オウム真理教

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オウム真理教
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設立年 1989年8月29日
廃止年 2000年2月
種類 宗教法人東京都港区
目的 主神をシヴァ大神(読みは「シヴァたいしん」。オウム真理教におけるシヴァ大神はヒンドゥー教シヴァ神よりも更に崇高な存在とし、マハーニルヴァーナに存在する真理勝者の集合体であり、すべての根本神)として崇拝し、創始者の松本智津夫(別名麻原彰晃)はじめ、パーリ仏典を基本としてシヴァ大神の意思を教学し実践する者の指導のもとに、古代ヨガ原始仏教大乗仏教を背景とした教義をひろめ、儀式行事(イニシエーション)をおこない、信徒を教化育成し、すべての生き物を輪廻の苦しみから救済することを最終目標とし、その目的を達成するために必要なワークを行う[1]。教祖である麻原及び麻原の説く教義への絶対的帰依を培い、現行憲法に基づく民主主義体制を廃し、麻原を独裁的主権者とする祭政一致の専制政治体制を我が国に樹立すること[2]
本部 日本の旗 日本 山梨県上九一色村東京都港区南青山
位置 東京都江東区亀戸
メンバー

出家者1700人、在家信者を含めた総信者数は1万人(1995年当時の日本国内における数)

また、1995年当時ロシアには約35,000人の信者がいたという。
公用語 日本語サンスクリット
設立者 麻原彰晃
関連組織 真理党
ウェブサイト
新興宗教の団体、テロリスト[2]
青山総本部(東京南青山、1994年、2015年4月解体)

オウム真理教(おうむしんりきょう)は、かつて存在した麻原彰晃を開祖とする日本仏教系(原始仏教チベット仏教)の(新興)宗教団体。一般市民に向けて世界で初めてサリンという化学兵器を利用して大量殺戮を行ったことで世界を震撼させたテロリズム行為を行った組織である。「オウム(AUM)」とは、サンスクリット語またはパーリ語の呪文「」のことで「ア・ウ・ム」の3文字に分解できる。これは宇宙の創造・維持・破壊を表しており、その意味は「すべては無常である」である、すなわちすべては変化するものであるということを表している。また麻原自身の解説によれば「真理」の意味は、釈迦イエス・キリストが人間が実践しなければならないものはこうであるという教えを説いたものであるが、その教えの根本であるものを「真理」と呼ぶ。また真理と密接に関係のあるものが科学であるという[3]

1996年平成8年)1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴い消滅した。同時に、新たな宗教団体アレフが設立され、教義信者の一部が引き継がれた。アレフは後にAlephと改称され、また別の宗教団体ひかりの輪が分派した。

松本サリン事件地下鉄サリン事件などのテロを含む多くの反社会的活動(「オウム真理教事件」)を行った[4]。自動小銃や化学兵器麻薬類の量産を行っていたとされる[2]

マスメディアによりオウム真理教出家者が理系の高学歴者ばかりで構成されていたかのようなイメージで報道されたが、多くの宗教団体にありがちなことだが、実際は社会で普通に生きてゆくことに疑問を感じたり社会に居場所をなくした人たちや、DV被害者、被虐待児、精神疾患発達障害パーソナリティ障害を持つものなども多く、こうした社会的弱者の受け皿にもなっていた[5]

沿革[編集]

前史[編集]

1984年(昭和59年)、麻原彰晃(本名・松本智津夫)は後に「オウム真理教」となるヨーガ教室「オウムの会」(その後「オウム神仙の会」と改称)を始めた。この頃、オカルト系雑誌の『月刊ムー』が、このオウムの会を「日本のヨガ団体」として取材、写真付きの記事を掲載していた[6]。この写真は坐禅を組んだまま跳躍するもので、後に同教団が言う所の「ダルドリー・シッディ(空中浮揚の原型)」とされる[要出典]。当時は松本家一家は千葉県船橋市に住み、貧しく家族全員で1つの寝室を共有していた。食事は野菜中心で肉の代りにグルテンを肉状にしたものを食べたり、卓袱台の上にホットプレートを置き、「野菜バーベキュー」を楽しんでいた。この船橋の家には「瞑想室」があり、宗教画が掛けられ棚には仏像が置かれていた。麻原は日に1度は瞑想室にこもり修行をしていた。棚の前には卓袱台があり、麻原はそれを祭壇と呼んでいた。「形は重要じゃない。心が重要なんだ。私にとっては」というのが麻原の口癖だった。後に教団が大きくなってからも、麻原はそれを祭壇として使っていた。当時、麻原はヨーガ教室を東京都渋谷区で開いていたため、家にいることが少なかった。たまに帰宅すると強度の弱視のためテレビにくっつくように野球中継を見ていた。1986年ころには世田谷区の道場に住み込むようになりほとんど家に帰らなくなる。たまに麻原が帰宅すると3人の娘たちが大喜びで玄関まで走って行き、姉妹で父を奪い合うような普通の家庭であった。次女は父の帰宅を「太陽のない世界に、太陽が来た」などと表現していた。しかし、妻の松本知子は麻原が滅多に帰宅しないことから精神不安定であり、麻原に向かってなじるようないさかいがあったが、麻原はほとんど抵抗をしなかった。3女松本麗華の目には、知子が麻原の宗教を信じているようには見えなかったが、麻原の著書の代筆を深夜まで行っていた。後の麻原の著書のいくつかは、知子が書いたものであった。麻原は子供に向かって「に刺されると痒くていやだね。でも蚊も生きているんだよ」とか「お釈迦様によれば、私たちは死後生まれ変わり、もしかしたら蚊に生まれ変わるかもしれない」などと話していたが、一方妻の知子は蚊を平気で殺していた。また、当時麻原は家族とともに発展途上国を中心によく旅行をしたが、子供に向かっては「世界には食べ物を食べられない子も、屋根のあるところに住めない子もいるんだ。食べ物を粗末にするのはやめようね」などと諭したりしていた[5]

妻の松本知子は、3女の松本麗華によれば、1982年に麻原が薬事法違反で逮捕されたことや、宗教にのめり込み家に戻らなくなったことなどが原因で、許容量をはるかに超える精神的葛藤のために、精神の異常が現れ始め、神経症に罹ったと告白(自著『転換人生』に書いている)。その後、対人恐怖症外出恐怖症を発症、強迫神経症もひどくなる。このため、家庭でも精神不安定が目立ち、外で愛想のよい笑顔を浮かべた日に限って家庭では些細なことで怒りを爆発させていた。夫婦喧嘩の末に家出をすることもあり、「もう勝手にして!こんな家、出て行くわ」と叫びながらも実際に家を出るまで怒鳴りながら部屋と玄関の間を何往復もしていた。しかし、3姉妹の中で知子についていくものはなく、3女の麗華が気の毒になり何度か家出について行った。夕食の時間に戻らなかった時には麻原は、インスタントラーメンを作ろうとし湯を煮詰めて鍋を焦がしたことがあり、それ以降は長女にラーメン作りを依頼するようになる[5]

オウム真理教の誕生[編集]

1987年(昭和62年)、東京都渋谷区において、従前の「オウム神仙の会」を改称し、宗教団体「オウム真理教」が設立された。「真理教」は「天理教」にちなんだもので、命名には京都の私立探偵目川重治が関わっているという。[注釈 1]。また、同年11月にはニューヨーク支部も設立。1989年(平成元年)8月25日に東京都に宗教法人として認証された(1993年以降の登記上の主たる事務所は東京都江東区亀戸の新東京総本部)。麻原は解脱して超能力を身に付けたといい、神秘体験に憧れる若者を中心に組織を急速に膨張させていく。さらに麻原は自らをヒンドゥー教の最高神の一柱である破壊神シヴァ神あるいはチベット密教の怒りの神「マハーカーラ」などの化身だとも説き、人を力づくでも救済するこの神の名を利用し目的のためには手段を選ばず暴力をも肯定する教義へと傾斜していく。

ダライ・ラマを利用した宣伝[編集]

麻原はチベット亡命政府の日本代表であったペマ・ギャルポと接触し、その助力によって、1987年(昭和62年)2月24日ならびに1988年(昭和63年)7月6日にダライ・ラマ14世インドで会談した。麻原側は両者の会談の模様をビデオならびに写真撮影し、会談でダライ・ラマ14世が「君が本当の宗教を広めなさい。君ならそれができる。あなたはボーディ・チッタ[注釈 2]を持っているのだから」と麻原に告げたと称してオウム真理教の広報・宣伝活動に大いに活用した[10]。。ペマ・ギャルポはその後まもなく自身を介さずにチベット亡命政府との関係を深めるオウム真理教と積極的に対立するようになり、チベット亡命政府に対しても今後は麻原と関係を持たないように進言し、チベット亡命政府日本代表の地位を解任された。1995年4月5日来日したダライ・ラマ14世は記者会見で「(麻原と)会ったことはあるが、私の弟子ではない。彼は宗教より組織作りに強い興味を持っているという印象が残っている。私に会いに来る人には誰でも友人として接している。しかし、オウム真理教の教えを承認してはいない。私は超能力や奇跡には懐疑的だ。仏教は、一人の指導者に信者が依存し過ぎるべきではないし、不健全だ」と語った[10]。この話はオウム真理教が江川紹子と出版社を相手取り損害賠償請求訴訟を行なった際の争点の一つとなったが、判決は「名誉毀損に当たらない」としてオウム真理教の請求を棄却した[10]

