中川智正

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中川智正
誕生 (1962-10-25) 1962年10月25日(55歳)
岡山県岡山市
ホーリーネーム ヴァジラティッサ
ステージ 正悟師
教団での役職 法皇内庁長官
入信 1988年2月
関係した事件 坂本堤弁護士一家殺害事件
松本サリン事件
地下鉄サリン事件
判決 死刑(上告棄却)

中川 智正(なかがわ ともまさ、1962年10月25日 - )は、元オウム真理教幹部。確定死刑囚岡山県出身。ホーリーネームヴァジラ・ティッサ

人物・経歴[編集]

岡山市で洋服販売店を営む両親のもとに生まれる。1977年3月岡山大学教育学部附属中学校1980年3月岡山県立岡山朝日高等学校卒業。手塚治虫「ブッダ」の影響で医師の道を目指し、一浪を経て1982年京都府立医科大学医学部医学科に進学[1]。大学では柔道部に所属し大学祭の実行委員長を務めるなど、明るく温厚で実直な人柄から交友関係は広かった。1988年2月24日オウム真理教に入信。

オウムと最初の出会いは、1986年11月に麻原の著作『超能力秘密の開発法』を読んだことで、当初は特に興味もわかなかった。しかし医師国家試験合格から就職までの空いた期間に、ほんの興味本位で麻原のヨガ道場を覘いたことが発端となった。1988年1月に宣伝ビラや情報誌でオウム真理教の音楽コンサート「龍宮の宴」の開催を知り、1988年1月にコンサートを観に行き初めて麻原に会ったが、麻原に後ろからいきなり「中川」と声をかけられる。初めて会ったのになぜ自分の名前を知っているのだろうと驚きを感じる。直後大阪支部道場に行って早川紀代秀と話した。それでも入信する気は起きなかったが、「龍宮の宴」から数日後「お前はこの瞬間のために生まれてきたんだ」という幻聴が聞こえるなどの神秘体験を経験。この神秘体験は強烈で「口では言い表せないくらいの衝撃で、もう俗世では生きて行けない」とまで考えた。1988年2月に再び大阪支部に行き平田信新実智光井上嘉浩と話し、入信を決意した[2][3]

1988年5月に医師免許を取得し、研修医として一年ほど勤めたが、1989年5月に退職、同年8月31日、周囲の反対を押し切り退職し恋人とともに出家[2]1990年7月頃にオウム真理教附属医院が開設されると同医院の医師となったが診察は行わず麻原彰晃の主治医として健康管理などをしていた[4]

1990年第39回衆議院議員総選挙には真理党から旧神奈川3区で立候補し落選。

教団が1994年省庁制を採用すると、法皇内庁長官になり、側近として活動した[4]地下鉄サリン事件の3日前の尊師通達で正悟師に昇格。

1995年8月22日、自ら申請して医師免許取消処分。自ら申請というのは前例がなかった。

事件との関わり[編集]

出家してわずか2ヵ月後、坂本弁護士一家殺害事件に関わることになる。1989年11月2日夜、富士山総本部の麻原の部屋へ呼びつけられる。部屋には早川紀代秀村井秀夫など主だった幹部が集まっていた。「坂本は教団批判をしている。あいつは許せない。殺さなければ。家に帰る途中でさらって注射を打つのはどうだ」と麻原に言われる。中川が坂本弁護士の名を聞いたのはこのときが初めてであった。当時、オウム真理教に出家した子供を返すよう、求める抗議が相次いでいた。親たちの訴えを受け、教団に強く働きかけていたのが横浜の坂本堤弁護士であった[1]

翌朝、中川は5人の幹部とともに富士山総本部を出発。坂本弁護士を外で待ち受ける計画は失敗。報告を受けた麻原は家に押し入り、一家を殺害するよう指示(坂本堤弁護士一家殺害事件)。午前3時、中川は他の幹部のあとより坂本の自宅へ入る。先頭は新実智光端本悟、中川は一番後ろだった。ドアは開いており、最後に入った中川はドアを閉めた際に音を立ててしまい、他の幹部に「静かにしろ」と叱責される。部屋では家族3人が川の字になって寝ていた。緊張で胸がどきどきしどおした。中川は最初に成人男性の坂本の抵抗力を封じる目的で薬剤を注射。その後、1歳の長男龍彦に手をかける。このとき坂本の妻に「せめて子供だけは」と懇願されるがその願いに耳を貸すことはなかった。そうこうするうちに龍彦は目を覚まして泣きだした。これに対し誰かになんとかしろと言われ、あやして宥める手段は講じず、座布団をかけたのち、口をふさぎ殺害した。3人の遺体を車に乗せ富士山総本部へ向かうが、その車中、中川は怖くて何がなんだか分からず目をつぶっていた が体の震えが止まらなかったという[2]

