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西城の訃報を受けて、日本ハムファイターズの球場では西城本人が歌うヤングマンが流され、最後に追悼コメントが表示され、その球場内を訪れた観客たちの涙を誘った
西城の訃報を受けて、日本ハムファイターズの球場では西城本人が歌うヤングマンが流され、最後に追悼コメントが表示され、その球場内を訪れた観客たちの涙を誘った


'''年齢詐称疑惑'''

デビュー後しばらくしたころより年齢にサバを読んでいるのではないかという噂が絶えなかった。

その理由として以下のような根拠のない憶測が挙げられていた。

* 「新御三家」として売り出す際、三人とも同じ17歳のほうがきりがいい、と無理やり公称年齢を下げた。
* 郷ひろみ、野口五郎と比較してたち振る舞いが際立って落ち着いていた。
* 十代にしては首から下あごにかけて皴が目立ち、年齢の高さを感じさせた。

19歳になった正月、帰省した折、小学校時代の同級生と旧交を温める写真が週間明星に載せられた。その際鍋を囲んでビールを酌み交わす相手が小学校の教諭であったことから少なくとも3歳はサバを読んでいることが確定的になったが、おおらかな時代のせいかこの記事は広く知られることなくうやむやに付された。

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2018年6月5日 (火) 15:19時点における版

西城 秀樹
出生名 木本 龍雄きもと たつお
生誕 (1955-04-13) 1955年4月13日
日本の旗 日本広島県広島市
(現:東区)東蟹屋町
死没 (2018-05-16) 2018年5月16日(63歳没)
日本の旗 日本神奈川県横浜市
学歴 明治大学付属中野高等学校定時制
卒業
ジャンル J-POP
職業 歌手
俳優
活動期間 1972年 - 2018年
レーベル 1972年 - 1975年:
ビクター音楽産業
1975年 - 1987年:
RVC
1987年 - 1999年:
「BMGビクター」
1999年:
キングレコード
1999年 - 2001年:
ユニバーサル・ポリドール
2002年 - 2013年:
ユニバーサルJ
2015年 - 2018年:
Battle Cry Sound
事務所 アースコーポレーション
公式サイト 西城秀樹オフィシャルサイト (日本語)

西城 秀樹(さいじょう ひでき、1955年昭和30年〉4月13日 - 2018年平成30年〉5月16日[1] )は、日本男性歌手俳優

本名は木本 龍雄(きもと たつお)。広島県広島市出身[2][3][4]。アースコーポレーション所属。身長181cm。血液型はAB型。既婚。

来歴

生い立ち

広島県広島市広島駅近くの東蟹屋町(現:東区東蟹屋町)に生まれる[5][6][7]。最初の家は三宅一生の実家の斜め前にあった[8][9]。父親は事業家で家は裕福だった[10][11]ジャズギターが趣味だった父親の影響で幼少期から洋楽に馴染み[12][13][14][15][16]ジャズスクールに通ってドラムを勉強した[17][18]。小学3年の時、最初にファンになったのはジェフ・ベック[19][20]、「おませなガキ」でもあり、同世代には洋楽を聴く者は誰もおらず、音楽の話は兄たちとした[13][19]。小学4年生の時に[21]、その兄とエレキバンド「ベガーズ(beggars)」を結成[22][23]。『月刊平凡』1974年2月号の自叙伝で「小学校に入ったばかりの頃、もうぼくはミュージシャンになりたいと思っていた。歌手ではない、ミュージシャンだ」と話している[21]。結構なワルで小さな頃は喧嘩ざんまい[24]。自宅前の荒神陸橋によじ登ったり[11][25]無免単車を乗り回しお巡りさんに何度も油を搾られた[11][25]。バイクで一緒に走った友人は、西城がデビューした翌年単車事故で死んだ[11]。高一のときには、のトイレで他校生15人からリンチを受け、兄貴と仲間で仕返ししたこともある[11]広島市立尾長小学校在学中から小学生ドラマーとして活動し[26]GS全盛期の1968年、兄が中3、自身が中1のとき、広島市立二葉中学校文化祭でステージ演奏をし、学内の女生徒から大人気となる[21][27]ボーカルに魅力を感じるようになったのはその頃から[21]。西城は世代的にすでに既成概念としてロックを認識していただけでなく、ビートルズは勿論、ビートルズ以降に生まれた多様なジャンルのロックを現在進行形で自然に吸収した[13][28]歌謡曲は聴いてなかった[26]ザ・ベンチャーズローリング・ストーンズジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリンシカゴなどの洋楽に影響を受け[4][19][26][29][30]、上京直前の1971年9月27日に行われたレッド・ツェッペリン広島公演もバンド仲間と観戦[19][20][29]。ツェッペリンのメンバーはライブ後の打ち上げで、西城が歌のアルバイトをやっていた広島市内のナイトクラブ「インペリアル」[注 1]に飲みに来て突然演奏した[32]。西城はそれを見て涙を流し「絶対、ワシも(ツェッペリンみたいに)なるで!」と言っていたという[32]。中学以降もバンド活動を続け、米軍岩国基地ライブハウスなどにも出演し[19]1969年の『ウッドストック・フェスティバル』は、そこでテープを録ってもらった物を観た[19]。強い感銘を受け、それが後のスタジアムライヴにつながったと話している[26][33][34][35]。岩国基地が近辺にあったため、最新の洋楽の情報は東京より迅速であったと述べている[8][21][36]

中学3年のとき「ベガーズ」からメンバーを入れ替え「ジプシー」を結成[11][37]。このバンドでリードボーカルとなる[21]。「ジプシー」でヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト第一回、第二回に出場し[37]、中国大会で優勝した[11][23][38]山陽高等学校一年の1971年[24]R&B喫茶「パンチ」から声がかかり[21]、店のレギュラーバンドになり[5][21]、店で歌唱していたところをスカウトされる[13][17][34][38][39]。「パンチ」は旧天満屋八丁堀店(現・ヤマダ電機LABI広島)裏のえびす通り商店街にあり[5]吉田拓郎が練習拠点にし[40]就職が内定していたカワイ楽器広島店[41][注 2]の二軒隣り、パーラー高木屋の地下にあった[5]。年は大分違うが吉田のバンドと活動時期も重なっており[13][43]、吉田も西城を覚えていて『月刊明星』1975年11月号のインタビューで西城の話をしている[注 3]。これを切っ掛けとして後に楽曲提供を受けたのが1982年のシングル『聖・少女[13][35][43]。本来、歌手には興味がなかったが[13]、当時、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」がヒットして、歌謡曲が変わり始めた時期と感じ、スカウトを承諾した[17]。父親が頑固で厳格な人であったため芸能界入りを猛反対[45]。その反対を押し切り、高校一年の二学期途中の1971年10月3日、家出同然で広島から夜行列車で上京[18][21]10月4日朝、東京駅着。芸能事務所芸映」に所属[46]明大中野高等学校定時制へ転校する[47]。広島では12畳の部屋に一人で住んでいたが、3畳もない三角部屋にマネージャーと二人で住んだ[21][48]

デビュー後

1972年3月25日、日本ビクター(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)のRCAレーベルよりシングル「恋する季節」で歌手デビュー。キャッチフレーズは「ワイルドな17歳」[49]。片仮名の「ヒデキ」が愛称となる。

1973年6月25日、「情熱の嵐」がオリコン週間チャートで初のベストテン入りとなり、一躍トップアイドルの仲間入りを果たし、郷ひろみ野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれる[50][51]。以降、オリコンベストテンに11年連続、計33曲を送り込む[52]。「ちぎれた愛」、「愛の十字架」が連続してオリコン週間チャートの第1位を獲得。絶唱型と言われる歌唱法を披露。『第15回日本レコード大賞』で初の歌唱賞を受賞する。

1974年、「薔薇の鎖」でマイクスタンド・アクションを披露[53]。「激しい恋」がオリコン年間チャートの第8位を獲得。「傷だらけのローラ」が、『第16回日本レコード大賞』で歌唱賞を受賞。これによりポップス歌手としては史上初となる2年連続受賞を樹立する。『第25回NHK紅白歌合戦』にも初出場し、その後も着実にヒットを飛ばす。ホームドラマ『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演、松竹映画『愛と誠』で映画初主演と、俳優としても活動する。

1976年の「君よ抱かれて熱くなれ」から1977年の「ボタンを外せ」までは、阿久悠の作詞、三木たかしの作曲のコンビによるヒット作品が続く。1976年の「ジャガー」、1978年の「」で、『東京音楽祭』国内大会でゴールデン・カナリー賞を受賞し、世界大会にも出場。1979年、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」で「Y.M.C.A.」の4文字を全身で表現するパフォーマンスを披露した。

ロック系のポピュラー音楽を中心にしたコンサート活動も精力的に行い、1974年から1983年まで10年連続で、大阪スタヂアム(大阪球場)でのスタジアム・コンサートを(1978年からは後楽園球場でも)開催する。1975年秋には、日本人のソロ歌手として史上初となる日本武道館でのリサイタルを公演し[18][54]、その後11年連続で開催する。「秋(静)の日本武道館」と「夏(動)のスタジアム・コンサート」は恒例となる。

1981年4月6日、「リトルガール」でシングル30曲ベストテン入り(オリコン史上初)[注 4]。続く「セクシーガール」で、発売シングルレコードの総売上枚数が1,000万枚を突破する[注 5][注 6]。同年、香港で初のコンサートを開催し、その後もアジア各国でコンサートを行う。

1983年1月21日、スタッフと共に芸映を円満退社し独立、有限会社(現・株式会社)「アースコーポレーション」を設立する。第1弾シングルは「ギャランドゥ」。以降、グラハム・ボネットの「Night Games」、ワム!の「Careless Whisper」、バリー・マニロウの「In Search of Love」、「It's All Behind Us Now」をカヴァーする等、それまでの歌謡曲の枠に囚われることなくロック系、バラード系の曲にも意欲的に取り組むようになる[50]

NHK紅白歌合戦』は1974年から1984年の「抱きしめてジルバ」まで11年連続出場。『日本レコード大賞』では1976年の「若き獅子たち」が歌唱賞を受賞(通算3度目)。金賞は1978年の「ブルースカイブルー」から1983年の「ギャランドゥ」まで6年連続受賞する。ヒット曲をランキング形式で紹介する音楽番組『ザ・ベストテン』には放送が開始した1978年の「ブーツをぬいで朝食を」から1985年の「腕の中へ」まで22曲(154週)ランクインした。『ザ・ベストテン』の放送開始はデビューから6年後のことだったが、そこから8年連続ランクイン。放送開始時からの最長の連続出演であった[52]

2000年、「最後の愛」を最後にビクター音楽産業系(RCA⇒RVC⇒BMGビクター)から、ポリドールへ移籍し「Bailamos」をリリースする。以降はユニバーサルミュージック系(ユニバーサルJ・ナユタウェイブレコーズ)から楽曲をリリースする。2015年4月13日の還暦記念アルバム『心響 -KODOU-』からBattle Cry Soundレーベルのリリースとなる。

私生活では長年独身を通した後、2001年6月30日に大阪府在住の会社員の一般女性と結婚[注 7]。2002年6月3日に長女、2003年9月1日に長男、2005年1月7日に二男が誕生している。

脳梗塞2度発症、新御三家還暦祝い

2003年6月21日につんく♂がプロデュースした85枚目のシングル「粗大ゴミじゃねぇ」を発表した直後、公演先の韓国脳梗塞を発症する。軽度の言語障害の後遺症は残ったが、闘病の末復帰し、2006年9月27日、3年ぶりに「めぐり逢い/Same old story - 男の生き様 -」が両A面で発売された。

だが8年後の2011年12月20日に、脳梗塞の再発との診断を受け、2週間程度入院する。右半身麻痺と微細な言語障害の後遺症が残ったが、その後は快方へ向けてリハビリに励み、徐々に歩行の状態などが改善していた[55][56]

2015年4月13日、満60歳の誕生日を迎える。翌2016年2月には、「新御三家」が3人揃っての還暦祝いを機に、「還暦鼎談」を開催した[57]

63歳で死去

2018年4月14日、栃木県足利市で開催された『同窓会コンサート2018 in足利』に出演。前日に63歳の誕生日を迎えた事から、ステージ上で出演者からケーキで祝福された[58]。しかし、結果的にこのコンサートが西城にとって最後の歌唱となった。『同窓会コンサート』からわずか11日後の2018年4月25日、自宅の家族団欒の席で突然倒れて緊急入院。意識不明の状態が続く中懸命の治療が行われたが[59]、5月16日23時53分、急性心不全のため神奈川県横浜市内の病院で死去[59][60][61]。63歳没。法名は「修音院釋秀樹(しゅうおんいんしゃくひでき)」[62]

西城の訃報を受け、「新御三家」としてライバルでもあり戦友でもあった郷ひろみと野口五郎を始め[63]、数多くの著名人が追悼コメントを発した。

西城の逝去から9日後の5月25日に青山葬儀所で通夜が営まれ、新御三家の二人を始めとする歌手仲間・芸能関係者・多数のファン達が参列[64]。翌日の告別式では野口と郷が終始涙ぐみながら弔辞を読み[65]、出棺の際には代表曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」「ブルースカイブルー」等が流され、約1万人のFANから「ヒデキ!」コールを浴びながら斎場を後にした[66]

年表

1972年 - 1975年

1972年3月25日発売のシングル「恋する季節」で歌手デビュー。オリコン42位。順風満帆なスタートとはいかなかった。2枚目のシングル「恋の約束」は18位、徐々にファンを拡大。続く「チャンスは一度」で振付けが付く。アクション・ブームの始まり。8月8日、東京・郵便貯金ホールにてファースト・コンサート『ワイルドな17歳』を開催。12月4日、『夜のヒットスタジオ』に初出演。12月31日、郷ひろみは新人賞受賞で『第14回日本レコード大賞』の本選に出場し、野口五郎は『第23回NHK紅白歌合戦』に白組最年少で初出場したが、西城は大晦日の高視聴率番組には出演できず、同じ「新御三家」でも知名度で差をつけられることになった。