ダライ・ラマと同様オウム真理教は教団の権威づけにチベットの高僧たちの名前を使ったが、マスコミの取材に対して軒並み深い関係を否定している[10]

江川紹子は「多額の寄付をしてもらえば、普通お礼はするし、多少のリップサービスをすることもある。麻原教祖はそうした相手の反応を利用し、(中略)オウムの権威や信用を高めようとしたのではないか」と推測している[10]

麻原の健康不安と死への願望[編集]

1988年10月頃、富士宮市人穴に総本部道場建設[11]。この頃より麻原は体調を崩すことが多くなり、健康面に不安を感じ始め「自分が死んだら、教団をどうするのか」あるいは「私は長くてあと5年だ」「死にたい」などと洩らすようになる。肝硬変肝臓がんだと大騒ぎになったりもする。高弟の前でも「もう死のうかな」と呟き、新実智光は「お供します」、早川紀代秀は「困ります」、上祐史浩は「残って救済活動をします」と答え、妻の松本知子は「勝手にすれば」と言ったという[5]。3女松本麗華は、この頃から麻原のへの願望は強まったと考えている。解脱者が多くなりオウム真理教が世界宗教へと変貌し救済ができるとの真剣な思いがあったが、弟子の修業が思うように進まず、人間界が救われないという否定的な認識が麻原彰晃に芽生えたと見ている[5]

教団内での麻原の絶対性[編集]

信者時代「大師」の肩書きを持っていた元信者によれば、「オウムでは、肝心なことは常に教祖が決めているんです。教祖が知らないなんていうことはありえない」と言っている[12]

大幹部であろうとも麻原の指示は絶対であり、オウム真理教附属医院の患者の入退院の判断すら麻原の指示を仰がねばできなかったという[12]

海外への進出[編集]

1989年(平成元年)8月、所轄庁の東京都知事より宗教法人としての認可を得た後、日本全国各地に支部や道場を設置。ロシアスリランカなど海外にも支部を置いていた。1989年(平成元年)当時には約1万人程度の信者が存在していたとされる[13]ロシアでは優秀な演奏者を集めキーレーンという専属オーケストラを所有、布教に利用した[14]1991年(平成3年)を「救済元年」とし(教団内でこれを元号の如く用いた)[要出典]マスメディアを中心とした教団活動を活発化させた。麻原が盛んにテレビ・ラジオ番組に露出し、雑誌の取材を受けたり著名人との対談などを行った。このほか講演会開催、ロシアや東南アジア諸国・アフリカ諸国などへの訪問や支援活動、出版物の大量刊行などを行った。図書館への寄贈・納本も行っており、麻原の著書を初めとするオウム真理教の出版物は現在も国会図書館等に架蔵されている。特に若い入信者の獲得を企図し、麻原が若者向け雑誌に登場したり、1980年代後半から行っていた大学の学園祭での講演会を更に頻繁に開催するなどした(東京大学京都大学千葉大学横浜国立大学等)。1992年(平成4年)にはサリン事件後広範に知られるようになるパソコン製造などを行う会社「マハーポーシャ」を設立し、格安パソコンの製造販売を行うようになった。

妄想・幻聴の出現[編集]

この頃より、麻原の妄想幻聴が現れ始める。「シヴァ大神の示唆では仕方ないな」とつぶやき、「内なる声」が自らの進みたい道とは違うことに苦しみ始め「いっそ死んでしまいたい」と言ったのを3女麗華が聞いている。麗華は麻原を統合失調症などの精神疾患に罹患していたのではないかと推測している[5]

1993年(平成5年)以降は麻原が自ら進んでメディアに登場することはなくなり、国家転覆を狙った凶悪犯罪の計画・実行に傾斜してゆく。この頃には、アメリカから毒ガス攻撃を受けていると主張するようになり、車には空気清浄機を付け、ホテルでは大真面目に隙間に目張りをしていた。ヘリコプターが通過する際には、毒ガスだと言って車に駆け込み退避するよう命じる有り様だった[5]

非合法活動への道程[編集]

住民によるオウム真理教追放運動。各地で住民との摩擦が表面化し時にはヒステリックなまでにエスカレートした。

1988年(昭和63年)には在家信者死亡事件、1989年(平成元年)には男性信者殺害事件坂本堤弁護士一家殺害事件など、凶悪事件を起こすが、坂本弁護士については任意の失踪の可能性があるとされるなど、この頃はまだ事件性すら確定されておらず、オウム真理教への容疑は及んでいなかった。

1990年(平成2年)には真理党を結成して第39回衆議院議員総選挙へ麻原と信者24人[注釈 3]が集団立候補(全員落選)して信者が麻原のお面やガネーシャの帽子をかぶり、尊師マーチなど教祖の歌を歌うといった派手なパフォーマンスなど奇抜な活動が注目を浴び、修行の様子なども雑誌やテレビ報道され、徐々に知名度が上がっていく。この時には公職選挙法で定められた時間帯を大きく超える16時間/日に及ぶ街頭宣伝運動を繰り広げ、麻原彰晃の写真入りビラやパンフレット、雑誌を選挙区中に撒き、麻原そっくりのお面を大量に作って運動員に被らせた[15]。これは違法で警視庁から警告を受けたが、運動にかり出された元信者は「もしも誰かから注意されたりしたら、『これは布教活動です』と言って逃れるように」と指示を受けていた[15]。また他の候補者のポスターを剥がす、汚損するなどを麻原自身が勧め、深夜に信者を使って他の候補者を中傷するビラを配布させた[15][16]。結果はこの選挙で最も得票の多かった麻原でさえ1,783票[16]であり、惨敗を受け麻原は「票に操作がなされた」と発言し、「国家権力により弾圧を受けている。これからは武力で行く」と説いていた。このことからもこの選挙がオウム真理教の被害者意識をより一層高め、非合法活動を更にエスカレートさせたといわれている。1990年(平成2年)5月、日本シャンバラ化計画を実行すべく熊本県阿蘇郡波野村(現在の阿蘇市)に進出するが、地元住民の激しい反対運動に会う。また、そのことに関連して国土利用計画法違反事件強制捜査を受けた。結局波野村はオウムが5000万円[17]で手に入れた土地を和解金という形式で9億2000万円[18]で買い戻すことで合意、オウムの大きな資金源となった。これがきっかけとなり、ほぼ同じ時期に全国の各オウムの施設付近で、追放運動が巻き起こった。[要出典]なお、村の反対運動の背景には、村長派と反村長派との対立があったともされる。また教団広報部長だった上祐史浩右翼団体なども扇動され激しい攻防があったと主張している[19]

選挙での惨敗後に脱会者が続出したため、1990年4月に「オースチン彗星が接近しているために、日本は沈没するが、オウムに来れば大丈夫」と宣伝し、在家信者だけでなく家族まで参加させ行き先も伝えないまま石垣島に連れて行った[12][20]。参加者によると参加費は30万円であったが、会場はきちんと予約されておらず、天候が悪かったこともあり、「現在の東欧動乱は、1986年のハレー彗星の影響であり、今年のオースチン彗星の接近によって何かが起こる」とただそれだけの話があっただけで行事は予定を繰り上げてお開きになった[12]。これはその後「ハルマゲドンが起こる、オウムにいないと助からない」と危機感を煽って信者や出家者をかき集める方法の原点になった[12]

