セントラル・アーツ

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株式会社セントラル・アーツ
Central Arts K.K.
種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地 日本の旗 日本
東京都中央区築地1丁目12-22 コンワビル10階(東映ビデオ内)
設立 1980年
業種 情報・通信業
事業内容 映画テレビ映画の製作
代表者 黒澤満(代表取締役)
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株式会社セントラル・アーツ(Central Arts K.K.)は、日本の映画テレビ製作プロダクション、芸能事務所である。東映ビデオの子会社にあたる。

概要[編集]

1977年4月、日活を辞めた黒澤満に、当時の東映岡田茂社長が「黒澤、今、何やってんだ?」と声をかけ「今は浪人してます」「それじゃ東映来て好きなことやれ」[1]、「東映セントラルフィルムという会社を作るからそこで映画を作らないか」などと誘い[2][3][4]黒澤が東映に入社[5][6]、東映セントラルフィルムの製作部門のプロデューサーとなったのがセントラル・アーツの始まり[4][7][8][9][10][11]

設立期[編集]

映画秘宝』2010年12月号の特集「東映セントラルの世界 〜セントラル・アーツの世界」では、「黒澤が中心となり、日活出身のスタッフらとともに東映芸能ビデオの製作部門として立ち上げたのがセントラル・アーツ。東映セントラルは東映の下番線用の配給会社であったが、いつしか東映セントラル=セントラル・アーツとなった。このあたりの事情は複雑で経緯が不明な点も多い」などと書いている[1]丸山昇一は「セントラル・アーツはたまたま経理上の必要か知らないですけど、別会社としてあったんだよね。東映セントラルフィルムはただの配給会社ですから。(中略)黒澤さんが東映セントラルフィルムの中にひとつだけ椅子を貰って、そこで映画の企画と制作を始めた」と述べている[1]。東映セントラルフィルムの設立者・岡田茂は「東映ビデオの中に、セントラル・アーツという製作会社を作った」[12]、「黒澤を東映ビデオの製作部門の長として抱きかかえ、これを東映セントラルフィルムと組ませた」[7]などと話している。「黒澤はいつしか東映ビデオの企画、製作のボスとなっていった」と書かれた文献もある[13]。黒澤がプロデュースした[9]テレビドラマ探偵物語』(1979年9月〜1980年4月、日本テレビ系列)は、東映ビデオが製作している[9]伊地智啓は、「東映が黒澤さんに用意したポストは、東映の傍系会社で東映芸能ビデオ(東映ビデオ)、その明るいフロアの一角に机が一つあったのを覚えています。岡田さんは黒澤さんを東映本体の役員に据えるのを避けて、むしろ本体とは切り離してフリーハンドの製作拠点を作る戦略ではあったんでしょう」と述べている[11]

呼称[編集]

いつから「セントラル・アーツ」と呼ぶようになったかであるが、黒澤が東映入りして間もない『キネマ旬報』1978年12月号の特集「東映セントラルフィルム研究」〔座談会〕で黒澤も出席しているが、「セントラル・アーツ」という言葉は一度も出てこないので、黒澤が製作部門を立ち上げてすぐはセントラル・アーツと言わなかったようである。勿論、黒澤が東映に入社した時点で、その母体は出来ていたと思われる。1979年に『探偵物語』が始まったときにセントラル・アーツが出来たという見方もあるが[1]、現在発売されているBlu-ray Discなどにはセントラル・アーツとクレジットされているものの[14]、当時のドラマのオープニングやエンドロールにはセントラル・アーツというクレジットは見られない。1981年4月に出版された『東映映画三十年』(東映)に「東映セントラルフィルム製作配給代表作品」と書かれた頁があるが、ここにもセントラル・アーツという記述がなく、1980年10月公開の『野獣死すべし』も製作は東映セントラルフィルムになっている[15]松田優作は黒澤を信頼し1981年に松田からの強い希望で、自身と熊谷美由紀マネジメントを黒澤に頼んできた[9]。黒澤は「俳優のマネジメントをする会社じゃないから」と断ったが、松田が強く希望するので異例の措置として了解したという[9]。黒澤に誘われ日活を辞めセントラル・アーツに参加した伊地智啓は著書で、セントラル・アーツ設立時期は述べていないが、セントラル・アーツの名付け親は自分で、黒澤が「俺はアーツじゃない」と言うので伊地智が「セントラルだけじゃストリッパーのプロダクションみたいだから、映画、アーツで行ってもいいんじゃないかと嫌がる黒澤を説得した」と話している[11]。文献によっては1983年にセントラル・アーツとなったと書かれたものもある[16]。岡田社長は1987年の「映画ジャーナル」(「文化通信ジャーナル」、文化通信社)のインタビューでセントラル・アーツを黒澤プロと呼んでいる[7]

