オウム真理教

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オウム真理教
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設立年 1989年8月29日
設立者 麻原彰晃
廃止年 2000年2月
種類 宗教法人
目的 主神をシヴァ大神[注釈 1]として崇拝し、創始者の松本智津夫(別名麻原彰晃)はじめ、パーリ仏典を基本としてシヴァ大神の意思を教学し実践する者の指導のもとに、古代ヨガヒンズウー教、諸派大乗仏教を背景とした教義をひろめ、儀式行事をおこない、信徒を教化育成し、すべての生き物を輪廻の苦しみから救済することを最終目標とし、その目的を達成するために必要なワークを行う[1]。/教祖である麻原及び麻原の説く教義への絶対的帰依を培い、現行憲法に基づく民主主義体制を廃し、麻原を独裁的主権者とする祭政一致の専制政治体制を我が国に樹立すること[2]
本部 日本の旗 日本
東京都江東区亀戸(登記上)
山梨県上九一色村(実質)
東京都港区南青山(実質)
メンバー

出家者1700人、在家信者を含めた総信者数は1万人(1995年当時の日本国内における数)

また、1995年当時ロシアには約35,000人の信者がいたという。
関連組織 真理党
ウェブサイト 閉鎖(インターネット・アーカイブ)
新興宗教の団体
青山総本部(東京南青山、1994年、2015年4月解体)

オウム真理教(おうむしんりきょう)は、かつて存在した麻原彰晃を開祖とする新興宗教。日本で初めて化学兵器サリンを使用し、無差別殺人を行った組織でもある。

概説[編集]

「オウム(AUM)」とは、サンスクリット語またはパーリ語の呪文「」のことで「ア・ウ・ム」の3文字に分解できる。これは宇宙の創造・維持・破壊を表しており、その意味は「すべては無常である」である、すなわちすべては変化するものであるということを表している。また麻原自身の解説によれば「真理」の意味は、釈迦イエス・キリストが人間が実践しなければならないものはこうであるという教えを説いたものであるが、その教えの根本であるものを「真理」と呼ぶ。教義的にはヒンドゥー教仏教といった諸宗教に合わせ、ノストラダムスの予言などのオカルトもミックスした独特のものとなっていた。特にチベット仏教原始仏教の要素をアピールしたため仏教系とされることも多いが、あえて仏教を名乗らなかった理由は、「仏教」という言葉自体が釈迦死後に創作されたものであるからとしている。また真理と密接に関係のあるものが科学であるという[3][4]

教祖である麻原彰晃(本名:松本智津夫)はヒマラヤ最終解脱した日本で唯一の存在で空中浮揚もできる超能力者であり、その指示に従って修行をすれば誰でも超能力を身に付けることができるなどと言って若者を中心とする信者を多く獲得した。マスメディアではオウム真理教出家者が理系の高学歴者ばかりで構成されていたかのようなイメージで報道されたが、多くの宗教団体にありがちなように、実際は社会で普通に生きてゆくことに疑問を感じたり社会に居場所をなくした人たちや、DV被害者、被虐待児、精神疾患発達障害パーソナリティ障害を持つものなども多く、こうした社会的弱者の構成員も多かった[5]

当初はヨーガのサークルに過ぎなかったものの次第に常軌を逸した行動が見え始め、出家信者に全財産を布施させたり、麻原の頭髪や血、麻原の入った風呂の残り湯などの奇怪な商品を高価で販売するなどして、多額の金品を得て教団を拡大させた。内部では懐疑的になって逃走を図った信者を拘束したり殺害するなどして、1988年から1994年の6年間に脱会の意向を示した信者が判明しているだけでも5名が殺害され、死者・行方不明者は30名以上に及び、恐怖政治で教祖への絶対服従を強いていた。当初より奇抜、不審な行動が目立ったため、信者の親などで構成される「オウム真理教被害者の会」(のちに「オウム真理教家族の会」に改称)により、司法行政警察など関係官庁に対する訴えが繰り返されたが、全く取り上げられることなく、その結果、坂本堤弁護士一家殺害事件をはじめ松本サリン事件地下鉄サリン事件などのテロを含む多くの反社会的活動(「オウム真理教事件」)を起こした[6][7]ほか、自動小銃化学兵器生物兵器麻薬爆弾類といった教団の兵器や違法薬物の生産を行っていた[2]

1996年平成8年)1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴い消滅した。同時に、新たな宗教団体アレフが設立され、教義信者の一部が引き継がれた。アレフは後にAlephと改称され、また別の仏教哲学サークルひかりの輪が分派した。

沿革[編集]

前史[編集]

1984年(昭和59年)、麻原彰晃(本名・松本智津夫)は後に「オウム真理教」となるヨーガ教室「オウムの会」(その後「オウム神仙の会」と改称)を始めた。この頃、オカルト系雑誌の『月刊ムー』が、このオウムの会を「日本のヨガ団体」として取材、写真付きの記事を掲載していた[8]。麻原はこれらオカルト雑誌に空中浮揚の瞬間と称する写真を掲載したり、ヒヒイロカネについての記事や、『生死を超える』『超能力秘密の開発法』などの本を執筆するなどして宣伝した。

麻原と家庭[編集]

当時は松本家一家は千葉県船橋市に住み、貧しく家族全員で1つの寝室を共有していた。食事は野菜中心で肉の代りにグルテンを肉状にしたものを食べたり、ちゃぶ台の上にホットプレートを置き、「野菜バーベキュー」を楽しんでいた。この船橋の家には「瞑想室」があり、宗教画が掛けられ棚には仏像が置かれていた。麻原は日に1度は瞑想室にこもり修行をしていた。棚の前にはちゃぶ台があり、麻原はそれを祭壇と呼んでいた。「形は重要じゃない。心が重要なんだ。私にとっては」というのが麻原の口癖だった。後に教団が大きくなってからも、麻原はそれを祭壇として使っていた。

当時、麻原はヨーガ教室を東京都渋谷区で開いていたため、家にいることが少なかった。たまに帰宅すると強度の弱視のためテレビにくっつくように野球中継を見ていた。1986年ころには世田谷区道場に住み込むようになりほとんど家に帰らなくなる。たまに麻原が帰宅すると3人の娘たちが大喜びで玄関まで走って行き、姉妹で父を奪い合うような普通の家庭であった。次女は父の帰宅を「太陽のない世界に、太陽が来た」などと表現していた。しかし、妻の松本知子は麻原が滅多に帰宅しないことから精神不安定であり、麻原に向かってなじるようないさかいがあり、麻原はこれにほとんど抵抗をしなかった。3女松本麗華の目には、知子が麻原の宗教を信じているようには見えなかったが、知子は麻原の著書の代筆を深夜まで行っており、後の麻原の著書のいくつかは、知子が書いたものであった。

麻原は子供に向かって「に刺されると痒くていやだね。でも蚊も生きているんだよ」とか「お釈迦様によれば、私たちは死後生まれ変わり、もしかしたら蚊に生まれ変わるかもしれない」などと話していたが、一方妻の知子は蚊を平気で殺していた[5]

オウム真理教の誕生[編集]

1987年(昭和62年)、東京都渋谷区において、従前の「オウム神仙の会」を改称し、宗教団体「オウム真理教」が設立された。同年11月にはニューヨーク支部も設立。

「真理教」は「天理教」にちなんだもので、命名には京都の私立探偵目川重治が関わっている。目川は「松本智津夫」から天理教の全容の調査を依頼され、その調査結果を松本に手渡し、その際、目川があんりきょう、いんりきょう・・・と「あ」から続けていき、「しんりきょう」に至ったという。後に目川は松本が麻原彰晃であると知った。なお、当初は「真理教」とする筈だったが「しんりきょう」と発音する宗教団体(神理教)が他に存在していたため商標登録の都合上、オウム神仙の会の名前から取り「オウム真理教」と命名したのではないかという意見もある。時期は目川の手記および東京新聞記者瀬口晴義の文献では1979年または1978-1979年頃、ノンフィクションライターの高山文彦によれば1984年春頃とされている(詳しくは目川重治#オウム真理教を参照)。高山は勢力を拡大し教団名が市の名前(天理市)にまでなるに至った天理教を自分の夢と重ねていたのではないかとする[9][10][11]

1989年(平成元年)8月25日に東京都に宗教法人として認証された(1993年以降の登記上の主たる事務所は東京都江東区亀戸の新東京総本部)。麻原は解脱して超能力を身に付けたといい、神秘体験に憧れる若者を中心に組織を急速に膨張させていく。さらに麻原は自らをヒンドゥー教の最高神の一柱である破壊神シヴァ神あるいはチベット密教の怒りの神「マハーカーラ」などの化身だとも説き、人を力尽くでも救済するこの神の名を利用し目的のためには手段を選ばず暴力をも肯定する教義へと傾斜していく。

ダライ・ラマを利用した宣伝[編集]

麻原はチベット亡命政府の日本代表であったペマ・ギャルポと接触し、その助力によって、1987年(昭和62年)2月24日ならびに1988年(昭和63年)7月6日にダライ・ラマ14世インドで会談した。麻原側は両者の会談の模様をビデオならびに写真撮影し、会談でダライ・ラマ14世が「ねえ君、今の日本の仏教を見てみたまえ。あまりにも儀式化してしまって、仏教本来の姿を見失ってしまっているじゃないか。これじゃあいけないよ。このままじゃ、日本に仏教はなくなっちゃうよ。」「君が本当の宗教を広めなさい。君ならそれができる。あなたはボーディ・チッタ[注釈 2]を持っているのだから」と麻原に告げたとしてオウム真理教の広報・宣伝活動に大いに活用した[12][13]。ペマ・ギャルポはその後まもなく自身を介さずにチベット亡命政府との関係を深めるオウム真理教と積極的に対立するようになり、チベット亡命政府に対しても今後は麻原と関係を持たないように進言し、チベット亡命政府日本代表の地位を解任された。その後麻原とダライ・ラマ14世は1992年にも会談している。

ダライ・ラマと同様オウム真理教は教団の権威づけに多くのチベットの高僧やインドの修行者と接触し宣伝に利用していたが、事件後はマスコミの取材に対して軒並み深い関係を否定している[12]

