救済

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救済(きゅうさい、英語: salvation)とは、ある対象にとって、好ましくない状態を改善して(脱して)、望ましい状態へと変える(達する)ことを意味する。宗教的な救済は、現世における悲惨な状態が宗教に帰依することで解消または改善されることも意味する。様々な宗教で極めて重要な概念であり、救済を強調する宗教は救済宗教とも呼ばれ、救済宗教」で通常「救済」という場合は、現世の存在のありようそのものが、及びを越えた存在領域にあって、何らかの形で決定的に改善されることを表すのが一般である。

救済の型の分類[編集]

  • 救済される場所による分類:来世救済型 対 現世救済型
  • 救済される対象による分類:個人救済型 対 集団救済型
  • 救済される方法による分類:自力救済型 対 他力救済型(≒因果説(因果律)型 対 予定説型)

救済の型には、生者や死者や魂などが天国や極楽や理想郷などの「あの世」に行く「来世救済型」と、神や仏や菩薩や救世主や理想郷などが「この世」に現れる「現世救済型」がある。また、個人単位で救済される「個人救済型」と、民族や国家や人類全体など集団単位で救済される「集団救済型」がある。また、信仰や苦行や禁欲や悟りや善行による「自力救済型」(≒「因果説型」)と、神や仏や菩薩や救世主などの恩恵や慈悲による「他力救済型」(≒「予定説型」)がある。

救済概念の仮想的発展過程[編集]

そもそも、人間(=自己の消滅)という絶対に避けられない根源的恐怖から逃れるために(そしてこれこそが、人間が「救済」(=自己の永続)を求める、原初的にして根源的な動機である)、太古から様々な妄想を想像し、自らを慰めてきた。

最も最初にして単純な発想(願い・希望)は、死んだ人間が、その肉体のまま、「生き返る」ことであろう。そうした発想では、死は一時的な「眠り」に擬され、生き返りは「目覚め」に擬される。これが「復活」と呼ばれる救済の一形態である。

しかし現実には、死んだ肉体はすぐに腐敗を始め、いずれ消滅する。そこで、人間は、(肉体の腐敗を食い止め、)なんとか原型に近く保存しようと、(当時の保存技術を用いて、)出来うる限りの虚しい抵抗を試みた。その現代的な延長線上に、ホルマリン漬けや、液体窒素による肉体(の頭部(脳))やDNAサンプルの冷凍保存やクローン技術などがある。

肉体が腐敗すれば骨が残る。そこで肉体に対してだけでなく、骨を肉体のせめてもの代わりにするという、フェティシズム(執着)も生じた。

しかしそうして保存された肉体や骨は、生前の姿とは大きく異なるし、そもそも、そうした肉体や骨が残らなかったり所在不明になる場合もある。そうした場合、生き返るべき対象物がないのだから、復活=救済はおぼつかない。

そうした、病みて苦しみ、老いて醜く、死して腐敗する、不完全で不安定なもの(肉体)が永遠の存在であるべき自己の本質であるはずがない、自己の本質は肉体に属するものではない、と考えられた。

そこで、肉体という、物質的(肉的)な在り方に頼ることのない、自己の保存方法が想像された。それが精神的(霊的)な在り方に頼る方法である。

つまり、「自己の本質的な部分」(通俗的には霊魂アートマン(真我)などと、様々に呼ばれる「何か」)が、肉体とは別に存在し、それは死後も存在すると考えら(仮想さ)れたのである。これが、(肉体による方法とは別の)「救済」の原初的にして根源的な形態といえる。そうした「霊魂」の類は、「霊魂」単独で存在でき(そのように定義されているので当然)、現実世界や、生きている人間や、他の「霊魂」に、干渉できるとされた。

こうした救済における、物質的(肉的)な方法と、精神的(霊的)な方法は、どちらかのみ(純物質的・純精神的(純霊的))による立場もあるが、実際には多くの場合、両者が複雑かつ密接に絡み合い(折衷的)、様々な宗教と教義を生み出してきた。

