東映Vシネマ

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東映Vシネマ(とうえいブイシネマ)は、東映ビデオ1989年より制作・発売を開始した劇場公開を前提としないレンタルビデオ専用の映画の総称[1][2][3][4][5]。ビデオパッケージ映画。1990年代にかけてレンタルビデオ店を席捲し[3]日本映画史に大きな足跡を残した[3]

映画テレビドラマを評するときに『Vシネマっぽい』と言われることがよくあるが[4]、"Vシネマ"という単語自体は東映ビデオ登録商標である[4][6]。Vシネマを扱った最初の書籍は、谷岡雅樹著の1999年『Vシネマ魂』(四谷ラウンド)だったが[7]、出版の際、東映から「Vシネマは東映独自の登録商標だから、東映以外のオリジナルビデオ作品について記述するならVシネマのタイトルは使わせない」とクレームが付いた[7]。この話が業界に伝わり、映画業界誌は全て東映以外のオリジナルビデオをVオリジナルなどと言い換えた[7]。谷岡は「オリジナルビデオと言ってしまうとVシネマとは意味が違ってしまう」と神波史男に助けを求め、神波が岡田茂東映社長に直訴し[7]、岡田社長の"鶴の一声"で、"Vシネマ"という言葉はフリーパスで使用が認められ[7]、以降、デジカメ(三洋電機の商標)やセロテープ(ニチバンの商標)と同様に一般名詞的に用いられるようになった[3]

概要[編集]

1980年代末、日本映画の公開本数は250本程度まで落ち込んだ[3]。一方でレンタルビデオ店は急増して作品は足らず、この市場に目を付けた東映が考案したのが東映Vシネマである[3]

Vシネマは当初、萩原健一草刈正雄等のベテラン、名高達男神田正輝等の中堅、仲村トオル等の新進といった有名な俳優を起用したハードボイルドタッチの作品が数多く制作されたが、哀川翔が主演した『ネオチンピラ 鉄砲玉ぴゅ〜』シリーズのヒットにより、次第に東映のお家芸である極道物ギャンブル物が主流となっていった[8]

創成期の製作費は基本が6000万円で[9]、うち宣伝費が20%であった。キャスティングに強烈なスターが出て、売れる見通しがあればもっと多かった。これは当時の東映の単館ロードショー作品と同程度の制作費であった[9]。 これは、Vシネマ開始当初は邦画不況時代であり、作品を劇場配給網に乗せる予算を制作費につぎ込むことにより作品のクオリティを維持しつつ制作を継続するという苦肉の策から生じたものであると言われていると同時に、当時、実質的に経営破綻状態にあった日活の製作スタッフに救いの手を差し伸べるという側面もあった。

この試みは功を奏し、作品自体で収益を得ることに成功したのみならず、邦画黄金期のプログラムピクチャーと同じく、監督・スタッフ・俳優など現在に至る人材が量産体制の中で鍛えられ成長し、現在の映画・テレビ業界を背負う人材が多数輩出された[3][4][10]。無名時代の椎名桔平押尾学豊川悦司谷原章介大杉漣らの出演作もある[8]

創設の経緯[編集]

1984年、ビデオ部門に移った東映ヘッドプロデューサー(当時)吉田達が、当時からビデオ・オリジナル作品の製作を着想していたことに始まり[9][11][12]、これを当時の東映ビデオ社長・渡邊亮徳が推進した[13]が、実際の製作には踏ん切りがついていなかった[14]。折しも脚本家だった大川俊道が30歳までに監督作品を作りたいと考え、特殊効果カタログのような作品を作りたいという構想を持っており[14]、そこにテレビ朝日で放送されていた『ベイシティ刑事』のプロデューサー・武居勝彦が、大川に「ガン・アクションをやろう」と持ちかけてきたことで企画が動き出した[14]1988年、大川が世良公則と組んでガン・アクションに徹したビデオを構想しているという話を吉田が耳にしたことで、第一弾『クライムハンター 怒りの銃弾』の製作が東映ビデオで決まった(1989年3月10日発売)[4][11]。大川は「『ゲッタウェイ』や『ダーティハリー』のような映画を日本で実現できないかと考えており、『仁義なき戦い』みたいな映画をやりたいわけではなかった」と述べている[15]