1995年4月5日来日したダライ・ラマ14世は記者会見で「(麻原と)会ったことはあるが、私の弟子ではない。彼は宗教より組織作りに強い興味を持っているという印象が残っている。私に会いに来る人には誰でも友人として接している。しかし、オウム真理教の教えを承認してはいない。私は超能力や奇跡には懐疑的だ。仏教は、一人の指導者に信者が依存し過ぎるべきではないし、不健全だ」と語った[12]。この話はオウム真理教が江川紹子と出版社を相手取り損害賠償請求訴訟を行なった際の争点の一つとなったが、判決は「名誉毀損に当たらない」としてオウム真理教の請求を棄却した[12]。江川紹子は「多額の寄付をしてもらえば、普通お礼はするし、多少のリップサービスをすることもある。麻原教祖はそうした相手の反応を利用し、(中略)オウムの権威や信用を高めようとしたのではないか」と推測している[12]

麻原の健康不安と死への願望[編集]

1988年10月頃、富士宮市人穴に総本部道場建設[14]。この頃より麻原は体調を崩すことが多くなり、健康面に不安を感じ始め「自分が死んだら、教団をどうするのか」あるいは「私は長くてあと5年だ」「死にたい」などと洩らすようになる。肝硬変肝臓がんだと大騒ぎになったりもする。高弟の前でも「もう死のうかな」と呟き、新実智光は「お供します」、早川紀代秀は「困ります」、上祐史浩は「残って救済活動をします」と答え、妻の松本知子は「勝手にすれば」と言ったという[5]。3女松本麗華は、この頃から麻原のへの願望は強まったと考えている。解脱者が多くなりオウム真理教が世界宗教へと変貌し救済ができるとの真剣な思いがあったが、弟子の修業が思うように進まず、人間界が救われないという否定的な認識が麻原彰晃に芽生えたと見ている[5]

海外への進出[編集]

麻原は自らの権威づけをかねて主要な弟子を引き連れて世界各地の宗教聖地を巡った。1987年には、「麻原の前世が古代エジプトのイムホテップ王であった」ということから、同王が埋葬されているピラミッドの視察目的でエジプトツアーを行った[15]。後に麻原は自著において「ピラミッドはポアの装置だ」と述べた[15]1989年(平成元年)8月、所轄庁の東京都知事より宗教法人としての認可を得た後、日本全国各地に支部や道場を設置する一方、ロシアスリランカなど海外にも支部を置いた。ロシアでは優秀な演奏者を集めキーレーンという専属オーケストラを所有、布教に利用した[16]。日本では1989年(平成元年)に約1万人程度の信者が存在していたとされる[17]。麻原は1991年(平成3年)を「救済元年」とし(教団内でこれを元号の如く用いた)[要出典]マスメディアを中心とした教団活動を活発化させた。

1992年11月12日には、釈迦が菩提樹の下で悟りを開く瞑想に入ったとされる聖地、インドブッダガヤ大菩提寺にある「金剛座」に座り、地元の高僧に下りるように言われたが従わなかったため、警官に引き摺り下ろされた[18]。麻原は日本では盛んにテレビ・ラジオ番組に露出し、雑誌の取材を受けたり著名人との対談などを行った。このほか講演会開催、ロシアや東南アジア諸国・アフリカ諸国などへの訪問や支援活動、出版物の大量刊行などを行った。図書館への寄贈・納本も行っており、麻原の著書を初めとするオウム真理教の出版物は現在も国立国会図書館等に架蔵されている。特に若い入信者の獲得を企図し、麻原が若者向け雑誌に登場したり、1980年代後半から行っていた大学の学園祭での講演会を更に頻繁に開催するなどした(東京大学京都大学千葉大学横浜国立大学等)。1992年(平成4年)にはサリン事件後広範に知られるようになるパソコン製造などを行う会社「株式会社マハーポーシャ」を設立し、格安パソコン製造販売を行うようになった。

オウム真理教放送の開始[編集]

ロシアでは、1992年4月1日オウム真理教放送が開始される。日本語の他、英語ロシア語で放送を行っていた。当初は「エウアゲリオン・テス・バシレイアス」という番組名で、放送局名や放送時間、周波数等の告知すらなく、同年4月半ばからは「オウム真理教放送」と名乗る。ギリシャ語では「エウアンゲリオン」が正しい発音だという聴取者の指摘により、8月1日の放送分より「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」に変更された。制作は富士山総本部で、録音テープをモスクワに空輸し放送していた。電波の受信状態が悪かったため12月1日からは富士山総本部のスタジオからの生放送に変更された。1992年6月15日にはモスクワ放送の英語ワールドサービスの時間枠を使用し、日本時間の5時30分と13時30分からそれぞれ約30分間、全世界に向けての英語放送を開始。1992年9月1日からは「マヤーク」という約25分間のロシア語放送が開始された。11月19日にはモスクワのテレビの2×2にて「真理探求」という番組が開始される[19]

一連の事件が強制捜査を受けたことから、ロシア当局は放送の中止を決め、日本時間の1995年3月23日の放送が最後となった。翌24日もスタジオからは番組を発信したが、ロシア側が放送中止を決めたため、電波には乗らなかった[19]

番組内では、麻原彰晃作曲とされる多くのオウムソングが流され、「超越神力」、「エンマの数え歌」、「御国の福音」第1楽章の一部や「シャンバラ・シャンバラ」などが放送されたほか、モスクワ大学での麻原彰晃説法の様子。麻原の3人の弟子として、アナウンサーのカンカー・レヴァタ(杉浦実)、ダルマヴァジリ(坪倉浩子)、アシスタント役にはマンジュシュリー・ミトラ(村井秀夫)が登場した。麻原夫人の松本知子(ヤソーダラー)が、かつてはアンチ宗教だったという衝撃的な発言にはじまり、夫人の考え方が変わってゆく様子なども流された。英語放送では麻原の英語のメッセージのほか、当初は朝のパーソナリティーをマイトレーヤ(上祐史浩)が、昼の放送はヤソーダラー(松本知子)が受け持っていた[19]

1995年3月22日、オウム真理教に対する警察の強制捜査が行われ、翌23日にはこれに対する麻原自らが反論する内容のが放送された。音質から、第4サティアンのスタジオではなく、他の場所での収録と推測されている。1995年2月からは、麻原が「悔いのない死」を呼びかけるメッセージを送り続けていたが、3月23日の放送の最後にもこれが放送されオウム真理教放送最後のオンエアとなった[19]

妄想・幻聴の出現[編集]

1992年頃より、「宇宙衛星から電磁波攻撃を受けている[20]」などといった麻原の妄想幻聴が現れ始める。「シヴァ大神の示唆では仕方ないな」とつぶやき、「内なる声」が自らの進みたい道とは違うことに苦しみ始め「いっそ死んでしまいたい」と言ったのを3女麗華が聞いている。麗華は麻原を統合失調症などの精神疾患に罹患していたのではないかと推測している[5]

1993年(平成5年)以降は麻原が自ら進んでメディアに登場することはなくなり、国家転覆を狙った凶悪犯罪の計画・実行に傾斜してゆく。この頃には、アメリカから毒ガス攻撃を受けていると主張するようになり、車には空気清浄機を付け、ホテルでは大真面目に隙間に目張りをしていた。ヘリコプターが通過する際には、毒ガスだと言って車に駆け込み退避するよう命じる有り様だった[5]

非合法活動への道程[編集]

住民によるオウム真理教追放運動。各地で住民との摩擦が表面化し時にはヒステリックなまでにエスカレートした。

1988年(昭和63年)には在家信者死亡事件が発生。隠蔽のため、1989年(平成元年)には男性信者殺害事件を起こし殺人に手を染める。

坂本弁護士一家殺害事件と衆議院選出馬[編集]

1990年(平成2年)には真理党を結成して第39回衆議院議員総選挙へ麻原と信者24人[注釈 3]が集団立候補(全員落選)。選挙に立候補するかどうかはオウムとしては珍しく幹部による多数決が採られた。結果は10:2で賛成派が勝利。反対した2人は上祐史浩岐部哲也であった[21]

選挙戦など教団の活動の障碍になるとして、前年の1989年11月4日、オウム批判をしていた坂本堤弁護士とその一家を殺害(坂本堤弁護士一家殺害事件)。中川智正が殺害の際プルシャ(オウムのバッジ)を落としたためオウム犯行説が一時広まるが、任意の失踪の可能性があるなどとされこの頃はまだ事件性すら確定されておらず、オウム真理教への容疑は及んでいなかった。

選挙の際には信者が麻原のお面やガネーシャの帽子をかぶり、尊師マーチなど教祖の歌を歌うといった派手なパフォーマンスなど奇抜な活動が注目を浴び、修行の様子なども雑誌やテレビ報道され、徐々に知名度が上がっていく。この時には公職選挙法で定められた時間帯を大きく超える16時間/日に及ぶ街頭宣伝運動を繰り広げ、麻原彰晃の写真入りビラやパンフレット、雑誌を選挙区中に撒き、麻原そっくりのお面を大量に作って運動員に被らせた[22]。これは違法で警視庁から警告を受けたが、運動にかり出された元信者は「もしも誰かから注意されたりしたら、『これは布教活動です』と言って逃れるように」と指示を受けていた[22]。また他の候補者のポスターを剥がす、汚損するなどを麻原自身が勧め、深夜に信者を使って他の候補者を中傷するビラを配布させた[22][23]。結果はこの選挙で最も得票の多かった麻原でさえ1,783票[23]であり、惨敗を受け麻原は「票に操作がなされた」と発言し、「国家権力により弾圧を受けている。これからは武力で行く」と説いていた。このことからもこの選挙がオウム真理教の被害者意識をより一層高め、非合法活動を更にエスカレートさせたといわれている。

石垣島セミナー[編集]

選挙での惨敗後に脱会者が続出したため、1990年4月に「オースチン彗星英語版が接近しているために、日本は沈没するが、オウムに来れば大丈夫」と宣伝し、在家信者だけでなく家族まで参加させ行き先も伝えないまま石垣島に連れて行き石垣島セミナーを開催した[24][25]

セミナーの当初の目的は、オウム真理教が計画をしていたボツリヌス菌散布によるテロから、オウムの信者を守ることであった。しかしオウム真理教はボツリヌス菌の開発に失敗をしたためテロは実行されなかった[26]

