土谷正実

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土谷正実
誕生 (1965-01-06) 1965年1月6日(52歳)
東京都町田市
ホーリーネーム クシティガルバ
ステージ 正悟師
教団での役職 厚生省次官 → 第二厚生省大臣
入信 1989年4月22日
関係した事件 松本サリン事件
会社員VX殺害事件
地下鉄サリン事件
判決 死刑(上告棄却)

土谷 正実(つちや まさみ、1965年1月6日 - )は元オウム真理教幹部の確定死刑囚東京都出身。筑波大学大学院化学研究科修士課程修了。化学 (物理化学有機化学) を専攻[1]ホーリーネームクシティガルバステージは正悟師。1994年6月に教団が省庁制を採用すると厚生省の次官に、厚生省分裂後は[2]第二厚生省大臣になった。

殺害行為や計画・謀議には関わっていないが、サリンVXの生成方法を確立し、オウムによる無差別大量殺人を可能にしたとして大量殺傷事件の共同正犯2011年死刑判決が下った

作家の大石圭とは実家が隣同士の幼馴染で、現在も手紙のやり取りを行っている[3][4]。勾留中に知り合った女性と獄中結婚・離婚した[5]

人物[編集]

幼少期は内向的でボーッとしている子供だった[6][1]。説明できないような神秘的体験をしていて、内的体験への関心を持っていた[1][7]

高校時代[編集]

東京都立狛江高等学校時代はラグビー部に所属し、中心選手として活躍。成績は良くなかったが、高校2年生の時に化学に関心を持つと化学で学年トップになった。相性の悪い先生に代わると一気に0点近くに落ちるという、好き嫌いの激しい極端な一面があった[6]。この頃、テレビで見たヨーガに関心を持つ。人間が脳細胞の数%しか使わずに死んでいくことを知り、これを100%近くまで発揮するのはヨーガだと漠然と考えるようになる[8]

大学・大学院時代[編集]

ヨーガを極めるためヒマラヤへ行きたいと思うが現実的ではないので諦め[1]、一浪して1984年筑波大学第二学群農林学類へ進学。ラグビー部に入部するも早々に怪我をして退部を余儀なくされると、挫折から自暴自棄に陥って化学の授業以外は出席せず、酒浸りの生活を送った[6]。恋人との交際を反対する両親とは喧嘩になり、仕送りが断たれて新聞配達アルバイトで食いつなぐ[6]。次第に恋人とうまくいかなくなると、傷ついた心の痛みを消すために全身をナイフで切りつけた[1][6]1986年、その後恋人と別れることになり、それを実家に報告すると、仕送りが再開。再び勉学に励み始めた[6]

卒業後は同大学院化学研究科へ進学し、化学 (物理化学有機化学) を専攻。修士論文は「片道異性化に関する研究」であった。指導した教授は「発想力豊かで、将来国際的な研究者になる」と高く評価した[9]。その後、博士課程に進んだがオウムの修行を優先させ中退した。

入信・出家[編集]

入信の経緯[編集]

修士課程2年の1989年4月22日、友人に誘われオウム主催の超能力セミナーへ行った。麻原彰晃の説法には遅れたが、理系の優秀な学生を集めていた村井秀夫に研究テーマを説明される等、熱心な勧誘を受けた[3]。このセミナーでダルドリー・シッディ(座禅ジャンプ)を体験し[3](ダルドリー・シッディは1991年刊行の空中浮揚の特集本でも実演している[10])、「ここでなら本格的なヨーガの修行ができる」と考えて入信[6]。この時点では「宗教団体に入信した」という認識はあまりなかったという[3]。ヨーガの修行のため、オウム水戸支部道場へ通いはじめる。

オウム入信を電話で母親に伝えると、いい顔はされず「修士はとりなさい」と言われた[6]。4ヵ月後、教団から出家を促されるが家族の心配を理由にいったんは断った[3]。同年秋、坂本堤弁護士一家行方不明事件を知り、オウムの関与を疑って真偽を尋ねると、信者たちは「国家権力の陰謀だ」と叫び、土谷はそれを信じた[11]

