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福原愛

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福原愛 Table tennis pictogram.svg
選手情報
生年月日 1988年11月1日(27歳)
最高世界ランク 4位
利き腕
グリップ シェークハンド
戦型 前陣速攻型
フォア面ラバー スピンアート
バック面ラバー アタック8
 
獲得メダル
日本の旗 日本
卓球
オリンピック
2012 ロンドン 女子団体
2016 リオデジャネイロ 女子団体
世界卓球選手権大会
2004 ドーハ 女子団体
2006 ブレーメン 女子団体
2008 広州 女子団体
2010 モスクワ 女子団体
2011 ロッテルダム 混合ダブルス
2016 クアラルンプール 女子団体
アジア競技大会
2002 釜山 女子団体
2010 広州 女子シングルス
2010 広州 女子ダブルス
2010 広州 混合ダブルス
2014 仁川 女子団体
2014 仁川 混合ダブルス
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福原 愛(ふくはら あい、1988年11月1日 - )は、日本卓球選手。宮城県仙台市生まれ、身長155cm、血液型B型[1]全日本空輸(ANA)に所属。日本オリンピック委員会選手強化キャンペーン・シンボルアスリート制度適用選手。ITTF世界ランキング最高位は4位(2015年10月)。青森山田中学高等学校卒、早稲田大学スポーツ科学部中退。内閣府災害被害を軽減する国民運動サポーター」。

来歴

幼少期

秋田県大曲市(現・大仙市)出身(2013年10月6日逝去)の父親[2](当時、宮城県仙台市で会社経営[3])と、宮城県登米郡石越町(現・登米市)出身の母親[4](元・卓球選手[5])との間に、1988年昭和63年)[注 1]11月1日に宮城県仙台市の病院にて出生[1][5]。福原自身は、仙台市青葉区国見ヶ丘出身としている[注 2]。「愛」という名は、出生の1年前に亡くなった祖母「愛子」からもらった[注 3][6]

福原は6ヶ月でスイミングを始めた[3]。10歳年上の兄が、東京在住の中国の卓球元チャンピオンに仙台に来てもらって[注 4]1-2回/月の指導を受けていたが、費用面から仙台に移住してもらって毎日指導してもらえる環境を整えた[3]。このような環境下[3]、母と兄の影響で[5][7]1992年平成4年)8月13日に母からラケットをもらい、福原も卓球を始めた[8]。すなわち、3歳9ヶ月から卓球の英才教育を受けたが、プレイするには身長が低かったため、ゴミ箱や並べた缶詰の上に乗って高さ調整をして、平日4時間、休日8時間の練習を毎日欠かさず行った[7]。また、週末になると栃木県の有名な卓球クラブに出向き、泊まりがけで練習した[9]。練習を始めて数ヶ月でミスなく100本ラリーが出来るようになり、4歳6ヶ月で1000本ラリーが出来るようになった[7]。卓球クラブ「仙台ジュニアクラブ」に所属した[10]

「天才卓球少女」「泣き虫愛ちゃん」の始まり

初の公式戦出場は、1993年(平成5年)6月(4歳時)に開催された「宮城県小学生卓球選手権大会」であり、同大会で優勝、全国大会の同クラスでもベスト16に入った[5][7]。公式戦中に泣き顔を見せたのはこの4歳のときだけである[3][注 5]マスコミは、幼稚園生が小学生のクラスで快進撃を続ける姿に注目し、「天才卓球少女」と報道した[7]。これ以降、行く先々にマスコミが集まるようになるが(4歳でテレビでの初インタビューを受けた)、天真爛漫に振舞う福原はテレビでもしばしば取り上げられ「卓球の愛ちゃん」として知られるようになり、また、厳しい練習にも泣きながら耐える姿や、試合中に不利になり始めると泣き出す姿から「泣き虫・愛ちゃん」とも呼ばれるようになって、一躍国民的アイドルとなった[7]

同年12月10日放送のフジテレビ「第2回 明石家さんまのスポーツするぞ!大放送」に出演。すると、番組内での対戦で明石家さんま[11](当時38歳)が福原(当時5歳)を泣かせた[12][注 6]デーモン小暮との対戦でも泣かされた[11][注 7][注 8]

1994年(平成6年)になると卓球専門誌「卓球レポート」の表紙に4月号で初登場し[13]、同年5月には社会人リーグの大会(鹿児島県)、同年6月には社会人の全日本実業団卓球選手権大会大阪府[14]に呼ばれてエキシビションマッチでプレーするなど、本来の卓球界においても全国各地に呼ばれる人気者となった。選手として2度目の全国大会に出場すると、個別にマスコミ対応していては福原の負担になるため初めて共同記者会見が開かれ、5歳10ヶ月の幼稚園生ながら[7]全日本選手権バンビの部(小2以下)において、史上最年少で優勝した[7]

同年12月にはウッチャンナンチャン南原清隆[11]が「泣いた瞬間の愛ちゃんと記念撮影を撮る」という企画で福原と対戦して泣かせた。「初泣き!初打ち! お正月の愛ちゃん!! 八丈島で(秘)特訓」でも母との1000本ラリーが完遂しなかったため、泣きながら再度ラリーを続ける姿が放送された。

すなわち、公式戦では4歳時にしか泣いていない[3]が、後に福原が「泣くまで撮影が続けられた」と語った[注 9]ように、長年『あっぱれさんま大先生』に出演し子役の扱い方を知っているはずの明石家さんまが泣かし、南原は泣かすことを公言して対戦し、母親から泣かせ方を伝授されるなど、バラエティ番組では制作側によって意図的に泣かされ、その泣き姿がスポーツ報道における福原の紹介ビデオ等でも繰り返し放送されたことで、まるで子役タレントのキャッチコピーのような「泣き虫・愛ちゃん」というイメージが固定化されていった[注 10]。その一方、同年の大会以降も数ある大会で優勝し、史上最年少記録を多く作っていくことで、「天才卓球少女」の名に違わぬ活躍を続けた。

仙台白百合学園幼稚園年長の1995年(平成7年)3月(6歳時)にテレビゲームソフトメーカー「ハドソン」のCMに初出演[5]。同年4月に仙台市立吉成小学校に入学[5]

プロ宣言後

小4(10歳4ヶ月[7])でプロ宣言し、ミキハウス大阪府八尾市)と専属契約を結び、1998年(平成10年)8月に仙台市より八尾市へ引っ越した[5][注 11]

福原は当時できたばかりのミキハウス練習場に通うようになった。この時に、王子卓球クラブの作馬六郎から「王子サーブ」を習得し、以降このサーブは福原愛の代名詞ともなった(今はほとんど使っていない)。大阪では公立小学校に通っていた。小6の6月に、ITTFジャパンツアー一般の部に選ばれ初出場で代表デビューを果たす。中学は大阪の強豪である私立四天王寺中への進学を考えていたが、福原はプロ契約してるため、全中やインターハイなどに規定で出場できないという懸念があった。結局地元公立中へ入学したが、一ヶ月でスポーツの名門私立学校、青森山田中学校に転校した。青森山田中は中高一貫教育を目指してその年に開校。法人は卓球専用の体育館などの施設を備えている。同校を選んだのはミキハウスJSCに所属したままプロ活動をしたいという福原サイドの意向に、理解を示したのが大きな理由である。これにより福原は多くの卓球遠征が可能になった(その後福原は「卓球界に大きな貢献をした」ということで、全中インターハイ[15]国体も特例で出場できるようになった)。ミキハウスは青森JSC(ジュニアスポーツクラブ)という組織を作り、福原をその所属とした(他には青森大学の坂本竜介などがいて、混合ダブルスペアをよく組んでいる)。小西杏とはダブルスで全日本3連覇した(2005年以降、代表では藤沼亜衣と組んでいる)。

