岡崎一明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
本来の表記は「岡﨑一明」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。
岡﨑一明
誕生 (1960-10-08) 1960年10月8日(56歳)
山口県美祢市
ホーリーネーム マハー・アングリマーラ
ステージ 大師
入信 1985年
関係した事件 男性信者殺害事件
坂本堤弁護士一家殺害事件
判決 死刑(上告棄却)

岡﨑 一明(おかさき かずあき、1960年10月8日 - )はオウム真理教元古参幹部[1]。確定死刑囚ホーリーネームマハー・アングリマーラ。岡﨑の読みは「おかざき」ではなく、「おかさき」である。

現在の姓は宮前[2]

経歴[ソースを編集]

生い立ちと入信以前[ソースを編集]

岡﨑家の次男として未熟児で生まれ、10か月後に、実母が養育放棄で失踪。残された実父はその1年後、佐伯家へ養子に出して(2歳3ヶ月)再婚。岡﨑は、実母が消えたショックで4歳頃まで言葉の発達が遅れ、飼い犬とよく遊んでいた。その頃、流行歌のワンフレーズを養父母の前で歌い、絵を描くのが好きだった。

養父母と3人で暮らす家は貧しく、一時期、水道も無い片田舎に暮らしていた。特に養母は宗教遍歴があり、津和野稲荷の信者であった。岡﨑が3歳のころ、三輪車ごと工事中の穴に落ちた時、ケガも無くキョトンと穴の中に立っているところを発見されるや、近くにお稲荷さんの祠があったことから、「若いお狐様から助けられたんじゃ。一明と一緒に遊んでおられたんじゃ。」と言って、養母は喜んでいたという。

養父も創価学会に入信し、岡﨑は5歳の頃から、毎朝手を合わせ、御題目を掲げている。また、富士宮市の総本山大石寺には2度連れられていったことがある。岡﨑は、幼少の頃から人のオーラが分かり、よく見え、空気中のプラーナを追ってはしゃいでいた時、養母から「自分からあまり人には言わん方がいいのう。」と言われた。

小学校に上がる前、養母から「」や「」について教えられたがピンと来なかった。その後、田んぼの畦道を歩いている時、突然「死」の恐怖に襲われて立ちすくんでしまい、「自分が、死んで無くなるとは、今、思う心や意識まで、この世から消えてしまうのか。」と、まるで奈落の底、虚無の闇へと引きずられるような戦慄を覚え、凍て付いた体験をする。その頃から、養父母は丹沢麓に在る口寄せの寺を訪ね、地蔵菩薩を信仰するようになった。

小学校2年生の時、ブレーキの壊れた友人の自転車に乗って、10トンのダンプにはねられる事故で入院。自転車はペシャンコ。岡﨑は数十メートル離れた河原まで飛ばされており、奇跡的に2週間で退院。その後、オウムに出家するまで4回の事故に遭い、入院もしくは軽傷、無傷で助かる。4年生の頃から器械体操を好み、宙返りができた。中学生時代は2回の転校で、柔道部。剣道部、ブラスバンド落語部、美術部に入っていた。小学校6年生から新聞配達をしていた。養父が職場での事故(労災)により退職後、余儀なく生活保護を受ける。 中学生の時、友人の紹介でキリスト教プロテスタント宣教師ドイツ人女性)に会い、教会の日曜学校に通い始め、聖書を学ぶ。夏の合宿にも参加したが、転校で縁が切れる。

その後、山口県立小野田工業高等学校工業計測科(現・電子計測科)に入学。高校の学費は奨励金で賄い、剣道部の部長となり、日曜日はゴルフのキャディーや遊園地のアルバイトや土方をやりながら、その収入で身の回りの生活用具をそろえ、養父母にタバコ銭も上げていた。

当時から倫理・哲学が好きで、友人と議論をして、小説の感想文も書く癖があった。また、同校の文化祭の「のど自慢大会」で優勝する。同校を昭和54年(1979年)に卒業し、働きながら山口大学の夜間部に進学する予定で願書まで用意したが、就職先の土木会社の社長が入学金を渋り、無視する態度に3か月で辞め、知人の紹介で1年ほど製造業社に勤務。その後学習教材の営業所長の説明会で、これなら人のためになると思い立ち、入社。翌月には新人賞を得て、トップの営業成績のまま、最年少の所長として松江市に栄転する。全国で16番目の営業所オープンで、20歳の時であった。