1973年3月26日、大阪毎日ホールでデビュー1周年記念コンサート『ヒデキ・オン・ステージ』を開催。5月27日、ユネスコ村での「情熱の嵐」キャンペーンで、空からヘリコプターでド派手に登場して話題をさらう。この曲で初めてベストテン入り(オリコン6位)。アクションもエスカレート。「(♪君が望むなら)ヒ・デ・キー!!」とファンの掛け声が入った。8月26日、『日劇ウエスタンカーニバル』に出演。

1973年9月24日、「ちぎれた愛」が「新御三家」の中では初めてとなるオリコン1位(47.5万枚)を獲得[67]。これは70年代デビューの男性アイドルでも初のオリコン1位であった[67]。11月、「ヒデキ、感激!!」でお馴染み「ハウス バーモントカレー」のテレビ広告が放送開始。11月7日、東京・郵便貯金ホールにて第2回コンサート『西城秀樹リサイタル/ヒデキ・愛・絶叫!』を開催。12月8日 - 12月9日、愛知名古屋名鉄ホールにてコンサート『ヒデキ/世紀の絶唱』を開催。12月24日、「愛の十字架」も連続1位。12月31日、『第15回日本レコード大賞』歌唱賞を獲得するも、初出場が確実視された『第24回NHK紅白歌合戦』は落選[49]。西城のように激しく動きまわりながら歌う歌手はそれまで存在せず[23]、西城自身もエスカレートするアクションに気を取られ、最初は歌が上手く歌えなかった[23]。日本にはもともと「歌はじっくり聞かせるものだ」といった考えが長い間支配していたため[23][68]、西城の激しいボディアクションに対して「歌詞もろくに分からない」とか、大胆なステージ衣装には「奇抜すぎ」といった批判を浴び[23]、「聞かせる歌手ではなく見せる歌手だ」と言われ続けた[23]。西城のような体全体を使って歌い挙げるタイプの歌手は、なかなか馴染めず抵抗感があった。日本の歌謡界には西城のような歌手を受け入れ、育て上げてゆく伝統や土壌が乏しかった[23]

1974年1月16日 - 10月9日、ホームドラマとして人気を博したTBS系列テレビドラマ『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演。2月25日発売の「薔薇の鎖」でのスタンド・マイクを使ったアクションが話題になる。5月25日発売の「激しい恋」は売り上げ58.4万枚の大ヒット(年間シングルチャート第8位)。6月18日、TBS火曜歌謡ビッグマッチ』で「新御三家」が初共演。衣裳、歌う順番など各マネージャー立合いの下で決められ[要出典]、西城がトリをつとめた。7月13日、初主演の松竹映画『愛と誠』公開。原作者である梶原一騎に西城自身が直談判して出演が決まった。

1974年8月3日、日本で初めて、スタジアムでのワンマン・コンサートを大阪球場で (以降10年連続、後楽園球場では1978年から6年連続で) 開催。「絶対にスターになるまで広島には戻らない」と誓って、家出同然で東京に出て4年、10月6日、広島郵便貯金ホールにて凱旋コンサート『バック・ホーム・アゲイン・ヒロシマ』を開催[69]。親戚から小中学校の先生、同級生ら大挙押しかける[69]。10月19日 - 10月20日、東京・郵便貯金ホールにて第3回コンサート『We Love Hideki'74/新しい愛への出発』を開催。12月31日、「傷だらけのローラ」で2年連続となる『第16回日本レコード大賞』歌唱賞を受賞。『第25回NHK紅白歌合戦』も今度は文句なくトップバッターとして初出場。

1975年1月30日、第12回『ゴールデン・アロー賞』でグラフ賞を受賞。2月15日、西城の初の海外進出作品として「傷だらけのローラ」のフランス語バージョン「LOLA」がカナダフランススイスベルギーで発売され、カナダではヒットチャート第2位にランクされた[70][注 8]。5月、3月31日より放送開始の『寺内貫太郎一家2』で、番組名物小林亜星との乱闘シーンの撮影中、腕を骨折。6月6日 - 9月26日、TBS系列のテレビドラマ『あこがれ共同隊』で、郷ひろみ、桜田淳子らと共演。6月13日公開の松竹映画『おれの行く道』に主演。6月29日、『第4回東京音楽祭』国内大会に出場。「LOLA」を熱唱し、ゴールデン・スター賞を受賞。

1975年10月10日、この年の7月20日 - 8月24日に開催された『全国縦断コンサートツアー』を追って撮影されたドキュメンタリー映画『ブロウアップ ヒデキ(BLOW UP!HIDEKI)』が公開上映される。11月3日、日本人ソロ歌手としては初めての日本武道館公演を行う[18](以降1985年まで11年連続で開催)。「プロマイド」の年間総売上実績1位。以降1976年、1978年、1979年も男性歌手部門1位。歴代通算第1位獲得月数で新記録樹立。

1976年 - 1979年

1976年2月25日、この年から作詞者に阿久悠を起用。この年発売した3曲「君よ抱かれて熱くなれ」、「ジャガー」、「若き獅子たち」は「青年(成年、盛年)の3部作」と呼んでいた。2月29日、TBS『日曜スペシャル』で企画されたスタジオ・ライブ番組『セブンスターショー』に出演し、24%を超える視聴率を獲得。3月19日 - 3月28日、ハワイで、初の海外コンサート(ハワイ・ホノルル インターナショナルシアター)。

1976年6月5日発売の「ジャガー」で着用した臀部の割れ目が見えそうなセクシーな衣装と、「抱いてやるー!」と絶叫するセリフが話題となる。この衣装はアンルイスがアイデアを出したもの。この曲で6月27日に開催された『第5回東京音楽祭』世界大会に出場。8月14日、第3回大阪球場コンサート『ヒデキ・イン・スタジアム'76 "情熱のファンキー・カーニバル"』を開催。10月19日、ニュー・ラテン・クォーターにて初のディナーショーを開催。11月3日、第2回日本武道館コンサート『ヒデキ・イン・武道館』を開催。

1977年3月30日、デビュー5周年記念の第3回日本武道館コンサートを開催。7月5日 - 7月28日、ミュージカルに初挑戦。『わが青春の北壁』(日生劇場)主演。8月27日、第4回大阪球場コンサートを開催。11月3日、この年2度目となる第4回日本武道館コンサートを開催。11月20日、NHKビッグショー』に出演(タイトルは『若さを誇らしく思う時に』)。

1978年2月9日、元旦発売の「ブーツをぬいで朝食を」が『ザ・ベストテン』で第1位を獲得。この曲の反響でライター・ボヤ事件起こる[注 9]。2月14日、『バレンタインコンサート』で新日本フィルハーモニーと共演。6月18日、「炎」で『第7回東京音楽祭』世界大会に出場、外国審査員団賞受賞。

1978年7月22日、従来の大阪球場に加え、東京の後楽園球場でも第1回コンサート『BIG GAME'78 HIDEKI』を開催。8月26日、第5回大阪球場コンサート『BIG GAME'78 HIDEKI』を開催。以降1984年までツアー名が「BIG GAME」で統一される。11月3日、第5回日本武道館コンサート『永遠の愛7章』を開催。12月19日、『ザ・ベストテン』で14週ベストテン入りし、年間ベストテン第9位を獲得した「ブルースカイブルー」で初の最優秀歌唱賞を受賞(『FNS歌謡祭'78』)。阿久悠と組んだ最後の曲。12月31日、ピンク・レディー沢田研二山口百恵と並び『第20回日本レコード大賞』の最有力候補に挙げられるも逃す。

1979年1月4日 - 1月6日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を唄い、「Y.M.C.A.」の4文字を全身で表現するパフォーマンスを披露。2月21日に発売され売り上げ80.8万枚の大ヒット(年間シングルチャート第7位)。8月18日、第6回大阪球場コンサート『BIG GAME'79 HIDEKI』を開催。8月24日、第2回後楽園球場コンサート『BIG GAME'79 HIDEKI』を開催。11月4日、第6回日本武道館コンサートを開催。第8回『ベストドレッサー賞』受賞。年末の賞レースは『第21回日本レコード大賞』、第12回『日本有線大賞』を除き、第10回『日本歌謡大賞』、『FNS歌謡祭'79』、第5回『日本テレビ音楽祭』、『'79 あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭』でグランプリを獲得。

1980年 - 1984年

1980年1月4日 - 1月6日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。4月12日 - 4月28日、日生劇場での特別ロングラン・リサイタル『限りない明日を見つめて』を開催。6月13日、フジテレビ「日生ファミリースペシャル」枠のアニメ坊っちゃん』で、坊っちゃん役で声優初挑戦。7月18日、第3回後楽園球場コンサート『BIG GAME'80 HIDEKI』を開催。8月23日、第7回大阪球場コンサート『BIG GAME'80 HIDEKI』を開催。11月3日、第7回日本武道館コンサートを開催。11月23日、東芝日曜劇場『遠くはなれて子守唄』(「日本民間放送連盟賞」受賞作品)に出演。1980年時、後援会会員数、野口五郎6万人、郷ひろみ10万人、西城秀樹13万人[72]

1981年1月4日 - 1月5日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。4月6日、「リトルガール」で30作目のベストテン入り(オリコン史上初)。続く「セクシーガール」でシングルレコードのトータルセールスが1,000万枚を突破(オリコンの集計では1982年の「南十字星」により同記録を達成、ピンク・レディー(1979年)、森進一(1979年)、山口百恵(1980年)、沢田研二(1980年)に続く史上5人目)。「セクシーガール」の発売キャンペーンも兼ね『BIG SUNSHINE '81』と題した沖縄ムーンビーチでのコンサートを開催。海から水上オートバイにて登場。

1981年4月、とんねるずが初めてレギュラー出演した西城司会の情報番組『モーニングサラダ』(日本テレビ)放送開始。とんねるずは度々西城の家に泊まりに来ていたという[73]。とんねるずの『オールナイトフジ』(フジテレビ)抜擢は、『モーニングサラダ』に出ていたとんねるずを見た秋元康が『オールナイトフジ』のディレクターだった港浩一に推薦したもの[74]。8月16日、第4回後楽園球場コンサート『BIG GAME'81 HIDEKI』を開催。8月22日、第8回大阪球場コンサート『BIG GAME'81 HIDEKI』を開催。11月3日、第8回日本武道館コンサート『HIDEKI MY LOVE Hideki Saijo IN BUDOKAN』を開催。

1982年1月4日 - 1月5日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。4月13日、『ありがとう青春3650日』と銘打ったデビュー10周年誕生日パーティーを赤坂プリンスホテルで開く。同時に記念作品として「南十字星」が3月25日に発売され、東宝創立50周年記念の日豪合作映画「南十字星」の主題歌となった。8月21日、第9回大阪球場コンサート『BIG GAME '82 HIDEKI』を開催。11月21日、第9回日本武道館コンサート『HIDEKI RECITAL - 秋ドラマチック』を開催。

1983年1月21日、芸映を円満独立して「アースコーポレーション」設立。独立第1弾のシングルは「ギャランドゥ」。8月6日、ツアーラストを大阪球場コンサート『BIG GAME'83 HIDEKI FINAL IN STADIUM CONCERT』で閉め、10年続いたスタジアムコンサートに幕を下ろした。11月20日、第10回日本武道館コンサートを開催。

1984年2月4日 - 3月25日、「低髄液圧症候群」という病名で東京女子医大病院に入院。松田聖子も見舞いに訪れたこともある[75]。4月1日、「Do You Know」で『第13回東京音楽祭』世界大会に出場、初の銀賞を受賞。

1984年5月4日 - 5月28日、7年ぶりとなる日生劇場での主演ミュージカル『デュエット』。共演は鳳蘭。8月7日、第11回日本武道館コンサート『JUST RUN'84 HIDEKI』を開催。20歳代最後のコンサートツアー『JUST RUN』は、コンピューターサウンドにレーザー光線、ターボサウンドスピーカーと当時のハイテクを駆使したステージ。8月14日、大阪城ホールコンサート『JUST RUN'84 HIDEKI』を開催。

1985年 - 1994年

1985年1月19日、シングル盤50曲発売記念・第12回日本武道館コンサート『'85 HIDEKI Special in Budokan - for 50 songs -』を開催。今までのシングル50曲を全部歌った。2月、『つくば万博』開会式で、そのテーマ曲「一万光年の愛」を当時の皇太子明仁親王(現:今上天皇)と礼宮文仁親王(現:秋篠宮文仁親王)の臨席上でNHK交響楽団をバックに歌唱する[76]

1985年9月7日 - 9月11日、SFX特殊メイクや西城と同一の顔のマスクを着用したダンサーが登場する『MISTY TOUR』を開き、香港・シンガポール公演でも話題になった。このツアーのメインアルバム『TWILIGHT MADE …』は角松敏生がプロデュースを担当。ジャケ写に西城の姿を使わず、アーティスト色を出した。11月21日、「腕の中へ〜In Search of Love〜」でバリー・マニロウとのデュエットが実現(アーティスト名は「Hideki Saijo & Barry Manilow」)。