吉田達がビデオレンタル店を視察した折、5本も借りていく若い利用者に「それを全部見るのか」と聞いたところ、「早送りするから」と返答されたことから、「早送りさせないもの」というコンセプトの下に同作品は通常の劇映画より短い60分で製作された[11]。ところが先のビデオレンタル店の利用者に感想を聞いたところ、「面白かったけど話にもう一展開欲しい」と言われたため、それ以降の作品は基本85分の長さで製作することになったという[11]。東映は当時全国に13000ぐらいのビデオショップと契約を持っており、店長試写会を開き10数箇所で計700人ほどに観てもらい、「この次は誰が欲しい」と店長の要望を聞き、例えば「岩城滉一が欲しい」と言われれば、それを掴まえて次作に取り組んだ[9][12]。このスタンスは、「皆さんの要望で作ったものだから仕入れてくれ」と要求しやすかったといい[9]、Vシネマはビデオショップの店長の意見を多く取り入れたと話している[9]。最初に『怒りの銃弾』を出した際には、初めから長期展望で繋がるとは思っておらず、恐る恐る始めたという。『怒りの銃弾』を16000本ほど売り上げたことで黒字を達成し、吉田がセントラルアーツ黒澤満にも薦めたところ、黒澤が仲村トオル主演で『狙撃 THE SHOOTIST』を製作、26764本の初回出荷で再び黒字を達成した[16]。この2本をテストケースとして1990年2月にオールハードアクションで10本の製作を発表[9]。またこの頃、『怒りの銃弾』がテレビ放映され15.7%の高視聴率を記録した[9][14]。これを受け、1990年4月から月1本ずつのレギュラーリリースに移行したが、好調により10月からは2本、東映本社から来る劇場作品がない月は3本、TVアニメとの兼ね合いも見据えて月3~4本程度の製作を決めた[9]

1989年2月頃、ビデオ用劇映画の製作が決まった際に、多くの俳優に声を掛けたが、「Vシネマで劇場公開はない」というと嫌がる俳優がほとんどだった[9][12]。世良公則の決断と、世良主演で『怒りの銃弾』が成功したことで、その後多くの俳優が出演を希望するようになった[9]。テレビで少なくなっていたアクションを映画の仕掛けで存分に見せた本作の功績は大きい[3]。一年余りで特に若いユーザー間に"Vシネマが面白い"と口コミで広がった[9]

ビデオレンタル店が儲かった黄金期は1985年から1987年にかけてで [17]、店数の最盛期だった1989年には全国で1万6000店以上あったといわれ[17]、そこからは減少に転じた[18]。つまりVシネマは、始めからビデオブームの下り坂に向けて作られたジャンルであり、「ヤクザなファン層」たちの生き残りを確保した場所でもあった[18]

吉田は「映画批評家も今はVシネマに鼻も引っ掛けないような所があるが、批評家は客が来ないような映画を褒める。初期の東映のヤクザ映画路線と同様、なんだこれはと言っているうちに客が増え、いつの間にか批評を書き始める」と1990年のインタビューで話していた[9]。実際1990年の後半から、「映画は映画館で観ろ」という主張の急先鋒だった批評家の一部に、「ヴィデオドラマはプログラムピクチャーの復活だ」と唱え始める者も出てきた[19]

1989年3月発売された第一作の『クライムハンター 怒りの銃弾』はテストケースでタイアップはなかったが、同年8月25日発売された『狙撃 THE SHOOTIST』はTBSが制作費を半分拠出した[16]。同年11月24日発売された『クライムハンター2 裏切りの銃弾』は東北新社が共同制作、初回出荷は20066本。1990年4月13日発売の宮崎ますみ主演『ブラックプリンセス 地獄の天使』は東洋レコーディングがタイアップ[16]。1990年からは最初からテレビに放映権を売るということでテレビ局が主に出資した[20]。1990年4月に製作を予定された10本中、半分をTBS、2、3本をテレビ朝日が出資した[20]。東映ビデオは販売会社を全国11社でネットしているが、東映以外は市場提供するためには製作・流通の一部が欠け、アンバランスな状態が生じており[16]オリジナルビデオは東映だからこそ可能であった[16]

吉田達は岡田茂の薫陶を受けた人物の一人で[21][22]、「東映Vシネマ」は、岡田が仕掛けた「アクション映画」や「任侠映画」、「エログロ映画」、「実録映画」、「東映セントラル」などの流れを汲むものだった[23][24][25]

その他[編集]