1994年(平成6年)と1995年(平成7年)には特に多くの凶悪事件を起こす。そのうちいくつかの事件では当初より容疑団体と目され、警察当局の監視が強化された。しかし、松本サリン事件では第一通報者が疑われ厳しい追及が行われるなど、後に捜査の杜撰さが指摘された。またマスコミによる報道被害も問題になった。この頃よりオウムでは布施の強化が図られ、いったんは脱会した信者に対しても接触が強まり、ハルマゲドン思想などを説くようになる。LSDを使ったイニシエーションが在家信者に対しても盛んに行われた。費用は100万円であったが、工面できない信者には大幅に割引され、5万円で受けた信者もいる[21]。LSDによるイニシエーションは出家信者のすべてが受けさせられた。当時の信者数は、出家者1300人、在家信者を含めた総信者数は1万人ほどであった。LSDによるイニシエーションは麻原自身も試している。[要出典]サティアンには独房が造られ、教団に対し疑問を持つ信者に対しては独房に閉じ込め、一日中、麻原の説法テープを聞かせ、暴れたり精神状態がおかしくなるものも続出。出家したばかりの信者が、教団の実際の様子がイメージしたものとは違うことに驚き実家へ帰ろうとしたところ、体力のある信者数人がかりで押さえ込み独房に入れるというような行為も日常茶飯となってきた。[要出典]「信徒用決意」という書類が作られ、そこには信者が行うべき行動指針が記されたが、財産を教団に収める布施が強調されるようになった。麻原は、ここで「泣こうがわめこうがすべてを奪いつくすしかない」「身包み剥ぎ取って偉大なる功徳を積ませるぞ」「丸裸にして魂の飛躍を手助けするぞ」などと激しい言葉で強引に金を集めるよう命じた。これらが信者の監禁・誘拐事件へと発展した。

林郁夫によって開発された儀式「ナルコ」は、チオペンタールという麻酔薬を使い、意識が朦朧としたところで麻原に対する忠誠心を聞き出すもので、麻原はしばしば挙動のおかしい信者を見つけると林にナルコの実施を命じた。また、麻原は林に、信者達の行動を監視するよう命じ、信者が自分の仕事の内容を他の信者へ話すことすら禁じていた。[要出典]社会との軋轢が増すにつれ、教団内部に警察などのスパイが潜んでいるとしきりに説いた。教団内の自治省では、信者同士が互いに監視しあい、密告するよう求めた。林郁夫は信者に「ニューナルコ」と呼ばれる薬物を併用した電気ショック療法を使い始め、拉致してきた女性信者にチオペンタールを使い「あなたはどうしてここにいるのか」と聞くと「拉致されてきた」と答えたため、林の開発した電気ショック機器で100Vの電気ショックを与えている。この際には3度目の電気ショックで効果が確認され、女性信者は「分からない」と答えた。その後、救出された信者の中には電気ショックを与えられた者が他にもおり、字が書けなくなったり記憶がなくなっている信者が見つかっている。

3女松本麗華によれば、1994年6月に麻原の体調が悪化し、教団運営ができなくなる恐れが出たために、省庁制が敷かれたという。各部門の責任者や大臣が大きな権限を持つようになった。麗華自身、11歳にして法皇官房長官に任命される。任命時に麻原は麗華に「お前はもう11歳だから大人だ」と言ったが麗華がふてくされていると「法皇官房は、私のことを一番に考える部署なんだ。お前は長官だから、私の世話をしっかり頼む」と言った。またこの年から麻原は急速に子供らに対し頻繁にスキンシップを繰り返すようになる。時には3女にキスをしたり、抱きしめたりすることもあり、遊園地や食事に連れていく機会も増えたという[5]

1995年(平成7年)、警視庁は全国教団施設の一斉捜査を決めた。しかし、事前に捜査の情報を入手した麻原は、自身の「ハルマゲドン」の予言を成就させるため首都東京で大事件を起こすことを計画、3月20日に地下鉄サリン事件を実行した。なお、死刑囚の井上嘉浩によると、通説である、「強制捜査の攪乱」というのは、リムジン謀議では「強制捜査を防ぐことはできない」と言う結論にまとまり、麻原が「瞑想して考える」と言ったということである。上九一色村で事件2日後の3月22日には、山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)の教団本部施設への一斉捜索が行なわれ、サリン等の化学兵器製造設備、細菌兵器設備、散布のためのヘリコプター等が見つかり、オウム真理教の特異な実態が明らかになった。以降、同事件や以前の事件への容疑で教団の幹部クラスの信者が続々と逮捕され、1995年(平成7年)5月16日には、教団代表であった松本智津夫(麻原彰晃)が上九一色村の教団施設で逮捕された[22]

捜索妨害[編集]

強制捜査の際、どこの現場でも「捜索令状をじっくり読む」「立会人を多数要求する」「警察官の動きをビデオや写真に撮る」という光景が見られた[23]。また報道陣に対してもしつこくカメラを向け、突然の捜索に驚き慌てる様子は全くなく、事前に準備され訓練された行動のようであった[23]。実際に弁護士で信者の青山吉伸から「絶対に警察の手に渡ってはいけない違法なものに限り持ち出し、露骨な持ち出しをしないように」「令状呈示のメモ及び録音で時間を稼ぎ、私服警察官に対しては警察手帳の呈示を求める」「水際で相手を嫌にさせて、捜索意欲をなくさせる」「排除等の暴行に及んで来たらビデオで記録化する」「施設の電源を落とす」「内鍵をして立て篭る」「勝手に触ると修法が台なしになると主張する、ほとんどのものを修法されているとする」という通達と、警察との想定問答が極秘に出されていた[23]。もちろんこれは刑法104条の証拠隠滅罪に該当する[23]

教団の崩壊[編集]

東京地検は松本智津夫を17件の容疑で起訴したが、裁判の迅速化を図るためその内LSDメスカリン覚醒剤・麻酔薬等薬物密造に関わる4件に付いては2000年(平成12年)10月5日起訴を取り下げている。

教団は村岡達子を代表代行として活動を継続していたが、1995年(平成7年)10月30日東京地裁により解散命令を受け[24]、同年12月19日の東京高裁において、即時抗告[25]、翌1996年(平成8年)1月30日の最高裁において特別抗告がともに棄却され[26]、宗教法人法上の解散が確定した。

1996年(平成8年)3月28日、東京地裁が破産法に基き教団に破産宣告を下し[27][28]、同年5月に確定する。1996年(平成8年)7月11日公共の利益を害する組織犯罪を行った危険団体として破壊活動防止法の適用を求める処分請求が公安調査庁より行われたが、同法及びその適用は憲法違反であるとする憲法学者の主張があり、また団体の活動の低下や違法な資金源の減少が確認されたこと等もあって、処分請求は1997年(平成9年)1月31日公安審査委員会により棄却されている。

破防法処分請求棄却後も教団は活動を継続し、「私たちまだオウムやってます」と挑発的な布教活動や、パソコン販売による資金調達などを行った[29]。一方、一連の事件については「教団がやった証拠がない」とし、反省や謝罪をせず、被害者に対する損害賠償にも応じなかった。

この教団の姿勢は社会の強い反発を招き、長野県北佐久郡北御牧村(現・東御市)の住民運動をきっかけに、オウム反対運動が全国的に盛り上がりを見せ、国会でもオウム対策法として無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(いわゆる「オウム新法」)を制定するに至った。

一連の事件に関与した教団幹部に対し、刑事裁判では13人の死刑判決、5人の無期懲役判決が出されている。

教団は著名人との交流があったが、事件後は一変して多くの人物がオウム批判に転じている。雑誌で好意的な対談を行った[30]栗本慎一郎は事件後初めてオウム分析を週刊誌上で行い、オウムと北朝鮮、および世界基督教統一神霊協会との関係を指摘した[31]ビートたけしはテレビ番組で麻原と対談し[32]、その後雑誌で再び麻原と対談[33]などしていたが、事件後は否定的な見解を取っている。

作家で宗教学者の島田裕巳はオウム真理教に宗教学の立場から取り組み、好意的な発言をしていた[34]が、地下鉄サリン事件が同教団の組織的犯行であることが発覚するとメディアから批判を受け、地下鉄サリン事件へのオウムの関与を否定するコメント[35]を出したことで江川紹子有田芳生浅見定雄らから批判を受けた[36][37]。のちにオウムを批判する立場からの著作を出している[38]。同じく作家で宗教学者の中沢新一もオウムに好意的な発言をし[39]、地下鉄サリン事件後はメディアから批判を受け、地下鉄サリン事件についてのコメントも批判を浴びた[40]。島田[41]苫米地英人[42]などが中沢を批判する著作を発表している。

麻原の著書『生死を超える』の書評を書き、麻原を修行者として高く評価していた思想家の吉本隆明は、一般市民として大衆の原像を繰り込んでいこうとする立場から「オウムの犯罪を根底的に否定する」としながらも、なお「オウム真理教はそんなに否定すべき殺人集団ではない」「麻原は現存する世界有数の宗教家」などと述べた[43]

教団の分裂[編集]

2000年(平成12年)2月4日、教団は破産管財人からオウム真理教の名称の使用を禁止されたため、前年に出所した上祐史浩を代表として「オウム真理教」を母体とした宗教団体「アレフ」へと名称変更した。同年7月、「アレフ」は破産管財人の提案により、被害者への賠償に関する契約を締結したが、その支払いは遅々として進んでいない。[44]。2003年(平成15年)には「アーレフ」、2008年(平成20年)にはさらに「Aleph」(アレフ)と改称した。