1986年5月17日、主演映画『傷だらけの勲章』が全国公開上映。

1988年、NHKみんなのうた「陽光の中の僕たち」歌唱。

1989年6月、主演ミュージカル『坂本龍馬』の公演。大阪・新歌舞伎座で座長公演を開始(以降3年連続)。

1990年、クイーン・エリザベス3世号(香港から日本へのクルージング)で船上ディナーショー。

1991年4月、フジテレビ系のアニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマ「走れ正直者」を担当。この曲は日本のスカ/レゲエ、初めてのヒット曲といわれる[77]。5月11日、東京・厚生年金会館でデビュー20周年記念コンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '91 FRONTIER ROAD』を開催。初の学園祭ライブを早稲田大学で行う。この頃からロック・ミュージシャン達が挙って西城のコンサートを観賞に訪れ、「ロック・アーティストの憧れのスターNo.1」と言われるようになる。[注 10]。 1992年4月14日 - 9月29日、『徳川無頼帳』で時代劇ドラマ初主演。

1993年3月、『STOP AIDS CONCERT』(横浜文化体育館)出演・プロデュース。西城の呼び掛けでもんたよしのり寺田恵子沢田知可子男闘呼組、海外からディオンヌ・ワーウィックなど多数のアーチストが参加。

1994年、主演ミュージカル『ラヴ』の公演。12月31日、10年ぶりに『第45回NHK紅白歌合戦』に出場し、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌う。

1995年 - 1999年

1995年1月17日に発生した、阪神大震災の被災者のために数度神戸に足を運び、チャリティー募金も行なう。これが縁で神戸市民から「元気づけられたので是非」という要望があり、2年続けて『第46回NHK紅白歌合戦』で「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌うことになった。

1995年3月9日、東京・渋谷公会堂にて39(Thank you)歳記念コンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT 39』を開催。8月5日、桑田佳祐との友好もあり、サザンオールスターズコンサート『Hotaru California』にゲスト出演。オープニングで2日間観客数16万人と「Y・M・C・A」を決行。

1996年7月3日 - 7月14日、ロックミュージカルの『D・LIVE Rock To The Future』に出演。シングル「round'n'round」で音楽番組出演時には、D・LIVEで結成されたMillennium Eve(Back-vo.杏子、gt.中山加奈子、Key.中村美紀、bs.仙波さとみ、ds.MITSUKO)をバックに歌った。

1997年1月21日、25周年を記念して、デビューから現在までのヒストリー・ビデオ『HIDEKI SAIJO LIFE WORK 7 TREASURES』を発売。7月24日、子供の頃、ヒデキを見て育ったヒデキ大好きロックミュージシャンが結集して製作した『西城秀樹ROCKトリビュート KIDS’WANNA ROCK!』が発売される(参加ミュージシャンは、THE HIGH-LOWSGackt橘高文彦松岡充真矢ROLLY、MILLENNIUM EVE、サンプラザ中野ダイアモンド☆ユカイ森重樹一など)。

1997年8月6日、元X JAPANYOSHIKIのプロデュースによる「moment」を発売。プライベートな飲み会の席でプロデュースを依頼したところ快く引き受けてくれたという。ロサンゼルスのYOSHIKI所有スタジオでレコーディング

1998年4月、NHK総合青春のポップス』(レギュラー司会)が始まる。

1999年2月7日、舞台『寺内貫太郎一家』に出演(新橋演舞場)。5月、人気ロボットアニメ機動戦士ガンダムシリーズ∀ガンダム』のテレビ主題歌「ターンAターン」を担当。11月17日、レコード会社をポリドールに移籍。第1弾シングルは「Bailamos〜Tonight we dance〜」(エンリケ・イグレシアスのカバー曲)。

2000年 - 2009年

2000年3月31日、東京・厚生年金会館にて80曲記念コンサート『Bailamos 2000』を開催。シドニーオリンピックサッカー日本代表壮行試合にて「君が代」を斉唱。10月17日発売の「時のきざはし」は、RKこと河村隆一がプロデュースを担当。河村は幼少期に西城に憧れていたこともあり実現。プライベートでも付き合いがある。11月28日、第12回(2001年度)日本ジュエリーベストドレッサー賞を男性部門で受賞。

2001年6月30日、大阪府在住の一般女性と電撃的に結婚を発表し、静岡県の神社で挙式。7月、ディズニー映画ラマになった王様』の主題歌「ラッキー☆ムーチョ」を「ムーチョ☆ヒデキ」として歌唱。10月、デビュー30周年記念コンサートツアーを開催。

2002年4月28日 - 5月13日、新宿コマ劇場梅田コマ劇場にて『新・演歌の花道』に出演。「サンヨーオールスターゲーム」のオープニングイベントにて「君が代」、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱。

2003年6月21日、ディナーショーのため訪れていた韓国で脳梗塞を発症。9月1日 - 9月13日、中日劇場・新宿コマ劇場・梅田コマ劇場『Forever '70s 〜青春〜 伝説のステージ』出演。

2004年3月6日、NHKミュージック・イン・ドラマ『ホシに願いを』に出演[78]。7月2日、当時西城が在住していた川崎市の市制80周年記念マッチとして開催された日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)2部(当時)の川崎フロンターレ - 横浜FC戦(川崎市等々力陸上競技場で開催)においてハーフタイムショーに出演し「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱[79]。以後、2007年[注 11]を除き2013年まで毎年フロンターレ主催の川崎市制記念試合に出演。10月、著書『あきらめない 脳梗塞からの挑戦』(リベロ)を発売。

2005年7月1日、パチスロメーカー「オリンピア」からタイアップ・パチスロ『ヒデキに夢中!!』がリリース。

2006年9月、東京スポーツで『西城秀樹歌手生活35周年、奇跡の復活 ヒデキカンゲキ!』が連載される。9月27日、脳梗塞発症以来、3年ぶりのシングル「めぐり逢い/Same old story 〜男の生き様〜」を発売。

2008年5月30日、NHK総合『青春のポップス』で共演した森口博子早見優等と共に、東京・中野サンプラザホールにてコンサート『思い出の青春ポップス』を開催。9月17日、アンダーグラフの「ジャパニーズ ロック ファイター」のプロモーション・ビデオに出演。

2009年3月30日 - 9月26日、NHK朝の連続テレビ小説つばさ』に出演。4月5日 - 、『趣味の園芸 やさいの時間』にレギュラー出演。番組の主題歌「ベジタブル・ワンダフル」を歌う。9月15日、89回目で最後となる大阪・厚生年金ホールでのコンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT 2009』を開催。

2010年 - 2018年

2011年3月17日 - 3月28日、藤原紀香主演のミュージカル『マルグリット』に初の悪役として出演。9月30日、デビュー40周年記念コンサートを渋谷C.C.Lemonホールで開催。12月20日 - 12月30日、脳梗塞が再発していることが判明し、東京都内の病院で入院治療する。右半身麻痺の後遺症が残るが、リハビリの結果つえをついて歩けるまで回復。

2012年1月28日、静岡で行われたチャリティーコンサートに出演。6月28日、水泳の発展と普及に寄与する人材をたたえる日本スイミングクラブ協会主催の「ベストスイマー2012」を受賞。10月26日、著書『ありのままに 「三度目の人生」を生きる』(廣済堂出版)を発売。

2013年4月17日 - 12月4日、NHK BSプレミアムの料理・紀行番組『ぐるっと食の旅 キッチンがゆく』に、月1回のレギュラー出演。

2014年4月5日 - 9月27日、BSジャパンの情報番組『ヒデキの感激!NEXTハウス』にレギュラー出演。8月9日、NHKで生放送された第46回『思い出のメロディー』(同局の音楽番組に4年ぶり)に出演する。

2015年4月11日、東京ビッグサイト東京国際展示場・東6ホール)にて開催の、東日本大震災復興イベント『フラワードリーム in 東京ビッグサイト 2015』において、60歳以上の著名人にバラを贈る『第8回 Happy Rose アワード』を受賞[80]

2015年4月13日、60歳の誕生日に還暦記念アルバム『心響 -KODOU-』を発売。同日、東京都港区赤坂BLITZにて自ら「ヒデキ還暦!」と題した記念ライブを開催。「新御三家」の盟友、野口五郎がゲストとして登場。バースデーケーキを運びながらステージに現れ、西城の誕生日を祝い抱擁を交わした[81]。同日、埼玉県入間市に西城がプロデュースした体験型市民農園『西城秀樹体験型市民農園 「百果百菜」』開園[82]

2016年2月13日、西城が監修したソフトバンクY!mobile」の広告が放送開始[83]。「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」のメロディーにのせた歌とダンスをプロデュース。

業績

西城は「新御三家」の一人として、今日に繋がる男性アイドルの原型を作り上げ[14][16][18][84][85][86][87][88][89][90][91]、「歌謡曲の時代」を築いた人物の一人で[4][30][34][92][93]、日本のエンターテイメントを切り拓いたパイオニアである[12][26][94][95][96][97][98][99][100][注 12]。また、日本のロックヴォーカリストの先駆者でもある[20][28][29][70][95][98][101][102][103][104][105]

ヘヴィメタル誌『ヘドバン』は「ヒデキの絶唱を聴いてロックに目覚めた人、ヒデキの数々のカバーで洋楽に興味を持った人、グラハム・ボネットの「Night Games」のカバー「ナイトゲーム」を聴いてメタルに目覚めた人もいる。メタルがまだ世間という見えない敵と戦っていた時代に、僕らをメタルという重く閉ざされた門の前まで連れていってくれた“メタル歌謡”の生みの親」と評している[19][97][106][107]

西城の功績として、日本の音楽史に於いてエンターテイメントの世界に、洋楽的、ロック的な方向性を取り入れたことがある[14][15][18][26][28][101][103][108][109][110]。西城自身、「それまでの人が演歌ムード歌謡だったから、今でいうJ-POPの原型を作ったという自負はある」と述べている[71]

アクションと衣装

日本の男性アイドルの「新御三家」として売り出された際、郷ひろみは「可愛い美少年」、野口五郎は「歌が上手い」とされていた。そこでスタッフは、彼らと差別化を図り、西城の個性を活かすため、「情熱的でセクシーな、男性的魅力」をコンセプトとして打ち出していこうと決めた。そのコンセプトに沿って、楽曲やダンスの振り付け、衣装が創作されていった[12][14][26][34][111]。プロデューサーも西城の音楽的バックボーンを理解し、海外のサウンドと日本のメロディをドッキングさせるロック/ポップス寄りの楽曲作りが行われた[14][17][50][97]。意図的に激しいロック調の曲を作り、女性ファンがより興奮しやすくなるようなストレートなフレーズを歌詞に散りばめた[49][112]。派手でセクシーなアクションと長い脚が映える衣装がそのイメージを決定づけた[23][94]。初期にはエルヴィス・プレスリーを意識した衣装など、アメリカナイズした雰囲気を衣装に取り入れた[26]。「魅力せる歌手」が急増したのは"西城以降"であった[23][68]

歌手が楽曲に合わせた振り付けで歌唱をするようになったのは1970年代に突入してからで、ステージやテレビの歌番組で歌手や楽曲の印象を強める必須条件となっていくが、そのパイオニアが、女性歌手では山本リンダ、男性歌手では西城であった[23][100][113]。山本がティーン歌手から大胆な変身を成功させた「どうにもとまらない」、西城に激しい振り付けが導入された「チャンスは一度」は、いずれも1972年。この年はNHKカラーテレビ契約数が、白黒テレビの契約数を上まわった年で、派手な色彩の衣装で歌い踊るアクション系の歌手が、カラー時代のテレビ番組を盛り上げる要素として必要とされた[113]松永伍一は1976年に「不動の姿勢でうたっていた"東海林太郎型"が消えて、アクロバット的におどりまくる"西城秀樹型"までが『見世物』ゆえに要求されるサービス過剰の競争時代に入ったのが、今日の歌謡界の現状。これらは大衆が何を求めているかを、歌そのものを判断していくのではなく、歌手のスター的特徴に照らして割り出していくというプロダクションの算盤が、歌謡界を動かすようになってきたことを示す」などと論じている[114]塩沢実信は西城を「ダイナミックなアクションと絶叫型の唱法で、昭和四十年代から五十年代にかけて、著しい活動を見せた歌手」と評している[115]。1972年、3枚目のシングル「チャンスは一度」で初めて振付けが付き、1973年、初のベストテン入りを果たした「情熱の嵐」ではさらに振付けがエスカレート、ダイレクトに肉体の性の激しさを表現した[116]。西城の場合はその激しさ故「振付け」ではなく「アクション」「アクション歌謡」などと呼ばれた[116]

1974年、「薔薇の鎖」でスタンドマイクを使ったアクションをいち早く取り入れる[14][29][34][53]。テレビの歌番組で西城のパフォーマンスを観て、子供たちがホウキを使ってこのアクションをよく真似した[26][85][97][117][118]。ヒントにしたのはロッド・スチュワートジェームス・ブラウン[19][53]。特にロッド・スチュワートがコンサートでアルミマイクスタンドを使っていると知り、すぐに10本を特注[19][119]。この軽量スタンドマイクにより西城型の「スタンドマイク・アクション」が誕生し、以後コンサートでの定番となった。その後すぐに軽量スタンドはブームとなり[53]、翌年にはヤマハが生産するようになった[19]。軽量なアルミ製スタンドによるマイクパフォーマンスは、その後多くのロックアーティストが取り入れた[26][53][70][100]

初期の頃のアクションは一の宮はじめが考案し、「激しい恋」の「♪やめろと言われても」の直後に両手を上げるアクションは、親しいおばさん同士がスーパーなどでたまたま会った時に見かける、両手を上げるような親しみやすい身振り手振りからヒントを得て考えたという[注 13]

1974年の第25回NHK紅白歌合戦初出場では、白組の先頭打者として怪傑ゾロの衣装でアイドルなのに顔を隠して登場するという前代未聞の演出を行い『傷だらけのローラ』を熱唱[98][120][121]。ステージ上で、日本のテレビ音楽番組として初めて『CO2ボンベでドライアイス・スモークを噴出させる』演出を行った[33][120][121]。これも西城自身のアイデアであった[98]