参加者によると、参加費は30万円であったが、会場はきちんと予約されておらず、天候が悪かったこともあり、「現在の東欧動乱は、1986年のハレー彗星の影響であり、今年のオースチン彗星の接近によって何かが起こる」とただそれだけの話があっただけで行事は予定を繰り上げてお開きになった。これはその後「ハルマゲドンが起こる、オウムにいないと助からない」と危機感を煽って信者や出家者をかき集める方法の原点になった[24]

日本シャンバラ化計画[編集]

1990年(平成2年)5月、日本シャンバラ化計画を実行すべく熊本県阿蘇郡波野村(現在の阿蘇市)に進出するが、地元住民の激しい反対運動に会う。波野村進出の目的のひとつは武装化拠点の確保であった[26]。しかし村民はオウムの進出に反発し、反対運動が激化した。村の反対運動の背景には、村長派と反村長派との対立があったともされる。また教団広報部長だった上祐史浩によると右翼団体なども扇動され激しい攻防があったという[27]

そして1990年10月、オウム真理教波野村の土地売買に関する国土利用計画法違反事件強制捜査を受け、早川紀代秀満生均史青山吉伸石井久子大内利裕など教団幹部が続々と逮捕された。

結局波野村はオウムが5000万円[28]で手に入れた土地を和解金という形式で9億2000万円[29]で買い戻すことで合意、オウムの大きな資金源となった。これがきっかけとなり、ほぼ同じ時期に全国の各オウムの施設付近で、追放運動が巻き起こった。[要出典]

教団の再武装化と敵対者の暗殺計画[編集]

国土法違反事件の影響もあり、1991年(平成3年)~1992年(平成4年)はホスゲンプラント計画や生物兵器開発などの教団武装化を中断、テレビや雑誌への出演や文化活動などに重点を置いた「マハーヤーナ」路線への転換を図った。

しかし1993年(平成5年)前後から再び麻原は教団武装化の「ヴァジラヤーナ」路線を再開[30]。麻原は「もうこれからはテロしかない」[31]、「100人くらい変死すれば教団を非難する人がいなくなるだろう。1週間に1人ぐらいはノルマにしよう」[31]、「ポアしまくるしかない」[30]などと発言し、武力を強化するため、オカムラ鉄工を乗っ取りAK-74の生産を試みたり(自動小銃密造事件)、NBC兵器の研究を行うなど教団の兵器の開発を進めた。

この中で土谷正実遠藤誠一中川智正ら理系信者の手によってサリンVXガスホスゲンなどの化学兵器の合成に成功。1993年より、これらを利用した池田大作サリン襲撃未遂事件滝本太郎弁護士サリン襲撃事件江川紹子ホスゲン襲撃事件、VX3事件(駐車場経営者VX襲撃事件会社員VX殺害事件オウム真理教被害者の会会長VX襲撃事件)を起こし、敵対者の暗殺を試みた。さらに第7サティアンにおいてサリン70トンの大量生産を目指した(サリンプラント建設事件)。

洗脳の強化[編集]

1994年(平成6年)と1995年(平成7年)には特に多くの凶悪事件を起こす。そのうちいくつかの事件では当初より容疑団体と目され、警察当局の監視が強化された。オウムでは布施の強化が図られ、いったんは脱会した信者に対しても接触が強まり、ハルマゲドン思想などを説くようになる。社会との軋轢が増すにつれ、教団内部に警察などのスパイが潜んでいるとしきりに説かれ、教団内の自治省は、信者同士が互いに監視しあい、密告するよう求められるようになるなど教団内の締め付けも強くなり、薬剤師リンチ殺人事件男性現役信者リンチ殺人事件逆さ吊り死亡事件などが発生した。

この頃からオウムでは違法薬物をつかったイニシエーションを次々と実行するようになり、LSDを使ったイニシエーションが在家信者に対しても盛んに行われた(LSDは麻原自身も試している[32])。費用は100万円であったが、工面できない信者には大幅に割引され、5万円で受けた信者もいる[33]。LSDによるイニシエーションは出家信者のすべてが受けさせられた。当時の信者数は、出家者1300人、在家信者を含めた総信者数は1万人ほどであった。

また、林郁夫によって「ナルコ」という儀式が開発された。「ナルコ」は、チオペンタールという麻酔薬を使い、意識が朦朧としたところで麻原に対する忠誠心を聞き出すもので、麻原はしばしば挙動のおかしい信者を見つけると林にナルコの実施を命じた。麻原は林に、信者達の行動を監視するよう命じ、信者が自分の仕事の内容を他の信者へ話すことすら禁じていた。[要出典]林郁夫はさらに「ニューナルコ」と呼ばれる薬物を併用した電気ショック療法を使い始め、字が書けなくなったり記憶がなくなっている信者が見つかっている。

洗脳は出家信者の子どもにも及び、PSIを装着させたり、オウムの教義や陰謀史観に沿った教育をしたりしており、事件後に保護されたオウムの子どもたちが口を揃えて「ヒトラーは正しかった、今も生きている」などと語ることもあった[34]

「信徒用決意」という決意文にはこうある。「泣こうがわめこうがすべてを奪いつくすしかない」「身包み剥ぎ取って偉大なる功徳を積ませるぞ」「丸裸にして魂の飛躍を手助けするぞ」。これらが信者の監禁・誘拐事件へと発展し、ピアニスト監禁事件宮崎県資産家拉致事件鹿島とも子長女拉致監禁事件といった多数の拉致監禁事件を起こした。サティアンには独房や監禁用コンテナ、一日中麻原の説法テープを聞かせる部屋(ポアの間)が造られており、被害者はこれらの場所に監禁された。

省庁制[編集]

1994年6月27日、東京都内のうまかろう安かろう亭省庁制発足式が開かれ、これにより教団内に「科学技術省」「自治省」「厚生省」「諜報省」などといった国家を模したような省庁が設置された。なお、同日に松本サリン事件が発生している。

3女麗華によれば、1994年6月に麻原の体調が悪化し、教団運営ができなくなる恐れが出たために、省庁制が敷かれたという。各省庁の責任者や大臣が大きな権限を持つようになり、3女は、11歳にして法皇官房長官に任命される。任命時に麻原は麗華に「お前はもう11歳だから大人だ」と言ったが麗華がふてくされていると「法皇官房は、私のことを一番に考える部署なんだ。お前は長官だから、私の世話をしっかり頼む」と言った。

松本サリン事件[編集]

1994年6月27日、オウムの土地取得を巡る裁判が行われていた松本市において、裁判の延期と実験を兼ねてサリンによるテロを実行。死者8人、重軽傷者660人を出す惨事となる(松本サリン事件)。当初はオウムではなく第一通報者の河野義行が疑われ厳しい追及が行われるなど、後に捜査の杜撰さが指摘された。またマスコミによる報道被害も問題になった。

地下鉄サリン事件[編集]

1994年7月、第7サティアンで建設中のサリンプラントで異臭騒ぎが発生。1995年(平成7年)1月1日になって読売新聞が一面で上九一色村でサリン残留物が検出されたと報じ、オウムへの疑惑が表面化した。さらに警視庁公証人役場事務長逮捕監禁致死事件で全国教団施設の一斉捜査を決定。しかし、事前に捜査の情報を入手した麻原は、強制捜査の撹乱のため首都東京で大事件を起こすことを計画、3月20日に地下鉄サリン事件を実行した。

ただし、唯一リムジン謀議の内容を詳細に証言している井上嘉浩によると、2014年2月4日の平田信公判において「サリンをまいても、強制捜査は避けられないという結論で、議論が終わっていた。しかし松本死刑囚は、『一か八かやってみろ』と命じた。自分の予言を実現させるためだったと思う。」[35]、2015年2月20日の高橋克也の公判において「『宗教戦争が起こる』とする麻原の予言を成就させるために、事件を起こしたと思った」と証言しており、自身の「ハルマゲドン」の予言を成就させるためという説もある[36]

強制捜査[編集]

事件2日後の3月22日には、山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)を中心とした教団本部施設への一斉捜索が行なわれ、サリンプラント等の化学兵器製造設備、細菌兵器設備、散布のためのヘリコプター等が見つかり、オウム真理教の特異な実態が明らかになった。以降、同事件や以前の事件への容疑で教団の幹部クラスの信者が続々と逮捕され、1995年(平成7年)5月16日には、自衛隊の応援を得て付近住民を避難させた上で、カナリアを入れた鳥かごを持つ捜査員を先頭に、上九一色村の教団施設の捜索を開始。教団代表であった松本智津夫(麻原彰晃)が逮捕された[37]。また、証拠品の押収や、PSI(ヘッドギア)をつけさせられた子供たちを含む信者が確保された。オウムの犯罪行為は一部の信者以外には秘密であったため、事件を陰謀と考える信者の抵抗は大きかった。

強制捜査の際、どこの現場でも「捜索令状をじっくり読む」「立会人を多数要求する」「警察官の動きをビデオや写真に撮る」という光景が見られた[38]。また報道陣に対してもしつこくカメラを向け、突然の捜索に驚き慌てる様子は全くなく、事前に準備され訓練された行動のようであった[38]。実際に弁護士で信者の青山吉伸から「絶対に警察の手に渡ってはいけない違法なものに限り持ち出し、露骨な持ち出しをしないように」「令状呈示のメモ及び録音で時間を稼ぎ、私服警察官に対しては警察手帳の呈示を求める」「水際で相手を嫌にさせて、捜索意欲をなくさせる」「排除等の暴行に及んで来たらビデオで記録化する」「施設の電源を落とす」「内鍵をして立て篭る」「勝手に触ると修法が台なしになると主張する、ほとんどのものを修法されているとする」という通達と、警察との想定問答が極秘に出されていた[38]。もちろんこれは刑法104条の証拠隠滅罪に該当する[38]

教団の崩壊[編集]

東京地検は松本智津夫を17件の容疑で起訴したが、裁判の迅速化を図るためその内LSDメスカリン覚醒剤・麻酔薬等薬物密造に関わる4件に付いては2000年(平成12年)10月5日起訴を取り下げている。

教団は村岡達子を代表代行として活動を継続していたが、1995年(平成7年)10月30日東京地裁により解散命令を受け[39]、同年12月19日の東京高裁において、即時抗告[40]、翌1996年(平成8年)1月30日の最高裁において特別抗告がともに棄却され[41]、宗教法人法上の解散が確定した。