以降、中学の3年間は世界各地のITTFプロツアーに数多く出場。安定した成績を見せ、世界ランキングを上げていった。この頃国内の高校以下では無敵となり、また国際試合での強さも見せ、国内シニアの選手にも勝てるようになっていった。選考会などを経て14歳の若さで2003年世界卓球選手権個人戦に抜擢され出場し、日本勢の中で一人躍進、ベスト8に進出。この結果により翌2004年3月の世界選手権団体戦と、4月のアテネ五輪アジア予選出場が内定[16]。2001年にはコーチの黄智敏と1分間に175回のラリーを続けるというギネス記録を達成している。

高校進学からアテネオリンピックまで

2004年4月、青森山田高等学校に進学。日本より一人選ばれたドーハでの大陸予選でシングルス3位となり、その前年に「オリンピックは夢の夢の夢の夢」と言っていた福原が日本女子3枠目の座を勝ち取り、史上最年少の15歳で出場した(他の出場者は梅村礼藤沼亜衣。なお、小西杏と組んで挑んだダブルスは予選で敗退)。長嶋茂雄の代役として、聖火リレーの最終走者も務めた。アテネ五輪では1回戦をシード通過、2回戦をミャオミャオに辛勝、3回戦はガオ・ジュン高軍)に圧勝、4回戦はキム・キョンア金暻娥)に負けた。福原の試合はゴールデンタイムで放送され、3回戦はメダルのかかっていない試合にもかかわらず平均20.1%、最高視聴率31.9%を獲得。これはアテネ五輪放送の中でトップクラスの数字だった。

中国挑戦から北京オリンピックまで

2005年3月にはミキハウスとの契約が満了し、翌月グランプリとの契約を結ぶ。グランプリは福原が青森山田高校に通うことを承認、中国リーグに2年連続で参加することも支援。直後に、中国で最もレベルの高い超級(スーパー)リーグに参加、遼寧本鋼チームと契約した。この超級リーグは週1、2回の日程、広大な中国大陸を試合毎に行き来する移動に多忙を極めたが、福原は全試合に出場した。だが、チームに世界2位の王楠、4位の郭躍がいたため、シングルスの出番が少なくダブルスが多かった。期間中は中国のインタビュー番組や、卓球の雑誌にも登場した。8月の最終戦は岡山県で、日本で初の超級の試合を行った。2005年2月にはアジアカップで強豪の郭焱を破り2位に、同年11月の女子ワールドカップ(各大陸の世界ランキング上位者と推薦選手の16人でのITTF大会でまだ新しい大会)に推薦が決まり出場したが、リ・ジャウエイ帖雅娜といった強豪相手に快進撃を続け3位銅メダルを獲得し、世界ランクを一気に16位まであげた。2006年5月には世界選手権ブレーメン大会で銅メダル(2004年ドーハ団体に続き2度目)を獲得した。放送したテレビ東京の視聴率は最高12%を出した。好調だった2006年度はチームを広東佐川急便に変えて超級リーグに参加(なお、チームの2006年度オーナー権を福原サイド(千秀企画)が買っている)。

父は高校卒業後の進路として当初、大学も青森山田学園系列の青森大学を考えていたが、福原本人が早稲田大学スポーツ科学部を強く志望し、2006年8月より書類提出、面接を経て9月13日に合格が決まった。同学部による2年目の実施となるトップアスリート入学試験によるものであった。

2007年4月1日には早稲田大学スポーツ科学部に入学し青森から東京の阿佐ヶ谷に引っ越した。早稲田大学入学前「インカレなど大学の試合に出たい」との意向を示し、彼女の入学を受けて関東学連日本卓球協会は、プロ選手が大学の大会に出場できるように事前に規約改正を行った。しかし同年5月に行われた春季リーグでチームを一部昇格に導くことはできず、それ以降インカレ、リーグ戦に出場することはなかった(翌2008年春リーグから関東学生リーグは1部所属校を6校から8校と増やした。)。2007年4月3日、全日本空輸(ANA)との所属契約(単年)を発表、同時にグランプリとの4年契約を2年で終了したことを発表した。これについて父親が「大学進学で東京に住むこともあり、環境すべてを見直したかった」と説明した。

2007年5月の第49回世界卓球選手権個人戦では3回戦敗退。大学の試合には2007年春リーグ以外出場しておらず、個人練習での強化に努めている。2007年4月より『とっさの中国語』(NHK教育)にレギュラー出演した。2008年1月、世界ランクが10位と、世界ランクの上位から1カ国・地域2名を上限とし上位20名に与えられる代表資格を獲得し北京五輪日本代表に内定した。6月、JOCから日本選手団の開会式旗手に任命された。卓球選手では初であり、最年少である。本人は会見で「(団旗の)グラムの重さより、日本(代表としての)の重さをすごく感じると思う」と意気込みを話した。五輪では平野早矢香福岡春菜、福原の3人でシングルス、団体戦に出場した。

ロンドンオリンピックまで

2011年11月、ロンドンのエクセルで行われたロンドン五輪・テスト大会を兼ねたプロツアー・グランドファイナルにて、女子ダブルス準決勝での福原

その後よりレベルの高い試合で実戦感覚を養うことを目的として、2009年4月で早稲田大学卓球部での活動を休止し、海外で行われるITTFプロツアーを中心に出場。日本国内ではサンリツ(物流会社)の卓球部の一員として日本リーグに参戦することになった。そして、海外ツアーや中国のスーパーリーグ参戦を優先するため、および早稲田大学の単位の取得が困難になったために、2010年3月で早稲田大学を退学し、卓球に専念して2012年ロンドン五輪に臨む意向であることが関係者から明らかになった[17]。2008年1月全日本卓球選手権で敗れた後、大学の授業にあまり出席できないこと、また2008年が五輪イヤーでもあることから関係者が福原の休学ないし中退を示唆していた(彼女は入学後も練習を早稲田大学では行わず青森や秋田で練習を続けた。また五輪出場権獲得のために世界ランク高位を維持するため、海外の卓球ツアーに多く出場したため欠席も多かった)。

2011年5月、ロッテルダム世界選手権混合ダブルスにおいて岸川聖也とペアを組み、この種目では日本選手34年ぶりの銅メダルを獲得[18]。大会終了後の5月16日付世界ランキングで日本人2番目の9位となり、ロンドンオリンピックシングルス出場権を獲得[19]。2011年11月27日にはロンドン五輪と同会場で行われたテスト大会のプロツアー・グランドファイナルで石川佳純と女子ダブルスに出場して準優勝を収め、主戦場としてきたシングルス以外に活路を見出していた[20]。そして2012年1月21日東京体育館で開催された全日本選手権において、決勝戦で石川佳純を4-1で下し、13回目の挑戦にして念願の選手権を獲得している。