絶唱型

1973年、初めてオリコンの1位となった「ちぎれた愛」は、喉の奥底からハスキーな歌声をしぼり出すように歌い上げた初めての楽曲である[23]。180cmを超える長身から発する歌声は圧倒的で[18][115]、後にその歌唱法は「絶唱型」と呼ばれた[4][29][30]。理由については「単に恥ずかしく思い切って歌ったことと、やはりロッド・スチュワートやジョー・コッカーの影響はあると思う」と話している[19]。さらに全身全霊を込めた喉が張り裂ける様な歌唱法は、次作品の「愛の十字架」、1974年の「傷だらけのローラ」、1975年の「至上の愛」へと受け継がれて徐々にエスカレートしていき、その迫力で観客を圧倒した[18][34][70][95]。西城秀樹ショーでは、西城が歌い始めると女性ファンは、その迫力に圧倒され、泣き叫び、興奮のあまり失神し、舞台に上がり西城に触ろうとして警備員に体当たりされたり、極度の興奮と緊張で過換気症候群に陥って失禁して、30分ほど経つとアンモニア臭が会場内に漂ったといわれる[122]。西城は行儀がよかった日本のアイドルシーンにあって、初めて「ワイルド」という概念を持ち込んだ先駆者だった[17][18][34][71][123][124]。根源的なビート感覚を携えてロックヴォーカルと歌謡曲の融合をごく自然に達成したのが西城だった[28]広音域だが、音圧を充分に伴う実声で、高音でもシャウトでき、踊っても叫んでもリズム音程髪型も乱すことなく、8ビートを体現した新たなタイプのシンガーであった[15][28][112]岩崎宏美は西城の特徴的な歌声について「誰にもまねできないでしょうね」と評した[125]

黒柳徹子は「『ザ・ベストテン』の出演者のなかで、ダントツに歌がうまかった」と評している[126]。「絶唱型」の楽曲には決まってセリフが入り、感情を込めて何かを絶叫するというものが多いため、「絶叫型」とも呼ばれた。セリフ入りの楽曲には「ちぎれた愛」、「傷だらけのローラ」の他に1975年の「白い教会」、1976年の「ジャガー」などがある。1980年の「サンタマリアの祈り」が完成形であったと、2000年に開催した80曲記念コンサート『Bailamos 2000』で語っている。ハスキーな声でシャウトする歌唱は、後続の多くのミュージシャンに影響を与えた[50][71][97][102][127]

ファン参加型ライブ

コールアンドレスポンス

ブラス・ロック要素を取り入れた5枚目のシングル「情熱の嵐」では、にしきのあきらの「空に太陽がある限り」での掛け合いをヒントに、作曲の時点で、わざと隙間を作り「ヒデキー」コールを想定した[22][26][128]。これは西城自身が「ファンの子がキャーキャー騒ぐだけで歌を聴いてくれない。どうにかならないか」と作曲鈴木邦彦に相談して取り入れられた[110]。予想通り「君が望むなら」「ヒ・デ・キー!!」とファンの掛け声が入り、舞台と客席が一体化する感触を自身でも感じ取った。女性ファンの圧倒的なパワーに曲のアレンジが変更を余儀なくされるケースもあり[93]、こうした歌手とファンによるコール&レスポンスのスタイルを本格的に歌謡曲に持ち込んだのも西城が最初[14][26][88]。男性アイドルへの女性ファンの熱狂に、ひとつのスタイルを作り上げた[26]

人文字振り付け

1979年YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は、ヴィレッジ・ピープルの曲をカバーしたもので、同曲は西城自身が探し出した[26][34][119]。レコーディングに訪れたロスでカーラジオから流れる「Y.M.C.A.」に、「これはいい曲だぞ」と心を奪われた[129][130][131]。すごくノリがいいし、ステージでやってみたいと帰国後、試しにコンサートで「Y.M.C.A.」を原曲の英語で歌うと観客の反応も良かった[111]。しかしヴィレッジ・ピープルは同性愛(GAY)を象徴するバンドとして有名で、「Y.M.C.A.」はゲイの応援歌として認識されていた[132][133][134]。ヴィレッジ・ピープルが人気グループになったことでアメリカでもゲイが市民権を持つに至ったといわれた[133]

西城は「この曲をカバーして、シングルを出したい」と、レコード会社に直訴するが「アイドルがこんな歌を歌えるわけ無いだろう!」と、担当者は全く取り合ってくれなかった。当時の日本では同性愛への偏見が大きかった時代背景もあり、70年代の歌謡界には「洋楽の日本語カバーはあたらない」というジンクスがあった[34]。レコード会社や所属事務所の力が圧倒的に強い時代で、売れっ子歌手がローテーションシングルとしてリリースするのはオリジナル曲に限られ[34]、歌手本人の希望が通ることは少なかった。西城は絶対に諦めず、英語が堪能だった当時のマネージャー・あまがいりゅうじ(天下井隆二)に“若者に向けた応援歌(青春讃歌)”に歌詞を変えて[34]、アレンジも自身が歌いやすいように変更し[129]、"Y.M.C.A."の4文字を全身で表現するという人文字振り付けも西城自身が考案[26]。題名も「ヤングマン」として西城自ら何度もレコード会社に足を運び、その念願が叶って「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」として発売された[131][134]。リリース直後からたちまち火が付き大ヒットし、周りの態度も一変した[129]

1977年に公開された映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の世界的な大ヒットで、海外のトレンドになったディスコミュージックにいち早く目を付け[34][85][95][135]、日本の音楽文化に取り入れた西城独自のエンターテイメントに徹した観客参加型のパフォーマンスは社会現象にもなった[70][96][100][116][135][136]。自身最大のレコード・セールスを記録しただけでなく、『ザ・ベストテン』で番組史上唯一の9999満点を2週にわたり獲得する[136][131]。それは初期から西城とそのスタッフが目指した"舞台と客席を一体化させる"参加型のライブが、究極の完成を見た瞬間であった[26][68][71][137]ピンクレディー海援隊渋谷哲平[133]布施明[133]麻生よう子[133]などフォロワー作品も登場し[34]、ディスコカバーブームも巻き起こした[26][133]金子修介は1993年に「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をモチーフにした映画『卒業旅行 ニホンから来ました』を撮った[116]

YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」がヒットして以降は西城のいろいろな提案が通るようになり、自身も好きなことをやっていきたいと思うようになった契機にもなった。同じく観客参加型の応援歌・第2弾として発売された「ホップ・ステップ・ジャンプ」、バラード曲の「勇気があれば」も30万枚を超えるヒットを記録し、『第21回日本レコード大賞』は「外国人の作曲作品は審査対象外」となるルールもあって逃したが、第10回『日本歌謡大賞』、『FNS歌謡祭'79』、第5回『日本テレビ音楽祭』、『'79 あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭』でグランプリを受賞。さらに1980年には観客参加型の応援歌・第3弾として「俺たちの時代」を発売している。「みんなで何かをする、ファン参加型ライブの素晴らしさを実感した。」と、多くの場所(1979年の『ミュージックフェア』等)で語っていたように、西城自身の強い意思で行われ、それまでの歌謡界の固定観念を覆す先駆けとなった。

スタジアム・コンサート

21世紀突入後では一般的になった、スタジアムコンサートを日本人ソロアーティストとして初めて開催したのも西城が最初であった[12][26][85][95][138]1974年夏、日本で初めて野球場でのワンマン・コンサート『ヒデキ・イン・スタジアム“真夏の夜のコンサート”』を大阪球場で開く(グループでの日本初は1968年ザ・タイガース)。「ウッドストック・フェスティバル」の影響を受け、「野外イベントを誰よりも早く日本でやりたかった」と西城自身が企画し、このコンサートが実現した[17][29][34]。西城の球場コンサートは、ただ歌と演奏をするだけにとどまらず、現在では許可されない巨大クレーンにより宙づりになった「ゴンドラ」の中での歌唱や[96][94]、ヘリコプターを使った派手で危険な演出も自身のアイデアで実行し[29][95]、日本での初導入とされるレーザー光線[30][32][70]、衣装に電飾を仕込む[32]演出効果など、球場の大きな空間を利用しての派手な仕掛け[注 14]、演出が売りであり、毎年赤字覚悟でエスカレートしていった[30]。時代的にどれも人が操作したり手動で動かす手作りライブであった。クレーンの使用は西城自身が工事現場のクレーンを見て「何か使い道ないかな」と閃いたのが切っ掛け[139]。1979年の雷雨後楽園球場では、マイクからビリビリ感電しながら歌唱を続行、「本当に死んでもかまわないと思いながらやってた」[12]、「俺たちの時代の人ってのはみんな命を賭けてた」と述べている[140]

大阪球場は1974年より1983年まで10年連続(1978年から東京の後楽園球場でも開催)と長きにわたり継続。派手な仕掛けに加え、「雨男」と言われるぐらい雨中でのライブも多かった。「ペンライト」は西城のコンサートが発祥[18][85][52][96][141]。1974年の球場ライブで「なにか光るものを用意してきて!」と観客に呼びかけると、それ以降「ペンライト」というものを、観客が用意するようになった[85][138]

大阪球場跡地に建設されたなんばパークスの屋上に在るパークスガーデンには、大阪球場を本拠地にした南海ホークスの元選手たちの手形モニュメントが設置されているが、その中に難波及び大阪球場にゆかりがある人物のひとりとして西城秀樹の手形とサインが入ったモニュメントも設置されている[142][143]

1975年7月20日、富士山麓での野外ライヴは、広大な空き地に一からステージ設営し、バスで全国から観客を運ぶといった大イベントも成功させた[29]

ロックバンド

1970年代のテレビの歌番組は基本的に生放送生演奏[144]、出演歌手は番組専属のオーケストラ (フルバンド)のバック演奏で歌っていたが、自身の音に対するこだわりをフルバンドの人たちに100%伝えるのは無理があると感じていたため[144][144]、早く自分のバンドを作りたいという希望があった[36][144]。1974年2月に日本武道館で挙行されたフェイセズの来日公演を鑑賞に行った際、その前座でジョー山中らとセッション・バンドで演奏していた芳野藤丸に声を掛け[36][109]、自身のサポートバンドを要請[36][98][123][145]。「藤丸BAND」を結成し以降、芳野が「SHOGUN」での活動が忙しくなった1979年まで『夜のヒットスタジオ』などのテレビの歌番組や西城のライブでバックバンドを務めた[35][36][109][123]

西城はアマチュア時代と同様、最初からロックバンドをバックに歌うことが希望であったが[144]、駆け出しの身分では自分のバンドを持ちたいとは言えず、実績もある程度のレベルにきてようやく実現できた[144]。歌番組のフルバンドは全てのジャンルの曲をやらないといけないため、どの曲もテンポリズム感が同じで自分なりの匂いを出すことができず、イメージする音と違っていた[144]。しかし当時のテレビ局のスタッフやフルバンドの人たちから「こんなバンド作られちゃ、準備にも音合わせにも時間がかかって迷惑だ」などと何度も嫌みを言われた[144]。逆に自身が実績を積み上げるとフルバンドの方がいい音を出してくれたこともあったが、新人の頃は舐められ、演奏中に居眠りする人もいたという[144]

1970年代前半にロックバンドが全国ネットのテレビ番組に出演することはないに等しい状況であったため[86]、「後の世良公則&ツイストもんた&ブラザーズなど、ロックバンド確立の切っ掛けは、藤丸BANDや沢田研二さんの井上堯之バンドが作ったと思う」[144]「音作りなんかもボクや沢田さんが歌謡界を開拓したんじゃないかと思う」と語っている[144]ダイアモンド☆ユカイは「西城さんは時代が違えば、ZIGGYレッズみたいなバンドをやってたとおもうよ」、森重樹一は「ロックバンドという選択肢がない時代、プロとして歌うなら歌謡曲の歌手になるしかなかった。それで大きな成功をおさめたんだからね。今、そのすごさがわかるね」などと述べている[145]

ロックヴォーカリスト先駆者

新御三家の活躍は、男性歌手による歌謡曲のあり方を大きく変えた[127]。長髪で、ロックと距離感の近い楽曲を激しいアクションで歌う彼らの佇まいは、それまで歌番組のメインだったスーツ姿で直立不動の歌手たちとは全く違う様相をしていた。彼らの存在は後の日本のロックにも多大な影響をもたらした[70][127]。ことに80年代以降の日本のロックヴォーカリストたちは、新御三家や沢田研二にテレビで触れたことを"音楽のめざめ"とする者が多く、そこから洋楽を含めたロックへと嗜好を広げていったケースが少なくない[101][102][127]メインストリームに於ける国産ロックヴォーカリストたちはスタイルは、新御三家と沢田研二の4人の要素を様々なバランスで成立させているのである。ことに幼少期から目や耳にしていた彼らの歌唱やステージングのスタイルが、自然に刷り込まれている。西城のヴォーカルスタイルは、大音量で演奏するバンドサウンドに埋もれずに絶叫することを強いられる立場にある後続バンド世代にとっては、ロバート・プラントイアン・ギランよりもずっと身近な手本であった。「薔薇の鎖」に代表されるマイクスタンドを駆使した派手なアクションに魅了された少年たちは、後にその向こう側にロッド・スチュワートやスティーヴン・タイラーの姿を見つけたのである[127]。週に60本あったといわれる[51]歌番組華やかなりし70年代から80年代前半にかけて、毎日のようにテレビに出て歌いまくった西城は、"不良の音楽"だったロックを"青春歌謡"として定着させた[34][104]。自ら創始したマイクアクションに、独特のハスキーボイスでシャウトする姿は、当時のテレビっ子たちに多大なインパクトを与えた[104]さくらももこが『ちびまる子ちゃん』の中で西城を盛んに取り上げ、それが再評価にも繋がった[103][104]