例えば、(通俗的に、)即ち、人間とは肉体と霊魂からなる存在であり、「死」とは肉体から「自己の本質的な部分」(霊魂)が分離した結果と考えられた。(これは類似概念としての幽体離脱を派生する。)

その際、「自己の本質的な部分」(霊魂)は、「死後の世界」(冥界)というものが想定され(「死後の世界」という概念は、おそらく、最初は漠然としたものであったが、後に、天国煉獄地獄など、様々に、分化・発達していったと考えられる。)、そこに行くものと考えられた。(守護霊幽霊悪霊として、この世界に留まるという、ヴァリエーションあり。)さらには、それらの死後の世界の中でも、より好ましい世界へ行くことも「救済」とされた。

「死」の定義が定まれば、「生」(誕生)の定義も自ずと定まる。即ち、「生」とは、(不死にして永遠の存在である、)「自己の本質的な部分」(霊魂)が、(不完全な)「肉体」と結びつくこと、なのである。

そうであれば、死んだ肉体や骨に「自己の本質的な部分」(霊魂)が戻れば(再結合)、人間は生き返る(復活する)という逆の発想が生まれるのは自然である。

しかし肉体(の保存)による方法は不安定・不確実・場合によっては不可能である。ならば、自己の本質は霊魂の側にあるのだから、古い肉体に執着する必要はない、肉体も(復活の際に、何らかの超自然的な力で)新しく(若く、健康で、欠損の無い、人生における最良の時期の状態で)再生されることにすればいい、という発想が当然生まれる。

そして、さらに、(不死にして永遠の存在である、)「自己の本質的な部分」(霊魂)が、(様々な姿、様々な世界で、新しい肉体を持って(受肉して))生まれ変わるという、転生という概念が生み出されたと考えられる。

その際、「死後の世界」という概念は、転生する世界の中に組み込まれた。さらには、それらの転生する世界の中でも、より好ましい世界へ行くことも「救済」とされた。

つまり、「(不死にして永続的なる)「自己の本質的な部分」(霊魂)の存在」という概念や、「「死後の世界」の存在」という概念や、「転生」という概念は、本来、それ自体だけで、(自己の永続性を示す)「救済」の一形態なのである。

また、さらには、「不死にして永遠なる=完全な「自己の本質的な部分」(霊魂) 対 不完全な「肉体」」という対比は、「「自己の本質的な部分」(霊魂)が属する「永遠にして完全なる世界」(善の世界・光の世界・清浄なる世界・天上の世界・星の世界・神(々や天使)の世界、真の神が支配する世界、など) 対 不完全な肉体が属する「不完全な世界」(悪の世界・闇の世界・穢(汚)れた世界・地上の世界・人の世界・偽の神(悪魔)が支配する世界、など)」という、世界の対比に拡張され、人間と世界は、相似・対応関係(「天地相応」)とされることになる。

この場合、即ち、「生」(誕生)とは、永遠なる完全な世界から(分かれた)霊魂が、不完全な地上の世界に降りて、不完全な肉体に宿ることなのである。「死」とは、霊魂が不完全なる肉体から離れ、(理想状態としては、)不完全なる世界を脱し、永遠なる完全な世界へと帰還(し合一)することなのである。

キリスト教における救済[編集]

キリスト教神学においては特に「救済論」(soteriology)の中心概念である。キリスト教は典型的な救済宗教で、キリスト教における救済とは、キリストの十字架による贖いの功績に基づいて与えられる恵みにより、信仰によるの咎と束縛からの解放、そして死後にあって、超越的な存在世界にあっての恩顧を得、永遠に与ることである。永遠のいのちは、時として、生物的ないのちとは種類を異にする、この世にあって持つことのできる霊的ないのちとも解釈できる。