総本部に到着した時には呆然としていたが、麻原から平然と「顔色が悪いね」と労われる。この事件の功績を認められ、中川は麻原の側近に取り立てられ、その後の一連の事件に関わっていくことになる。坂本弁護士の事件はいちばんショックであったが、そのあとは断れば自分もそういう目に遭うのだと思うに至る[2]

犯行時に中川がプルシャ(オウム真理教のバッジ)を事件現場に落としたため、オウム犯行説が当初から疑われ教団は反論に追われることとなった。だが結局1995年まで真相が明らかになることは無かった[5]

1993年10月からは教団の武装化路線の本格化と土谷正実によるサリン合成の成功に伴い、土谷とともに化学兵器製造に従事。池田大作サリン襲撃未遂事件滝本太郎弁護士サリン襲撃事件松本サリン事件に関わる。松本サリン事件ではサリン生成に従事した他、実行犯に加わった。中川は土谷や遠藤誠一と共にサリンVXといった兵器の製造管理を任されていた(土谷正実#兵器と違法薬物の製造も参照)[5]。土谷と遠藤は対抗意識から仲が悪くなっており、中川が緩衝材の役割を果たしていた[6]

1995年1月1日読売新聞朝刊が「上九一色村の教団施設付近からサリン残留物検出」とスクープし、土谷正実とともに土谷の実験棟「クシティガルバ棟」で保管していたたサリンVXガスソマンやこれらの前駆体を加水分解して廃棄した。廃棄作業および廃棄設備解体後、廃棄しそびれたサリンの中間生成物「メチルホスホン酸ジフロライド(裁判での通称「ジフロ」、一般的には「DF」)」が発見され、これがのちの地下鉄サリン事件で使用されたサリンの原料となる[7]ジフロを隠しもっていたのが中川か井上かは裁判でも結論が出ていない地下鉄サリン事件では土谷正実の製造アドバイスのもと、遠藤誠一とともに遠藤の実験棟「ジーヴァカ棟」でジフロからサリンを生成の上、袋詰めにし、サリン中毒の予防薬「メスチノン錠剤」も準備し、遠藤を介して村井秀夫に引き渡した[4]

地下鉄サリン事件後、井上嘉浩林泰男豊田亨富永昌宏らと共に八王子市のアジトに逃亡。麻原の捜査撹乱命令を受けて爆薬RDXを製造し1995年5月16日東京都庁小包爆弾事件を起こす[8]1995年5月17日逮捕される。

公判[編集]

一連のオウム真理教事件で計11件25人の殺人に関与したとして殺人罪などに問われた。

1995年10月24日に開かれた第一審(当時池田修裁判長)初公判では、ロッキード事件田中角栄の第一審判決公判(3904人)を超える4158人の傍聴希望者が集まった。公判では当初、事件そのものへの証言を避けていたが、一審途中から供述を行った。

地下鉄サリン事件で使用されたサリンは、教団としてサリンの材料の殆どが証拠隠滅のために処分される中で、中川が密かに所持していた一部の原料から生成されたと検察側は主張した。中川とその弁護団はこれを否定、中川らが処分できなかったサリン原料の一部を井上嘉浩が保管していて、それが地下鉄サリン事件のサリン原料になったと主張した。中川の一審判决はこのサリン原料の由来を「不明」とし、最終的にこの判决が最高裁で確定した[9]

2003年10月29日東京地方裁判所での第一審(交代した岡田雄一裁判長)で死刑判決、2007年7月13日東京高等裁判所での控訴審植村立郎裁判長)でも死刑判決を受けている。控訴審では、2組3名の医師が、入信・出家から各犯行時における彼の精神状態について意見書を提出した。それらによれば彼は入信直前から解離性精神障害ないし祈祷性精神病を発症していた。犯行時の責任能力については、「完全責任能力」「限定責任能力」と医師の判断が分かれた。高裁の判断は、彼が精神疾患にかかっていた可能性を認めたが、責任能力はあったとした。

中川の状態は文化人類学シャマニズムでいう巫病の状態であったとの指摘もされている[10]

その後、弁護団上告したが、その上告趣意書の中で、オーストリア法医学会会長ヴァルテル・ラブル博士の意見書や絞首刑に関する過去の新聞記事を引用し、「絞首刑では死刑囚はすぐ死亡するわけではない」「首が切断される場合もある」などとして、絞首刑は憲法36条が禁止した残虐な刑罰である、首が切断された場合は絞首刑ではないから憲法31条に反するなどと主張した[11]

2011年11月18日最高裁第2小法廷は被告側の上告が棄却され、死刑が確定した[12]オウム真理教事件で死刑が確定するのは12人目。2017年現在、東京拘置所収監されている。