宝泉薫は「色々な主張はあるにせよ、現実には、西城から影響を受けたアーティストたちが"Jロック"のメインで大量に活躍中であり、西城こそ日本のロックのパブリックイメージなのではないか」と論じている[104]。1973年に西城が「ちぎれた愛」で新御三家で初のオリコン週間チャート1位を獲得し、『第15回日本レコード大賞』で初の歌唱賞を受賞したにも関わらず、『NHK紅白歌合戦』出場が翌年まで持ち越されたのは、NHKから西城のロック色の強い部分が警戒されたといわれた[116]

洋楽カバー

"洋楽カバーの第一者"とも評され[29]、所属事務所の支社がロサンゼルスに早くからあり[19]、ロスにも頻繁に足を運び、日本でまだ発売されて無いアーティストのテープなどの提供を受けたり、スティーヴィー・ワンダーバリー・マニロウらと交流し、デビュー当時から積極的に洋楽カバーを行った[12][17][18][19][70][95][146]。カバーを本格的にやろうと決めた切っ掛けは、アメリカでロッド・スチュワートのライブを観た時、ロッドが「キープ・ミー・ハンギン・オン」を自分のものにして歌っているのを観て、「カバーするならあれくらいにならないとダメ」同時に「日本ではどうしてあんな素敵な遊びをしないんだろうな」と思ったことだという[17]

1970年から1980年代にかけて日本の音楽界はまだ事務所やレコード会社の力が強い時代であり、西城がその当時、自身が好きなように構成を組むことが出来たライブでは[12]、頭から10曲洋楽カバーを演ったこともある[19]。バリー・マニロウの「コパカバーナ」を現地で聴いて「いいな」と思い自身でバリー・マニロウのコラボ(「腕の中へ」)を頼むなど[19][20]、全曲自身でカバー曲の選定も行った[19]。また「歌詞が英語のように聴こえるように」といった原曲に合う訳詞にして欲しいといった指示も出した[19]。オリジナル曲の方が儲けが出るためレコード会社はたいてい反対し、それを説き伏せるのが大変だったという[19]。「当時は僕がカバーして、そのアーティストを知るリスナーが多かったんじゃないかな?」と話している[19]。「誰のカバーであっても真似をせずに、自身のスタイルですること」を最も重要視した[19]。「日本語をロックにのっけるっていうのは、当時やったヤツがいなかった。あれで若い子たちが『あ、日本語でロックをやってもいいんだな!』と思ったんじゃないかな。プロでも音楽理論を知ったかぶりするような評論家的なヤツらがいたんだけど、そういうヤツに限って、例えばロック系ならポップスを全然聴いてなかったりしてね。本質を知らないんだよ。僕はポップスもロックも一緒だと思ってる。歌謡ロックや歌謡ポップス、歌謡ヘビーメタルがあったっていいじゃない」[19]、「当時のロックって言ってたのはロックじゃない。全部歌謡ロックだろ」[140]などと話し、歌謡曲やロックの歴史を別々に論じたがる日本の音楽ジャーナリズムに苦言を呈している[19]

アジア進出

1981年5月、亜細亜テレビの香港音楽祭にスペシャルゲストとして出演[147]。番組視聴率は90%を超えた。9月12日 - 9月14日、香港で初めてのコンサートをクイーンエリザベス・スタジアムで開催[72][147]。新聞の見出しはそれまでの「赤旗星(スーパースター)」から「天皇巨星(超スーパースター)」と表記され、「最もセクシーな歌手」と絶賛された[148]プラチナディスクを獲得。アジアでの日本人歌手進出の先がけとなる[3][29][33][86][90][91][140][149][150]アニタ・ムイは西城の追っかけからファンクラブ副会長を務めた後、スカウトされ大スターになった[151][152]

1982年9月20日 - 9月25日、香港にて2回目のコンサートを開催。1985年9月7日 - 9月11日、香港のほかシンガポールでもコンサートを開催。1986年シチズンのCMで、海外(アジア各国)CMに初出演。CMソングは「City Dreams From Tokyo」。10月14日 - 10月19日、香港、シンガポールにてコンサート『Caravan From Tokyo - HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '86 -』を開催。香港でも歌が売れ、ベストテン上位をキープ[147]、1980年代後半は、日本より香港の人気の方が高いぐらいであった[72]。『ミス・インターナショナル・クイーン』でタイ王国のテレビに出演したはるな愛は、タイ王国の司会者が「スシ!テンプラ!西城秀樹!」と連呼するので驚いたと話している[153]

1987年3月5日 - 3月8日中国本土で初のコンサートを首都北京首都体育館及び廣州・中山記念堂で開催[18][150][154]。廣州のコンサートは児童福祉会館のエレベーター建設のためのチャリティー・コンサートで、そのエレベーターは「西城号」と命名された[154]3月10日 - 5月5日、香港で初の主演映画『天使行動(Angel)』撮影(1989年、日本でも上映)。撮影の3か月間、ジャッキー・チェンレスリー・チャンジョイ・ウォンなどと友好を深める。

1988年9月16日ソウルオリンピック前夜祭に趙容弼(チョー・ヨンピル韓国)、陳百強(ダニー・チャン・香港)、胡寅寅(フーインイン・中国)と共に出演。「傷だらけのローラ」を歌う[18]。日本人として初めて韓国の公式の場において、日本語の歌が電波にのった瞬間であった[18][90]。この模様は衛星中継で世界137か国に放映された。1989年2月、香港、バンコク、3月にブラジルサンパウロ(イヴィラポエラ体育館)でコンサートを開催。"K-POPブームの仕掛人"といわれるSMエンターテインメント創業者・李秀満(イ・スマン)も西城の影響を受けたといわれる[90]

1990年、広島・アジア音楽祭『Asian Harmony』を初プロデュースし、出演する。チョー・ヨンピルなど各国からトップ・アーティストを招聘した。1993年にも同種のアジア音楽祭をプロデュースし、出演する。1991年バングラデシュ救援コンサート『俺らだけのヒットパレード』(以降3年連続)に出演。

1996年、中国・大連市で行なわれた『国際ファッションショー前夜祭』に日本からのゲストとして出演。大連体育場約4万人の前で歌唱。中国全土及びアジア各国にテレビ放映された。

1998年、「日中友好条約締結20周年」のイベントとして、中国世界文化遺産万里の長城において外国人歌手初の野外コンサートを開催する[18][91]。アジア・ツアーの一環として広州市珠海市でもコンサートを開催。中国唱片廣州公司(CHINA RECORD)より「moment北京語ヴァージョンを含むベストアルバム『瞬間』発売。

2007年3月22日、香港のレコード協会にあたるIFPI香港の設立40周年記念のイベント『IFPI Top Sales Music Award』に、約35年間の広東ポップに大きな影響を与えた海外アーティストとして表彰された[155][156]9月24日には、「日中国交正常化35周年」と「中韓国交開始30年」の節目として中国・南通市スポーツ・スタジアムで開催された『第9回アジア国際芸術祭』に出演し、「傷だらけのローラ」と「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を披露。この模様は10月13日、中国全土に放映された。

2012年9月16日ブラジルサンパウロ(ビア・フンシャル劇場)で23年振りにコンサートを開催。

映画・TV・CM 他

夜のヒットスタジオ

フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』への初出演は1972年12月4日(第214回)。3枚目のシングル「チャンスは一度」での出演であった。1974年以降、ヒットスタジオとの関係が薄い芸映所属ながら人気・実力を評価されて準レギュラー格としてほぼ1月に1、2回のハイペースで出演を重ね、五木ひろし森進一に次いで歴代3位の190回にわたり同番組に登場。「ミスター夜ヒット」の代表格の一人として様々なエピソード[注 15]、見せ場を提供した。

1984年11月19日放送では、ワム!の「Careless Whisper」のカバーで、「抱きしめてジルバ」と競作となった郷ひろみの「ケアレス・ウィスパー」と対決した。西城より1か月遅れでリリースした郷の発売時(11月10日発売)の宣伝企画に乗せられる形で、フジテレビ番組スタッフに「同一曲のカバーでの対決」を持ちかけられた際、西城は「全く同じセット、同じ演出で唄う」という条件で了承し、この前代未聞ともいえる企画が実現した。ただし、歌う順番は西城が先行、歌唱時間は郷が長めに設定された。

バーモントカレーのCM

1973年から12年間、ハウス食品の「バーモントカレー」のCMに出演し"ヒデキ、感激!!"、"ヒデキ、ご機嫌!!"、"ヒデキ、満足!!"など数々のキャッチコピーがお茶の間の人気を呼び、大人から子供まで幅広い世代の支持を得る[70][140][157]。同製品の知名度を一気に高め[69]カレーライス国民食押し上げに貢献した[3][158][159][160]。"ヒデキ、感激!!"の右手で頬を2回たたくアクションは、撮影見学に訪れていた小さな子どもが西城を見て喜んだ時の仕草を取り入れ、西城自ら考案したものという[161]。季節に応じて3か月周期でCMの撮影が行われ、その中で西城が発するフレーズもさまざまだったが、特に"ヒデキ、感激!!"という初期の頃のフレーズは、いまだにマスメディアで西城の記事が掲載される際によく見出しとして登場する[52]

2001年に結婚した際には、夫人とのツーショット写真と「超甘口」「Happy Wedding」の文字を配した特製パッケージのバーモントカレー甘口が披露宴の引き出物として配られ、2015年に行われた還暦記念ライブでは、「ヒデキ、カンレキィ〜!」の文字を配した還暦お祝いパッケージのバーモンドカレーが来場者に記念品として配られた。なお、西城本人は甘めのカレーがあまり好きではなく、収録のテイクの度に何度も食べるのがつらかった、と後に語っている。1986年にバーモントカレーを「卒業」し、辛さを前面に押し出した「ジャワカレー」のテレビ広告に起用されたことを喜んでいた。

2018年に西城が逝去した際には、ハウス食品グループ本社から「(西城出演の)バーモントカレーのCMで、カレーが国民食となり愛されることとなった」など感謝を込めた追悼メッセージが発せられた[162]。また、西城の通夜では参列者に会葬御礼としてバーモントカレーが用意され、関係者によって配られた[163]

寺内貫太郎一家

西城のお茶の間人気を高めたのは、バーモントカレーのCMで見せる庶民的で人懐っこいキャラクターに加え、昭和を代表する国民的ホームドラマともいわれた[140][164]寺内貫太郎一家』(1974年、TBS)への俳優としての出演が大きかった[26][165]。毎週、お約束のように登場するのが貫太郎こと小林亜星と長男周平役の西城との親子げんかで、西城が小林に投げ飛ばされ腕を骨折し入院したエピソードはよく知られる[70][166][167]。当時を振り返って西城は「やってる方は愛情もクソもない。亜星さんを本気で張り倒すつもりでやっていた」と話している[140]。小林も「ボクもヒデキも本気だった。リアルな芝居を求める久世光彦さんが収録現場でどんどんNGを出す。ボクもヒデキもお互いに『このヤロー!』となり最後には本気になって喧嘩してしまう」「当時のヒデキはスーパーアイドル。スケジュールは真っ黒で、本来なら長時間拘束されるドラマに出演している余裕などなかったはずだ。それでもヒデキは文句ひとつ言わずに熱心にリハーサルを行う。出演者は収録後、しょっちゅう飲みに行ったが、多忙を極めていたヒデキは自分の出番が終わると次の現場に急行だ。時にはワガママを言うのが普通のアイドルだろうけど、ヒデキのそんな姿は見たことがない。今、あんなことが収録現場で起こったら大事件とみなされ、すぐに番組は打ち切られるだろう。当時だって事情はそんなに変わらなかったと思う。打ち切りにならなかった最大の理由は、ヒデキが騒がなかったことにある」などと話し、番組の継続は俳優の仕事にも理解を示していた西城のお陰であると述べている[167]。後に小林がアニメ『∀ガンダム』(フジテレビ)の前期オープニングテーマターンAターン』を担当した際、歌手として西城を指名し、作曲者と歌手という形ながら、久々にコンビの復活となった。

愛と誠

"ヤンキー漫画"の先駆けともいわれる[168]愛と誠』の1974年松竹映画化『愛と誠』製作にあたり[169]、『少年マガジン』連載中から漫画を読んでいた西城が映画化されると聞いて原作の梶原一騎に直談判し、主役の"太賀誠"役を勝ち取った[26][70][170]。人気絶頂の西城の相手役募集には4万人応募があり[171]、西城の推薦により[172][173]、役名をそのまま芸名にした早乙女愛が選ばれた[174][175]

あこがれ共同隊

1975年6月から9月まで放送されたTBSのテレビドラマ『あこがれ共同隊』で、郷ひろみ、桜田淳子と共演[176][177][178]。第1話のゲストに山口百恵友情出演[176]、不完全ながら「新御三家」と「高2トリオ(当時)」の合体が実現した[176][178]。テレビの歌番組では毎日のように顔を合わせていたが、テレビドラマ・映画では唯一の共演作となった[178]。西城と桜田は恋人という設定で[176][177]、キスシーンがあると告知され、桜田も「秀樹クンのファンってコワイ」と怖気づいた[177]。ドラマは原宿表参道竹下通りは出ない)が舞台で、当時の原宿は新たな流行の発信地として注目されていた[178][179]。また、吉田拓郎が「ペニーレインでバーボン」を唄ったことで一躍有名になった原宿のバー「ペニーレイン」が登場し[176][180][注 16]、劇中でも主題歌風の街」を歌った山田パンダレギュラー出演した他、吉田拓郎や南こうせつかまやつひろしらが店の客としてゲスト出演した[176]