修行に没頭し[12]、教材購入やセミナー参加費により教団への借金がかさんだ[3]。返済や布施のために、家庭教師・塾講師とアルバイトに明け暮れ、食事や睡眠時間は激減。正常な思考能力を徐々に失い、麻原彰晃の説法を鵜呑みにするようになる。周囲ともかみ合わなくなり[3]博士課程1年の1990年6月から大学に行かなくなった[1]

出家の経緯[編集]

学習塾で教え子の高校生をオウムに入信させ(生徒はその後出家、土谷のもとでチオペンタールナトリウム密造に関与[13])、生徒の親から抗議を受けた両親は、合田日正の主宰する茨城県の更生・隔離施設「仏蓮宗仏祥院」に脱会を依頼[14]1991年7月19日未明、土谷を車から引きずり下ろし、施設に監禁した。元信者の永岡辰哉が1ヶ月にわたり教義の矛盾を説いて説得にあたった[15]。合田からは「オウムをやめると言わなければ殺すど」、母親からも「私が殺す」などと厳しい言葉をかけられ「もう自分の帰る場所はオウム以外にない」と傷ついた[6][16]

オウムは土谷の町田市の実家周辺や父親の勤務先に「親が息子を監禁している」という中傷ビラを大量に撒いた。さらに実家を盗聴し仏祥院に匿われていることを突き止めて、中村昇井上嘉浩青山吉伸林泰男(小池泰男)らが街宣車を動員して連日押しかけ解放を求めた。麻原の説法や歌を拡声器で流し続け、土谷は激しく葛藤した[14][9]

オウムは教団顧問弁護士・青山の名で人身保護請求を申し立てた。家族を安心させるために「オウムをやめたふり」をして8月25日に翌日に予定されていた人身保護請求の裁判に備え両親や仏蓮宗関係者らとともに都内のホテルに宿泊していたが、隙をついて夜中に母親のバッグから現金を抜き取って逃走[14]オウム真理教富士山総本部に身を隠して1991年9月5日に出家した[3][9]

両親は「教団で土木作業員をやっているのだろう」と考えていたが、地下鉄サリン事件が起き、オウムが化学兵器を開発・所持していた実態が明らかになると「サリンは正実が作ったんではないか」と夫婦で話していたことをモーニングEyeのインタビューで答えている[14]

出家後[編集]

教団内のステージでは1994年7月に師長補となり、9月6日には師長、翌1995年3月17日付の尊師通達で正悟師に昇格。出家からわずか3年半で正悟師となる異例のスピード成就を遂げた。

出家後、1992年7月から「学生班」に加わり石川公一とともに大学生を対象に勧誘。国立大学を中心に大学図書館へのオウムの書籍の寄贈や学園祭での麻原彰晃説法会の企画・立案を実行するなどの布教活動を行った。仏蓮宗による再奪還を恐れ、外出時は武道経験者の信徒をボディーガードにつけた[17]

1994年6月に教団が省庁制を採用すると遠藤誠一が大臣である厚生省の次官に、厚生省分裂後は[18]第二厚生省大臣になった。メディア等は土谷を「化学班キャップ」と呼んでいたが[19]、「化学班」という部署は存在しない[17]

1994年夏の「雄叫び祭」で科学技術省や法皇官房主催のミュージカルや劇に中川智正遠藤誠一とともに出演した。

兵器と違法薬物の製造[編集]

独学で研究と実験を重ね、サリンおよびVXの生成方法を教団において確立した。教団の武装化路線にともないソマンイペリットホスゲン青酸などの化学兵器薬物を利用したイニシエーションのためのLSD覚醒剤などの薬物を生成した。

化学兵器生成に至る経緯[編集]