2007年(平成19年)5月には上祐派の信者たちが脱会、新宗教団体「ひかりの輪」を結成した。この団体は松本智津夫の教えからの脱却を志向していると主張しているが、公安調査庁『内外情勢の回顧と展望』2010年1月版でもその活動が麻原の修行に依拠していることが報告されている[45]

2010年(平成22年)3月に公安調査庁は、サリン事件当時の記憶が薄い青年層の勧誘をしていることなどについて、警戒を強めている旨を発表した[46]

教義[編集]

教義の概要[編集]

オウム真理教の教義は、原始ヨーガ、原始仏教を根本とし、パーリ仏典を土台に、チベット密教インド・ヨーガの技法を取り入れている。そして、「宗教は一つの道」として、全ての宗教はヨーガ・仏教宇宙観の一部に含まれる、と説く。その結果、例えばキリスト教創造主としての梵天(オウム真理教では“神聖天”と訳す)のことである、等と説かれる。 従って、オウム真理教に於いては儒教道教・キリスト教・ゾロアスター教等ありとあらゆる宗教・神秘思想を包含する「真理」を追求するという方針がとられた。結果として、キリスト教の終末論も、仏教的な「創造・維持・破壊」の繰り返しの中の一つの時代の破滅に過ぎない、として取り込まれた。 具体的な修行法としては、出家修行者向けには上座部仏教の七科三十七道品、在家修行者向けには大乗仏教六波羅蜜、またヨーガや密教その他の技法が用いられた。

教義の柱[編集]

オウム真理教の「五つの柱」として、以下の点が挙げられており、「実践宗教」であることが強調されている。

  1. 最終地点まで導くグル(霊的指導者)の存在
  2. 無常に基づく正しい教義
  3. その教義を実体験できる修行法
  4. その教義を実際に実践して修行を進めている先達の修行者の存在
  5. 修行を進めるためのイニシエーションの存在

無常[編集]

オウム真理教では、修行による苦悩からの解放を説き、無常である欲望煩悩から物理的に超越することを「解脱」、精神的に超越することを「悟り」と呼ぶ。
人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という、仏教の無常観に即した麻原の言葉に象徴されるとおり、この世の中のすべての現象は無常である。よって今感じている喜びはいつか終わりが訪れた時にその喜びが失われることで苦しみを必ず生じさせる。また今は何も無くともいつか自分にとって嫌な現象が訪れた際にも同様に必ず苦しみが生じる。何かを欲求して得られなかった場合も同様に苦しみが生じる。したがって無常である煩悩的な喜びにとらわれることは必ず苦しみを生み出す。
逆に、自己の煩悩を超越し、無常を越えた状態が、ニルヴァーナ(涅槃、煩悩破壊)である。また、そこに留まることなく、更に全ての魂を苦悩から解放し絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の状態に導くことによって自身も絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜のマハーニルヴァーナ(大完全煩悩破壊)、あるいはマハーボーディニルヴァーナ(大到達真智完全煩悩破壊)へと至る。

シヴァ[編集]

オウム真理教の主宰神は、シヴァである。オウム真理教に於けるシヴァは「最高の意識」を意味し、マハーニルヴァーナに住まう解脱者の魂の集合体であり、またマハーニルヴァーナそのものと同義としても扱われる。当時の教団内で麻原彰晃はこのシヴァの弟子であるとともにシヴァの変化身とも称されていた。ヒンドゥー教(インド神話)にも同名のシヴァ神があるが、これはシヴァ大神の化身の一つに過ぎないとされる。

麻原の前世[編集]

麻原は自らの出版物を通して、多くの前世を持つと以下のものを称していた。中でも意識堕落天の宗教上のは直前の生であったため、その世界で麻原に帰依していた人たちが多く転生し、現在の信者になっていると教団内では信じられていた。また、道場では「宿命通」というアニメビデオを放映し、麻原のエジプトでの前世の物語を展開していた。ジェゼル王の時代に彼は宰相のイムホテップとして王に宗教的指導を施し、最古のピラミッドである「ジェゼル王の階段のピラミッド」を造ったとしている[47]
1995年当時のオウム真理教横浜支部道場
その他[48]

事件と関連するとされる教義[編集]

ヴァジラヤーナ[編集]

オウム真理教では修行の内容を3種類または4種類に分けて説く。小乗(ヒナヤーナ)、大乗(マハーヤーナ)、真言秘密金剛乗(タントラ・ヴァジラヤーナ)で、厳密に説かれるときはタントラヤーナとヴァジラヤーナを分ける。ここでは4つの修行体系に分けて述べる。

以下に教団における定義を示す。密教は顕教が大乗を説くのに対して金剛乗を説くことが多いが、通常の仏教語の定義とは異なる。オウム真理教のような種類に分けて説く密教宗派は高野山真言宗ぐらいである。

ヒナヤーナ(小乗)
ヒナヤーナとは、外界とは離れて、自己の浄化・完成を目指す道である。ヒナヤーナはすべての土台である。
マハーヤーナ(大乗)
マハーヤーナとは、自己だけでなく他の多くの人たちをも高い世界に至らしめる道(衆生済度、救済)である。教団全体はマハーヤーナと規定される。ただし、完全なる自己の浄化(ヒナヤーナの完成)がなければ、真の意味でのマハーヤーナは成立しないともいう。オウム出版発行の機関紙の名前にも使われている。『マハーヤーナ(MAHA-YANA)』参照。
タントラヤーナ(秘密真言乗)
タントラヤーナとは、マントラを唱える等の密教的な修行を指す。ただし、左道タントラなど、現代日本では非倫理的・非道徳的とされる部分については、教団の公式見解において否定されていた。
ヴァジラヤーナ(金剛乗)
ヴァジラヤーナとは、グルと弟子との1対1の関係においてのみ成り立つ道である。グルが弟子に内在する煩悩を突きつけ、それを理解できる状況を作り出し、その煩悩を越えさせるマハームドラーなどの激しい方法が含まれる。
ヴァジラヤーナの教義の中には、「五仏の法則」と呼ばれるものがあり、「天界の法則であって人間界においてはなし得ない」という注釈のもとで説かれたことがあった。これは「一般的な戒律に反する行為・言動」が、完全に煩悩なく、完全に心において利他心のみであるときには認められるとするもの。真言宗金剛頂経などにも見られる教えである。
具体的には、悪業を積み続ける魂を救済するために殺害すること、貪り多き魂を救済するためにその財産を奪うこと、嘘を使って真理に導き入れることなどが、天界の菩薩の修行として説かれている、という解説であった。
このヴァジラヤーナの教義は殺人を正当化するものと解釈されたが、警視庁は教団は現在も、この教義を根幹に据えていると見ている[13]

ポア[編集]

ポア(ポワ)とは、ヨーガの用語で「意識を高い世界へと移し替えること」と定義されていた。これは実際のとは関わりなく意識の中の煩悩的要素を弱めて意識を高次元の状態に移し替えることと解釈されていた。このポアの中で最も重要なものは死の直後、中間状態にある意識の移し替えで、これは次の生における転生先を決定することになる。
したがって、死の際の意識の移し替えが狭義の「ポア」となる。これが転じて、「積極的に(実際に)死をもたらし、より高位の世界へ意識を移し替え転生させる」という特殊な技法も「ポア」と呼ばれることがあり、これが「『ポア』なる言葉の下に殺戮を正当化する」と検察側が主張する根拠となっている(※これは、一連の犯行の際に、教団幹部らが教団内部で実際に使用した事例などに基づく解釈である)。

今日的な影響[編集]

オウム真理教の教義は、元となっている宗教教義を誤って解釈したもの、意味を取り違えたもの、都合主義的な拡大解釈などが少なくない。しかし、密教を中心に原始仏教からキリスト教まで幅広い宗教から摂取して、オウム独自の体系化が図られたため、仏教学者キリスト教神学者を含む宗教学者宗教家が、事件から二十年を経た今でも論評・批判することは稀である。このため麻原の説教録音テープや録画映像が、今だに布教に用いられてアーレフの信者などに信奉されており、マスコミも折りにつけてそれを問題視した報道を行っている。

修行法[編集]