幻のNHK大河ドラマ主演

西城は1987年度のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』の主演(伊達政宗役)のオファーをNHKから受けていたという。西城本人も乗り気であったとのことだが、西城のマネージャーを務めた天下井隆二によれば「(芸映プロダクションから)独立して新事務所(アース・コーポレーション)を立ち上げたばかりであったため、新会社の経営状況を考慮してこれを断った」という[182]。天下井は西城が逝去した際に「借金をしてでもこのオファーを受けた方が良かったかな」と心残りであったことを語っている[182]

ブロマイド

かつて「マルベル堂でブロマイドを撮影し出版すること」がスターへの登竜門で「月間ブロマイド売り上げランキングに載る」ことが人気のバロメーターだった時代があり[51][183]、西城は月間売上第1位獲得最多記録で歴代1位の46回[183]、年間では1975年、1976年と二年連続で1位を獲得した[89]。また大量に撮影したためポーズがワンパターンになり、唯一目を閉じたブロマイド販売したが、これが売れに売れた[183]

オールスター運動会・水泳大会

中学2年の時、広島県の中学水泳大会で優勝したこともあり[23]、1970年代から1980年代に頻繁に民放テレビで放映された「オールスター運動会水泳大会」では、スポーツ万能を活かして競泳走高跳などで活躍した(走高跳では芸能人記録を樹立)。郷ひろみとの対決は番組のハイライトだったが[34]、西城は水泳大会では、花形の自由形ではなく平泳ぎに出場。自由形での泳ぎは最後のリレーでしか見ることができなかった。また西城のビキニパンツから覗く剛毛は"ギャランドゥ"と呼ばれた[22][34][184][185]

ザ・ベストテン

ザ・ベストテン』では第1回から常連として出演し[137]、斬新な衣装や振付けで番組を盛り上げ、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が、番組史上一例の満点(9999点)を2週連続で獲得するなど番組の立ち上げと隆盛に貢献した[30][129][137][186]オリコンとともに歌謡界をデッドヒート化させた当番組に於いては、毎回真剣勝負で挑んだ[137]。「僕らは人よりいかに目立つかを考えていた。先物はだいたい僕か沢田研二さんがやっていた」などと話し[137]、「後の世代の人たちは違うかもしれないけど僕らはそう」「人が歌ってるときはステージをじっと見ていてお喋りどころじゃなかった。"あの衣装の生地はいいな"とマネージャーに言ったりして、カメラが振られると談笑しているポーズを取った」などと話している[137]

ウォークマン

1979年7月1日に発売されたソニーの初代「ウォークマン」は、当初はあまり売れなかったが、西城がウォークマンを聴きながらローラースケートをしている写真が「週刊明星」に掲載されたのを機に、各雑誌で取り上げられ、8月に入り各店舗で品切れが続出し、その後の大ヒットに繋がったといわれる[187][188][189][190]

後進タレントの発掘

芸映在籍中は看板スターとして活動すると共に、デビュー間もない1972年夏、事務所関係者と共に浅田美代子を街頭でスカウト、無名の新人アイドルだった相本久美子の芸映への移籍を推薦したほか[191]、自らの名前を冠した新人コンテスト「HIDEKIの弟・妹募集オーディション」からは河合奈保子石川秀美がデビューした[86][192]。河合も石川もオーディションの1位ではなく、他の人が選ばれそうなところを西城の強い推しで逆転1位になった[71]。また西城のコンサートで、熱狂の余り突然ステージ上に乱入した、ファンの岸本加世子を「自分の事務所に入らないか。」とスカウトした[193]

人物

スポーツマン・夏男

スポーツマンで、小学校の時は柔道を習い、学生時代の部活動は水泳部でマリンスポーツが得意。先述した「水泳大会」や「運動会」の他、『新春かくし芸大会』や[194]、『8時だョ!全員集合』の体操コーナーなどでも活躍。趣味スキューバダイビング(1983年頃より・指導員資格所有)やゴルフサーフィンもやっていた。

「情熱の嵐」以降、夏をイメージさせるヒット曲が多いこと。その激しく歌い踊る姿や真夏のスタジアムコンサートの熱い印象。『芸能人水泳大会』での活躍、長髪で日焼けした精悍なイメージから「夏男」との異名をとった。また夏に野外で派手に新曲発表会を行うことが多かった[注 17]

デビュー当時

デビュー当時、才能を認められ、先輩の歌手として兄のように慕っていたのは布施明だった[19]。布施は初期の西城のコンサートのプロデュースに加わっていたこともあった。

若い頃はケンカっ早く、和田アキ子と取っ組み合い(寸前)のケンカをしたことがあると和田の著書に記述されている[195]。そして時が経ち、現在は笑い話として、この話をお互いラジオや雑誌のインタビューで話している[196]。女性ファンのみならず、山口百恵や岩崎宏美など同世代の女性アイドルにもファンが多く、『第18回日本レコード大賞』で西城が歌唱賞を受賞した際に、彼女らは同じ壇上にいて自分のことのように号泣した[197]。この時代のエピソードとして、元テレビ・ディレクターのテリー伊藤が西城秀樹の死後に明かした秘話(還暦となった西城秀樹から直接打ち明けられたとされる昔の思い出話)によれば、西城秀樹は人気絶頂の若い頃、山口百恵からラブレターをもらったことがあるという[198]。山口からもらった手紙の話は西城の著書にも書かれている他[199]、山口が西城のファンだったことは、山口の新人時代の『月刊明星』や『月刊平凡』に書かれている[200][201][202]

西城は大人の女性からもよくモテて[185]、特に外国人女性は感情をストレートに表現するため、1984年4月、共に来日していたシルヴィー・バルタンアリ・マッグローに追いかけ回されたことがある[203]。アリは1984年の第13回東京音楽祭にゲスト審査員に招かれた際に、歌唱した西城を「これまであんなセクシーな若い男の子見たことない」と一目惚れし、スティーブ・マックイーンの前の夫であるロバート・エヴァンスとの間にできた息子を連れての来日だったが[203]、そんなのお構いなしで、女性週刊誌から当時交際していると噂された作曲家との仲を聞かれると、「もうターゲットは日本人に変えたわ」と答えるほど西城に熱を入れ上げた[203]

「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」のエピソード

西城は1979年に「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をシングルとして発売するが、この曲は当初シングル化する予定がなくファンからの要望で急遽発売することになったため、神奈川県内のビクターレコード工場では生産が追いつかない状況となった。それを知った西城自らが工場へ出向き、従業員を前に「残業させてしまいますが、お願い申し上げます」と呼びかけて自ら激励の意志を込めて「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をミカン箱の上から歌唱して工場を激励したという[182][204]

西城の訃報を受けて、日本ハムファイターズの球場では西城本人が歌うヤングマンが流され、最後に追悼コメントが表示され、その球場内を訪れた観客たちの涙を誘った

その他

広島出身であることから、広島東洋カープのファンである。

2度の脳梗塞からの復帰

2003年ディナーショーのため訪れていた韓国脳梗塞を発症。朝に症状がありながら、その夜のディナーショーをやり通して、さらに空路帰国して入院。懸命のリハビリにより1か月で復帰会見に臨んだが、実は一部声帯の神経が損傷しており、歌手にとっては致命的ともいえる歌どころか言葉自体を正確に発することができない構音障害を発症しており、引退を発表するつもりだったという。しかし「すぐに結論を出さずゆっくり治していけば」という夫人の言葉で、芸能活動を継続しながら回復に励む道を選ぶ。その年『Forever '70s 〜青春〜 伝説のステージ』に出演するも、「ボロボロだった。」と振り返っている。

2004年、著書『あきらめない 脳梗塞からの挑戦』(リベロ)発売。自分の闘病体験が同じ病気を患った人たちへの役に立てればと、医療関係のシンポジウムなどでの講演も積極的に行う。無くした声帯の神経の周辺の神経を刺激し鍛えるボイストレーニング法に取り組み、2006年、脳梗塞発症以来3年ぶりのシングル「めぐり逢い/Same old story 〜男の生き様〜」発売。その後も徐々に回復傾向に向かい、年々コンサート本数も増えていた。

しかし、2011年脳梗塞が再発していることが判明、東京都内の病院で入院した。右半身麻痺の後遺症が残ったが、リハビリに水中運動を取り入れ、筋力をつけることで立つことには支障が無くなり、再びステージに立つまでに回復した。

2018年4月25日、自宅で家族と団らん中に倒れ、神奈川・横浜市の病院に救急搬送された。その後、3週間ほど入院していたが、その間意識が戻ることはなかった。そして、2018年5月16日、午後11時53分、家族にみとられながら息を引き取った。

ディスコグラフィ

シングル

  1. 恋する季節(1972年3月25日)
  2. 恋の約束(1972年7月25日)
  3. チャンスは一度(1972年11月25日)
  4. 青春に賭けよう(1973年2月25日)
  5. 情熱の嵐(1973年5月25日)
  6. ちぎれた愛(1973年9月5日)オリコン1位
  7. 愛の十字架(1973年12月5日)オリコン1位
  8. 薔薇の鎖(1974年2月25日)
  9. 激しい恋(1974年5月25日)
  10. 傷だらけのローラ(1974年8月25日)
  11. 涙と友情(1974年11月25日)
  12. この愛のときめき(1975年2月25日)
  13. 恋の暴走(1975年5月25日)
  14. 至上の愛(1975年8月25日)
  15. 白い教会(1975年10月25日)
  16. 君よ抱かれて熱くなれ(1976年2月25日)
  17. ジャガー(1976年6月5日)
  18. 若き獅子たち(1976年9月5日)
  19. ラストシーン(1976年12月20日)
  20. ブーメランストリート(1977年3月15日)
  21. セクシーロックンローラー(1977年6月5日)
  22. ボタンを外せ(1977年9月5日)
  23. ブーツをぬいで朝食を(1978年1月1日)
  24. あなたと愛のために(1978年3月5日)
  25. (1978年5月25日)
  26. ブルースカイブルー(1978年8月25日)
  27. 遙かなる恋人へ(1978年11月25日)
  28. YOUNG MAN (Y.M.C.A.)(1979年2月21日)オリコン5週連続1位
  29. ホップ・ステップ・ジャンプ(1979年5月21日)
  30. 勇気があれば(1979年9月5日)
  31. 悲しき友情(1980年1月5日)
  32. 愛の園 (AI NO SONO)(1980年3月21日)
  33. 俺たちの時代(1980年6月5日)
  34. エンドレス・サマー(1980年7月21日)
  35. サンタマリアの祈り(1980年10月5日)
  36. 眠れぬ夜(1980年12月16日)
  37. リトルガール(1981年3月21日)
  38. セクシーガール(1981年6月21日)
  39. センチメンタルガール(1981年9月5日)
  40. ジプシー(1981年12月20日)
  41. 南十字星(1982年3月25日)
  42. 聖・少女(1982年6月21日)
  43. 漂流者たち(1982年9月30日)
  44. ギャランドゥ(1983年2月1日)
  45. ナイトゲーム(1983年6月1日)
  46. 哀しみのStill(1983年9月15日)
  47. Do You Know(1984年1月25日)
  48. 背中からI Love You(1984年7月5日)
  49. 抱きしめてジルバ -Careless Whisper-(1984年10月15日)
  50. 一万光年の愛(1985年2月5日)
  51. ミスティー・ブルー(1985年5月9日)
  52. BEAT STREET(1985年9月5日)
  53. 腕の中へ -In Search of Love-(1985年11月21日)
  54. 追憶の瞳 -LOLA-(1986年4月10日)
  55. Rain of Dream 夢の罪(1986年9月5日)
  56. 約束の旅 -帰港-(1986年12月5日)
  57. New York Girl(1987年5月21日)
  58. 心で聞いたバラード(1987年11月21日)
  59. Blue Sky(1988年4月1日)
  60. 夏の誘惑(1988年7月6日)
  61. ONE 〜愛する人のために〜(1988年8月31日)
  62. 33才(1988年11月1日)
  63. リバーサイドで逢いましょう(1989年7月21日)
  64. SHAKE MY DAY(1990年7月21日)
  65. Rock Your Fire(1991年3月25日)
  66. 走れ正直者(1991年4月21日)
  67. もいちど(1991年11月21日)
  68. ブーメランストレート(1992年11月21日)
  69. いくつもの星が流れ(1993年11月21日)
  70. SAYYEA',JAN-GO(1994年2月23日)
  71. 黄昏よ、そばにいて(1995年1月21日)
  72. 愛が止まらない(1995年6月7日)
  73. 心の扉(1995年11月22日)
  74. round'n'round(1996年6月5日)
  75. パラサイト・ラヴ(1996年12月18日)
  76. moment(1997年8月6日)
  77. 2Rから始めよう(1998年5月21日)
  78. 最後の愛(1999年4月13日)
  79. ターンAターン(1999年5月26日)
  80. Bailamos -Tonight we dance-(1999年11月17日)
  81. Love Torture(2000年4月26日)
  82. 時のきざはし(2000年10月17日)
  83. Jasmine(2001年5月23日)
  84. Everybody Dance(2002年6月26日)
  85. 粗大ゴミじゃねぇ(2003年7月23日)
  86. めぐり逢い(2006年9月27日)