中川は、麻原の第200回公判に証人として出廷した際、「尊師がどう考えているか、弟子たちに何らかの形で示してもらいたい。私たちはサリンを作ったり、ばらまいたり、人の首を絞めて殺すために出家したんじゃない」と麻原に対して叫び、証言台で泣き崩れた[1]。また最終意見陳述では「一人の人間として、医師として、宗教者として失格だった」と謝罪した[13]

証人[編集]

2015年2月19日に開かれた高橋克也の第20回目の裁判員裁判公判東京地裁中里智美裁判長)で、証人尋問に出廷。麻原彰晃について、「絶対的なもの。人間ではなく化け物のようだと思っていた。殺されるより怖い存在だった」と証言した。中川は地下鉄サリン事件2日前に村井秀夫からサリン製造を指示された際、麻原の意向だと知り、「絶対にやらないといけず、理由は聞かなかった」と証言した。中川は2011年死刑が確定しているが、過去にもVX事件と目黒公証役場事務長監禁致死事件の審理でも証言している[14]

その他[編集]

  • 米国の政府系のシンクタンク新アメリカ安全保障センター(CNAS; The Center for a New American Security)のリチャード・ダンジック(en:Richard Danzig)元米海軍長官のオウム真理教に関する研究に協力し、ダンジックが中心になって発行したレポートの中で、中川に対しては「特に、中川智正博士(ママ)の惜しみない情報提供には恩義を感じていることをここに記しておきたい。本稿がもし、この種の攻撃脅威に対する理解を深め、防止につながるものになるとすれば、それはこれらの多大なご協力によるものである。」と評されている[15]
  • 死刑確定後は、俳人の江里昭彦と俳句同人誌「ジャム・セッション」を創刊し、独房での内省の句を詠んでいる[16]俳人金子兜太は「『オウム』という先入観抜きに」「一人の作品として読みました。」「青少年期を詠んだ句は澄み、柔軟な感性さえ感じます。」「それに比べて、事件後の自分を詠んだ句は硬い。動揺を見せまいとする覚悟のようなものが感じられます。」と評している[17]
俳人・恩田侑布子は、「奈落の底から生まれた俳句は勁い。認識と感情が一本の草になって立っている。草は人間とは何かを問う境界線になろうとしている」と書いた[18]

アンソニー・トゥーとの交流[編集]

米国コロラド州立大学名誉教授アンソニー・T・トゥ(英語名:Anthony T.Tu、台湾名:杜祖健)博士の調査と度々面会しており(2017年4月現在で10回以上)、同博士は、「今回も中川氏が率直に話してくれたので、多くの事柄が明るみに出た。オウム教団の化学兵器、生物兵器の事情がさらに詳しくわかった」と語っている[19]2017年4月現在、中川との特別面会を法務省が許可しているのは2人だけであり、トゥーと元アメリカ海軍長官で退官後にワシントンで紛争予防のシンクタンク「新アメリカ安全保障センター」を運営するリチャード・ダンチックのみである。ダンチックは約20回の面会を行っている。ダンチックらはプロジェクトとしてなぜサリン事件が起きたのかを調査しているのに対し、トゥーは毒物学の専門家として、オウムがサリンやVXガスの製造に至った背景を探っている。本来10分の面会時間を特別に30分許可されている。中川は独房生活のさびしさゆえに面会を楽しみにしているとトゥーは語っている。通常死刑が確定すると、肉親と弁護士以外は面会できないが判決が確定前に文通していた場合は例外となるた。トゥーは最高裁で上告棄却で死刑確定した2011年11月18日の2週間前に文通を開始しており、面会できる権利を得た。面識はなかったもののダンチックより中川に会うことを勧められた。当初は土谷正実死刑囚が科学の専門家であったため、土谷に会うことを希望していたが土谷の刑が確定していたため面会ができず、中川に連絡を取ったところ中川からも会いたい趣旨の連絡があったため2011年に最初の面会を行った。死刑囚としての中川の心情を不安定にさせないよう、死刑殺人という言葉の使用は避けている[20]

1994年にトゥーは専門誌『現代化学』に、サリンやVXガスなどの化学兵器に関する論文を書いており、中川や土谷の2人もそれを目にして土谷は自分でもVXガスの製造が可能であると考え、資料を集め作成したと中川から聞かされた。中川は、警察がかなり早い段階で上九一色村のサティアンの土壌からサリンを検出できことを不思議に思っていたが、面会の際にトゥーは自分が警察に協力したと告げたところ、中川は1分ほど黙ってしまったという。が、その後「ああ、そうでしたか。先生がお手伝いしたのですね。でも、オウムがつぶれてよかったです。でなければ、殺人がもっとたくさん起きていた」と言った。中川との面会の記録は、中川の刑の執行までは公開できないことになっている。トゥーは金正男暗殺事件の前に実際に人間に対してVXガスを使ったという公式の記録はなく、中川が唯一の経験ある人間であることから、その経験の記録は残すべきと考えるが、日本政府がそれを行っていないことを批判している[20]