2012年は3月に開催された第51回世界卓球選手権団体戦ドイツの旗 ドイツドルトムント)に石川佳純平野早矢香藤井寛子石垣優香と共に日本代表として出場するも、準々決勝で大韓民国代表にフルセット(2-3)の末に敗れてメダルを逸してしまった[21]

7月に開催されたロンドンオリンピック卓球競技では、女子シングルス戦では第5シードとして3回戦から登場し、アンナ・チホミロワ(ロシア)を4-0と退け、4回戦ではジエ・リー(オランダ)に対し、ゲームカウント1-3と追い詰められたが、そこから3ゲームを連取して4-3でオリンピックでは自身初の準々決勝進出を達成。準々決勝では世界ランク1位の丁寧と対戦して、第1ゲームでは先にゲームポイントを迎えたが、これを取れず、結局0-4で敗れた。団体戦には平野早矢香石川佳純と共に出場。1回戦アメリカ、準々決勝ドイツを破った後の準決勝シンガポール戦では第1戦目でシングルス銅メダリストの馮天薇を3-1で破った。続く2戦目の石川のシングルス、3戦目の石川・平野ペアのダブルスも日本が勝ち、日本勢オリンピック史上初の決勝進出を果たす。決勝戦で中国に0-3で敗れ2位となったが、日本卓球史上初となる銀メダルを獲得した。

リオデジャネイロオリンピックまで

ロンドンオリンピック終了後、8月24日に前年夏に故障した右肘滑膜ひだ障害の手術に踏み切った。また、故障を抱えながら出場した2012年3月の世界選手権ドイツの旗 ドイツドルトムント)やオリンピックなど、歴戦の疲労も蓄積していたので、手術箇所の治療や疲労回復等を目的に9月から10月は休養を続けた[22]。11月から練習を再開し、12月6日に杭州で開催されたITTFワールドツアー・グランドファイナルで復帰したが初戦の2回戦で陳夢(中国)に敗れた[23]

2013年には平成24年度天皇杯・皇后杯全日本卓球選手権大会に出場、今大会はヒジ手術からの休養明けを考慮して女子シングルスのみの出場であったが、ブランクを跳ね返す試合運びで勝ち進み、前年同様に石川佳純との対戦になった決勝ではゲームカウント1-2の劣勢から3ゲームを連取する逆転勝ちを収めて2年連続優勝を飾った[24]

2013年の第52回世界卓球選手権個人戦では、世界ランク166位の朴晟恵(大韓民国)に緒戦で当たり、2-3の逆転負けを喫した[25]。6月の荻村杯ジャパンオープンでは女子シングルス決勝で文玄晶(大韓民国)に4-0で勝利し、日本女子選手として初となる荻村杯優勝を果たした[26]

2014年の全日本卓球選手権大会女子シングルスにて、準決勝で森さくら(昇陽高)にストレートで敗れた[27]。敗戦後、左第5中足骨の疲労骨折を発症したため、自国開催(日本の旗 日本東京)の第52回世界卓球選手権団体戦を欠場した。6月13日の韓国オープンから公式戦に復帰する[28]。荻村杯の女子ダブルスでは若宮三紗子とのペアで出場し、決勝で前年の世界選手権銅メダルペアの馮天薇、于梦雨組(シンガポール)を破り優勝。

9月、仁川アジア大会の団体戦決勝で中国と対戦し、チームは敗れて準優勝だったが、自身は第1戦で丁寧から初勝利をあげた[29]

2016年8月のリオデジャネイロオリンピックでは女子最年長で代表に選出。シングルスでは準々決勝でシンガポールの馮天薇を破り初の準決勝進出。しかし、準決勝では中国の李暁霞、3位決定戦では北朝鮮のキム・ソンイに敗れシングルスでのメダル獲得を逃した。団体戦では全試合で伊藤美誠とダブルスを組み出場。準決勝ドイツ戦では膝の状態が悪化した影響で黒星を重ねてしまい2大会連続の決勝進出を逃してしまったが、3位決定戦のシンガポール戦ではダブルスで1勝を挙げ2大会連続となる銅メダル獲得に貢献した。

略年譜

  • 1988年昭和63年)11月 - 宮城県仙台市にて誕生
  • 1992年平成4年)8月 - 卓球の練習をはじめる
  • 1998年(平成10年)7月 - 大阪府八尾市に転居(9歳)。ミキハウスJSC(ジュニアスポーツクラブ)に所属。
  • 1999年(平成11年)3月 - 日本卓球協会の理事会で承認され、レジスタードプロに登録(3月20日付け、10歳)
  • 2005年(平成17年)4月 - グランプリと所属契約。(4年) 中国超級リーグに参加、遼寧省チームに入団(4月に契約、6月 - 12月まで中断をはさみ試合)
  • 2006年(平成18年)
  • 2007年(平成19年)
  • 2010年(平成22年)3月 - 早稲田大学スポーツ科学部自主退学
  • 2012年(平成24年)
    • 1月 - 全日本選手権・女子シングルス初優勝
    • 8月 - ロンドンオリンピック女子団体で銀メダル獲得
  • 2013年(平成25年)
  • 2015年(平成27年)
    • 3月 - スペインオープン・女子ダブルス優勝ダブルスパートナー日本生命若宮三沙子選手 
    • 6月 - オーストラリアオープン・女子シングルス優勝
    • 7月 - 韓国オープン・女子シングルス優勝
    • 8月 - チェコオープン・女子シングルス優勝
  • 2016年(平成28年)
    • 8月 - リオデジャネイロ・オリンピック・女子シングルス 4位
    • 8月 - リオデジャネイロ・オリンピック・女子団体で銅メダル獲得
    • 9月 - 卓球選手の江宏傑との入籍を発表。東京都内で婚姻届を提出[30]

プレースタイル

右利き前陣速攻。中国卓球の経験を積んでいる事から、中国スタイルのペースの速い卓球である。

ラケット裏面には粒のある表ソフトラバーを貼り、ナックルなどの変化球を出すことが可能で、粒がやや高い表ソフトからのバックハンドに特徴がある。また、ラリー中に時折見せるラケットを反転してからのバックハンドも特徴的である。小学生の頃は日本卓球協会の規定で違う種類のラバーを貼れなかった為、両面表ソフトラバーであった。2007年全日本後あたりにラバーをハイテンションラバーに変え、フォームも振りを大きくするなど今までに無い改革に取り組んでいる。

尊敬する選手は王楠。左利きに憧れている。体が柔らかく低い打球点から繰り出すバックハンドは世界でもトップクラスである。中学、高校前半の頃はよくピンチで王子サーブというしゃがみ込みサーブを使っていたが、今は返されることが多い為、全く使っていない。

2006年11月のワールドカップでティエにストレート負けしたのを見て父親は海外では速い球を打てないと通用しないと考え「一度愛の卓球スタイルをぶっ壊す」と言っていた(しかし、その後もスランプが続いたため、戻したという話もある)。

課題として、単調なショートサーブが多く、フォアハンドが弱い事が度々指摘されている。国内ではカットマンや、粒高ラバーなどの異質攻撃選手に苦手意識がある。また、「試合中、みんなが思っている以上に何も考えていません」と話すように、作戦をあまり考えないため、代表監督から怒られたこともある。それゆえ相手に研究されると弱い一面を持ち、本人は「ビデオ研究をすると、相手が強く見えるから嫌い」とあまり研究したがらない。