オリジナル・アルバム

  1. ワイルドな17歳/西城秀樹(1972年11月5日・1999年7月23日CD再発)
  2. 青春に賭けよう/西城秀樹(1973年3月25日)
  3. エキサイティング秀樹 - ちぎれた愛/情熱の嵐(1973年10月5日・1999年7月23日CD再発)
  4. 傷だらけのローラ/西城秀樹(1974年9月15日・1999年7月23日CD再発)
  5. エキサイティング秀樹 Vol.5 - 恋の暴走/この愛のときめき(1975年6月25日・1999年7月23日CD再発)
  6. 愛と情熱の青春/西城秀樹(1976年6月25日)
  7. 西城秀樹 第1-7集(全7枚)(1976年9月25日) ※復刻盤(LPレコード)
    1. ワイルドな17歳/西城秀樹
    2. 青春に賭けよう/西城秀樹
    3. エキサイティング秀樹 - ちぎれた愛/情熱の嵐
    4. 傷だらけのローラ/西城秀樹
    5. ヒデキ・ロック&ロック
    6. エキサイティング秀樹 Vol.5 - 恋の暴走/この愛のときめき
    7. 愛と情熱の青春/西城秀樹
  8. 若き獅子たち/西城秀樹(1976年11月25日)
  9. ブーツをぬいで朝食を/西城秀樹(1978年2月25日)
  10. ファースト・フライト/西城秀樹(1978年12月20日)
  11. Feeling Free/西城秀樹(1979年7月21日)
  12. SONGS/西城秀樹(1980年2月16日)
  13. BIG SUNSHINE/西城秀樹(1980年8月21日)
  14. ポップンガール・ヒデキ(1981年7月5日)
  15. CRYSTAL LOVE/西城秀樹(1982年7月21日)
  16. It's You/西城秀樹(1983年7月21日・2013年10月30日初CD化)
  17. GENTLE・A MAN/西城秀樹(1984年3月5日・2013年10月30日初CD化)
  18. TWILIGHT MADE …HIDEKI(1985年7月21日・2013年10月30日再発)
  19. FROM TOKYO(1986年6月5日・2013年10月30日再発)
  20. PRIVATE LOVERS(1987年2月21日)
  21. 33才/西城秀樹(1988年4月21日・2013年10月30日再発)
  22. Golden Earrings(1989年7月21日)
  23. MAD DOG(1991年4月21日)
  24. HIDEKI SAIJO EXCITING AGE '72-'79(1994年12月16日) ※復刻盤(CD-BOX)
    1. ワイルドな17歳/西城秀樹
    2. 青春に賭けよう/西城秀樹
    3. エキサイティング秀樹 - ちぎれた愛/情熱の嵐
    4. 傷だらけのローラ/西城秀樹
    5. エキサイティング秀樹 Vol.5 - 恋の暴走/この愛のときめき
    6. 愛と情熱の青春/西城秀樹
    7. 若き獅子たち/西城秀樹
    8. ブーツをぬいで朝食を/西城秀樹
    9. ファースト・フライト/西城秀樹
    10. YOUNG MAN/HIDEKI FLYING UP
    11. Feeling Free/西城秀樹

カバー・アルバム

  1. 秀樹!エキサイティング・ポップス(1974年4月25日)
  2. 西城秀樹ロックの世界(1974年10月10日)
  3. ヒデキ・ロック・オン・ステージ(1976年8月25日)
  4. ロックンロール・ミュージック/ヒデキ(1977年11月25日)
  5. HIDEKI SONG BOOK(1981年3月5日)
  6. Strangers in the Night(1986年11月21日)
  7. LIFE WORK(1996年7月24日) ※リメイク・アルバム
  8. Bailamos 2000(2000年3月29日・2013年3月6日再発) ※過去のヒット曲をリミックスしたミニアルバム
  9. PLANETS - 30th Anniversary 12 Songs -(2001年6月27日・2013年3月6日再発) ※リメイク盤
  10. 心響 -KODOU-(2015年4月13日) ※リメイク・アルバム

ベスト・アルバム

  1. 西城秀樹オリジナル・ゴールデン・ヒット曲集(1973年10月25日)
  2. 西城秀樹ベスト・24デラックス(1973年11月25日)
  3. 西城秀樹ゴールド30(1974年6月25日)
  4. 西城秀樹ゴールデン・ヒット・デラックス(1974年11月25日)
  5. 西城秀樹ビッグ・ヒット20(1975年10月25日)
  6. 西城秀樹ゴールデン・ヒット・デラックス16(1975年11月25日)
  7. 西城秀樹ゴールデン・ヒット・デラックス16(1976年11月5日)
  8. 5年の歩み/西城秀樹(1977年4月25日)
  9. 西城秀樹スペシャル(1977年11月5日)
  10. ベリー・ベスト・シリーズ/西城秀樹(1978年4月25日)
  11. スター・マイ・セレクション・シリーズ/西城秀樹(1978年12月5日)
  12. YOUNG MAN/HIDEKI FLYING UP(1979年4月5日・1995年7月21日CD再発)
  13. ベスト・ヒット/西城秀樹(1980年12月1日)
  14. スーパー・ツイン/西城秀樹(1980年12月6日)
  15. HIDEKI PRESENTS 30 SONGS from Best Hit Chart(1981年4月13日) ※シングル30曲ベストテン入り記念ベスト・アルバム
  16. 西城秀樹ベスト28(1981年11月1日)
  17. 西城秀樹ベスト・ヒット集(1981年12月1日)
  18. THE BEST 西城秀樹(1982年12月16日)
  19. 青春3650/西城秀樹(1982年11月21日) ※デビュー10周年記念ベスト・アルバム
  20. BEST 16 西城秀樹(1983年12月1日)
  21. 背中からI Love You/西城秀樹(1984年8月5日)
  22. Myself/西城秀樹(1984年12月24日)
  23. HIDEKI SAIJO(1985年12月26日)
  24. 腕の中へ -In Search of Love-(1986年2月21日)
  25. BEST PACK/西城秀樹(1986年11月15日)
  26. BEST PACK/西城秀樹(1987年12月25日)
  27. HIDEKI CD BOX - Beloved 120 Songs -(1988年9月21日) ※シングル60曲記念ベスト・アルバム
  28. ヒデキハウス(1991年12月16日)
  29. HIDEKI DANCE3(1991年12月16日)
  30. History of Hideki Saijo vol.1,vol.2(1993年9月22日)
  31. 西城秀樹シングル・コレクション-77の軌跡(1999年6月23日)
  32. HIDEKI 70's(1999年12月16日)
  33. HIDEKI 80's(1999年12月16日)
  34. HIDEKI 90's(1999年12月16日)
  35. HIDEKI B-side story(1999年12月16日) ※シングルB面集
  36. Essential HIDEKI 30th Anniversary Best Collection (1972-1999)(2001年6月20日)
  37. 西城秀樹 ベスト第1集(2002年9月10日)
  38. GOLDEN☆BEST 西城秀樹(2004年12月22日)
  39. 西城秀樹 スーパーベスト(2005年12月11日)
  40. 西城秀樹 Best★BEST(2006年9月1日)
  41. Future Songbook 1999-2007(2007年6月20日・2013年3月6日再発) ※未発表曲収録
  42. The 35th Anniversary Memorial Box HIDEKI Complete Singles 1972-1999(2007年12月19日) ※デビュー35周年記念ベスト・アルバム(9CD+DVD)。特典DVDにはNHK『ビッグショー・若さを誇らしく思う時に』(1977年11月20日放送)を収録。
  43. 西城秀樹 スーパーベスト(2009年9月15日)
  44. GOLDEN☆BEST deluxe 西城秀樹(2010年4月28日)
  45. GOLDEN☆BEST 西城秀樹 シングルコレクション(2012年7月18日)
  46. 絶叫・情熱・感激/西城秀樹(2012年8月20日) ※ベスト(2CD)+カヴァー(CD)+ライブ(CD+DVD)
  47. 秀樹カンゲキ!!MIX!!西城秀樹ノンストップヒッツ!!(2013年6月26日)

ライブ・アルバム

  1. 西城秀樹オン・ステージ(1973年6月15日) ※大阪・毎日ホールでのコンサートを収録
  2. 西城秀樹リサイタル/ヒデキ・愛・絶叫!(1974年2月10日) ※東京・郵便貯金ホールでの第2回コンサートを収録
  3. 西城秀樹リサイタル/新しい愛への出発(1975年2月5日) ※東京・郵便貯金ホールでの第3回コンサートを収録
  4. ヒデキ・オン・ツアー(1975年9月25日) ※初の全国縦断コンサートを収録
  5. MEMORY - 西城秀樹20歳の日記(1976年1月25日) ※後半は、日本武道館での第1回コンサートを収録
  6. HIDEKI LIVE'76(1977年1月25日) ※日本武道館での第2回コンサートを収録
  7. わが青春の北壁/西城秀樹(1977年12月20日) ※日生劇場での初のミュージカルを収録
  8. バレンタインコンサート・スペシャル/西城秀樹 愛を歌う(1978年6月25日) ※日比谷公会堂でのコンサートを収録
  9. BIG GAME'78 HIDEKI(1978年9月25日) ※後楽園球場での第1回コンサートを収録
  10. 永遠の愛7章/西城秀樹(1979年2月25日) ※日本武道館での第5回コンサートを収録
  11. BIG GAME'79 HIDEKI(1979年10月9日・1999年7月23日初CD化) ※後楽園球場での第2回コンサートを収録
  12. 限りない明日を見つめて/西城秀樹(1980年6月5日) ※日生劇場でのコンサートを収録
  13. BIG GAME'80 HIDEKI(1980年9月5日) ※後楽園球場での第3回コンサートを収録
  14. BIG GAME'81 HIDEKI(1981年10月5日) ※後楽園球場での第4回コンサートを収録
  15. HIDEKI RECITAL - 秋ドラマチック(1983年2月5日) ※日本武道館での第9回コンサートを収録
  16. BIG GAME'83 HIDEKI FINAL IN STADIUM CONCERT(1983年9月15日) ※大阪球場での第10回ファイナルコンサートを収録
  17. JUST RUN'84 HIDEKI(1984年9月15日) ※日本武道館での第11回コンサートを収録
  18. '85 HIDEKI Special in Budokan - for 50 songs -(1985年3月15日) ※日本武道館での第12回コンサート(シングル50曲記念)を収録
  19. Rock To The Future (D・LIVE ORIGINAL COMPILATION)(1996年6月21日) ※赤坂BLITSでのロック・ミュージカルを収録
  20. HIDEKI SUPER LIVE BOX(1999年12月16日) ※復刻ライブ・アルバム(6CD)
    1. 西城秀樹オン・ステージ(DISC 1に一部の楽曲が収録)
    2. 西城秀樹リサイタル/ヒデキ・愛・絶叫!(DISC 1に一部の楽曲が収録)
    3. 西城秀樹リサイタル/新しい愛への出発(DISC 1に一部の楽曲が収録)
    4. バレンタインコンサート・スペシャル/西城秀樹 愛を歌う(DISC 2に一部の楽曲が収録)
    5. 永遠の愛7章/西城秀樹(DISC 2に一部の楽曲が収録)
    6. BIG GAME'78 HIDEKI(DISC 3に一部の楽曲が収録)
    7. BIG GAME'80 HIDEKI(DISC 3に一部の楽曲が収録)
    8. BIG GAME'81 HIDEKI(DISC 3に一部の楽曲が収録)
    9. 限りない明日を見つめて/西城秀樹(DISC 4に収録)
    10. '85 HIDEKI Special in Budokan -for 50 songs-(DISC 5、DISC 6に収録)

映像作品

  1. HIDEKI MY LOVE Hideki Saijo IN BUDOKAN(1982年2月10日) ※日本武道館での第8回コンサートのライブ・ビデオ(VHD
  2. BIG GAME'83 HIDEKI FINAL IN STADIUM CONCERT(1984年3月5日) ※大阪球場での第10回ファイナルコンサートのライブ・ビデオ(VHS
  3. ブロウアップ ヒデキ(1985年3月21日) ※1975年に開催された『西城秀樹・全国縦断サマーフェスティバル』を追って撮影されたドキュメンタリー映画(同年に全国公開上映)のビデオ(VHS)
  4. '85 HIDEKI Special in Budokan - for 50 songs -(1985年4月21日) ※シングル50曲記念となる日本武道館での第12回コンサートのライブ・ビデオ(VHS・LD
  5. Caravan From Tokyo -HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '86-(1987年2月15日) ※海外コンサートツアーのライブ・ビデオ(VHS)
  6. HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '91 FRONTIER ROAD(1991年10月2日) ※東京・厚生年金会館での20周年記念コンサートのライブ・ビデオ(VHS)
  7. HIDEKI SAIJO CONCERT 39 -Thank you-(1995年7月5日) ※ライブ・ビデオ(VHS)
  8. HIDEKI SAIJO LIFE WORK 7 TREASURES(1997年1月22日) ※ヒストリー・ビデオ(VHS)
  9. Bailamos 2000(2000年11月22日) ※東京・厚生年金会館でのコンサートを収録(VHS・DVD
  10. THE STAGES OF LEGEND -栄光の軌跡-(2003年12月17日) ※復刻ライブ(DVD)
    1. BIG GAME'83 HIDEKI FINAL IN STADIUM CONCERT
    2. '85 HIDEKI Special in Budokan -for 50 songs-
    3. Caravan From Tokyo -HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '86-
    4. HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '91 FRONTIER ROAD
    5. HIDEKI SAIJO CONCERT 39 -Thank you-
    6. HIDEKI SAIJO LIFE WORK 7 TREASURES
    7. 特典映像スペシャルDISC
      • 背中からI Love You、パシフィック、一万光年の愛、ミスティー・ブルー、SHAKE MY DAY、Rock Your Fire、ブーメランストレート、パラサイト・ラヴ、2Rから始めよう
  11. ブロウアップ ヒデキ(2015年7月15日) ※1975年に開催された『西城秀樹・全国縦断サマーフェスティバル』を追って撮影されたドキュメンタリー映画(同年に全国公開上映)の復刻DVD [205]
  12. THE STAGES OF LEGEND -栄光の軌跡- HIDEKI SAIJO AND MORE(2015年7月15日) ※DISC1からDISC7までは2003年12月17日発売の復刻ライブ(DVD)と同一で、DISC8とDISC9は初DVD化されたもの[206]
    1. BIG GAME'83 HIDEKI FINAL IN STADIUM CONCERT
    2. '85 HIDEKI Special in Budokan -for 50 songs-
    3. Caravan From Tokyo -HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '86-
    4. HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '91 FRONTIER ROAD
    5. HIDEKI SAIJO CONCERT 39 -Thank you-
    6. HIDEKI SAIJO LIFE WORK 7 TREASURES
    7. 特典映像スペシャルDISC
    8. ブロウアップ ヒデキ
    9. HIDEKI MY LOVE Hideki Saijo IN BUDOKAN