1996年(平成8年)3月28日、東京地裁が破産法に基き教団に破産宣告を下し[42][43]、同年5月に確定する。1996年(平成8年)7月11日公共の利益を害する組織犯罪を行った危険団体として破壊活動防止法の適用を求める処分請求が公安調査庁より行われたが、同法及びその適用は憲法違反であるとする憲法学者の主張があり、また団体の活動の低下や違法な資金源の減少が確認されたこと等もあって、処分請求は1997年(平成9年)1月31日公安審査委員会により棄却されている。

破防法処分請求棄却後も教団は活動を継続し、「私たちまだオウムやってます」と挑発的な布教活動や、パソコン販売による資金調達などを行った[44]。一方、一連の事件については「教団がやった証拠がない」とし、反省や謝罪をせず、被害者に対する損害賠償にも応じなかった。

この教団の姿勢は社会の強い反発を招き、長野県北佐久郡北御牧村(現・東御市)の住民運動をきっかけに、オウム反対運動が全国的に盛り上がりを見せ、国会でもオウム対策法として無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(いわゆる「オウム新法」)を制定するに至った。

一連の事件に関与した教団幹部に対し、刑事裁判では13人の死刑判決、5人の無期懲役判決が出されている。

著名人[編集]

教団は著名人との交流があったが、事件後は一変して多くの人物がオウム批判に転じている。雑誌で好意的な対談を行った[45]栗本慎一郎は事件後初めてオウム分析を週刊誌上で行い、オウムと北朝鮮、および世界基督教統一神霊協会との関係を指摘した[46]ビートたけしはテレビ番組で麻原と対談し[47]、その後雑誌で再び麻原と対談[48]などしていたが、事件後は否定的な見解を取っている。

作家で宗教学者の島田裕巳はオウム真理教に宗教学の立場から取り組み、好意的な発言をしていた[49]が、地下鉄サリン事件が同教団の組織的犯行であることが発覚するとメディアから批判を受け、地下鉄サリン事件へのオウムの関与を否定するコメント[50]を出したことで江川紹子有田芳生浅見定雄らから批判を受けた[51][52]。のちにオウムを批判する立場からの著作を出している[53]。同じく作家で宗教学者の中沢新一もオウムに好意的な発言をし[54]、地下鉄サリン事件後はメディアから批判を受け、地下鉄サリン事件についてのコメントも批判を浴びた[55]。島田[56]苫米地英人[57]などが中沢を批判する著作を発表している。

麻原の著書『生死を超える』の書評を書き、麻原を修行者として高く評価していた思想家の吉本隆明は、一般市民として大衆の原像を繰り込んでいこうとする立場から「オウムの犯罪を根底的に否定する」としながらも、なお「オウム真理教はそんなに否定すべき殺人集団ではない」「麻原は現存する世界有数の宗教家」などと述べた[58]

後継教団[編集]

アレフ[編集]

2000年(平成12年)2月4日、教団は破産管財人からオウム真理教の名称の使用を禁止されたため、前年に出所した上祐史浩を代表として「オウム真理教」を母体とした宗教団体「アレフ」へと名称変更した。同年7月、「アレフ」は破産管財人の提案により、被害者への賠償に関する契約を締結したが、その支払いは遅々として進んでいない。[59]。2003年(平成15年)には「アーレフ」、2008年(平成20年)にはさらに「Aleph」(アレフ)と改称した。

分裂騒動[編集]

2007年(平成19年)5月には上祐派の信者たちが脱会、新宗教団体「ひかりの輪」を結成した。この団体は松本智津夫の教えからの脱却を志向していると主張しているが、公安調査庁『内外情勢の回顧と展望』2010年1月版でもその活動が麻原の修行に依拠していることが報告されている[60]

2010年(平成22年)3月に公安調査庁は、サリン事件当時の記憶が薄い青年層の勧誘をしていることなどについて、警戒を強めている旨を発表した[61]

教義[編集]

教義の概要[編集]

オウム真理教の教義は、原始ヨーガを根本とし、パーリ仏典を土台に、チベット密教[注釈 4]インド・ヨーガの技法を取り入れている。日本の仏教界が漢訳仏典中心であるのに対しあえてパーリ仏典やチベット仏典を多用した理由は、漢訳は訳者の意図が入りすぎているからとしている[63]

そして、「宗教は一つの道」として、全ての宗教はヨーガ・ヒンズー宇宙観の一部に含まれる、と説く。その結果、例えばキリスト教創造主としての梵天(オウム真理教では“神聖天”と訳す)のことである、等と説かれる。

従って、オウム真理教に於いては儒教道教・キリスト教・ゾロアスター教等ありとあらゆる宗教・神秘思想を包含する「真理」を追求するという方針がとられた。結果として、キリスト教の終末論も、ヒンズー教的な「創造・維持・破壊」の繰り返しの中の一つの時代の破滅に過ぎない、として取り込まれた。すべての宗教および真理を体系的に自身に包括するという思想はヒンズー教の特徴であり、麻原はそれを模倣した。

具体的な修行法としては、出家修行者向けには上座部仏教の七科三十七道品、在家修行者向けには大乗仏教六波羅蜜、またヨーガや密教その他の技法が用いられた。特にヨーガにはかなり傾倒しており、その理由として釈迦もヨーガを実践していたからとする[64]

また、オウム真理教の教義には、ヘレナ・P・ブラヴァツキーに始まる近代神智学の影響も指摘されている[注釈 5]。麻原が神智学の原典から直接学んだのか、GLAなどの新宗教の経典や出版物、オカルト雑誌などから間接的に教義を構築したのかは定ではない[65]

教義の柱[編集]

オウム真理教の「五つの柱」として、以下の点が挙げられており、「実践宗教」であることが強調されている。

  1. 最終地点まで導くグル(霊的指導者)の存在
  2. 無常に基づく正しい教義
  3. その教義を実体験できる修行法
  4. その教義を実際に実践して修行を進めている先達の修行者の存在
  5. 修行を進めるためのイニシエーションの存在

無常[編集]

オウム真理教では、修行による苦悩からの解放を説き、無常である欲望煩悩から物理的に超越することを「解脱」、精神的に超越することを「悟り」と呼ぶ。
人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という、仏教の無常観に即した麻原の言葉に象徴されるとおり、この世の中のすべての現象は無常である。よって今感じている喜びはいつか終わりが訪れた時にその喜びが失われることで苦しみを必ず生じさせる。また今は何も無くともいつか自分にとって嫌な現象が訪れた際にも同様に必ず苦しみが生じる。何かを欲求して得られなかった場合も同様に苦しみが生じる。したがって無常である煩悩的な喜びにとらわれることは必ず苦しみを生み出す。
逆に、自己の煩悩を超越し、無常を越えた状態が、ニルヴァーナ(涅槃、煩悩破壊)である。また、そこに留まることなく、更に全ての魂を苦悩から解放し絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の状態に導くことによって自身も絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜のマハーニルヴァーナ(大完全煩悩破壊)、あるいはマハーボーディニルヴァーナ(大到達真智完全煩悩破壊)へと至る。

シヴァ[編集]

オウム真理教の主宰神は、シヴァ大神である。オウム真理教に於けるシヴァは「最高の意識」を意味し、マハーニルヴァーナに住まう解脱者の魂の集合体であり、またマハーニルヴァーナそのものと同義としても扱われる。当時の教団内で麻原彰晃はこのシヴァの弟子であるとともにシヴァの変化身とも称されていた。ヒンドゥー教(インド神話)にも同名のシヴァ神があるが、これはシヴァ大神の化身の一つに過ぎないとされる。

ポア[編集]

ポア(ポワ)とは、ヨーガの用語で「意識を高い世界へと移し替えること」と定義されていた。これは実際の生死とは関わりなく意識の中の煩悩的要素を弱めて意識を高次元の状態に移し替えることと解釈されていた。このポアの中で最も重要なものは死の直後、中間状態にある意識の移し替えで、これは次の生における転生先を決定することになる。
したがって、死の際の意識の移し替えが狭義の「ポア」となる。これが転じて、「積極的に(実際に)死をもたらし、より高位の世界へ意識を移し替え転生させる」という特殊な技法も「ポア」と呼ばれることがあり、これが「『ポア』なる言葉の下に殺戮を正当化する」と検察側が主張する根拠となっている(※これは、一連の犯行の際に、教団幹部らが教団内部で実際に使用した事例などに基づく解釈である)。

ハルマゲドン[編集]

麻原は転輪王経ヨハネの黙示録ノストラダムス酒井勝軍出口王仁三郎らの予言[66]占星術(大宇宙占星学)などをミックスし、第三次世界大戦ハルマゲドンが迫っていると盛んに主張した。
麻原によるとハルマゲドンの原因は、キリストと人類の進化を求めるフリーメーソン精神主義派及び米・中・露のバックにいるものたちの計画であり、中東の石油危機をきっかけとして1997年に始まり1999年8月1日ごろ激化する。日本は不況のためファシズムに傾倒し東南アジアに侵攻、さらにアメリカと対立しNBC兵器プラズマ兵器、電磁パルス攻撃などで蹂躙され殆どが死ぬが、「神仙民族」であるオウムが生き残り、2000年に日本から「6人の最終解脱者」が登場、オウムは地球を救い、旧人類を淘汰して超人による世界をつくるという、アニメ漫画[67]ともいえるストーリーであった[68]

体系[編集]

オウム真理教では、修行の内容を3種類または4種類に分けて説く。小乗(ヒナヤーナ)、大乗(マハーヤーナ)、真言秘密金剛乗/秘密真言金剛乗(タントラ・ヴァジラヤーナ)で、厳密に説かれるときはタントラヤーナとヴァジラヤーナを分ける。ここでは4つの修行体系に分けて述べる。ただし、顕教が大乗を説くのに対して密教は金剛乗(ヴァジラヤーナ)を説くことは多いが、通常の仏教語の定義とは異なる。

ヒナヤーナ[編集]

ヒナヤーナ(小乗)とは、外界とは離れて、自己の浄化・完成を目指す道である。ヒナヤーナはすべての土台である。

マハーヤーナ[編集]

マハーヤーナ(大乗)とは、自己だけでなく他の多くの人たちをも高い世界に至らしめる道(衆生済度、救済)である。教団全体はマハーヤーナと規定される。ただし、完全なる自己の浄化(ヒナヤーナの完成)がなければ、真の意味でのマハーヤーナは成立しないともいう。オウム出版発行の機関紙の名前にも使われている。『マハーヤーナ(MAHA-YANA)』参照。