その頃、養母がアルツハイマーとなり、岡﨑は佐伯家のの深さを感じ取った。当時のベストセラー本『守護霊を持て』(桐山靖雄著)に影響を受けて、先祖のカルマを断ち切ることを盲信し、養父と共に市内の不動明王の口寄せ寺へ行って、先祖供養の正しい方法を学んだり、養父の紹介で下関の有名な老師に会いに行くなどして、自ら仏具店で14万円もする木彫りの千手観音像を買い、毎日般若心経を唱えることになる。 この頃、車の運転中でも読経を続け、著名人の墓所の近くを通ったときには、わざわざ車を止めて立ち寄り、墓参りをしていた。何も求めず、ただそうすることで自然と心が落ち着いた。

更に、精神世界に関する本を読みあさり、生長の家の『生命の實相』40数巻も読了。昭和57年(1982年)の春頃、『天台小止観』を熟読し、大きな気付きを得て、空気が一変する体験と共に、職場の人間力が向上し、全国で2位の営業成績を上げるまでに至る。しかし、その後、社長の欺瞞や詭弁の裏の顔を知り、部下に70万円だまし取られて人間不信に陥り、会社を去って兄弟夫婦と一緒に一時期仕事をやり、その後、熊本で健康食品代理店に就職。この会社社長と懇意な自民党代議士の選挙活動に参加した。

昭和59年(1984年)2月号の写真誌『写楽』に載った成瀬雅春(ヨーガ行者)の空中浮揚写真を見て、日本でもようやく本物の修行者が現れたと素直に受け入れ、ちょうど東京築地に代理店が開設される時、直接、成瀬の五反田の道場に赴き、即入会して指導を受け、成瀬と対話したが、当時の成瀬の言葉の中に救世主らしき発言も無く、弟子を育てる意志が感じられなかったことから、勝手な憶測で不幸にも、たった1日のみの仏縁で終わった。

その後、滋賀県内の製薬会社に就職し、各地の漢方薬剤師鍼灸師と親しくなり、彼らと共に東洋医学仙道老荘思想などを語り合う仲となる。この頃、福山市のトレーニングセンターに通い、沖式の断食ヨーガ、飲尿療法呼吸法ピラミッドパワー、振動水などを行い、自力修行による独自の行法を試みていた。

昭和60年(1985年)3月頃、漢方薬剤師で鍼灸師である得意先の先生から勧められ、阿含宗に入信。京都の本部で桐山靖雄から手渡しで護宝塔を受け、千座行を始めるが、在家信者でも修行すれば解脱が可能と断言する桐山の弁が、途中から、在家では解脱は無理などと、言うことが二転三転し、更に1度、除霊した先祖の霊が再び取り憑くなど、欺瞞や詭弁が多くなり、桐山自身、解脱の方法論が示せないことが分かり、脱退に至る。その頃、『あるヨギの自叙伝』(パラマハンサ・ヨガナンダ著)の本に感銘を受け、グルと弟子との強い絆のカルマを信じ、ヨガナンダのグルであるユクテスワのようなグルを求める憧憬心が湧き上がるばかりで、他にもバグワン・シュリ・ラジニーシの本も熟読し、チベット密教ではなく、インド行者の方へと傾倒していった。

そして、このような心理状態の中で、昭和60年の夏頃、精神世界の雑誌『ムー』(学研)に麻原の空中浮揚の写真を見て、彼に直接、電話をして、声を聴いて本物かどうか確かめてみようと思った。

入信出家[ソースを編集]

岡﨑は、昭和60年の夏頃に、学研『ムー』や『トワイライトゾーン』誌上で麻原の写真と連載記事を読み、麻原の唱える「四無量心」「魂の救済」「大乗の発願」に感銘し、五体投地や神仏に対する帰依心、布施行・供養の姿勢に感動し、直接オウム神仙の会に架電した。その時に麻原本人が電話口に出たことが機縁となる。岡﨑はこの時、今までの修行や宗教遍歴を語り、更に、「私はセールスなどで相当の悪業を積んでいると思いますが、それでも解脱はできるのでしょうか?」と、今生で自己の解脱が可能か否かも尋ねた。すると麻原は、「はい、できます。あなたがそう思っている時点から、あなたの罪は消えています。それはもう、解脱を求めようとする時点から、その道に入っているんです。あなたにも解脱はできます。」と、麻原の言葉によって、「ああ、この人は違うな。本物かもしれない。」と、入信の決意に変わった。岡﨑はそれまで本物のグルを求め、新興宗教の教祖や神通力があるとされる著者及び活動家に直接架電して、解脱や救済について問答し、確かめていた。しかし当時、そのだれもが傲慢な態度で、麻原のような指導者は、全くいなかったという。