その他

  1. 西城秀樹ROCKトリビュート KIDS’WANNA ROCK!(1997年7月24日)
    ※西城の曲を聞いて育った次世代のロック・アーティスト達によるリメイク盤(トリビュート・アルバム

出演

テレビドラマ

バラエティ

アニメ作品

  • 坊っちゃん(日生ファミリースペシャル、フジテレビ、1980年) - 主役 坊っちゃん 役
  • 姿三四郎(日生ファミリースペシャル、フジテレビ、1981年) - 主役 姿三四郎 役
  • 黒い雨にうたれて(劇場公開(全国配給委員会)、1984年) - 主役 滝村順二 役
  • ベイベーばあちゃんNHK教育テレビ天才てれびくんワイド』2002年) - HIDEKI 役 第33話「授業参観で大騒ぎ!」、第36話「一次審査合格!?」、第46話「2次オーディションなのだ!!」

ラジオ番組

  • ヒデキとこず恵の楽しいデート(文化放送、1973年 - 1978年) 斎藤こず恵
  • HIDEKIとHIROMIのサンデーワイワイ広場(文化放送、1979年)
  • ヒデキとケン坊の「鬼さんこちら!!」女の子なんかこわくない(文化放送、1980年)
  • ラズベリークラブ(文化放送、1984年 - 1986年)
  • 青春のリターンマッチ(TBSラジオ、1986年)
  • 毎日が新鮮!西城秀樹です。(TBSラジオ、1991年)

映画

ミュージカル

舞台

  • 花小袖清次(1989年、大阪新歌舞伎座) ※主演
  • 仕立屋銀次(1990年、大阪新歌舞伎座) ※主演
  • 元禄・暴れん坊(1991年、大阪新歌舞伎座) ※主演
  • 寺内貫太郎一家(1999年、新橋演舞場)

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広告曲

NHK紅白歌合戦出場歴

トップバッター(一番手)として初出場を果たした第25回NHK紅白歌合戦の西城のステージでは、自身の考案によりドライアイスによる演出が、紅白史上初めて行われた。

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1974年/第25回 傷だらけのローラ 1/25 山口百恵 トップバッター(1)
1975年/第26回 2 白い教会 7/24 桜田淳子
1976年/第27回 3 若き獅子たち 7/24 和田アキ子
1977年/第28回 4 ボタンを外せ 7/24 キャンディーズ
1978年/第29回 5 ブルースカイブルー 6/24 桜田淳子
1979年/第30回 6 YOUNG MAN (Y.M.C.A.) 10/23 ジュディ・オング
1980年/第31回 7 サンタマリアの祈り 5/23 岩崎良美
1981年/第32回 8 ジプシー 7/22 川中美幸
1982年/第33回 9 聖・少女 4/22 高田みづえ
1983年/第34回 10 ギャランドゥ 1/21 岩崎宏美 トップバッター(2)
1984年/第35回 11 抱きしめてジルバ 4/20 河合奈保子
1994年/第45回 12 YOUNG MAN (Y.M.C.A.)(2回目) 14/25 森高千里 10年ぶりの出場
1995年/第46回 13 YOUNG MAN (Y.M.C.A.)(3回目) 15/25 中村美律子
1997年/第48回 14 moment 14/25 DREAMS COME TRUE 2年ぶりの出場
1998年/第49回 15 傷だらけのローラ(2回目) 7/25 Every Little Thing
1999年/第50回 16 Bailamos 8/27 中村美律子
2000年/第51回 17 ブルースカイブルー(2回目) 10/28 Every Little Thing
2001年/第52回 18 Jasmine 11/27 長山洋子

日本レコード大賞・本選出場歴

年度/開催回 受賞曲/候補曲
1973年/第15回 1 ちぎれた愛 歌唱賞
1974年/第16回 2 傷だらけのローラ 歌唱賞
1975年/第17回 3 この愛のときめき 大賞候補
1976年/第18回 4 若き獅子たち 歌唱賞
1977年/第19回 5 ボタンを外せ 大賞候補
1978年/第20回 6 ブルースカイブルー 金賞
1979年/第21回 7 勇気があれば 金賞
1980年/第22回 8 サンタマリアの祈り 金賞
1981年/第23回 9 センチメンタルガール 金賞
1982年/第24回 10 聖・少女 金賞
1983年/第25回 11 ギャランドゥ 金賞

ザ・ベストテン登場歴

放送回 週数 登場曲 最高位 備考
第1回 - 第9回 9週 ブーツをぬいで朝食を 第1位 2週連続1位
第11回 - 第18回 8週 あなたと愛のために 第2位
第21回 - 第31回 11週 第4位
第34回 - 第47回 14週 ブルースカイブルー 第3位 年間総合第9位
第48回 - 第55回 8週 遙かなる恋人へ 第5位
第59回 - 第72回 14週 YOUNG MAN (Y.M.C.A.) 第1位 9週連続1位(最高点獲得・2週)
第72回 - 第82回 11週 ホップ・ステップ・ジャンプ 第2位
第87回 - 第98回 12週 勇気があれば 第1位 2週連続1位
第103回 - 第111回 9週 悲しき友情 第4位
第115回 - 第123回 9週 愛の園 (AI NO SONO) 第3位
第126回 - 第131回 6週 俺たちの時代 第3位
第133回 - 第135回 3週 エンドレス・サマー 第4位
第144回 - 第147回 3週 サンタマリアの祈り 第9位
第154回 - 第161回 8週 眠れぬ夜 第3位
第166回 - 第172回 7週 リトルガール 第5位
第181回 - 第183回 3週 セクシーガール 第7位
第209回 1週 ジプシー 第10位
第218回 - 第224回 7週 南十字星 第4位
第231回 - 第235回 5週 聖・少女 第6位
第263回 - 第265回 3週 ギャランドゥ 第8位
第359回 - 第361回 3週 抱きしめてジルバ 第9位
第410回 1週 腕の中へ 第9位

出版

著書

  • 誰も知らなかった西城秀樹(ペップ出版、1975年)
  • 君におくろう僕の愛を(ペップ出版、1976年)
  • ふたりぼっちの日曜日・ヒデキとこず恵の楽しいデート(徳間書店、1976年) - 斎藤こず恵共著
  • いま、光の中で ー悩むな、つきすすめ、青春。. 明星デュエット・ブックスー03. 集英社. (1979) 
  • 熱き想いいつまでも. 日本文芸社. (1992). ISBN 4–537–02293–0{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • バリスタイルの家 西城秀樹の快適アジアン生活のすすめ(イースト・プレス、2002年)
  • あきらめない 脳梗塞からの挑戦(リベロ、2004年)
  • ありのままに「三度目の人生」を生きる(廣済堂出版、2012年)

写真集

脚注

注釈

  1. ^ 楽器代を稼ぐためアルバイトをさせてもらっていた西城の親戚が支配人を務める店[11][31]
  2. ^ 2015年紙屋町に移転[42]
  3. ^ 「西城秀樹、アレいいよ。このごろ。昔は大キライだったけどここんとこ上手くなったし、何でも歌えるようになったしな。あの暴力的な感じ出せるヤツ、珍しいよ。アイツ、年をサバよんでんじゃないかな。あの年であれだけの色気とフィーリング持ってるってちょっとスゴイと思うんだ。若手のチャラチャラしてる連中の中では最高よ。広島のころから木本ってあいつの本名知ってたよ。『ベガーズ』ってグループを作ってて、兄貴といっしょにやってた。ドラムを叩いてたな。前にオレの『たどりついたらいつも雨ふり』の盗作っぽい曲を自分のLPに入れてたりしたから、いい気分じゃなかったけどな。西城の曲なら作ってみたい気もするな。ここんとこ、やたら曲の依頼が多くって、うんざりだよ。みんな断ってるんだ。自分の仕事が出来なくなっちゃうし」[44]
  4. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1980〜1989」⇒「37.リトルガール」の項を参照。
  5. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1980〜1989」⇒「38.セクシーガール」の項を参照。
  6. ^ オリコンの集計では1982年の「南十字星」」により同記録を達成する。
  7. ^ 同じく新御三家の野口も同年2月に三井ゆりと結婚している。
  8. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1970〜1979」⇒「10.傷だらけのローラ」の項を参照。
  9. ^ 「ブーツをぬいで朝食を」のライターを使ったアクションが話題になったが、1978年に子供がこれをマネて火災事故を起こし社会問題になった[71]。結局、ライターは使わずに手の動きだけにしたが、それが原因で、次作品の「あなたと愛のために」での手鏡を使ったアクションが途中で打ち切りになってしまった。
  10. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1990〜1999」⇒「67.もいちど」の項を参照
  11. ^ 同年は川崎麻世が出演し「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱。
  12. ^ 西城の先駆者としての業績は、大阪球場、後楽園球場での野外コンサートはその草分けとして有名だが、ゴンドラや軽量スタンドマイク、ペンライト、白煙噴出などのステージパフォーマンスを最初に導入するなど多岐に渡る。さらに特筆すべき大きな業績としてアジア市場への進出がある。1981年の香港でのコンサートを皮切りにアジア各地で活動を続け絶大な人気を博した。当時は現在とは違い日本人のアジア市場への関心度は0であると言っても過言ではない時代で、日本のマスコミも賞賛する論調がほとんど無かったが、長年続ける事によって後進に道を切り開いた[33]
  13. ^ 日めくりタイムトラベル』の昭和49年の特集(2008年10月11日放送分)にて紹介。
  14. ^ この他、「オートバイ」、「CAR」、トラック野郎の「デコトラ」、11tトラックを改造した「光の箱」、ステージの一部が15mまでせり上がる「リフト」、前に飛び出す「ムービングステージ」、「炎のじゅうたん」、「空中からのダイブ」、おなじみ「スペースイーグル」、「バルーン」、「空中ブランコ」、「E.T.自転車」、「レーザー光線」、「煙幕」、「火薬」、「花火」など[33]
  15. ^ 1982年の放送で、「漂流者たち」を涙を浮かべながら歌っているのを見て心配したファンから投書や電話が殺到。西城によれば、故郷広島から不安と期待を胸に抱え、家出同然で上京した旅立ちの日とオーバーラップしたとのこと。
  16. ^ ペニーレインは表参道キデイランド原宿店の裏にあり、フォークニューミュージック系のミュージシャンやアイドル、音楽・ファッション関係者など、業界人の溜まり場となって、修学旅行生の観光コースにもなっていた[180][181]
  17. ^ 1973年、「情熱の嵐」の発売時のユネスコ村にファンを集めての新曲キャンペーンライブは、空からアクション・スターのようにヘリコプターにつかまりド派手に登場して話題をさらった。1976年、「ジャガー」のユネスコ村・新曲発表会では、アンコールで興奮してギターを叩き割るパフォーマンス。このギターは芳野藤丸からの貰い物であったため、のちのちまで後悔することになった。1980年、「エンドレス・サマー」の時は、完成したばかりの新宿アルタのベランダで行われ、アルタ前の歩道や広場が1万人(新宿警察発表)以上の人で埋めつくされた。1981年、「セクシーガール」発売キャンペーンもかねた『BIG SUNSHINE '81』と釘打った沖縄ムーンビーチでのコンサートでは、海から水上オートバイで現れ、特設ステージに登場した。

出典

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  200. ^ 「"青い果実"山口百恵クンの実家ルポ 淋しいんです!2K妹ひとり母ひとり」『月刊明星』1973年12月号、集英社、69頁“〈寝室の壁に西城秀樹のピンナップ〉 ところで、百恵クンの実家の間取りは...2段ベッドは上段が百恵クン用だが、その枕元の壁には西城秀樹のピンナップが5、6枚貼ってある。歌手になるなんて夢にも思っていなかった昨年まで、百恵クンは西城秀樹の熱烈なファンだった。 
  201. ^ 「スターと電話でデート(第6回) 山口百恵と電話で話そう」『月刊平凡』1974年3月号、平凡出版、160頁“ファン(以下、F)「私、西城秀樹さんの大ファンなんです。百恵ちゃんも秀樹のファンなんでしょ」 山口百恵(以下、M)「なんかでも、そういうお話すると西城さんのファンの人にうらまれちゃうんじゃないかと心配しているんですけどねェ」 F「でも私たち百恵ちゃんも秀樹の大ファンだって知ってるワ。だから私達、百恵ちゃんも秀樹ファンの一人として認めてるの」 M「ほんと、どうもありがとう。よかった」 
  202. ^ 「芸能界イラスト全調査 ヤングタレントの意外な関係」『月刊平凡』1974年7月号、平凡出版、65-66頁。 
  203. ^ a b c 「Who's Who すくらんぶる 西城秀樹」『週刊文春』1984年4月19号、文藝春秋、57頁。 
  204. ^ “「西城秀樹さん 訳詞・天下井隆二さんが明かす「ヤングマン」誕生秘話”. 産経ニュース. 産業経済新聞社: p. 1-2. (2018年5月17日). https://www.sankei.com/entertainments/news/180519/ent1805190003-n1.html 2018年5月19日閲覧。 
  205. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「ブロウアップ ヒデキ」の紹介
  206. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「THE STAGES OF LEGEND -栄光の軌跡- HIDEKI SAIJO AND MORE」の紹介

参考文献

関連項目

外部リンク