アクションものが続くことによるマンネリ化を防ぐために、毛並みの変わったレーベルでリリースしたこともあったが、1,2作程度で終わった。

  • 東映ヤングVシネマ - アクション系と違った、軽いタッチの若者向け作品。第1弾は『2人のマジカル・ナイト[26]
  • 東映Vエロチカ - ヌードシーンやセクシーシーン満載の作品。第1弾は『マニラ・エマニエル夫人 魔性の楽園』[27]
  • 東映Vアメリカ - ハリウッドシステムと組んで作った、アメリカ版Vシネマ。主要俳優・プロデュースは日本サイドだが、製作プロダクションはアメリカの会社で行う。一瀬隆重が、日米間のコーディネイトを行うプロデューサーとして活動した。第1弾は『DISTANT JUSTICE 復讐は俺がやる』[28]

近年[編集]

本来はVシネマとして制作されたにも関わらず、単館上映されたためパッケージに「劇場公開作品」と記載した作品が増え[4](小さい館で1回レイトショー上映しただけでもこう表記することが可能なため、逆に言えば箔付けとしては無意味にもなりつつある)、厳密な意味でのVシネマは減少の一途にある。2004年頃はレンタルより販売中心のDVD時代を迎え[4]、Vシネマはほとんど作られていなかった[4]。2004年3月までに製作されたVシネマは約230本[4]。レンタルビデオ市場も縮小傾向にあり、市場に投入してきたDVDにより、オンラインDVDレンタルや、特典映像を付加してDVDセル市場に力をいれる傾向にある。

東映製作による特撮テレビドラマのシリーズ「スーパー戦隊シリーズ」のオリジナルビデオ作品「スーパー戦隊Vシネマ」のうち、VSシリーズでDVD化された作品には「スーパー戦隊Vシネマ」の表記とは別に、パッケージの背表紙に「東映VCINEMA」の表記を用いている。ただし、一部の作品は「スーパー戦隊Vシネマ」の名称が用いられる前の「スーパー戦隊OVシリーズ」の表記を用いている。

また、平成仮面ライダーシリーズ初のオリジナルビデオ『仮面ライダーW RETURNS』(2011年)やメタルヒーローシリーズ(宇宙刑事シリーズ)初のオリジナルビデオ『宇宙刑事 NEXT GENERATION』(2014年)、「劇場公開作品」として製作された『スペース・スクワッド』(2017年)といった往年の特撮テレビドラマのオリジナルビデオ作品にはパッケージの表紙に「東映VCINEMA」の表記が用いられており、東映Vシネマの作品として制作されている。

2014年は東映Vシネマ25周年と位置付けられ、厳選された名作Vシネマ25作品が「25th Anniversary 東映 Vシネ伝説」と題してDVDリリースされるほか、東映Vシネマ25周年記念作品『25 NIJYU-GO』が同年11月1日に公開された。この作品も上に記した様な「劇場公開作品」だが、主演の哀川翔ほか東映Vシネマで名を成した俳優たちが大勢出演し、Vシネ25周年を祝う[1]

製作費[編集]

前述のとおり、Vシネマ創設時の製作費は6000万円とされているが、8000万円だったという証言もある[29]。劇場公開しない分、宣伝費やプリント費は安く上がった[3]。1991年、名取裕子主演・長崎俊一監督の『夜のストレンジャー 恐怖』が8000万円[30]、撮影期間が20日間。その後さまざまな会社がVシネに参入して製作費のダンピング合戦となり、製作費削減で粗製乱造が始まり[3]、勢いも落ち[3]ケイエスエスが5000万円に製作費を下げた[30]。この辺まではまだフィルムで撮れる余裕があった。やがてテレビ映画を撮っていたプロデューサーが参入してきて、連続テレビ映画のノウハウを活かし2本撮りで5000万円。撮影も三週間で2本の時代が続いた[30]黒沢清監督が「勝手にしやがれ!!」シリーズや「復讐」シリーズを撮っていた1990年代中頃。東映Vシネマ1996年、佐々木浩久監督の『GO CRAZY 銃弾を駆け抜けろ!』は、製作費1800万円、御宿の日活保養所で毎日徹夜で8日間で撮影した[30]。製作費は下がり始めるとアクション中心のVシネマは減り、低予算で撮れるエロVシネマの時代がやってきた。これも当初はフィルムで撮っていた。他社はさらなる低予算でビデオ映画のノウハウを活かし、廣木隆一門下フィルムキッズを中心に若手の大量投入で傑作を量産した。製作費はどんどん下降して2008年頃は3500万円くらいになった[29]。ギャラのトップは竹内力で、竹内のギャラは1本1000万円まで吊り上った[29]。2008年頃の2時間ドラマで、製作費が5000万円なら、主演俳優のギャラは200~300万円が相場。テレビに比べVシネマの主演スターはギャラが破格だった[29]

評価[編集]