1992年11月21日麻原彰晃の指示により村井秀夫の元で化学の研究に着手することを命じられる。1993年6月には、ロシアから帰国した村井化学兵器製造を指示された[1][20]「殺生をしてはならない」というオウムの教義に反するため抵抗を感じたが、ハルマゲドン勃発時、教団を守るために武器を持つ。オウムから仕掛けることはない」と説かれ、躊躇いは薄れた[20]。村井から波野村の教団施設の強制捜査を行った熊本県知事の細川護熙内閣総理大臣へ登りつめた。教団は国家に弾圧されている」と危機感を植え付けられた。

筑波大学の図書館で、殺傷力、原材料、生成の安全性を考え、大量生産に適した化学兵器を調査。『毒のはなし[21]』を読んだことをきっかけにサリン生成を決め[22]、専門書を読みあさって実験を開始。2ヶ月後には第1サティアン4階でフラスコ内で少量のサリン製造に成功した[20]。同月下旬、専用のプレハブ実験棟クシティガルバ棟を与えられ、サリン大量生成方法についての研究を開始した[20]

1993年10月サリンプラントが完成し、必要な原料・薬品量を新実智光配下のダミー会社を通じて手配。サリン製造の協力者として化学知識を有する医師の中川智正(サリン中毒時の治療係も兼務)、信頼できる実験助手として幹部の元妻・幹部の恋人・土谷のボディーガードの4名が配属された[1]。クシティガルバ棟内に排気装置を備えた実験室「スーパーハウス」が作られ[20]1993年11月12月1994年1月に作業を行って約34kgものサリンを生成した。生成中に複数回サリン中毒を起こした土谷は、中毒の処置にあたった実験助手に「親子連れを見ると、この人たちも死ぬのだと思い葛藤したが、尊師に『ヴァジラヤーナの救済』だと言われてサリン生成に取り組み始めた」と話している[23]

1994年6月には村井秀夫から「教団内の水を分析してくれ」と水を渡され、それを分析するとサリンを検出した。「尊師の説法通り教団は攻撃されている[24]」「自衛力を持たねば教団が潰される」とそれまで以上に化学兵器生成に邁進した[6]

村井秀夫遠藤誠一の指示には非科学的なものも多く、二人の指示を聞いて失敗するべきなのかと麻原彰晃の意図を図りかねて悩み、教団を離れたことがある。しかし学生時代の元恋人がすでに家庭を築いているという現実を目の当たりにして「現世にはもう自分の居場所はないのだ」と傷つき、自らオウムへ戻っていった[6]

1995年1月1日読売新聞朝刊が「上九一色村の教団施設付近からサリン残留物検出」とスクープし、村井秀夫の命を受けた遠藤誠一から化学兵器類の廃棄を指示された。遠藤に対して不信感を抱いていたため、すぐには行わなかったが、村井秀夫から直接同様の指示を受け、中川智正らとともに、クシティガルバ棟内で保管していたたサリンVXガスソマンやこれらの前駆体を加水分解して廃棄した。この廃棄作業中にもサリン中毒にかかった。廃棄作業および廃棄設備解体後、サリンの中間生成物「メチルホスホン酸ジフロライド」が発見され、これが地下鉄サリン事件で撒かれたサリンの原料となる[25]

オウム出版「日出づる国、災い近し」で、「現在主流の化学兵器」として、サリンソマンイペリットVXガス等をあげてそれぞれの特徴を解説し、ハルマゲドン時に使われるであろう「新種の化学兵器」についても開発方法、使用方法などの自説を展開している。[26]

クシティガルバ棟[編集]

1993年8月、第7サティアン横に専用のプレハブの実験棟クシティガルバ棟(当初は成就認定前のため名称は「土谷棟」)(オカムラ鉄工から持ち込んだ事務用品を収蔵してあった物置を改築)を与えられた。実験装置の注文から支払までを担当し、2,300万円の「コントラボ」含む300点・総額6,000万円の機器を揃えた[9]。大手化学メーカーでも持っていないような機械もあり、取引業者が使用用途を尋ねると「コンピュータの半導体の研究に使う」と回答した[9]。薬品庫を改造して土谷の自室とし、食事も寝泊まりもここでしていた[27]。まるで修行僧のような生活だったという[23]