タントラヤーナ[編集]

タントラヤーナ(秘密真言乗)とは、マントラを唱える等の密教的な修行を指す。ただし、左道タントラなど、現代日本では非倫理的・非道徳的とされる部分については、教団の公式見解において否定されていた。

ヴァジラヤーナ[編集]

ヴァジラヤーナ(金剛乗)とは、グルと弟子との1対1の関係においてのみ成り立つ道である。グルが弟子に内在する煩悩を突きつけ、それを理解できる状況を作り出し、その煩悩を越えさせるマハームドラーなどの激しい方法が含まれる。:このヴァジラヤーナの教義は殺人を正当化するものと解釈されたが、警視庁は教団は現在も、この教義を根幹に据えていると見ている[17]
ヴァジラヤーナの教義の中には、「五仏の法則」と呼ばれるものがあった。
これは「一般的な戒律に反する行為・言動」が、完全に煩悩なく、完全に心において利他心のみであるときには認められるとするもの。「天界の法則であって人間界においてはなし得ない」という注釈のもとで説かれたこともあった。チベット密教に似たような概念がある[74]
麻原は真言宗でも同じことを言っているとした[75]。金剛乗とは密教のことを指す。日本に仏教を伝来した真言宗の開祖である空海の時代は、仏教は密教として扱われたこともあり、国内においては狭義の意味では金剛乗は真言宗のことを指す。真言宗のうちもっとも重要な経典の一つである金剛頂経は仏教学的分類においてはタントラ密教経典に分類される。金剛頂経は「金剛頂経瑜伽十八会指帰」にもある通り全十八会からなり、その内初会「真実摂経」のみが日本に伝わっているが、ニ会以降の内容では後期密教との過渡期の内容に踏み込み、上記の五仏の法則に近いと言える内容も実際に存在する。しかしそれはもちろん全ての真理を悟った仏の世界から既存仏教伝統に対して向けられたカウンター的な恣意的な描写であり、それをそのまま受け取って実世界で実践するというような教えは当然存在しない(当時インドに宗教としてだけでなく仏教論理学など正統な学問として大学まで存在していた仏教界において、自らその秩序を破壊するような実践を推奨する訳がない。あくまでそういう物の見方も可能である、というような高度な瞑想世界を修行僧が意識に展開する為の瞑想用テキストである)。麻原は師匠を持たず独学で書籍から密教を学んだため、このような曲解が教義の中に多数生じている。

麻原の前世[編集]

麻原は自らの出版物を通して、多くの前世を持つと以下のものを称していた。中でも意識堕落天の宗教上のは直前の生であったため、その世界で麻原に帰依していた人たちが多く転生し、現在の信者になっていると教団内では信じられていた。また、道場では「宿命通」というアニメビデオを放映し、麻原のエジプトでの前世の物語を展開していた。ジェゼル王の時代に彼は宰相のイムホテップとして王に宗教的指導を施し、最古のピラミッドである「ジェゼル王の階段のピラミッド」を造ったとしている[76]
1995年当時のオウム真理教横浜支部道場
その他[77]

今日的な影響[編集]

オウム真理教の教義は、元となっている宗教教義を誤って解釈したもの、意味を取り違えたもの、都合主義的な拡大解釈などが少なくない。しかし、密教を中心に原始仏教からキリスト教まで幅広い宗教から摂取して、オウム独自の体系化が図られたため、仏教学者キリスト教神学者を含む宗教学者宗教家が、事件から二十年を経た今でも論評・批判することは稀である。このため麻原の説教録音テープや録画映像が、いまだに布教に用いられてアーレフの信者などに信奉されており、マスコミも折りにつけてそれを問題視した報道を行っている。

評価[編集]

  • 島薗進は、新宗教における「隔離型教団」の代表的な例としてエホバの証人統一教会幸福会ヤマギシ会と共にオウム真理教をあげ[78]、他宗教団体と比較した上で、とくに、人生の価値を非常に低く見る点を徹底した教えが説かれていると主張している[79]。自分自身を仏教の系譜上に位置づけ、天皇への崇敬を示すことは全くないが、ハルマゲドンの危機に際し日本主導による未来を説いた[80]。島薗は、オウムに見られる日本中心的な思考については、首尾一貫していないとしている[80]

修行法[編集]

活動[編集]

1989年(平成元年)3月、東京都に対し宗教法人の認証を申請。6月、東京都は受理を保留したため、オウム真理教は鈴木俊一東京都知事を相手取り、行政の不作為の違法確認訴訟を東京地方裁判所に提起した。8月、東京都が宗教法人として認証。

宗教法人規則認証申請書の記載内容[編集]

設立
1989年8月29日
主たる事務所の位置
東京都江東区亀戸
目的
主神をシヴァ神として崇拝し、創始者の松本智津夫(別名麻原彰晃)はじめ、真にシヴァ神の意思を理解し実行する者の指導のもとに、古代ヨガ、原始仏教、大乗仏教を背景とした教義をひろめ、儀式行事をおこない、信徒を教化育成し、すべての生き物を輪廻の苦しみから救済することを最終目標とし、その目的を達成するために必要な業務を行う。
規則
  • 代表役員は、9人の責任役員の互選により選任され、オウム真理教を代表し、その事務を総理する権限を有する。
  • 責任役員は、信徒および大師のうちから、総代会の決議をへて、代表役員が選任する。
  • 総代会を組織する総代は、信徒および大師のうちから、責任役員会の議決を得て、代表役員が選任する。
  • 信徒とは、オウム真理教の教義を信奉する者で、代表役員の承認を受けたもの。
  • 大師とは、オウム真理教の教義を信奉する者で、信徒を正しく指導できると、代表役員が認めたもの。
役員等
  • 代表役員:松本智津夫(麻原彰晃)
  • 責任役員:松本知子、石井久子、大内早苗、上祐史浩、都澤和子、飯田エリ子、新実智光、大内利裕
  • 監事:満生均史、別所妙子

信者[編集]

教団の信者は在家信徒と出家修行者(サマナ)に分けられる。在家信者は通常の生活を行ないながら、支部道場に赴いて修行したり説法会に参加する。また、休暇期には集中セミナー等も開かれる。

オウムの修行の最終的な目標は、現実世界を越えた真実に到達することで、サマナと呼ばれる出家修行者らはその目標に到達するために、激しい修行を行った。現実世界を超えるためには、この世界の価値観を超越し観念を壊す必要がある。社会の価値観に重きを置かない点で、最初からオウムは「狂気」の思想を内包していた。当初はこの狂気の割合が低く社会性も帯びていたものが、バッシングなどや終末思想などにより次第に崩壊をはじめ、社会性が薄れていった[5]

修行の達成度、精神性の度合いを示すものとして「ステージ」制度があり、時期にもよるが、1995年(平成7年)時点の出家者には、サマナ見習い、サマナ、サマナ長、師補、師(小師、愛師・菩師、愛師長補・菩師長補、愛師長・菩師長)、正悟師(正悟師、正悟師長補、正悟師長)、正大師の各ステージが存在した。師は「クンダリニー・ヨーガ」の成就者、正悟師は「マハームドラー」の成就者で仏教の阿羅漢相当、正大師は「大乗のヨーガ」の成就者と規定され、これらのステージに従って教団内での地位、役職等が定められた。

オウム真理教幹部には難関大学の卒業者も多く、教団の武装化を可能にした村井秀夫土谷正実遠藤誠一など理系幹部を多く抱えていた。また弁護士資格を持つ青山吉伸公認会計士資格を持つ柴田俊郎、医師免許を持つ林郁夫中川智正、芦田りら、佐々木正光、平田雅之、森昭文、小沢智、片平建一郎など社会的評価の高い国家資格を持つ者も多くいた。

他にも建設会社出身で教団の不動産建設やロシアとの交渉を手がけた早川紀代秀、元暴力団員の中田清秀山形明など自衛隊員、松任谷由実のアルバム制作にも関わったことのあるデザイナーの岐部哲也彰晃マーチなどを作曲したミュージシャンの石井紳一郎、盗聴技術を持っていた林泰男、元日劇ダンシングチーム鹿島とも子など幅広い層の信者を有していた。

以下に示すのはオウム真理教の雑誌ヴァジラヤーナ・サッチャが1995年6月28日(強制捜査・オウム事件発覚後)に行った出家修行者対象のアンケートデータである[82]

旧・青山総本部(東京・南青山、2011年)
  • 性別
    男 459人(41%)
    女 661人(59%)
    計1120人
  • 年齢
    平均 30.1歳
    最多 26歳(102人)
  • 他の宗教団体への入信経験
    あり 35%
    なし 65%
  • 学歴
    大卒 37.8%
    短大卒 7.0%
    専門学校卒 16.7%
    高卒 25.2%
  • 入信動機
    1位 本を読んで 273人
    2位 勧誘 171人
    3位 出家者・修行者の姿を見て 61人
    4位 教義に納得して 52人

国外での活動[編集]

1991年(平成3年)には、麻原彰晃がロシアを初訪問した。当時のモスクワ放送もこの模様を伝え、クレムリン宮殿で宗教劇の上演が行われたことやアナトリー・ルキヤノフ最高会議議長と会談したことを報じた。モスクワにおいて麻原は、当時ロシア副大統領だったアレクサンドル・ルツコイやロシア連邦首相のヴィクトル・チェルノムイルジン、モスクワ市長のユーリ・ルシコフ等、ロシア政界の上層部と接触。翌年には後に安全保障会議書記となるオレグ・ロボフが来日し麻原から資金援助の申し出を受けるなど、オウムのロシア進出に拍車がかかった。

モスクワ放送(現・ロシアの声)の時間枠を買い取って「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」(御国の福音)というラジオ番組が1992年4月1日から1995年3月23日まで放送された。またロシアで「キーレーン」というオーケストラを組織。日本からロシアの施設での射撃訓練ツアーがオウム関連の旅行会社によって主催されたり、他にもロシアからヘリコプターなどが輸入されている。またロシアに数ヶ所の支部を開設。ソ連崩壊後に精神的支柱が揺らいでいた当時、ロシアの多くの若者がオウム真理教に惹きつけられた。

