鹿島とも子
鹿島 とも子 | |
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誕生 |
1950年8月23日(68歳) ![]() |
入信 | 1989年 |
関係した事件 | 長女監禁事件 |
判決 | 懲役2年(執行猶予4年) |
現在の活動 | 教団を脱会 |
鹿島 とも子(かしま ともこ、1950年8月23日 - )は、日本の歌手、女優。元日劇ダンシングチーム所属。母は日本人、父はアメリカ人。
来歴[編集]
東京都立川市出身。 18歳の時に日劇ダンシングチームに入団。「ハレルヤベイビー」の初主演以降、芸能活動を続けてきた。
しかし、1982年にスノーモービルの事故で脊椎を損傷し、芸能活動停止に追い込まれた。リハビリ生活中の1989年に麻原彰晃の著書でオウム真理教を知り入信[1]。その後、半身不随の危機を乗り越え芸能界復帰。
オウム真理教では、オウム真理教放送でのラジオ司会など、教団の広告塔をつとめ、教団関連会社「スーパースターアカデミー(SSA)」で歌唱指導などにあたっていた[2]。1994年7月7日には記者会見を開き、オウム真理教の活動に専念するため芸能界を引退して出家しサマナになることを発表した。その後に長女拉致監禁事件より1995年5月2日に逮捕され、拘置中にオウム真理教を脱会し、懲役2年・執行猶予4年の判決を受けた。
判決後はホームヘルパー2級の資格を取得、高齢者介護に従事し贖罪の日々を送り、2002年に芸能活動を再開。訪問介護の仕事をしながらライブ活動をしていたが、かつて事故で脊椎を損傷した後遺症で左膝が悪化し歩行には杖が必要な状態となっている[3]。
鹿島とも子長女拉致監禁事件[編集]
麻原彰晃は鹿島の長女(当時19歳、非信徒)に対し、アイドルになって教団の広告塔になれと命令していたが、長女は拒んでいた[4]。
1994年11月20日、飯田エリ子と井上嘉浩は「お母さんが待っている」と言って長女を富士宮市の富士山総本部につれていった。長女はとも子らと一緒に上九一色村の第6サティアンで生活をしていたが、長女は11月26日に東京に逃げ帰った。とも子は飯田と井上に娘をサティアンに連れ帰るように要請した。
そこで12月5日、飯田と林郁夫が長女宅を訪問し出家を勧めるが断られたので、特別なジュースと偽って睡眠薬入りジュース[5]を飲ませ、眠り込んだ長女にチオペンタールナトリウムを注射、控えていた井上と共にサティアンへ拉致した。その後林は、拉致された記憶を消すため長女に対しニューナルコ(電気ショック)とチオペンタールナトリウム投与を行った。
長女は再びサティアンでとも子と生活していたが、電話で友人を呼び、1995年1月23日に友人の車によって救出された[6][7][8]。
著書[編集]
- 『車椅子からの旅立ち』(鎌倉書房、1989年)ISBN 978-4308004632
- 『出家の真相 鹿島とも子・告白手記』(オウム出版、1994年)ISBN 978-4871420976
- 『オウムの“鬼母”と呼ばれて』(近代映画社、1996年)ISBN 978-4764817883
テレビドラマ[編集]
出典[編集]
- ^ 『オウム真理教大辞典』 34頁
- ^ 『オウム真理教大辞典』 35頁
- ^ デイリー新潮. “「オウム麻原」死刑執行 事件で注目された女性信者たちの“その後”(デイリー新潮)|dメニューニュース” (日本語). topics.smt.docomo.ne.jp. 2018年7月9日閲覧。
- ^ 降幡賢一『オウム法廷 グルのしもべたち上』 p.35
- ^ 林郁夫がつくったヒプノジン、ベンザリン入りジュース
- ^ 佐木隆三『「オウム法廷」連続傍聴記』 p.16-18
- ^ 『オウム真理教大辞典』 34頁、105頁
- ^ プレイバック芸能スキャンダル史 鹿島とも子 オウム真理教に傾倒し娘の拉致容疑で逮捕の過去 日刊ゲンダイ
参考文献[編集]
- 『オウム法廷―グルのしもべたち〈上〉』(朝日新聞社、1998年)ISBN 978-4022612236
- 東京キララ社編集部『オウム真理教大辞典』東京キララ社、2003年。 ISBN 978-4-380-03209-7
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 鹿島とも子オフィシャルサイト (リンク切れ J:COM NET WebSpace は終了)
- 鹿島とも子の徒然ブログ
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