解脱[ソースを編集]

麻原彰晃によって、1987年7月25日ラージャ・ヨーガにて成就したと認められ、石井久子に続く2番目の大師となる。5月28日から59日間にわたり、連日16時間〜20時間の独房修行の結果である。この際、10日目ごろから急に眠れなくなり、麻原に話したところ、「それは佐伯、私に対する帰依が無いからだ」と言われたことにショックを受ける。更にその後、麻原から何でも良いから書いたものを提出するよう言われ、悟った雰囲気の文章を提出する。世話役のOはそれを見て感心したものの、麻原に電話口の向こうで「それはエゴだ」と言われ、再びショックを受ける。また、この独房修行期間に営業の仕事の上で教団内で誤解を受けていると感じ、自分はオウムには必要の無い存在ではないかと疑心暗鬼になり、修行を断念することまで考える。が、その苦しみの原因が自分の存在を教団内で認めてもらいたいというエゴイズムであると察し、修行を続ける。解脱3日前にサットヴァとラジャスという2つのグナを見、翌朝には3グナを見たことで麻原に成就を認められる[3]

麻原は、岡﨑の解脱を認めたものの、「グルに対する真が無くとも、意志が強ければ修行だけで成就することができる例だろう。実は彼はグルに対する真が無かったのだ」とあくまで冷淡に述べている[3]

坂本堤弁護士一家殺害事件における役割[ソースを編集]

1989年11月3日の朝、麻原に命令されて他の5人の実行犯と共に坂本の住んでいた横浜市磯子区洋光台のアパートへ向かう。それぞれ役割分担をして出勤する坂本を待ち伏せていたが、オウムでの修行生活で当日が祝日であることを忘れており、坂本は家から出てこなかった。そこで、岡﨑が麻原の命令無しにアパートの鍵を調べて、施錠されていなかったことを知る。早川を通して麻原に知らせると、深夜に家族しかいなかったら家族ごと殺害しろと命令される。岡﨑がもう一度調べて施錠されていなかったことから、岡﨑らは午前3時頃に坂本一家殺害を遂行。岡﨑は坂本を絞殺した。その後、一家の遺体をそれぞれ別の場所に遺棄した。このために弁護士の義父は、「岡﨑がいたから事件が解決したのではなく、岡﨑がいたから事件が起きた。」と言っている。

教団からの脱走[ソースを編集]

1990年2月18日執行の第39回衆議院議員総選挙真理党候補として東京11区から、佐伯一明の名で出馬、落選する。選挙運動中の2月10日[4]に突然、3億円の現金を持ち逃げして教団を脱走する。3億円は宅配便で友人宅に預けようとするが、早川らにより取り戻される[5]。その後、弁護士長男の遺体遺棄現場を示す手紙を匿名で2月16日付の速達で神奈川県警察に送付しつつ、麻原に電話をかけ、現金1000万円を要求。現在の所持金が170万円であることを伝えると麻原は差し引き830万円を振り込むことを約束した[6]

公判[ソースを編集]

坂本堤弁護士一家殺害事件は、岡﨑の自首によりオウムの犯行だと分かったために、自首は成立した。裁判では公訴事実を争わず、自首による刑の軽減が認められるかが主な争点となった。地下鉄サリン事件の実行犯だった林郁夫公判では自首による刑の軽減が認められて無期懲役となったが、岡﨑の公判では自首する機会があったにもかかわらずなかなか自首しなかったこと、自首の動機が罪の意識からではなく、脱走した教団から自分の身を守るためであったこと[1]、遺族が極刑を望んだことから自首による刑の軽減は適用されずに、死刑判決が下った。

その後、控訴審棄却され、上告審も「法治国家秩序を一顧だにしない反社会性の極めて高い犯行」という理由で棄却されたため、2005年4月7日に死刑が確定[7]オウム真理教事件において、一番初めに死刑が確定した人物である。