このためオウム事件後、実はオウムはロシア北朝鮮のスパイだという陰謀説がまことしやかに語られるようになった。上祐史浩は「麻原は自分が一番であり、利用することはあっても配下になるタイプではない」「(事件を陰謀としたい)Alephを助長している」と批判している[83]

事業[編集]

オウム真理教は、宗教活動のかたわら、多彩な事業を行っていた。業種は、コンピューター事業、建設不動産出版印刷、食品販売、飲食業、家庭教師派遣土木作業員などの人材派遣など多岐におよび、さながら総合商社の観を呈していた。数多くの法人を設立し、ワークと称して信者をほぼ無償で働かせていたため、利益率は高く、特に中心となっていたのはパソコンショップ『マハーポーシャ』の売り上げで、公安調査庁によると年間70億円以上の売り上げ(1999年当時)があり、純利益は20億円に迫る勢いであった。出家信者200人がそこで働いていた[84]

コンピューター関係
  • マハーポーシャ - 95年11月からは「トライサル」「グレイスフル」「PCバンク→PC REVO」「ソルブレインズ」「ネットバンク」と名称を変えコンピューター事業を継続した[85]
  • マハーポーシャ・オーストラリア[86]
  • マハーポーシャ・台湾[87]
  • マハーポーシャ・ウクライナ[88]
  • APC名古屋[89]
  • CPUバンク[90]
飲食業
  • オウムのお弁当屋さん[91]
  • うまかろう安かろう亭[92]
  • うまかっちゃん[93]
  • 運命の時[94]
出版
  • 株式会社オウム -出版業だけでなく、ヨガ教室を開催したりしていた。1984年設立[95]
  • オウム出版[96]
  • なあぷる[97]
  • 巧人館[98]
その他
  • ドゥプニールミリオネール - ロシア射撃ツアーを企画。越川真一が代表[99]
    • 神聖真理発展社 - 資産隠し目的[100]
  • マハーサンパッティ[101]
  • アルス総合建築事務所[102]
  • アルファ企画家庭教師派遣グループ[103]
  • M24 - スーパーマーケット[104]
  • ドンファン - テレクラ[105]
  • スーパースターアカデミー(SSA) - エアロビクス教室。鹿島とも子が校長[106]
  • ヴァジラクマーラの会 - 美女信者による修行教室[107]
  • マイトリーバ・ベビーシッター - ベビーシッター派遣会社。二ノ宮耕一が代表[108]
薬品・武器購入目的のダミー会社
  • 長谷川ケミカル[109]
  • 株式会社ベル・エポック[110]
  • ベック株式会社[111]
  • 下村化学[112]
  • ぶれーめん - 井上嘉浩が役員[113]
  • オウムプロテクト - ロシアに設立した警備会社[114]
不動産取得目的のダミー会社

他にもスリランカの紅茶園などを経営していた[87]

教団での麻原の絶対性[編集]

信者時代「大師」の肩書きを持っていた元信者によれば、「オウムでは、肝心なことは常に教祖が決めているんです。教祖が知らないなんていうことはありえない」と言っている[24]。幹部であろうとも麻原の指示は絶対であり、オウム真理教附属医院の患者の入退院の判断すら麻原の指示を仰がねばできなかったという[24]

公安調査庁は信者の証言を引用して「正悟師以上になると尊師のロボット」「形式上はピラミッド形組織だが基本的には尊師と信徒は1対1の関係」としている[117]

関連年譜[編集]

一連の事件における被害者数は、死者30人・重軽傷者6000人以上。さらに教団内に関しては判明しているだけで死者5人、行方不明者は30人以上[6]

1980年代[編集]

1983年 麻原彰晃こと松本智津夫、東京都渋谷区桜丘に、仙道ヨーガ東洋医学などを統合した(超)能力開発の指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」を開設[118]
1984年2月14日 鳳凰慶林館に代わり「オウムの会」を東京都渋谷区で創設。当初はヨーガサークルであった[23]
1985年 オカルト雑誌「ムー」「トワイライトゾーン」に麻原の空中浮遊写真が掲載される[119]
1985年 麻原、「アビラケツノミコト(神軍を率いる光の命)になれ」と啓示を受けたとする[120]
1986年4月 オウム神仙の会」に改称[119]
1986年7月 麻原がヒマラヤで最終解脱したと主張する[119]
1986年9月 僧伽(出家制度)発足[119]
1986年 『超能力秘密の開発法』『生死を超える』出版[119]
1987年2月 大阪支部開設[23]
1987年2月24日 ダライ・ラマ14世とインドで会談
1987年8月 オウム真理教」に改称[23]。本部を渋谷区から世田谷区に移し、月刊誌『マハーヤーナ』発行開始[23]
1987年11月 ニューヨーク支部を開設(初代支部長は上祐史浩
1988年7月6日 ダライ・ラマ14世とインドで会談
1988年7月 日本シャンバラ化計画発表
1988年8月 静岡県富士宮市富士山総本部を開設[23]
1988年9月22日 在家信者死亡事件。富士山総本部に来ていた在家信者が修行中に死亡。遺体は、護摩壇で焼かれた上に、旧上九一色村精進湖へ遺棄
1988年11月 江東区に東京総本部を開設
1989年2月10日 教団最初の殺人事件、男性信者殺害事件発生
1989年3月1日 東京都に対し宗教法人の認証申請
1989年6月22日 坂本堤弁護士らがオウム真理教被害対策弁護団を結成
1989年8月16日 東京都選挙管理委員会に真理党の政治団体設立を届出
1989年8月25日 宗教法人認可(8月29日設立登記)[23]
1989年10月2日 サンデー毎日が『オウム真理教の狂気』の連載をスタートし、高額な布施未成年出家者に対する親権者監護権侵害などを取り上げ糾弾する。各メディアもこれに追随
1989年10月21日 オウム真理教被害者の会設立[25]
1989年10月26日 青山吉伸上祐史浩早川紀代秀が東京放送(現・TBSテレビ)千代田分室を訪れ、取材内容に抗議、放送を中止するよう圧力をかける(TBSビデオ問題
1989年10月31日 夜、青山吉伸上祐史浩早川紀代秀が横浜法律事務所を訪問した。10月29日に申し入れた事前の約束では青山1人の予定だった[121][122]
1989年11月4日 坂本堤弁護士一家殺害事件[123][122]。遺体はオウムが持ち出したため、失踪扱いに。周囲は当初から拉致と見ていた
1989年11月7日 坂本堤弁護士に関して捜索願が提出された[123]
1989年11月15日 坂本堤弁護士に関し公開捜査に切り替えられた[123]
1989年11月18日 坂本堤弁護士に関し教団が記者会見し「(現場に落ちていたプルシャについて)坂本弁護士が被害者の会の親から預かったもの[注釈 6]か、第三者[注釈 7]が故意に置いたと考えるのが自然[121]」「警察からは事情聴取も受けていない[123]」「申し入れがあれば捜査に協力する[123]」と発表[123]
1989年11月19日 前夜の会見を受けてか日曜日にも関わらず神奈川県警察は教団幹部に事情聴取を申し入れたが、教団側は「集中修行の期間」を理由に事情聴取を拒否[123][注釈 8]
1989年11月21日 11月19日に幹部事情聴取を拒否した理由である集中修行の期間であるにもかかわらず、幹部がアムステルダムに出国[123]
1989年11月29日 富士宮市議会で社会党の渡辺利光市議がオウム真理教について市当局に質問。富士宮総本部には7月に216人が住民登録されていたが、8月に東京都杉並区宮前のある住所[注釈 9]に向けて一斉に転出が始まり、11月1日までに17人に減ってしまったという[123]
1989年11月30日 教団はボンで会見[123]。坂本堤弁護士失踪は横浜法律事務所が仕組んだ狂言だと主張[121]。一行にはドイツ語を話せるものがおらずボン支部へも道に迷い語学が堪能な記者が見かねて教えたという[121]
年末 一行はニューヨークから帰国後テレビの生番組にフル出演、その後さらにインドに渡り帰国[122]

1990年[編集]

1月7日 麻原自身を含む幹部25名が真理党を結成し中野文化センターにおいて第39回衆議院議員選挙への出馬表明[122]。ただし演説したのは麻原だけ、他の24人は本名さえ明かさずホーリーネームでの出馬であった[122]。会場では麻原のお面をかぶった運動員が踊り、「ショーコーショーコー」と麻原の名前を連呼する歌を流し、集まった300人以上の信者が手拍子するという状態で、江川紹子は「選挙運動といっても、その実質は教団や教祖の宣伝」としている[122][22]
2月18日 第39回衆議院議員総選挙執行。全員落選。これ以降、社会敵視傾向に拍車がかかる(オウム真理教の国家転覆計画
3月 生物兵器ボツリヌス菌の研究を開始
4月 石垣島セミナー。教団の立て直しに成功。ただし当初の目的であった日本本土へのボツリヌス菌散布は実行できず
4月5月 首都圏にボツリヌス菌を散布するが失敗
5月 日本シャンバラ化計画の一環として熊本県阿蘇郡波野村の土地を5000万円で入手[29]・造成。シャンバラ精舎とする。ホスゲン爆弾計画開始[119][119]
8月16日 オウム真理教国土利用計画法違反事件。熊本県が国土利用計画法森林法違反で教団を告発
10月22日 波野村の教団施設が熊本県警の強制捜査を受ける。このため教団武装化を中断[119]
10月30日 国土法事件で早川紀代秀満生均史が出頭、逮捕
11月 国土法事件で青山吉伸石井久子大内利裕が逮捕[29]
時期不明 山梨県旧上九一色村に進出開始[124]

1991年[編集]