手塚治東映社長は「当社がVシネマを世に出し、日本中にレンタル店ができた。当時、社内でも『これまでの映画館で観る映画はどうなるんだ?』という声もあった。それでも当社が先陣を切って始めたわけです。しかしフタを開けたらVシネマも映画館で観る映画も残っています」と話している[5]

Vシネマは日本映画史に咲いた徒花にはとどまらなかった[3]。当時映画を撮れなかった長谷部安春高橋伴明ら実力派監督が腕を振るい[3]、新人時代の黒沢清、三池崇史監督らの修行の場ともなった[3]。哀川翔や竹内力、香川照之ら人気俳優も巣立った[3]。銃撃場面の撮影技術などもVシネマで培われたものもある[3]

静かなるドンシリーズ」などを手掛けた鹿島勤監督は「受ければ何でもあり、がVシネ。だからこそかえって時代を映す」などと話している[3]

監督も手掛ける小沢仁志は「Vシネを無くしちゃいかん」と力説[3]。「Vシネは俳優にとってチャンスの場。無名の新人が抜擢され、テレビや映画で活躍する。ずっと作り続けたい」と話した[3]

山根貞男は「映画は量産すればクズも多いが才能や傑作も生まれる。ビデオ映画は、低予算でもたくさん作ろうと始まり、育った代表的な人が哀川翔。ジリ貧の業界の中で、末端のスタッフの生活を支えた点でも存在意義があった。映画会社の新人採用がなくても、Vシネマなら映画に情熱を持つ若者が現場に潜り込め、業界に入るきっかけを得られた。一方、映画の概念を変えてしまった。多くの人が映画やテレビの小さい画面で見ることに慣れ、劇場離れに拍車をかけた。映画界を活性化させるつもりが、自分のクビを絞めてしまった。(2004年時点では)レンタル目的のビデオ映画の時代は終わりつつあるが、90年代にVシネマが育ったように、多チャンネル時代でソフト不足に今、また新たな映画製作の動きがあるのでは」などとVシネマの功罪を解説した[4]

エピソード[編集]