遠藤誠一との対立[編集]

省庁制発足時は厚生省大臣で生物兵器担当の遠藤誠一の部下だったが、ボツリヌス菌や炭疽菌によるテロ失敗が続いて、遠藤の生物兵器より土谷の化学兵器が重宝されるようになると[1]、敵対心を抱いた遠藤から冷たい仕打ちを受けた[6]。二人の不仲に気づいた麻原彰晃から「遠藤の手を折っても構わないから遠慮するな」と言われたが何もできず、麻原は厚生省を二つに分けて土谷を第二厚生省の大臣に据えた。この分裂は結果的に2つの厚生省同士を競わせる形になり、土谷の化学兵器類開発はさらに進んだ[23]。しばし「遠藤さんにやりたいことをやらせてもらえない」「遠藤さんに自分の手柄を取られた」と遠藤への不満を部下の前で吐露し[23]、裁判でも「遠藤は嘘つき」と批判している[17]

生成した化学兵器・違法薬物[編集]

日時 製造物 用途・使用事件 備考
1993/08 サリン 20g 標準サンプル サリンプラント計画も開始[28]
1993/11 サリン 600g 第1次池田大作サリン襲撃未遂事件 中川智正と協力[28]
1993/12 サリン 3000g 第2次池田大作サリン襲撃未遂事件 [28]
1994/01 サリン 30000g 滝本太郎弁護士サリン襲撃事件
松本サリン事件
青色サリン溶液(ブルーサリン)。約70%がサリン、約30%がメチルホスホン酸ジイソプロピル。当初は池田大作襲撃に使うつもりで製造指示[28]。生成プロセスの指示・助言、生成物の分析。生成は中川智正滝澤和義によるもの[29]
1994/03 ソマン 10g 教団武装化 サリンよりコストがかかるので量産されず[30][31]
1994/04~07 RDX 10g 教団武装化 東京都庁小包爆弾事件のRDXは95年に中川智正が製造したもの[32][30]
1994/04~07 TNT 300g 教団武装化 [30]
1994/04~07 PETN 300g 教団武装化 [30]
1994/04~07 HMX 10g 教団武装化 [30]
1994/05/01 LSD キリストのイニシエーション
ルドラチャクリンのイニシエーション
当初は兵器として製造指示。麻原もLSDを試し、「宇宙の始まりを見てきた」といって感激したという。遠藤誠一と協力[28][33]
1994/06 イペリット 50g 教団武装化 土谷がイペリットを投棄したことがきっかけで94年7月10日信者リンチ殺人事件が発生した[28][34][30]
1994/07 覚醒剤 5g ルドラチャクリンのイニシエーション [35]
1994/08 ホスゲン 数リットル 江川紹子ホスゲン襲撃事件 [30]
1994/08 青酸 数リットル 新宿駅青酸ガス事件 [30]
1994/08~09 VX 20g 第1次滝本太郎VX襲撃未遂事件 土谷は「現代化学」1994年9月号(8月15日発売)を読んでVXの製造法を知った[22]
1994/08~09 ニトログリセリン 2000g 教団武装化 [30]
1994/09 VX 20g 第2次滝本太郎VX襲撃未遂事件 警察官がいたので襲撃は実行されず[34]
1994/09 チオペンタールナトリウム 自白剤
バルドーの悟りイニシエーション
公証人役場事務長監禁致死事件
遠藤誠一と協力[35][36]
1994/11 VX塩酸塩 100g 駐車場経営者VX襲撃事件 無害なものを間違って製造。土谷によると、原因は遠藤がトリエチルアミンではなくジエチルアニリンを使用したため[37]
1994/11/30 VX 駐車場経営者VX襲撃事件
会社員VX殺害事件
被害者の会会長VX襲撃事件
[34]
1994/12/25 VX 40g 被害者の会会長VX襲撃事件 純粋VX。被害者の会会長事件については11/30のものか12/25のものか不明[34]
1995/03/02 メスカリン硫酸塩 3000g イニシエーション 遠藤が標準アンプルを合成し、土谷が合成方法を改良した。麻原の誕生日に合わせた[38]
1995/03/19 サリン 6~7リットル 地下鉄サリン事件 約30%がサリン。生成プロセスの決定、薬品・器具の提供、生成の助言、生成物の分析。生成は遠藤誠一中川智正によるもの[39]
PCP 7.8g イニシエーション [40]