死刑確定後[ソースを編集]

『A』などアーレフに関するドキュメンタリー作品を発表してきたドキュメンタリー監督の森達也は、支援者を通じて岡﨑に手紙を出した。返事の中で岡﨑は死刑にされることを肯定し、森との面会・文通がかなう日が来ることを信じていると述べている。森は死刑廃止の立場から岡﨑の死刑執行を阻止したい気持ちだと述べている[8]

2016年現在、東京拘置所収監されている。

その他[ソースを編集]

麻原は、岡﨑の秘めた能力を信頼していたこともあり、'87年8月にエジプト出立の折、留守の間、上祐史浩の独房修行中の指導を、岡﨑に託した。更に、弟子の中では初めてシャクティーパット(麻原特有のイニシエーション)の伝授を許して、岡﨑は5名以上の一般信徒にシャクティーパットを施している。(一時、アレフの代表であった野田成人は、その中の一人である)また、麻原の代役としての説法も、東京総本部や各支部で認められていた。 麻原や三女アーチャリー から頼まれ、三女や次女の遊び相手をしたこともある。 当時、岡﨑は、サマナから絶大な人望があり、'89年7月のサマナによる人気投票では人気大師NO.1であった。 [9] [10]

ホーリーネーム授与は二度あった[ソースを編集]

最初は'87年7月25日。石井久子に次ぐ2番目の解脱者として、また男性の弟子では初の大師となった。 当時、東京総本部の麻原の部屋に迎えられた時、麻原と石井は岡﨑のエネルギーに圧倒され、麻原は「凄い氣のパワーだな。ここまで風圧が迫ってくるのがよく分かるぞ」石井は「本当ですね、肌にビンビン伝わってます。それに佐伯(岡﨑)さんの周りがキラキラ輝いて見えますよ」と、満面の笑顔で称賛した。続いて麻原は、唐突に「ラージャヨーガを真解脱した。お前にホーリーネームを付けないといけないが、そこで用意したのはアングリマーラだよ」と言った。その日の午後に、岡﨑は、東京総本部道場の二階にて在家信徒の前で解脱後初の説法を行った。[9] 二度目は、'88年12月9日の護摩法の折に、途中で麻原に呼び出され、クンダリニーヨーガの成就を告げられた。 更にホーリーネームについて、麻原は、「お前は、ヨガナンダのグルのグルのグルである、 マハー・ヴァター・ババジを今でも崇拝しているだろうが、ならば、マハー・ババジのホーリーネームに変えてもいいと思うが、どう思うか」と言った。 岡﨑は、「それはあまりにも光栄なことですが、しかし、ホーリーネームだけは尊師にお任せします」と言った。 すると麻原は、「よし、ならばアングリマーラには『マハー』を付けよう。お前は、本当ならとっくの昔にマハームドラーを成就してもいい筈だったが、『マハー』を付ければマハーケイマ大師(石井久子)と同じ大乗のヨーガを成就するのも早まるだろう」と言った。 これが、マハー・アングリマーラ命名の経緯となる。[9]

起訴された事件[ソースを編集]

脚注[ソースを編集]

  1. ^ a b c d 『死刑』 31頁。
  2. ^ 公安調査庁 内外情勢の回顧と展望(平成24年1月)
  3. ^ a b 麻原彰晃『マハーヤーナ・スートラ』オウム出版、1988年2月25日
  4. ^ 『オウム教祖法廷全記録 2』 9頁。
  5. ^ 『オウム教祖法廷全記録 2』 293頁。
  6. ^ 『オウム教祖法廷全記録 2』 297頁。
  7. ^ 『死刑』 34-35頁。
  8. ^ 『死刑』 318-320頁。
  9. ^ a b c 岡﨑一明 東京高等裁判所第三回〜第五回公判記録
  10. ^ 滝本太郎弁護士との面会記

参考文献[ソースを編集]

  • 森達也 『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』 朝日出版社(原著2008年1月20日)、初版。ISBN 97842550041292009年7月26日閲覧。
  • 毎日新聞社会部 『オウム教祖法廷全記録 2〜私は無罪だ!!〜』 現代書館(原著1997年7月25日)、初版。ISBN 97847684700222012年3月31日閲覧。

外部リンク[ソースを編集]