水谷隼

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水谷隼 Table tennis pictogram.svg
Mondial Ping - Men's Doubles - Semifinals - 46 (cropped).jpg
選手情報
生年月日 1989年6月9日(27歳)
最高世界ランク 5位
利き腕
グリップ シェークハンド
ラケット 水谷隼ZLC
戦型 オールラウンド型
フォア面ラバー テナジー80
バック面ラバー テナジー80
所属 ビーコン・ラボ
 
獲得メダル
日本の旗 日本
卓球
オリンピック
2016 リオデジャネイロ 男子団体
2016 リオデジャネイロ 男子シングルス
世界卓球選手権
2008 広州 男子団体
2009 横浜 男子ダブルス
2010 モスクワ 男子団体
2012 ドルトムント 男子団体
2013 パリ 男子ダブルス
2014 東京 男子団体
2016 クアラルンプール 男子団体
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水谷 隼(みずたに じゅん、1989年6月9日 - )は、静岡県磐田市出身の日本卓球選手。

2006年日本スポーツ賞優秀選手。北京オリンピックロンドンオリンピックリオデジャネイロオリンピックの日本代表。全日本選手権男子シングルス優勝8回。日本人初のシングルスでのオリンピックメダリスト。

172cm、66kg。

顔付きがお笑い芸人の波田陽区によく似ていると言われている。

概歴[編集]

小さい頃はサッカーバスケなど様々なスポーツをしており何をしても万能なタイプだったという。両親が卓球経験者であり、父が代表を務める豊田町卓球スポーツ少年団[1]に第1期生として入って5歳から卓球を始める[2]。当初は右利きだったが両親が左の有利性を考え、卓球の利き手を左に矯正した。小学校1年生時に初出場した全日本卓球選手権大会バンビの部(小学校2年生以下)で準優勝し本格的に卓球の道に進んだ。翌年バンビの部で優勝するとその後もカブ、カデットの部と優勝を重ね、中学になると卓球面での環境を考え、福原愛などを擁する青森山田中学校に転校、青森で寮住まいをすることになった。

中学2年で出場した2004年1月の全日本卓球選手権ジュニアの部で優勝(男子では史上最年少)、また一般の部もランク入りし、その天性の柔らかいボールタッチから話題になった。15歳になり青森山田高校に進学した。2005年には15歳10ヶ月という当時の男子史上最年少で世界選手権日本代表に選出された(現在は丹羽孝希が最年少)。当時の日本代表はアテネオリンピックなどの惨敗を受け、一気に若返りを図り水谷はその中でも最年少であった。当時の水谷は時として世界ランキング上位の選手に勝利を収めることもあった。また、代表の強化選手となったことで、岸川聖也らと共にドイツに留学。ドイツリーグの1部でプレーして、一年の大半をドイツで過ごした。

2005年の第48回世界卓球選手権個人戦では当時世界ランク8位、アテネオリンピック5位であった荘智淵台湾)をフルゲームの末破った。当時、靖国神社参拝問題などにより日中関係が悪化し上海で行なわれたこの大会で大半の観客が水谷の相手選手である荘智淵に声援を送る中での勝利であった。同じ年に行われたアジア選手権では当時世界ランク2位、アテネオリンピック銀メダリストである王皓中国)を破るなど日本の若きエースとなっていた。しかし、2006年初頭には足を疲労骨折するなどのトラブルもあった[3]

2006年(平成18年)度の全日本選手権 では男子シングルス、男子ダブルス、男子ジュニアの部シングルスを制し3冠を達成した。このうち男子シングルスでは3連覇を狙った吉田海偉を決勝で破り、史上最年少の17歳7ヶ月での全日本選手権優勝であった。この優勝で2007年クロアチア・ザグレブでの世界選手権(シングルス)の出場が決定した。

2007年、青森山田高校から「世界で戦うためのサポート体制がいい」と名門卓球部のある明治大学への進学を決め、同大学政治経済学部に入学した。

2008年の北京オリンピックでは団体で5位入賞、2009年の第50回世界卓球選手権個人戦では岸川とのダブルスで銅メダルを獲得した。またその後に続いた中国オープン、荻村杯では同ダブルスで連続優勝している。

2009年、韓国オープンにおいて準々決勝で朱世赫、準決勝でオフチャロフ、決勝で郝帥といった格上の強豪を次々と撃破し、優勝した。また、同年のアジア選手権団体戦では、中国との決勝戦で2-1先攻で迎えた水谷vs許昕戦で、最終ゲーム10-7のマッチポイントからジュースに持ち込まれ惜しくも逆転負けを喫したものの、中国の同年代に対し対等に戦った一戦であった。第5回東アジア競技大会では団体戦で世界ランク1位の中国の王皓を破るなどの活躍を見せ、2010年1月の世界ランキングで初めてトップ10入りを果たした。年を経るにつれ体の細さを補う筋力も徐々につき、本来後ろでプレーすることを好む選手だったが平成20年度の全日本では積極的に前に出て回り込む戦法を心がけ、優勝した。4連覇が懸かっていた平成21年度全日本卓球選手権大会の男子準決勝でも張一博にゲームカウント1-3のポイント7-9まで追い込まれながら、そこから粘りを見せて勝利し、決勝でも吉田をストレートで下し4連覇を果たした。