逮捕・裁判[編集]

地下鉄サリン事件後、信者Hの運転する車で国内各地を転々としていたが、4月中旬に村井秀夫から連絡を受けて上九一色村へ戻った。第2サティアンの地下2階の隠し部屋でピアニスト監禁事件関与などで指名手配中の信者2名を匿うよう指示され、4月20日から隠し部屋に潜伏[13]4月26日に警察捜査により隠し部屋が発見され、16時27分に遠藤誠一ら7人と瞑想しているところを犯人隠匿容疑で現行犯逮捕された。未だ指名手配はされておらず、逮捕状も発行されていなかったが、テレビ報道などで「サリン生成責任者」として名前が挙がっていた[41]

後の供述から、7つの事件への殺人罪などに問われ再逮捕起訴された。

第一審(東京地裁)[編集]

1995年11月10日の初公判で「職業は麻原尊師の直弟子」と答え、第6回公判まで黙秘。1996年5月17日第7回公判の意見陳述で麻原彰晃への帰依を貫徹すると述べた。罪状認否では幻覚剤PCP密造罪は認めたが、他の事件で無罪を主張。一方、法廷で遺族の証言を聞くのには耐えられず拘置所で嘔吐するなどし[6]松本サリン事件の遺族・被害者の供述調書を証拠として提出している[6]。「尊師を呼び捨てにした」などのささいなことから2度私選弁護人を解任して審理を止め、判決までに8年以上を要した。検察官や弁護人も罵り「早く死刑求刑しろよ」と噛み付いた。被告人質問では「サリン生成をやめるのは下向を意味する。私に人生の帰り場所はない」と答えた[42]

2003年7月14日検察側は論告「麻原彰晃の頭脳として、悪魔に魂を売り渡した殺人化学者」「サリン、VXの生成方法を確立して大量無差別殺人を可能にした。被告なくしてはサリンなどの化学兵器はなく、無差別大量殺人事件もなかった。刑事責任は松本被告に準じた存在」として死刑求刑した。この求刑はオウム真理教事件の裁判では当時逃亡中だった特別手配犯3人(平田信高橋克也菊地直子)を除いて一審判決の求刑としては最後の求刑である(麻原への論告求刑公判は2003年4月24日・判決公判は2004年2月27日)。弁護側は「殺人にVXガスやサリンを使うとは知らずに生成に関与させられただけで殺意はなく、事前共謀にも参加していない」と無罪を主張した。2003年9月18日の弁護側最終弁論ではサリン事件は何者かの陰謀とする自作の小説「AUM13(オウム・サーティーン)オウム事件を解析するための13の公式」[17]を2時間かけて朗読した。

2004年1月30日第一審は手配信者の隠匿の罪は無罪としたが、服部悟裁判長は「松本事件では捜査段階の供述[43]で他の教団幹部らが不特定多数を殺害しようとしていることを認識していたと供述している点から犯行を幇助する意思があった」「地下鉄事件では捜査段階の供述で自分が製造したサリンが近い将来に地下鉄を含む東京都内で使われることを知っていたと判断でき、松本事件とは異なり共同正犯の責任を負う」と他の6事件で有罪とし、死刑判決を言い渡した[44]