歴史[編集]

設立の際に岡田が黒澤に出した製作の条件は「一本の製作費3000万円、撮影日数二週間、オールロケーション」であった[4]。当時の日活ロマンポルノが製作費750万円で[11]、ロマンポルノ以前の日活の澤田幸弘たちが作っていた「日活ニューアクション」が3000万から3500万円でセントラル・アーツと同程度となる[11]。当初はオールロケの条件だったが、やはり撮影所での撮影も必要なケースも出たようで、この際に東映東京撮影所を使わず、1981年の『探偵同盟』(フジテレビ)、『プロハンター』(日本テレビ)から、日活撮影所で撮影を行った[17]。岡田は東映内部で作ったらあのカラーは出せなかったと述べている[7]。東映本社からの反発も強かったことから後に岡田が黒澤を説得して[18]他作品と同様に東映東京撮影所を制作拠点とした。

セントラル・アーツ製作では初期は一連の松田優作作品が中心であったが1985年に公開された『ビー・バップ・ハイスクール』が大当たりをとり、ヤングの客層を拡大に成功し東映の看板シリーズになった[1][19]1980年代後半はセントラル・アーツ所属となった仲村トオルの人気上昇にともない『新宿純愛物語』(1987年)など仲村主演映画を次々と制作[1]。また、テレビドラマ『あぶない刑事』のヒットで『あぶない刑事映画版』などをヒットさせた。1989年には、長渕剛の初主演映画『オルゴール』を製作しヒットしたが、続く『ウォータームーン』は、内容が破綻しトラブル頻発した失敗作として知られる[1]。セントラル・アーツ作品は時おり強烈なカリスマ性を帯びた時代の申し子を起用してヒットに結ぶつけることがある[1]。1989年からは多数の東映Vシネマを製作している[1]

アクション作品やハードボイルド物を得意とするプロダクションとして知られるが、その守備範囲は幅広い。その一方で『世にも奇妙な物語』『木曜の怪談』(CX)など、東映本社が実制作を手掛けながらも、同時間帯での重複クレジットを避けるためのダミーとしても社名が使用されている。[要出典]

功績と評価[編集]

セントラル・アーツの功績として松田優作をスターにしたこと[13]村川透をカムバックさせたこと[13]、セントラル・アーツや東映Vシネマのスタッフに多くの日活OBが参加したことなどが挙げられる[10][6]。岡田東映社長は「黒澤には一見まかせているようだけど、全部指示してやらせている、これが成功する原因だね。何もかもまかせて勝手にやってくれじゃどうにもならんよ。それで失敗したシャシン、何本もあるわな」[20]、東映セントラルフィルムが設立して10年経った1987年のインタビューでは、「『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズや『スケバン刑事』の大ヒットの過程を追ってみると10年前、日活を去ることになった黒澤満さんを、東映ビデオの製作部門の長として抱きかかえ、これを東映セントラルフィルムと組ませたりして、専ら外部のタレントを使って、ずいぶんヤング映画を作ってきましたわね。黒澤プロ(セントラル・アーツ)も角川映画の下請けを何本もやってね。いいところをずいぶん吸収したわな。あの時、時代劇任侠、もう客が来ない時代になっていたからね。これを何とかしなきゃということで、変えるためには外部の才能を借りるしかない、そんなことの一環で、黒澤君一派にいろいろやらせたんだが、まあ、今日、東映の体質が10年前と変わってきたということの底流のひとつには、黒澤君などの地味な10年にわたる活動がモノをいっている、これは間違いないよ」などと評していた[7]

