フジオ・プロダクション

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株式会社フジオ・プロダクション
Fujio Productions
種類 株式会社
略称 フジオ・プロ
本社所在地 日本の旗 日本
161-0032
東京都新宿区中落合1-3-15
設立 1965年
事業内容 赤塚不二夫の漫画の管理
代表者 代表取締役社長 赤塚りえ子
関係する人物 赤塚不二夫
外部リンク http://www.fujio-pro.co.jp/
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株式会社フジオ・プロダクションは、赤塚不二夫が設立した漫画制作会社である。通称「フジオ・プロ」。アシスタントのみならず多数の漫画家や作家が所属していた。

概要[編集]

1965年長谷邦夫古谷三敏横山孝雄高井研一郎等と、新宿十二社の市川ビルにて設立。市川ビルでは、三階の三十四坪を藤子不二雄主宰の藤子スタジオつのだじろう主宰のつのだプロとともに三分割して貸し切り、四階はアニメ製作プロダクション・スタジオゼロが軒を構えた。

現住所は東京都新宿区中落合1-3-15(スタッフの増加により市川ビルを撤退した後は、代々木にあった村田ビルの八階、その後は中落合へと本拠地を移し換え、現フジオ・プロビル(1978年完成)のすぐそばにあったひとみマンションの部屋七室をフジオ・プロが占領していた)。

1963年ごろ、『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』で売れっ子になった赤塚は、長谷、横山、高井、よこたとくお山内ジョージに赤塚の妻であった稲生登茂子を加え「七福人プロダクション」を設立、漫画制作の共同作業を始めたが、仕事場に借りた雑居ビルの環境の劣悪さ(狭くて徹夜になると寝る場所がない、南京虫が大発生)から1年ほどで解散。その後借りた別の仕事場では横山、高井に古谷や北見けんいちが加わり、これがフジオ・プロの母体になった[1]

現在は、赤塚の長女の赤塚りえ子ロンドン在住の現代美術アーティストであった)が、父が興したフジオ・プロダクションを引き継ぎ、赤塚の二番目の妻だった眞知子が死去した後を受けて社長を務めている。また、広告や新規の単行本などで書き下ろされる版権イラストは80年代後半からチーフアシスタントを務めた吉勝太(本名:嶺松孝佳)が手掛けている。

エピソード[編集]

  • 赤塚はフジオ・プロ設立とともに、執筆のスピードアップを計るべく、正式に完全分業システムを採用。赤塚、長谷、古谷、担当編集者を交えた「アイデア会議」を経て、赤塚がネーム(コマ割りとセリフ)とアタリ(人物の表情や動き、背景のなどのラフな下描き)を作成し、高井と古谷(のちにあだち勉しいやみつのり吉勝太など)が下絵を完成させて製作を進行という形を取った。この様に漫画製作にアシスタントらが大きく関与しているため、赤塚はプロダクションを設立して以来、雑誌掲載時のクレジット表記を長年「赤塚不二夫とフジオ・プロ」としていた。劇中でもフジオ・プロのロゴを無関係な場面に登場させたり、内輪ネタの一環でフジオ・プロを強調することも多かった。
  • 赤塚マンガのキャラクターの作り方にはいくつかのパターンがあったようで、北見けんいちは、赤塚が作画スタッフに「大体こういう感じ」と伝えて描かせたものを、話し合いにより少しずつ修正していくという手法を取り、全てのスタッフがアイデア出しや作画に協力するという分業での制作を行っていたと語っている[2]
  • また、長谷邦夫、高井研一郎は、『おそ松くん』のイヤミ、デカパン、ハタ坊、ダヨーン『もーれつア太郎』のココロのボスなどのキャラクターについて、赤塚が作画スタッフ(高井研一郎)にラフ画を渡し描かせたものを、その後赤塚が自ら描きやすいように修正して、完成させていく手法を取っていたと証言している[注釈 1]。高井研一郎が退社(1968年)した以降は、赤塚がキャラクターデザインを実質一人で施すようになり、バカボンのパパ、ニャロメ、ケムンパス、べし、ベラマッチャ、ウナギイヌ等はその代表的なキャラクターである。[3]
  • 曙文庫(1976年曙出版刊)「天才バカボンのおやじ」第1巻の横山孝雄によるあとがきによれば、フジオ・プロでは、通常の漫画製作プロダクションとしては異例な能力給システムを採用しており、各スタッフの能力がフルに発揮出来る環境を用意していたという。
  • アイデア会議を経た後、十三ページの作品が完成するまでに費やされる時間は、ネームに2時間、アタリに4時間で、赤塚の担当箇所は約6時間。その後、赤塚は他の作品の執筆に取り掛かる。
  • 赤塚の手を離れたアタリ原稿は、スタッフの手によって、3時間の流れ作業を経由し、概ね9時間を掛け、一本の作品として完成したという。 
  • スタッフが大幅に減少した80年代の旧作のリメイクでは長谷邦夫がネームから下書きまで手がけていたと長年伝えられてきたが[4]、当時のチーフアシスタントだった吉勝太はこれらの説を否定、2、3人の若い作画スタッフしか在籍していなかった事からアイデア会議を行わず編集者と赤塚の2人でネタやストーリーを決めていくという往年とは異なるスタイルで制作されたものの赤塚は漫画に打ち込む為にアルコールを抜いて全盛期はアタリのみに止まっていた作画作業を下書き原稿まで仕上げていたという[5]。フジオプロは晩年の赤塚のイメージと異なり、肖像権著作権にきわめて厳格な事で知られており、キャラクターを無断使用されたサザエボンが発売された際には訴訟沙汰になっている。