2012年のロンドンオリンピックに際しては、課題とされていた下半身を中心とした筋力強化やフォアハンドの改善に取り組み[31]、その成果が出たと評価されている[32][33]

小さい頃から天才少女と言われてきた理由の一つに、同世代の国内選手には負けなかった事がある。中1で全日本ジュニア(高校以下)を制すとその後3連覇。どの大会でも一度も負けなかった。だが2006年8月のインターハイ、シングル決勝で同じ年齢の宇土弘恵就実)に初めて負けを喫した(ストレート負け)。

また、国際大会では世界の強豪相手に善戦して世界ランクを上げており、団体戦においても中国選手から勝利を収めてはいるが、国内大会の一般の部ではシングルの優勝が少なく、人気の割に実績が乏しいという印象を与えていた。全日本卓球選手権でも長年ベスト4を超えられず不本意な成績を残していたが、2012年1月、成長著しい連覇のかかった石川佳純を決勝で下し、ようやくシングルのタイトルを獲得した。なお、全日本の他の出場可能な部門(バンビ・カブ・ホープス・カデット13歳以下・カデット14歳以下・カデットダブルス・ジュニア・女子ダブルス・混合ダブルス)ではすべて優勝しており、史上初の全日本グランドスラム達成者となった。

小学校時代は「ヨー!」(「よーし」の略)というかけ声を使っていたが、中学以降は思春期に入ったためにこのかけ声を使わなくなり、中学後半ぐらいから徐々に大きなかけ声を出すようになり、アテネ五輪で「サー!」は福原の代名詞ともなった(もっとも卓球でこのように声を出す選手は多く決して珍しいことではない)。ただ、強い相手などにはかけ声が全然出ないこともある。「サー!」のかけ声には最大で3連続「サー!サー!サー!」もあり、「サー!ナイスボールサー!」もある。気合が入ると相手がミスしても「サー!」が出る。声が裏返る時もあり、年々闘争心が強くなっている。福原は「かけ声をかけるということは、自分が点を入れているという事なので、いっぱい叫びたいですね」と話す。声の音程には気を使っており、「会場で他の人と同じような音を出すと意味が無いじゃないですか」ということで今の甲高い声になったらしい。中国の選手達の影響で「サー!」を採用したことを、2006年10月30日放映の関西テレビフジテレビ系列番組『SMAP×SMAP』で明らかにした。

マネジメント

福原の両親は福原に徹底的に卓球の英才教育を施した。3歳から卓球を始め練習時間は毎日4-5時間、今では7-8時間。年に休みは3日程度。

マネージメントは父親が行っていたが2008年以降母親と兄が行っている。

2004年度末まで日本代表監督の西村卓二から熱血指導を受けてきたが、その後代表監督となった近藤欽司から指導を受けている。

コーチは元中国チャンピオンなど専属の中国人を住み込みで契約している。その方針は今も続いており、現在はカットマン専門のコーチ含め2人が専属コーチで常に福原と帯同している。正月などは頻繁に中国合宿を繰り返し、中国の技術を体に染み込ませ、コミュニケーションのため中国語も身につけた。コーチが瀋陽出身であることから福原の中国語には東北官話訛りがあり、そのことも中国で福原が人気を集める要因の一つになっている[34]

人物

幼少時から天真爛漫な笑顔でお茶の間の人気者となっていたが、思春期になるにつれメディアに対し喋りたがらないことが増え、悲しそうな表情をすることも多くなった。福原自身は、当時を振り返って、「周りのこととか、卓球以外のことが見えてきていた」と語っている。中学2年生頃から、徐々に再び笑顔を見せるようになり、インタビューにもきちんと答えるようになった。

幼児期を除いて試合後、泣くことはほとんどなく、また勝って泣いたことは一度も無かった。しかし2008年2月の世界選手権広州大会、予選の韓国戦では5番手でフルゲーム、デュースの末に勝利して一位通過を決め、福原は珍しくメンバーとともに号泣し、喜んだ。

2007年12月、眼鏡をかけて成田空港に現れ、遺伝により乱視になったことを告白した。本人はコンタクトレンズにしたかったようだが、20分ではずしてしまうほどコンタクトレンズが合わず、眼鏡にしたとのこと。福原も「ぼやけて見えた世界が当たり前だったので、眼鏡をつけるとスッキリする」と視界不良を認めている。ただ視力自体は1.5-1.0と悪くない。[35]

中国での評価

中国での福原への関心は高く、Yahoo!の中国サイトが2005年4月に発表した世界卓球8大美女に福原愛が選ばれた(他には張怡寧王楠白楊リ・ジャウエイなど。日本人では他に柏木有希が選ばれている)[36]

当時の小泉純一郎首相の靖国神社問題などで、中国では反日感情が高まり日本に冷たい態度を示すことが多かったが、そんな中で福原のニュースを中国英字紙チャイナデイリーは2006年3月16日付紙面の1面トップで、卓球の中国超級リーグ広東省チームに移籍した日本人選手、福原愛のカラー写真を掲載した。写真は赤いユニフォーム姿の福原が地元の子供達に囲まれ笑顔を見せているもので、福原を「著名な日本の卓球選手」と好意的に紹介した。福原は日本の中国大使館を何度か表敬訪問しており、「中日友好」の色紙を持って王毅駐日大使(当時)と撮影に応じた。他にも日中友好関連のイベントに招かれている。

2008年2月の第49回世界卓球選手権団体戦では、「福原愛永遠支持」と横断幕を掲げた十数人の中国ファンが応援したり、日本ー韓国戦で福原が5番手で登場し接戦をものにした試合を中国メディアは「福原選手が大逆転演じる」(成都日報)、「感涙の福原愛 『観客が力くれた』」(新浪体育)、「みんな福原愛ちゃん大好き」(斉魯晩報)など、福原を中心に見出しや記事を構成した。また、インタビューを「中国語も英語も流暢で立派だ」と褒め称えるところもあった。(斉魯晩報)

同年4月には「福原愛は現在、日本のナショナルトレーニングセンターで北京五輪に向けて積極的にトレーニング中」と中国誌が報じた。上海万博事務協調局は24日、2010年の上海万博の日本親善大使に卓球の福原愛選手ほか2名に決定したことを発表した。同年4月26日の聖火リレー(長野市)では、当初日本オリンピック委員会からの出走依頼はなかったが、中国側から中国大使館枠で参加を要請され、走った。福原の走る姿は中国でも新聞の一面などで大きく報じられた。同年5月7日、胡錦濤国家主席が来日し、早稲田大学で特別講演した折に大学構内で卓球対戦した。胡錦濤に随行していた中国チャンピオンの王楠も参加。同席した日本の福田康夫首相も卓球に誘われたが不得手だということで断ったため、4人のダブルスではなく3人の変則卓球となった。この模様は日中両国で報道された。胡錦濤は福原に「あなたは私のことを知らないかも知れないが、私はあなたのことを知っている」と話しかけた[37]。同年9月27日、山東省煙台市沖の豪華客船で行われた王楠の結婚式に、王楠の介添え役(中国のメディアは「伴娘」と表記)として、セクシーなベアトップのドレス(中国のメディアは「性感低胸装」と表記)を装って出席した。中国のメディアは、このニュースを大きく報道した。王楠夫妻は既に2005年10月に結婚していたが、北京五輪の為に式をあげていなかった。なお、新郎の介添え役は当初王皓が務める予定だったが彼の試合があったために馬琳が行った。