3月 ダンスオペレッタ『死と転生』公演開始[125]
3月7日 ニフティサーブに「オウム真理教会議室」を開設
5月26日
6月9日
インド訪問[125]
7月3日
7月13日
インド訪問[125]
8月19日
8月26日
チベット訪問[125]
8月26日
8月31日
ラオス訪問。国賓待遇[125]
9月28日 朝まで生テレビ!』にパネリストとして麻原、上祐、村井秀夫杉浦実が出演。池田昭島田裕巳など兼ねてからオウムに共鳴的であった宗教学者も出演した。オウムのライバルであった幸福の科学幹部らも出演し激論を繰り広げた。番組途中に麻原が番組の運行が幸福の科学に有利に進められ、発言の機会も幸福の科学の方が多いなどと興奮し、大声で司会の田原総一朗に食ってかかり、パネラーの一人であった下村満子が「あなたは解脱者を自称するのに、どうしてそんなことで興奮するんですか」と麻原をたしなめる一幕もあった。江川紹子はオウム側が優勢であったと評しており、実際にこの番組をみてオウムに入信した信者もいた[126]
9月30日
10月3日
スリランカ訪問[125]
10月 麻原、キリスト宣言。自分をキリストメシア)であるとする[125]
10月5日
10月12日
インド訪問[125]
11月 信州大学東北大学気象大学校東京大学京都大学、世田谷区民会館で麻原講演会[125]
12月 麻原、『ビートたけしのTVタックル』に出演

1992年[編集]

1月14日 マハーポーシャ設立
2月 来日したロシア共和国オレグ・ロボフらと会談。ロシア進出のきっかけとなる
3月7日
3月16日
ロシア訪問[125]。ルツコイ副大統領と会談
4月1日 オウム真理教放送「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」開始。ロシアから放送[127]
5月 スリランカ訪問[127]
5月27日 教団が長野県松本市に取得した土地の地主が、売買賃貸契約の無効と土地の明け渡しを求めて教団を提訴
6月 不動産会社「マハーポーシャ・オーストラリア」を設立、教団の核開発計画のため、直後に500,000オーストラリアドル(約3000万円)で西オーストラリア州パースの北東700kmにあるレオノーラ地区バンジャウォーン(バンジャワン)牧場を購入した[128]
6月16日 「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」、英語放送開始[127]
北海道大学、京都教育文化センター、名古屋大学で麻原講演会[127]
7月 インド訪問。ダライ・ラマ14世と会談[127]
スリランカ訪問。チャーター機の機長に機内食がまずいと言いがかりをつけトラブルに[127]
ブータン訪問。国賓待遇。麻原にブータン政府から「最聖」の称号を与えられたと発表[127]
炭疽菌研究開始。以後、徐々に武装化を再開[127]
9月 モスクワ支部を開設(初代支部長は新実智光[23]
麻原が新実智光遠藤誠一豊田亨ら幹部を含む25人の信者を連れてオーストラリアを訪問、バンジャウォーンでウランを探すため約1ヶ月滞在。パース空港到着時、一行が塩酸などの劇薬を所持していたことが明らかになり、遠藤誠一など2人が危険物持ち込みで罰金刑に処せられた。豊田亨は現地に「豊田研究所」と札のついた専門の化学実験室を持っていた[128]
9月14日 オカムラ鉄工乗っ取り事件
10月 コンゴ訪問[127]
11月 キーレーン交響楽団結成
東京工業大学信州大学大阪大学千葉大学横浜国立大学東京大学京都大学で麻原講演会[127]。麻原、講演に同伴した村井秀夫ら信者に「またヴァジラヤーナを始めるぞ」と発言[30]
インド訪問。マハーボディ寺菩提樹の下に座りトラブルに[127]
11月23日 京都大学で講演し「2000年までに破局が訪れる」と予言[23][注釈 10]
12月10日 南青山に東京総本部開設。同時に亀戸の旧総本部は新東京総本部と改称
12月18日 松本支部で「93年の後半、特に10月以降急激に新しい変化」と予言[23]
時期不明 マハーサンパッティ設立[23]

1993年[編集]

1月 台湾訪問[5]
3月 台湾訪問[5]
3月21日 麻原が杉並道場での説法で「1997年にハルマゲドンがある」旨の発言[23]
4月8日 麻原が広島支部で説法、この頃から説法に「核兵器」「細菌兵器」「化学兵器」「軍備」という言葉が頻発するようになる[23]
4月9日 麻原が高知支部での説法で初めてサリンに言及[23]
5月 富士清流精舎建設[129]
6月 皇太子成婚パレード炭疽菌散布計画
6月6日 オウム真理教男性信者逆さ吊り死亡事件。遺体は幹部らによって遺棄
6月28日 第1次亀戸異臭事件。新東京総本部から炭疽菌を散布するが失敗
7月2日 第2次亀戸異臭事件
8月 土谷正実サリン合成に成功[129]。同時にサリンプラントの建設を開始(サリンプラント建設事件
首都圏に炭疽菌を散布皇居創価学会に炭疽菌を散布したが失敗[129]
9月 インド訪問[5]
10月 麻原、教団が毒ガス攻撃を受けているとの主張を始める[129]
11月 第1次池田大作サリン襲撃未遂事件。サリンを使用した初の事例
ロシア訪問[5]
12月18日 第2次池田大作サリン襲撃未遂事件。現場警備担当の創価学会員数名負傷。実行時に防毒マスクを外した新実智光が重症
時期不明 化学薬品購入目的で下村化学、長谷川ケミカルを設立[23]。ロシアへの射撃訓練ツアーを企画するドゥブニールミリオネールなどを設立[23]

1994年[編集]

1月30日 薬剤師リンチ殺人事件
2月 中国本土訪問[31]
麻原、「東京にサリン70トンをぶちまくしかない」と幹部に説法[31]
3月 自動小銃の密造を開始。旧ソ連のAK-74を密造[31]
3月27日 宮崎県旅館経営者営利略取事件、被害者は5ヶ月間監禁され、解放後の9月2日に告訴
4月 富士川河口付近でサリン散布実験[31]
5月 LSD密造開始
5月9日 滝本弁護士サリン襲撃事件
6月27日 麻原の体調悪化に伴い省庁制の発足式を挙行。22省庁を開設し大臣と次官を設置。当時の教祖、麻原は神聖法皇に。3女を法皇官房長官とする[5]
松本サリン事件長野地裁松本支部官舎に隣接する住宅街でサリンを噴霧し、8人を殺害。重軽傷660人。当初は被害者の一人であった河野義行に疑惑の目が集まった[130][130]
7月 覚醒剤密造開始
フランス訪問[5]
7月9日 未明、第7サティアンに建設中のサリンプラントで薬品漏れ事故が発生。周辺で異臭騒ぎがあり、治療が必要な人的被害はなかったものの近くのブナなどの葉が褐色に変色、教団側は否定したが地元の人たちは発生源は教団だと確信していた[130][128]
警察当局が付近の土を採取し、警察庁科学警察研究所で調べたところ、サリン製造の際の副生成物が検知され、松本サリン事件で現場に残留していた副生成物とほぼ一致したことが判明[131]
7月10日 オウム真理教男性現役信者リンチ殺人事件。スパイ疑惑をかけられた信者が拷問の末死亡
7月15日 50℃の温熱修行による男性信者死亡事件。戒律を破ったとして温熱修行をさせられた信者が死亡
夕方、7月9日に続き第7サティアンで再び異臭騒ぎ[128]
7月30日 河野義行が退院して「顔も名前も出して結構です」として記者会見を開き、自らの無実を訴えた[130]
8月 ロシア訪問[5]
8月10日 河野義行が病院で書いた手記が文藝春秋9月号に掲載されて発表され、この後徐々に報道の扱いが変化して行く[130]
9月 土谷正実VXの合成に成功
9月 滝本太郎弁護士VX毒殺未遂事件
機関誌「マハーヤーナ」に代わって過激路線の「ヴァジラヤーナ・サッチャ」が創刊される[31]
9月20日 江川紹子ホスゲン襲撃事件
11月 強制捜査の噂が流れサリンプラント建設を一時中断[132][133]
11月4日 滝本太郎弁護士ボツリヌス菌毒殺未遂事件
12月2日 駐車場経営者VX襲撃事件
12月5日 鹿島とも子長女監禁事件
12月10日 ピアニスト監禁事件
12月12日 会社員VX殺害事件
時期不明 衆議院議員小沢一郎細川護熙幸福の科学総裁の大川隆法漫画家小林よしのりタレントデーブ・スペクターなどの暗殺を計画

1995年[編集]

1月1日 「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」中で麻原彰晃は「95年は、社会的に見ても、世界的に見ても、非常に不安定な時代を迎えるわけだが、オウム真理教にとっては逆に外的な圧力は弱められ、大発展の年になるはずである」と予言したが、これは大きく外れた[134]
読売新聞が上九一色村の第7サティアン周辺でサリンを生成した際の残留物質である有機リン系化合物が検出されたとスクープ[128]、これを受けてサリンプラントを解体しシヴァ大神を祭った神殿に改装するよう麻原が指示。保有していたサリンも処分された
密造していたAK-74が完成
1月4日 上九一色村の教団施設にサリンを噴霧したとして、教団信徒18人が村内の肥料会社社長を殺人未遂罪で告訴。教団は会見を開いて毒ガス攻撃を受けているためサリン副生成物が検出された旨主張、上九一色村のオウム対策委員会副委員長で産業廃棄物処理業を営んでいた人などを殺人未遂罪で刑事告訴した旨明らかにした。これをきっかけに教団とサリンの関係を公然と論評するマスコミも出て来た[128]
オウム真理教被害者の会会長VX襲撃事件
1月8日 教団信者が占星術を用いて神戸で地震があることを「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」内で予言[135]
1月17日 阪神淡路大震災発生。1月8日の予言的中と宣伝[136]
2月9日 1月4日に教団が行なった刑事告訴について、告訴された一人が麻原ら4人を誣告罪名誉毀損罪甲府地方検察庁に告訴、さらに教団と幹部4人を相手に1億円の慰謝料を求めて甲府地方裁判所に民事訴訟を提起[128]
2月28日 公証人役場事務長逮捕監禁致死事件、オウムに拉致された男性が死亡。犯行に使われたレンタカーから教団信者松本剛の指紋検出が報じられる
3月13日 「オウム真理教被害対策弁護団」の滝本太郎弁護士が警察庁長官検事総長宛に「本当にオウムがサリンを撒く可能性がある」と速達で上申
3月15日 霞ケ関駅アタッシェ事件。東京・霞ケ関駅構内で、オウムが設置した不審なアタッシェケース(中身は超音波振動による自動式のボツリヌス菌噴霧器)が発見され、警視庁爆発物処理班が出動する
3月17日 複数の教団幹部のステージ昇格を伝える尊師通達が発令される(当月付けから7月付けまで計23名)
3月17日 警察庁において警視庁機動隊捜査一課捜査員によるオウム真理教に対する一斉家宅捜索を3月22日に行う決定[131]
3月18日 「オウム真理教から被害者を救出する会」主催による1万人集会
リムジン謀議にて地下鉄サリン事件の実行が決定される
3月19日 脱会希望の大学生を拉致した容疑で大阪府警が教団大阪支部に家宅捜索、信者3名を逮捕。夜、島田裕巳宅爆弾事件東京総本部火炎瓶事件を起こす
3月20日 地下鉄サリン事件。東京の営団地下鉄(現・東京地下鉄)でサリンを撒き、13人を殺害、約6000人が重軽傷
3月22日 警視庁が公証人役場事務長逮捕監禁致死事件でオウム真理教信徒の逮捕状を取り、上九一色村の教団施設など1都2県の施設25カ所を一斉捜査
4月1日 オウム真理教附属医院の佐々木正光医師が麻原について肝硬変Q熱、慢性心不全心内膜炎の疑い、皮膚炎と5つもの病名を挙げて「約1ヶ月の加療及びベッド上安静が必要であると判断する」との診断書を作成したが、5月16日に逮捕された麻原は健康上何の問題もなかった
4月18日 ロシア全土における活動禁止命令
4月23日 村井秀夫刺殺事件
5月4日 1月の肥料会社告訴を主導した弁護士の青山吉伸が5月4日、名誉毀損罪で逮捕
5月5日 新宿駅青酸ガス事件
5月6日 林郁夫地下鉄サリン事件の実行を自供
5月16日 東京都庁小包爆弾事件
山梨県上九一色村の教団施設を一斉捜査。第6サティアン内にて麻原彰晃こと松本智津夫を逮捕[134]
6月30日 東京地方検察庁東京都が法人解散請求を東京地方裁判所に申請[137]
10月30日 東京地方裁判所宗教法人法に基づく解散命令を決定(同年12月確定)
10月31日
11月1日
米上院政府活動委員会の調査小委員会がこの期間に開いた公聴会で、CIAの調査とサム・ナンの執筆による、100ページ余りの『オウム真理教事件報告書』が提出される[138]
12月 国会で宗教法人法改正法が成立