フジオ・プロ劇画部[編集]

1969年、大河ドラマのようなダイナミズム溢れるストーリー劇画を、赤塚自らプロデュースしたいという想いから、芳谷圭児を部長とするフジオ・プロ劇画部が発足。

漫画原作者の滝沢解をシナリオライターに迎え、『エンジン魂』『高校さすらい派』『ガッツ4』等の滝沢、芳谷コンビによる長編劇画のプロデュースする。

1972年、赤塚番記者である武居俊樹の推薦で、劇画家の園田光慶が、スランプから脱却すべく、フジオ・プロ劇画部に参入するが、この時、園田は、仕事上での付き合いですら、精神的苦痛を感じるようになっており、結局、一本の作品も描かないまま、劇画部を退社したという。

芳谷、園田のほかに、由紀賢二木村知生らが在籍していたが、芳谷のフジオ・プロ退社により、1974年頃、フジオ・プロ劇画部は、自然消滅した。

ちなみに、1972年頃から、赤塚漫画では、グロテスクな覚醒をコンセプトとしたキャラクターの顔面クローズアップ・シーンが半ページ大ほどで、幾度となく頻出するようになるが、こうした場面を最初に担当したのが、この時芳谷のアシスタントを務めていた木村知生である。

主な人物[編集]

関連企業[編集]

※これらの他にスナック経営などにも進出したが、アニメ制作以外は失敗に終わり、閉店・解散・倒産の憂き目に遭っている。
  • レーシングチーム「ZENY」
トヨタ・1600GTを6台購入し、カーマニアである友人とその仲間、レース好きだった前妻・登茂子のために1968年に設立したレーシングチーム。藤田直廣(現・NOW MOTOR SPORTS 代表)が所属していた。
  • フジビデオ・エンタープライズ
ポリドールレコードの井尻新一から、新人歌手を集めたオーディション番組の立ち上げを持ち掛けられ、設立した番組制作会社兼芸能プロダクション。1969年設立。
  • 不二アートフィルム
スタジオゼロ解散後、吉良敬三を中心とする残党メンバーを集め、「フジオ・プロ動画部」として立ち上げたアニメ制作会社。1971年設立。NHKの「みんなのうた」、「おかあさんといっしょ」やフジテレビの「ひらけ!ポンキッキ」、コマーシャルなどにセルアニメだけに頼らない実験的な作品を提供している。1981年にフジオ・プロから独立。現・株式会社 スリー・ディ[21]
  • スナック「アミーゴ」
1978年11月、旧友である元東洋バンダム級チャンピオンの三浦清との共同出費で、新宿風林会館そばにある第二和幸ビルの一室にオープンしたスナック。三浦との経営方針の違いや、赤塚による常連客へのただ酒振る舞いなどが災いし、翌年には閉店の憂き目に合う。

脚注[編集]

注釈[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 1997年・冒険社刊「ギャグにとり憑かれた男―赤塚不二夫との漫画格闘記」、2005年・マガジンハウス刊「赤塚不二夫―天才ニャロメ伝」(共に長谷邦夫著)、2005年・辰巳出版刊「赤塚不二夫でいいのだ!!」で、長谷邦夫、高井研一郎がそれぞれ証言。

出典[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 山内ジョージ『トキワ荘最後の住人の記録』東京書籍、2011年、134-145頁。
  2. ^ コミックパーク特別企画〜赤塚ギャグの合奏者たち〜 第3回 北見けんいちさん”. コミックパーク. 2006年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月13日閲覧。
  3. ^ 赤塚不二夫『ラディカル・ギャグ・セッション』(1988年、河出書房新社刊、179頁)、名和広『赤塚不二夫大先生を読む「本気ふざけ」的解釈 Book1』(2011年、社会評論社刊、75〜76頁)より
  4. ^ 『赤塚不二夫 』KAWADE夢ムック 文藝別冊 p192 竹熊健太郎による発言より
  5. ^ 『スペクテイター』2017年 38号より。なお、単行本のカバーイラスト等は吉に代筆させる事はあったという。
  6. ^ 『漫画家人名事典』271頁
  7. ^ 『漫画家人名事典』330頁
  8. ^ 『漫画家人名事典』216頁
  9. ^ 『漫画家人名事典』414頁
  10. ^ 『漫画家人名事典』123頁
  11. ^ 『漫画家人名事典』263頁
  12. ^ 『漫画家人名事典』248頁
  13. ^ 『漫画家人名事典』18頁
  14. ^ a b 青少年体験活動フォーラムin磐梯 (PDF)”. 独立行政法人国立青少年教育振興機構 国立磐梯青少年交流の家. 2014年6月14日閲覧。
  15. ^ 『漫画家人名事典』71頁
  16. ^ 『漫画家人名事典』128頁
  17. ^ 『漫画家人名事典』160頁
  18. ^ 『漫画家人名事典』182頁
  19. ^ 『漫画家人名事典』273頁
  20. ^ 『漫画家人名事典』363頁
  21. ^ 会社概要”. 株式会社 スリー・ディ. 2014年6月26日閲覧。

外部リンク[編集]