中国でのニックネームは、"磁器人形" という意味の「瓷娃娃[38][39](ツーワーワー)」(英語化されると"Japanese doll"[40])、または、愛ちゃんに相当する「小愛[41](シャオアイ)」(泣き虫愛ちゃんに相当するのは「愛哭鬼小愛」[42])。

エピソード

  • 時期により体重の増減が大きい(練習量が多く、その分食べるため)。大きな大会が始まると緊張、疲れから食が進まなくなり痩せてしまうため、大会前は多少体重を増やして臨むことが多い。ベストは48キロ。母親は小さい頃、食が細いのを心配したという。
  • NHK、2004年正月の番組で足型を取ったところ偏平足であった。足のサイズは24cmで本人はもっと身長が伸びると思っていたが中3で成長は止まってしまったという。公称155cm。
  • 座右の銘は「よく寝て、よく食べ、よく笑う」だったが、2006年に兄から変更を促され「一意専心」に変わった。
  • 子供好きだが、小、中学生ぐらいの大きな子は苦手と話している。
  • 卓球以外のスポーツは苦手で高校の時、体育は好きな教科ではなかったという。小さい頃は水泳教室にも通っていて、親は卓球と水泳のどちらに専念させるか考えていた時期があった。ランニングが苦手だったが2005年以降ランニングなども強化し、筋力をつけスピード、パワーのアップを図っている。
  • スコートをたまに履くことがあり、2006年1月の全日本選手権ダブルスで小西と共にスコートを履いた。同大会ではベスト4まで進出したものの、「試合に集中できない」というコメントを出した。
  • アニメ「こてんこてんこ」で彼女の演じた役はその後かないみかが演じた。
  • 大阪は2008年度五輪開催地として正式に立候補し、さまざまな招致活動を行ったが(大阪オリンピック構想)福原愛を誘致のシンボルの一つとした(福原が大阪に引っ越した一つの要因ともされる)。大阪は大阪五輪の盛り上げの一環として、2001年に世界卓球選手権シングル、団体(同時開催)を大阪に誘致し、福原愛もエキシビジョンとして桂三枝(現・六代桂文枝)とオープニングマッチを行なうなどして盛り上げた。
  • 2004年1月の「クロアチアオープン」の最中に39度の高熱になった。
  • アテネ五輪では家族が大量のおにぎりを会場に持参したが、入り口のセキュリティ・チェックで「爆弾ではないか」と係員に一時引き止められた。
  • 2004年10月、埼玉県彩の国まごころ国体では、会場のウイング・ハット春日部(客席3,500人)に連日5,000人もの客がつめかけ、国体初の入場規制がされることもあった。
  • 2006年の「世界卓球選手権シンガポール戦では強豪リ・ジャウェイを下し予選リーグ通過を決めた。
  • 秋田県湯沢市稲住温泉敷地内に、卓球道場「友誼館」が完成し、2006年10月26日公開開始。移築してあった旧秋ノ宮村役場(白井晟一設計の建造物)を改装した[43]
  • 2007年 - 2008年の年末年始に急性胃腸炎で入院した。
  • 2008年6月、北京五輪選手で「さわやかな汗がもっとも似合う人」女子1位に選ばれた[44]
  • 2008年9月、東京代々木体育館で、不審な男に追い掛け回されるハプニングがあった。男は婚姻届を持ち福原にサインを迫ったが、早大卓球部監督の機転で難を逃れた。
  • 2016年夏季オリンピックにおける東京オリンピック構想のイメージキャラクターの1人として、都営バスの一部車両に福原が描かれたラッピング車両が存在した。
  • バドミントンの藤井瑞希とは青森山田高校で同級生で出席番号(五十音順)も近いこともあって仲が良く、2012年のロンドンオリンピックで藤井瑞希・垣岩令佳ペアが銀メダルを獲得した際には選手村の宿舎で号泣しながら出迎えた(藤井とペアを組んでいた垣岩令佳も高校の後輩にあたる)。
  • 幼少期に「ルックルックこんにちは」に出演した際、岸部シローらが馬鹿騒ぎばかりしたため「うるさい」と怒鳴った(放送時の東京新聞の芸能欄の投書から)。