控訴審(東京高裁)[編集]

控訴審には、第一審の化学知識の誤りを指摘する「控訴趣意書」を提出した。弁護人との接見は拒否し、公判には一度も出廷しなかったため、わずか4回で結審した。2006年8月18日の控訴審は控訴棄却して死刑判決を維持した[45]白木勇裁判長は、「被告の関与なくして無差別大量殺人は起こらず、単なる工場長だったなどと矮小化はできない」と述べた。

上告審(最高裁)[編集]

弁護側は初めて6事件すべてへの加担を認めた。「共犯者として責任は免れないが、信仰心を利用させられただけ。ほう助犯にとどまる」として、無期懲役に減刑するよう求めたが、2011年2月15日最高裁第3小法廷は被告側の上告を棄却。判決で那須弘平裁判長は、殺人行為に直接関わっておらず犯行の具体的計画を知らなかったとしても、「松本サリン事件で悲惨な結果が発生したことを認識しながらも、サリンVXの生成を続け、地下鉄サリン事件などを引き起こしたと指摘し「一連の凶悪事件において極めて重要な役割を果たした、被告人の豊富な化学知識や経験を駆使することなくしてこれらの犯行はなし得なかった」と述べた[46]オウム真理教事件で死刑が確定するのは11人目[47][48]

「当然の結果。生涯謝罪の気持ちを持ちながら、自分に何ができるか考えたい」と話し、死刑を受け入れている[3][49]

その後[編集]

2017年現在、東京拘置所収監されている。2014年5月の菊地直子の公判では心身不安定のため、証人尋問は他の死刑囚の証人とは異なり拘置所で行われた。高橋克也の公判でも証人請求されたが、精神不安定である、過去に法廷で不規則発言を繰り返したとされ、却下された[50]

マインドコントロールが解けるまで[編集]

逮捕後、国家権力の陰謀が明らかになると信じていた土谷は、逆に麻原彰晃の嘘が次々と明らかになり、悲惨な被害状況を知るにつれ、麻原への信仰が離れかけた。しかし初公判直前にある宗教体験をして、それまで以上の強い帰依心が蘇り、一審が終わるまで麻原への命をかけた帰依を表明し続けた[51]

転機になったのは2002年から2003年にかけて麻原彰晃の一審に弁護側証人として出廷した際、麻原が法廷で一言も証言しなかったためである。加えて、2006年12月に、麻原彰晃の一審判決時の異常な行動を記した雑誌記事を読み、「弟子達を差し置いて詐病に逃げた」と確信、麻原への帰依心がはっきりと崩れ始めた[3][12]

その後、被害者遺族の苦しみと麻原の説く「四無量心」が相容れないという矛盾、麻原を観想すると「監禁されたような精神状態」をもたらすようになったことが決定的となり、「麻原のために命を捨てろ」と言い続けるアレフ関係者・団体との面会も2010年3月末を最後に断った[52]

現在は、麻原に対し「個人的な野望を満足させるため、弟子たちの信仰心を利用しながら反社会的行動に向かわせ、多くの命が奪われたことに対し、教祖としてどのような考えを持っているのか、詐病をやめて述べてほしい。」と語っている[3]

人物評[編集]

麻原の3女、松本麗華によれば「真面目で宗教的な人物」[53]、また元教団車両省大臣の野田成人も「超真面目」と評している[54]石川公一は土谷の法廷に弁護側証人として出廷した際、「非常に『義』に強い。一方で非常に『情』にもろい」と証言した。菊地直子は自身の公判の被告人質問において、「理想の上司」「部下に対する対応が丁寧で、長所をほめてくれたり、欠点に対しても感情的にならない」と述べた。

発言[編集]