パーフェクト・サーベイション・イニシエーション(PSI)
ヘッドギアの内側に電流を通す粘着性の物質が塗布され、数Vの電流がそこからを刺激し、麻原の脳波を直接伝えるというもの。LSDと同時に使用されることもあった[21]。これは教団に20億円もの利益をもたらしたという[15]
交叉信号によるイニシエーション(仮称)
黒いメガネをかけ、左目で赤い光、右目で緑ないしは青い光を別々に点滅させるのを見る。さらにその状態のまま液体の入った厚いクッションの上であぐらを組む。クッションはバイブレーションが施され小刻みに激しい振動を繰り返す。LSDを投与され幻覚を見る。自分の体をコックピットに座り操縦しているような感覚に捉えられ、意識だけが肉体の外に放り出され、自身の肉体を高台から見下ろすような「体外離脱」や「臨死体験」のような感覚を体感する。その瞬間には超能力を得た感覚を味わうがそれもつかの間で、さらにその後、意識が何者かによって引きずられるように人間界ではないような全く別世界へ放り込まれ、激しい恐怖感を味わう。気絶する信者も多い[21]

宗教活動[編集]

オウムの修行の最終的な目標は、現実世界を越えた真実に到達することで、サマナと呼ばれる出家修行者らはその目標に到達するために、激しい修行を行った。現実世界を超えるためには、この世界の価値観を超越し観念を壊す必要がある。社会の価値観に重きを置かない点で、最初からオウムは「狂気」の思想を内包していた。当初はこの狂気の割合が低く社会性も帯びていたものが、バッシングなどや終末思想などにより次第に崩壊をはじめ、社会性が薄れていった[5]

教団の信者は在家信徒と出家修行者(サマナ)に分けられる。 在家信者は通常の生活を行ないながら、支部道場に赴いて修行したり説法会に参加する。また、休暇期には集中セミナー等も開かれる。

修行の達成度、精神性の度合いを示すものとして「ステージ」制度があり、時期にもよるが、1995年(平成7年)時点の出家者には、サマナ見習い、サマナ、サマナ長、師補、師(小師、愛師・菩師、愛師長補・菩師長補、愛師長・菩師長)、正悟師(正悟師、正悟師長補、正悟師長)、正大師の各ステージが存在した。師は「クンダリニー・ヨーガ」の成就者、正悟師は「マハームドラー」の成就者で仏教の阿羅漢相当、正大師は「大乗のヨーガ」の成就者と規定され、これらのステージに従って教団内での地位、役職等が定められた。

オウム真理教幹部には難関大学の卒業者が多く、弁護士資格を持つ青山吉伸公認会計士資格を持つ柴田俊郎、医師免許を持つ林郁夫中川智正、芦田りら、佐々木正光、平田雅之、森昭文、小沢智、片平建一郎など社会的評価の高い国家資格を持つ者も多くいた。一方で幹部に元暴力団組長がいたり、信者に現役自衛隊員や現職警察官が存在していた。

国内での活動[編集]

1989年(平成元年)3月、東京都に対し宗教法人の認証を申請。6月、東京都は受理を保留したため、オウム真理教は鈴木俊一東京都知事を相手取り、行政の不作為の違法確認訴訟を東京地方裁判所に提起した。8月、東京都が宗教法人として認証。さらに、真理党(しんりとう)を結成し1990年(平成2年)の第39回衆議院議員総選挙に教祖・麻原彰晃(松本智津夫)を党首とし、教団幹部ら25名を擁立。確認団体となったが、全員落選した。

宗教法人規則認証申請書の記載内容[編集]

設立
1989年8月29日
主たる事務所の位置
東京都江東区亀戸
目的
主神をシヴァ神として崇拝し、創始者の松本智津夫(別名麻原彰晃)はじめ、真にシヴァ神の意思を理解し実行する者の指導のもとに、古代ヨガ、原始仏教、大乗仏教を背景とした教義をひろめ、儀式行事をおこない、信徒を教化育成し、すべての生き物を輪廻の苦しみから救済することを最終目標とし、その目的を達成するために必要な業務を行う。
規則
  • 代表役員は、9人の責任役員の互選により選任され、オウム真理教を代表し、その事務を総理する権限を有する。
  • 責任役員は、信徒および大師のうちから、総代会の決議をへて、代表役員が選任する。
  • 総代会を組織する総代は、信徒および大師のうちから、責任役員会の議決を得て、代表役員が選任する。
  • 信徒とは、オウム真理教の教義を信奉する者で、代表役員の承認を受けたもの。
  • 大師とは、オウム真理教の教義を信奉する者で、信徒を正しく指導できると、代表役員が認めたもの。
役員等
  • 代表役員:松本智津夫(麻原彰晃)
  • 責任役員:松本知子、石井久子、大内早苗、上祐史浩、都澤和子、飯田エリ子、新実智光、大内利裕
  • 監事:満生均史、別所妙子

国外での活動[編集]

1991年(平成3年)には、麻原彰晃がロシアを初訪問した。当時のモスクワ放送もこの模様を伝え、クレムリン宮殿で宗教劇の上演が行われたことやアナトリー・ルキヤノフ最高会議議長と会談したことを報じた。モスクワにおいて麻原は、当時ロシア副大統領だったアレクサンドル・ウラージミロヴィッチ・ルツコイヴィクトル・チェルノムイルジンユーリ・ルシコフ等ロシア政界の上層部と接触。翌年には後に安全保障会議書記となるオレグ・ロボフが来日し麻原から資金援助の申し出を受けるなど、オウムのロシア進出に拍車がかかった。

モスクワ放送(現・ロシアの声)の時間枠を買い取って「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」(御国の福音)というラジオ番組が1992年4月1日から1995年3月23日まで放送された。またロシアで「キーレーン」というオーケストラを組織。日本からロシアの施設での射撃訓練ツアーがオウム関連の旅行会社によって主催されたり、他にもロシアからヘリコプターなどが輸入されている。またロシアに数ヶ所の支部を開設。ソ連崩壊後に精神的支柱が揺らいでいた当時、ロシアの多くの若者がオウム真理教に惹きつけられた。

事業[編集]

オウム真理教は、宗教活動のかたわら、多彩な事業を行っていた。業種は、コンピューター事業、建設不動産出版印刷、食品、家庭教師派遣土木作業員などの人材派遣など多岐におよび、さながら総合商社の観を呈していた。数多くの法人を設立し、ワークと称して信者をほぼ無償で働かせていたため、利益率は高く、特に中心となっていたのはパソコンショップ『マハーポーシャ』の売り上げで、公安調査庁によると年間70億円以上の売り上げ(1999年当時)があり、純利益は20億円に迫る勢いであった。出家信者200人がそこで働いていた。[49]

関連年譜[編集]