戦歴

  • 1992年8月 - 3歳で初めてラケットを握る。
  • 1993年9月 - 全日本卓球選手権大会・バンビの部(8歳以下の部)ベスト16
  • 1994年9月 - 全日本卓球選手権大会・バンビの部優勝
  • 1995年9月 - 全日本卓球選手権大会・バンビの部優勝
  • 1996年9月 - 全日本卓球選手権大会・バンビの部優勝
  • 1997年8月 - 東アジアホープス大会(日本代表)
  • 1997年9月 - 全日本卓球選手権大会・カブの部(10歳以下の部)優勝
  • 1997年11月 - 全日本卓球選手権大会・カデットの部(13歳以下の部)優勝(小3)
  • 1998年7月 - 大阪に転居。ミキハウスJSCに所属。
  • 1998年8月 - 東アジアホープス大会(日本代表)
  • 1998年9月 - 全日本卓球選手権大会・カブの部(10歳以下の部)優勝
  • 1998年11月 - 全日本卓球選手権大会・カデットの部(14歳以下の部)ダブルス優勝・シングルス準優勝
  • 1998年12月 - 全日本卓球選手権大会・一般の部 ダブルス ベスト32(史上最年少出場)、ジュニアの部(17歳以下の部)シングルス準優勝(史上最年少出場)
  • 1999年3月20日 - レジスタードプロに登録
  • 1999年8月 - 東アジアホープス大会(日本代表)シングルス ベスト8
  • 1999年9月 - 全日本卓球選手権・ホープスの部(12歳以下の部)優勝
  • 1999年11月 - 全日本卓球選手権・カデットの部(14歳以下の部)準優勝
  • 1999年12月 - 全日本卓球選手権・ジュニアの部(17歳以下の部)ベスト4、一般の部 シングルス ベスト64(史上最年少出場、最年少勝利)
  • 2000年6月 - ジャパンオープン(日本代表)シングルス ベスト64、ダブルス ベスト32 日本代表初出場(小6)
  • 2000年9月 - 全日本卓球選手権・ホープスの部(12歳以下の部)優勝(7連覇)
  • 2000年11月 - 全日本卓球選手権・カデットの部(14歳以下の部)優勝
  • 2000年12月 - 全日本卓球選手権・ジュニアの部(17歳以下の部)ベスト32 
  • 2001年1月 - 第30回後藤杯選手権 女子シングルス 優勝(一般の部でのシングルス初優勝)
  • 2001年4月 - 東アジアホープス大会(日本代表)団体2位、シングルス3位
  • 2001年6月 - 中国オープン 決勝トーナメント進出
    • 世界ランク:126位
  • 2001年9月 - ジャパンオープン シングルス ベスト16、ダブルス ベスト8
    • 世界ランク:98位
  • 2001年12月 - デンマークオープン シングルス ベスト8、ダブルス ベスト8  
    • 世界ランク:67位
  • 2001年12月 - 全日本卓球選手権 ジュニアの部優勝、一般の部 シングルス 7位、ダブルス 3位  
  • 2002年8月 - 全国中学校卓球大会 女子シングルス優勝
  • 2002年9月 - ジャパンオープン ダブルス ベスト8
  • 2002年10月 - 釜山アジア大会 女子団体 銅メダル
  • 2002年12月 - 全日本卓球選手権 ダブルス優勝、ジュニアの部優勝
  • 2003年2月 - アジア選手権 女子ダブルス準優勝
  • 2003年3月 - 日本卓球リーグ実業団連盟ドリームチャレンジカップ 女子シングルス 優勝 推薦参加
  • 2003年5月 - 第47回世界卓球選手権個人戦 シングルス ベスト8
  • 2003年8月 - 全国中学校卓球大会 シングルス優勝 
  • 2003年9月 - アジアジュニア卓球選手権大会 女子団体ベスト4、ダブルス ベスト4
  • 2003年9月 - 中国オープン 3回戦敗退
  • 2003年9月 - ジャパンオープン 3回戦敗退
  • 2003年11月 - ドイツオープン シングルス(アンダー21)優勝
  • 2003年11月 - スウェーデンオープン シングルス(アンダー21)優勝
  • 2003年12月 - 第1回世界ジュニア選手権大会(チリ)ダブルス 銅メダル、シングルス ベスト8
  • 2004年1月 - 全日本卓球選手権 女子ダブルス優勝、ジュニアの部優勝
  • 2004年3月 - 第47回世界卓球選手権団体戦 女子団体 銅メダル
  • 2004年4月 - アジア大陸オリンピック予選 シングルス 3位(アテネオリンピック出場決定)
  • 2004年8月 - アテネオリンピック シングルス ベスト16 ※(直後の世界ランキングwr19位に、初の10位台)次項に詳述あり
  • 2004年10月 - 国体優勝 少年女子団体の部、青森県代表として(埼玉)
  • 2004年12月 - 世界ジュニア卓球選手権大会2004 神戸大会
    • 女子シングルス 3位
    • 混合ダブルス 3位
    • 女子団体 準優勝
  • 2005年1月11~16日、全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス 6回戦敗退
    • 女子ダブルス 優勝
    • 混合ダブルス 優勝
  • 2005年2月 - ジャパントップ12卓球大会 準優勝
  • 2005年3月12・13日 - 第17回女子アジアカップ シングルス 準優勝※(直後の世界ランキングwr32→wr23へ大幅アップ)
  • 2005年3月28日 - 高等学校選抜卓球大会 団体戦準優勝(青森山田高校)
  • 2005年3月31日 - ミキハウスジュニアスポーツクラブ満期終了、一時フリーになる
  • 2005年4月1日 - 中国スーパーリーグ遼寧省チーム入団(一年契約)
  • 2005年4月11日 - グランプリと4年契約を結ぶ
  • 2005年4月30日~5月6日 - 第48回世界卓球選手権上海大会
    • 女子シングルス 3回戦敗退
    • 女子ダブルス ベスト8
    • 混合ダブルス 3回戦敗退
  • 2005年9月 - アジア卓球選手権、ダブルスで銅メダル、ペアは藤沼
  • 2005年10月 - 国体2連覇 少年女子団体の部、青森県代表として(岡山)
  • 2005年11月 - ITTF女子ワールドカップ3位(銅メダル)中国広州 ※(直後の世界ランキングwr25→wr16へ大幅アップ)
  • 2006年1月 - 全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス ベスト8
    • 女子ダブルス ベスト4
    • 混合ダブルス 準優勝
  • 2006年2月 - ジャパントップ12卓球大会 準優勝
  • 2006年3月5日 - 第19回グランプリアジアカップ シングル5位
  • 2006年3月15日 - 超級リーグ広東チームへの移籍契約調印を行う
  • 2006年4月9日 - 日本卓球リーグ実業団連盟 ビッグトーナメント 女子シングルス 優勝(推薦参加)
  • 2006年4月24日 - 5月1日 - 第48回世界卓球選手権ブレーメン大会
    • 女子団体 銅メダル
  • 2006年6月 - ITTFワールドツアー台湾オープン ダブルス優勝 ツアーでは初の優勝、ペアは藤沼
  • 2006年8月7日 - 11日 - インターハイ
    • 女子団体 準優勝
    • 女子シングルス 準優勝
    • 女子ダブルス 優勝
  • 2006年9月 - ITTFワールドツアージャパンオープン ダブルス銅メダル
  • 2006年10月 - 国体優勝3連覇 少年女子団体の部、青森県代表として(兵庫)
  • 2007年1月 - 平成18年度全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス ベスト16
    • 女子ダブルス 4回戦(初戦)敗退
    • 混合ダブルス 優勝(坂本竜介ペア)
  • 2007年2月10日 - ジャパントップ12卓球大会 準優勝
  • 2007年4月8日 - ビッグトーナメント 初戦敗退
  • 2007年4月30日 - 5月6日 - 第49回世界卓球選手権ザグレブ大会
    • 女子シングルス 3回戦敗退
    • 女子ダブルス 2回戦敗退
    • 混合ダブルス 3回戦敗退
  • 2007年10月 - ITTFワールドツアー オーストリアオープン ダブルス優勝平野早矢香とのペア)ツアーでは2度目の優勝(ダブルス)
  • 2008年1月 - 平成19年度全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス ベスト16
    • 女子ダブルス 優勝(照井萌美とのペア)
    • 混合ダブルス 準決勝敗退(坂本竜介ペア)
  • 2008年2月9日 - ジャパントップ12卓球大会 ベスト4
  • 2008年2月 - 第49回世界卓球選手権広州大会
    • 女子団体 銅メダル
  • 2009年1月 - 平成20年度全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス ベスト4
  • 2009年2月 - ジャパントップ12卓球大会 準優勝
  • 2009年7月 ITTFワールドツアーモロッコオープン
    • 女子シングルス 優勝 ツアーでは初の優勝(シングル)
    • 女子ダブルス 優勝(石川佳純ペア)ツアーでは3度目の優勝(ダブルス)
  • 2009年11月 - 第19回アジア卓球選手権大会 混合ダブルス 3位
  • 2009年12月 - 東アジア競技大会 女子ダブルス 優勝
  • 2010年2月 - ジャパントップ12卓球大会 準優勝
  • 2010年3月 - ITTFワールドツアーハンガリーオープン
    • 女子ダブルス 優勝(石川佳純ペア)ツアーでは4度目の優勝(ダブルス)
  • 2010年10月 - ITTFワールドツアードイツオープン
    • 女子ダブルス 優勝(石川佳純ペア)ツアーでは5度目の優勝(ダブルス)
  • 2011年1月 - 平成22年度全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス ベスト4
  • 2011年4月 - 日本卓球リーグ ビッグトーナメント石川大会
    • 女子シングルス 優勝
  • 2012年1月 - 平成23年度全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス 優勝(初)
  • 2013年1月 - 平成24年度全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス 優勝(2)
  • 2013年4月 - 日本卓球リーグ ビッグトーナメント愛媛大会
    • 女子シングルス 優勝
  • 2013年6月 - ITTFワールドツアー荻村杯ジャパンオープン
    • 女子シングルス 優勝 ツアーでは2度目の優勝(シングル)単では日本人として初の優勝者である。
  • 2013年11月ーITTFワールドツアードイツオープン
    • 女子シングルス 準優勝
    • 女子ダブルス 準優勝(若宮三沙子パートナー)
  • 2014年1月 - 平成25年度全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス ベスト4
  • 2014年6月 - ITTFワールドツアー荻村杯ジャパンオープン
    • 女子ダブルス 優勝(若宮三紗子ペア)ツアーでは6度目の優勝(ダブルス)
  • 2014年8月 - ITTFワールドツアーチェコオープン
    • 女子シングルス 準優勝
    • 女子ダブルス 優勝(若宮三沙子パートナー)ツアーでは7度目の優勝(ダブルス)
  • 2014年9月 - 仁川アジア大会
    • 女子団体 準優勝
    • 混合ダブルス ベスト4
  • 2015年3月 - ITTFワールドツアースペインオープン
    • 女子ダブルス 優勝(若宮三紗子ペア)ツアーでは8度目の優勝(ダブルス)
  • 2015年5月 - ITTFワールドツアーフィリピンオープン
    • 女子シングルス 準優勝
  • 2015年6月 - ITTFワールドツアーオーストラリアオープン
    • 女子シングルス 優勝 ツアーでは3度目の優勝(シングルス)
  • 2015年7月 - ITTFワールドツアー韓国オープン
    • 女子シングルス 優勝 ツアーでは4度目の優勝(シングルス)
  • 2015年8月 - ITTFワールドツアーブルガリアオープン
    • 女子シングルス 準優勝
  • 2015年8月 - ITTFワールドツアーチェコオープン
    • 女子シングルス 優勝 ツアーでは5度目の優勝(シングルス)
  • 2016年3月 - 第53回世界卓球選手権団体戦 女子団体 銀メダル