  • 「職業は麻原尊師の直弟子」 - 1995年11月10日 初公判で職業を問われて
  • 「麻原尊師への帰依を貫徹し死ぬことこそ私の天命」- 1996年5月17日 第7回公判 意見陳述において[52]
  • 「高校生の頃、人間は脳細胞の数%しか使われずに死んでいくと知りました。非効率な生物だな、これを全て発揮する力があるはずだと考えた結果、ヨガに興味を持ちました。ヒマラヤでヨガの修行をしたかったが現実的ではなく、流れるまま大学に進み、オウムを知りました」- 1999年1月7日 井上嘉浩の公判にて[8]
  • 「最後に結論です。クシティガルバ棟でサリンを合成していたときに唱えていた信徒用決意ナンバー4です。マイトレーヤ尊師、イコール、グル、イコール、シヴァ大神、イコール、すべての真理勝者方への私クシティガルバの懇願です。すべての魂がマハーニルヴァーナに安住できるようになるまで、何卒お導きを。偉大なる完全なる絶対なるグルに帰依し奉ります。最高の叡智であられる偉大なるシヴァ大神に帰依して奉ります。完全なる絶対なる真理に帰依し奉ります。すべてのタントラヤーナ、ヴァジラヤーナの戒律に帰依し奉ります。私の功徳によってすべての魂が高い世界へポアされますように。」 - 2003年2月28日 松本智津夫被告第250公判において[55]
  • 「麻原氏は詐病をやめて、一連のオウム事件に関連する事柄について述べてほしい」- 2011年2月15日 マスコミ各社に寄せた書
  • 「事件で亡くなられた方達のことを思えば、私もこのまま死ぬべきだろう」「静かに死を迎えたい」- 2011年6月 確定死刑囚に対するアンケートへの回答[56]