主な所属スタッフ[編集]

過去の所属スタッフ[編集]

過去の所属タレント[編集]

主な作品[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

ダミー作品[編集]

社名のみが元請け扱いとしてクレジットされた作品。いずれも実制作は東映本体であり、実際は全く関与していない。

ビデオ映画[編集]

  • 狙撃シリーズ(1989〜1994年)
  • ベレッタM92F 凶弾(1990年)
  • 野獣駆けろ(1990年)
  • 裏切りの明日(1990年)
  • 悪人専用(1990年)
  • カルロス(1991年)
  • 夜のストレンジャー 恐怖(1991年)
  • 襲撃 BURNING DOG(1991年)
  • 傷だらけのライセンス(1991年)
  • DANGER POINT 地獄への道(1991年)
  • 名のない男 破壊!(1991年)
  • 死神の使者(1992年)
  • 復讐の掟(1992年)
  • ろくでなし LAST DOWN TEN(1992年)
  • DISTANT JUSTICE 復讐は俺がやる(1992年、日米合作)
  • ニューヨーク・アンダーカバー・コップ(1993年、日米合作)
  • BE-BOP-HIGHSCHOOLシリーズ(1996〜1997年)

ビデオアニメーション[編集]

受賞歴[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 東映セントラルフィルム研究 プログラム・ピクチュアこそ日本映画のオリジンだ 〔座談会〕村川透 佐治乾 黒沢満 〔司会〕山根貞男」、『キネマ旬報』1978年12月号、キネマ旬報社
  • 荻昌弘ジャンボ対談(26) 東映社長岡田茂氏 '76年洋画界の地図を大きくかえる東映・岡田社長の野心と情熱ー B・リー A・ドロンで洋画界に殴り込み!」、『ロードショー』1976年3月号、集英社
  • 『キネマ旬報』1979年1月下旬号。
  • 『東映映画三十年—あの日、あの時、あの映画』 東映、1981年
  • 「映画40年全記録」、『キネマ旬報増刊』1986年2月13日号。
  • 『クロニクル東映:1947-1991』Ⅰ、東映、1992年
  • 〈ドキュメント東映全史〉 多角化は進んでも東映の看板はやはり映画 岡田茂」『クロニクル東映:1947-1991』2、東映、1992年
  • 山口猛 『松田優作 炎 静かに』 社会思想社現代教養文庫 1505〉、1994年ISBN 4-390-11505-7
  • 松田優作丸山昇一 『松田優作+丸山昇一 未発表シナリオ集』 幻冬舎1995年ISBN 4-87728-074-X
  • 松島利行 『日活ロマンポルノ全史 —名作・名優・名監督たち講談社2000年。4-06-210528-4。
  • 岡田茂 『悔いなきわが映画人生:東映と、共に歩んだ50年』 財界研究所、2001年ISBN 4-87932-016-1
  • 男の教科書! 東映セントラルの世界 〜セントラル・アーツの世界」、『映画秘宝』、洋泉社、2010年12月。
  • 『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』 文化通信社2012年ISBN 978-4-636-88519-4
  • 『映画秘宝』2011年8月号、洋泉社。
  • 『映画秘宝』2015年1月号、洋泉社。
  • 『キネマ旬報』2015年1月下旬号。
  • 伊地智啓 『映画の荒野を走れ プロデューサー始末半世紀』 インスクリプト、2015年ISBN 978-4-900997-56-1

関連項目[編集]