オリンピックでの対戦成績

  • アテネオリンピック女子シングルス
    • 2回戦 - オーストラリアのミャオ・ミャオと対戦し、4-3で勝利。
    • 3回戦 - アメリカのガオ・ジュン(世界ランク12位)と対戦し、4-0で勝利。
    • 4回戦 - 韓国金暻娥(世界ランク6位)と対戦し、1-4で敗退。8強ならず。

成績

※最高成績

シングルス

ダブルス

混合ダブルス

団体戦

受賞等

  • 1993年 - 功労賞(日本卓球協会)
  • 1994年 - 未来賞(ミロ[要曖昧さ回避]スポーツ大賞)
  • 1995年 - 日本スポーツ賞読売新聞社)、特別奨励賞(宮城県体育協会)
  • 1996年 - 奨励賞(宮城県体育協会)、感謝状(兵庫県卓球協会)、感謝状(ライオンズクラブ)
  • 1997年 - 奨励賞(宮城県体育協会)、スポーツ奨励賞(仙台市教育委員会
  • 1998年 - 奨励賞(宮城県体育協会)、スポーツ奨励賞(仙台市教育委員会)
  • 2003年 - 第5回王国大賞、プレイヤー・オブ・ザ・イヤー(卓球王国
  • 2004年
  • 2005年1月 - 夢見る女の子大賞(ロッテ主催)
  • 2011年3月2日 - 仙台観光アンバサダー(親善大使)の初代大使を委嘱された(任期:2年)[45][46]
  • 2012年
    • 9月10日 - 賛辞の盾(仙台市)[47]
    • 9月22日 - 杉並区スポーツ栄誉賞
    • 10月4日 - 宮城県特別表彰[48]
  • 2013年4月17日 - 仙台観光アンバサダーを再委嘱された(任期:2年)[49]
  • 2014年 - 第43回ベストドレッサー賞(スポーツ部門)[50]

主な出場イベント

2000年4月4日、東京ドーム日本ハム始球式を務める。

2004年1月、ミキハウスの毎年恒例の新年会に最後の参加をした(ゲストは星野仙一)。同年6月、ミキハウスの五輪壮行会に参加、同年6月6日には新宿アテネオリンピックの聖火リレーの日本国内での最終ランナーを務めた[51]。同年10月20日、新宿、都庁前で一日警察署長を務める。

2005年2月、中国大使館を表敬訪問、卓球交流を行った。同年3月2日、中越地震で被災した長岡市立南中学校を慰問、卓球交流[52]。同年4月23日(反日感情が悪化していた時期) - 中国大使館訪問、王毅駐日大使に表敬[53]。同年5月14日 - 映画『KARAOKE-人生紙一重-』(グランプリ製作)の試写会にゲスト出演。同年7月、「中国と日本60年の歩み」写真展(東京)ジャッキー・チェンとともにイベントに呼ばれる。(福原は晴れ着で登場した。同年9月、青森山田高校体育館で、幼稚園生を対象にこてんこてんこと気球イベント。同年9月19日、愛・地球博上海ウイークのイベントに出場した[54]。同年11月20日、青森市でスペシャルオリンピックスのトーチランの伴走者を務めた。

2006年3月31日、北京市で行われた日中卓球交流50周年記念イベントに参加、同年10月11日、外国特派員協会の昼食に招かれインタビューに応じた[55]。同年10月12日、全国旅館生活衛生同業組合連合会全旅連)の「お宿親善大使」に選ばれた[56]

2007年5月、糖尿病対策の会見「グリコヘモグロビン認知向上運動」に出演[57]

2008年3月24日、谷村新司コシノジュンコとともに、上海万博のイメージ大使に選ばれた[58]。2010年7月19日、上海万博の日本のPR大使として見学中に突然、気分が悪くなって倒れ、1時間余り休憩した後、貧血だったと話した[59]

2012年9月22日、杉並警察署の一日警察署長を務めた[60]。同年10月4日、日本製紙クリネックススタジアム宮城楽天イーグルス埼玉西武ライオンズ戦で始球式を務めた[61]

テレビ出演

  • 愛が見えた!泣き虫愛ちゃん14年の挑戦(フジテレビ、2003年3月2日)
特別番組で、福原を幼少から成長を追って取り上げたドキュメント。司会は安藤優子。視聴率は14.3%だった。
ドキュメンタリー番組。同日放送回において、超級を中心に取り上げた。NHK総合でも再放送。
同日の放送回において、前年の超級や学校生活に密着した。
  • 新春スペシャル対談 未来に架ける橋(NHK-BS1、2006年1月)
谷村新司との100分に渡る対談番組。
テレビアニメ。妖精アイちゃん役として、声の出演。
2005年12月26日・2006年1月9日の二度にわたり同局で放送された『中国語会話』においてインタビューを受けたことなどがきっかけで、NHK語学番組出演に関心を持つようになり、出演依頼を快諾した[62]。番組では、共演者の盧思が「ネイティブ並み」と評する発音[62]で、その日のフレーズを紹介する役割を担う。毎週5分という短さであるが、福原にとって初めてのレギュラー番組である。福原の出演部分は時間的都合を考え、全25回分まとめ撮りされた[62]

CM出演

2007年4月より放送。また、福原の栄養サポートも行っているとのこと。

アテネ五輪の試合放送

アテネ五輪初戦当日、福原の試合は20時頃から始まったが当初生中継はされていなかった。しかしテレビ東京は競泳の録画放送から彼女が2ゲーム取られピンチの状態から生中継を開始した。30分程度の放送がされ試合途中で番組は終了した。この試合ではフルゲームの末、逆転勝利した。