関連事件[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 「オウム真理教:洞察-テロリスト達はいかにして生物・化学兵器を開発したか」
  2. ^ 警察白書 第1節 オウム真理教の誕生からテロ集団化に至るまで
  3. ^ a b c d e f g h i j k ザ!世界仰天ニュース - 2時間15分拡大版!洗脳スペシャル - 2012年4月4日放送
  4. ^ 作家 大石圭の日記 大石圭の日記
  5. ^ オウム真理教家族の会会長「接見で6人の死刑囚が見せた素顔」 週刊朝日 2015年3月21日
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n 江川紹子『魂の虜囚―オウム事件はなぜ起きたか 下巻』p.198-p.210
  7. ^ 「麻原、詐病やめて考え述べよ」オウム土谷被告が手紙 朝日新聞 2011年2月15日
  8. ^ a b 青沼陽一郎「オウム裁判傍笑記」p.457
  9. ^ a b c d e NHKスペシャル『オウム真理教暴走の軌跡』」 - 1995年5月17日放送
  10. ^ オウム『麻原彰晃のズバリ!浮揚―28人の決定的瞬間が証明する現代の神秘!』1991年 p.31
  11. ^ 週刊ポスト2013年2月15・22日号『死刑囚78人の肉筆』土谷からの肉筆文に記載
  12. ^ a b 「麻原、詐病やめて考え述べよ」オウム土谷被告が手紙 朝日新聞 2011年2月15日
  13. ^ a b 佐木隆三『オウム法廷 連続傍聴記』
  14. ^ a b c d 「モーニングEye『消えた化学班リーダー 意外な素顔』」1995年4月6日放送
  15. ^ 中日新聞 2014/6/23朝刊
  16. ^ 降幡賢一『オウム法廷11』 p.153
  17. ^ a b c d AUM13(土谷の好きな漫画ゴルゴ13のパロディ) サリン事件の詳細な実態、および事件の謎/サリン事件にまつわる各種資料/土谷正実2003年9月18日上申書 オウム裁判対策協議会
  18. ^ 警察白書 第1節 オウム真理教の誕生からテロ集団化に至るまで
  19. ^ 東京キララ社編集部『オウム真理教大辞典』2003年 p.32
  20. ^ a b c d e 平成7年合(わ)第141号,同第187号,同第254号,同第282号,同第329号,同第38 0号,同第417号,同第443号,平成8年合(わ)第31号,同第75号 殺人,殺人未遂, 死体損壊,逮捕監禁致死,武器等製造法違反,殺人予備被告事件 東京地方裁判所 土谷=A24
  21. ^ D.バチヴァロワ,G.ネデルチェフ著 1988年に翻訳版が出版された
  22. ^ a b 「現代化学」2012年5月号に掲載された中川智正の証言
  23. ^ a b c d 文藝春秋『NHKスペシャル取材班 未解決事件 オウム真理教秘』p.269-p.277
  24. ^ 1994年2月頃から麻原彰晃は「教団施設に毒ガスが撒かれている」と説法していた
  25. ^ 麻原彰晃(松本智津夫)第一審公判弁論要旨 XI 地下鉄サリン事件
  26. ^ オウム『日出づる国、災い近し ―麻原彰晃、戦慄の予言』 p.208 1995年刊行
  27. ^ 麻原彰晃(松本智津夫)第一審公判弁論要旨 Ⅵ 滝本サリン事件
  28. ^ a b c d e f サリン事件の詳細な実態、および事件の謎/すサリン事件にまつわる各種資料/1996年2月7日 冒頭陳述(土谷正美) オウム裁判対策協議会
  29. ^ 「麻原彰晃(松本智津夫)第一審公判弁論要旨 Ⅶ 松本サリン事件
  30. ^ a b c d e f g h i 破防法弁明●証拠の要旨の告知(2) オウム真理教公式サイト(Internet Archive)
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  36. ^ 『オウム真理教大辞典』 p.89
  37. ^ 降幡賢一『オウム法廷11』 p.176
  38. ^ 降幡賢一『オウム法廷2上』 p.206
  39. ^ サリン事件の詳細な実態、および事件の謎/サリン事件にまつわる各種資料/1995年10月24日 冒頭陳述(中川智正) オウム裁判対策協議会
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  41. ^ 平成7合(わ)148 殺人,同未遂,犯人蔵匿被告事件 平成14年10月11日 東京地方裁判所 土谷=S
  42. ^ 毎日新聞 2003年7月14日
  43. ^ 逮捕後、自分の作ったサリンが松本事件に使われたことを初めて知り、ショックで大坪弘道検事の作文してきた調書に署名捺印しただけであると後年主張している 2016年3月13日「地下鉄サリン事件から21年の集い」で死刑確定前に土谷と面会していた藤田庄市氏の言葉
  44. ^ オウム元幹部土谷被告に死刑判決 東京地裁 朝日新聞 2004年1月30日
  45. ^ オウム・土谷被告、2審も死刑判決…一度も出廷せず 読売新聞 2006年8月18日[リンク切れ]
  46. ^ 平成18(あ)1909  殺人,同未遂,殺人幇助,殺人未遂幇助,麻薬及び向精神薬取締法違反被告事件 最高裁上告棄却 平成23年2月15日  最高裁判所第三小法廷  判決棄却  東京高等裁判所
  47. ^ オウム事件 土谷被告、死刑確定へ
  48. ^ サリン事件の土谷被告の死刑確定へ 最高裁、オウム11人目 47NEWS 2011年2月15日
  49. ^ 毎日新聞 2011年2月15日
  50. ^ 高橋克也の控訴趣意書 p.22
  51. ^ 「地下鉄サリン事件から21年の集い」
  52. ^ a b 土谷文書 野田成人のブログ
  53. ^ 【地下鉄サリン事件から20年】麻原彰晃の三女・アーチャリーが語る 聞き手:田原総一朗
  54. ^ 土谷謝罪 野田成人のブログ
  55. ^ 降幡賢一『オウム法廷13』 p.225
  56. ^ フォーラム90編『死刑囚90人 とどきますか、獄中からの声』インパクト出版会

関連項目[編集]