一連の事件における被害者数は、死者30人・重軽傷者6000人以上。日本史上最悪の組織的犯罪である。

  • 1984年
2月[16]14日 - 麻原彰晃こと松本智津夫により「オウムの会」が東京都渋谷区で創設される。当初はヨガのサークルであった。
5月28日 - 株式会社オウム設立。
  • 1985年
秋 - オカルト雑誌「ムー」「トワイライトゾーン」に麻原の空中浮遊写真が掲載される。
  • 1986年
4月 - 「オウム神仙の会」に改称。
7月 - 麻原がヒマラヤで最終解脱したと主張する。
9月 - 僧伽(出家制度)発足。
  • 1987年
2月 - 大阪支部開設[16]
2月24日 - ダライ・ラマ14世とインドで会談。
8月 - 「オウム真理教」に改称[16]。本部を渋谷区から世田谷区に移し、月刊誌『マハーヤーナ』発行開始[16]
11月 - ニューヨーク支部を開設(初代支部長は上祐史浩)。
  • 1988年
7月6日 - ダライ・ラマ14世とインドで会談
8月 - 静岡県富士宮市富士山総本部を開設[16]
9月22日 - 富士山総本部に来ていた在家信者が修行中に死亡。遺体は、護摩壇で焼かれた上に、旧上九一色村の精進湖へ遺棄された。(在家信者死亡事件)
11月 - 江東区に東京総本部を開設。
  • 1989年
2月10日 - 教団最初の殺人事件、男性信者殺害事件発生。
3月1日 - 東京都に対し宗教法人の認証申請。
6月22日 - 坂本堤らがオウム真理教被害対策弁護団を結成。
8月16日 - 東京都選挙管理委員会に真理党の政治団体設立を届出。
8月[16]25日 - 宗教法人認可。(8月29日設立登記)
10月2日 - サンデー毎日が『オウム真理教の狂気』の連載をスタートし、高額な布施未成年出家者に対する親権者監護権侵害などを取り上げ糾弾する。各メディアもこれに追随する。
10月[20]21日 - オウム真理教被害者の会設立。会長は
10月26日 - 上祐、青山吉伸、早川紀代秀が東京放送(現・TBSテレビ)千代田分室を訪れ、取材内容に抗議、放送を中止するよう圧力をかける。(TBSビデオ問題
10月30日夜 - 教団顧問弁護士だった青山吉伸が10月29日に申し込み、事前の約束では1人の訪問だったが、上祐史浩と早川紀代秀も同行し横浜法律事務所を訪問した[50][51]。話題は
11月3日夜から11月4日の朝 - 坂本堤弁護士が失踪[52][51]、周囲は当初から拉致と見ていた。
11月7日夜 - 坂本堤弁護士に関して捜索願が提出された[52]
11月15日 - 坂本堤弁護士に関し公開捜査に切り替えられた[52]
11月18日夜 - 坂本堤弁護士に関し教団が記者会見し「(現場に落ちていたプルシャについて)坂本弁護士が被害者の会の親から預かったもの[注釈 4]か、第三者[注釈 5]が故意に置いたと考えるのが自然[50]」「警察からは事情聴取も受けていない[52]」「申し入れがあれば捜査に協力する[52]」と発表した。この時、集中修行は11月いっぱいまでという説明をした[52]
11月19日 - 前夜の会見を受けてか日曜日にも関わらず神奈川県警察は教団幹部に事情聴取を申し入れたが、教団側は「修行」を理由に事情聴取を拒否、「捜査本部では責任者の集中修行が終わるのを待ってあらためて事情聴取を求める方針」になってしまった[52]。その一方で麻原はある出版社のインタビューに応じる約束を入れていた[52][注釈 6]
11月21日 - 11月18日の会見で示し11月19日に幹部事情聴取を拒否した理由である集中修行の期間であるにもかかわらず、幹部がKLMでアムステルダムに出国してしまった[52]。しかもこれは11月20日出発の予定がエンジントラブルで1日遅れたものだった[52]。教団側はボンとニューヨークの支部に行く予定が以前から決まっていた旨説明したが、11月21日と11月27日には麻原が出演するコンサートが東京で開かれることになっており[52][50]、11月25日と11月26日には名古屋で説法会を行なう予定が入っていた[50]。ボンへ行く目的も当初は「布教活動」としていたが、現地会見で「政治活動」や「現地のビルの賃貸借契約が切れてしまうのでお金を払わなければならない。本当は11月15日に行かなければならなかった[注釈 7]」と言いだしている。
11月29日 - 富士宮市議会で社会党の渡辺利光市議がオウム真理教について市当局に質問。富士宮総本部には7月に216人が住民登録されていたが、8月に東京都杉並区宮前のある住所[注釈 8]に向けて一斉に転出が始まり、11月1日までに17人に減ってしまったという[52]
11月30日 - 教団はボンで会見[52]。坂本堤弁護士失踪は横浜法律事務所が仕組んだ狂言だと主張[50]、その後もテレビなどで「被害者の会の親が、子供から取り上げたバッジを坂本氏の部屋に置いた」と主張した[50]。同行した報道関係者によると現地ではほとんど支部建物に籠り、布教や政治活動をしている形跡はなかった[50]。一行にはドイツ語を話せるものがおらずボン支部へも道に迷い語学が堪能な記者が見かねて教えたという[50]。一行はニューヨークから帰国後テレビの生番組にフル出演、その後インドに渡り年末に帰国した[51]
  • 1990年
1月7日 - 麻原自身を含む幹部25名が真理党という政治団体を結成し中野文化センターにおいて次期衆議院選挙への集団出馬表明をした[51]。ただし演説したのは麻原だけ、他の24人は本名さえ明かさずホーリーネームでの出馬であった[51]。会場では麻原のお面をかぶった運動員が踊り、「ショーコーショーコー」と麻原の名前を連呼する歌を流し、集まった300人以上の信者が手拍子するという状態で、江川紹子は「選挙運動といっても、その実質は教団や教祖の宣伝」としている[51][15]
2月18日 - 第39回衆議院議員総選挙執行。全員落選。これ以降、社会敵視傾向に拍車がかかる。
5月 - 日本シャンバラ化計画の一環として熊本県阿蘇郡波野村の土地を5000万円で入手[18]・造成。シャンバラ精舎とする。
8月16日 - 熊本県が国土利用計画法森林法違反で教団を告発
10月 - 全国の教団施設が熊本県警の強制捜査を受ける。
11月 - 青山吉伸が逮捕・起訴された[18]
  • 1991年
3月7日 - ニフティサーブに「オウム真理教会議室」を開設。
春 - 山梨県上九一色村に進出開始。
9月28日 - 『朝まで生テレビ!』にパネリストとして麻原、上祐、村井秀夫杉浦実が出演。幸福の科学幹部らも出演するが、番組途中に麻原が番組の運行が幸福の科学に有利に進められ、発言の機会も幸福の科学の方が多いなどと興奮し、大声で司会の田原総一朗に食ってかかる場面があった。これに対しパネラーの一人であった下村満子は、「あなたは解脱者を自称するのに、どうしてそんなことで興奮するんですか」と麻原をたしなめた。一方で池田昭、島田裕巳など兼ねてからオウムに共鳴的であった宗教学者も出演した。
12月 - 『ビートたけしのTVタックル』に出演。
  • 1992年

この年マハーポーシャ、マハーサンパッティなどオウム関連の主要な会社が設立された[16]

2月 - ロシア共和国のオレグ・ロボフらと会談。ロシア進出のきっかけとなる。
5月27日 - 教団が長野県松本市に取得した土地の地主が、売買賃貸契約の無効と土地の明け渡しを求めて教団を提訴。
6月 - 不動産会社「マハーポーシャ・オーストラリア」を設立、直後に500,000オーストラリアドル(約3000万円)で西オーストラリア州パースの北東700kmにあるレオノーラ地区バンジャウォーン牧場を購入した[53]
9月 - モスクワ支部を開設[16](初代支部長は新実智光)。麻原が新実智光遠藤誠一豊田亨ら幹部を含む25人の信者を連れてオーストラリアのバンジャウォーン牧場に入り、約1ヶ月滞在した[53]。パース空港到着時、一行が塩酸などの劇薬を所持していたことが明らかになり、遠藤誠一など2人が危険物持ち込みで罰金刑に処せられた[53]。豊田亨は現地に「豊田研究所」と札のついた専門の化学実験室を持っていた[53]
9月14日 - オカムラ鉄工乗っ取り事件
11月 - キーレーン結成。
11月23日 - 京都大学で講演し「2000年までに破局が訪れる」と予言した[16][注釈 9]
12月10日 - 港区に東京総本部開設。同時に江東区の旧総本部は新東京総本部と改称。
12月18日 - 松本支部で「93年の後半、特に10月以降急激に新しい変化」と予言した[16][注釈 10]
  • 1993年

この年、化学薬品購入目的で下村化学、長谷川ケミカルを設立[16]。ロシアへの射撃訓練ツアーを企画するドゥブニールミリオネールなどを設立した[16]