  • 2016年10月には、化学専門月刊誌で、サリン事件の概要を説明するとともに、「地下鉄サリン事件のサリン原料を保管していたのは誰か」「第7サティアンのサリンプラントでサリンができていたのか」「サリンを使ったテロが再び日本で起こるか」「どうして高学歴の科学者がオウム真理教に入って事件を起こしたのか」等のアンソニー・T・トゥ博士からの質問に答えている[9]
  • 2017年2月13日にマレーシアクアラルンプール国際空港で起きた金正男暗殺事件に関し、マレーシア警察によるVX検出の発表前に、金正男がVXで襲撃された可能性に言及した手紙を獄中からアンソニー・T・トゥ博士に送っていた。[21]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 佐木隆三『大義なきテロリスト』p.362-p.379
  2. ^ a b c d NHKスペシャル『深き闇の中から~オウム真理教 信者の供述』
  3. ^ 降幡賢一(2003) 『オウム法廷12 サリンをつくった男たち』 朝日新聞社 p.97
  4. ^ a b c 19995年10月24日 冒頭陳述(中川智正)
  5. ^ a b 平成7合(わ)141 殺人等 平成16年2月27日 東京地方裁判所 中川=A14
  6. ^ 降幡賢一『オウム法廷13』 p.132
  7. ^ 麻原彰晃(松本智津夫)第一審公判弁論要旨 XI 地下鉄サリン事件
  8. ^ 東京キララ社編集部『オウム真理教大辞典』 p.96
  9. ^ a b 中川智正「当事者が初めて明かすサリン事件の一つの真相」『現代化学』2016年11月号62-67頁、東京化学同人
  10. ^ 藤田庄市 「彼はなぜ凶悪犯罪を実行したのか ルポ オウム真理教・中川智正被告裁判」『世界』2004年4月号、岩波書店
  11. ^ 中川智正弁護団・ヴァルテル・ラブル 『絞首刑は残虐な刑罰ではないのか』 現代人文社、2011年
  12. ^ “オウム中川被告、死刑確定へ 最高裁が上告棄却”. 朝日新聞. (2011年11月18日). オリジナル2011年11月20日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20111120001307/http://www.asahi.com/national/update/1118/TKY201111180276.html 2013年11月14日閲覧。 
  13. ^ オウム全公判終結
  14. ^ 産経ニュース 2015.2.19 18:07「麻原氏は化け物」「殺されるより怖い存在」中川死刑囚が証言
  15. ^ Richard Danzig, Marc Sageman, Terrance Leighton, Lloyd Hough, Hidemi Yuki, Rui Kotani and Zachary M. Hosford (Doreen Jackson、アラキ・タカヒロ訳)「オウム真理教:洞察―テロリスト達はいかにして生物・化学兵器を開発したか」 [リンク切れ]
  16. ^ 「オウム中川死刑囚が俳句同人誌 独房の内省詠む」『東京新聞』2012年11月4日 中川の句「刑決まり去私には遠く漱石忌」「春一番吹かず十七年目の忌」「金網の殻見事なり蝉(せみ)生きよ」を引用
  17. ^ 「オウム死刑囚、獄中での句作 中川智正・元幹部」『朝日新聞』2014年10月21日朝刊 中川の句「先知れぬ身なれど冬服買わんとす」「金正日死すとのラジオ身の整理」「川遊び雑魚を手捕りの母と知る」「鳥の夜や 小河童口あく大銀河」「消えて光る素粒子のごとくあればよし」を引用
  18. ^ 恩田侑布子「俳句時評 切れに畳まれたもの」『朝日新聞』2016年8月29日朝刊。中川の句「詠まざればやがて陽炎 獄の息」「かのピカは七十光年往けり夏」「指笛は球場の父 虎落笛」を引用
  19. ^ Anthony T.Tu 「さらに詳しくわかったオウム教団の化学兵器と生物兵器―中川智正死刑囚との再面会―」『現代化学』2012年9月号、東京化学同人
  20. ^ a b 新潮社フォーサイト 独占インタビュー】オウム「中川死刑囚」が語った「金正男VXガス暗殺事件」の真相--野嶋剛
  21. ^ 毎日新聞2017年2月25日付VX襲撃事件関与 獄中から米国の毒物学者に手紙出す

関連事件[編集]