  • 当初Vシネマ第一弾として製作を予定していたのは、安部譲二の連作小説『泣きぼくろ』であったが、予定が変わり『クライムハンター』が第一弾となった[11]。そして当初の予定だった『泣きぼくろ』の映像化は1990年高橋伴明監督、哀川初主演作『ネオチンピラ 鉄砲玉ぴゅ〜』として実現された[11]。本作は36,000本を売り上げる大ヒットとなり[4]、東映Vシネマを軌道に乗せた[4]。哀川は本作を主演第一作として、以降は大半がVシネマで[4]、哀川は「年間300日はVシネマの撮影をしていた」と話す[4]。哀川翔を育てたのはVシネマで[4]、東映ビデオ宣伝部は「Vシネマの歴史と哀川翔の歴史は共に始まった」と述べている[4]
  • 第一弾が『クライムハンター 怒りの銃弾』だったことでも分かるように、当初Vシネマは「ガン・アクション」或いは「正統派アクション路線」を目指し、何か新しいこと、これまでにないことをやろうという考えがあった[14]。ところが主人公が一回も撃たない『ネオチンピラ 鉄砲玉ぴゅ〜』が当たったため路線が外れた。『クライムハンターシリーズ』の大川俊道は、シリーズ3作を製作した後は企画が通らなくなったと述べている[14]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b #Vシネ伝説
  2. ^ Vシネマ誕生から25年 その歴史と扱われやすいテーマを解説
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 勝田友巳 (2014年8月12日). “ルポ:東映がVシネマ25年記念作 日本映画史の足跡 『25 NIJYU–GO』11月劇場公開”. 毎日新聞東京夕刊 (毎日新聞東京本社): p. 6 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 宮崎美紀子 (2004年3月19日). “"帝王"生んだVシネマ 哀川翔『ゼブラーマン』で主演映画100本 低予算、短期間で撮影 ヒットするとシリーズ化 2週間程度公開後ビデオ化し、販売”. 東京新聞 (中日新聞東京本社): p. 芸能ス18 
  5. ^ a b “【映画はどう変わるのか?】東映・手塚治社長に直撃!”. 財界オンライン (財界研究所). (2022年12月31日). https://www.zaikai.jp/articles/detail/2328 2023年1月4日閲覧。 
  6. ^ バイプレイヤー育成の土壌を作った“Vシネ”の功績”. ORICON NEWS (2018年2月21日). 2019年4月6日閲覧。
  7. ^ a b c d e 谷岡雅樹「神波史男追悼 『在りし日の彼方』」『キネマ旬報』2012年5月下旬号、キネマ旬報社、 86-87頁。
  8. ^ a b 東映Vシネマ誕生25周年!カオスの歴史に埋もれた傑作・怪作Vシネマを発掘! 『90年代狂い咲きVシネマ地獄』
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m #シナリオ、pp.5-8「東映ヘッドプロデューサー吉田達氏に聞く 映画ともTVともちがうものを...」
  10. ^ 寺島進インタビュー「Vシネは俺にとって一筋の光明だった」(Internet Archive)
  11. ^ a b c d e f #山根、pp.63-65
  12. ^ a b c 高瀬 将嗣 「祝!東映Ⅴシネ25周年」 - 日本映画監督協会(Internet Archive)
  13. ^ #シナリオ、pp.9-11「東映Vシネマとビデオ・オリジナルのゆくえー塩田時敏」
  14. ^ a b c d e f #シナリオ2014、pp.5-9
  15. ^ #シナリオ2014、p.11
  16. ^ a b c d e #キネ旬19905、pp.42-43
  17. ^ a b #Vシネマ魂、p.16
  18. ^ a b #アニキ考、pp.23-25
  19. ^ #シナリオ、pp.12-13「若者よ、Vドラマを目指せー桂千穂
  20. ^ a b #キネ旬19905、p.36
  21. ^ 私の新人時代 - 日本映画テレビプロデューサー協会(Internet Archive)東映キネマ旬報 2011年夏号 Vol.17 | 電子ブックポータルサイトp6-8 Archived 2015年7月3日, at the Wayback Machine.
  22. ^ 『私と東映』 x 沢島忠&吉田達トークイベント(第1回 / 全2回)
  23. ^ #Vシネマ魂、pp.74-75
  24. ^ 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕(Internet Archive)
  25. ^ 「やくざ映画の父」東映岡田茂氏死去87歳 - 日刊スポーツ楠木建 (2017年12月19日). “男のヤクザ映画、女のタカラヅカ 楠木建の「好き」と「嫌い」 好き:ヤクザ映画 嫌い:タカラヅカ”. 文春オンライン (文藝春秋). オリジナルの2017年12月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20171223041253/http://bunshun.jp/articles/-/5416?page=5 2018年3月20日閲覧。 「東映不良性感度映画の世界 追悼・岡田茂」『映画秘宝』、洋泉社、2011年8月、 66頁。岡田茂(東映・相談役)×福田和也「東映ヤクザ映画の時代 『網走番外地』『緋牡丹博徒』『仁義なき戦い』の舞台裏は 」『オール読物』、文藝春秋、2006年3月、 215頁。「山口組、稲川会の実名と代紋が登場!東映ヤクザ映画の桁外れな歴史考察」『サイゾー』、サイゾー、2013年3月、 54-56頁。
  26. ^ 日本映画支えるVシネ出身者 阿部寛、遠藤憲一、香川照之等│NEWSポストセブン
  27. ^ マニラ・エマニエル夫人 魔性の楽園 | シネマ | 動画は楽天ShowTime (ショウタイム)
  28. ^ 【楽天市場】復讐は俺がやる [DISTANT JUSTICE【吹替】■監督:村川透//菅原文太/ジョージ・ケネディ■(1992) OV■【VHS】【中古】【ポイント10倍】:リサイクルメディア館]
  29. ^ a b c d #アニキ考、pp.64-65
  30. ^ a b c d #Vシネマ地獄、pp.120-122

参考文献・ウェブサイト[編集]

  • 25th Anniversary 東映 Vシネ伝説”. 東映ビデオ. 2014年9月13日閲覧。
  • 「編集長対談 東映V CINEMA特集」 『キネマ旬報 5月下旬号』キネマ旬報社、1990年。 
  • 「東映VS特集 ビデオシネマの可能性と現在」 『月刊シナリオ』日本シナリオ作家協会、1990年10月。 
  • 山根貞男 『映画はどこへ行くか 日本映画時評'89‐'92』筑摩書房、1993年4月。ISBN 978-4480872203 
  • 谷岡雅樹 『Vシネマ魂 二千本のどしゃぶりをいつくしみ…』四谷ラウンド、1999年12月。ISBN 4-946515-42-9 
  • 谷岡雅樹 『アニキの時代 ~Vシネマから見たアニキ考~角川マガジンズ、2008年1月。ISBN 978-4-8275-5023-8 
  • 「特集 東映Vシネマ25周年記念 シナリオライターにとってVシネマとは何だったのか」 『月刊シナリオ』日本シナリオ作家協会、2014年11月。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]