漫画家小林よしのり、幸福の科学総裁の大川隆法衆議院議員小沢一郎細川護熙タレントデーブ・スペクターなどの暗殺を計画するも失敗。
3月21日 - 麻原が杉並道場での説法で「1997年にハルマゲドンがある」旨の発言をした[16]
4月8日 - 麻原が広島支部で説法、この頃から説法に「核兵器」「細菌兵器」「化学兵器」「軍備」という言葉が頻発するようになる[16]
4月9日 - 麻原が高知支部での説法で初めてサリンに言及した[16]
6月6日 - オウム真理教男性信者逆さ吊り死亡事件が発生。遺体は幹部らによって遺棄された。
6月28日 - 第1次亀戸異臭事件
7月2日 - 第2次亀戸異臭事件。
11月 - 山梨県上九一色村の第7サティアンにおいて、サリンプラントを建設を開始。
12月18日 - 池田大作サリン襲撃未遂事件。サリン噴霧車を使用した初の事例。現場警備担当の創価学会員数名負傷。実行時に防毒マスクを外した新実智光が重症。
  • 1994年
1月30日 - 薬剤師リンチ殺人事件が発生。
3月27日 - 宮崎県旅館経営者営利略取事件、被害者は5ヶ月間監禁され、解放後の9月2日に告訴した。
5月 - 上九一色村の第7サティアンに化学プラント建設開始(7月完成)
5月9日 - 滝本弁護士サリン襲撃事件
6月 - 1995年3月 - 旧ソ連製のAK-74を密造(詳細はオウム真理教の兵器自動小銃密造事件を参照)。
6月27日 - 麻原の体調悪化に伴い省庁制の発足式を挙行。22省庁を開設し大臣と次官を設置。当時の教祖、麻原は神聖法皇に。3女を法皇官房長官とする[5]
6月27日深夜[54] - 長野地裁松本支部官舎に隣接する住宅街でサリンを噴霧し、8人を殺害。重軽傷660人。当初は被害者の一人であった河野義行に疑惑の目が集まった[54]
7月9日未明[54] - 第7サティアン周辺で異臭騒ぎがあり、治療が必要な人的被害はなかったものの近くのブナなどの葉が褐色に変色、教団側は否定したが地元の人たちは発生源は教団だと確信していた[53]。警察当局が付近の土を採取し、警察庁科学警察研究所で調べたところ、サリン製造の際の副生成物が検知され、松本サリン事件で現場に残留していた副生成物とほぼ一致したことが判明[55]
7月10日 - オウム真理教男性現役信者リンチ殺人事件 発生。
7月15日 - 50℃の温熱療法修行による男性信者死亡事件。夕方、7月9日に続き第7サティアンで再び異臭騒ぎ[53]
7月30日 - 河野義行が退院して「顔も名前も出して結構です」として記者会見を開き、自らの無実を訴えた[54]
8月10日 - 河野義行が病院で書いた手記が文藝春秋9月号に掲載されて発表され、この後徐々に報道の扱いが変化して行く[54]
9月20日 - 江川紹子ホスゲン襲撃事件
12月2日 - 駐車場経営者VX襲撃事件
12月10日 - ピアニスト監禁事件
12月12日 - 会社員VX殺害事件
旧・青山総本部(東京・南青山、2011年)
  • 1995年
1月1日 - 読売新聞が上九一色村の第7サティアンでサリンを生成した際の残留物質である有機リン系化合物が検出された[53]とスクープ、これを受けてサリンプラントを解体しシヴァ大神を祭った神殿に改装するよう麻原が指示。オウム真理教ラジオ放送『エウアンゲリオン・テス・バシレイアス』中で麻原彰晃は「95年は、社会的に見ても、世界的に見ても、非常に不安定な時代を迎えるわけだが、オウム真理教にとっては逆に外的な圧力は弱められ、大発展の年になるはずである」と予言したが、これは大きく外れた[56]
1月4日 - 教団は会見を開いて毒ガス攻撃を受けた旨主張、上九一色村のオウム対策委員会副委員長で産業廃棄物処理業を営んでいた人などを殺人未遂罪で刑事告訴した旨明らかにし、これをきっかけに教団とサリンの関係を公然と論評するマスコミも出て来た[53]。「オウム真理教被害者の会」会長をVXガスで襲撃[20]
1月4日 - 上九一色村の教団施設にサリンを噴霧したとして、教団信徒18人が村内の肥料会社社長を殺人未遂罪で告訴。この件を主導した弁護士の青山が5月4日、名誉毀損罪で逮捕された。
2月9日 - 1月4日に教団が行なった刑事告訴について、告訴された一人が麻原ら4人を誣告罪名誉毀損罪甲府地方検察庁に告訴、さらに教団と幹部4人を相手に1億円の慰謝料を求めて甲府地方裁判所に民事訴訟を提起した[53]
2月28日 - 公証人役場事務長逮捕監禁致死事件で男性1人が死亡。
3月13日 - 「オウム真理教被害対策弁護団」の滝本太郎弁護士が警察庁長官検事総長宛に「本当にオウムがサリンを撒く可能性がある」と速達で上申。
3月15日 - 東京・霞ヶ関地下鉄駅構内で、不審なアタッシェケース(中身は超音波振動による自動式の噴霧器)が発見され、警視庁爆発物処理班が出動する。
3月17日 - 複数の教団幹部のステージ昇格を伝える尊師通達が発令される。(当月付けから7月付けまで計23名)
3月17日 - 警察庁において警視庁機動隊捜査一課捜査員によるオウム真理教に対する一斉家宅捜索を3月22日に行う決定[55]
3月18日 - 「オウム真理教から被害者を救出する会」主催による1万人集会が行なわれた。
3月19日 - 脱会希望の大学生を拉致した容疑で大阪府警が教団大阪支部に家宅捜索、信者3名を逮捕。夜、教団の南青山総本部と、一貫してオウム擁護の立場にあった島田裕巳が以前住んでいたマンションに火炎瓶が投げ込まれた[50]が、これは後に井上嘉浩の指示で現職自衛官の在家信者が起こした自作自演と判明した[50]
3月20日 - 東京の営団地下鉄(現・東京地下鉄)でサリンを撒き、13人を殺害、5,510人が重軽傷を負った。
3月22日 - 警視庁が公証人役場事務長逮捕監禁致死事件でオウム真理教信徒の逮捕状を取り、上九一色村の教団施設など1都2県の施設25カ所を一斉家宅捜索。
4月1日 - オウム真理教附属医院の佐々木正光医師が麻原について肝硬変Q熱、慢性心不全心内膜炎の疑い、皮膚炎と5つもの病名を挙げて「約1ヶ月の加療及びベッド上安静が必要であると判断する」との診断書を作成したが、5月16日に逮捕された麻原は健康上何の問題もなかった。
4月18日 - ロシア全土における活動禁止命令。
4月23日 - 村井秀夫刺殺事件
5月16日 - 東京都庁小包爆弾事件。山梨県上九一色村の教団施設を一斉捜査。麻原彰晃こと松本智津夫を逮捕[56]
6月30日 - 東京地方検察庁東京都が法人解散請求を東京地方裁判所に申請した[57]
10月30日 - 東京地方裁判所宗教法人法に基づく解散命令を決定(同年12月確定)。
10月31日-11月1日 - 米上院政府活動委員会の調査小委員会がこの期間に開いた公聴会で、CIAの調査とサム・ナンの執筆による、100ページ余りの『オウム真理教事件報告書』が提出される[58]
12月 - 国会で宗教法人法改正法が成立。
  • 1996年
6月19日 - 麻原(松本)に代わり、松本の長男(当時3歳)と次男(当時2歳)の二人を「教祖」とした。麻原の地位は「開祖」になった。
8月24日10月下旬 - 麻原彰晃逮捕後の信者の引き締めを目的とする「観念崩壊セミナー」が、麻原の三女が中心となり断続的に行われ、多くの負傷者を出した[5][59]
  • 1997年
1月31日 - 公安審査委員会、オウム真理教への破壊活動防止法の適用を棄却。
  • 1999年
4月 - 東京都内の繁華街で“復活”をアピール[60]
12月3日 - 団体規制法と破産特別法が成立。
  • 2000年
2月1日 - 団体規制法に基づく公安調査庁長官の観察処分(3年間)が効力発生。
2月4日 - 「宗教団体・アレフ」として再編。
7月1日 - ロシアで松本智津夫の武力奪還・対日テロを図ったオウム信者逮捕(シガチョフ事件
  • 2002年
1月 - 上祐が教団代表に就任。麻原彰晃との決別を表明。
10月25日 - 『オウム問題を考える議員の会』代表世話人の石井紘基が刺殺される。
  • 2003年
1月23日 - 団体規制法に基づく観察処分の期間更新(2月1日から3年)決定。
2月 - 「宗教団体・アーレフ」と改称。
  • 2004年
2月27日 - 東京地裁が松本智津夫に死刑判決。
  • 2006年
9月15日 - 最高裁判所は特別抗告を棄却し、1審通り松本への死刑判決が確定。
  • 2007年
3月8日 - アーレフから上祐前代表含む62人が脱会(脱会届提出は前日)。
5月7日 - 上祐前代表を含む62人による新団体「ひかりの輪」設立。公安調査庁への報告。
  • 2008年
5月20日 - 「Aleph」(アレフ)と改称。
  • 2011年
12月31日 - 平田信が警視庁丸の内警察署出頭。翌日に逮捕監禁致死の容疑で逮捕。
  • 2012年
6月3日 - 菊地直子相模原市内の潜伏先で身柄を確保された。
6月15日 - 高橋克也が東京都大田区の漫画喫茶内で身柄を確保される。これによりオウム関連の特別指名手配者はすべて確保された。

公称信徒数[編集]

  • 1985年12月 - 15人
  • 1986年10月 - 35人
  • 1987年2月 - 600人
  • 1987年7月 - 1,300人
  • 1988年8月 - 3,000人
  • 1995年3月 - 15,400人(出家1,400人、在家14,000人)
  • 1997年7月 - 5,500人(出家500人、在家5,000人)
  • 1997年12月 - 2,200人(出家900人、在家1,300人)
  • 2000年 - 1,115人(教団が公安調査庁に報告した数)
  • 2003年2月 - 1,251人(教団が公安調査庁に報告した数)

オウム真理教を題材・モデルにした作品[編集]