ローマ・カトリック教会においては、罪は犯したが償える可能性の残っている者は煉獄に送られるとされる。

また、未来において世界が終末を迎えたとき、神が人々を裁くという最後の審判の観念もある。その時混乱の極みにある世界にイエス救世主として再臨し、王座に就くとされる。死者達は墓の中から起き上がり(伝統的に火葬しなかったのはこの時甦る体がないといけない為)、生者と共に裁きを受ける。信仰に忠実だった者は天国へ、罪人は地獄 (キリスト教)へ、世界はイエスが再臨する前に一度終わるが、この時人々は救済され、新しい世の始まる希望がある。(千年王国)

グノーシス主義における救済[編集]

グノーシス主義における救済とは、反宇宙的二元論世界観より明らかなように、であり暗黒の偽のが支配する「この世」を離れ、肉体の束縛を脱し、として、永遠の世界(プレーローマ)に帰還することを意味する。グノーシス主義では悪が肉体を形作るものの、善もまた人の体に光の欠片(魂)を埋めたという神話もある。信者は死ぬとき真の神なる父を自覚し、プレーローマへ帰ろうとするが、悪(アルコーン達)の妨げる重囲を突破しなければならない。この過程は全体から見れば、光の欠片の回収でもある。

仏教における救済[編集]

仏教における救済とは、個人が悟りを得て、輪廻から外れ(解脱)、苦しみの多い(本質的に苦である)この世に二度と生まれてこない(転生しない)ことである。

つまり仏教における救済とは、「輪廻転生」という、仏教がバラモン教から引き継いだ、世界の仕組みに関する「概念」(世界観)をそもそもの前提としている。

そして「輪廻転生」は、「転生」という概念を前提としている。そして「転生」は、「霊魂的な「何か」の存在」という概念を前提としている。

しかしバラモン教や仏教では、そうした「転生」が輪(環)のように永続する(輪廻する)ことで、「転生」そのものは「救済」ではなく「苦」と化しており、転生の輪(環)=輪廻から外れることを「救済」とするという、さらにひねくれた(発達した)構造となっている。

(通俗的には)悟りを啓いた者を「ブッダ」と呼び(伝統的には「仏陀」は歴史的人物としての釈迦を指す)、人間は誰でも(可能性としては)「ブッダ」になることが出来るとされる。

本来、仏教は、個人が悟りを得ることで輪廻から外れようとする、「個人救済」「自力救済」の営みから始まったものだが、大乗仏教が興ると自分のみならず他者(衆生)も救済しようという方向性が現れた。

また阿弥陀信仰や観音信仰や弥勒信仰や地蔵信仰など、菩薩により救済される「他力救済」もあるが、本来の仏教の「自力救済」の論理からはありえず、西方の異教(ゾロアスター教ミトラ教ネストリウス派キリスト教・マニ教など)に由来する、仏教の皮を被った救世主待望思想の面が強い。

なお、弥勒菩薩は56億7000万年後に降臨するとされる。

平安時代には釈迦入滅末法の世が到来するという不安に戦乱も重なり、終末の後の救済を求める人心を反映してか浄土教が浸透していった。

こうした(本来の仏教の論理ではありえない)仏教の「他力救済」の面が、日本におけるキリスト教の受容に繋がっていることは否めない。

救済事業[編集]

救済を行う事業。国際連合パレスチナ難民救済事業機関 (UNRWA)のパレスチナ難民救済事業などがよく知られている。種類としては貧民救済事業、孤児救済事業、失業救済事業、各種被害者救済事業などがある。

おもな例[編集]

関連人物[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 大高善兵衛『読史随筆』赤堀又次郎 著 (中西書房, 1928)

参考文献[編集]

  • 『グノーシスの神話』大貫隆 岩波書店 ISBN 400000445X
  • 『終末論と世紀末を知るために』エンカルタ百科事典
  • 宮城洋一郎 『日本仏教救済事業史研究』永田文昌堂、1993年

関連項目[編集]