1996年以降[編集]

1996年6月19日 麻原に代わり、長男(当時3歳)と次男(当時2歳)の二人を「教祖」とした。麻原の地位は「開祖」に
1996年8月24日
10月下旬
麻原彰晃逮捕後の信者の引き締めを目的とする「観念崩壊セミナー」が、麻原の三女が中心となり断続的に行われ、多くの負傷者を出した[5][139]
1997年1月31日 公安審査委員会、オウム真理教への破壊活動防止法の適用を棄却
1997年 上九一色村に最後まで残っていた信者達の撤収後、村にあったサティアンは閉鎖、取り壊された(第7サティアンのみ捜査の為残っていた)
1999年4月 東京都内の繁華街で“復活”をアピール[140]
1999年9月29日 オウム真理教休眠宣言
1999年12月3日 団体規制法と破産特別法が成立
2000年2月1日 団体規制法に基づく公安調査庁長官の観察処分(3年間)が効力発生
2000年2月4日 宗教団体・アレフ」として再編
2000年7月1日 ロシア麻原彰晃こと松本智津夫の武力奪還・対日テロを図ったオウム信者逮捕シガチョフ事件
2011年12月31日 平田信が警視庁丸の内警察署出頭。翌日に逮捕監禁致死の容疑で逮捕
2012年6月3日 菊地直子相模原市内の潜伏先で身柄を確保された。2015年11月27日無罪で釈放
2012年6月15日 高橋克也が東京都大田区の漫画喫茶内で身柄を確保される。これによりオウム関連の特別指名手配者はすべて確保された

公称信徒数[編集]

ひかりの輪を含む[141]

  • 1985年12月 - 15人
  • 1986年10月 - 35人
  • 1987年2月 - 600人
  • 1987年7月 - 1,300人
  • 1988年8月 - 3,000人
  • 1995年3月 - 15,400人(出家1,400人、在家14,000人)
  • 1997年 - 1000人
  • 1999年 - 1500人
  • 2000年 - 1,115人(教団が公安調査庁に報告した数)
  • 2002年 - 1650人
  • 2003年2月 - 1,251人(教団が公安調査庁に報告した数)
  • 2005年 - 1650人
  • 2008年 - 1500人
  • 2011年 - 1500人
  • 2014年 - 1650人
  • 2016年 - 1650人(出家300人)+ロシア460人

オウム真理教を題材・モデルにした作品[編集]

  • 「A」シリーズ - 森達也によるドキュメンタリー作品。映像作品には『A』『A2』がある。
  • 地獄 (1999年の映画) - 本作にオウム真理教をモデルにした新興宗教団体「宇宙真理教」が登場する。主人公である16歳の少女リカはその教団の信者であったが、ラストで他の信者達とともに脱会する。
  • ホーク/B計画
  • 煉獄の使徒 - 馳星周による小説作品。
  • カルマ真仙教事件 - 濱嘉之による小説作品。「阿佐川公照」などが登場する。
  • カナリア (映画)
  • 愛のむきだし
  • BLOODY MONDAY
  • 「F」 - オウム真理教について歌われている。
  • 未解決事件 File.02 実録・オウム真理教 - 元幹部の男性や、1980年代に入信した古参信者で、教団元幹部の女性の証言を元に、主演・萩原聖人で、教団初期からのオウム真理教の内部をNHKが詳細にドキュメンタリードラマ化。NHK BSプレミアムで、2012年3月31日・午前1時30分から放送された。放送時間101分。NHKスペシャルでは、さらに調査を進め、『未解決事件』シリーズとして、NHK総合テレビジョンにて2012年5月26日と5月27日に3部構成で放送された。番組放送終了の翌月、菊地直子容疑者・高橋克也容疑者の逮捕を受けて、異例の緊急再再放送が2012年6月24日に放送され、また、NHK BSプレミアムで、2012年7月16日に3部構成にて同番組が放送された[142]

注釈[編集]

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  1. ^ 読みは「シヴァたいしん」。オウム真理教におけるシヴァ大神はヒンドゥー教シヴァ神よりも更に崇高な存在とし、ニルヴァーナを超えるマハーニルヴァーナに存在する真理勝者の集合体であり、すべての根本神
  2. ^ ブッダの心。
  3. ^ 立候補者が25名以上の政党には公職選挙法上確認団体と認められる利点がある。
  4. ^ オウム真理教の元代表野田成人は、教団の中では教祖である麻原彰晃の書籍以外は読んではいけないことになっていたが、中沢新一の『虹の階梯―チベット密教の瞑想修行』(1981年、平河出版社)はネタ本として半ば公になっており、教団内にふつうに存在し皆が参照していたと述べている。また、宗教学者の大田俊寛によると、ポアという言葉をオウム真理教に教えたのは本書である。[62]
  5. ^ 近代神智学とは、西洋と東洋の 智の融合・統一を企図したものであるされ、西欧神秘主義の伝統的な諸思想をアジアの諸宗教の用語によって装飾または再解釈したものであるが、チベットの霊的達人により伝えられた秘伝仏教であり、普遍の叡智であるとされた。ブラヴァツキーの死後、神智学の組織である神智学協会はインドに本部を構え、ヨーガ理論とその実践による霊性の向上と霊能力開発を強調するようになったが、社会学者の樫尾直樹は、こういった面を含めて近代神智学の構えはオウム真理教の諸宗教の編集の仕方に非常によく似ており、その影響が伺われると指摘している。[65]
  6. ^ これは1個だけであり法律事務所に保管されていたため可能性はない。
  7. ^ 当初の横浜法律事務所との話の中で、教団は創価学会の名前を挙げた。
  8. ^ 11月17日夜にキャンセルされている。
  9. ^ 麻原彰晃が総選挙で出馬する選挙区。
  10. ^ 麻原の予言は自作自演であることから、自白とも取ることができる。

出典[編集]

  1. ^ 東京都に提出された宗教法人規則認証申請書より
  2. ^ a b オウム真理教について | 公安調査庁
  3. ^ 麻原彰晃モスクワラジオ電子自動制御大学講演会説法集説法集「宗教を科学する‐5大エレメントと分子運動」1992年4月25日
  4. ^ 『尊師に聞く1』AUM PRES 1992年 p.44
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 松本麗華『止まった時計』麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記
  6. ^ a b 『生きている不思議 死んでいく不思議』-某弁護士日記「死刑執行回避署名のお願い」
  7. ^ 目次 オウム真理教 反社会的な本質とその実態(警察庁)
  8. ^ 麻原彰晃」逮捕から20年 Yahoo!ニュース THE PAGE 5月16日(土)6時0分配信「キーワードで見るオウム真理教」
  9. ^ 高山文彦 『麻原彰晃の誕生』 文藝春秋、2006年、170-173頁
  10. ^ 目川重治 『目川探偵の事件簿』 データハウス、1995年、16-18頁
  11. ^ 晴義『検証・オウム真理教事件』社会批評社、1996年、p.84
  12. ^ a b c d e 『「オウム真理教」追跡2200日』p.145-152「ダライ・ラマ側近の証言」。
  13. ^ 麻原彰晃『イニシエーション』 1987年 p.1-2
  14. ^ 「坂本弁護士一家殺害事件5年10ヶ月の軌跡そして「真相」坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会 弁護士 瀧澤秀俊
  15. ^ a b 東京キララ社 2003, p. 23.
  16. ^ オウム真理教制作ビデオ「オウム真理教専属オーケストラ”キーレーンのすべて”-総監督麻原彰晃」
  17. ^ a b 未曾有のテロ(警視庁公式ウェブサイト)
  18. ^ 「神話 聖地訪れ「私はブッダ」」『朝日新聞』東京朝刊、1995年10月22日、p.31
  19. ^ a b c d オウム真理教放送の開始から中止まで(アジア放送研究会制作「オウム真理教放送録音集」解説文から)
  20. ^ 毎日新聞社会部『元愛弟子への無期判決―オウム「教祖」法廷全記録3』 p.325
  21. ^ 『オウム解体』宮崎学vs上祐史浩(雷韻出版 2000年5月1日
  22. ^ a b c d 『「オウム真理教」追跡2200日』p.114-121。
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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公式ウェブサイト[編集]

その他[編集]