  • 「A」シリーズ - 森達也によるドキュメンタリー作品。
  • 地獄 (1999年の映画) - 本作にオウム真理教をモデルにした新興宗教団体「宇宙真理教」が登場する。主人公である16歳の少女リカはその教団の信者であったが、ラストで他の信者達とともに脱会する。
  • ホーク/B計画
  • 煉獄の使徒 - 馳星周による小説作品。
  • カナリア (映画)
  • 愛のむきだし
  • BLOODY MONDAY
  • 「F」 - オウム真理教について歌われている。
  • 未解決事件 File.02 実録・オウム真理教 - 元幹部の男性や、1980年代に入信した古参信者で、教団元幹部の女性の証言を元に、主演・萩原聖人で、教団初期からのオウム真理教の内部をNHKが詳細にドキュメンタリードラマ化。NHK BSプレミアムで、2012年3月31日・午前1時30分から放送された。放送時間101分。NHKスペシャルでは、さらに調査を進め、『未解決事件』シリーズとして、NHK総合テレビジョンにて2012年5月26日と5月27日に3部構成で放送された。番組放送終了の翌月、菊地直子容疑者・高橋克也容疑者の逮捕を受けて、異例の緊急再再放送が2012年6月24日に放送され、また、NHK BSプレミアムで、2012年7月16日に3部構成にて同番組が放送された。[1]

注釈[編集]

  1. ^ ノンフィクションライターの高山文彦によれば、目川があんりきょう、いんりきょう・・・と「あ」から続けていき、「しんりきょう」に至ったという。なお、当初は「真理教」とする筈だったが「しんりきょう」と発音する宗教団体が他に存在していたため商標登録の都合上、オウム神仙の会の名前から取り「オウム真理教」と命名したのではないかという意見もある。目川は松本から天理教の全容の調査を依頼され、その調査結果を松本に手渡したという。時期は目川の手記および中京新聞記者瀬口晴義の文献では1979年または1978-1979年頃、高山によれば1984年春頃とされている。詳しくは目川重治#オウム真理教を参照。高山は勢力を拡大し教団名が市の名前(奈良県天理市)にまでなるに至った天理教を自分の夢と重ねていたのではないかとする。また目川によれば、井上嘉浩が盗聴のノウハウを請いに来所したこともあったという。[7][8][9]
  2. ^ ブッダの心。
  3. ^ 立候補者が25名以上の政党には公職選挙法上確認団体と認められる利点がある。
  4. ^ これは1個だけであり法律事務所に保管されていたため可能性はない。
  5. ^ 当初の横浜法律事務所との話の中で、教団は創価学会の名前を挙げた。
  6. ^ 11月17日夜にキャンセルされている。
  7. ^ 無論麻原本人が契約や弁済をする必要はないので、これは理由として成立していない。
  8. ^ 麻原彰晃が総選挙で出馬する選挙区。
  9. ^ 麻原の予言は自作自演であることから、自白とも取ることができる。
  10. ^ 麻原の予言は自作自演であることから、自白とも取ることができる。

出典[編集]

  1. ^ 東京都に提出された宗教法人規則認証申請書より
  2. ^ a b c オウム真理教について | 公安調査庁
  3. ^ 麻原彰晃モスクワラジオ電子自動制御大学講演会説法集説法集「宗教を科学する‐5大エレメントと分子運動」1992年4月25日
  4. ^ 目次 オウム真理教 反社会的な本質とその実態(警察庁)
  5. ^ a b c d e f g h i j k 松本麗華『止まった時計』麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記
  6. ^ 麻原彰晃」逮捕から20年 Yahoo!ニュース THE PAGE 5月16日(土)6時0分配信「キーワードで見るオウム真理教」
  7. ^ 高山文彦 『麻原彰晃の誕生』 文藝春秋、2006年、170-173頁
  8. ^ 目川重治 『目川探偵の事件簿』 データハウス、1995年、16-18頁
  9. ^ 晴義『検証・オウム真理教事件』社会批評社、1996年、p.84
  10. ^ a b c d e 『「オウム真理教」追跡2200日』p.145-152「ダライ・ラマ側近の証言」。
  11. ^ 「坂本弁護士一家殺害事件5年10ヶ月の軌跡そして「真相」坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会 弁護士 瀧澤秀俊
  12. ^ a b c d e 『「オウム真理教」追跡2200日』pp.336-352「麻原はすべてを知っている」。
  13. ^ a b 未曾有のテロ(警視庁公式ウェブサイト)
  14. ^ オウム真理教制作ビデオ「オウム真理教専属オーケストラ”キーレーンのすべて”-総監督麻原彰晃」
  15. ^ a b c d e 『「オウム真理教」追跡2200日』p.114-121。
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『「オウム真理教」追跡2200日』pp.500-517「麻原説法の途方もない罪」。
  17. ^ 『「オウム真理教」追跡2200日』pp191-199「麻原彰晃の偽装工作」。
  18. ^ a b c 『「オウム真理教」追跡2200日』pp200-208「シャンバラ化計画」。
  19. ^ 上祐史浩 『オウム事件 17年目の告白』 扶桑社、90頁。
  20. ^ a b c 『「オウム真理教」追跡2200日』pp.452-477「被害者の会会長を襲った怪事件」。
  21. ^ a b c 別冊宝島229号『オウムという悪夢』
  22. ^ 『「オウム真理教」追跡2200日』pp.9-23「序章」。
  23. ^ a b c d 『「オウム真理教」追跡2200日』pp.363-375「青山弁護士の証拠隠滅罪」。
  24. ^ 判例時報1544号』43頁、『判例タイムズ890号』38頁
  25. ^ 『判例時報1548号』26頁、『判例タイムズ894号』43頁
  26. ^ 『判例時報1555号』3頁、『判例タイムズ990号』160頁
  27. ^ 『判例時報1558号』3頁。
  28. ^ 『判例タイムズ907号』98頁。
  29. ^ オウム真理教 反社会的な本質とその実態活発化する動き」『焦点』260号、警察庁、1999年
  30. ^ 「サンサーラ」1992年1月号 徳間書店
  31. ^ 「麻原オウム真理教と統一協会を結ぶ点と線」週刊現代 1995年5月27日号
  32. ^ ビートたけしのTVタックル 年末スペシャル』 テレビ朝日、1991年12月放送。東京キララ社編集部 編 西村雅史・宮口浩之監修 『オウム真理教大辞典』 東京キララ社、2003年11月、113頁。
  33. ^ BART』 1992年6月22日号、集英社
  34. ^ 1990年7月『別冊宝島』114号「オウム真理教はディズニーランドである」など
  35. ^ 『宝島30』1995年3月号「徹底検証!オウム真理教=サリン事件」
  36. ^ 江川紹子『「オウム真理教」追跡2200日』。
  37. ^ 浅見定雄『なぜカルト宗教は生まれるのか』
  38. ^ 『オウム―なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』トランスビュー、2001年
  39. ^ 週刊ポスト1989年12月8日号「オウム真理教のどこが悪いのか」など
  40. ^ 別冊宝島33号 独占手記・元オウム信者の告発「僕と中沢新一さんのサリン事件」宝島社
  41. ^ 島田裕巳『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』亜紀書房、2007年
  42. ^ 苫米地英人『スピリチュアリズム』にんげん出版、2007年。
  43. ^ 『【宗教・こころ】吉本隆明氏に聞く(1)弓山達也氏と対談』 産経新聞 1995年9月5日夕刊
  44. ^ 被害者への賠償、19億円未払い=オウム資産は着々増加―公安庁 時事ドットコム(2015/03/20配信)
  45. ^ 内外情勢の回顧と展望 平成22年(2010年)1月 (PDF)
  46. ^ オウム、青年層にターゲット 時事ドットコム(2010/03/15配信)
  47. ^ 宝島301995年11月号「オウム真理教修行体験90日」大泉実成
  48. ^ 『超越神力・パート2』(オウム出版
  49. ^ 別冊宝島476『隣のオウム真理教』(宝島社
  50. ^ a b c d e f g h i j 『「オウム真理教」追跡2200日』p.94-104「七つの疑問」。
  51. ^ a b c d e f 『「オウム真理教」追跡2200日』p.105-113「血のイニシエーション」。
  52. ^ a b c d e f g h i j k l m 『「オウム真理教」追跡2200日』p.78-93「坂本弁護士vsオウム 暗闘六カ月」。
  53. ^ a b c d e f g h i 『「オウム真理教」追跡2200日』pp.290-304「オウムに毒ガス疑惑」。
  54. ^ a b c d e 『「オウム真理教」追跡2200日』pp.252-276「暴走した松本サリン事件報道」。
  55. ^ a b 文藝春秋1995年5月号
  56. ^ a b 『「オウム真理教」追跡2200日』pp.478-489「麻原逮捕の日を迎えて」。
  57. ^ 『「オウム真理教」追跡2200日』pp.490-499「宗教法人解散請求の行方」。
  58. ^ ロシアでの活動が分かる資料。 一橋文哉『国家の闇』角川書店 2012年 p.84。
  59. ^ ひかりの輪 アレフ問題の告発と対策
  60. ^ はじめに(警視庁公式ウェブサイト)

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公式ウェブサイト[編集]

その他[編集]