同日、NHK-BS1とNHK総合は23時頃から、TBSは0時頃から録画放送を開始。その3局は他局と時間がかぶっているにもかかわらず、ノーカットで試合放送した。次の3回戦はNHK、TBSが生放送をした(19:30-)。NHKだけで平均視聴率は20.1%、勝利した瞬間の最高視聴率は31.9%という高視聴率をマークした(関東地区、ビデオリサーチ調べ)。NHKが「卓球の愛ちゃん人気の高さには驚きました」と話したように、この数字は各局に少なからぬ衝撃を与えた。

最終試合となった3試合目、4回戦は開始が0時頃だったが、これはフジが生放送。2戦目に比べ数字の取りにくい時間帯だったが、これも高視聴率をマーク。福原が敗れた瞬間の最高視聴率は22.7%(フジ:19日0時34分)。

2004年にマクロミルが調査した「アテネオリンピックで注目・期待する選手」についてのアンケートで北島康介谷亮子に次いで3位となった[64]。福原はメダルを取れなかったが、マスコミは他のメダリストとともに福原を番組に呼んでインタビューを繰り返した。

アテネ五輪で初めて福原の試合を見たという人が多く、その人たちには福原が出す「サーッ!」という声をはじめて聞くことになり、小さい頃は泣きながら卓球をやっていた少女が、あんなに元気よく声を出していることに感銘を受けた人も多かった。各局のインタビューでは、必ず「サー」の質問がされ、「あれはサーなのか、ターなのか、シャーなのか」という論議がしばらく続いた。『報道ステーション』(テレビ朝日)のインタビューでは「気合いです。何て言ってるのか分からない。」とコメントした。声紋を機械にかけたところ、発音は「ター!」であることが判明した。

関連商品

  • いくぜ!温泉卓球(彩京PS2ゲームソフト、2000年)小学6年の福原愛が対戦相手として登場
  • 福原愛の卓球一直線(サクセス、PS2ゲームソフト、2005年)高校生の福原愛となって戦う。
  • エキサイトピンポン(エポック、2006年7月)子供の福原愛と、高校生の福原愛と戦える。
  • 福原愛物語(少年サンデーで漫画化、あおやぎ孝夫作、2004年8月4日)
  • 卓球ラケット「福原愛」(バタフライ)
  • 卓球シューズ「WAVE FLORA AI」(ミズノ
  • 卓球練習マシーン「マシンガン愛I、II」(TSP)
  • 卓球のレッスンDVDバタフライより発売されている。
  • 中国の卓球選手ばかりが歌うラップ曲2曲に特別参加している。(2005年・2006年)
  • 2006年度福原愛カレンダーがANAより作られる。(2005年12月)
  • 2頭身フィギュア(ロッテのガムの懸賞の商品になった。2006年)

福原をとりあげた書籍

  • 福原愛写真集「LOVE ALL」(卓球王国、2005年3月)
  • 愛は天才じゃない - 母が語る福原家の子育てって?(生島淳著、2005年1月、三起商行)母のインタビュー本。
  • 愛ちゃんのあ。(福原の母の著、1997年10月、リイド社
  • スポーツのニューヒロイン〈2〉福原愛物語(本郷陽二著、2005年11月、汐文社) 子供向け
  • 卓球王国(1996年 - )
    • 創刊号以来何度も表紙を飾り、インタビューも数多く取り上げられた。月刊福原愛という1Pの記事があり、名称は何度か変わったが、小学生の頃から続いている企画がある。
  • 卓球レポート(1994年 - )
  • AERA朝日新聞出版、2003年5月12日)表紙を飾った。
  • 小学一年生(小学館、1995年4月 - 1996年3月)表紙を飾った。
  • 中国の卓球雑誌「世界卓球」(2005年8月)で表紙や本編などで大きく取り上げられた。

脚注

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注釈

  1. ^ 同年の9月17日から10月2日まで開催されたソウルオリンピックから、卓球が五輪正式種目になった。
  2. ^ 2008年5月4日仙台市体育館で開催された、北京五輪壮行試合と日本リーグ・ビッグトーナメント仙台大会に出場した福原が、開始式で語った言葉より。ただし、福原が誕生してからちょうど5ヶ月後の1989年4月1日に仙台市が政令指定都市に移行して行政区が設置されたため、出生時に青葉区は存在していなかった。なお、この大会には、福原のほかに仙台育英学園高等学校卒の平野早矢香および岸川聖也の両選手も出場し、仙台ゆかりの北京五輪卓球代表3人が揃って参加し賑わった。
  3. ^ 福原自身は、「誰からも愛されるように」との意味で命名された、というのは後付けだと語っている。
  4. ^ 東北新幹線は、1982年(昭和57年)6月23日大宮 - 盛岡間で開通。1985年(昭和60年)3月14日上野 - 大宮間が延伸開業。1991年平成3年)6月20日東京 - 上野間が延伸開業。
  5. ^ エキシビションマッチでは5歳以降も泣いたことがある。例えば1994年12月に開催された兵庫県城崎町の卓球イベントで試合中に泣き出した。
  6. ^ 翌1994年(平成6年)9月19日放送のフジテレビ「第4回 明石家さんまのスポーツするぞ!大放送」にも出演。
  7. ^ 小暮の山なりの叩きつけサーブに、幼少でまだ身長が低い福原は届かず、悔し泣きした。
  8. ^ 幼少の頃「天才卓球少女」としてTV出演をしていた時代の変わった卓球対戦相手にサッカーイラク代表の選手がいる。その番組出演時には明石家さんまとも対戦した。
  9. ^ 2005年3月13日放送「おしゃれカンケイ」では、泣くところを撮られることよりも、泣くまで撮影が続けられたと語り、それについて嫌な思いをしたと発言している。
  10. ^ 小学生となった1995年(平成7年)にも、フジテレビ「なるほど!ザ・ワールド」出演時に、1000本ラリー中に泣き出したり、上海の小学校を訪問して卓球クラブの中国人小学生との対戦中に不利になって泣き出したりする姿が放送された。
  11. ^ 2001年4月から、日本卓球協会はレジスタードプロ制度をなくした。これにより、以降は子供選手でも誰でもプロ(商業)活動が出来るようになっている。

出典

  1. ^ a b PROFILE プロフィール(福原 愛 オフィシャルサイト)
  2. ^ 卓球・福原愛選手の父武彦さん死去 71歳、旧大曲市出身秋田魁新報 2013年10月16日)
  3. ^ a b c d e f 卓球選手福原愛のお母さん 千代さん:1 いつも泣いてたわけじゃない(朝日新聞 2007年10月2日)
  4. ^ <リオ五輪>愛ちゃん攻めろ! 伯父ら声援河北新報 2016年8月10日)
  5. ^ a b c d e f g h 【卓球】15歳・愛ちゃん、大緊張初陣はフルセット激闘勝利サンケイスポーツ 2004年8年15日)
  6. ^ 福原愛×川嶋あい スペシャル対談Yahoo! JAPAN、掲載期間:2016年8月2日-8月31日)
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外部リンク

夏季オリンピック
先代:
浜口京子
日本の旗旗手
北京オリンピック
次代:
吉田沙保里