初優勝を果たした平成18年度から、田崎俊雄、坪口、岸川、張一博といった選手に毎年敗北の際まで追い詰められながらも逆転する、という精神的な強さを見せていた。

2010年の全日本選手権で、男子ダブルスにおいては決勝で松平健太・丹羽組に破れて5連覇はならなかったものの、シングルスにおいては初戦から圧倒的な力の差を見せつけ優勝し、史上初の男子シングルス5連覇を達成した。

2011年の全日本選手権では男子シングルスで準決勝まで順当に勝ち上がるものの、決勝で吉村真晴にフルセットの末3-4で敗れ6連覇を阻まれた。

2012年に明治大学を卒業後、4月1日付でスヴェンソンと所属契約を結んだことがこのほど日本卓球協会より発表された[4]。7月4日付世界ランキングで自己最高の5位となり、ロンドンオリンピックでは男子シングルスで第3シードとして挑んだ。初戦の3回戦は突破したものの4回戦で敗退し、団体でもメダルを逃す。

2012年10月に卓球のラケットのラバーに違法行為である「補助剤」を、多くの選手が使用している卓球界の現状を問題提起した。国際試合への出場を取りやめ、問題の解決を訴えたという[5]。しかし問題の解決には時間がかかり、選手としてプレーをしたいという思いも強く、半年後のワールドツアー・クウェートオープンに参戦し国際試合に復帰する[6]

2013年世界選手権パリ大会でダブルス3位、同年全日本卓球選手権大会では3年ぶり6度目のシングルス優勝を達成した。

2013年よりロシア・プレミアリーグのUMMCと契約。

2013年11月22日、高校時代に知り合った一般女性と7年の交際を経て結婚、2014年には第一子となる長女が誕生した。

2016年同じロシア・プレミアリーグのオレンブルクに移籍。全日本選手権決勝では張一博を4-1で退け、3年連続8回目の優勝を決めた。通算優勝回数はソウルオリンピック代表の斎藤清に並び史上最多タイとなった。

2016年リオデジャネイロオリンピックでは、男子シングルスにおいて、準決勝で世界ランク1位の馬龍(中国)に2-4で敗れたものの、3位決定戦ではブラディミル・サムソノフベラルーシ)に4-1で勝利し、オリンピックシングルスで男女通じて日本人初のメダル(銅メダル)を獲得した。また男子団体においても水谷は、ドイツとの準決勝で過去1勝15敗のティモ・ボルに3-0で勝利、中国との決勝で過去0勝12敗の許昕に3-2で勝利するなどの快進撃を見せ、男子団体に初の銀メダルをもたらした。

プレースタイル[編集]

シェークハンド、両面裏ラバーオールラウンド型。水谷は幼い頃から天性のセンスを持っており、柔らかいボールタッチと高い予測能力を活かしたプレースタイルを特徴とする。日本卓球の前原正浩強化本部長は「何十年に1人の天性のボールタッチ」と語っている。

柔らかいボールタッチが磨かれたのは、小学校時代の厳しい練習を苦痛に感じていた水谷が、よりラリーの引き合いができるロビングに楽しさを見出だしたためであった。ラリーにおけるボールコースの読みに優れ、ブロックを有効な戦術として用いることができる選手である。日本卓球協会のコーチであるマリオ・アミズィッチによればブロッキング・ゲームを主体に戦える数少ない逸材であるという。

得意な技術はサーブ、フォアハンド、ミドルのブロック、ロビング。特にサーブは20種類ものレパートリーを誇っている。 平成17年度全日本選手権にて松下浩二、北京オリンピック団体戦にて陳衛星にストレートで敗れていたため、カット打ちが課題とされていた。しかし2009年の韓国オープンにて朱世赫を破るなど、克服の兆しが見えている。

自分と同じ左利きの選手を苦手としており、その代表的な選手はマイケル・メイス陳玘許昕ティモ・ボルなどである。ただし許昕に関してはリオオリンピックの団体戦決勝で3-2で、ティモ・ボルに関してはリオオリンピックの団体戦準決勝で3-0と、大舞台で勝利している。

成績[編集]

※最高成績

シングルス[編集]

ダブルス[編集]

混合ダブルス[編集]

団体戦[編集]

著書[編集]

脚注[編集]

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外部リンク[編集]