井和男「映画トピックジャーナル」、『キネマ旬報1996年平成8年)8月上旬号、キネマ旬報社1996年、 174頁。
  9. ^ 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男「映画トピックジャーナル」、『キネマ旬報1996年平成8年)4月下旬号、キネマ旬報社1996年、 154頁。
  10. ^ a b c 仮面ライダー大全集 1986, p. 236, 「仮面ライダーSTAFF CASTインタビュー 渡辺亮徳」
  11. ^ a b キャラクター大全1号2号編 2014, pp. 150-151, 「仮面ライダー証言集1 渡邊亮徳」
  12. ^ a b 仮面ライダー怪人大画報 2016, pp. 62-66, 「仮面ライダーを育てた三賢人I 平山亨
  13. ^ 変身ヒーロー大全集 1995, p. 165, 「EPISODE GUIDE 全43話」.
  14. ^ a b 変身ヒーロー大全集 1995, p. 150, 「プロデューサー・インタビュー 永遠なる変身ヒーロー 主役を越えたハカイダー 吉川進

参考文献・ウェブサイト[編集]